味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

群臣、宮中暑濕にして、

2019-06-30 09:27:15 | ブログ
第3817号 01.06.30(日)

群臣、宮中暑濕(しょしつ)にして、寝膳(しんぜん)或は乖(そむ)くを以て、徙(うつ)りて高明に御し、一小閣を営まんことを請ふ。遂に家人の産を惜み、竟に子来(しらい)の願を抑へ、陰陽の感ずる所をおしまず、以て卑陋の居に安んず。頃歳霜儉(けいさいそうけん)、普天鐖饉(ききん)、喪亂甫(はじ)めて爾(しか)り、倉廩(そうりん)空虚なり。聖情矜愍(きょうびん)し、勤めて賑恤(しんじゅつ)を加へ、竟に一人の道路に流離するもの無し。猶ほ且つ食は惟れ藜藿(れいかく)、樂は簨簴(しゅんきょ)を徹し、言は必ず悽動(せいどう)し、貌は癯痩(くそう)を成す。『貞観政要』251

 群臣が宮中は暑く湿っており、寝食が安らかでないので、高く日当たり良い場所に移って小さい御殿をお造りなされることを願った。しかし陛下はその経費が人民十家の産に相当することを惜しんで、結局、人民たちの願いを押さえ、陰陽の不調和による健康を害することを憂えずに、低く湿ったお住居に安んじておられました。このごろは毎歳が凶作で、天下じゅうは鐖饉で、死喪と禍乱が起こり、穀物倉は空になりました。陛下の御心は人民をかわいそうに思われ、金銭や物を恵むことに努力され、その結果、一人の人民も家を離れて道路に流浪する者がありませんでした。そのうえに、なお食物は極めて粗末な物をお食べになり、音楽の道具を取り払い、お言葉は悲しみに激動し、お顔つきはおやせになっておられました。252

 【コメント】長い人生では禍福吉凶いろいろありますが、上の地位にいるからといって自分だけ、安楽な日々を過ごすことは、世の人々の共感は得られないと思います。

 そういう場合、歴史的偉人として世の人々の尊敬を受けている西郷さんの生き様も参考になされては如何でしょう。でも本腰を入れて参考にしないと西郷さんの真似は、今時の平和と繁栄に溺れた人々には到底真似はできないと思います。私みたいな貧乏生活を送って来た人間でなければ到底無理だと思います。

 今日も各政党の政務調査会長の人々が日曜討論がありましたが、平和・繁栄・人権を恣にしておられる方々だけに、西郷さんが御聞きになられたら、首を傾げることばかりだと思いました。

 私のブログ第3756号で書いたように、「一たび平和になりますと、必ず緩み怠る心を持つようになります。」と書きました。これは貞観政要で紹介された言葉なのです。

 私が育った昭和の初期頃に比べると、現在は格段の幸せの差があるのです。ところが野党の人々は、自分たちでは出来ないくせに難癖だけをつけているという感想でした。

 昨夜の本部、空手道教室も賑わいました。基本動作、空手道形を稽古してから、組手練習もしました。最初は味園禿げ老人の腹部を打つことからでした。

 気を抜いて横を向いている時、小学4年の山口賢斗君がいきなり中段突き(腹部)をした時は、大変な衝撃でした。前回形をした森永礼弥君にはチントウ賞を上げました。終った時、渡すのを忘れたため、自宅までお届けしました。前田師範も、山田師範も素晴らしい指導をしてくださいました。

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『善の研究』第263回

 先ず我々が普通に信ずる所に由って見れば、誰も自分の意志が自由であると考えぬ者はない。自分が自分の意識について経験する所では、或範囲において或事を為すこともできればまた為さぬこともできる。即ち或範囲内においては自由であると信じている。これが為に責任、無責任、自負、後悔、賞讃、非難等の念が起ってくるのである。しかしこの或範囲内ということを今少しく詳しく考えて見よう。凡て外界の事物に属する者は我々はこれを自由に支配することはできぬ。自己の身体すらもどこまでも自由に取扱うことができるとはいわれない。随意筋肉の運動は自由のようであるが、一旦病気にでもかかればこれを自由に動かすことはできぬ。自由にできるというのは単に自己の意識現象である。139

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色を正し言を直くし、

2019-06-29 09:22:58 | ブログ
第3816号 01.06.29(土)

色を正し言を直くし、心を虚しくして受納(じゅのう)し、鄙訥を簡(ゆるが)せにせず、芻蕘(すうじょう)を棄つる無きは、帝堯(ていぎょう)の諌を求むるなり。弘く名教を奨め、学徒を歓勵(かんれい)し、既に明經を青紫に擢(ぬきん)で、将に碩儒を卿相に升せんとするは、聖人の善く誘ふなり。『貞観政要』250

 顔色を正しくし、言を正しくし、心を空にして人の言を受け納れ、身分の低い者をおろそかにせず、草刈りや木こりの言も捨てることがなかったのは、堯帝の諫言を求めたことであります。広く道徳の教えを奨励し、学徒を勧め励まし、経書の意義に明らかな者を高位高官に抜擢し、大学者を公卿宰相に昇せようとするのは、聖人孔子の善く人を学に誘うやり方であります。

 【コメント】解説にある「顔色を正しくし、心を空にして、身分の低い者をおろそかにせず」というくだりは大好きな考えです。人間表面的にはわからない部分が多々あるものです。

 ややもすると一般的に身分の低い者を見下げることもある傾向にありますが、身分の善い悪いにかかわらず、大事にしたいと思います。

 十年間書き続けてきたブログで已に書いたかも知れませんが、20代の頃、枕崎の電話局の中庭で空手道の稽古をしていた時、一歳年下で刑務所に行ったり出たりしていた男がやってきました。

 その時私は、優しく指導したのです。ところが途中で、その男の人が泣きながら抱き付いてきました。暴力沙汰を起す人だっただけに、普通の人は離れていたのだろうと思いました。

 その人は「捨てる神もいれば、助ける神もいる」といったやに記憶しています。思うにどんな人にだって善の心はあるのです。ですから、出来るだけ親切に、優しく対応したいものです。

 先般、刃物を振り翳して逃走を続けた男は前科13犯だったとか、今朝の新聞に載った週刊誌に掲載されているということです。どんな事情があるにせよ、人には親切を基調として付き合いたいものです。

 出来るものなら前科13犯の人も、今後心を入れ替えて、全うな人生を送って欲しいものだと思います。

 私の人の良さは博奕好きであった父親の血を引いたものであろうと思っています。永くもない人生です、出来るだけ人様と仲良くし、人生に挑みたいものです。

 木曜日の空手道教室の田上青年とは20年間おつきあいしているのです。それも田上さんの美しい心があるからだと思います。

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愛敬蒸蒸として、勞して倦まざるは、

2019-06-28 09:32:16 | ブログ
第3815号 01.06.28(金)

愛敬蒸蒸として、勞して倦まざるは、大舜の孝なり。安を内豎(ないじゅ)に訪(と)ひ、親(みずか)ら御膳(ぎょぜん)を嘗(な)むるは、文王の徳なり。憲司が罪を讞(げん)し、尚書が獄を奏する毎に、大小必ず察し、枉直(おうちょく)(ことごと)く擧げ、斷趾(だんし)の法を以て、大辟(たいへき)の刑に易へ、仁心隠惻(いんそく)、幽顕(ゆうけん)に貫徹するは、大兎の辜(つみ)に泣けるなり。『貞観政要』250

 親に対する愛敬が進んでやむことなく、労して倦むことのないのは、大舜の孝であります。親の安否を奥向きの小臣に尋ね、親の食膳を毒見したのは、周の文王の徳であります。法官が罪を議し、尚書が獄を奏上する度に、大も小も必ず自身で詳察しているのは、大兎の罪人を見て泣いた心であります。

 【コメント】歴史的に名高い大兎の孝と文王の徳は、先帝の訓戒として学ぶ意義があると思います。

 こういう孝と徳は、感嘆に出来る芸当ではありませんが、苦心惨憺しても教えとして成就するまでやって見る必要があります。何事も労苦を伴ってこそ、そこに取組む意義があると思います。

 今日は吉本興行に属する芸人二人が無期限謹慎処分として発表されました。処分されて始めて、安易に手を出したとしてお詫びします、としてコメントを出していますが、これらは許してはならないと思います。

 こういう輩を安易に許してしまうと、世の中益々悪くなるのです。厳しく対処して欲しいです。

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『善の研究』第三章 意志の自由

 意志は心理的にいえば意識の現象たるに過ぎないが、その本体においては実在の根本であることを論じた。今この意志が如何なる意味において自由の活動であるかを論じて見よう。意志が自由であるか、はたまた必然であるかは久しき以来学者の頭を悩ました問題である。この議論は道徳上大切であるのみならず、これに由りて意志の哲学的性質を明らかにすることができるのである。
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伏して惟みるに、陛下、紀を握り

2019-06-27 09:21:18 | ブログ
第3814号 01.06.27(木)

伏して惟(み)みるに、陛下、紀を握り天を御(ぎょ)し、期に膺(あた)り聖を啓き、億兆の焚溺(ふんでき)を救ひ、氛祲を寰區より掃ひ、業を創め統を垂れ、二儀に配して以て徳を立て、號を発し令を施し、萬物に妙にして言を為す。獨り神衷(しんちゅう)に照らし、永く前古を懐(おも)ひ、将に五等を復して舊制(きゅうせい)を修め、萬国を建てて以て諸侯を親しまんとす。『貞観政要』247

 慎んで考えまするに、陛下は政権を握って天下を治め、天運に従って天子となり、万民の水火の苦しみを救い、悪逆のやからを国内から掃い除き、王朝の基礎を立てて後世に伝え、天地と合致する広大な徳を立て、号令を発布するには、万物に通ずる善美な言をなされます。御自身の御心に考えられて往古の世を思い、五等(公候伯父男の五等の諸侯)の諸侯の旧制に復し、多くの国を封じて諸侯と親しもうとなされました。247

 【コメント】我々場末に住む人間とは場面が異なりますが、我々も往古の世を思い、世の人々と親しみ住みやすい世にするためそれなりの貢献をしたいものです。

 それにしても全国的には大変な事件が発生ています。子が親を殺害する、親が子を殺害するということは、如何なる事情があるとは申せ、絶対にしてはなりません。

 特に42.3歳の二人が刃物で刺殺された事件は厳しく対処して欲しいものです。そして吉本興行に所属している人達の闇営業は絶対よくありません。

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高貴の殃、寧ぞ申繒の酷に

2019-06-26 09:32:24 | ブログ
第3813号 01.06.26(水)

高貴の殃、寧(なん)ぞ申繒(しんそう)の酷に異ならんや。此れ乃ち欽明(きんめい)昏亂(こんらん)、自ら安危を革(あらた)むるなり。固(まこと)に守宰公候(こうこう)の、以て興廃を成すに非ず。且つ數世の後、王室ようやく微なること、藩屏より始まり、化して仇敵と為り、家、俗を殊にし、國、政を異にし、強、弱を陵ぎ、衆、寡を暴す。『貞観政要』238

君に明らかな徳があれば安らかに、愚かで乱れていれば危ないもので、安危は君自身の徳によって変わるものであります。本当に群守県令や諸侯によって興廃をなすものではございません。その上に、数代の後に王室が次第に微弱になることは諸侯から始まるのであり、王室の守りである諸侯が化して仇敵となり、諸侯たちは、家ごとに習俗が異なり、国ごとに政治の方法が違い、強国は弱国を侵し、大国は小国を暴害し、互いの境界を武力をもって侵伐する。

 【コメント】生きて行くために、組織する責任者も使用される人も、徳を基調とした姿勢で人生に臨みたいものです。

 昨日は、国会では安倍内閣不信任決議案が採決されたが、自民党の案が採決されました。これは最初から分かり切っていたことであった筈です。負けるとわかりきったことをするなんて馬鹿げた行為です。

 その採決に体調不調を国会に提出した丸山議員も参加しました。様子を見ても体調不良を窺わせるように見えませんでした。

 立憲民主党の枝野氏は安倍さんを冒涜しましたが、安倍さんの凡てがいいというわけではありませんが、枝野氏らが政権を握ったら国家は崩壊すると私はみています。

 私が電電に入社頃は、社会党が強い時代でした。平和、繁栄、安全を追求し、仕事は減らせと全国的に凄い運動を展開したものです。

 貧乏家庭に育った私は、仕事の手を抜くことはどうしても與することは出来ませんでした。今私がブログで紹介している『貞観政要』でも人間が楽をし過ぎると殃が来るというようなことを証言しています。

 日本人は勤勉に学び、懸命に働き、人々に親切にし、兄弟仲よくする民族でした。それが革新系が強くなるにつれ、世の中おかしくなってきたのです。

 私が課長代理をしていた鹿児島電話局では高校出たての青年たちはチンピラ同様でした。それらは中央本部からのオルグ指導によって青年たちがおかしくなっのです。

 私が大根占に赴任した時、大根占警察署と野球試合をしたことがありました。その時野球に参加した若者らの言葉遣いなど対応は、電電と警察署では真逆でした。警察署の若い人は真面目でしたが電電の若者たちは愚連隊同様だったたのです。

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『善の研究』第261回

 右に述べし所は物体の機会的運動、有機体の合目的をもって意志と根本を一つにし作用を同じうすると見る科学者のいう所と一致するのであるが、しかしその根本とする所の者は全く正反対である。彼は物質力を以て本となし、これは意志を以て本とするのである。
 この考に由れば、前に行為を分析して意志と動作の二としたのであるが、この二者の関係は原因と結果との関係ではなく、むしろ同一物の両面である。動作は意志の表現である。外より動作と見られる者が内より見て意志であるのである。

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