第2375号 27.06.30(火)
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終身の憂いあるも、一朝の患いなし。『孟子』
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君子は常に、修養の不足を思うため、内心の憂いは終生つづく。しかし、突如として外部から起こった一時の患難には、決して心を動かし患えるものではない。121
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【コメント】参考にすべきよい言葉だと思います。私は何もわからない凡人ですが、ただ漢籍を繙き修養をしたいと念じています。だから、連日、漢籍の言葉をご紹介しながら、自分で咬み味わって戒めとしています。
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政治の世界での言葉のチャンバラもいいのですが、青少年に、若い人たちに漢籍の奨めは出来ないものでしょうか。私は、ブログでご紹介しながら、至らない自分への戒めとしています。
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出来れば警察学校、自衛隊、海上保安庁でも新人たちに訓戒として学修させてほしいものです。警察官となり、警察学校での勉強を終え、任官して1、2年で女の子にいたずらをして懲戒免職になる人の何と多い事か。尤も、中学校長の要職を歴任した人が女の子の裸体写真を一万枚も保有していると知り、私は唖然としています。
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是非、漢籍の世界へ迷い込んでください。これほど楽しい、意義ある勉強はないと確信します。その喜びが生き甲斐と旺盛な生命力の延長となるのです。そしてそれを青少年へ教えてください。
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私が入社した会社で漢籍を繙くという人は皆無でした。仕事は大概にして「仕事を減らせ」「賃金あげろ」のシュピレヒコールだけでした。そして酒癖の世界一悪い組合委員長は、半年前、海に飛び込み自殺しました。天罰だったのかな、と思いをめぐらしています。
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『大学味講』(第212回)
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(四) かくて大学の著者は、この「矩の道」の大原則について、極めて実践的に、次のように説いているのであります。
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上(かみ)に悪(にく)む所、以て下を使ふこと毋(なか)れ。下に悪む所、以て上に事(つか)ふること毋れ。前に悪む所、以て後に先んずること毋れ。後に悪む所、以て前に従ふこと毋れ。右に悪む所、以て左に交はること毋れ。左に悪む所、以て右に交はること毋れ。此れを之れ矩の道と謂ふ。/font>
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味 講
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(五) これを読むに当たって、人間関係を理解する参考として読解して下さい。
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上の人からされて、いやだと思うような態度で、下の人を使うな。
下の者からされて、いやだと思うような態度で、上の人に事えるな。
先輩からされて、いやだと思うような態度で、後輩に接するな。
同列の友人関係において、右の人からされて、いやだと思うような態度で、左の人に交わるな。
左の人からされて、いやだと思うような態度で、右の人に交わるな。
これを「矩の道」というのである、と説いているのであります。
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『論語』(第312)
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子衛に適(ゆ)く。冉有僕たり。子曰はく、「庶なるかな。」冉有曰はく、「既に庶なり、又何をか加えん。」曰はく、「之を富まさん。」曰はく、「既に富めり、又何をか加へん。」曰はく、「之を教えん。」
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孔子が衛の国へ往った時、冉有がお供して馬車をおしていた。孔子が車の上から衛の民を見て歎息して「さては人口の多いことかな。」と感歎された。冉有「実に対した人口でございますが、この上何か付け加えることがありますか。」「人が多くて貧しくて日々の生活に困るようなことでは何もならないから、これを富ませて生活を安定させよう。」冉有「既に富んだ上は更に何をなさいますか。」孔子「富んだだけで教育がないと、仁義道徳をほ知らずして人たるかいがない故、これを教化して人倫の道を知らせよう。」
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『農士道』(第191回)
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然し此処に一言しておかねばならぬことがある。それは「名は實の賓」といふことである。恰も十分根に養分を貯えて根幹が充実して来れば、自然と枝葉も繁って来るように、真箇に一身一家一村の実力が養われて来れば、之れに伴う名も亦おのづと顕れて来るものであって、かかる實ある名ならば何も之を避くる必要も無く、否、却って大いに之を尊重すべきものである。佐藤一斎が其の著言志録に「名を求むるは素より非なり。名を避くるも亦非なり。」と述べているが、自ずと生ずべき名ならば、之を故意に避くるということも、實は却って又「偽」に堕して非なるものである。偽飾的売名素より不可。偽飾的避名亦不可。要はなすべきことをなし盡して居ればそれで足りるので、名の有無は唯自然に委すればよいのである。婆心ながら敢えて一言蛇足を添える所以である。
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昨日は、荘内の高木先生のお声を聞く光栄に浴しました。お蔭で元気を戴きました。
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終身の憂いあるも、一朝の患いなし。『孟子』
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君子は常に、修養の不足を思うため、内心の憂いは終生つづく。しかし、突如として外部から起こった一時の患難には、決して心を動かし患えるものではない。121
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【コメント】参考にすべきよい言葉だと思います。私は何もわからない凡人ですが、ただ漢籍を繙き修養をしたいと念じています。だから、連日、漢籍の言葉をご紹介しながら、自分で咬み味わって戒めとしています。
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政治の世界での言葉のチャンバラもいいのですが、青少年に、若い人たちに漢籍の奨めは出来ないものでしょうか。私は、ブログでご紹介しながら、至らない自分への戒めとしています。
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出来れば警察学校、自衛隊、海上保安庁でも新人たちに訓戒として学修させてほしいものです。警察官となり、警察学校での勉強を終え、任官して1、2年で女の子にいたずらをして懲戒免職になる人の何と多い事か。尤も、中学校長の要職を歴任した人が女の子の裸体写真を一万枚も保有していると知り、私は唖然としています。
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是非、漢籍の世界へ迷い込んでください。これほど楽しい、意義ある勉強はないと確信します。その喜びが生き甲斐と旺盛な生命力の延長となるのです。そしてそれを青少年へ教えてください。
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私が入社した会社で漢籍を繙くという人は皆無でした。仕事は大概にして「仕事を減らせ」「賃金あげろ」のシュピレヒコールだけでした。そして酒癖の世界一悪い組合委員長は、半年前、海に飛び込み自殺しました。天罰だったのかな、と思いをめぐらしています。
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『大学味講』(第212回)
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(四) かくて大学の著者は、この「矩の道」の大原則について、極めて実践的に、次のように説いているのであります。
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上(かみ)に悪(にく)む所、以て下を使ふこと毋(なか)れ。下に悪む所、以て上に事(つか)ふること毋れ。前に悪む所、以て後に先んずること毋れ。後に悪む所、以て前に従ふこと毋れ。右に悪む所、以て左に交はること毋れ。左に悪む所、以て右に交はること毋れ。此れを之れ矩の道と謂ふ。/font>
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味 講
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(五) これを読むに当たって、人間関係を理解する参考として読解して下さい。
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上の人からされて、いやだと思うような態度で、下の人を使うな。
下の者からされて、いやだと思うような態度で、上の人に事えるな。
先輩からされて、いやだと思うような態度で、後輩に接するな。
同列の友人関係において、右の人からされて、いやだと思うような態度で、左の人に交わるな。
左の人からされて、いやだと思うような態度で、右の人に交わるな。
これを「矩の道」というのである、と説いているのであります。
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『論語』(第312)
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子衛に適(ゆ)く。冉有僕たり。子曰はく、「庶なるかな。」冉有曰はく、「既に庶なり、又何をか加えん。」曰はく、「之を富まさん。」曰はく、「既に富めり、又何をか加へん。」曰はく、「之を教えん。」
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孔子が衛の国へ往った時、冉有がお供して馬車をおしていた。孔子が車の上から衛の民を見て歎息して「さては人口の多いことかな。」と感歎された。冉有「実に対した人口でございますが、この上何か付け加えることがありますか。」「人が多くて貧しくて日々の生活に困るようなことでは何もならないから、これを富ませて生活を安定させよう。」冉有「既に富んだ上は更に何をなさいますか。」孔子「富んだだけで教育がないと、仁義道徳をほ知らずして人たるかいがない故、これを教化して人倫の道を知らせよう。」
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『農士道』(第191回)
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然し此処に一言しておかねばならぬことがある。それは「名は實の賓」といふことである。恰も十分根に養分を貯えて根幹が充実して来れば、自然と枝葉も繁って来るように、真箇に一身一家一村の実力が養われて来れば、之れに伴う名も亦おのづと顕れて来るものであって、かかる實ある名ならば何も之を避くる必要も無く、否、却って大いに之を尊重すべきものである。佐藤一斎が其の著言志録に「名を求むるは素より非なり。名を避くるも亦非なり。」と述べているが、自ずと生ずべき名ならば、之を故意に避くるということも、實は却って又「偽」に堕して非なるものである。偽飾的売名素より不可。偽飾的避名亦不可。要はなすべきことをなし盡して居ればそれで足りるので、名の有無は唯自然に委すればよいのである。婆心ながら敢えて一言蛇足を添える所以である。
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昨日は、荘内の高木先生のお声を聞く光栄に浴しました。お蔭で元気を戴きました。