味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

終身の憂いあるも、一朝の患いなし。

2015-06-30 11:16:40 | ブログ
第2375号 27.06.30(火)
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終身の憂いあるも、一朝の患いなし。『孟子』
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 君子は常に、修養の不足を思うため、内心の憂いは終生つづく。しかし、突如として外部から起こった一時の患難には、決して心を動かし患えるものではない。121
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 【コメント】参考にすべきよい言葉だと思います。私は何もわからない凡人ですが、ただ漢籍を繙き修養をしたいと念じています。だから、連日、漢籍の言葉をご紹介しながら、自分で咬み味わって戒めとしています。
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 政治の世界での言葉のチャンバラもいいのですが、青少年に、若い人たちに漢籍の奨めは出来ないものでしょうか。私は、ブログでご紹介しながら、至らない自分への戒めとしています。
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 出来れば警察学校、自衛隊、海上保安庁でも新人たちに訓戒として学修させてほしいものです。警察官となり、警察学校での勉強を終え、任官して1、2年で女の子にいたずらをして懲戒免職になる人の何と多い事か。尤も、中学校長の要職を歴任した人が女の子の裸体写真を一万枚も保有していると知り、私は唖然としています。
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 是非、漢籍の世界へ迷い込んでください。これほど楽しい、意義ある勉強はないと確信します。その喜びが生き甲斐と旺盛な生命力の延長となるのです。そしてそれを青少年へ教えてください。
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 私が入社した会社で漢籍を繙くという人は皆無でした。仕事は大概にして「仕事を減らせ」「賃金あげろ」のシュピレヒコールだけでした。そして酒癖の世界一悪い組合委員長は、半年前、海に飛び込み自殺しました。天罰だったのかな、と思いをめぐらしています。

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『大学味講』(第212回)
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 (四) かくて大学の著者は、この「矩の道」の大原則について、極めて実践的に、次のように説いているのであります。
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  (かみ)に悪(にく)む所、以て下を使ふこと毋(なか)れ。下に悪む所、以て上に事(つか)ふること毋れ。前に悪む所、以て後に先んずること毋れ。後に悪む所、以て前に従ふこと毋れ。右に悪む所、以て左に交はること毋れ。左に悪む所、以て右に交はること毋れ。此れを之れ矩の道と謂ふ。/font>
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 味  講
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 (五) これを読むに当たって、人間関係を理解する参考として読解して下さい。
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  上の人からされて、いやだと思うような態度で、下の人を使うな。
  下の者からされて、いやだと思うような態度で、上の人に事えるな。
  先輩からされて、いやだと思うような態度で、後輩に接するな。
  同列の友人関係において、右の人からされて、いやだと思うような態度で、左の人に交わるな。
  左の人からされて、いやだと思うような態度で、右の人に交わるな。
  これを「矩の道」というのである、と説いているのであります。

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『論語』(第312)
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 子衛に適(ゆ)く。冉有僕たり。子曰はく、「庶なるかな。」冉有曰はく、「既に庶なり、又何をか加えん。」曰はく、「之を富まさん。」曰はく、「既に富めり、又何をか加へん。」曰はく、「之を教えん。」
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 孔子が衛の国へ往った時、冉有がお供して馬車をおしていた。孔子が車の上から衛の民を見て歎息して「さては人口の多いことかな。」と感歎された。冉有「実に対した人口でございますが、この上何か付け加えることがありますか。」「人が多くて貧しくて日々の生活に困るようなことでは何もならないから、これを富ませて生活を安定させよう。」冉有「既に富んだ上は更に何をなさいますか。」孔子「富んだだけで教育がないと、仁義道徳をほ知らずして人たるかいがない故、これを教化して人倫の道を知らせよう。」
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『農士道』(第191回)
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 然し此処に一言しておかねばならぬことがある。それは「名は實の賓」といふことである。恰も十分根に養分を貯えて根幹が充実して来れば、自然と枝葉も繁って来るように、真箇に一身一家一村の実力が養われて来れば、之れに伴う名も亦おのづと顕れて来るものであって、かかる實ある名ならば何も之を避くる必要も無く、否、却って大いに之を尊重すべきものである。佐藤一斎が其の著言志録に「名を求むるは素より非なり。名を避くるも亦非なり。」と述べているが、自ずと生ずべき名ならば、之を故意に避くるということも、實は却って又「偽」に堕して非なるものである。偽飾的売名素より不可。偽飾的避名亦不可。要はなすべきことをなし盡して居ればそれで足りるので、名の有無は唯自然に委すればよいのである。婆心ながら敢えて一言蛇足を添える所以である。
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昨日は、荘内の高木先生のお声を聞く光栄に浴しました。お蔭で元気を戴きました。

言行は君子の枢機なり。

2015-06-29 10:09:17 | ブログ
第2374号 27.06.29(月)
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言行は君子の枢機なり。『易経』
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 言行は君子の運命を決定する重要機能である。その機能の発動は君子が栄誉を得るか恥辱をこうむるかを決定する要因となる。236
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 【コメント】心しなければならない訓戒だと思います。〈君子の運命を決定する〉という解釈ですが、ひとり君子だけでなく、我々末端にいる者も真剣に考えなければならない事だと思います。
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 連日、超多忙ですが、この多忙が元気の源泉だと思っています。それにしても菅原兵治先生の『大学味講』はいいですね。ご紹介するというよりか、自分で楽しんでいます。二日前の土曜日、師範たちにも言ったのですが、ただ拝読することと、筆写することとは、後者の方が私はいいです、と話しました。後者は、行間と文字の裏が読めるような気がするのです。

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『大学味講』(第211回)
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 そこで、真直な弓矢と、この定規とを組合せた「矩」の字は、物の規準となる「定規」という意味の文字となるのであります。(これを用いて作った方形を「矩形」というのであります。)この「矩」と前の「」とを組合せて「矩」とすると、間縄(もしくは巻尺)によって長さを測り、定規を以て角度を定めることとなり、小にしては小道具を作ることから、大にしては、家を建てたり、ダムを作ったり、さては新幹線や青函トンネルのような大工事に至るまで、この「矩」の規準があって始めて出来るものであります。
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 (三) しかし、大学でいう「矩の道」とは、以上のような建築や土木のことばだけのものではありません。それを比喩とし、前提として、これを治国平天下の原則として把握したものでありますが、ここにも、いたずらに事を理論的に取り扱う西洋学的な探究の仕方と異なる、具体の中から普遍の真理を把握しようとする東洋学的な探究の在り方を見ることが出来るでありましょう。治国平天下の、いうなれば政治の根本原理を表現するのに「矩の道」の語を以てするなど、まことにゆかしいことではありませんか。

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『論語』(第311)
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 子衛の公子荊を謂ふ。「善く室に居る。始めて有るに曰はく、『苟か合(あつま)る』と。少しく有るに曰はく、『苟か完(そな)はる』と。富(さか)んに有るに曰はく、『苟か美し』と。」

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 孔子がひそかに衛の公子荊を評して曰われるには、「善く家を治めた人だ。家を立てた始めに器物や貨財などが形ばかりあると、『ちょっと聚(あつ)まった』と曰って更に求めようとはしなかった。少しは器物貨財などが有るようになると、『ちょっと完備した』と曰って更に備えようとはしなかった。
 十分に有るようになると、『ちょっと美しくなった』と曰って、更に精美を求めようとはしなかった。身分相応にして満足し、速く完備しようとか美を尽くそうかということのために心を累わされないのは、善く家を治めたといわなければならぬ。」

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『農士道』(第190回)
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 然かも近時の誤れる農村指導は兎もすれば農村及農村人をして売名的態度に趨らしむることなしとせぬ。所謂「篤農家」や「模範村」といふ名を得んが為に如何に無理な偽飾的経営をさへなしつつあるであろうか。先般も或人から「何處か白紛を塗らない優良農村を見たいものだが----」と問はれたことがあるが少し真摯に農村を考ふるものならば、何人も此の感を抱くことと思ふ。此の點からいって農村に於ける各種の表彰や、品評会、競技会等の施設なども十分注意しなければ、不知不識の間に村人を売名的態度に趨らしむことなしとせぬであらう。
 而して猶留意せねばならぬことは村人が各種の肩書欲しさに狂奔することである。農村の旧家が倒産する最大の原因は、株と政治(政党運動)とに手を出すことに因するといはれているが、政治に手を出すというのも、真に民の体威の為に政治するというならば私共の大いに感謝すべきことであるが、その實は軽薄に名を誇ろうといふ一種の売名的根性から発す者がある為である。戒心すべきことであろう。

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農士道の論は大変共感する所でした。まさしく卓見だと思います。今日でも同じだと思います。
 〈名を誇ろうという一種の売名的〉という所は、名を汚そうとしているという事に気付かなければならないと思います。子供たちと『南洲翁遺訓』を学ぶ、それに勝るものはございません。

禍福は門なし。唯だ人の召く所のままなり。

2015-06-28 11:04:15 | ブログ
第2373号 27.06.28(日)
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禍福は門なし。唯だ人の召く所のままなり。『左伝』
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 (わざわ)いの門とか、福(さいわ)いの門とかいうものはない。禍も福もすべて本人自身の招くところである。(閔子馬のことば)258
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 【コメント】〈禍福は門なし。唯だ人の召く所なり。〉はまさしくその通りだと思います。ただ、本人自身が招く場合はそれでもいいでしょう。
 まともな学問もせず、夜は酒びたりで、妻や子に世間ばなれした「家風」という概念を強制的におしつけ吹き込んだ場合、それを聞かされて育った人は大変な被害者であると思います。
 そしてそれを鵜呑みにして、分けがわからないまま、新しい家庭に強引に導入した場合、その家庭は地獄絵ならぬ阿修羅の日々となるでしょう。どういう家庭像を建設しようが自由ですが、新しくお命を頂いた子ども程悲劇はないでありましょう。

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 父の影響で、偏狭な観念に凝り固まったとしても、新妻に対して強引に俺の言うとおりにせよと脅迫めいた言葉で押しつけてはならないと思います。おだやかに、優しく、相手の育ってきた家庭環境も考慮にいれて、協力してもらうことが肝要でしょう。何となれば、妻である女性を心から愛して新家庭をつくるからです。強引に暴走した場合、刑事事件に発展する危険性なしとしないのです。
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  長い人生ではやり直しは出来ると信じています。私の場合、分けがわからないまま遊び呆けてきましたが、南洲翁遺訓との出会いのお蔭で、荘内南洲会の先生方のお導きで今日があります。特に菅臥牛先生が、『礼記』『書経』『詩経』を読みなさいと著書に書いていますので、それらを日々に繙いています。これほど楽しいことはありません。だから、子どもたちに、青年たちにそれを勧めています。このブログを御覧になられている方へ漢籍の世界を逍遥してください。私は人生を旅立つまでにその意義・威儀をみいだせばそれでいいと思っています。

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 昨夜の空手道稽古では一般論としての、理想的な新家庭論を話しました。子どもたちにも、よいことばをつかいましょう。人にいたずらをしないようにしましょう、とはなしかけました。道場にきてくれる子どもたちは本当に素晴らしいと思います。保護者の精神が投影されていると思って私が教えられるのです。後期高齢者の私は心から感謝しています。
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 加賀美幸子元NHKアナの「宇治拾遺物語」を聞きながら書いています。東京在住の義兄から送られたものです。
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『大学味講』(第210回)
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 次に「矩」ですが、この字の古い形は、弓矢と定規とを組み合わせた文字であります。「矢」は真直なものの象徴であります。「巨」は、中央に把手のついた大きい定規であります。その小さいのには把手がなく、今製図などに用いられているT字形定規がそれであって、それが「エ」の字で、それを持っている者が「工人」だったのであります。ところで大きい工事となると、大きい定規を用いるので、それに把手をつけて「巨」となったので、随ってこの字を「大きい」という意味に用い、「巨大」とか「巨人」とかという熟語として用いられるようになったのであります。しかし、この「巨」の字の本来は「定規」でありまして、正しい角度を定める時に用いられるものなのであります。
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『論語』(第310)
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 子曰はく、魯衛の政は兄弟なり。
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 孔子がいうには、『魯は周公の後、衛は周公の弟康叔の後であって、元来が兄弟の国だが、はじめ魯の国を立つるや、「尊きを尊び、親しきを親しみ」衛の国を立つるや、「徳を明らかにし、罰を慎み」道行われ国治まれることに於いて正に兄弟の国であった。しかるに今日の魯と衛とは、道すたれ国乱れたることに於いて正に兄弟の国である。まことに心寂しいかぎりである。
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『農士道』(第189回)
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 次は売名的態度であるが、之は已に前述せる通り農道生活の本質が「質」であって、政治家や官吏や軍人に比して世間的名声の現われ難い生活である。一体名を売ることなどに心を用いるようになることは何職業を論ぜずよくないことであるが、殊にも農道生活に於て然りとする。
 菜根譚にも劈頭第一に「道徳に棲守する者は一時に寂寞たり。権勢に依阿する者は、万古に清涼たり。達人は物外の物を観、身後の身を思う。寧ろ一時の寂寞を受くるも、万古の清涼を取ることなかれ」と教えているが、一時の世間的名声を得るなどということは、少しく深く考えて見れば實は萬古に清涼たることなのである。

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 気温零下30度で700キロレースを観賞しました。余程信念と体力・気力がないと走破できないであろう過酷なレースでした。
 勉強の真似事をしている私ごとき者は見るだけで圧倒されました。
 昨日は、青森県出身の石川理紀之助翁の記事を拝読しました。石川翁は生涯に亘って、人々が為し得ないであろう行跡を遺したとあります。果たして、石川翁と700キロに挑んだ人々と、どちらが凄いでしょうか。そして人々への恩恵度、啓蒙度は如何だろうか、と考えさせられました。私たちも微力ながら、日々に挑戦したいものです。

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忠勤を 尽しその弊 知るなくば 
    忠信ならず 知るが忠信

人主に賢なきは瞽に相なきが如し。

2015-06-27 12:27:20 | ブログ
第2372号 27.06.27(土)
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人主に賢なきは瞽(こ)に相(しょう)なきが如し。『荀子』
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 人君にこれを助ける立派な賢人のいないのは、あたかも盲人にこれを助ける手引きの人のないようなものだ。
 「瞽」は盲人。当時、盲人には必ずこれを助ける人、「相」がいた。392

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 【コメント】昨日はある方が悩みがあることをお聞きしたものですから、自宅まで伺いました。そして、初めてそこの御主人と対面しました。
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 世の中にこんな素晴らしい人もいるのだ、と感服しました。悩みのある方の知人の親とは「天と地」程の差だなあと思いました。私が勤務していた会社ではそういう肌の善い人を見たことがありませんでした。その素晴らしい方とお話していると私の心まで洗い清められる思いでした。
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 この素晴らしい人と対比した人は、旧来の陋習である「家風」をうのみにして、時代が流れゆく世相を真剣に観察出来ない人だと思っています。それでいて自分は間違いない、非がないと自惚れている感なしとしない人のようです。
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 謙虚であり、真摯であるという人間が体得すべきものを構築した人としない人との幸せの差があるようです。
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 今朝の学問館は、9人で学修しました。遠くは指宿から、吉野から、そして谷山地区と集まりました。今朝の教材も最高でした。小学6年生の子供には難解なのですが、一所懸命サインペンで塗っていました。
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 そして子供たちに女の人のオッパイを触ったらだめだよと言い聞かせました。触りたくなったら自分のオッパイをさわりなさいといいました。昨日も有名な公認会計士が同様のことをして逮捕されました。
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 昨日も書きましたが、政治家諸氏は安保問題でいろいろありますが、こういう教育こそしなければならないのです。
 今朝の教材は、
 1.致知格物
 2.石川理紀之助が歩いた道
 3.マキャベリ君主論が教えるもの
 4.先師先人に学ぶ
 5.運とツキの法則
 等々でした。

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『大学味講』(第209回)
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 (二) では「矩の道」とは何か。「矩の道「とは、物事を正しく処理していく規範をいうのであります。一体これは、大工が家を建てたり、細工をしたりする時のことで、「」というのは物の長さを測る糸をいうのであります。今でも「間縄」といって、目盛をつけた糸があり、それで何メートルとか、何間何尺とかといって、建築をする時とか、測量をする時などに使われておりますが、あれが即ち「」なのであります。
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『論語』(第309)
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 子曰はく、其の身正しければ、礼せずして行なはる。其の身正しからざれば、令すと雖も従わず。
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 孔子が言うには、民を教化するのは命令ではなくて、上に立つ人の品行が第一である。其行状が正しくて衆人の模範になるようならば、命令せずともおこなわれるが、不正をはたらきながら幾ら命令しても、人民は服従しない。

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『農士道』(第188回)
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 現代教育の発達は農村小学校の児童までも、知識に於いては父老をして天晴れ「理屈に於いてはとても倅に叶わない」との嘆声を発せしむに至り、芸術に於いては一かどの詩人を気取って小さい胸に手をあてて月や星を謳うようになった。
 然し、これで果して「農」という職業の性質上、その素朴剛健なるべき山澤の勤労生活に終始して安心し得るであろうか。農は「質」の代表的職業ではないか。もって盡大地上に両足を踏みしめて行こうとする意志の勇憤、所謂行者の勇風を養うの要があると思う。

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義を見て為さざるは、勇なきなり。

2015-06-26 09:49:32 | ブログ
第2371号 27.06.26(金)
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義を見て為さざるは、勇なきなり。『論語』40
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 道理の上から考えて、こうするのが、あるいは、こういうのが人間として正しい道だと知りながら、自分の利益のため、または保身のために、あえてそうしない。それを私は勇気がないという。27
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 【コメント】上の解説は大変共感します。人間、ややもすると不利になると思われることはやりたがりません。でも、ゆっくりと時間をかけて思考し、検討し、学修し、見極め事に臨みたいものです。
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 昨夜は悪天候にもかかわらず、子供たちがやってきてくれました。子供たちは長生きしたいという願望を持っていますので、とにかく諦めないこと、人との競争をせず自分と競争をせよ、少しずつ遊びながら西郷先生の訓えを学ぶこと、『南洲翁遺訓』も。そして刑事事件にになるようなワルをしないこと、人にはやさしい顔でもって挨拶すること、人を憾んだりしないことなどをお話しました。
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 兄弟喧嘩のすすめはしませんが、できるだけしないこと、でもひとつの社会訓練だとお話してあげました。『論語』の1番、2番を全員で熱唱しました。勿論『南洲翁遺訓』も、です。
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 昨日発生した妹による兄の殺害未遂事件のこともお話しました。決して刃物を持ってはいけませんと。

 先ほど荘内南洲会理事長・水野先生からお電話を頂きました。荘内は雨がふらず大変だと伺いました。お元気なお声をお聞きし嬉しく存じました。
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『大学味講』(第208回)
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 以上の「孝」「悌」「慈」の三つの徳は、身を修めるにも、その基本的の徳であることは、すでに説き示してあることでありまして、こういう人間本然の道にもとづいて行われる政治であってこそ、国も治まり、天下も平らかになるのであります。ですから、天下を平らかにするからといって、修身や斉家と全くかけ離れた、格別の法律や制度を作ることでもあるかのように考えるのは、それは「法家」流---法律万能主義者達----の考え方であって、儒教本来の道ではありません。
 こういうわけで、人の上に在って、国を治め、天下を平らかにする君子(指導的地位にある人)には「矩の道」というものがあるのであります。

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『論語』(第308)
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 子曰はく、詩三百を誦し、之に授くるに政(まつりごと)を以てすれども達せず、四方に使ひして専対すること能はずんば、多しと雖も亦奚(なに)を以て為さん。
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 孔子が曰には、『詩はただの文芸のみではないのであって、人情風俗に通ぜしめ言葉使いを美しくせさせるものである。しかるに詩経三百篇を暗誦することができても、政治をやらせて見ると一向行き届かず、又君命を受けて四方の諸侯に使いに行っても一人で対応もできないようなことでは、物知りだとて何の役にも立たたないのではないか。』
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『農士道』(第187回)
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 けれども我が農村は果してそれ程美しいもののみある處か? 一体、美と共に醜、善と共に悪、楽と共に苦-----それらのものが相対立し並存する大地の上に我々「人間」は生きてゐるではないか。それを絹糸のような繊細な感情によって天国のように華やかに観照した處で要するに一時の恍惚であって、未だ法悦ではあるまい。恍惚には醒める時が来る。田園に対しての幻滅はやがて華やかなる都会への憧憬となるであろう。
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『礼記』の紹介
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 夫れ禮(れい)は、自ら卑くして而して人を尊ぶ。負販の者と雖も、必ず尊ぶ有るなり。而るを況んや富貴なるをや。
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 礼は、自己を謙虚なる姿勢でもって相手を尊ぶことを教える。たとい相手がささやかな行商人であっても、必ず相当に尊重して扱うのであるから、まして相手が富貴にして人格者ならば、なおさらのことである。
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