ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(74) 奈良時代(5)・人麻呂の思いは?

2018-01-26 07:33:18 | お爺さんが語る郷土の歴史

     人麻呂の思いは?

 万葉集に柿本人麻呂の次のような歌があります。

    稲日野も 行き過ぎがてに 思へれば 

       心恋しき 加古の島見ゆ (巻3-252)

 *稲日野は印南野と同じ

 おせっかいですが、歌の意味を載せておきます。

 広々とした稲日野の近くの海を航行していた。船足がはかばかしくない。いろいろと物思いにふけっていると、やがて恋しい加古の島が見え出した。

    人麻呂は九州方面に航行中?

 人麻呂は、加古川の沖を航行中、「加古の島」を眺めながらこう歌いました。人麻呂が歌った時、彼は九州方面へ向かって航行中なのでしょうか。

 それとも西国から大和へ帰る途中だったあのでしょうか。

 多くの研究者は、西国から大和への帰途に詠んだ歌としています。

 どちらでもいいのですが、中島信太郎氏(故人)は、『海の万葉』(のじぎく文庫)で九州方面へ行く途中、加古川沖で歌ったのではないかと述べておられます。

 私も、中島先生のご意見に賛成します。

 加古川沖は、明石海峡(明石大門・あかしのおおと)から少し離れた場所です。

 帰りならば、「もう少しで明石大門だ。懐かしい大和はもう少し・・・」と胸弾ませて詠んだはずです。

 上の万葉集では、そんな躍動した感情が感じられません。寂しささえ漂っています。

 人麻呂は、加古の島にどんな思いを込めたのでしょう。

 研究者は、加古の島は、前号で紹介したナビツマ島であるとしています。(no3854)

 *写真:『海の万葉(中島信太郎著)』(のじぎく文庫)

 ◇きのう(1/25)の散歩(12.945歩)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする