熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

わが庭・・・椿:白羽衣咲く

2020年02月29日 | わが庭の歳時記
   花の7割くらいは、白と黄色だと言うことだが、わが庭の白椿は、咲き始めた白羽衣とエレガンス・シャンパンだけで、言うならば、ピンクや赤い花など色彩豊かな花の方が多い。
   羽衣は、淡いピンクの匂うように美しい椿で、白花と紅花があって、シンプルながら優雅で上品である。
   千葉の庭には、ピンクも紅も植わっていたが、玄関脇に大きく育っていた白羽衣の純粋無垢な真っ白の大輪が最も印象的であったので、その思い出を反芻するために、まず、白羽衣を育てることにした。
   
   
   
   

   先日開花した至宝の次の花が咲いた。
   最初の花よりも美しく整った花形だが、やはり、たくさん蕾を残してしまったので、パワー不足のために、完全に咲ききるのは難しいのであろう。
   赤紫の京の雅を思わせるシックな花弁で、わが庭では、風格のある花で、毎年、初春の開花を楽しみにしている。
   この花弁のいろは、わが庭のバラあおいの色とそっくりで、学生時代に出た谷崎潤一郎の「源氏物語」の表紙の装丁の色でもあったような気がして、私には、京都のイメージなのである。
   
   
   
   

   他の椿も綺麗に咲き続けていて、楽しませてくれている。
   式部、タマグリッターズ、フルグラントピンク、唐錦、曙
   
   
   
   
   
   

   色づきはじめてスタンドバイしているのが、仙人卜半、ジュリアバー、トムタム
   
   
   
   
   温かくなってきた所為か、5月に咲くバラやユリやアジサイやボタンの芽が出始めてきた。
   梅も散ってしまって、桜が少しずつ動き始めているので、もう、地表面は、春の温もりでムンムンしているのであろうか。
   
   
   
   
   

   昨日、大船駅で、新型コロナウィルス感染者が出たと報道された。
   いよいよ、電車に乗って遠出など出来なくなってしまった。
   全くの晴耕雨読の日々になりそうで一寸寂しいのだが、私の場合は、やりたいことがありすぎるので、それも、やり方次第で楽しめるのであろうと思っている。
   
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観劇に行けなければDVD三昧

2020年02月27日 | 生活随想・趣味
   新型コロナウイルス感染症対策で、劇場が閉鎖となれば、当分、観劇を諦めざるを得ない。
   しからば、良い機会なので、録り溜めたDVDを取り出して、鑑賞することであろうか。
   とにかく、膨大な数のDVDが、倉庫に残っている。

   もう、半世紀以上も前に、SONYの小型のテープレコーダーが発売されてから、FMの録音をはじめて以来、ビデオレコーダーやDVDレコーダーなどを活用して、随分、録音録画を続けてきた。
   しかし、機器の進化発展が激しくて、どんどん、先へ進むので、残念ながら、宿替えの度毎に、廃却して、ヨーロッパで録画したビデオなど、購入したものも含めて、ビデオは総て、鎌倉への移転時に、ゴミ収拾に出し、DVDの半分くらいも、同時に処分した。
   処分し続けるのなら、なぜ、録画するのかと言うことだが、そこは、性分というか、気に入った番組を残しておきたくなって、ついつい、録画してしまうののである。
   DVDレコーダーには、容量一杯の録画が詰まっていて、消去しながら、どうしても諦められないものを、DVDにダビングすることになって、どんどん、録画DVDが増えてゆく。
   しかし、録画した番組を見るには、短縮して見るわけに行かず、同じ鑑賞時間が必要なので、殆ど、見る機会を逸して、お蔵入りとなる。
   
   私の場合、録画しているのは、オペラを筆頭にクラシック音楽、能狂言、歌舞伎文楽などの古典芸能、映画、NHK BS放送の多くの教養番組と言った非常に偏った選択である。
   例えば、METライブビューイングのMETオペラは、NHK時代からWOWOWまでだから、ハイビジョン5倍速の録画だがブルーレイ25Gで1枚に3本のオペラでも、繰り返しもあって数十枚あり、NHK放映を含めれば、オペラの録画DVDだけでも、相当な数になる。
   CANONのMy image gardenを使って、DVDに写真入りでラベル印刷をするのであるから、結構手間暇がかかって、大変だが、趣味を楽しんでいると言えば、そうかも知れない。

   リビングのテレビとレコーダーは、孫にハイジャックされており、寝室のレコーダーは孫にDVDを詰まらせられて使えない。
   結局、わが書斎のパソコンを使わねばならないのだが、幸いに、新しく買ったパソコンが、 27インチで小さいが、ブルーレイで4K対応で、スピーカーはハイレゾ、
   録画した番組は、私なりに、独善と偏見で残したとしても、質の高い作品であり、劇場のように臨場感には欠けるが、結構、楽しめる。
   これから、春の到来で、ガーデニングの楽しみが倍加し、読書も益々楽しめそぅで、別に、DVDを見ることもなさそうだが、外出が思うようにできないとなると、これも、貴重な選択枝だと思っている。
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新型コロナウイルス感染症対策:観劇止める

2020年02月26日 | 政治・経済・社会
   昨日、政府は、新型コロナウイルス感染症対策の基本方針を発表した。
   私の場合には、外出を控えることで、関係あることと言えば、まず、観劇のための東京行きや映画鑑賞などを控えることである。
   最近は少なくなっているのだが、まず、歌舞伎には行かないことを決めて、次に、能楽堂への能狂言にも行かないことにしている。
   是非鑑賞したいと思って、折角、取り難いチケットを取ったのを、総てパーにするのだから、残念だが仕方がない。

   ”教育機関、企業など事業者の皆様も、感染の急速な拡大を防ぐために大切な役割を担っています。それぞれの活動の特徴を踏まえ、集会や行事の開催方法の変更、移動方法の分散、リモートワーク、オンライン会議などのできうる限りの工夫を講じるなど、協力してください。”と言うことで、”イベント中止を検討を”と求めており、Jリーグさえ3月15日(日)までに開催予定のすべての公式戦の開催延期を決め、電通や資生堂でさえ原則出社を禁止して自宅待機やテレワークにするなどしており、殆どのセミナーや説明会と行った集まりが中止されるなど、いわば、日本列島緊急事態である。

   劇場や映画館などは、狭いロビーに人が集まり、観劇中は、完全に密室状態となって、スポーツ会場や会社空間よりも、はるかに、新型コロナウイルス感染の温床としては危険な状態になる。
   しかし、劇場が中止や延期の情報を出したというニュースは、私が知る限り、テレビでも新聞でもインターネット情報でも、見たことがない。
   少なくとも、国立劇場は、早急に、中止や延期を考えるなど態度を明確にすべきであろうと思っている。

   事情はともかく、私の場合、国立能楽堂に通うには、バスや電車などを乗り継いで、大船、横浜、渋谷と言った繁華駅を経由して混み合った人混みの中を行かなければならないので、家族の反対はもとより、コロナに弱いという老人である身を考えて、外出を諦めざるを得ない。
   小学生の孫息子と幼稚園児の孫娘と同居しているので、尚更である。

   長引けば、オリンピックの開催さえ危ういという。
   グローバル時代を謳歌して、張り子の虎であった中国を過信しすぎて、花見酒の浮かれ景気に酔いしれていた風船が、破裂寸前。
   さて、どうするのか。
   民主主義や、資本主義や、地球温暖化による宇宙船地球号の危機など深刻な人類の危機問題の解決以前に、まず、必死になって、手元のハエを払いのけなければならない。

(追記)安倍首相の要請を受けてであろう、国立劇場チケットセンターから夜8時に、下記の公演中止メールが入った。
   新型コロナウイルス感染症対策に係る文部科学大臣の要請を受け、日本芸術文化振興会では、
   感染症拡大のリスクを低減する観点から、令和2年2月28日(金)から3月15日(日)まで
   国立劇場、国立演芸場、国立能楽堂、国立文楽劇場の主催公演は中止とし、伝統芸能情報館は閉館いたします。
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思い出の雛人形を飾る

2020年02月24日 | 生活随想・趣味
   遅ればせながら、雛人形を出して、居間に飾った。
   思い出深い雛人形ながら、毎年一回の年中行事なのだが、結構大変なので、ついつい、遅れてしまう。
   
   アメリカ留学の後すぐにブラジルのサンパウロへの赴任を終えて帰ってきた年、長女のひな祭りのために、買った雛人形で、もう、40年くらいたつのだが、次女を経て、今、次女の長女、すなわち、わが孫娘のために飾っているので、3代目のお勤めである。
   その後、8年間のヨーロッパ勤務で、会社の施設に預かってもらっていたりしていたのだが、管理が行き届いていた所為もあって、幸いびくともせず、紙類の退化以外は、全く新鮮なままである。

   残念だったのは、この雛人形をヨーロッパに持って行けなかったことで、これには、苦い経験があって、赴任の移転直前の家財搬送の手配を会社の担当者がミスったのか業者がミスったのか、その日になっても業者が来ず、すった転んだのあげくに、深夜に搬送して、むちゃくちゃになってしまったのである。
   その前に、アメリカで2年、ブラジルで4年、海外で仕事をしていて、日本文化を通じてでの欧米人との交流がいかに有効であり大切かを知っていたからである。
   後で振り返って見ても、アムステルダムとロンドンでは、事業の創業から、相当大がかりな仕事をして、ヨーロッパの人々と公私ともに、非常に親密な付き合いをしていたので、日本文化伝承のためにも大いに役立ったのではないかと思っている。
   ドナルド・キーン先生の頃は、イギリス人は、徹底的に日本を馬鹿にしていたようだが、私が仕事をしていた頃は、Japan as No.1の時代で、日本経済も、日本人の海外活動も破竹の勢いで、オランダ人もイギリス人も、好悪を別にして、日本に一目置いて、日本に関心を持ち始めていたのである。
   シェイクスピアの合間に、紫式部や歌舞伎文楽が話題になることも結構あって、私など、自宅に、イギリス人などを招待して会食をすることが結構あったので、客たちは、我が家にある日本のものなどに興味を示して、必然的に話題が、日本の生活や文化などに移ってゆき、結構、日本の話が弾んだのである。
   そんな時に、一ヶ月でも雛人形があれば、かなり、リビングやダイニングが広いので、日本文化についてのレセプションなど何回かは開けたのに、と思っている。

   この人形、浅草橋で買って、新宿から、千葉、そして、鎌倉へと、引っ越しして今に至っている。
   最初は、3LDKの社宅で、狭いところに窮屈な思いをさせていたが、今は、どうにか、のびのびした雰囲気で、孫たちも、雛まつりの歌を歌って楽しんでいる。
   日本の伝統行事として貴重な存在だが、男びな女びなの位置が、明治天皇の洋風儀礼への転換に合わせて、左右ひっくり返ったのは、文化文明の変遷を反映していて面白い。
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わが庭・・・椿・至宝咲き始める

2020年02月23日 | わが庭の歳時記
   赤紫の風格のある八重咲き椿の至宝が、一輪だけ開花した。
   まだ、他の蕾は固いのだが、この2~3日の陽気に誘われたのか、急に、一輪だけ花が咲き出したのだが、昨日の春一番で調子を狂わせて、本来綺麗な花形が、少しいびつになっているのが可哀想である。
   まだたくさん蕾をつけており、挿し木苗にも蕾が着いているので、次の花を楽しみに待とう。
   
   
   
   

   わが庭の椿は、まだ最盛期ではないのだが、何本かは、綺麗な花を咲かせ続けている。
   園芸椿の作出で、椿には、何千種というバリエーションがあって、椿だと思えないような花を咲かせてびっくりするほどだが、レイジーなガーデニング愛好家の私には、バラや草花栽培と違って、それほど手をかけなくても素晴らしい花を咲かせてくれるので嬉しくなっている。
   
   
   
   
   
   

   わが庭で、存在感を示しはじめてくれたのは、クリスマスローズで、一気に、花茎を伸ばして、咲き出し始めた。
   花茎と行っても40センチ位で、釣り鐘状の花を下に向けて咲いているので、なかなか、花の姿を鑑賞できないのが難である。
   イギリスで人気を得た花だと言うのだが、私がいたときには、それほどポピュラーだったと思えず、帰ってから興味を持ったようなものである。
   一重は、今最盛期だが、八重は、まだ、蕾が開きかけたところである。
   
   
   
   
   
   
   
   

   もう一つ、咲いている春の花は、ぼけ。
   わが庭には、この濃いオレンジ色のぼけが、何本か植わっているのだが、桜までの春の花である。
   
   
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陶磁器に興味を持つ楽しみ

2020年02月22日 | 生活随想・趣味
   花を育てて、写真を撮ることを楽しみにしているので、結構、花瓶に興味を持って買うことがある。
   陶磁器の収集家でもなく骨董に興味があるという訳でもないので、買うと言っても、決して上等なものでもなければ、銘のあると言った類いのものでもない。
   口絵写真の右側の花瓶の絵は、梅にウグイスで、何の変哲もない絵だが、リアルで綺麗なので買った九谷焼で、日本の花瓶は、花鳥風月、四季の移ろいを描いていて実にポエティックで、好きなので、無造作に、というのは、花道のイロハも知らないので、我流で庭に咲く花を投げ入れて楽しんでいる。

   今、NHKの朝ドラのスカーレットでは、信楽焼の里が舞台となっていて、また、日経の私の履歴書では、楽焼の楽吉左衛門が記事を書いているし、期せずして、毎日、陶磁器に触れている感じである。

   私が陶磁器に興味を持ち始めた切っ掛けは、オランダにいて、デルフト焼きの工房を見学したことで、その後、マッカムを訪れたりして、オランダ陶器を買い始めた。
   その後、ロンドンに移り住み、紅茶からウエッジウッドに興味を持ち始めるのは当然で、出張や家族旅行で、ヨーロッパを飛び回ると、マイセンから、ウィーンのアウガルテン、ハンガリーのヘレンド、フィンランドのアラビアと、どんどん広がって行ったのである。
   ボヘミアのガラス器や、フランスのバカラにも興味は移ってゆくが、勿論、安サラリーマンの悲しさで、おいそれと思うように買えるわけがない。

   8年間ヨーロッパに住んでいて、あっちこっち歩いていたので、いろいろなヨーロッパ製の陶磁器やガラス器が、あったのだが、東日本を襲った3.11の大地震で、当時住んでいた千葉は、震度6弱か5強で、食器棚などが全開して、食器やオーナメントが飛び散って、無残にも、半数以上のものが、粉々に割れてしまって、足の踏み場もない状態になってしまった。
   部屋は絨毯敷きであっても、3度襲った大地震で、落下して割れた陶磁器やガラス器の上に、次から次へと、残りの陶磁器やガラス器が落下してぶち当たるので、一溜まりもなく粉々に割れてしまう。
   数が多かった所為もあってか、ウエッジウッドなどイギリス陶器が壊滅的な打撃を受けて、そのほか、ワイングラスも殆ど割れて、しばらく、ワインをまともに飲めなかったのを覚えている。 
   それに、揃っていたはずのセットものの食器が、あっちこっち欠品となって使い物にならず、日本で埋め合わすのなどは大変なので、諦めた。 
   懐かしい思い出の品々が、殆ど逝ってしまった悲しみは、当分、癒やせなかったが、残った食器やガラス器、オーナメントなどを、それまで以上に大切に反芻しながら使っているにで、まあ、良いかと思っている。

   大地震以降、海外に行ったのは、ロシアと中国だけなので、海外製の食器類は増えず、増えるのは、和食器や日本製の花瓶だけである。
   訪れたのは、備前焼と萩焼の里くらいで、あまり動かなくなってしまったので、最近は、近くの店へ出かけていったり、昔は行かなかった骨董店やリサイクルショップを訪れたり、ネットショップなどで、珍しいものを求めたりして楽しんでいる。
   しかし、長い人生で、有り余るほど、ガラクタ食器や花瓶に溢れているので、家族は、一つ買うごとに嫌な顔をしており、ぼつぼつ、年貢を納めなくてはならないと思っている。

   しかし、暇になると、まず、訪れるのは、本屋であって、その次は、陶器関係のショップを、椿の絵が描かれたものはないかと探訪しているのであるから、やはり、趣味なのかもしれないと思っている。
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国立小劇場・・・文楽「菅原伝授手習鑑」

2020年02月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
    錣太夫襲名披露狂言『傾城反魂香』土佐将監閑居の段の前に、「菅原伝授手習鑑」の車曳きから桜丸切腹の段が上演された。
    「桜丸切腹の段」は、大阪に出かけて、2014年4月の通し狂言で住大夫引退狂言という記念すべき公演を観劇して、私は、次のように書いている。
    住大夫と錦糸の浄瑠璃に乗って、浮世の未練をすべて清め捨て去って、従容と死に赴く桜丸を簑助が、悟りきれなくて号泣し続ける八重を文雀が、生身の役者以上に生き生きと人形を遣って演じ切っており、そのまわりを実直そうな白大夫のかしらをつけた玉也の父・白大夫が、撞木と鐘を打ちながらうろうろ右往左往する・・・正に、哀切極まりないこの世の終わりの光景であり、観客を忍び泣かせて、場内は水をうった様に静寂の極致。
   今回は、浄瑠璃は千歳太夫と富介、同じく簔助が感動的な桜丸を遣い、八重を勘十郎、白大夫を和生と言う非常に充実したキャスティングで素晴らしい舞台を見せて魅せてくれた。

   さて、冒頭の車曳きの段で、三つ子の兄弟である梅王丸、松王丸、桜丸が登場するのだが、三つ子であるから、同じようなものであるはずだが、長幼の序は、この順である。
   菅丞相の肝いりで、梅王丸は菅丞相の、松王丸は時平の、桜丸は斎世親王の、それぞれの牛飼いの舎人となっている。
   桜丸夫妻の取り持ちで斎世親王と菅丞相の娘苅屋姫の密会を実現させたのだが、これが、政敵の藤原時平に陰謀だと姦計を弄されて、菅丞相は、九州・大宰府に流罪になってしまい、この時点で、梅王丸と桜丸は、扶持離れすなわち浪人となっていて、その腹いせもあって、時平の牛車を襲って乱暴狼藉を働こうとしたのである。

   桜丸は、菅丞相の讒言の原因を作ったその責任を感じて、既に切腹を決意していており、その後の佐太村の舞台で、父親白大夫の喜寿の賀に三つ子の兄弟とその妻たちが帰って来て祝うのだが、皆が集う前にやってきた桜丸が、その決意を父に語っている。
   尤も、文楽では、この部分は暗示されているだけで、桜丸は、賀の祝いが終わって皆が退散した後で舞台に登場して切腹する。
   この伏線があって、固い覚悟を知らされた父白太夫も悩み抜き、何か助ける手はないか必死になって考えるのだが、氏神詣の神籤でも凶ばかりが出て、帰ってきたら兄たちの喧嘩で桜の枝が折れてしまって凶と出ており、運命と諦めて、わが子の切腹を認める。
   親としてしてやれることは撞木と鉦を打ちならすことだけだと悟るも、切腹する桜丸の周りを右往左往するばかりで、妻八重は、切腹を止めさせようと、桜丸にしがみ付いて必死に懇願して説得するが、それも叶わず、桜丸は切腹を遂げる。
   この哀切極まりない愁嘆場が、この桜丸切腹の段である。
   簔助の桜丸は、運命を従容と受けて立ち何の迷いもなく腹に刀を当てる、匂い立つような気品と様式美の美しささえ感じさせる迫真の芸で、どうしても桜丸の命を助けたい一心で縋り付いて断腸の悲痛を訴える勘十郎の八重の、寄り添って必死に耐える二人の姿が、儚くも輝いていて、実に美しくも悲しい舞台である。

   この劇は、菅原道真の絶対善と藤原時平の絶対悪の対立抗争が主題であるから、どうしても、松王丸が悪玉のような感じになって、ワリを食っていて、この佐太村の舞台で、白大夫が、松王丸の差し出した勘当願いはあっさりと認めて、主人の時平と敵対する親兄弟を心置きなく討つためではないかと非難さえして、松王丸の菅丞相への恩義を返したいという健気な心の内を理解できずに、早々に追い返す。
   この逆転劇を展開するのは、終幕に近い「寺子屋の段」。
   重要なテーマは、「梅は飛。桜はかるる世の中に。何とて松のつれなかるらん。」
   松王丸が、一子小太郎を管秀才の身替りに差し出して、武部源蔵に討たせた後で、いろは送りの前に、「管丞相には我が性根を見込み給ひ「何とて松のつれなからうぞ」との御歌を「松はつれないつれない」と世上の口に、かかる悔しさ。・・・」苦しい胸の内を吐露しながら、管丞相に恩を返す劇的な結末の述懐であり、
   さらに、管丞相の奥方御台所を救出して管秀才に対面させ、一気に、善玉として脚光を浴びる。
   松王丸は、この段で、小太郎の死を重ね合わせながら、桜丸の死を追悼して涙に暮れている。

   三つ子の父親白大夫は、三つ子の兄弟に対して、「生ぬるこい桜丸が顔つき。理屈めいた梅王丸が人相。見るからどうやら根性の悪そうな松王が面構え」と言っている。
   これを反映してかどうかはともかく、主役の桜丸は、一番若く見えて前髪立ちの童姿で、歌舞伎では女形が演じている。
   序段の「加茂堤の段」で、加茂川の堤に、桜丸が斎世親王の牛車を乗り入れ、妻八重が苅屋姫を連れてきて、二人を車の中に押し込んで愛の交歓をさせるのだが、刺激された桜丸が、”女房たまらぬたまらぬ”と身悶えし、”追っ付けお手水がいろうぞよ”水汲んでこいと言った調子の子供じみた夫婦で、思慮分別のある貴人の逢い引きの仲立ちとも思えないアクションだから、当然、露見しても不思議ではない。

   今回、しみじみと、桜丸を思う機会を得たが、この浄瑠璃、三つ子の兄弟のキャラクター一つとっても良くできた作品であると思う。
   天神さんの浄瑠璃であったが、今、国立劇場の前庭の3本の梅が、きれいに咲いていて舞台を荘厳している。
   
   
   
   
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易しいはずのe-taxで、久しぶりに難渋

2020年02月20日 | 
   会社にいた時には、税務申告など自分でする必要がなかったのだが、年金生活に入ると、自分でパソコンを叩かざるを得なくなる。
   このブログで、2008年に、「e-Tax納税は骨折り損のくたびれ儲けであった」を書いているので、e-taxは、もう、今回で、11回目になる。
   あの記事は、e-taxであれば、税務申告に出かける必要もなく、医療費など書類の提出も必要ないということで、パソコンを叩いたのだが、虚偽申告かどうか調査すると言う意図であろうか、一切の資料を提出しろという命令書が成田税務署から来たので、欧米に長くいて、信頼関係の徹底した社会には有り得ない裏切り行為だと感じて、ブログを書いたのである。
   我々のような年金生活者は、申告書類で不安定な支出は、医療費くらいのもので、税金を徴収したとしても僅かの金額であり、脱税をしている企業や高額所得者を野放しにして、何の税務調査かということである。
   早い話、前年なりそれ以前の私の提出した確定申告の書類をチェクすれば、殆ど変わっていないので、虚偽かどうか一目瞭然であり、それさえせずに・・・
   アトランダムな抽出検査かもしれないが、「全部ですなあ」と別の係官が意外だと言っていたくらいで、会社にいたときの嫌みで高飛車な税務調査を思い出したのである。
 
   さて、今回の税務申告も当然、e-taxで試みたのだが、年に一度なので、高齢者の悲しさ、前年度のやり方を忘れて、冒頭から暗礁に乗り上げてしまったのである。
   Explorerで、HPの申告・申請から入れば何のことはないのだが、メールが入っていたので読もうと、メッセージボックスをクリックして操作を進めたので、推奨環境チェックの結果で、Edgeを使ているので、適合せず、どうにか進んで、e-TaxWEB版に入ってしまって暗礁に乗り上げて、様子がおかしいので、e-Tax・作成コーナーヘルプデスクへ電話して、一から軌道修正。

   次のハードルは、マイナンバーカード方式でのe-tax申請を選択して、カードリーダーにマイナンバーカードを差し入れて、クリックして、パスワードを打ち込む時になって、良く指示書きを読まずに、パスワードを入力してクリックするが、誤り信号ばかりで、埒が明かずに、マイナンバーカードがブロックされてしまった。
   マイナンバーカードには、暗証番号が2種類あって、4桁の数字と、大文字アルファベットと数字の組み合わせの6桁以上のものとあるのである。
   後者のパスワードは、「インターネットでの税務申告e-taxなど、インターネットを用いて官公署等の申請・登録等手続きを行う時に使用されます」とあるので、当然、e-taxであるから、パスワードは、後者の6桁以上を使うものだと、早とちりして、このパスワードばかりを打ち込んでいたので、この場合の指示パスワードは4数字の方であるから、進むわけがない。
   このパスワードだが、知らなかったのだが、4桁の方は3回、6桁以上の方は5回、どちらかこれをオーバーして誤操作をするとブロックされてしまって、通常のカードのように、間をおいたり、日をおいたりしてリセットされるのとは違って、初期化しないと回復できなくなっており、万事休すとなる。それに、この誤作動回数は、リセットされるまで、永久に継続するというのである。
   暗礁に乗り上げたので、e-taxとマイナンバーカードのヘルプデスクに電話して、指示に従って、パスワード操作を行ったり、アプリの公的個人認証サービスから問題を調べたりしたのだが、埓があかず、2回マイナンバーカードにブロックがかかり、2日、市役所に通って、カードを初期化して、暗証番号を入れ直してもらった。
   問題は極めて単純で、私は、暗証番号は6桁の方だと思い込んでいて、教えてくれるヘルプデスクの人たちは、当然、私がパソコンの指示する4桁の方のパスワードを叩いていると思っているので、すれ違いで問題が解決しなかったわけであるが、最後に、マイナンバーカードの担当者が、4桁ですよと指示してくれて、パスワード欄の下に、小さな字で、4桁の指示書きがあるのに気づいた。

   初期化したマイナンバーカードの使用は、1日間を置けと言われて、翌日、恐る恐るパソコンを叩いたのだが、問題なく次のページが現れて、操作が進んだのでホッとした。
   カードリーダーが古いので、誤作動を起こしているのかも知れないと思って、最新式のカードリーダーを手配までしたのである。
   結局、私自身が、指示書きを無視してパソコン操作をしたことで起こったミスで、恥ずかしい限りだが、しかし、その後、3回、マイナンバーカードの認証で、パスワードを入力する必要があったのだが、6桁の方のパスワードの使用は1回だけであった。
   マイナンバーカードなので、扱いには慎重を期すべきだが、果たして、私のような老人ぼけが使ってトラブルを犯して、市役所に通ってリセットしなければ埓があかなくなるというのは、どうであろうか。

   いずれにしろ、最後まで無事に申請書類を打ち込んで、税務署へ送信できたのだが、それまでに、2回も、e-taxのヘルプデスクの女性スタッフにお世話になった。
   かなり、楽に電話がつながり、非常に懇切丁寧に教えてもらって助かったのだが、毎日と言わないまでも、それほど間を置かずに何回かやっておれば、このe-taxも、それほど難しい操作でもないのであろうが、1年に1回となると、私には、一寸、きつかったと言う感じであった。

   余談だが、これまで、トラブル続きであったパソコンを諦めて、一寸、グレードの高いパソコンに乗り換えたので、トラブル処理もスムーズに行ったのだが、前のパソコンでは、万事休すだったと思うと、一寸、ホッとしている。
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国立小劇場・・・竹本錣太夫襲名披露狂言『傾城反魂香』土佐将監閑居の段

2020年02月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   東京の国立劇場の小劇場で、1月の国立文楽劇場での公演に引き継いで、竹本錣太夫襲名披露狂言『傾城反魂香』土佐将監閑居の段が上演された。
   先月、大阪に行って観劇済みで、このブログに書いているので、重複は避けるが、今回、後期高齢者のミーハーぶりを気にせずに、ロビーにおられた竹本錣太夫にプログラムにサインをもらって、写真を撮らせてもらった。
   

   芸術家に、サインをもらって写真を撮らせてもらった経験が、何度かあるが、それは、もう随分前に、フィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックで、コンサートの後、楽屋に入って、ユージン・オーマンディに、そして、ロンドンのロイヤル・オペラで、ルネ・フレミングに、日本では、安野光雅画伯であった。
   
   
   サインをもらったのは、クラシック関係ばかりで、ほかに、ユーディ・メニューイン、アンネ・ゾフィー・ムターなどはレコードとCDに、
   METで、ビヴァリー・シルズのサイン本を見つけて買ったときには嬉しかったのを覚えている。
   別にサインが欲しいという訳ではなく、本やCDが、よりみぢかになると言う感じで、その場のムードで、サインをもらおうと言うことになるので、まあ、ミーハーである。
   
   さて、吃又だが、手水鉢に又平の自画像が浮かび上がるシーンが最も劇的なのだが、昔の舞台というか、歌舞伎だかどうだか忘れたが、少しずつ像があらわれてきて、まるで奇跡でも起こったかのように見せるていたが、これは、手水鉢の中に入った黒衣が又平の像を裏側から描いていたと言うことで、非常にリアルで臨場感があった。
   しかし、今回の舞台は、手水鉢が小さいので仕方がないとしても、ぱっと裏側に明かりがついて、像が、浮き上がるという演出で、どうも作為的で趣向に欠ける。

   ところで、又平とおとくが登場してから、喋るのはおとくで、又平は脇に座って卑屈な姿で相槌を打つだけで、太夫は、通訳という言葉で語るほど存在感のないだめ絵師だったが、弟弟子に先を越されて名字を許されたのを知って断腸の悲痛、ところが、舞台が急展開して、
   元信の弟子雅楽之介が飛び込んできて姫を奪われたと告げたので、その救出に行って手柄を立てようと、今度は、おとくを蹴散らして将監の前に進み出て、言葉にならない吃音で必死に願い出るも許されず、救出命令を受けた修理之介の前にはだかって、代わってくれと懇願する哀れさだが、ここで主客転倒、一気に舞台のテンションが高揚する。
   この後、将監に、絵の道の功によってこそ名字に値すると最後通告を突きつけれれて万事休す、
   おとくに、手水鉢を石塔と定め、自分の絵像を書いて自害して贈り名を待てと言われて、又平は、決死の覚悟で絵筆を握る。
   
   この間の激しい劇的な舞台展開を、緩急自在、錣太夫の義太夫と宗助・寛太郎の三味線が、情緒連綿とした感動的な浄瑠璃を語り、勘十郎の又平と清十郎のおとくが、夫婦愛の局地とも言うべき芝居を披露して観客の感動を呼ぶ。

   2012年に、この傾城反魂香を観ており、そのときは、又平が玉女、おとくが文雀、住大夫の語りと錦糸の三味線と言う素晴らしい舞台であったが、
   今回は、錣太夫襲名披露狂言であり、非常に思い出深い公演となった。
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国立能楽堂・・・第60回式能

2020年02月16日 | 能・狂言
   第60回式能は、16日、国立能楽堂で開催された。
   「五流宗家・正式五番能」と銘打ち、古式に則り、「神・男・女・鬼の五番立」を標榜する本格的な舞台を、朝の10時から夕刻の19時20分までのロングランである。
   わたしは、2012年から通っているから、今回で9回目である。
   プログラムは次の通り、
第1部
能 喜多流「翁(おきな)」友枝昭世/三番叟(さんばそう):野村万蔵
「竹生島(ちくぶしま)」香川靖嗣
狂言 和泉流「鍋八撥(なべやつばち)」野村 萬
能 観世流「盛久 夢中之出(もりひさ むちゅうので)」大槻文藏
狂言 大蔵流「寝音曲(ねおんぎょく)」茂山忠三郎
第2部
能 金春流「羽衣 替ノ型(はごろも かえのかた)」金春安明
狂言 和泉流「昆布売(こぶうり)」石田幸雄
能 宝生流「藤戸(ふじと)」佐野由於
狂言 大蔵流「腰祈(こしいのり)」大藏彌右衛門
能 金剛流「乱(みだれ)」廣田幸稔

   能の舞台の場合、「翁」の開演中は一切見所への入場は禁止されるので、翁が上演されるときには、遅刻は致命傷なのだが、遅刻常習犯の私は、これまで、2回も貴重なチャンスをミスっている。
   歌舞伎や文楽の場合には、「寿式三番叟」という形で演じられるからであろうか、私は、途中でも入れてもらったので、能ほど、格式には拘らないのであろう。
   翁は、「とうとうたらりたらりら、・・・」と荘重な謡から始まるのだが、誰にも意味が分からないらしい。しかし、安田登氏が、この「あらたらたらりたらりら」の詞章は、チベットの「ケサル王伝説の最初に謡う神降ろしの歌」だと言っていて面白い。
   学生時代に、安田徳太郎の『万葉集の謎』を読んで、日本語の起源はレプチャ語であると言う理論に興味をもったのだが、レプチャ語は、インドと中国に挟まれたシッキムで話されている言葉だと言うから、隣のチベット文化の影響を受けていてもおかしくないという言うことかもしれない。

   「翁」は、人間国宝友枝昭世の実に荘重な舞台で、観世流のように千歳をシテ方が演じるのとは違って、面箱持・千歳は野村又三郎、三番叟は野村万蔵で両方とも狂言方で、非常にエネルギッシュで格調高い舞台であった。
   この「翁」が始まってから能「竹生島」狂言「鍋撥」まで、途切れる事なき連続上演で3時間、流石に「翁」中はないが、途中で 席を立つ人が多い。
   緊張感の頂点は、「翁」までで、因みに、式能の最後「乱」までには、相当の客が見所から消えてゆく。
   江戸時代の式能情報はよく分からないので,何とも言えないが、一般庶民相手の歌舞伎や文楽などは,通し狂言が多かったようで、朝から晩まで連続上演で出入り自由で、飲食も自由であったというし、今でも、大阪の国立文楽劇場では、観劇中に弁当を食べている人を見かけることがある。

   さて、能5番なのだが、私は、他のは何度も見ているのだが、「盛久」と、「乱」は、初めてであった。
   「猩々」は観たことがあるので、「乱」の妖精猩々の巧みな足裁きが興味深かった。

   「羽衣」は、何回観ても美しい。
   能は、削ぎに削ぎきったシンプリファイの頂点を極めた究極の古典芸能だと言うことだが、装束と面に関する限り、妥協の余地がないほど華美を極めて、時には、装飾過多と思えるほど美を追究して創り上げられた日本美の象徴だと思われる。
   この素晴らしい天女の衣装を身につけて美の結晶とも言うべき面のシテ天人の姿は、実に美しくて、緩急自在の囃子と謡いに載せて、舞台狭しと、舞い続けるのであるから、凄いの一言に尽きる。

   狂言は、これまでにすべて観ている。
   面白かったのは、「昆布売」。シテ昆布売 石田幸雄、アド何某 野村萬斎
   供を伴わずに外出した何某が、旅の途中、昆布売を脅しあげて太刀持ちにするのだが、従者扱いに腹を立てた昆布売が、太刀を抜いて逆に脅して、昆布売りをさせて、太刀と刀を取り上げて逃げてゆくという話である。
   昆布売が、「若狭の小浜の召しの昆布」と謡っていたので、昆布は北海道のはずだと思っていたのだが、調べてみると、北前船で、蝦夷地から船で運ばれてきた商品を若狭湾で陸揚げされて陸路で京都に移送されており、昆布もその一つで、小浜で加工されていたという。「召し」は、高貴な人が召し上がると言う意味で、足利義政に献上されてから、「若さの召しの昆布」と呼ばれるようになったと言う。
   浄瑠璃節や踊り節などで、昆布を売る謡いと舞い踊りが面白い。

   とにかく、充実した貴重な式能公演で、人間国宝野村萬や大槻文藏が、至芸を披露した。
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わが庭・・・赤加茂本阿弥咲く

2020年02月15日 | わが庭の歳時記
   わが庭には、ピンク加茂本阿弥しか植わっていないのだが、その種をまいて、実生苗を育てていたら、急に、赤加茂本阿弥の花が咲いた。
   これまで、何本かの実生苗で、白い花や淡いピンクの花が咲いて不思議に思っていたのだが、ピンク加茂本阿弥の先祖返りの花が咲いていたということがわかった感じである。
   この赤い花が咲く前に、ピンク加茂本阿弥の花のように、真っ先に、雌しべが顔を出したので、不思議だなあと思っていたのだが、白い花がベースの加茂本阿弥であるから、ピンクは遺伝子的にも不安定で、このように、花色が変わって咲き出すのであろうと思う。
   私としては、期せずして、本来の加茂本阿弥と赤加茂本阿弥の苗木を手に入れられたということである。
   この深紅の赤色は、ピンク加茂本阿弥の深い桃色と同じように、実に魅力的な赤である。
   
   
   
   
   
   

   今咲き乱れている椿は、実生苗と親木のタマグリッターズ、エレガンス・スプレンダー、式部、フルグラントピンク
   
   
   
   
   

   沈丁花と中国ミツマタが、咲き始めた。
   紅梅も咲き続けている。
   
   
   
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METライブビューイング・・・「蝶々夫人」

2020年02月12日 | クラシック音楽・オペラ
   長崎を舞台にした幕末日本の、純粋無垢の若い芸者蝶々さんとアメリカの海軍士官ピンカートンとの儚い恋の物語で、随所に顔を覗かせる日本の童謡など懐かしい日本の旋律が旅情を誘う、美しいプッチーニ節のオペラである。

   プッチーニの有名なオペラながら、鑑賞した記憶は、意外に少ない。
   「蝶々夫人」を最初に聴いたのは、サンパウロ市立劇場でのサンパウロオペラで、ボリショイ歌劇場でタイトルロールを歌って人気を博していた東敦子の圧倒的な舞台であった。次に印象深いのは、渡辺葉子のロンドンのロイヤル・オペラでの蝶々夫人で、感動して2回行った。スカラ座やウィーン国立歌劇場などトップ歌劇場を総なめにしたのだから凄い歌手であった。
   ほかにも何度かオペラ劇場でも、コンサートなどでも、ヨーロッパ人などのソプラノの蝶々夫人を聴いて来たが、このオペラだけは、日本女性の素晴らしい歌声を聞きたいと思っている。

   今回のキャストは、
   指揮:ピエール・ジョルジョ・モランディ
   演出:アンソニー・ミンゲラ
   出演:
     蝶々夫人:ホイ・ヘー、ピンカートン:ブルース・スレッジ、シャープレス:パウロ・ジョット 、ススキ:エリザベス・ドゥショング

   ピンカートンは、直前にアンドレア・カレに代わって、アメリカ・カリフォルニア州出身のテノール・ブルース・スレッジが歌った。METデビューは2003年《セヴィリャの理髪師》アルマヴィーヴァ役で、その後、モーツアルトを歌い、欧米の歌劇場でロッシーニからヴェルディまで幅広く活躍中ということで、相手役のホイ・ヘーも素晴らしいと言っており、感動的な舞台を披露した。
   シャープレスも、予定表には、プラシド・ドミンゴであったので、期待していたが、ブラジル生まれのベテランバリトンのパウロ・ジョットに代わっていた。

   さて、中国人歌手の蝶々夫人のホイ・ヘーは、初めて聞いたが、凄い歌手である。
   2002年、上海デビュー時には、メゾソプラノとして、ドラベラを歌ったというのだが、ヨーロッパで、蝶々夫人を歌い、100年記念でイタリア各地で喝采を浴び、その後、ウイーンやニューヨークで、「トスカ」を、そして、スカラ座やベローナで、「アイーダ」を演じて、ローエングリンのエルザも歌っていると言う。
   今回の蝶々夫人などは、得意中の役柄だということで、プッチーニについては、十二分に熟知しており、会心の舞台であったのであろう。
   プッチーニは、イタリア駐在大山公使夫人から十分に日本の知識を吸収していたので、かなり上手く蝶々夫人を描いているが、前述したように愛に生き名誉に生きた蝶々さんの、繊細かつ潔くて潔癖な生きざまは、やはり、DNAのなせる業と言うか、日本人歌手に期待する以外にないと思っている。

   ホイ・ヘーHui Heも、実に素晴らしい蝶々夫人だが、どこか、雰囲気が違っていてシックリと来ないのは、その所為かも知れないのだが、欧米人にとっては、東洋系のソプラノが演じればそれでエキゾチックに雰囲気が味わえるという認識であろう。
   
   
   少し前に、映画「私は、マリアカラス MARIA BY CALLAS」を見て、カラスの実に初々しい蝶々さんを観て感激したのだが、ドナルド・キーンは、
   カラスの録音を聞いて、蝶々さんがピンカートンに長く愛してと訴えるところなど、胸に迫るものがあり、十五歳の日本娘になり切っている。カラスは、この作品に表現された悲劇の核心を直感的につかみ取ることによって、このオペラの歌詞を、いいえ、音楽さえも超越していたのです。と、20世紀、カルーゾと並ぶ二大歌手の一人だと称賛している。

   この舞台で、特筆すべきは、アンソニー・ミンゲラの意表をついた演出である。
   前面の舞台には、4本のレールを敷いて、何枚もの障子を左右に移動させて舞台展開を図り、バックステージには、高い急な階段を立ち上げて舞台を設置し、奥はダウンしているので、登場人物は、その背後から浮かび上がって出てくる感じである。
   口絵写真は、婚礼のために、蝶々さんが登場したシーン。
   舞台の天井には、大きな鏡が設置されているので、効果抜群である。
   衣装は、疑似日本的だが、とにかく、カラフルであり、照明が非常に巧みなので、舞台映えして、長崎を舞台にしたとは思えないエキゾチックで幻想的な舞台を繰り広げている。
   

   ミンゲラは、日本の古典芸能の舞台や手法を、多分に取り入れていて、演出を豊かにしている。
   まず、冒頭、両袖に座った幕引きが、幕開けを演じるのは、蜷川幸雄が、「マクベス」で、仏壇の舞台の幕開きで、両脇で座っていた老婆と同じシチュエーションであるし、前述の提灯やハトを持って右往左往して随所に登場する黒衣の活躍などもそうだし、何よりも特筆すべきは、文楽の舞台を応用して、役者の何人かを人形に置き換えて演じさせていることである。

   1幕で登場する蝶々さんの召使は、二人遣いだが、実にリアルに演技する蝶々さんの息子の坊やは、本格的な3人遣いである。
   尤も、日本の文楽のように洗練された高度なテクニックはないので、非常にぎこちないのだが、人形の形と人形遣いの役割が面白い。
   まず人形遣いだが、日本の主遣いに当たるのは、左遣いのようで、後頭部の真ん中に差し込まれた棒状の取っ手で首を操り、左手を操作し、右遣いが、人形の背中に設えられたドアの握りのような支えを握って人形を安定させて、右手を遣い、足遣いは、足を遣う。
   人形の首は、全く表情が変わらず上下左右するだけだし、手には指金も何もないので手を開いたままなので、文楽のような繊細で微妙な人形の表情は出てこないのだが、ホイ・ヘーは、涙が出るほど感動したと言っていたので、本当の坊やだと思って舞台を務めたのであろう。人形遣いも、命を吹き込んだ喜びを語っていた。
   「ライオン・キング」で、ジュリー・テイモアの演出でも、日本の舞台芸術の手法も取り入れられており、欧米のオペラ劇場でも、色々なところで、日本の影響を感じて嬉しくなったことがある。
   別な意味で、日本の文楽の凄さを感じた瞬間でもあった。
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わが庭…紅梅・椿唐錦咲く

2020年02月10日 | わが庭の歳時記
   遅ればせながら、紅梅が咲き始めた。
   庭植えして間もない小木だが、凛とした一重の赤い花弁が美しい。
   
   
   

   ピンクの鹿児島紅梅と白梅は、今、最盛期で咲き誇っている。
   
   
   
   

   メジロが、頻繁にわが庭を訪れているのだが、専ら、白梅の花目当てで、この調子だと、今年も梅の実は豊作であろう。
   メジロは、花の少なくなった桜・エレガント・みゆきにも訪れているが、なぜか、殆ど、ツバキの花には、あまり興味を示さなくなった。
   
   
   
   

   椿は、唐錦が咲き始めた。
   絞り系統の椿には、あまり興味がないので、わが庭では、この唐錦が唯一の吹掛絞である。
   
   
   

   今、最盛期の椿は、タマグリッターズ、フレグラントピンク、式部、エレガント・スプレンダー
   毎日、少しずつ、呼吸しながら装いを変えてゆく自然の摂理・・・対話を楽しみながら、日々を送っている。
   明日から、急に、暖かくなるようであるから、ほかの椿も咲き始めるであろう。

   安達瞳子さんによると、日本人は、侘助のような、原種に近いシンプルな一重の椿を好むというのだが、欧米生活が長かった所為でもないと思うが、私は、派手で複雑な椿の方に興味を持っている。
   
   
   
   
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映画「AI崩壊」

2020年02月09日 | 映画
   非常に時宜を得た映画で、面白かった。
  
   話は、インターネットの情報を借用すると、次のようだったと思う。
   2030年、天才科学者の桐生浩介(大沢たかお)が亡き妻(松嶋菜々子)のために開発した医療AI「のぞみ」は、年齢、年収、家族構成、趣味趣向、病歴、遺伝子情報、犯罪歴といった全国民の個人情報と健康を管理している重要な社会インフラとして欠かせい存在なのだが、ある時突然、暴走を開始する。AIが、人間の生きる価値”を勝手に選別し始めて、生きる価値がないと判断した人間を殺戮するという、恐るべき事態が巻き起こり、総理まで死ぬ。警察庁の管理官・桜庭誠(岩田剛典)たちは、AIを暴走させたのは開発者である桐生だと断定して逮捕しようとしたので、身に覚えのない桐生は逃亡を開始する。桐生は、逃亡しながら、「のぞみ」を管理するHOPE社の社長西村悟(賀来賢人)とひそかに連絡を取りながら、のぞみの暴走を阻止すべく事態の収拾を目指すが、解決寸前で、桜庭たち警察陣に追い詰められて万事休す。
   ところが、2030年の日本は、高齢化と格差社会が進展し、人口の4割が高齢者と生活保護者となり、日本の社会そのものが崩壊の瀬戸際にあり、これを憂慮した新総理と警察官僚が結託して桜庭を手先にして、医療人工知能 (AI) 「のぞみ」にウイルスを忍ばせて個人情報システムを乗っ取って個人を選別して、生きる価値がないと判断した人間を殺戮する機能をスイッチオンしたことが、土壇場で判明する、と言うどんでん返し。これが面白いのだが、
   のぞみ暴走の犯人とされた桐生と、「AIのぞみ」の社長西村悟が、警察の追っ手から逃れながら、AIの暴走を阻止しようと奔走するのだが、これら科学者たちを、AI監視システムを駆使して執拗に追跡して追い詰めて行き排除しようとする桜庭などの警察陣との攻防が、この映画の見せ場となるサスペンスドラマである。

   コンピューター漬けのデジタル型でシャープな桜庭の岩田剛典などの警察陣と、旧態依然としたアナログ型の鈍くさい三浦友和や広瀬アリスの警察陣との対比が面白く、両方とも良い味を出していて楽しませてくれた。
   しかし、この桐生追跡の逮捕劇は面白いが、10年後の警察が、そのような程度の低いAI監視システムで犯人を追跡するとは思えないし、ドタバタの次元が現在の域を出ていないきらいがある。
   その所為もあって、ドンパチ優先の警察権力の行使ばかりが目に付いて、真実味に欠けて茶番劇のよう。
   前述の俳優のほかに、芦名星、玉城ティナ、高嶋政宏、余貴美子など芸達者な俳優が出ていて楽しませてくれた。
   桐生光役の田牧そらがうまい。
   斬新なパンチのきいた映画を作り上げた入江悠監督の手腕も大きく貢献している。

   最後に、逮捕された桜庭に、個人情報の選別はなくならないと言わせている。
   マイナンバー制度の徹底で、個人情報の総てを一元管理しようとする政府を、果たして国民は信用してもよいのか、そんな問題提起を、この映画は、やんわりと匂わせていて興味深い。

   さて、10年後のAIが、どの程度の次元まで発展するのかということだが、何度も論述しているハラリだが、
   バイオテクノロジーとAIの組み合わせで、ホモ・サピエンスは、ヒト科の枠から完全に抜け出て、身体的特性や物理的特性や精神的特性が生み出されるかもしれないし、意識はどんな有機的構造から分離することさえあり、AIの発達によって、超知能をもつものの全く意識はない存在が支配する世界が誕生しかねない。とまで言っている。 

   知識不足で良く分からないのだが、この映画は、人間がITのぞみのソフトを操作して誤作動を起こした事件で、最終的には、新しいソフトを組み込んで崩壊を阻止したと言うストーリーとなっており、人為的な崩壊事件である。
   しかし、恐ろしいのは、機械学習なりディープラーニング、そして、さらに高度な手法を、ITが駆使して、ハラリが説くごとく、人知を超えて作動し始めて、人間が制御できなくなって、ITが崩壊したときには、どうするかということである。
   
   医療AI「のぞみ」は、全国民の詳細に亘った個人情報と健康のビッグデータで止まっているが、インターネットにはあらゆる情報が入っているので、ヒトラーやスターリンの遺伝子情報が作動し始めたらどうするのか、
   いろいろ考えたら、映画では済まされないような気がして恐ろしくなってきた。
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国立能楽堂・・・狂言「鶯」・能「草薙」

2020年02月08日 | 能・狂言
   今月の国立能楽堂の月間特集は、「近代絵画と能」。
   この日は、定例公演は、「草薙の剣」、倭建命が橘姫の手を取って草薙の剣を構えている絵である。
   西洋絵画には、壮大な歴史画が、欧米の美術館で圧倒的な迫力で迫ってくるのだが、その影響を受けて、明治期の日本画壇でも、歴史画が脚光を浴び、日本の誇るべき古典芸術能が、格好の画題を提供したのであろう。

   まず、その前に、狂言「鶯」。シテ/梅若殿の家来 野村萬斎、アド/鶯の飼い主 野村万作 の素晴らしい至芸の舞台である。

   鶯を飼っている男が、鶯のさえずりを聞きたくて、籠に鶯を入れて野辺にやってきて、籠を置いて遠くに離れて楽しんでいると、主人が無類の鶯好きなので献上しようと、鶯を買う金がないので野辺の鶯を射そうと鳥黐のついた竿を持った家来がやってくる。これ幸いと鶯を持ち去ろうとすると主が現れて、止められ、交渉の結果、家来が鳥かごの鶯を刺せれば持ち帰ってもよく、失敗すれば、太刀と刀を取られることと言うことになるのだが、家来は二回とも失敗する。
   飼い主が去ったあと、一人残った家来は、16歳で夭折した稚児の悲しい昔話を語り、鶯になって寺の梅の木に飛んできて、その時読んだ「初春の、朝ごとに来れども、遭わでぞ帰る元の住家に」をもじって、「初春の、太刀も刀も鶯も、ささでぞ帰る元の住家に」と詠んで、「南無三宝、しないたり」と竿を捨てて退場する。

   冒頭、万作師が、鳥籠を持って登場し、鶯のさえずりを聞こうと言って鳥籠を置き、笛柱に端座するまでのシーンに詩情を感じて、まだ、少し早い鎌倉山から下りてくる鶯を思い出した。
   能楽の際、蓮如上人が、この狂言「鶯」を愛でて、鶯を捕まえるのに脇目もふらないその姿を指し、佛法聴聞の心構えを説いたという逸話が残っていて興味深い。

   能「草薙」は、日本武尊と橘姫の夫婦の神が祭られている熱田宮が舞台で、参篭して最勝王経を講じている恵心僧都の前に、橘姫の霊魂と日本武尊の神霊が現れて、駿河の国での草薙の剣の威力を示して、国家が穏やかに治まったと、最勝王経の徳を称える。と言ったストーリーである。
   宝生流にしかない能とかで、シテ日本武尊は、藤井雅之、ツレ橘姫は、高橋憲正、
   記紀を読んでいないので、日本武尊については、うろ覚えであるし、猿之助の「ヤマトタケル」の舞台で見た印象だけが残っていて、何とも言えないのだが、
   草薙の剣は、三種の神器の一つ(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)で、貴重な存在ながら、スサノオが出雲国で八岐大蛇を退治した時に、大蛇の体内から見つかった神剣だと言った神話時代の故事来歴はともかく、形代の草薙剣は、壇ノ浦の戦いで安徳天皇入水によって関門海峡に沈んで失われており、その後、朝廷が、伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」として、現在、その神剣(形代)が宮中に祭られているとのことである。

   能は、シテが、草薙の剣を振るって舞う時くらいしか動きがなく、恬淡とストーリーが展開する60分ほどの短い舞台で、古代の神話の世界に誘う。
   恵心僧都が、熱田宮で、最勝王経を講ずるという神仏混交の世相が興味深い。

   蛇足ながら、いつも気になっている八百万神と「草木国土悉皆成仏」について、一寸書いてみたい。

   八百万の神は、森羅万象に神の発現を認める古代日本の神観念を表すのだと言うのだが、
   梅原猛は、
   仏教が日本に入ってきて、平安時代の末に天台本覚思想と言うのが生まれて、それが鎌倉仏教の思想の前提になり、その思想は、「草木国土悉皆成仏」と言う言葉に端的に表現される。「草木国土悉皆成仏」と言う思想は、狩猟採取文化が長く続いた日本に残ったが、かっての人類共通の思想的原理ではなかったかと思う。そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、人類の未来の生存や末永い発展は考えられない。やっと、「草木国土悉皆成仏」と言う新しい哲学の基本概念を得たにせよ、西洋哲学のしっかりした批判によって、新しい「人類の哲学」と言うものを作り出せるかどうかは疑わしい。 しかし、この哲学を作らない限り、死ぬに死ねないのである、と言いながら逝ってしまった。
   五木寛之も、
    いい意味で、自然界のあらゆる物には、固有の霊魂や精霊が宿ると言うアニミズムと、様々な思想や宗教を融合するシンクレティズム、すなわち、「草木国土悉皆成仏」の思想は、日本の財産である。経済成長も限界があり、日本は、資源がないと言われるけれど、21世紀には、これまで近代の中で日本人のアキレス腱と思われていたようなアニミズムとシンクレティズムと言うものを、一つの思想として体系化して、それを大きな資源として、世界の中で、何か貢献できるような気がする。

   一方、ユヴァル・ノア・ハラリが、「ホモ・デウス」で、自由主義に触発されて科学技術で知識武装した人間が、キリスト教のドクトリンの多くが真実には程遠い神話であることを知って、神聖に近づきつつあるとしながら、AIとロボティックスの軍門に下らざるを得ないと言う人間の将来を案じているのだが、「草木国土悉皆成仏」、すなわち、人間自身が森羅万象悉くを体現した宇宙船地球号と一体となって、同化しない限り、生きる道がないと悟るべきかどうか、
   これが最後の人類のあがきなら、成功を祈らざるを得ないと言うことであろう。
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