熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

平山郁夫著「ぶれない―骨太に、自分を耕す方法 」

2018年10月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   平山郁夫先生については、随分、本も読んだし絵画展にも出かけたし、それに、講演会でも貴重な話を聴いており、よく存じているので、人生の総決算との言うべき、或いは、白鳥の歌とも言うべき、未来の人々への遺言のようなこの貴重な本は、正に、感動と感銘の反芻であった。

   私は、奈良をしばしば訪れて、西ノ京の薬師寺や唐招提寺を訪ねるのだが、薬師寺玄奘三蔵院伽藍の平山郁夫画伯の手による大唐西域壁画を拝観した時には、広大な大広間にただ一人でもあった所為か、正に、三蔵法師の境地、
   感激の限りを尽くして、長くたたずんでいた。
   

   大唐西域壁画は、特別展の説明によると、
1976年(昭和51)に薬師寺・高田好胤管主(当時)の依頼により制作が決定。100回を超える現地取材を重ね、制作期間は20年以上に渡ります。2000年(平成12)の大晦日に薬師寺玄奘三蔵院において入魂の「開眼供養」が行われました。画面の全長は約37メートル。壁面13面に中国・長安からインド・ナーランダ寺院へ至る7場面が描かれ、場面中の時間は朝から夜へと推移してゆきます。
   第1画面「明けゆく長安大雁塔・中国」、第2画面「嘉峪関を行く・中国」、第3画面「高昌故城・中国」、
   口絵写真は、第4画面「西方浄土須弥山」、第5画面「バーミアン石窟・アフガニスタン」、第6画面「デカン高原の夕べ・インド」までで、第7画面「ナーランダの月・インド」
   仏教の原点を求めて、三蔵法師がインドへ向かった壮大な苦難の旅の軌跡を渾身の画筆に託して、平山画伯が描ききった凄い大作である。
  
   さて、何故、このブックレビューで、この「大唐西域壁画」から書き始めるかと言うことだが、これは、私自身が感動したと言うこととは別に、平山画伯の人生と画業の遍歴において、仏教と出会いに始まって、シルクロードへの傾斜が、極めて重要であったと言うことでもあるからである。
   30歳直前、人生これからという時に、広島で被爆した後遺症が再発して死の恐怖に直面して、絵画での行き詰まりに呻吟するなか、突如として天啓のように、脳裏に閃いたのは、過酷で苦しい砂漠を一人で旅してきた僧侶が、息絶え絶えで辿り着いたオアシスのイメージ。この旅僧のイメージを玄奘三蔵に託して、出来上がったのが「仏教伝来」で、これを契機にして、仏教が、平山郁夫の人生を賭けた生涯のテーマとなった。そして、仏教伝来の源流、日本文化の源流を歩いてみたいと言う思いが高揚して、シルクロードを幾度も踏破して、その終着駅とも言うべき「大唐西域壁画」の完成に至ったのである。
   
  
   この本で、平山郁夫は、何度も何度も、「教養」の重要性について語り続けている。
   大伯父である彫金の大家で美校(芸大)教授であった清水南山から、教養が何よりも大切だ教わったと言って、人生を通観した時に、人格形成は勿論のこと、人生の岐路に立った時に、その壁を破るために、最も役立つのが「教養」だと痛感し続けて来たと言う。
   言い換えれば、リベラル・アーツに対する知識なり幅広い知的好奇心をもって人生を生きているかどうかと言うことでもあろうが、欧米人は、例えば、シェイクスピアを国際社会でのいわば常識として身に付けているとして、ギリシャ、ローマ、ゲルマンなど民族の多様性を認め合う社会がそうさせるのであろうと言う。日本人も、もっと、「源氏物語」の雅びな世界も勉強すべきだと言うのである。
   このリベラル・アーツに対する日本人の異常な不足は、日本の場合には、教養部門である筈のたった4年間の大学に、教養軽視の専門部門が入り込んで最終学歴となっていて、欧米でのエリートは、大概、PhD やMBAなどの専門課程はプロフェッショナル大学院で学んで、修士ないし博士の学位を取得しているのに比べて、主に大学だけの日本人との学歴格差のなせる業であろうと思っている。
   私は、大学は日本なので、欧米の大学は分からないが、MBAの勉強などは、日本の大学教育の比ではない程猛烈に勉強するので、教養はどうかは別として、知識では太刀打ちできる筈はないと思っている。

   もう一つ、大伯父の教えは、「古典を読め」と言うこと。
   水墨画の雪舟も、「風神雷神図」の俵屋宗達も、先人たちの多くのものを教養として学び、「ぶれない自分」を作り上げたからで、単に様式やスタイルを学ぶのではなくて、先達の主張を学ぶことで、彼らの精神を受け継ぐことであり、また、膨大な本を読んだりして蓄積した歴史や仏教に関する知識が非常に役立ったと言う。
   興味深いのは、戦後の日本文化まで否定する風潮の中で、「時代遅れだ」「今時流行らない」と笑われながらも、日本画の優れた古典の模写に力を入れ、奈良の古社寺を巡って、仏像や工芸品を見て回り、本物だけが持つ迫力と激しさ、厳しさに圧倒され、強く胸を打たれて日本文化は決して西洋に負けるものではないと思ったと述懐している。
   これに関して面白いのは、初めてヨーロッパに行った時に、スイスの村の小さな教会の壁画に圧倒されて、ルネサンスの凄い力を実感して、「日本文化対ヨーロッパ文化」と言う考えを改めて、美術史だけではなく東洋や西洋の哲学などを幅広く学んだお陰で、中国やインドを含めて、「東洋文化対ヨーロッパ文化」と考えて元気が出たと言う。

   更なる大伯父の教えは、美術は勿論、芝居、バレエ、オーケストラなどジャンルを問わず、とにかく、一流のものを観、一流のものを聴き、それも、まだ若くて真っ新な状態の時に頭の中にたたみ込め、と言うこと。
   これは、刀鍛冶の修業は、本当の名刀しか見せないと言ったこととか、藤十郎が、武智鉄二に「一番いいものを見て、一番いいものの中に育っていないと芸が貧しくなる」と言われて散髪屋でもクラブでも何でも超一流の所に行かされて全部払ってくれたと履歴書に書いているのなども、この言いである。
   何故か、この話になると、オペラやクラシックのファンで独身貴族の上司が、劇場には通うのだが、いつも、一番安い席のチケットを買い、常時極貧状態の私が、出来るだけ良い席のチケットを買い続けていたのを、どちらが良いのか悩んだことがあるのを思い出す。
   いずれにしろ、私が欧米で働いていた頃は、Japan as No.1の時代であったので、臆せずに、何でも、世界最高峰の文化文明にアクセスできたので、善き時代を経験できたと思っている。

   蛇足が長くなってしまって、折角の平山郁夫の名著のレビューとしてふさわしくなくなってしまったが、この本は、類書と違って、平山郁夫が、心血を注いで生き抜いてきた人生を、淡々と滋味深く語りながら、貴重な人生訓の多くが、珠玉のように鏤められていて、老いも若きも読むに値する本だと思う。
   
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わが庭・・・春のクラブ・アップル咲く

2018年10月30日 | わが庭の歳時記
   今年は、大型台風が3号も鎌倉を掠めて、結構、エコロジーに異変をもたらした。
   塩害と風害で、バラなど秋の花や紅葉に大打撃を与えて、鎌倉の秋の風情を台無しにしてしまった。

   ところで、わが庭では、春の花である姫リンゴ・クラブアップルの花が、綺麗に開花し始めた。

   Gardening HANA-ZUKAN によると、開花は、5~6月で、秋に咲くのは異変なのだが、蕾の出から開花の推移は、完全に春と同じで、結実するのかどうか、変な心配をしている。
   また、”これらはスーパーで見かける食用リンゴの元となった品種です。ターシャ・チューダーの庭にも植わっていました。自家受粉が可能で一本で実が付きますが、二株以上で植えるか、種の近いカイドウを近くにうえて自家受粉するほうが実がよくつきます。”と言うことだが、隣接してハナカイドウが植わっており、まだ、木が小さい割には、実をつけてくれている。
   イギリスに居た時に、田舎を訪れると、何時も綺麗なリンゴの花が咲いていたので、懐かしくなって、大きなリンゴの木と言うわけにも行かなかったので、このクラブアップルの木を一本庭植えしたのである。
   
   とにかく、今年は、世界全体に異常気象であった。
   人類の経済発展一辺倒の悪あがきによって地球環境を破壊して、地球温暖化などの影響で、エコシステムが異常をきたしており、宇宙船地球号の危機であることは間違いはないのだが、アメリカに出現したリバイヤサンによって、益々、地球を窮地に追い詰めており、ホモ・サピエンスの将来は、非常に危うい。

   桜が、秋に咲くのは、ヒマラヤ桜などもあって、先祖返りだとしても、モクレンも蕾をつけてスタンドバイしており、このクラブアップルにしても、最早、季節を問わなくなってしまったのであろう。
   
   
   
   
   
   
  
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AMAZONでミズノのウォーキングシューズを買う

2018年10月29日 | 
    歳を取ると、革靴を履くことが少なくなって、普段は、外出の時にも、殆どウォーキングシューズを使用している。
   軽くて柔軟性があって、足に殆ど負担がかからず、非常に重宝なのである。
   それに、結構スタイリッシュなので、歳よりなら、改まった時にも、気にすることはないと勝手に決めて遣っている。

   尤も、同じような靴なのだが、外出目的によって、何足か履き分けている。

   ところで、今日は、愛用しているミズノのウォーキングシューズをAMAZONで買ったのだが、これでは、先日、このブログで書いた「アマゾン・エフェクトの脅威と言うのだが」のように、アマゾンがあらゆる企業・産業をのみ込んで、日本の企業の経営に、大きな影響を与えており、大変な脅威であることは当然だと言う気が、あらためてしたので、そのことを書いてみたい。

   まず、いつもお世話になっているミズノ公式オンラインショップ-MIZUNO SHOP- を開いて、ウォーキングシューズを調べたら、一番高くて良さそうだったのは、口絵写真のLD40IVα(ウォーキング)[メンズ]で、価格:¥21,600 (本体価格¥20,000) であった。

   念のため、何時ものように、AMAZONで、同じ商品を検索すると、
   価格: ¥ 15,784 - ¥ 21,600 & 返品無料 と書かれていて、サイズ26センチをクリックすると、価格: ¥ 16,064 通常配送無料 & 返品無料 で、 OFF: ¥ 5,536 (26%) となっている。
   更に、この商品の特別キャンペーン 15%OFFクーポンあり 11/4 1:59まで との表示があり、
   クリックすると、注文合計: ¥ 13,654 と一気に下がる。
   ミズノショップだと、¥21,600の商品を、AMAZONで、¥13,654で買えたと言うことになる。

   AMAZON価格に、 ¥ 15,784 ~ ¥ 21,600 と幅があるのは、サイズに依るのだが、どのように値付けしているのか、やはり、需給関係の反映であろうか。
   それに、15%のクーポンは、偶々のタイムセールに巡り合ったということで、他の商品にはなかったので幸いだったと言うことであろう。
   こんなタイムセールは、ビッグカメラやヨドバシカメラなどリアル店舗でもよくやっているし、楽天などでもよくあるようである。
   更に、AMAZONのページには、「こちらからもご購入いただけます」 との表示があって、マーケットプレイスに出店している12店の価格が、¥ 15,784+ 配送料無料 が最低額で順次表示されていて、ミズノの定価より安く買えるのが分かる。

   私は、パソコンは、富士通のネットショップで、カメラなどは、CANONのネットショップで、ミズノ製品は、ミズノのネットショップで買っているので、出来れば、やはり、メーカーの関連ショップから買いたいと思うのだが、如何せん、メーカーが、むやみに自社製品を安くバーゲン価格で売るわけには行かないので、特別なケースを除けば、割安商品の購入は無理なのであろう。
   いずれにしろ、今回のように、このように、AMAZONとの価格差が出てくると、どうしても、AMAZONや楽天やヤフーが気になる。

   リアル店舗では、どのような価格で売られているのか興味のあるところだが、どしても、販管費など固定コストが足を引っ張って、価格競争では、ネットショップには勝てないであろう。
   リアル店舗が生きぬく道は、ただひとつ、バリューイノベーションを追求してブルーオーシャン企業に脱皮すること、これ以外にない。

   最近、靴は、ウォーキングシューズしか買っていないし、ミズノやヨネックスの26センチサイズに決めていているので、ネットで買っても支障はない。

   日本を代表するような大都会の大型書店でも、ジャンルによっては、私の書棚よりも貧弱な品揃えの店舗があるくらいだから、リアル店舗には、限界がある。
   しかし、AMAZONのネット書店には、ロングテールもロングテール、ない本はないくらいで、AMAZONになければ諦める。
   それに、今では、本のみならず、ビックリするような商品まで扱っていて、それが、予想以上に安くて、すぐに発送されてくるのであるから、アンチAMAZONであった私でも、だんだん、AMAZON頼みになってきている。
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ユヴァル・ノア・ハラリ著「ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来」(2)

2018年10月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   科学技術の発展に伴って、宗教的な真理や教条が、次々と論破されて行き、ホモ・サピエンスの世界観を大きく変えて行ったのだが、ハラリは、その科学と宗教との関係をどのように考えているのか、興味を感じていた。

   先に、3000年前に、森羅万象の創造主が、ホモ・サピエンスと言う種の成員に、同性愛行為を慎むよう命じたと聖書のレビ記に見られると言うのを紹介したが、
   ハラリは、その聖書を誰が書いたか、専門家の査読を受けた科学研究の大半の内容は一致しており、聖書は、記述していると称する出来事が起こってから何世紀も後に、それぞれ異なる書き手によって書かれた、おびただしい文書の集成であり、これらの文書が単一の聖なる書物にまとめられたのは、聖書時代のずっと後になってからのことだった。と言う。

   実際には、倫理的な判断と事実に関する言明は、何時も簡単に区別できるわけではない。「神が聖書を書いた」と言う事実に関する言明は、「あなたは聖書を神が書いたと信じるべきである」と言う倫理的な命令に変わってしまうことがあまりにも多く、事実に関するこの言明を信じることが美徳となり、疑うことは恐ろしい罪となる。
   イスラム原理主義者は、幸せになるために天国に行きたがり、自由主義者は人間の自由を増せば幸福を最大化できると信じており、ドイツの国家主義者はドイツ政府が世界の舵取りを任されればあらゆる人の境遇が改善されると考えている。と言うのである。

   しかし、実際には、幸福の科学的定義も測定法もない以上、このような見識を使って倫理にまつわる言い争いに決着をつけることは至難の業であある。例えば、三峡ダムが、事業の究極の目的が世界を幸せにすることだとしても、安い電気を生み出すことが、環境破壊を阻止して、伝統的な生活様式を守ったり、珍しい揚子江川イルカを救ったりするよりも、全世界の幸福に貢献するとどうして言えようか。と疑問を呈する。
 
   したがって、科学には、越えられない一線があって、何らかの宗教的な導きがなければ、大規模な社会的秩序を維持するのは不可能である。科学革命が始まったのは、教条主義的で不寛容な宗教的な社会においてであったが、宗教は、科学研究の倫理的正当性を提供し、それと引き換えに、科学の方針と科学的発見の利用法に影響を与えた。
   
   宗教は秩序に関心があり社会構造を創り出して維持することを目指す。科学は何をおいても力に関心がある。科学と宗教は集団的な組織としては、真理よりも秩序と力を優先するので、両者は相性が良い。真理の断固とした探求は霊的な旅で、宗教や科学の主流の中にはめったに収まりきらない。
   したがって、近代と現代の歴史は、科学とある特定の宗教、すなわち人間至上主義との間の取り決めを形にするプロセスとして眺めた方が、はるかに正確だろう。現代社会は、人間至上主義の教義を信じており、その教義に疑問を呈するためではなく、それを実行に移すために科学を利用する。のだと言う。

   21世紀には、人間至上主義の教義が純粋な科学理論に取って代わられることはなさそうだが、この両者を結びつける契約が崩れ去って、全く違った種類の取り決め、すなわち、科学と何らかのポスト人間至上主義の宗教との取り決めに場所を譲る可能性が十分ある。と言うのである。
   このことについては、下巻で論じているので、その時に考える。

   ところで、ハラリは、宗教に関して興味深いことを言っている。
   キリスト教など既成宗教では、聖典には、私たちのあらゆる疑問に対する答えが記されている、と宣言している。そして、裁判所と政府と企業に圧力をかけ、聖典の内容に沿って行動させる。賢明な人が聖典を読み、それから世の中を眺めると、聖典と世の中が現に一致しているのが見て取れる。
   たとえ聖典が現実の本質を偽るものだったとしても、何千年にもわたって権威を保つことが出来、聖書の歴史観は間違っているが、それでも、首尾よく世界に広まり、膨大な数の人が今なお信じていて、聖書は、一神教の全能の神によって支配されていると主張している。
   しかし、聖書時代にも、はるかに正確な歴史認識を持っている文化があって、アニミズムや多神教の信奉者は、単一の神ではなく、おびただしい数の力が働く場としてこの世界を描き出していた。多くの出来事が自分やお気に入りの神とは無関係であり、そうした出来事が自分の罪でもなければ、善行に対する報いでもないことを難なく受け入れていた。
   ヘロドトスやトゥキュディデスや司馬遷は、私たちの現代的な見方に非常によく似た、高度な歴史理論を構築しており、今日の学者は、聖書よりも、彼らと意見が一致する。と説いている。
   アメリカの経済が躓くと、聖書を篤く信仰する(トランプや)共和党党員さえ、自分自身の罪ではなく中国を公然と非難する。
   
   この点については、以前に紹介した梅原猛氏の、
   「草木国土悉皆成仏」と言う思想は、狩猟採取文化が長く続いた日本に残ったが、かっての人類共通の思想的原理ではなかったかと思う。
   そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、人類の未来の生存や末永い発展は考えられない。と言う見解を思い出す。
   これは、非常に重要な論点でもあるので、場を改めて考えてみたい。
  
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ユヴァル・ノア・ハラリ著「ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来」(1)

2018年10月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「ホモ・サピエンス」の著者の新しい本。
    「ホモ・サピエンス」の時には、あまり気にせずに読んだのだが、文明論的な著作になると、どうしても、著者のバックグラウンドが気になったので、Wikipediaを開くと、ハラリは、世俗的なユダヤ人と言うことで凝り固まった敬虔なユダヤ教徒でもなさそうだし、
   それに、学業は、Hebrew University of Jerusalem、Jesus College, Oxford(PhD)で、
   キリスト教文化文明には、批判的だとしても、思想背景や宗教的にはかなり客観的だと思えるので、先入観を気にせずに読めるのが良いと思った。
   この本で、「レビ記」の同性愛行為の禁止は、古代エルサレムの少数の聖職者と学者の偏見を反映したものだと厳しく糾弾しているのだが、著者も同性愛結婚で、パートナーは、ハラリのIOTでありマネージャーだと言うのが興味深く、キブツに似たモシャブ(家族労働力のみで構成された家族経営の農場)に住んでいると言うのも面白い。
  それに、Jared Diamondに影響を受けたと言うのにも興味を感じた。
   
   本の原題は、Homo Deus: A Brief History of Tomorrow
   この本で、ハラリは、将来、人類・ホモサピエンスは、幸福、不死、神性を求めて熾烈な試みを行うとして、過去と現在に基づいて未来に向かって、これらの野心を実現するために如何に戦うか、色々な挑戦について検討して、人類の将来におけるビッグデータを崇拝する哲学や思考態度を展開している。

   かって、人類は、幾世代にもわたって、あらゆる神や天使や聖人たちに祈り、無数の道具や組織や社会制度を考案してきたが、多くの思想家や預言者は、飢饉と疫病と戦争は神による宇宙の構想にとって不可欠の要素であって、この世の終わりまで我々はそれから開放されることはないであろうと結論していた。
   しかし、今日では、飢饉や疫病や戦争は、殆ど解決済みで、これらで命を落とす人の数、旱魃やエボラ熱やアルカイダによる攻撃など、この3悪で死ぬ人の数よりも、マクドナルドでの過食がもとで死ぬ可能性の方がはるかに高くなっている。

   前例のないような水準の繁栄と健康と平和を確保した人類は、今や、成功は野心を生むもので、過去の記録や現在の価値観を考えると、次には、不死と幸福と神性を標的とする可能性が高くなった。とハラリは説く。
   飢饉と疫病と暴力による死を減らすことができたので、今度は、老化と死そのものを克服することに狙いを定め、人々を絶望の淵から救い出したのであるから、今度は、ハッキリと幸福になることを目標とし、人類を残忍な生存競争の次元から更に引き上げたのであるから、今度は、人間を高みにグレードアップして、ホモ・サピエンスをホモ・デウスに変えることを目指すであろう。と言うのである。
 
   ハラリは、この不死と幸福と神性の追求について、多方面から検討を加えているのだが、果たして、この理想の実現が、人類にとって、真に望ましいことなのかどうかと問題提起をしている。
   たとえば、人類が、脳への電気刺激や遺伝情報を遺伝子工学で操作するなど科学技術を駆使して生化学的な幸福の追求を進めているが、エピクロスは、2300年も前に、快楽を過度に追求すれば恐らく幸せではなく惨めになるであろうと言っており、ブッダは、快楽は儚い気の迷いに過ぎず、快楽の追求は実は苦しみのもとにほかならない、至福の感覚や胸躍る感覚をどれほど多く経験しても、決して満足せず、益々、渇望するだけだ。と言っている。
   資本主義と言う巨人にとって、幸福は快楽であり、科学研究と経済活動が、益々、生化学的な幸福の追求を求めて突進して行く。
  何故か、この資本主義と市場経済にドライブされた人類の幸福と不死への追求は、ミダス王の悲劇を思い出す。手が触れたものすべてが黄金に変わるという願いが叶ったものの、食物までも黄金に変わり困り果てた王様のことであり、人間の欲望に限りがなければ、はずみ車のハツカネズミのように、益々、早く走らなければ振り飛ばされるのである。

   今や、医学の驚異的進歩で、人生100年時代だと言われているが、不死となって、プーチン政権が100年以上続くとなれば、どうするのか。
   不死や幸福や神性の追求途時に、コンピュータープログラムが人間を越える知能と空前の力を獲得して、AIが自らの必要や要求を満たすために、人間を搾取したり、殺したりし始めたらどうするのか。
   飢饉と疫病と戦争を克服した過去の人類の挑戦とは、次元がはるかに異なってしまっているのである。

   ハラリは、不死と幸福と神性の追求が、人類の次の課題だと述べているのだが、何が人間にとって、真の幸せなのか、人間の目的とする世界は何なのか、何処に向かって人類は進んで行くべきなのか、この上巻では、明確にしていないので、下巻の課題であろう。
   
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国立能楽堂・・・企画公演:狂言「枕物狂」

2018年10月26日 | 能・狂言
   この日の企画公演は、狂言「枕物狂」と喜多流の能「竹生島」で、滋賀県の観光展示も来ていて、意欲的な公演であった。
   先日、NHKで放映されていた野村万蔵家三代による野村萬の「枕物狂」を観て、非常に面白いと思って鑑賞させて貰い、今回の舞台は茂山千五郎家による茂山千作の「枕物狂」にも、非常に感銘を受けたので、印象を綴ってみたい。
   囃子や地謡も登場する能と同じような本格的な45分の大舞台で、狂言の懐の深さを実感させる素晴らしい曲である。

   今回のキャスティングは、つぎのとおり。
シテ(祖父):茂山千作
アド(孫):茂山茂
アド(孫):茂山逸平
アド(乙):茂山千三郎
地頭   :茂山七五三
後見   :茂山千五郎

   平凡社の百科事典を引用させて貰うと、
   まくらものぐるい【枕物狂】
   狂言の曲名。雑狂言。大蔵,和泉両流にある。百歳を超えた祖父(おうじ)が,近ごろ恋に悩むという噂なので,2人の孫は,それが事実ならかなえさせたいと,祖父を訪問して,ことの真相を尋ねる。初めは隠していた祖父も,ついに,秘めた恋の相手は先月の地蔵講の頭人であった刑部三郎の娘おとであると告白する。孫の1人がおとを連れてきて祖父に引き合わせる。祖父は老いの恥をさらした恨み言を謡に託して言うものの,喜びは隠しきれずに,おとと連れ立って幕に入る。

   揚幕から、よろっと顔を覗かせた祖父は、枕を結び付けた笹をもって橋掛かりを夢遊病のような風体で、「枕ものにや狂うらん……」と謡いながら彷徨い出てくるのだが、このスタイルは、笹をもって登場する能の物狂いのシテと同じだが、「花子」の男の出と同じだろうが、100歳の老人の恋狂いと言うか深刻な恋病いであるから、揚幕から舞台までの橋掛かりの演技が難しいのであろう。
   孫たちが、恋をしておられるのだろうと尋ねると、祖父は、何じゃ、鯉かとはぐらかし、恋とは若者のすることといなして、先人の恋の話として、志賀寺の上人が京極の御息所に一目ぼれしたことや、柿の本の紀僧正が染殿の后に恋をして入水自殺をした恋の恐ろしい昔物語を語っているうちに、つい感極まって「祖父もこの恋かなわずは、いかなる井戸の中、溝の底へも身を投げ……」と切ない恋心を謡い上げてバレてしまう。
   しかたなく、地蔵講の時に刑部三郎の娘乙の笑顔に魅せられたことなど語り始めると、囃子と地謡が伴奏を始めて、雰囲気を盛り上げる。
   乙のえくぼが可愛くて、ふとももを抓ったら、乙に枕を取って打たれてまっくら(枕)になったと述懐して、大切に持っていたのを、先ほど投げ捨てた枕を拾い上げて、「足摺してぞ泣き居たる。」
   この小道具の枕だが、枕を交わすと言えば愛の交歓、この投げつけられた枕を笹に結わえて、恋の妄執に悶々とする祖父と言う設定だが、実に意味深な狂言であると思う。
   打ちひしがれて蹲っていた祖父は、眼前に現れた愛しい乙の姿を見てびっくり、喜びをかみしめながら、乙と連れ立って揚幕に消えて行くのだが、老醜をさらした祖父の恋を、何となく色香を漂わせながら、しかも上品に演じなければならないところに、むずかしさがある。 と言う。

   大蔵流の茂山家の祖父は、面を掛けずに直面で演じているので、千作の非常に繊細で微に入り細に入り心を込めたリアルな表情が、劇的効果を表して、喜劇としての面白さを表出していて分かり易い。
   祖父の千作は、「こちらへわたしめ、こちらへわたしめ」と言って、橋掛かりを退場して行くのだが、後からついて橋掛かりに入って来る乙をちらっと見て、実に嬉しそうに幸せの絶頂、にっこりと笑って歩を進めるところなど、老いらくの恋も捨てたものではないと言う証か、老醜の欠片さえなく、微笑ましささえ感じさせて秀逸。

   一方、野村萬は、三光尉に似た品のある祖父面をつけていたが、セリフが主体だとは言っても、顔の表情などは殆ど変えずに、恐らく直面の能楽師のように演じていたはずで、リアルさをセーブしている点、象徴的で、ラストシーンなども、頷く仕草で乙との関係を得心して幸せを滲ませて終えている。

   ところで、今回の乙の面だが、どう考えても魅力的とは思えないようなおかめ面。(万蔵家の乙面は、鼻が低いだけで可愛い。)
   この場合は、「にっこと笑うた顔を見たれば、のうしおらしや、天目ほどのえくぼが七八十も入った。」と言っているから、「あばたも笑窪」と言うのであろうか、「蓼食う虫も好き好き」と言うか、恋は異なもの味なもの、恋は不可思議なものであると言うことであろうか。
   若い時は、美醜に拘るが、歳を取ると、もっと人間的な心の感興と言うか滲み出た女性の愛しさに魅かれるのかも知れないとも思う。

   この舞台で、孫たちに恋をしているだろうと聞かれて、「総じて、恋の思いということは、十九や二十の者にこそあれ、この百年にあまる祖父が恋などするものか」と強がりを言っているのだが、(総じて、)恋には歳など関係ないのであろう。
   しかし、この曲は、殆ど3世代ほども離れた恋物語でありながら、ハッピーエンドで終わっているのだが、恋の仲立ちを買って出る孫たちの気持ちも実にモダンで、人間の優しさ愛しさ悲しさ、色々な感情を綯い交ぜにした心の軌跡を、老人の恋と言う俗っぽい、しかし、人間の究極に触れたテーマで語っていて面白い。
   私自身、老いらくの恋の気持ちも分かるし、何となく共感する世代であると言うことでもあろうと思う。
  
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芸術祭十月大歌舞伎・・・白鸚の「佐倉義民伝」

2018年10月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   最近は、歌舞伎座には月に1回だけ行くことにしており、今回は、仁左衛門の助六については、襲名公演が最高の舞台であったであろうから封印して、もう一度、白鸚の「佐倉義民伝」を見ることにした。
   1851年に、江戸中村座で初演されたと言うから、本当は、勘九郎あたりが、宗吾を演じれば、勘三郎追善興行になるのであろうが、まだ、もう少し年季が要るのであろう。
   しかし、弟の七之助が、宗吾の妻おさんを演じて、若さを抑えた円熟味さえ感じさせる味のある芸を披露して、感動的であった。
   前に観た時には、このおさんを福助が演じていたのだが、やはり、芝翫の血であろう、流石に上手い。

   この宗吾は、宗吾霊堂の主神であるから、正に、神性をおびさえした高潔な役柄であるのだが、菅丞相や良弁上人は、仁左衛門が適役だとしても、この宗吾は、白鸚でなければならず、白鸚の極め付きの舞台だと思う。

   宗吾霊堂にほど近い、この物語の故地である佐倉に、長く住んでいたのだが、残念ながら、まだ、行ったことはない。
   しかし、佐倉は、江戸時代には江戸の東を守る要衝の地であり、徳川一族・譜代大名が入封する重要な藩であって、
   幕末の藩主で老中でもあった堀田正睦が、蘭学をはじめ学問を奨励し、順天堂を開き、また、ペリー来航以降、外国事務取扱の老中として、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走するなど、幕末の日本開国時代の立役者の一人であり、津田塾大の津田梅子の出生地だとかで、非常に文明開化した素晴らしい藩であったと言う印象を持っていたので、藩主の悪政に百姓一揆的な戦いを挑んだ佐倉惣五郎が、将軍に直訴までして、義民として祀り上げられたと言う物語に大いに興味を感じた。  
   

   歴博の資料によると、
   佐倉藩と"惣五郎一揆"については、証明しうる史料はない。彼が行ったとされる将軍直訴の年代も、いくつかの説がある。ただ公津台方(こうづだいかた)村に惣五郎という百姓がいたことは、地押(じおし)帳、名寄(なよせ)帳の記載から確かである。この惣五郎が藩と公事(くじ:訴訟)して破れ、恨みを残して処刑されたこと、その惣五郎の霊が祟りを起こし、堀田氏を滅ぼしたことがあり、人々は彼の霊を鎮めるために将門山(まさかどやま)に祀ったという話が、公津村を中心に佐倉領内の人々に伝えられており、
   宝暦二(1752)年は惣五郎の百周忌にあたる延享三(1746)年、山形から入封した堀田正亮(正信の弟正俊の家系)は、惣五郎を顕彰するために口の明神を遷宮し、涼風道閑居士と謚した。
藩が認めた惣五郎の話は、十八世紀後半に一挙に体裁を整えた。
『地蔵堂通夜物語』・『堀田騒動記』という惣五郎物語が完成した。
この物語は、苛政→門訴(もんそ)→老中駕籠(かご)訴→将軍直訴→処刑→怨霊という筋を持ち、化政期から幕末にかけて盛んに筆写された。
   明治30年代ごろから、「佐倉義民伝」として定着し、見せ場は宗吾と叔父光然の祟りと、歌舞伎で挿入された甚兵衛渡し・子別れという宗吾の苦悩、甚兵衛の義心である。嘉永のヒットの要因は祟りの場であったが、明治以降次第に減少し、甚兵衛渡しと子別れが物語の中心となる。
   と言うことだが、歌舞伎では、印旛沼渡し小屋、木内宗吾内と裏手、東叡山直訴の場となっており、クライマックスは、最終場面の直訴の場であろうが、芝居として感動的なのは、厳しい囲いを搔い潜ってやっと自宅に辿り着いた宗吾が、親子対面の名残も尽きぬまま、間を置かずに泣き縋る妻子を振り切って江戸へ旅立つ「子別れ」の場であろう。

   ウィキペディアによると、惣五郎は、上野寛永寺に参詣した四代将軍の徳川家綱に直訴したということで、この直訴の結果、訴えは聞き届けられ、佐倉藩の領民は救われたのだが、、惣五郎夫妻は磔となり、男子4人も死罪となった。成田市の東勝寺(宗吾霊堂)の縁起では、澄祐和尚が公津ケ原の刑場に遺骸を埋葬し、その地が寺地内にある現在の「宗吾様御廟」だと言うことであり、宗吾霊場の由縁である。
   この歌舞伎で、実に健気で優しい子役が3人、子別れの悲哀を演じて観客を釘づけにしていたが、徳川幕府は、そのいたいけない子供たちを死罪にしたと言うのだから、赤穂浪士の切腹と同様に、どこかタガがは外れていたと言うことであろうか。

   この歌舞伎だが、最終幕の松平伊豆守(高麗蔵)が、大音声で、将軍徳川家綱(勘九郎)に向かって全文を読み上げて、許し難いと言いながら、直訴状の中身だけ抜いて懐に収めて、封書だけを投げ捨てるシーンなど、感動的で、風格と気品を湛えた勘九郎の将軍もそうだが、先の大江山酒呑童子で濯ぎ女若狭を演じた両刀遣いの高麗蔵の重臣姿も絵になって素晴らしい。
   それを見上げて、一部始終を実感して、万感胸に迫る感動を噛みしめる白鸚の横顔は、実に清々しくて美しい。

   冒頭の印旛沼渡し守甚兵衛は、前には段四郎が実に人情味豊かな老船頭を演じて感動的であったが、当代では、この甚兵衛は、歌六以外には、演じきれる筈がないと思っていたので、この白鸚の宗吾との邂逅シーンは、秀逸であった。
   勿論、ヤクザな幻の長吉を演じた彌十郎の性格俳優ぶりの凄みも舞台のツマ、面白い。

   勘三郎の七回忌追善興行でもあったのだが、昼の部では、
   三人吉三巴白浪で、七之助がお嬢吉三、大江山酒呑童子で、勘九郎が酒呑童子、佐倉義民伝で、勘九郎が徳川家綱、七之助がおさんを演じて、素晴らしい舞台を見せており、まだ、20年以上の活躍を棒に振って逝った勘三郎の早世が、悔やまれて仕方がない。
   
   
   
   
  
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Trend Micro Anti- malware Solution Platform問題の解決

2018年10月23日 | 
   先日書いたが、パソコンの動きが鈍くなって、起動が思うようにならなくなったので、マイクロソフトの年間サポートに電話して修復を依頼したら、Trend Micro Anti- malware Solution Platform が障害となっていると言うことであった。
   Trend Micro のウィルスバスターを削除すれば解決すると言うことで、削除しようとしたのだが、クイックスキャン中で、その作業が止まらなかったので、出来なかった。
   その後、自身でメイン画面を開いて、スキャンをクリックすると、正常に保護の表示に変わったので、edgeやOutlookをクリックしたら、正常に起動したので安心した。
   ところが、翌日朝になって、パソコンを起動しようと思って、壁紙まで開けたが、スタートボタンは勿論、edgeやOutlookをクリックしても、ウンともスンとも言わず、前に進まなくなった。
   スキャンでウィルスバスターが正常に起動していても、障害のTrend Micro Anti- malware Solution Platform の問題は手付かずのままだったので、何の解決にもなっていなかったのである。
  
   老年でITデバイドをどうにか克服してパソコンを使っている私には、セキュリティソフト頼りなので、今度は、当の問題だと言うTrend Microに、対策を考えてもらおうと考えて、電話することにした。
   Trend Microでは、Trend Micro Anti- malware Solution Platform が障害となっていると言うのなら、ウィルスバスターをアンインストールして、その結果を見ようと言うことになった。

   ところが、元々、パソコンが開けなかったり、作業途中にストップするなど暗礁に乗り上げて、正常な解決手段が頓挫したりダウンしてしまって、アンインストール作業が前に進まない。
   何回も、動きの鈍いパソコンを再起動したり、修復を試みたり、最後には、セィフティ・モードで起動しようと試みてみるのだが、成功せずに、埒が明かない。
   結局、もう一度、マイクロソフトにコンタクトして、セィフティ・モードで起動して、再挑戦しようと言うことで、パソコンを切ろうとしたら、急にパソコンが動き出して、「隠れているインディケーター」画面のウィルスバスターの消去の成功が表示された。
   急に、パソコンが、どうにか起動し始めたので、正式な手順を追って、ウィルスバスターをアンインストールしたら、今回は、問題なく順調に作業は終了した。

    多少起動時に、officeの作業や起動速度に問題があったので、マイクロソフトに修復をお願いしようと思ったのだが、少し、パソコンを使っている間に、全く問題なく作動し始めて、修復されたのが分かったので止めた。

   後は、ウィルスバスターの再インストール。
   再び、Trend Micro に電話して、インストール方法を指示されながら、パソコンを叩いて、インストールしたら、障害となっていたAnti- malware Solution Platformが、新しいソフトに変わったのであろうか、この問題は解決した。
   会社に居た時には、何でもかんでも、パソコンに問題が起きると、スタッフに電話指示して対応していたのだが、一人になると、老骨に鞭打って、自分ですべてやらなければならない。
   ただ、子離れが少しだけ早かったので、ITデバイドから免れたと言うことで、それはそれなりに幸せだったと言うことかも知れないと思っている。
   
   今回のアンインストールの件については、非常に優しい辛抱強い若い女性スタッフが、丁寧な言葉遣いを最後まで崩さずに、2時間以上も対応してくれた。
   再インストールの時のスタッフもそうだし、マイクロソフトのスタッフも、よく理解できない老人相手に、本当に優しく親切に対応してくれるので、随分助かっており、今までに、修復スタッフを自宅に呼んで助けてもらったことなど一度もなく、人並みにパソコンを叩けているのは、この有難いサポートのお陰だと感謝している。

   子供が、教えてもいないのに、ICT機器を器用に操作するように、私も、多少の事なら、パソコンに慣れた所為か、自分自身で、修正を試みたり適応したり、どうにか、使いこなせるようになったと言うことで、喜んでいる。
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わが庭・・・ホトトギス咲く

2018年10月21日 | わが庭の歳時記
   一気に寒くなった感じだが、関西と比べて、関東の秋の深まりは非常に速い。
   今年は、台風による風害と太平洋からの塩害で、秋の花は台無しで、紅葉間近なのに、モミジの葉や、銀杏の葉は、枯れて散り落ちて、落葉樹の葉の美しい紅葉も、今年は期待できそうにない。
   わが庭のばらや酔芙蓉やムクゲは、とうとう、真面に咲かなかった。


   小菊は、まだ、顔を出さないが、ホトトギスが枝を長く伸ばして、綺麗な花を咲かせ始めた。
   つんと飛び出した蕊の先に、小さな水滴のような透明の粒をならべて、鈍く光っている。
   
   
   


   写真で表現するのは難しいのだが、三脚を使わないので、ピントがどうしても甘くなる。
   
   
   
   一本だけ、なぜか、庭に、小さなアザミが咲いている。
   スコットランドの国花なので、ニューキャッスルから車で国境越えした時に、路傍に、素晴らしいアザミの花が咲いていたのを思い出した。
   ロールスロイスやエンサイクロペディア・ブリタニカに輝いているのが、このアザミである。
   

   ツワブキも、一輪だけだが咲き出した。
   斑入りツワブキを千葉から移植して、庭に散らばっているので、これから、華やかに咲く筈である。
   花の名前は分からないのだが、玄関口の花壇に、多肉系の小花が咲いていて、微笑ましい。
   
   
   

   私の庭は、花木が主なので、草花が殆ど植わっていないので、秋は、寂しい。
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Innovationではなくて、Innovator

2018年10月20日 | イノベーションと経営
   有楽町駅前の三省堂に行ったら、「クリステンセン関連書」と言うテロップの書棚があった。
   イノベーション関連の本が、並んでいたが、いつも気になるのは、クリステンセンの学術書、
   The Innovator's Dilemma
   The Innovator's Solution
   Innovator's DNA
   原タイトルでは、上記のように、イノベーターであるのに、翻訳書では、
   イノベーションのジレンマ、イノベーションへの解、イノベーションのDNA
   となって、イノベーターが、イノベーションに変わってしまっている。ことである。
   本の中身は、すべて、イノベーターのジレンマであり、イノベーターの解であり、イノベーターのDNAであって、イノベーションではない。
   
   この点については、随分以前から、このブログでも書き続けているのだが、どうでも良いことではなく、イノベーションとイノベーターでは根本的に違う、読みかえればよいと言う次元の話とは違う。
   例えば、最初のイノベーターのジレンマでは、ジレンマに遭遇して経営危機に直面するのは、イノベーターであって、イノベーションでは決してない。
   イノベーションを起こして革新的な経営に成功したブルーオーシャン経営を志向した経営が、その成功ゆえに、ローエンドから破壊的イノベーションによって台頭してきた新規イノベーターに先を越される、イノベーター、すなわち、経営者が、そのようなジレンマに直面すると言うことである。
   経営学の初歩だと思うのだが、本のタイトルは命であり、むしろ、原題通りのカタカナ表記の方がマシな場合がある。
   昔から、翻訳本、特に、専門的な経済学書や経営学書では、結構誤訳が多いのだが、本当は、日本の翻訳者も、その原本の本国で、その専門領域を勉強してきた、両方の言語とその専門領域を理解できている人が望ましいと思っている。
  
   最近出た本で、
   伊神 満氏の新しい本は、「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明 となっており、
   ハーバード・ビジネス・レビューも、5つの「発見力」を開発する法 イノベーターのDNA DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー論文 となっていて、イノベーターと言うタイトルを使用しており、イノベーター何々、というタイトルの本が多くなってきている。
  
   蛇足だが、
   タイトル誤りの酷い例の一つは、日経出版の
   リチャード・S・テドロー著「なぜリーダーは「失敗」を認められないのか」で、
   この本の原題は、Denial: Why Business Leaders Fail to Look Facts in the Face---and What to Do About It で、否認:何故ビジネス・リーダーは、眼前の現実を見誤るのか、そして、それに対処する方法、と言うことであって、翻訳本のタイトルは、原題とは勿論、著者の意図とも中身とも違っていて、あのヘンリー・フォードでさえ、「眼前に展開していた経営環境の変化を直視せずに否認して経営を誤った」と言うことであって、失敗を認められないと言った次元のストーリーではないのである。
   リチャード・S・テドローは、「アンディ・グローブ 上下―修羅場がつくった経営の巨人」というタイトルの素晴らしい本を著した経済史・経営史のハーバードの教授であり、凄い本であることを付記して置く。
   
   タイトルが問題なのかは分からないが、トーマス・フリードマンのベストセラーだろうと思っていた
   「遅刻してくれて、ありがとう(上下) 常識が通じない時代の生き方」と言う立派な本が、三省堂では、売れないのであろうか、まだ、第1版が売られていた。
   これは、原タイトルに近いのだが、安直な本と取られてたのであろうか。
   翻訳本のタイトルの設定は、非常に難しいとは思うのだが、出版社も、それなりの敬意と注意を払って欲しいと思っている。
     
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Trend Micro Anti- malware Solution Platformが災いか

2018年10月18日 | 
   この数日、このWindows10を利用中に、だんだん、パソコンの動作が重くなって、画面をクリックしても、動かなくなり、応答を待っていますと表示が出て、webの回復をクリックしても、二進も三進も行かなくなって、パソコンの電源を切る以外に仕方がなくなってしまった。

   結論から言うと、マイクロソフト年間サポートに電話して、対応を頼むと、セキュリティ対応ソフトは、ウイルスバスターかと聞かれたので、そうだと答えると、Trend Micro Anti- malware Solution Platformがその原因になっている可能性があると言って調べてみるとやはりそうであった。消去させて欲しいと言って消去を試みたが、アップデート中と言う表示が出て消えなくて、埒が明かない。
   確かに、パソコンの動きが遅くなり始めてから、ずっとこの表示が出ていたような気がしてきたのだが、インターネットの記事を見ると、これが、大分以前から問題になっていたようである。

   その他いろいろ、修復を試みてもらって、少しは、インターネットが使用できるようになったので、
   何故、アップデートがそんなに時間がかかるのか、
   Trend Micro Anti- malware Solution Platformがどうなっているのか
トレンドマイクロに電話して、聞くことにして、アップデートを完了してから、再指示をあおぐことにした。

   ウィルスバスター月額版の窓をクリックして、メイン画面を表示して、現状を確かめることにした。
   アップデートの表示があったので、クリックすると、長い間表示されていたアップデート中の表示が一気に消えて、「システムは保護されています、最新の保護機能が適用されています」と言う表示に変わった。

   トレンドマイクロに電話して、これで問題が解決したのかと尋ねたら大丈夫だと言う。
   細かいことは聞かずに、そのまま、電話を切ったのだが、インターネットが以前のように作動し始めたので、マイクロソフトの指示であったウィルスバスターを切らずに、そのまま、使っているが、このブログも書けているので、問題が解決したのであろう。
   私のようなITディバイドにとっては、セキュリティソフトが、頼りで、これなしでは不安なのである。

   今朝、パソコンを開いた時には、壁紙を表示できたとしても、スタートボタンや、edgeやOutlookさえも、クリックしても反応しないと言う最悪の事態が続いていて、電源も電源ボタンを押して切ると言う状態まで行ったのだが、嘘のような解決ぶりである。
   しかし、安心していたセキュリティソフトのウィルスバスターが、パソコンを作動しなくなった元凶だと思うと、一寸、不安になってきた。
   
   最初に、この場合、機械の保証期間のギリギリであった富士通に電話したら、テクニカルの修復をするために、1年の保証期間を過ぎているので、これからは料金がかかると言う。
   それは良しとしても、故障を通知して、保証が可能かと聞いているのに、チェックするのに、料金と言うのも解せなかったので、それなら、料金を払っている年間サポートのマイクロソフトに頼んで、ハードの問題かソフトの問題か判断してもらって、それから、通知すると言って電話を切った。

   勿論、マイクロソフトのサポートが、すべての問題を解決してくれるわけでもなく、ぷららや富士通など、インターネットの記事などの助力を得て、これまで、どうにか、パソコンを使ってきている。
   マイクロソフトの場合には、私自身のパソコンに乗り移って、修復やサポートをしてくれるので、プロの技術者が、自宅に来て、直に、自分のパソコンをチェック・修復してくれるのと全く同じことなので、非常に重宝している。

   私の年代では、パソコンを使えない人が結構いるのだけれど、私など、パソコンがなければ生活の一部が欠落したように思っている人間にとっては、やはり、パソコンが正常に機能してくれなくては困るのである。
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大船フラワーセンター・・・ばら:台風の塩害で壊滅的?

2018年10月17日 | 鎌倉・湘南日記
   わが庭のばらが、何故か、殆ど綺麗に咲かないので、気になったので、大船フラワーセンターに出かけたら、本来なら、秋ばらの一番美しいシーズンである筈なのに、ここも、殆ど咲いていなかった。
   今年は、直撃ではなかったが、3回も大きな台風が北を通過したために、この鎌倉でも、太平洋から強烈な風が吹き荒れて、塩害を齎して、花木に壊滅的な打撃を与えたのである。
   わが庭でも、モミジは殆ど葉が落ちたり枯れたりしているので、今年は、鎌倉の秋景色も様変わりになるかも知れない。
  
   バラ園のばらも、ちらほら咲いていても、非常に貧弱で、辛うじてシャッターが切れたのが、プリンセス・チチブとつるばらのプリンセス・ミチコの1輪のみ
   ほか、2~3輪がやっとで、トンボも止むを得ず、切り枝に止まっていた。
   
   
   
   
   

   コスモスも花壇に揺れていて、キキョウなどの秋の花も、
   面白いと思ったのは、キイホトトギス、ユリ科の花だと言うのだが、房状に咲いている。
   
   
   
   
   
   

   面白いのは、芝庭に、沢山のお化け南瓜が転がっていて、子供たちが遊んでいた。
   それに、このフラワーセンターでは、ハロウィーンの飾りつけが、あっちこっちにディスプレィされていて面白い。
   今年は、北海道が地震や台風の影響で、ジャックオーランタン用の黄色いパンプキンが入らないと、近くの花屋さんが言っているので、孫たちは残念がっている。
   
   
   
   
   暑くて開放されていた温室に、暖房が入り始めて、少し暑い感じである。
   睡蓮が美しい。
   バナナ、ハイビスカス、温室には、いつも花が咲いている。
   
   
   
   
   
   
   
   
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国立演芸場・・・志らく「寝床」市場「らくだ」ほか

2018年10月16日 | 落語・講談等演芸
   今回の 第422回 国立名人会 は次の通り。

落語「明烏」 春風亭柳朝
落語「位牌屋」 柳家一琴
落語「寝床」 立川志らく
―仲入り―
講談「赤垣源蔵 徳利の別れ」 宝井琴調
曲芸 鏡味仙三郎社中
落語「らくだ」 柳亭市馬

   落語は、冒頭のまくらが面白いのだが、市場は、まくらなしに、直接「らくだ」を語り始めた。
   志らくもまくらを端折ったが、「寝床」は、下手な義太夫を聴かされる地獄の話だと言って、落語も同じで下手な落語も、これも地獄で、笑点でも、酷いのが居て、名前は言わないがと言って、三平の名前を上げて笑いを誘っていた。

   志らくの語り口は、時々、談志を彷彿とさせる。
   テレビや映画でも活躍している志らくの高座は、やはり、パンチが利いていてリズミカルで面白く、大家と番頭のやり取り、長屋の連中の右往左往、非常にビビッドで楽しませてくれた。
   私は、談志の高座を聴いたことはないが、WOWOWの特集やYouTubeなどで、随分聴いているので、頭にこびりついており、この談志のYouTubeの「寝床」も、癖のある語り口が多少気にはなるが、表情豊かで面白い。

   江戸時代には、義太夫は、一般人の教養と言うか高級な趣味であったのであろう。
   このように大店の旦那の義太夫好きが高じて、丁稚までが、出前途中に、次のような名セリフを口ずさんでいたと言うのであるから、面白い。
   「壷坂霊験記」のお里の”三つ違いの兄さんといって暮らしているうちに、・・・”
   「艶容女舞衣」のお園の”いまごろは半七さん、どこにどうしてござろうぞ、・・・”

   市場の高座には、結構出かけているのだが、今回の「らくだ」のように、本格的な落語を、みっちりと丁寧に語るのを聴いたのは、初めてである。
   この噺は、馬鹿馬鹿しいながら、あり得る話でもあり、夫々の人間模様が面白くて、やはり、落語協会の会長だけあって、聴かせて楽しませてくれた。

   札付きの乱暴者のらくだが、フグに当たって死んだと言うので、ほとほと困り抜いて手を焼いていた長屋の連中は大喜び。兄貴分の熊五郎が、兄弟分の葬儀を出してやりたいと思ったのだが、金がない。   
   上手い具合に屑屋がやってきたので、この屑屋を脅して、月番の所に行かせて、長屋から香典を集めさせ、大家から、酒と料理を出させ、八百屋から棺桶代わりに漬物樽を調達させようとするのだが、
   大家が断わったので、兄貴分は屑屋にらくだの死骸を担がせ、大家の家に乗り込んで行き、屑屋に「かんかんのう、きゅうれんすー」と歌わせて、死骸を文楽人形のように動かして踊らせたので、大家は恐怖に慄いて依頼に従い、八百屋もその話を聞いて即座に言うことを聞く。
   ところが、ここで噺が終わるのではなくて、兄貴分が、穢れ落としに屑屋に酒を強要するので、断り切れず飲み始めた屑屋が、酒乱と化して、主客逆転。 
   酔っぱらった二人は、剃刀を借りてきてらくだを坊主にして、漬物樽に放り込んで荒縄で十文字に結わえて、天秤棒を差し込んで二人で担ぎ、屑屋の知り合いがいる落合の火葬場で内緒に焼こうと運び込むのだが、途中で、樽の底が抜けて仏を落としてしまう。
   仕方なく死骸を探しに戻ると、途中で、願人坊主が寝ていたのを、酔った二人は死骸と勘違いして樽に押し込んで焼き場へ持って行き火を点ける。
   熱さで堪え切れなくなった願人坊主が 「ここは何処だ」 「焼き場だ、日本一の火屋(ひや)だ」 「うへー、冷酒(ひや)でもいいから、もう一杯くれ」
   
   オチが、辻褄があっているのかどうか分からないのだが、二つのサブストーリーが入り組んでいるので、江戸に移ってから、後半の葬礼(ソウレン)に工夫が加わって、バリエーションが出来ているようである。

   「明烏」だけは聞いたことがなかったので面白かった。柳朝も名調子で上手い。
   日向屋の若旦那である時次郎は、難しい本ばかり読んでいる堅物で、困った父親が、札付きの遊び人の源兵衛と多助に、時次郎を吉原に連れて行くよう頼み込んで、「お稲荷様のお篭り」と騙して誘いだす。吉原では、二人は女に振られて散々だが、時次郎だけは、しっぽりと楽しんで朝を迎える。朝迎えに行った二人に、前夜遊郭だと知って慌てて帰ろうとした時次郎が、大門には見張りがいて、勝手に出ようとすると袋叩きにされると脅されたのを、逆手に取って、花魁に足を絡ませられて蒲団の中から出て来れず、「帰ろう」と言う源兵衛と多助に、「勝手に帰りなさい、大門で袋叩きにされるよ」。

   
   
   
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TVのパ―フォーマンス・アーツをDVDに

2018年10月15日 | 生活随想・趣味
   オペラや歌舞伎、能狂言などの鑑賞を趣味にしているのだが、当然、昔から、その方面の舞台の録音録画には興味を持って、コレクションしている。

   家庭用の大きな録音機がソニーから出た時からFM録音を始めて、それからであるから、もう半世紀以上になり、録画もソニーのベターマックスを真っ先に買って始めたのであるから、これも随分になる。
   オランダやイギリスに移ってからも、現地のTVから録画していたので、膨大な量になる。
   しかし、外国も含めて宿替えの連続なので、適当に処分しており、ソニーのベータ―も消え、ビデオも完全にDVDに変わってしまったので、5年前に千葉から鎌倉へ移転した時に、市のごみ収集に出して、すべて処分してしまった。
   とりためたDVDでさえ、量が多くて半分くらい処分したので、特に、惜しいとも思はなかったのが、不思議である。

   ところが、それには懲りずに、今でも、せっせとテレビから、オペラやクラシックコンサート、歌舞伎文楽、能狂言は勿論のこと、芸術家や美術等々芸術関連の番組など、文化文明歴史に関する興味深い番組を録画し続けている。
   勉強してきた経済や経営に関する番組や時事問題などは、興味に応じて録画しても、すぐ見ることにして、消去している。
   いずれにしろ、テレビは、ニュース以外は、前述関連の番組くらいしか見ないので、NHKのBSやWOWOWが主体となり、NHKステラとWOWOWの番組本のチェックが欠かせない。

   さて、口絵写真は、今回DVDにしたアンナ・ネトレプコのオペラ公演の録画で、2017年のMETのエフゲニー・オネーギンをWOWOWから、2018年のザルツブルグのアイーダをNHK BSから録画したものである。
   ハイビジョンのブルーレイ録画で、3倍ないし5倍なので、クオリティはかなり高く、満足している。
   市販のブルーレイDVDとは、テレビ放映なので、余分な機能が付いていない分が劣るだけで、副音声も録音されており、画像音声には全く遜色なく、殆ど問題はない。

   
   ブルーレイ対応のDVDレコーダーに録画した映像を、ブルーレイのDVDに、取り込んで、
   テレビの画像をカメラに取り、キヤノン・プリンターのMy Image Gardenを使って、そのDVDに印刷すれば、簡単に、手作りのDVDが出来るので、造作もない。
   使用した画像は、次の写真で、タイトルを書き加えただけである。
   
   
   
   
     
   東京への観劇行脚も、ぼつぼつ、億劫になってきたので、自宅の庭の花々を愛でながら、読書三昧の合間に、取り貯めたオペラや美術紀行などを楽しむ時間を増やそうと思い始めている。
   
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都響定期C・・・大野和士:ジャン・フルネ没後10年記念

2018年10月13日 | クラシック音楽・オペラ
   今回の「第862回 定期演奏会Cシリーズ」の公演は、【ジャン・フルネ没後10年記念】
   指揮は、大野和士で、演奏前に、大野和士によるプレトークがあり、芸大時代からのジャン・フルネの指揮の思い出などを語っていた。
   フルネの公演を聴いたかどうかの記憶はないが、一番最初に聴いたフランス人指揮者は、シャルル・ミュンシュで、確か、フランス国立放送管弦楽団、一番多く公演会に行ったのは、ピエール・ブーレーズだと思う。
   やはり、独墺系やオペラのイタリア系を好んで聴いてきたので、粋と言うか色彩豊かで美しい感じのフランス音楽を聴く機会は少なかったが、バーンスタインとニューヨーク・フィルハーモニックのベルリオーズの「幻想交響曲」の素晴らしい演奏と、ワルツのシーンで踊るように指揮していた姿を強烈に覚えている。
   いずれにしろ、欧米で随分フランス音楽を、アラカルトで聴いてはいるが、今回のように全曲フランス曲だと言うと、何となく、魅力が倍増する。

   プログラムは、次の通り。
ベルリオーズ:序曲《ローマの謝肉祭》op.9
ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調(ピアノ/リーズ・ドゥ・ラ・サール )
ドビュッシー:管弦楽のための《映像》より「イベリア」 【ドビュッシー没後100年記念】
ラヴェル:バレエ音楽《ダフニスとクロエ》第2組曲
   ソリストのアンコールは、ドビュッシー前奏曲集第1巻より「パックの踊り」

   ピアノのリーズ・ドゥ・ラ・サール は、あの港町シェルブール生まれだと言う。カトリーヌ・ドヌーヴの映画にも登場するが、モンサンミッシェルへのドライブ途中に立ち寄った時のことを思い出した。
   ピアノ協奏曲第2楽章の冒頭、「ピアノが左手で伴奏を鳴らしながら、淡く甘美な名旋律を歌い紡ぐ」美しさ、うっとりとして聴いていたが、
   それよりも、私の席は、1階前列正面の左寄りなので、リーズ・ドゥ・ラ・サールの顔が、ピアノ越しに真正面から見えるので、あたかも、美しい劇中の役者のパーフォーマンスを鑑賞しているようで、実に素晴らしく感激した。
   鍵盤の動きは、ピアノの裏蓋に投影されているし、ペダルから外れた左足の金色のハイヒールがリズムを取って踊っている様子など、サウンドと調和して素晴らしい。

   能面のように美しい内田光子の演奏中の表情も印象的だが、指揮者やソリストのパーフォーマンスアーツも、演奏会鑑賞の楽しみなのである。

   大野和士が都響音楽監督就任の際にフルネ夫人ミリアムさんから譲り受けたマエストロ・フルネ愛用のスコアの数々が、会場のホワイエで展示されていた。
   
   
   
   
   
   大野和士は、オペラで卓越したキャリアを積んでおり、粋で色彩豊かな美しいフランス曲は得意なのであろうし、それに、リヨンやブラッセルなどフランス圏で活躍してきたので、正に、今回の【ジャン・フルネ没後10年記念】演奏会は、満を持してのパーフォーマンスであったのであろう。
   素晴らしい至福の2時間であった。
コメント
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