熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

朝日新聞GLOBE:自由貿易は民主主義を滅ぼす エマニュエル・トッドが訴える保護貿易

2019年07月31日 | 政治・経済・社会
    先日、ブックレビューで、「エマニュエル・トッド 著「自由貿易は、民主主義を滅ぼす 」」 を書いて、トッドの主張は、折角、人類の多くを、貧困からの脱却に貢献したグローバリゼーションと現在の歴史の潮流にに逆行する「先進国・ファースト」の独善的な見解だと批判した。
   今日、インターネットを叩いていたら、10年後の今も、朝日新聞GLOBEで、同じ見解を述べている「自由貿易は民主主義を滅ぼす エマニュエル・トッドが訴える保護貿易」と言うインタビュー記事を見つけたので、もう一度、考えてみたいと思った。

   冒頭、米中貿易摩擦について聞かれて、
   米国で、グローバリゼーションが進みすぎて、死亡率が増加し、平均余命が低下しており、行き過ぎた自由貿易を止め、何らかの保護、保護主義を必要としている。
   もう一つは、より政治的で、グローバルな覇権をめぐるもので、中国が新たな覇権を獲得する手遅れになる前に、少しずつ中国の力を壊そうとしている。と二つの仮説を説く。
   WTOについては、失敗ではなく、自由貿易には利点があるが、問題は、完全な自由貿易は国内で格差を拡大させることで、エリート主義、ポピュリズムによる衝突も引き起こし、「(自由貿易を擁護する)高名な経済学者たちは失敗を犯したとして、
   トランプは、真実を語って、自由貿易にうんざりして米国民をつかみ、サンダースも保護主義を訴え、米国がより保護主義の態度へと変わったことが見てとれる。と述べている。
   
   世界各地で起きている格差の拡大が自由貿易と関係がある、景気後退、生活水準の低下、それに上流階級とそれ以外の層の社会的な対立が、各国で見られるように、過度な自由貿易は社会を分断する。なぜ、疑いの余地のないこのシンプルな現実を伝統的な経済学者は理解できないのか。と言うのだが、
   これは、一面的な自由貿易論で、一例をあげても、大恐慌後に、世界各国が保護貿易政策を取って世界経済がブロック化して縮小し、悲惨な第二次世界大戦に突入した歴史的事実を無視している。
   
   問題は、トッドの保護主義とは何かの認識なのだが、
   自由貿易は一種の宗教だが、保護主義というのは、自由貿易のようなイデオロギーではなく、国家がとる手段で、労働市場も違うものになり、労働者の賃金は上昇する。保護主義によって輸入品の価格が上がるというのは古い考えで、保護主義がつくりだすのは社会的な革命で、本当のゴールは、社会の中の力のバランスを変えることなので、格差を解消し、エンジニアや科学者、モノをうみだす人にアドバンテージがあるような社会へと移行させ、何かを創造することである。と言う。
   プラトンの哲人政治ならいざ知らず、経済を国家管理下に置けば、上手く行くと言った幻想は、既に、ソ連の崩壊で、社会主義的計画経済がうまく機能しなかったことは歴史が証明しており、中国の国家資本主義も岐路に立っているのみならず、人間にとって最も重要な個人的人権を無視するなど基本的な民主主義に逆行している。

   ある程度の自由貿易なら問題ないが、あるポイントに達すると、経済的な格差が広がり過ぎて、民主主義と自由貿易を両立できなくなる。自由貿易をある程度やめて民主主義を救うか選択を迫られる。民主主義の根底には、いくつかの平等が求められ、市民権、法の下の平等、投票権、そして、そこには経済的な要素も絡んでおり、政治的民主主義が、経済的な格差の拡大を野放しにしたままでは成立しない。  
   我々は、すでにその段階に到達してしまっており、ここでの問いは、完全な自由貿易を手放すか、民主主義を手放すかなのである。と言う。
   電信柱が長いのも、ポストが赤いのも、すべて、自由貿易が悪いのです、と言う単純な論法だが、自由貿易とは一体何なのかと言う基本概念に立ち戻る必要があろう。


   興味深いのは、トランプのネガティブな部分を抜けば、保護主義的な政策は、民主主義を取り戻すための理にかなった方法であり、米国は今、普通の民主主義に戻ろうとしている。として、トランプを認めていることで、
   欧州連合(EU)は、中国と一緒になって、これまで以上に自由貿易を推し進め、擁護を叫んでいるので、フランスでは、保護貿易にはほど遠い。と言って、自由貿易から脱却できそうにないフランスの運命を予見しているかのような見解である。

   理解できないのは、保護主義とはナショナリズムとは関係ないと言う見解で、
   自由貿易がナショナリズムを生み出す。保護主義は現時点では民主的だが、ナショナリズムは違う。保護主義は純粋に経済的なものだが、ナショナリズムは『力』であり、ナショナリズムの深層には、自らが世界の中心であるという考え方がある。自由貿易が平和をもたらす、というのが事実でないのと同様に、保護主義が国家間で戦争を引き起こすというのは間違いだ。と言う。

   もう一つ理解できないのは、保護貿易主義の行きつく先で、
   米国だけでなく、欧州も保護主義政策をとったら、中国は対応しないければならなくなる。外需のインセンティブはなくなるわけで、おそらく経済は、内需主導に切り替わっていくであろう。(内需拡大政策を有効に実行できない)中国がいつか、トランプ氏に感謝する日がくるかもしれない。と言っているのだが、別なところで、
   国際的な自由貿易はGDP(国内総生産)を上げるかもしれないが、社会の中で格差を広げる、・・・と述べているので、世界全体が保護貿易に走れば、世界経済が縮小することは認めているのであろうか。

   いずれにしろ、トッドの「自由貿易は民主主義を滅ぼす エマニュエル・トッドが訴える保護貿易」論は、「先進国・ファースト」の見解であって、特に新興国をターゲットにして、自由な貿易や資本移動を抑制遮断して、自分たちの経済を再構築するために保護貿易主義を実施すると言う、宇宙船地球号の乗組員全体の生活水準を底上げしようとするグローバルなエポックメーキングな歴史の潮流に逆行する動きだと思っているので、再度、問題提起をしておきたいと思ったのである。
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エマニュエル・トッド 著「自由貿易は、民主主義を滅ぼす 」

2019年07月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   まず興味深いのは、自由貿易は、現代社会を台無しにし、民主主義を危機に陥れようとしているので、一時的保護主義政策をとるべきだと、貿易に対して、一般論と違って、トランプ張りの主張を展開していることである。
   果たして、トッドが説くように、人類は、「自由貿易か、民主主義か」、その選択の岐路に立っているのであろうか。

   勿論、トッドは、自由貿易が悪くて、保護貿易が良いと単純に言っているのではない。
   トッドの主張は、ほぼ、つぎのとおりである。

   大切なことは、世界の需要をどう作り出すかと言うことであって、第二次世界大戦後の自由貿易は、輸出によって、新たな需要が生み出され、生産が増えて賃金が上昇し、需要を創出する好循環が続いていた。
   しかし、現在は、賃金の低い新興国の台頭によって、安価な生産コストで生産する新興国の貿易によって、現代の状況下では、世界の労働者の賃金は、単なるコストとと看做されて、企業はコストが低い新興国へ生産拠点を移して、賃金は下がり、世界中の需要は縮小し、負の連鎖が起こっている。
   この世界の需要不足を補うために調整役を担ってきたのが米国で、大量の国債を発行て過剰消費経済を維持し、その借金を日本や中国が支え、世界各国が、この枠組みを維持してきたが、リーマン・ショックによって、その歪みが露呈して、世界経済が危機に直面した。
   このまま、弱肉強食の自由貿易を続けて行くのではなく、歴史の一場面において、一時的に、特定の保護主義に切り替えて、世界の需要の下落を食い止めて、その結果、世界の需要がある程度の水準まで回復したら、自由貿易に戻せばよい。

   トッドはフランス人なので、フランス経済を考えればよいのだが、確かに、中国など新興国からの安価な輸出品の輸入で、国産品が売れなくなり、更に、国際競争力を維持するために、多くのフランス企業が賃金の低い東欧など海外へ生産拠点を移しており、トッドの言うように、フランス人の失業率は高く賃金は上がらず、需要も停滞していて、経済は苦境下にある。
   当面、保護貿易政策を実施して、新興国の貿易圧力を遮断して、国内産業を守り、国内で経済循環を完結して雇用と需要を維持して、経済を活性化すべし、と言う考え方である。
   もっと簡単に言えば、中国などの給与の低い国からの製品輸入を関税で制限すれば、フランス人の労働者の給与は再び上昇し、結果的に世界的な需要の喚起になり、経済活動の再浮揚に繋がると言うことであろう。

   私見を述べる前に、もう一つのトッドの主張「自由貿易は、民主主義を滅ぼす」と言う論点である。
   グローバリゼーション下の自由貿易は、弱肉強食の経済戦争であって、万人の賃金に圧力がかかって、あらゆる先進国に、格差拡大と生活水準の低下が起こった。
   古典的・伝統的な自由主義は、ある程度国家の規制の下に成り立つ主義で許容できるもので、必要な自由主義とは個人だけでなく、地方自治体や国家など個人を超えたものも大切にしていた。
   しかし、現在の自由主義は、「ウルトラ・リベラリズム」で、個人が一番で、国家は存在しない。
   今や、支配者階級は、自由貿易以外の体制を検討することを拒んでいて、不平等が広がるにつれて、多くの人々の生活水準はどんどん下がっていて、もし、このまま、支配者階級が、生活水準の低下を促し続けるなら、民主主義は、政治的にも経済的にも生き残れない、独裁国家になるのは避けられない。とまで、トッドは主張する。
   
   民主的な政治体制は、本来、国民の生活水準を破壊するような経済体制とは両立しない筈である。
   自由貿易を選べば、民主主義は諦めなければならない、民主主義を選ぶのであれば、自由貿易を諦めなければならない。
   「自由貿易は、民主主義を滅ぼす」ので、民主主義を守りたいのであれば、一時的保護主義に立って、経済を再浮揚させて、格差拡大と生活水準の下落を食い止めて、真っ当な国民生活を維持せよ、と言うことである。

   さて、このトッドの見解だが、一理あり、それなりに納得が行く。
   しかし、前述したように、トランプ張りの、フランス・ファーストと言う、フランス人、あるいは、本人も意識している新興国の追い上げで経済危機に立っている「先進国・ファースト」と言う独善的な見解であって、その点から考えてみると、興味深い。

   まず、看過できないのは、共産主義の崩壊を機に、一気にグローバライズした国際経済の大きな潮流を、最早、押し戻せないと言うことで、宇宙船地球号に同船する全人類の未来と運命を、恣意的に、一国家の意向で左右することは、絶対にやってはならないと言うことである。
   まして、自分たちの国の経済と国民生活を守るために国を閉ざして、新興国や途上国が、必死になって、貧困から脱皮すべくキャッチアップしようとしている経済活動を制御しようとするなど、言語道断である。
   既に、成熟化して衰退の一途をたどるフランス経済が、活性化する可能性は極めて低く、トッドの説くように、保護主義貿易を推進して、進化発展へ驀進するグローバル経済へのフランスの門戸を閉じれば、益々、時代の潮流に乗り遅れて、フランス経済そのものの凋落を促進するだけである。

   ベルリンの壁崩壊後、ICT革命とブローバリゼーションの大きな人類の歴史的な展開によって、中国とインドを筆頭にして、世界的な経済成長と経済社会の進展で、多くの最貧困層が救われて減少し、人類の生活水準が一気に向上した。
   いろいろ、理屈はあろうが、トッドの説く保護主義への回帰は、この人類がやっとつかみ取った人類の偉大な一歩を後退させる愚挙以外の何物でもない。

   自由貿易が悪いのではなく、マーケットメカニズムを主体とした自由主義的な資本主義が、暗礁に乗り上げているのであって、また、新しい歴史の潮流に乗り切れない制度疲労を起こしている人類の政治経済社会制度が問題なのであって、これを修復すべく、我々も賢くなって、高度な文化文明論を戦わせる以外に方法はないと思っている。
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ダンテ「神曲」:パオロとフランチェスカ

2019年07月29日 | 学問・文化・芸術
   ダンテの「神曲」は、壮大な詩編だが、最初から最後まで、空想の世界である。
   理解しようと思っても、中々難しくて、どうしても、これまで、あっちこっちで見た絵画や映画、オペラや劇などの視覚経験から、想像したりイメージしたりする以外に方法がない。
   
   ダンテの「神曲」の絵画については、ボッティチェリに、素晴らしい作品があることを知っていたが、洋書では取得可能なのだが、非常に高く、和書でないかと探していたら、国会図書館のアーカイブ資料で、中山昌樹編・新生堂版「ダンテ神曲画集」で、ギュスタヴ・ドレエの135枚が収録されていたので、これなら手に入ると思った。
   1926年出版であるから、完全に古書で、アマゾンや日本の古本屋などでチェックしたらあることはあったのだが、程度が分からないので、一番新しい昭和17年版の本を買った。
   本は、箱入りで特に問題はなく、とにかく、後期高齢者となった本であるから、経年の衰えは避け難く、殆ど褐色で、絵画のページは、やや良質の紙なのでまずまずだったが、印刷が悪いのか、インターネットの画像程ビビッドではないのが難点。
   しかし、絵画1枚毎に、その絵の説明として、神曲の訳文と簡単な説明が付されているので、理解するのには重宝で、絵を見ながら、読んでいると、少し、去年読んだ「神曲」を思い出した。
   それに助かるのは、どの訳本や説明文にも「神曲」の原文の何行目かを表示されているので、直ぐに、フォローできることである。

   私が、ダンテの「神曲」の絵画で、真っ先に思い出すのは、ルーブルにあるウジェーヌ・ドラクロワ の「地獄のダンテとウェルギリウス」
   ダンテとウェルギリウスがプレギュアスの漕ぐ船で地獄の世界ディーテを取り囲む湖を渡っているところで、湖の中では亡者たちが苦痛に身を捩り、小舟にしがみついて地獄から逃れようとしている凄い迫力のある絵である。
   何回か見ているので良く覚えているが、ダンテの「神曲」地獄編に触れた最初のイメージである。
   

   さて、今回話題にしたいのは、パオロとフランチェスカのことである。
   先のドレエの画集に、この二人の絵が、4枚も描かれていて、その一枚が、口絵写真の美しい絵である。
   地獄編の第五歌 第二の谷の中空には、肉欲の罪を犯した者が、地獄の颷風に煽られて吹きまわされている代表としてセミラミス、ヘレネ、クレオパトラ等に引き続いて、フランチェスカの愛の軌跡を描き、嵐の中で、理性を省みずに己の情熱に身を任せて罰を受ける恋人たちとの出会いを語る。

   フランチェスカは、ラヴェンナ領主グイド・ダ・ポレンタの娘だが、政略結婚で、リミニ領主ジョヴァンニ・マラテスタに嫁がせることにしたのだが、ジョヴァンニは、足が不自由で容姿は醜かったので、ジョヴァンニのハンサムな弟パオロ・マラテスタを替え玉にして結婚式をあげ、フランチェスカは翌朝まで知らなかった。
    ある時、フランチェスカとパオロは、2人でランスロットとグイネヴィア王妃の物語を読んでいて互いに惹かれ合い、パオロはフランチェスカを抱き寄せ、その直後、2人の密会を物陰から盗み見ていたジョヴァンニが、2人を殺害する。
   そんな話であるが、「神曲」では、風に乗っていとも軽やかに飛んで近づいてきた二人に、ダンテが尋ねると、フランチェスカが、パオロとの愛の経緯を語り、二人の魂はしみじみと泣くので、ダンテは、哀憐の情に打たれて卒倒する。

   ルーブルにあるアリ・シェーフェルの「パオロとフランチェスカ」も、素晴らしく美しい。
   秘的でメランコリックなシェーフェルは、魂の奥深い感情を描き出しながら、精神的な解釈を提示しており、2人を永遠に彼岸で結びつけている感情を通して、神聖なる精神を具現化している。と言う。
   

   フランチェスカは、ダンテの同時代人である。
   ベアトリーチェへの思いが冷めやらぬダンテであるから、フランチェスカへの思い入れにも一入のものがあったのであろう、このパオロとフランチェスカの叙述は、第五歌のメインを占めていて、地獄とは思えないほどきれいな叙述で、ゲーテの恋人たち(ファウストとマルゲリーテ)、シェイクスピアの恋人たち(ロミオとジュリエット)のように、ダンテの恋人たち(パオロとフランチェスカ)は、多くの画家にインスピレーションを与えている。
   フランチェスカは、自分たちの死については、愛は二人の死へ導いたと述べただけだが、私どもの命を奪ったものは必ずやカインの国へ落ちるでしょう。と結んでいる。  
   ドミニク・アングルの「パオロとフランチェスカを発見するジャンチョット」が面白い。
   

   ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「パオロとフランチェスカ」は、自分の名前をダンテにしたくらいであるから、「神曲」を熟知している。
   ダンテとウェルギリウスを真ん中にして、二人の天国と地獄を描いている三連の絵が面白い。
   

   ロダンには、地獄の門に「パオロとフランチェスカ」を、そして「接吻」にイメージを与え、
   チャイコフスキーも幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」を、ラフマニノフはオペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」を作曲するなど、芸術家を触発して多くの作品を残している。
   
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わが庭・・・カノコユリ、サルスベリ

2019年07月27日 | わが庭の歳時記
   台風が近づくと言うのだが、一寸、北へそれたのであろう、強烈に夏の太陽が照り付けている。
   長いじめじめとしたかなり低温の雨か曇天の日ばかりが続いていたが、ここ何日か、一気に蒸し暑い夏の季節が蘇ってきた。
   やはり、夏はサルスベリ、
   わが庭のサルスベリは、淡いピンクなので、夏の花と言う雰囲気はないが、千葉の庭に植えていたサルスベリは、真っ赤であったので、嫌でも暑さを感じた。
   夏になると、砂漠一色のサウジアラビアの僅かな緑、道路沿いにぽつりぽつりと植えられていて、真っ赤に咲いていた夾竹桃を思い出す。
   
   
   
   
   OHのカサブランカ系のユリの花が咲き終わって大分経つが、カノコユリが一斉に咲きだした。
   この花は、蕾から大きなカサブランカとは違って、ひょろりと長く伸びた茎の先に小さな蕾をつけて、それが、少しずつ大きくなって、鹿子模様の奇麗な花を咲かせるのだが、大人しくて優しく、正に、日本の花である。
   花弁を後ろに巻き上げる姿など、美しい美女の舞のように能舞台を彷彿とさせて素晴らしい。
   
   
   
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都響定期C…アラン・ギルバート:ブルックナー「ロマンティック」

2019年07月25日 | クラシック音楽・オペラ
    今回の演奏は、「日本オーストリア友好150周年記念」と銘打った公演で、指揮:アラン・ギルバート 。
   プログラムは、次の通り。
モーツァルト:交響曲第38番 ニ長調 K.504《プラハ》
ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 WAB104《ロマンティック》(ノヴァーク:1878/80年版)
   モーツアルトの「プラハ」は、30分一寸の演奏だが、比較的短いと言われているブルックナーの「ロマンティック」は、70分弱、久しぶりに、長い公演である。

   都響の解説によると、
   ドイツの詩人たちによれば、さまざまな制約や限界のあるこの現実界において、それを超える「無限なるもの」の存在を信じ、予感することが「ロマンティック」な態度であるという・・・文学や哲学にうとかったブルックナーが、第4交響曲にサブタイトルを付けるにあたってこうした芸術論を直接念頭においていたとは、なるほど、考えにくい。
   と言うから面白い。

   冒頭のホルンの主題の美しいメロディを聞くと、懐かしくなったのは、かなり聞き慣れたと言うことでもあろうが、私がクラシック・コンサートに通い始めた半世紀前頃には、ブルックナーの交響曲の演奏が、プログラムに載ることなど皆無であったし、70年代にフィラデルフィアに居た時でも、フィラデルフィア管弦楽団やニューヨーク・フィルなどで、ブルックナーを聴くことも、かなり、稀であったような気がする。

   かなり前から、カール・ベームのブルックナーのレコードは買って聴いていたが、ブルックナーを本格的に聴き始めたのは、ヨーロッパへ移った80年代頃からで、コンセルトヘボウ管弦楽団やロンドン交響楽団などの定期や、ロンドンでの外来のウィーン・フィルやベルリン・フィルなどのコンサートだった。
   日本へ帰ると、ブルックナーより大分先行して人気のあったマーラーと共に、ブルックナーが人気大曲として、頻繁に演奏されているのにビックリした記憶がある。
   分からないままに、クラシックコンサートに随分通い続けてきたが、私の鑑賞法は、難しいことや音楽知識は全くの埒外の話で、その時の演奏に引き込まれて感動を覚えたり、感激しきりで素晴らしい瞬間を感じることができたかどうかであって、今回のブルックナーは久しぶりに最高であった。
   暗譜で表情豊かに、緩急自在、都響から素晴らしいサウンドを引き出してロマンチックに歌わせるアラン・ギルバート のタクト裁きに感動。

   前にも書いたことがあるのだが、随分前に、アムステルダムに居た頃、休暇を利用して、ドイツとオーストリアを旅行した時、ウィーンから、ドナウ川沿いに車を走らせてブレーメンに向かう途中、リンツ近くのセント・フローリアン大聖堂に立ち寄った。
   ブルックナーは、このすぐ近くの田舎町アンスフェルゼンで生まれて、13歳でここの聖歌学校に入り、その後補助教員、そして教師兼オルガニストとして勤め、後には、リンツへ、そして、ウィーンで音楽院の教授になるのだが、しかし人生の多くはここで過ごし、ここで音楽を学び多くの音楽を作曲した。
   修道院や美術館などは見学出来たが、何故か、閉まっていたのでセント・フローリアン大聖堂には入れなかったが、正面の扉の隙間から、回廊の奥の正面にあるブルックナーの弾いていたオルガンを長い間見ていた。
   ブルックナーは、故郷への思い覚めやらず、ウィーン音楽院の教授まで勤めながら故郷に帰る事を望んだので、このオルガンの下に埋葬されていると言う。
   何の変哲もない静かな田舎で観光客なども全くいない。恐らくブルックナーが住んでいた一世紀半前と少しも変わっていないような気がして、穏やかで平和な佇まいを心地よく味わいながら小休止して、田舎道を抜けてドイツとの国境に向かった。
   この大聖堂は、ドナウの岸からそう遠くない田舎の真ん中にある。ブルックナーの悠揚迫らぬ田園を思い起させるあの気宇壮大で豊饒なサウンドは、この大地が育んだものであろう。

   ブルックナーを聴くときには、いつも、あのセント・フローリアンの田舎の風景を思い出しながら、鄙びたドナウ川沿いのオーストリアの旅の思い出に浸るのである。
   
   
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一龍斎 貞水著「心を揺さぶる語り方―人間国宝に話術を学ぶ 」

2019年07月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   何の気なしに、書店で新書の棚を見ていたら、この貞水の本が目についた。
   楽しみながら、貞水の講談を聞いているので、題名はともかく、読んでみた。
   修身の教科書のような、「人生訓」と言うか優等生の指南書気味の本で、私など、読み進めるにつれて、気恥ずかしくなって、恐縮しながら読んだのだが、要するに、「和」の心、「思いやり」としての話術を語るのであるから、
   それなりに、心して生きて来たと思うものの、私のように、殆ど、他を気にせず、(と言うよりも、気が付けずに)、気楽に生きてきた人間にとっては、耳の痛い話の連続なのである。

   さて、面白いのは、貞水が、実際に高座で語る講談の登場人物についての話である。
   まず、「天野屋利兵衛は男でござる」の利兵衛だが、講談では、仮名手本忠臣蔵で見ている文楽や歌舞伎の舞台とでは、違っていることが分かった。
   歌舞伎では、大星由良助に頼まれ武器防具を鎌倉に送ろうとしたのが露見したので、義平を捕縛に来たと大勢の捕手が現われ店に踏み込まれ、一商人が、子供を人質にした役人の拷問に耐え忍びながらも一切口を割らず、「天河屋の義平は男でござるぞ、子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」と言う真に迫った核心的シーンまでは同じなのだが、由良助が現れて、儀平の本心を確かめるための芝居だったと謝ると言う何とも締まらないストーリーなのだが、
   講談では、本当に、町奉行松野河内守助義により捕縛されて、武器調達と使用目的を自白させるために拷問にかけられ、息子を火攻めにされようとした時に、妻が現れて、夫と子供を助けたい一心に、「依頼主のお名前は、大石・・・」と言いかけた時に、松野河内守は、利兵衛と妻まつを狂人扱いとして調べを打ち切る。歌舞伎の「勧進帳」では、義経一行だと見破っておきながら、富樫は、主従の絆と心情に打たれて武士の情けで、弁慶たちの関所突破を許す。
   富樫も、河内守も、当然、切腹覚悟であり、あの忠義と義侠心に涙する大和魂の発露であって、これこそサムライ、
   忖度忖度で、権力に靡く今様役人とは、月と鼈、雲泥の差である。
  
   貞水が、高く評価しているのが、秀吉と家康。
   秀吉の天下取りは、驚異中の驚異だが、私は、処世術に長けた秀吉も、茶道や能楽に入れ込むなど織豊文化に大いに貢献したものの、朝鮮出兵と言う愚行を犯したのは、世界観なり思想哲学の欠如故だと思っており、秀吉の限界だと感じている。
   その点、貞水は、公衆の面前で部下を侮辱して何とも思わない人物として、光秀の謀反は当然だと信長を非難しているが、当時、世界の潮流を最も読めていたのは信長であって、信長の施政が長くなっていて、秀吉と家康のサポートよろしきを得ていれば、日本のその後が、どれ程、変わっていたか、歴史には、もしもはないのだが、非常に興味のあるところである。

   貞水は、この本で、ほんの短い文章で、珠玉のように素晴らしい文章を綴っているのだが、やはり、強調しているのは、伝統的な日本語の美しさ。
   例えば、幸せな人の身の上に、ふっと不安の影がよぎる、講談では、ストレートに表現せず、そのような状態を指すときに、
   「月に村雲、花に風、地に振動の憂いあり」と言う表現をしていて、四季の風景の中に人の心を見出し、また、人の心の中に風景を見出す、「花鳥風月」と「心」の色合いを大切にしてきた。と言うのである。
   「月は晴れても心は闇だ」と前置きして、「お蔦、俺と別れてくれ」とストレートに言わない、煌々と照る月によっても照らされぬ暗闇に、自分の心の暗さ、後ろめたさをかける、これである。
   このことは、能の世界で最も顕著であろうし、浄瑠璃の美しさ、歌舞伎の美文調の感動的なセリフなど、日本の古典芸能の華とも言うべき世界であろう。
   和歌や俳句になると、その極致であろうか。
   日本語の美しさを,美しい四季の美しさと交わせ合わせながら、私も、劇場に通っているのかも知れない。
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新橋演舞場・・・笑う門には福来たる 〜女興行師 吉本せい〜

2019年07月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   久しぶりに、喜劇を見た。
   少し上等な劇場で、少し洗練された演出の喜劇なのだが、なんばグランド花月の吉本新喜劇を見ている感覚である。
   藤山直美が登場しているので、藤山寛美ばりの喜劇かと思えば、そうではなく、紛うことなく吉本のドタバタ劇であり、当然、シェイクスピア戯曲の対極にある。

   今、不祥事でテレビで話題沸騰の吉本興業の創立者の吉本せいをモデルにした喜劇なので、2017年後期(10月~2018年3月)NHK朝の連続小説テレビ『わろてんか、』と殆ど同じテーマをフォローしているので、良く知っている話。

   私は、生まれも育ちも、西宮、宝塚、伊丹の阪神間であり、大学も京都で、入った会社の本拠地も大阪なので、こてこての関西人であり、20代後半まで、大阪弁べったりの生活をしていた。
   万博が終わって、少しして、本社が東京に移ったので、それ以降、海外に居るか東京に居るか、関西に帰ることはなくなったのだが、意識なり考え方なり、関西人から抜け切れず、いまだに、元関西人を通している。

   東京に移って、一番寂しかったのは、日曜日のテレビで見ていた藤山寛美などが演じる松竹新喜劇の番組がまったくなくなり、それに、吉本の漫才などの放映を全く見られなくなってしまったことである。
   大阪に居た頃は、クラシックコンサートやオペラ鑑賞にもせっせと通っていたが、吉本の梅田花月や道頓堀の中座などにも良く出かけて、漫才やドタバタ劇を見に行って楽しんでいた。
   エンタツ・アチャコはラジオでしか聞いていないが、ミヤコ蝶々南都雄二、中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいし、森光子などが舞台に立っていたのである。
   その後は、欧米が長い所為もあって、クラシックとオペラが主体になり、シェイクスピアに入れ込み、日本に帰ってからは、歌舞伎文楽、それに、能狂言に通い続けているが、落語を聞きに行き始めたのも、先祖かえりであろうか。
   残念なのは、大阪に居ながら、とうとう、米朝の高座を聞けなかったことである。
   
   藤山直美の舞台は、初めてであったが、流石に、寛美の娘で、全く表情を変えずに、さらりと、鋭いパンチの利いたギャグを発する巧みさが、堪らない魅力である。
   この舞台で面白かったのは、亡き夫の供養塔として通天閣を買うと言う奇想天外なせいの行動であり、この発想とパワーが吉本興業のお笑いの世界を生み出した原動力になったのであろう。

   NHKの朝ドラ「わろてんか」では、若くて溌溂とした葵わかなと松坂桃李が、清新で爽やかな演技で、実に器用に晩年までの一生を演じていて楽しませてくれたが、、
   後半生が舞台になったこの劇場版だと、年季の入ったキャリアを積んだ藤山直美と田村亮の芸の確かさ上手さが、断然、魅力を増して客を喜ばせる。
   藤山直美のせいは、一寸個性が豊かだが、何となく大阪の女の象徴のような雰囲気を醸し出していて、せいらしさは抜群であり、余人をもって代えがたいであろう。
   田村亮は、阪妻子息四兄弟の末弟で二枚目役者であったはずだが、歳を取った所為か、一寸タガが外れた大坂男のがしんたれぶりも上手い。大坂男と言うと、どうしても、近松門左衛門の世界のイメージが強いのだが、この芝居も、しっかりした大坂女と一人ではしっかりと立てない大坂男との組み合わせで、面白いと思う。

   春団治で登場した往年のイケメン俳優の林与一が、これも、年季の入った老長けた演技で、中々渋い軽妙洒脱な味を見せてよかった。
   舞台袖で、ミヤコ蝶々追悼の漫才で、松竹の舞台であるから、吉本ではなく、松竹芸能の漫才コンビ・ミヤ蝶美・蝶子を登場させていて、面白かった。
   それに、登場人物全員が、結構、真面目な人生劇場の舞台でありながら、軽いノリで、心地よいテンポで愉快な芸を演じていて、毒にも薬にもならない人畜無害な芝居を楽しませてくれた。

   私にとっては、若かりし頃の思い出に、一気に引き戻されたような感じで、非常に懐かしさを覚えたのだが、前日に、渋くて厳粛な能狂言を鑑賞した後、デザートと言う位置づけであろうか。
   長女が、我々夫婦を招待してくれたのである。
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宝生能楽堂・・・納涼能 能「清経」「杜若」

2019年07月22日 | 能・狂言
   第42回納涼能が、宝生能楽堂で開催された。
   プログラムは、つぎの通り

能・金剛流「清経」シテ金剛永謹
狂言・和泉流「樋の酒」シテ野村万蔵
小舞・大蔵流「猿聟」大藏彌太郎
仕舞・喜多流「道明寺」香川靖嗣
   観世流「班女 舞アト」梅若万三郎
   金春流「殺生石」金春憲和
能・宝生流「杜若 沢辺之舞」シテ宝生和英

   この企画は、能楽協会東京支部の主催で、五流総出演でそれぞれのトップ能楽師が出演すると言う豪華な舞台で、能「清経」では、金剛永謹宗家、能「杜若」では、宝生和英宗家が、シテを舞う言う素晴らしい公演である。

   能「清経」は、昨年9月の国立能楽堂の開場35周年記念公演で、シテ友枝昭世の喜多流の素晴らしい舞台が印象に残っている。
   小書「音取」、
   松田弘之師が、いつもの笛座から一歩正面に前進して、地謡前に陣取って揚幕方向を向いて端座し、しっとりとした美しい音色を響かせて、清経を誘う。天国からのような美しい笛の音と水を打ったような無サウンドの静寂が、交互に舞台に期待と緊張の高まりを増幅させる中を、揚幕から顔を覗かせた清経が、ゆっくりと橋掛かりを歩み、妻の夢の中に姿を現す。

   今回、新鮮な印象は、宇佐の神託(上ノ詠)を、シテではなく、ワキが謡うことで、ここでは、淡津の三郎ではなくて、宇佐の神の声の代行者の位置づけだと言う。
   シテが、平家一門の衰運を演じて悲観して入水するまでの心情を穏やかに謡い舞っていたのが、「さて修羅道に・・・」になると一気にテンションが上がって、扇を盾に擬して、太刀を抜いて、烈しい戦いを舞い、「十念乱れぬ」で太刀を投げ捨てる。
   妻と遺髪を受け取る受け取らぬで痴話げんかし、平家の行く末に悲観して自決する、ある意味では弱気で軟弱な貴公子の立ち居振る舞いとは、一変した迫力あるシーンが展開されて興味深かった。

   この「清経」の入水については、平家物語 巻第八「太宰府落」に描かれているのだが、私が興味を持ったのは、平家物語の最後に、建礼門院が、この清経の入水が、「心うき事の始め」、すなわち、平家滅亡のさきがけだったと嘆いていることで、女々しいと思われる清経の所業が、この平家物語には重要な物語の柱として底流に流れていることを感じたことで、この能「清経」が、「思想としての無常」をテーマにした曲であると言う趣旨も分かるような気がしている。

   能「杜若」は、伊勢物語の九段の東下りの前段に、八つ橋の謂れと、かきつばたと言う五文字を句の上に据えた旅の心を詠んだ和歌「から衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬるたびをしぞ思ふ」の作出逸話がが語られており、この歌は業平の作であるから、当然、主人公は業平なのだが、この能「杜若」は、業平本人は勿論、二条の后高子も登場せず、シテは、植物の杜若の精である。
   尤も、後半、物着で、シテは、業平の初冠と二条の后高子の衣を身に着けて優雅に舞うので、両者の化身と言う意味合いもあろう、象徴的な演出ではある。

   ところで、この能で興味深いのは、杜若の精が、業平は歌舞の菩薩が人間に姿を変えて現れ、業平が二条の后など多くの女性と交わるのは、業平が陰陽(男女交合)の神でもあり、衆生済度、下化衆生の方便としてこの世にあらわれたのだと、取ってつけたような分からないことを言うのだが、
   これは、古今集の注釈書「古今和歌集阿古根伝」の説の脚色だと言う。
   仏教でもヒンズー教でも、歓喜仏も神仏であるから、それはそれとして、
その業平が和歌に詠んだ草や木も仏法の恵みを受けるのだと語り、業平が陰陽の神であることを念押しするためにと言って、業平を思いながら優雅な序ノ舞を舞い、夜が白み始めると、「草木国土悉皆成仏」の教え通りに成仏できたことを喜び、夜明けとともに消えて行く。
   きれいな杜若を草木の代表として、「草木国土悉皆成仏」を説き、業平を神に祭り上げて、陰陽の世界を語り、業平の女性遍歴は女性を悟りに導く方便であったなどと説く高等芸能は、能の世界の独壇場だと言うことかも知れない。

   小書「沢辺之舞」がついていて、シテは、初冠に藤の花と日陰の糸と呼ばれる飾り紐をつけ腰には太刀を履き、序の舞の中で、橋掛かりへ行き辺りを見渡すと言う演出である。
   後半のシテの優雅で美しい舞舞台は、流石に、宝生能楽堂のひのき舞台で宝生宗家が舞うのであるから熱が込められていて、流石に美しく優雅で、見せて魅せてくれる。
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ジャレド・ダイアモンド著「昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来」(2)

2019年07月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ジム・ロジャーズの口癖は、「自由貿易を否定した国で栄えたためしがない。」
   ”トランプ氏は貿易戦争での勝利が米国の抱える問題を解決すると信じている。実際には戦争に勝者など存在しないにもかかわらずだ。(大恐慌後の)1930年代に米国発の貿易戦争が第2次世界大戦につながったように、武力衝突のような事態に至る可能性も否定できない」”と、米中貿易戦争は、愚の骨頂だと言う。

   ところで、ダイアモンドは、この本の上巻で、第2部の「平和と戦争」で、伝統社会から現代社会までの戦争の歴史や諸相について分析していて、戦争論は非常に面白いのだが、米中貿易戦争について、参考になるような叙述があるか読んでいたら、少し、関係がある指摘があった。
   隣国同士の間では、交易関係になければないほど交戦関係にもない。交易関係と戦争のあいだには、傾向として関連性が見られる。として、
   交易関係にある現代国家同士のあいだと、交易関係のない現代国家同士とのあいだでは、交易関係にある現代国家同士の方が戦争をより多く行うように思われる。
   その理由はおそらく、交易にも戦争にも近接性の要因が作用しているからだろうし、取引が紛争のもとになる事例が良くあるからだろう。と言う。

   例えばとして、二度の世界大戦では、交易関係にあった国々が、互いに国境を接していないにも拘わらず、敵味方に分かれて交戦している。具体的には、日本の最大攻撃目標は、最大の輸入相手だったアメリカであり、最大の輸出相手国の中国であった。同様に、1941年6月22日のナチスドイツによるロシア侵攻の前夜まで、ドイツとロシアの両国は交易関係にあった。と例証している。
   しかし、このケースは、日本もドイツも、最大の戦争要因が交易であったとは言い難いし、偶々、経済関係が密であったと言う結果論だと思う。

   米中貿易戦争は、あくまで、経済戦争であり外交的戦争であって、即、実際の戦争に転換するなどと、誰も考えていないであろうが、交易がある、貿易や投資関係にあって経済的な繋がりが極めて密である国家間には、お互いに利害の衝突が生起する可能性が高いので、紛争なり係争なりトラブルが生じる確率が高いと言うことであろう。

   6年前に、このブログで、”「マクドナルドのある国同士は戦争しない?」の欺瞞”を書いた。
   書きはじめを引用すると、
   ”トーマス・フリードマンが、「レクサスとオリーブの木」で、1999年の半ばの時点で、マクドナルドを有する任意の二国は、夫々に、マクドナルドが出来て以来戦争をしたことがないと言うデータを武器にして、”紛争防止の黄金のM型アーチ理論”を打ち立てた。
   マクドナルドのある国は、中流階級が現れるレベルまで発展したので、最早、失うものの方が多いので、戦争はしない。と言う理論である。
   更に、フリードマンは、「フラット化する世界」において、デル・システムのようなジャスト・イン・タイム式サプライ・チェーンで密接に結合された国々の間では、旧来の脅威を駆逐(?)するので戦争など起こらないと言う「デルの紛争回避論」を展開し、マクドナルドに象徴される生活水準の全般的傾向よりも、ずっと地政学的な冒険主義を防止する効果があると説いている。”
   この理論は、既に、論破はされているのだが、密な経済関係を結んだ相手とは戦争をしないと言う理論であって、ジャレッド・ダイアモンドの見解とは、対極にある。
   自由競争のマーケットメカニズムを維持する民主主義国間においては、フリードマン説はかなり信憑性はあると思うが、政治経済社会体制が違った国家間においては、どちらもあり得ると思っている。
   
   トランプの仕掛けた米中貿易戦争は、
   ジョン・J・ミアシャイマーが、「大国政治の悲劇」において、経済やビジネス関係の連鎖など、平和維持には何の関係もなく、とにかく、経済大国となれば、必ず、軍事力を強化して覇権を狙う危険な国になるので、中国が世界経済のリーダーになれば、その経済力を軍事力に移行させ、北東アジアの支配に乗り出してくるのは確実である。と力説しているのだが、
   何度も書いているように、中国が、「過去100年に及ぶ屈辱に復讐すべく、中国共産党革命100周年に当たる2049年までに、世界の経済・軍事・政治のリーダーの地位をアメリカから奪取する」とする「100年マラソン」計画を実現して大唐帝国を再興することは、中国の国是である。
   したがって、米中間のこの経済戦争は、中国の覇権確立への重要な一里塚であって、絶対に米国に屈服するはずはないと思っている。
   トランプは、中国が経済的覇権を確立することを認めようとしない経済戦争を戦っているのだが、習近平は、その戦争への応戦は、過渡期の挑戦であって、国際的な中国の覇権の確立を目論んでいるのであるから、次元の違った戦いなのである。
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国立能楽堂・・・能「夕顔」

2019年07月18日 | 能・狂言
   昨日の能は、久しぶりに、源氏物語の「夕顔」、先日の能「融」と同じ「河原院」が舞台である。

   源氏物語には、その最初の情景描写は、
   ”そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深く、露けきに、・・・”
   紫式部は、定かに描かずに、「なにがしの院」としているが、この河原院をモデルにしたと言うのは常識化していたようで、この能では、夕顔の霊である前シテ/里の女が、「融の大臣住み給いにしところ・・・河原の院」とはっきりと謡っている。

   しかし、室町時代の能の荒れ果てた廃墟の「河原院」ではなくて、100年後の紫式部の時代には、古びて古色蒼然とはしていたが、別棟には人も住んでいて管理人もいて、光源氏が愛しい夕顔と、一夜を共にするだけの場所としては不足ではなく、ただ、源氏と夕顔が、逢瀬を営んでいる棟の近くには、夕顔の侍女右近がいただけで、夜は真っ暗であり、
   ”宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」 とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。 物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて・・・この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、我かの気色なり。”
   六条御息所の生霊が枕元に現れて、「本当に立派な私を尋ねないで、こんなどうと言うこともない女を引き連れて大切に愛しんでいるのは、実につらい」と責め苛むのであるから、怖がり性の夕顔は、堪らず怯えて、源氏が人を呼びに外に出て帰って来た時には、冷たくなっていたのである。

   ところで、源氏が夕顔をどう思っていたのか、
   「世になく、かたはなることなりとも、ひたぶるに従ふ心は、いとあはれげなる人」
   儚げながら可憐なそぶりで、純粋無垢で自分に頼りきって身を任せる夕顔の心情に心を奪われて、のめりこんで行く、・・・才色兼備で非の打ちどころのない姉様女房然として情の深い六条御息所との逢瀬の快楽とは違った新鮮な喜びには抗しがたいということであろうか。
   夕顔の死に直面して、憔悴しきった源氏の右往左往ぶりを、紫式部は情趣豊かに描いている。
   さすがに大作家で、この巻の描写だけ読んでも、現代の並の作家の域を遥かに越えている。

   源氏は、この能にも謡われるのだが、
   「優婆塞が行ふ道をしるべにて 来む世も深き契り違ふな」
   長生殿の古き例はゆゆしくて、翼を交さむとは引きかへて、弥勒の世をかねたまふ。と大袈裟だが、夕顔は、
   行く先の御頼め、いとこちたし。 「前の世の契り知らるる身の憂さに 行く末かねて頼みがたさよ」 かやうの筋なども、さるは、心もとなかめり。

   この時、源氏は、17歳、源氏と関わった女性は、まだ、正妻の葵上、六条御息所、空蝉、そして、この夕顔くらいであろうか、藤壺とは、その後の「若菜」であり、源氏物語の冒頭部分でもあるので、「夕顔」は、ストーリーが非常に丁寧に描かれていて面白い。

   夕顔の素性については、雨夜の品定めでの頭中将の話を思い出して、ほぼ、源氏には分かっていたようだが、夕顔は、「海人の子」と言うだけで答えず、亡くなってから、右近から、頭中将との関係を知らされるストーリー展開になっている。
   夕顔も、源氏であることを察していた筈だが、それ故に、頭中将とのことを明かせなかったのであろう。
   夕顔の美しくて魅力的な娘玉鬘が、筑紫・豊後で育っていて、ワキの旅僧が豊後で、所縁があると言うところなど、作者の心遣いが見え隠れしている。
   源氏は、この玉鬘に魅せられて、好き心を起こして一生懸命モーションを掛けるのだが、髭黒に掻っ攫われてしまうのが面白い。

   さて、夕顔の話が長くなったのだが、この夕顔は、物の怪が出現して急死するのだが、別に、地獄に落ちたと言うわけではなく、何故、後場で、僧の読経「法華経」の功徳で成仏できて喜ぶと言う夢幻能になるのか一寸解せない。
   同じ、夕顔を主人公にした能「半蔀」は、後シテの夕顔の女の霊が現れて、源氏との楽しい恋の宿の思い出を語って、夜明けとともに消えて行くと言うことになっている。
   岩波講座では、夕顔の花の精とも、夕顔の女ともとれる漠然とした描き方だと言うことで、気分能、情緒能であり、一つの中世的幽玄のあり方で、幽玄能だと解説しているが、私は、「夕顔」の捉え方としては、この能の方が、相応しいと思っている。
   私など、六条御息所の方が遥かに魅力的だと思うのだが、夕顔ファンが、結構多いと聞く。

   シテ/里の女、夕顔の上 梅若万三郎、ワキ/旅僧 福王茂十郎、アイ/所の者 茂山忠三郎
   笛/赤井敬三、小鼓/幸清次郎、大鼓/亀井忠雄、地謡/観世銕之丞ほか
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日経:レコード復権、若者つかむ 10年で生産枚数11倍に

2019年07月17日 | 経営・ビジネス
   レコードの復権については、これまで、何度か話題になっていたが、CDに駆逐されて殆ど消えてしまっていたのだが、テクノロジー万能時代に、アナログの最たるレコードが再び脚光を浴び始めたと言うのは面白い。
   日本レコード協会によると、1976年に約2億枚あった国内のレコード生産数は、82年に発売されたCDに取って代わられ、2009年に約10万枚にまで落ち込んだ。だが、その後は一転して回復。17年に16年ぶりに100万枚を突破し、18年は約111万枚となった。と言うのである。
   
   本格回復をにらみ、関連業界の動きも活発化している。ソニー・ミュージックエンタテインメントは18年、レコードの自社生産を29年ぶりに再開。同社担当者は「レコードを新鮮にとらえる若者層に市場が拡大している」と話す。生産設備は当時と同じだが、クリーンな作業環境と検品の精度向上で、ノイズの少ない高音質を実現したという。パナソニックも16年に「テクニクス」ブランドのターンテーブルを復活。8年ぶりの新製品は国内向けの300台が30分で完売した。
18年に27年ぶりにターンテーブルを発売したヤマハ担当者は「若い世代は大きなジャケット目当ての人もいる。飾ると写真映えするのではないか」・・・
   今でもあるのかどうか分からないが、ひと頃、田舎の鄙びた喫茶店で、初老のマスターが、びっしりとレコードの並べられた壁をバックにして、ステレオプレイヤーに、レコードを置いて、懐かしい雑音の入ったジャズを聴かせてくれていた。
   我々のような年寄りに取っては、堪らないノスタルジアの世界である。

   この傾向も、興味の対象だが、それよりも、私の場合なのだが、かってはクラシック音楽ファンで、コンサートには無理をして通いつめたのは勿論、安サラリーマンであることを忘れて、結構、レコードを買い込んできたのである。
   そのレコードが、海外を含めて何度も宿替えをしており、いつ、処分しようかと思いながら、幸か不幸か、今でも、そのコレクションの大半が、まだ、私の手元に残っている。
   初期には、聞きたいレコードを選んで買っていたのだが、初任給が2万円一寸の時に、レコードは1枚2千円したので、おいそれとは買えなかった。
   しかし、海外にいた時、かなり安かったし、新発売の新盤は特価であったので、特に、1970年代に、フィラデルフィアに居たので、ぺシルバニア大学書店で、オペラのセット物や全集物など、将来聞くであろうと思って買ったものが結構ある。
   ロンドンに移ってからは、CD時代になっていたので、同じように、タワーレコードで、CDのセット物を沢山買って帰ったのだが、帰国してからは、殆ど聴かなくなったので、これも、コレクションのまま残っている。

   その当時は、せっせと買い込んだり、録画をしたりして、残していたのだが、テクノロジーの進歩は日進月歩で、残念なのは、DVDがポピュラーになる前に、ビデオより良いであろうと思って、レーザーディスクのオペラを結構買い込んだのだが、直ぐ、DVDに取って代わられて、殆ど見ずにお蔵入りしたこと、
   それに、DVDが隆盛になったことで、買ったり録画したビデオは随分あったのだが、場所を取って維持が難しくなったので、鎌倉への移転時に、すべて廃却処分したこと、
   DVDも、ブルーレイになってから、古いDVDの画像や音声に不満を感じ始めて、これも、鎌倉移転時に、殆ど廃却かお蔵入り。
   今では、NHK BSや、wowowのオペラやクラシックコンサートを録画した方が、遥かに質が高くなっているので、これを楽しんでいる。
   しかし、廃却した古典的なオペラなどの作品が、高値でしか取得できないのを見ると、一寸、残念な気がしない訳でもない。
 
   さて、残っているわがレコードをどうするか。
   結構買い込んだ最新のDVDさえ十分に鑑賞する機会がないのだから、新しいレコードプレイヤーを買って、聞こうと言う気になるのは、当分なさそうである。

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町内の自治会副会長の仕事

2019年07月15日 | 生活随想・趣味
   鎌倉に移り住んで6年目、順番が回って来て、自治会の役員になり、何の弾みか、新参者が、自治会の副会長に選ばれた。
   千葉に居た時、10年ほど前だが、自治会の副会長をやった経験はあるので、別に、意気込むこともないものの、多少、気にはなっている。
   
   3~40年ほど前に開発された500戸程の新開地住宅の集合体なのだが、やはり、少子高齢化の影響を受けて、町内会も様変わりになってきたようである。
   かなり各戸の敷地が広いので、空き家になると、その地所に2軒の新築住宅が建つことが多く、それに、最近では、2世帯3世帯住宅になっているところもある。
   わが家の場合も、建坪60坪あるので、家族6人住めている。

   今回の役員も、高齢化や体調不良、殆ど空き家と言った状態で4軒が役員をパスしたのだが、将来孫たちがお世話になる町内でもあり、まだ、私自身動けそうなので、少しでも役に立てればと思って、後期高齢者ながら引き受けたのである。
   首都圏のマンションやアパートと違って、町内では、結構、近所の付き合いと言うか、顔見知りになっていて、世間話をしたり挨拶を交わす程度の接触はある。
   特に、町内の安全維持のためのパトロールに参加していると、自然と親しく付き合うようになり、開発初期時代からの住人が多いので、色々な情報が聞けて、結構、参考になり助かっている。

   副会長なので、会長補佐の他に担当を持っており、私の役割は、自治会館の管理維持と住んでいる地区の地区長。
   町内会の仕事で、やることはそれ程変わらないのだが、大きく変わったのは、その事務処理というか、連絡は勿論記録なども含めて、ICT革命の影響を受けて、すべて、インターネットで行わなくてはならず、WordやExcelは、当然として、相当、インターネットに習熟しパソコン処理の能力がないと、付いて行けないと言うことである。
   私の場合は、同年代の友人たちと比べれば、所謂ITデバイドから免れてはいるので、多少恵まれている方だが、やはり、混み入った作表や資料の作成などは無理で、膨大なアーカイブ資料からの情報の検索などにしても、苦痛である。
   グループの役員に、パソコン処理やインターネットに習熟した若い人がいるので、殆どお世話になっているので、事なきを得ているのだが、全く知らないと言う訳にも行かないので、背伸びをしている。

   千差万別、色々な依頼があって、その対応はこもごもなのだが、その一つ、
   アナログの仕事として、先日、プロのピアニストを呼んでコンサートを開くので、会館備え付けのピアノの調律をしてくれと依頼が来た。
   記録や会計帳簿をチェックすれば、前に何時どのような形で調律したか分かるのであろうが、面倒なので、この2年間の会長に聞いたら、やっていないと言うので、やらねばならない。
   担当の掛の役員は、多忙だと言うし、ほかは老主婦たちなので、私がやる方が速いと思って、まず、ピアノのメーカーを調べたら、東洋ピアノのBallindamm(バリンダム)。
   カワイなら、わが家に来ている調律師に頼めばよいのだが、初めて見るピアノなので、このピアノを調律してくれる調律師をインターネットで調べたら、しっかりした会社が見つかり、無事、終了。
   調律の後、リヒテルなどロシアのピアニストの話や、ベーゼンドルファーは、ウィーンで弾いてこそ名機なのだと言う話など、話題が弾んだのだが、調律費用は、ほぼ、一定のようなので、資格のある有能な調律師に依頼すべきであると言うことが分かっただけでも収穫であった。

   いろいろ、過去の柵があったり、町内会のトラブルや故事来歴を知り過ぎている古老がいたり、雑音が入って、結構、かじ取りが難しいのだが、私は、鎌倉では新参者、面倒なことがない限り、過去との関りなど、そんなことは適当に打っちゃって、正論、正攻法で突っ走ろうと思っている。
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国立能楽堂・・・金剛流能「融」:狂言「入間川」

2019年07月14日 | 能・狂言
   光源氏のモデルだとも言われている源融を主人公にした世阿弥の複式夢幻能「融」。
   源融は、嵯峨天皇の皇子(嵯峨第十二源氏)でありながら、臣籍降下で源氏性を賜り、公卿に列せられ、最終官位は左大臣従一位。
   思うように出世を遂げられなかった所為もあって、遊芸に入れ込み、陸奥の千賀の塩竃の風景を都に移して六条河原院を造営し、難波の海から汐を汲んで塩を焼いたと言う故事を題材にしたのが、この能で、前シテの老人は、河原院の来歴を語り、後シテの源融の霊は、往時の優雅な雅の世界を演出して舞う。
   嵯峨の別邸が嵯峨釈迦堂清凉寺となり、宇治の別邸の跡地は平等院となったと言うことで、「古今和歌集」と「後撰和歌集」に作品が採録されている勅撰歌人であり、小倉百人一首では河原左大臣の名で知られる。 と言うから、相当の文化人であり教養人であったのであろう。

   ウィキペディアによると、
   現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。と言うことである。
   「宇治十帖」の舞台は、この宇治であり、源融とは、150年以上の差はあるが、紫式部は、藤原道長の娘の中宮彰子の家庭教師であり、臣籍降下で源氏性を賜った光源氏と事情は同じなので、モデルの信憑性は十分であり、その思いで、源氏物語を読み、能「融」を鑑賞すると、面白さが倍加するから不思議である。

   この能で、前場だが、源融と河原院との来歴を、旅僧が問い、老人が語るところは、はや中秋の名月に照らされた廃墟で、懐旧に感傷を催す老人の姿が浮き彫りになって抒情的な雰囲気を醸し出しているのだが、それを遮って、ワキが、「さて、見え渡りたる山々は、皆名所にて候か」と言って、一挙に話題を変えて、「名所教」に舞台転換してしまう。
   「田村」「頼政」「兼平」などにも共通した一種の様式的演技だと言うことであり、勿論、世阿弥のことであるから必然の帰結なのであろう、銕仙会のHPでは、”夕暮れの薄暗がりが、これら名所の数々に、幽遠な情趣を添えている”とあるのだが、私には、一寸、異質であった。

   後場、源融の霊が、在りし日の貴公子の姿で現れて、名月に輝く河原院の廃墟で、舟を浮かべて遊んだ往時の豪華絢爛たる遊宴を再現する舞いは、パンチの利いた太鼓も加わったアップテンポの軽快な囃子にのって、華麗に舞うシーンが印象的であった。
   「遊曲」の小書がついていて、シテが、舞台から橋掛かりに出て、欄干下を流れに見立てて、扇で汲み上げて曲水の宴の有様を見せ、杯を上げ持って後ずさりして幕際まで後退して佇み、穏やかな囃子に合わせてゆっくりと舞台に入り、舞台を一巡して「早舞」。
   前場は、謡で河原院の風情と情趣を再現し、後場は、後シテの舞で往時の源融の華麗な遊宴世界の雅を彷彿とさせる、
   私には、色恋を抜いた源氏物語の雅の世界が、脳裏に浮かぶ。

   他の世阿弥の複式夢幻能は、前場で、不幸な死を遂げた物語の所縁の人物が登場して、その話題の主の幽霊なのだといって消え、後場で、当の亡霊が現れて、生前の苦しみや地獄での苦悩を語って舞い、最後には僧の読経で成仏すると言う暗いストーリーが多いのだが、
   この能は、融の霊は、華やかなりし頃の姿として現れて、不遇だったはずの融の執念は一切表出せずに、名月の輝く廃墟で、在りし日の華やかな貴公子の姿で優雅に舞を舞う源融の過去への追想、懐旧の念をテーマとしているので、非常に美しい。

   こじつけかも知れないが、源融の別邸であった、
   宇治の里の藤原道長の別荘「宇治殿」の頃の雅の世界や、釈迦堂に直近の大覚寺の日本最古の庭池大沢池の遊宴などを思えば、紫式部が、源融を光源氏のモデルにして、源氏物語を書いたのは当然だと思うし、何故か、この能を観ながら、光源氏のイメージから抜けきれなかった。
   この能の舞台である源融の河原院が、光源氏の大邸宅六条院のモデルであったと言うことであり、そのあたりのストーリーを反芻していたのである。
   世阿弥の頃には、廃墟のような河原院になっていたとしても、紫式部の時代には、この河原院も、宇治や嵯峨の別邸も、平安王朝の雅の極致を醸し出していたのだろうと思う。

   シテ/今井清隆、ワキ/旅僧 森常好、アイ/所の者 野口隆行

   狂言「入間川」は、反対言葉で会話するのが入間流だと言う話をテーマにした、渡河を目論む大名(野村又三郎)と、入間の某(松田高義)との軽妙洒脱な駆け引きが面白い。ほかに、太郎冠者(奥津健太郎)
   名古屋の和泉流又三郎家の舞台で、中々の好演で面白かった。
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ジャレド・ダイアモンド著「昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来」

2019年07月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ジャレド・ダイアモンドの著作については、ナショナル・ジオグラフィックの「銃・病原菌・鉄」の頃から興味を感じて、「文明崩壊」なども含めて著作を買い込んだのだが、殆ど積読。
   今回、思い切って、「昨日までの世界」から読み始めることにした。
   The World Until Yesterday:
   What Can We Learn from Traditional Societies?
   タイトル通り「昨日までの世界」、サブタイトルが、「伝統社会から我々は何を学ぶことができるのか?」
   日本語版のサブタイトルは、「文明の源流と人類の未来」、

   現代の西欧近代社会と伝統的社会との違いを浮き彫りにして、そこで判明した伝統社会の叡智を我々の人生や生活に取り入れて、どのようにして、この世界を、もっともっとより良い場所に出来るのか。考えようとするのが、
   ジャレド・ダイアモンドの願いである。

   この本は、伝統的社会に焦点を合わせて分析されているが、
   「伝統的社会」とは、人口が粗密で、数十人から数千人の小集団で構成される、狩猟採取や農耕や牧畜を成業とする古今の社会で、なおかつ、西洋化された大規模な工業化社会との接触による変化が限定的にしか現れていない社会である。
   
   まず、ニューギニアの伝統社会から説き起こしているのだが、私が真っ先に興味を感じたのは、第2章の「子どもの死に対する賠償」で活写されている交通事故で亡くなった子供の死を巡っての伝統的な紛争処理である。
   地元高地人の自動車運転手が、低地人の部族の少年を交通事故で死なせたのだが、こんな場合、必ず、少年の部族の低地人が、運転手を引きずり出して撲殺するので、そのまま運転を続けて警察まで行くのが、ニューギニアの慣例だと言う。
   問題は、このことではなく、この事件の紛争処理の仕方である。
   
   伝統的な小規模社会では、人々は、自分の社会を、自分の集団や近隣の集団の友人によって構成される部分と、近隣の敵によって構成された部分、そして、遠方の見知らぬ他人によって構成される部分との三種類に分類して認識しているため、その世界観は非常に局地的である。
   従って、敵同士の間でトラブルが起こった場合には、報復殺人や報復戦争が起こって紛争処理が行われることが多いのだが、このケースでは、国家政府の助けを借りずに、独自の伝統的な方法で正義を行い、諍いを平和裏に納めたのである。

   詳細は省くが、少年の父親の申し入れで、両者代表を立ててじっくりと話し合って平和的に解決を見た。
   平和的な解決には、「賠償 Compensation」がつきものなのだが、現地語でsori money、子供の死を賠償することなどできないし、悲しみを込めての支払いであり、謝罪を込めての支払いであるから、むしろ、英語のsorry maney(謝罪金)であって、少年の死後、この伝統的賠償が残された家族に対してなされ、謝罪の儀式が執り行われたのである。

   重要なのは、このニューギニアの伝統的な賠償方法は、自分たちの行動域の範囲内で暮らしている人間同士なので、少なくともこの先は面倒な関係にはなりたくない、すなわち、その目的は、以前の関係の回復にあると言うことなのである。
   ところが、西欧社会は、以前の関係の回復どころか、今後一切関係を持ちたくないと言う相手と係争や訴訟を行っているのであるから、雲泥の差である。

   我々の現代国家社会は、このような社会的ネットワークの重要性が強調される社会ではなくて、個人の重要性が強調される社会である。わが社会は、他人を押しのけてでも勝負に勝つこと、商取引においても、多くの場合、人々は自己利益の最大化に腐心すること、弱肉強食が渦巻く社会であり、損を被った相手の気持ちを慮ることはこれっぽっちもない。
   子供の遊びでも、アメリカでは、勝ち負けを競う遊びが一般的だが、ニューギニアの伝統社会の遊びは、勝ち負けなどなくて協力行動の要素が含まれているとして、別の島のバナナを何度も切り分けて交互に相手に与えながら遊んでいる子供の様子を紹介している。

   「アメリカ・ファースト」の悲しい現実を考えれば、何が、文化文明の進歩発展か分からないと言うことである。
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スペンド・シフト:私の本探しの場合

2019年07月11日 | 生活随想・趣味
   先日、「スペンド・シフト」のブックレビューをして、消費者の価値観の変化によって、大きく消費支出の傾向がシフトしたとことについて書いた。
   それでは、私にとって最も重要な関心事である読書について、どのように、本の取得傾向が変わったのか考えてみたのである。

   何故だか分からないが、学生の頃から今に至るまで、読む本の種類、読書のジャンルや幅は殆ど変わっていないのに気付いた。
   前世紀と言うか、私が、現役で多忙を極めていた時は、新聞や雑誌などで得た新刊書の情報などを参考にしたり、大型書店に直接出かけて、店頭で、本を選んで購入すると言うことが普通であった。
   海外に居た時には、送ってもらうことがあったが、しばしば、帰国していたので、その時に、沢山買い込んで帰っていたので、洋書とチャンポンで、十分間に合った。
   東京へ帰ってからは、以前の書店通いに戻ったのだが、会社が、神保町に近かった所為もあって、古書店にも通うようになって、読み仕損じていた本などを見つけて、読書の幅が広がった。

   さて、最近だが、ICT革命のおかげで、アマゾンなどのネットショッピングで、本を買うことが多くなって、殆ど相半ばである。
   私の場合は、いまだに、経済学や経営学の本が主体なので、書店は、品揃いの豊かな東京の大型書店に行かなければならない。
   それに、新刊書ならどこでも良いが、芸術や歴史と言った傾向の本でも、街の書店では、殆ど役に立たない。

   最近、大きく本探しで変わったことは、やはり、ICT革命の影響で、ネットショッピングもそうだが、情報の検索など、アマゾンの活用である。
   新刊書なら、書店で買ってもアマゾンで買っても同じことだが、何か本を探そうと思えば、アマゾンのHPを叩けば、色々な本がイモ蔓式に表示される。
   例えば、「ルネサンス」関連の本を探そうと思えば、「ルネサンス」をクリックして検索すれば、沢山のルネサンス本が表示されるのだが、更に、「メディチ」や「レオナルド・ダ・ヴィンチ」などと言った関連情報を打ち込めば、無尽蔵に資料が広がる。
   「ロングテール」がアマゾンのアマゾンたる所以であるから、古書を含めて、可能な限りの本の情報が取得出来て、また、購入可能なのである。
   私は、書評やカスタマーレビューなどは殆ど読まないのだが、翻訳本の場合には、英米のアマゾンのHPの本の情報は、非常に役に立つ。

   最近、この検索で取得した興味深い本は、普通では探せないような、イアン・ゴールディン&クリス・クターナ 著「新たなルネサンス時代をどう生きるか:開花する天才と増大する危険」2017年11月刊。
   出版社の過剰在庫処分品の自由価格本であるから、当然、バーゲン価格の新本。

   数々の天才の偉業により世界が一変したルネサンスの時代のヨーロッパ。21世紀の現代、それとまったく同じことが起ころうとしている…。私たちはどう行動し、どう生きていくべきなのか?過去から学び、よりよい未来を築くためのユニークな提言の書、ついに日本で出版!
   ルネサンス史と近代史の両方を生き生きと物語る本・・・・・・誰か、トランプ氏に1冊この本を送るとよい。ちょっとした示唆に富むつぶやきが見られるかもしれない。
――『フィナンシャル・タイムズ』
   と言う、オックスフォード大学グローバル化・開発学部教授で、2003年から2006年まで、世界銀行の副総裁を務めたイアン・ゴールディンなど学者の著したれっきとした専門書なのである。
   まだ、読んでいないのだが、ルネサンスを展望して第2のルネサンスと目する21世紀のあるべき姿を描くと言うのだから、私にとっては最大の関心事である。
   経済学書なのであろうが、芸術なのか歴史なのか文明論なのか
   最新刊の本でありながら、出版社が叩き売りしているのだから、大型書店でも出ているのかどうか分からないし、第一、どのジャンルの棚にあるのかさえも心もとない。
   定価¥3,996では、大学や図書館は別だろうが、余程、関心のある読者以外は、手が出ないであろう。

   歳の所為もあるのだと思うのだが、最近は、新刊本ばかりを追うのではなく、ジャンルによっては、もう少し掘り下げて深く、時には、幅広く勉強したいと思うようになってきて、古書にも手を出すようになっった。
   以前は、神保町の古書店に通っていたのだが、小規模でもあるので、最近は、行かなくなり、アマゾンや大型のブックオフを利用している。
   いずれにしろ、私は、図書館を一切使わない主義で、新本を買うことを旨としているので、純然たる古書を買うのは、極力避けている。
   と言っても、2~30年前の本になると、そうも行かず、出来るだけ状態の良い本を心掛けて買っている。
   ブックオフの場合には、実際の書店なので、その本を直接店頭で確認できるので、問題ないのだが、アマゾンの場合には、極力、非常に良いと言うコンディション以上の本を買っている。
   読書家が、本の状態を云々するのは恥多きことなのだが、性分だから仕方がない。

   ところで、このアマゾンでさえ、模様替えすると、どんどん、書籍売り場が奥に押しやられて、小さくなって行き、東京でさえ、大型書店は勿論多くの書店が、少しずつて消えて行く。
   書籍が、電子書籍に駆逐されるとは思わないが、書店が、街角の郵便ポストのように、どんどん消えて行って、ネットショップばかりになると言うのも、寂しい限りであるが、これも、時代の流れであろう。
   
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