熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言「鶯」・能「草薙」

2020年02月08日 | 能・狂言
   今月の国立能楽堂の月間特集は、「近代絵画と能」。
   この日は、定例公演は、「草薙の剣」、倭建命が橘姫の手を取って草薙の剣を構えている絵である。
   西洋絵画には、壮大な歴史画が、欧米の美術館で圧倒的な迫力で迫ってくるのだが、その影響を受けて、明治期の日本画壇でも、歴史画が脚光を浴び、日本の誇るべき古典芸術能が、格好の画題を提供したのであろう。

   まず、その前に、狂言「鶯」。シテ/梅若殿の家来 野村萬斎、アド/鶯の飼い主 野村万作 の素晴らしい至芸の舞台である。

   鶯を飼っている男が、鶯のさえずりを聞きたくて、籠に鶯を入れて野辺にやってきて、籠を置いて遠くに離れて楽しんでいると、主人が無類の鶯好きなので献上しようと、鶯を買う金がないので野辺の鶯を射そうと鳥黐のついた竿を持った家来がやってくる。これ幸いと鶯を持ち去ろうとすると主が現れて、止められ、交渉の結果、家来が鳥かごの鶯を刺せれば持ち帰ってもよく、失敗すれば、太刀と刀を取られることと言うことになるのだが、家来は二回とも失敗する。
   飼い主が去ったあと、一人残った家来は、16歳で夭折した稚児の悲しい昔話を語り、鶯になって寺の梅の木に飛んできて、その時読んだ「初春の、朝ごとに来れども、遭わでぞ帰る元の住家に」をもじって、「初春の、太刀も刀も鶯も、ささでぞ帰る元の住家に」と詠んで、「南無三宝、しないたり」と竿を捨てて退場する。

   冒頭、万作師が、鳥籠を持って登場し、鶯のさえずりを聞こうと言って鳥籠を置き、笛柱に端座するまでのシーンに詩情を感じて、まだ、少し早い鎌倉山から下りてくる鶯を思い出した。
   能楽の際、蓮如上人が、この狂言「鶯」を愛でて、鶯を捕まえるのに脇目もふらないその姿を指し、佛法聴聞の心構えを説いたという逸話が残っていて興味深い。

   能「草薙」は、日本武尊と橘姫の夫婦の神が祭られている熱田宮が舞台で、参篭して最勝王経を講じている恵心僧都の前に、橘姫の霊魂と日本武尊の神霊が現れて、駿河の国での草薙の剣の威力を示して、国家が穏やかに治まったと、最勝王経の徳を称える。と言ったストーリーである。
   宝生流にしかない能とかで、シテ日本武尊は、藤井雅之、ツレ橘姫は、高橋憲正、
   記紀を読んでいないので、日本武尊については、うろ覚えであるし、猿之助の「ヤマトタケル」の舞台で見た印象だけが残っていて、何とも言えないのだが、
   草薙の剣は、三種の神器の一つ(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)で、貴重な存在ながら、スサノオが出雲国で八岐大蛇を退治した時に、大蛇の体内から見つかった神剣だと言った神話時代の故事来歴はともかく、形代の草薙剣は、壇ノ浦の戦いで安徳天皇入水によって関門海峡に沈んで失われており、その後、朝廷が、伊勢神宮より献上された剣を「草薙剣」として、現在、その神剣(形代)が宮中に祭られているとのことである。

   能は、シテが、草薙の剣を振るって舞う時くらいしか動きがなく、恬淡とストーリーが展開する60分ほどの短い舞台で、古代の神話の世界に誘う。
   恵心僧都が、熱田宮で、最勝王経を講ずるという神仏混交の世相が興味深い。

   蛇足ながら、いつも気になっている八百万神と「草木国土悉皆成仏」について、一寸書いてみたい。

   八百万の神は、森羅万象に神の発現を認める古代日本の神観念を表すのだと言うのだが、
   梅原猛は、
   仏教が日本に入ってきて、平安時代の末に天台本覚思想と言うのが生まれて、それが鎌倉仏教の思想の前提になり、その思想は、「草木国土悉皆成仏」と言う言葉に端的に表現される。「草木国土悉皆成仏」と言う思想は、狩猟採取文化が長く続いた日本に残ったが、かっての人類共通の思想的原理ではなかったかと思う。そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、人類の未来の生存や末永い発展は考えられない。やっと、「草木国土悉皆成仏」と言う新しい哲学の基本概念を得たにせよ、西洋哲学のしっかりした批判によって、新しい「人類の哲学」と言うものを作り出せるかどうかは疑わしい。 しかし、この哲学を作らない限り、死ぬに死ねないのである、と言いながら逝ってしまった。
   五木寛之も、
    いい意味で、自然界のあらゆる物には、固有の霊魂や精霊が宿ると言うアニミズムと、様々な思想や宗教を融合するシンクレティズム、すなわち、「草木国土悉皆成仏」の思想は、日本の財産である。経済成長も限界があり、日本は、資源がないと言われるけれど、21世紀には、これまで近代の中で日本人のアキレス腱と思われていたようなアニミズムとシンクレティズムと言うものを、一つの思想として体系化して、それを大きな資源として、世界の中で、何か貢献できるような気がする。

   一方、ユヴァル・ノア・ハラリが、「ホモ・デウス」で、自由主義に触発されて科学技術で知識武装した人間が、キリスト教のドクトリンの多くが真実には程遠い神話であることを知って、神聖に近づきつつあるとしながら、AIとロボティックスの軍門に下らざるを得ないと言う人間の将来を案じているのだが、「草木国土悉皆成仏」、すなわち、人間自身が森羅万象悉くを体現した宇宙船地球号と一体となって、同化しない限り、生きる道がないと悟るべきかどうか、
   これが最後の人類のあがきなら、成功を祈らざるを得ないと言うことであろう。
コメント
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