熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ロジャー・ブートル著「欧州解体」

2018年04月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   Brexitや、極右のポピュリズム政党の躍進などが象徴するように、EUが、政治的にも経済的にも、問題を抱えていることは事実だが、果たして、真相は那辺にあるのか、
   「欧州解体 The Trouble with Europe: Why the EU Isn't Working - How It Can Be Reformed - What Could Take Its Place」を読んでみた。
   原題のごとく欧州ではなくEU解体なのだが、一歩、引き下がって、かなり客観的にEUを観察できる英国人経済学者の著作なので、結構面白かった。

   60年前、ヨーロッパのリーダーたちは、悲惨な戦争の再発を避け、紛争よりも協調の象徴として、壮大な夢を描き、ECCを設立し、その後、EUとなって、必然的に、更なる躍進、連邦スーパー国家を目指して、単一通貨、ユーロを創造して最高潮に達した。
   しかし、今や、EUは、十字路に直面した。所期の目的を達するためには、既存の関係や通貨同盟を考えれば、当然の論理として、政治的統合、所謂、ヨーロッパ合衆国へと向かわざるを得ない、言い換えれば、更なるヨーロッパの統合を推進すべきなのだが、しかし、現実には、EUは、有効に機能しなくなっており、先行きもその可能性がない。
   したがって、EUは、根本的な改革を迫られている。
   しからば、どうすればよいのか、と言うのが、ロジャー・ブートルの問題意識であり、この本のよって立つ提言である。

   まず、ユーロについては、最初から失敗作であって、ユーロ廃止こそが欧州を救済する一助となる、と手厳しい。
   EUが、国内政治や外交的妥協、国家の威信への配慮、子供じみた欧州統一の夢に突き動かされ、経済の現実を殆ど考慮しないままの最悪の意思決定したなれの果てだと、糾弾しながら、ユーロからの脱退の手法や、更に、EU離脱の総コストや利益までも詳細に論じている。
   
   ユーロが生きながらえるとしたら、それは、間違いなく、その通貨同盟を救うために、何らかの財政・政治同盟が作られる場合だ。この同盟は、未来永劫、課税し、調和を図り、規制をするだろう。根本的な改革がない限り、そのような同盟は、EU経済の成長に極めて有害な決定をするものと思われる。ユーロの創出とその悲惨な経済効果は、将来に対する身の毛もよだつような警告なのだ。と言う。
   ユーロを救うためには、財政・政治の統合は必須なのであろうから、EU合衆国なりEU連邦のような国家形態になるのであろうが、独裁専制国家ならいざ知らず、最も民主主義的な先進国であり、それも、歴史文化文明などバックグラウンドが大きく異なり格差の激しい国の集合であろうから、非常に困難を伴い難しいであろうと思われる。

   蛇足だが、以前にイギリスのBrexit報道で、NHKが報じていたことだが、行政的な不手際で特に問題となるのは、あまりにも多くの規制をそのコストやシステム全体への波及効果を顧みずに、それも、その規制の多くは、国によって違うことや酷く些細なものを、押し付ける点で、ブラッセルで法案を書いた者たちは、現実世界が全く分かっていないと言う反発である。


   関税同盟なので、域内の貿易は無税であるから、域内の貿易を創出する一方、域外の貿易を回避させる。
   ところが、域内の貿易量は増加しているものの、域外、非加盟国との貿易の伸びの方が上回っていて、域内間の輸出シェアが減っている、すなわち、域内の貿易創出から得られる利益が、世界全体の伸びから得られる膨大な利益に比べると小さい。
   このことは重要な指摘で、成長が止まった先進国の貿易は、ひとたび、大躍進の新興市場がグローバル経済に組み込まれると、現実の経済的利益が世界規模で自然発生し、欧州の官僚たちが夢想した関税同盟の利益が、それに飲み込まれてしまうと言うことであって、域内の無税貿易効果が満足されれば、域外の貿易拡大に打って出た方が良作だと言うことである。

   この本で、むしろ、イギリスにとっては、EUから脱出して、Brexitの方が、良いと著者は言っているが、実際にも、イギリスは、モノの輸出よりも、関税とは関係のないサービス輸出の比重が高いので、EUとの貿易交渉で多少不利であっても気にすることはないと言うことであろうし、むしろ、EUの方が損をすると言うことであろうか。
   イギリスは、英連邦と言う巨大なヒンターランド(?)を有しており、米国とは最も有効的な国であり、BRICSなど、新興国とのFTAを結ぶなど、外交関係をフルに活用すれば、EUとの貿易交渉に、それ程拘ることはないのかも知れないのである。

   英国の政策立案者が、EU離脱に拘るのは、「主賓テーブル症候群」「サイズ偏重主義」「近接フェティシズム」ゆえだが、近年の新興国市場の発展や、世界経済のグローバル化、そして、ICT革命による時代の潮流の大きな流れを考えれば、そんなのに拘るのは愚の骨頂で、果敢に新天地を目指せと言うのだが、
   私も、七つの海を支配して陽の没する時がなかったと言う元大英帝国の、最もグローバル展開に長けたイギリスであるから、それが、正解だと思っている。

   さて、この本の表紙に、「ドイツ一極支配の恐怖」と書かれているのだが、この本では、トッドなどフランス人識者程、ドイツを批判はしていない。
   ドイツは、戦前に極端なインフレを経験しており、財政の健全化が如何に重要かを身をもって経験しているので、日米英のように、景気浮揚や総需要対策にケインズ経済学的な財政政策を取らない。
   このために、メンバー国に対して、どんな種類の難局であろうと、全員が痛みを伴う構造改革を断行して支出を削減しなければならないと言う考え方を押し付けて、緊縮財政に徹してきており、
   また、QEについても、日米英は、国債を自国通貨で自国政府が発行したものであったが、EUの場合には、最終的には、不実なラテン国の放漫財政のツケがドイツ連銀に回ってくるのは必定であって、踏み込めなかった。
    これらの点を考慮すれば、EUの盟主が、イギリスであれば、ギリシャ対策も含めて、変わっていたであろうと思われる。

   これ以上、紙幅を割くつもりはないが、著者が、ドイツ自身の経済もEU形成によって決して恵まれておらず、むしろ、成長が鈍化しており、マイナスの方が大きいと指摘しているのを、意外であると同時に、非常に興味を感じたことを付記しておきたい。
   
   昨年秋に、最新版として、Making a Success of Brexit and Reforming the EU: The Brexit edition of The Trouble with Europeが発行されていているようだが、Brexitについて、新しい見解を展開しているのであろう。
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AutoFixer Pro 2018に侵入されて

2018年04月28日 | 
   昨夜、パソコンの右下だったと思うのだが、AutoFixer Pro 2018と称するWindows10のパーフォーマンスがおかしいので、至急PC修復ツールを起動して修復しろと言う警告が表示された。
   当然、そんな筈はないと思ったのだが、何かの拍子にそんなことが起こるかも知れないし、Windows10なのでマイクロソフトからの指示だと思って、「修正を開始」と言う箇所をクリックした。
   セキュリティソフトとして、ウイルスバスター月額版を使用しているので、いつも、迷惑メールやウィルスなどなら、警告表示がなされるので、それが全くなかったし、途中で、中止指示もなかったので、安心したと言うこともあった。
   しかし、起動している途中で、画面がどんどん進んで行って、「見つかった問題の総数」が200を超えてくると、流石に、あり得ないと思うようになって、途中で、キャンセルをクリックして止めた。
   しかし、消して他のページに移っても、執拗に、警告表示が現れて、修正開始を迫って来る。

   Microsoft アンサーデスク有償契約をして居るので、翌朝、マイクロソフトに電話して指示を仰ぐことにして、その日は、シャットアウトした。
   翌朝、パソコンを起動すると、やはり、口絵の写真のような表示が現れて消えない。
   念のため、ウイルスバスターとFujitsuのPCカルテを起動して調べてみたが、全く異常はないとの表示である。

   案の定、迷惑ソフトであって、インストールさせて、法外な料金を取るとかで、マイクロソフトの人の話では、次に、電話をしろと指示があって、電話するとタドタドシイ日本語で、どんどん要求をしてくると言うことであった。
   AutoFixer Pro 2018に引っかかって、カードで支払ったと言う人もいるようだが、私の場合には、インストール途中でキャンセルしたので、一切、問題なく、パソコンに入ってしまっていたAutoFixer Pro 2018をアンインストールして貰って事なきを得た。

   インターネットで検索すれば、主に英語だが、沢山の記事が出ていて、マルウェア (malware) であることが分かるので、昨夜すぐに、インターネットを叩けば良かったのだが、大体、いつも、大丈夫だろうと思って、適当にパソコンを使っているので注意しなければならないと思っている。
   ITデバイドの年齢ながら、結構、パソコンを使って、それなりに楽しませて貰っているのだが、危険もあると言うことである。
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国立能楽堂・・・能「西行桜」狂言「鳴子遣子」ほか

2018年04月26日 | 能・狂言
   今日の国立能楽度yの企画公演は、次の通り。
   《特集・西行 生誕900年記念》
解説  西澤 美仁(西行学会元代表)
仕舞  実方(さねかた)キリ  梅若 実 
狂言  鳴子遣子(なるこやるこ)  茂山 七五三(大蔵流)
能  西行桜(さいぎょうざくら)  梅若 万三郎(観世流)
 

   「西行桜」の舞台の京都西山の西行庵室は、今の花の寺勝持寺だと言われているようだが,西澤さんの話では、源氏物語では、西山は仁和寺のようだし、嵯峨野や嵐山など、定かではないようである。
   私自身、学生時代に京都の古社寺を歩き回ったので、殆どの桜の名所は知っているつもりだったが、この勝持寺だけは、阪急沿線の向日町あたりからのアクセスで、多少不便であったし、桜の季節にいかないとダメだと思って、とうとう、訪れる機会がなかった。
   いずれにしろ、京都西部には、いくらも立派な桜の名所はあるので、どこかを想定して、西行桜の舞台を想像すればよいのであろう。
   しかし、詞章では、山桜とあるので、その後生まれ出たソメイヨシノ主流の今の桜風景は、少し印象が違うのかも知れないとは思う。
   この山桜だが、以前千葉にいた時に、吉高の大山桜を撮影したので掲載するが、ソメイヨシノと違うのは、花と若葉が一緒に出ることだと言う。
   

   「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と歌って、正に、その時期に入寂した西行のことであるから、何処でも良い、桜の咲き誇る西行庵を舞台にして、世阿弥か禅竹かが、能を作り上げたのであろう。
   「山家集」にある「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の咎にはありける」を主題にして、桜の精が、自身で春宵を惜しむこの舞台のテーマは、「惜春」。

   私が興味を持ったのは、偉大な歌人としても崇められ尊敬されている筈の西行が、「桜を見物しようと、多くの人がやってくることだけは、惜しくも桜の罪である」と歌っているのを引いて、満開の桜を独り占めにして鑑賞しようと、下人に、他人を寄せ付けるなと指示する大人げない所業もそうだが、桜の精に、「憂き世と見るのも世間を離れた山と見るのも、ただその人の心次第であって、花には、人の世の憂き世は関係ないので、何の罪もない」と諭されると言う面白い設定である。
   さらりと詠めば、風雅な西行の歌にも聞こえるが、今の世を考えれば、如何にも、独りよがりの歌心で、そのあたりをついたのが面白い。
   この主張は、「本来無差別」と言う仏教思想だと言うのだが、非情の草木であっても花実の季節を忘れることはない、「草木国土悉皆成仏」だと突っぱねられているところなど、西行はカリカチュアもどきだと感じたのだが、能楽初歩だから、勝手なことを言えるのかも知れない。

   90分のパフォーマンスで、終幕は、シテは、春の夜のひとときを愛おしみつつ、長い太鼓入りの序ノ舞を舞い続けて、花陰から白んでくる春の曙の風情を惜しみながら夜明けとともに消えて行く。
   当時の夜桜は、月光に映えての微かな美しさであろう、京都の桜名所の桜を追想しながら、観ていた。
   
   梅若実の仕舞「実方」は、直面の精悍で毅然とした素晴らしい表情が感動的で、感激して観ていた。
   
   狂言「鳴子遣子」は、シテの茶屋を、あきらが休演で、七五三が代演。
   七五三は、能「西行桜」のアイの強力にも予定通り登場した。
   心なしか、いつも、狂言方のアイ狂言への全力投球の舞台に感激している。
   この狂言「鳴子遣子」は、鳴子か遣子かで言い争う二人(宗彦、童司)の判定人になった茶屋が、賄賂を貰いながら、賭禄の二人の小刀まで持ち去ると言う話。
   一寸アイロニーの利いた面白い話である。

   今月、国立能楽堂主催の能舞台は、これで4回目だが、萬斎の登場した狂言「武悪」が面白かった。
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わが庭・・・紫蘭、オダマキ咲く

2018年04月25日 | わが庭の歳時記
   日陰で、少し寒い所為か、やっと、わが庭の紫蘭が咲き始めた。
   特に意識して植え替えも株分けもしておらず、庭に放置したままなのだが、いつの間にか、あっちこっちに広がって咲いている。
   非常に生命力が強いので、場所を選ばないようだが、花付きがもう一つなので、日当りの良い正面に移植したいと思うのだが、既に、他の花木などが居を占めていて押しのけるわけにも行かない。
   
   
   
   

   オダマキも、植えっぱなしの草花で、顔を覗かせて花が開くと、その存在に気が付く。
   赤みが勝った花や八重咲があるなど、バリエーションがあるようだが、一番シンプルなこのオダマキが気に入っている。
   
   

   今年は、随分、梅の実がなって、少しずつ肥大し始めている。
   昨年失敗したので、今度は、少し色づき始めた綺麗な実を集めて、梅酒を作ろうと思っている。
   孫は、梅ジュースを作ると言っている。
   鹿児島紅梅も、ポツポツ小さな実をつけている。
   ほんのりと色づいた小梅程度の大きさで、これ以上大きくはならないのだが、一か所に2つか3つの実をつけるのが面白い。
   クラブアップルやブルーべりーやビワも結実し始めている。
   面白いのは、肥料をやって丁寧に育てているプランター植えのイチゴは、良く茂るのだが実がならないのに、野生化したイチゴには花が咲き実がなっている。
   
   
   
   
   
   
   
   

   皇帝ダリアを植えようとして、昨秋、放置されていた太い茎を、節ごとに輪切りにして、土の中に保存して置き、初春に植木鉢に埋めて置いたら、芽が元気よく出て来た。
   もう少し、大きくなったら、庭に移植しようと思っている。
   
   
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レッドオーシャンから脱皮できない就活大学生

2018年04月24日 | 政治・経済・社会
   今日の日経の第二部に、「新卒採用広告特集」が掲載されていて、”約4.3万人の就活生が投票 2019年卒大学生対象就職企業人気ランキング 文系は航空・旅行、理系は食品が人気”と言うタイトルで、人気企業がランキングされていた。

   これまでにも、このブログで触れたのだが、これを見て、フレッシュマン、フレッシュウーマンが、このような状態では、日本の政治経済社会の将来には、あまり期待できないなあと思っている。
   世紀末から今世紀に入って、時代の潮流に乗り切れずに、崩壊寸前に至ったり、経営悪化で存続が危ぶまれたり、とにかく、経営上苦難に遭遇した会社などが名を連ねているのは、まず、置くとして、選ばれた企業の大半は、所謂、レッドオーシャン企業であって、ブルーオーシャンと思える企業の名前は、殆ど出てこない。
   これが、問題なのである。

   偉そうに言う前に、まず、私自身の選択だが、もう、半世紀以上も前になるので、同次元では語れないが、当時は、まだ、Japan as No.1どころか、トヨタ車が、急坂を登れなかった時代であったのだが、就活と言うより企業回りで、経営悪化や斜陽だと言われていた企業を数社回って、採用ゼロで諦めて、結局、ゼミの教授が行けと言った会社を訪れたら即決だったので、何も考えずに、そこに決めた。
   卒業生200人の内、半数が日銀を筆頭に銀行へ、その残りの半数が大手商社と言うことで、残りが、通産省などの役所やNTT、大学教授、その他製造業などの民間企業に分散した。
   当時は、今と違って、日本経済が先進国経済にキャッチアップすべく必死になって頑張っていた時期で、大企業が、最もイノベィティブで先端を走っていて、日本経済を牽引していたし、トップ大学なら殆どどこでも選べたので、余程のことがない限り、中小への就職機会はなかった。
   それに、企業そのものが成長躍進の上り調子であったので、若輩にも、どんどん、重要な仕事を任されて、正に、トインビーの説いたチャレンジ&レスポンスで、止まる暇さえない状態であった。

   ところが、今日は、様変わり。
   安倍首相は、「日本を米国のようにベンチャー精神あふれる起業大国にする」というかなり大胆な発言を行っており、起業・創業を支援して日本企業を活性化するために新たに生まれる中小企業をサポートするなどと、日本政府はお題目を唱えてはいるが、果たして、
   金の卵である筈の新大学卒業生が、日本経済の最先端部門のブルーオーシャンには一顧だにせず、自分の将来を、所謂、成長が望み薄で斜陽のレッドオーシャンに捧げたいと言う、この現実をどう考えればよいのか。

   この日の日経の「経済教室」は、”イノベーションの条件 下”で、伊神満エール大学准教授が、「新旧部門「共食い」恐れるな」として、サブタイトルで、「起業家妨げぬ環境整備を」と書ている。
   ポイントは、
   〇一時代築いた企業は技術革新が遅れがち
   〇既存企業の「能力」ではなく「意欲」に問題
   〇補助金より挑戦の機運醸成や敗者復活を

   シュンペーターの「創造的破壊」から説き起こして、Clayton M. Christensenが、1997年に Harvard Business School Pressから出帆した”The Innovator's Dilemma: When New Technologies Cause Great Firms to Fail”を踏まえて、日本の悲しいイノベーションの現状を、非常に、優しく(?)書いているのが興味深い。

   「社会全体の幸福最大化」と言う経済学本来の価値観からすると、技術革新を全企業が一斉にやる必要などなく、やれる人やれる会社がやればよい。
   だから、政府は、「補助金バラマキ」「税金でファンド」「技術や投資の目利き」などの政策よりも、地味な環境整備に真の価値があり、人々が勝手に何か新しく面白そうなことをやる「気運」を助長する(邪魔しない)とか、国内外の人と金の流れを円滑にしておくことが一番である。
    新しいことは失敗するものなので敗者復活しやすいような社会保障の整備は大切で、一握りしかいない成功者には陰口を叩くくらいは仕方ないとしても他人の足を引っ張るのはその程度にすべきで、成功した企業家に何かと理由をつけて逮捕したり投獄したりする国があるが、これは、やらない方が賢明である。と言う。

   ホリエモンや村上ファンド問題が世論を騒がせた時に、私自身は、このブログで、その対応のやり過ぎに疑問を呈して、日本の経済再生・活性化、イノベーションへの芽を摘む危険を書いたのを覚えているが、これらの犯罪性などを考慮しても、その後の目も当てられないような日本の名だたる大企業の不祥事や経営の欠陥、今日の政官の堕落や質の劣化を考えれば、貴重なチャンスを失したと思っている。

   今回は、何度も書き続けているシュンペーターの創造的破壊も、クリステンセンのイノベーターのジレンマも、そして、ブルーオーシャンについても言及しないが、失われた四半世紀を経た今も、少しも、変わらず進化もしていない、どんどん、世界から取り残されて普通の国になって行く日本経済をどうするのか、考えている。

   余談ながら、著者近刊「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明 と言うタイトルで、「イノベーターのジレンマ」と言う表現を使っている。
   前述のクリステンセンの本”The Innovator's Dilemma”が、日本版で、「イノベーションのジレンマ」とされていて、
   ジレンマを起こすのは、イノベーターであってイノベーションではない。このタイトルづけの誤りによって、内容を大きくスキューして、この本の価値を損ねているのみならず概念の誤解を招いて悪影響を与えていると、何度も言及してきたので、ほっとしている。
   他にも、売らんかな、の 意図が強くて、翻訳本のタイトルの誤りが結構多くて、苦言を呈してきたが、   
   タイトル誤りの酷い例の一つは、日経出版の
   リチャード・S・テドロー著「なぜリーダーは「失敗」を認められないのか」で、
   この本の原題は、Denial: Why Business Leaders Fail to Look Facts in the Face---and What to Do About It で、否認:何故ビジネス・リーダーは、眼前の現実を見誤るのか、そして、それに対処する方法、と言うことであって、翻訳本のタイトルは、原題とは勿論、著者の意図とも中身とも違っていて、あのヘンリー・フォードでさえ、「眼前に展開していた経営環境の変化を直視せずに否認して経営を誤った」と言うことであって、失敗を認められないと言った次元のストーリーではないのである。
   (しかし、この本は、実に素晴らしい経営学書であることは言うまでもない。)
   ついでながら、学術書としての命とも言うべき索引を端折る本が多いのも、日本の出版の質の劣化であると思っていることを付記しておきたい。
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わが庭・・・黄花ぼたん、シラー咲く

2018年04月23日 | わが庭の歳時記
   わが庭の最後の黄色いぼたんが咲いた。
   ぼたんは中国の名花だが、唐代には紅花が中心で黄花はなく、宋代からだと言う。
   わが庭には、3本しかぼたんは植わっていないのだが、そのうち2本が黄花で、中国では、黄色は高貴な色だと言う。
   この花の蕊は同色で目立たないが、先に咲いた黄花の蕊は複雑で面白い。
   
   
   

   ぼたんに比べて、ワンテンポ遅れて咲くのが、シャクヤク。
   木のぼたんと違って、シャクヤクは草花なので、同じようなボリュームのある大きな花を頂くので、花を支えきれないことが多いために支柱を立てる。
   私の庭には、20本近くあっちこっちに植えてあるのだが、まだ、蕾は固い。
   
   

   シラー・ベルビアナが咲き始めた。
   ネギ帽子のような蕾がすっくと伸びたと思っていたら、周りから星型の小花が飛び出してきて、線香花火のように開き始めた。
   まだ、開きはじめたところなのだが、面白い綺麗な花である。
   
   
   
   
   
   

   ひょろりと茎を伸ばして、ハルシオンが風にゆれている。
   タンポポなど、結構、雑草が花を咲かせている。
   菫は、いつの間にか消えてしまった。
   植えなくても、雑草は咲いてくれるので、季節の移り変わりが分かって興味深い。
   
   
   
   
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河野牛豚肉店の100周年記念セール

2018年04月22日 | 鎌倉・湘南日記
   鎌倉の藤沢寄りの昔の田舎手広村に、(有)河野牛豚肉店がある。
   いつも、結構、客が途切れることなく訪れている人気の高い肉店である。
   年末の大売り出しの時には、連日、小さな店の前に長蛇の列が繋がる。
   一度並んだことがあるのだが、1時間は待たされるが、事前に注文書で申し込んでおけば、手渡しで受け取れるので、そうしている。
   今回、創業100周年とかで、「創業100年祭のご案内」と言う新聞ビラが入った。

   創業100年祭のご案内
   本年は河野が鎌倉手広にて、お肉を生業として皆様のお蔭様をもちまして
100年を迎え、感謝を込め「創業100年祭」を4月18日(水)より
4月21日(土)開催致します。

   連日、長蛇の列で、丁度、手前に、手広の交差点の信号があるので、停車した車の人が、ガードマンに何事だと訪ねている。
   
   

   最終日の土曜日、長女の誕生祝にすき焼きをしようと思って、私も、列に加わった。
   やはり、1時間待って、やっと店に入れたのだが、天気も良かったので、別に苦痛でもなかった。
   結局、程々のすき焼き用の牛肉をと思って、1キロ求めたのだが、この店の牛肉は、黒毛和牛以上の上等の肉なので、但馬牛と言うので買ってみたが、最上等の霜降り肉には手が出なかった。
   やはり、スーパーなどで買う和牛や、オーストラリアやアメリカ産の牛肉とは違った品質で、いつも、満足している。

   この店だが、別に便利な商店街にあるわけではなく、鎌倉山の北側、鎌倉から藤沢に抜けるかなり交通の激しい大通りの交差点近くにあるのだが、要するに田舎の肉店で、100年とは大した老舗である。
   鎌倉地元民の会編の「鎌倉の地元遺産100」には載っていないのだが、この本は、鎌倉の旧市街近くの記述ばかりなので、鎌倉山や腰越など西部鎌倉には、田舎だと言うことで関心がないのであろう。
   鎌倉関連の本は、結構沢山持っているのだが、観光案内などガイドブックにしろ、独善と偏見が結構強くて、実際とはかなり違っていたり、時には、誤りだと思うような記事に出くわすことが多くなってきたのは、私も、多少鎌倉の住人らしくなってきた所為かも知れないと思い始めている。
   尤も、私自身の見方なり感じ方も、結構、変わっているので、フェアである筈がないとは思っているのだが、結局は、自分自身の鎌倉イメージを作り上げる以外にないのであろうと思っている。
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経済格差は縮小するのか・・・I・ブレマー対The Economist

2018年04月21日 | 政治・経済・社会
   昨日の日経のコラムで、イアン・ブレマーが、「格差の収束、反転する懸念」と言うタイトルで、このまま、世の中が推移して行けば、格差が収束するどころか、むしろ、格差が益々拡大して行くと言う論調を展開した。

   ブレマーの主張は、ほぼ、次の通り。
   現在、職場の技術変革は、人工知能(AI)などが経済分野などに幅広く導入されることで、人々の雇用に、より高い教育や訓練が必要になることは確実で、金銭的に余裕のある人が教育を受け、知識と技術を身に着けた人が高賃金の機会を得る。高い教育や訓練の結果、経済的に苦しいなど、職に就くと言う流れから外れた人の将来は苦しくなる。
   また、新たな技術と言う経済・社会的な現実に人々が適応するのを可能にする教育制度、労働者の再訓練ができるのは豊かな国だけになる。我々の生きる時代において、このような豊かな国と貧しい国の富の収束が、完全に反転することになりかねない状態が起こる。

   ブレマーは、更に、
   貧困から脱出する道を塞がれる中、多くの途上国で、若い世代が労働力から政治的な脅威に変わる可能性がある。若者が現役の労働力になれなければ、新たな雇用に必要な教育や訓練へのきっかけさえもらえない。変化の波で敗れる人々が、どのような政党を支持するかは分からないが、システムそのものに宣戦布告するかも知れない。と、社会不安の可能性をも示唆している。

   この教育の困難さについては、アメリカでも、大学の授業料が異常に高騰して、奨学金地獄に陥って苦しんでいる学生やその返済で破綻する人々が増加の一途を辿っていて問題となっているのを考えれば、貧富の格差拡大は必致であり、ましてや、貧しい新興国家や途上国との格差拡大は収束しようがなかろう。

   ところで、英「エコノミスト」誌は予測する「2050年の世界」の中で、ザニー・ミントン・ベドーズは、「貧富の格差は収斂していく」と言う章で、「世界の貧富の差は、2050年には今よりはるかに縮小されている」と論じている。
   
   多少、タイムスパンの差はあるのだが、殆ど同じ論点について語っているので、比較しながら、考えてみたいと思う。

   まず、べドーズ論だが、
   その指摘で興味深いのは、国内の差だけではなく、各国間の差を論じており、夫々が影響されるとして、まず、富裕国と貧困国の貧富の差は、どの国の国内格差の拡大よりも著しいので、新興経済国が先進国より急速に成長するとともに、劇的に縮小し、今後数十年間で全世界の生活水準の壮大な均一化が起こるであろう、と想定している。

   べドーズの新興国の急速な経済成長については、日本の戦後復興に追随した韓国や台湾などの四小龍の経済成長や、1978年の中国、1990年代初期のインドの経済革新の開始が、各国間の所得格差の転機となったとして、より多くの国々が市場改革を受け入れ、グローバリゼーションを技術が後押しするにつれて、収束傾向がより強まって行った。1990年以降、新興経済国の大多数がアメリカより急速に成長し、キャッチアップのペースが上がってきている。と言うのである。   

   しかし、”We are 99%.ウォール街を占拠せよ!”運動で明らかなように、アメリカは勿論、平等主義的なスエーデンやドイツでさえ格差が拡大し続けて、ブラジルなど一部を除いて、ジニ係数が悪化しているのだが、国内格差とは逆に国家間格差の縮小が大きいがために、全世界レベルで、各国間の所得差の縮小の方が強力なので、世界のジニ係数が下がり始めていると言う指摘は、非常に興味深い。

   ところで、現在、益々進行しつつある国内の格差拡大についてだが、それは、新興国経済と同様に、政策決定と根底の経済動向の組み合わせ次第だと言う。
   格差拡大要因となる技能の向上については、何よりも教育に左右されるが、教育へ上手く投資する国家程、不平等度の上昇は少ない。
   最大の不確定要素は、どれくらいの数の政府が再分配を行なうかで、現代の先進、新興経済国の両方における不平等への注目は、政策が極度の格差に取り組む方向へ転じて行くことを示唆している。と言う。

   なぜ、そうなるのかと言う理由は、判然としないのだが、上手く行けば、今後数年で20世紀初期のような改革が繰り返されて、全世界的な規模で、貧しい国が富裕な国に追い付く傾向と並行して、格差拡大が収束して行き、将来に期待されるのは”壮大な平準化”だと言えようと結んでいる。

   ところで、国内の格差縮小については、ジニ係数が向上したと言ってブラジルを高く評価しているが、これは、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領が、「飢餓ゼロ計画」を立ち上げ、貧困層への支援を積極的に行って、貧困層への家族手当である「ボルサ・ファミーリア(Bolsa Família:家族賃金)」を創設するなど積極的に平等化政策を実施した結果であって、実質的な経済格差は、はるかに、深刻な筈である。
   そして、アメリカを筆頭にして、国内の格差拡大は、現在の民主主義的な資本主義経済体制を敷いている限り、悪化しこそすれ、良くなるはずはあり得ないと考えた方が正しいのではないかと思う。
   アメリカの場合、いくらか、リベラルで厚生経済的な平等化政策を取ろうとしたオバマ大統領時代でさえ、一歩も前進できず、時針を逆回転させるようなトランプ体制に戻ってしまっており、また、国家財政の悪化で、既にない袖を触れなくなってしまった先進国においては、格差縮小への政治経済政策の実施など不可能だと思われる。

   唯一、望み得るのは、中国やインドで実現したような経済大躍進によって、多くの最貧人口が貧困から脱出して、経済生活人口に参入されたような現象、すなわち、最貧困層の撲滅が、他のアフリカや中南米など発展途上国で起こり得るかとどうかと言うことであるが、あれもこれも、すべて、政治経済政策次第と言うことであるから、哲人政治が実現しない限り無理であるから望み薄である。

   私自身は、ブレマーの考え方に近い考え方をしているが、AIやIOTが、人間にとって代わって仕事から人間を駆逐して行くのかどうかと言うことについては、よく分からないし、勉強中である。
   机上に、「ザ・セカンド・マシン・エイジ」や「ロボットの脅威」等々、それらの関連本が積読なので、もう少し、考えを整理してから論じてみたいと思っている。  
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都響・・・定期演奏会:大野和士のロシア音楽

2018年04月20日 | クラシック音楽・オペラ
   昨日の都響定期演奏会Cシリーズのプログラムは、次の通り

   指揮/大野和士
   リムスキー=コルサコフ:序曲《ロシアの復活祭》op.36
   ボロディン:歌劇『イーゴリ公』より「だったん人の踊り」
   チャイコフスキー:交響曲第3番 ニ長調 op.29《ポーランド》

   前半2曲は、比較的ポピュラーで、演奏会で聴く機会も多いのだが、チャイコフスキーの交響曲第3番は、初めて聴く曲であった。
   都響のHPに、”大野和士が語る チャイコフスキー:交響曲第3番”と言うタイトルの20分ほどの動画が掲載されていて、各楽章ごとに、ピアノを弾きながら、重層的なテーマ音楽などを示しながら、丁寧に説明がされていて、参考になった。
   この曲は、「白鳥の湖」「ピアノ協奏曲第1番」「エフゲニー・オネーギン」と同時期に作曲された交響曲で、チャイコフスキーが、何も臆することなくブレイブに書いたエネルギーに満ちた35歳までの青春の証だと言うのである。
   都響の「聴きどころ」解説では、
   ”まるでバレエ組曲のように明るく華やかなチャイコフスキーの第3交響曲。第5楽章の浮き立つようなポロネーズのリズムをはじめ、作品全体がまとうエレガントな表情は、哀愁や苦悩の印象が強いチャイコフスキーの交響曲群の中にあって、独特の魅力を放っています。”と言うことである。
   
   これまで、三大交響曲と言うので、第4番から第6番の「悲愴」までは、コンサートでも良く聴いており、何となく、非常に重厚だが重苦しい雰囲気の曲なので、敬遠気味だったのだが、この第3番は、ワルツやポレネーズ、時折、流麗で綺麗なメロディーが流れ、フィナーレは、壮大で華やかなコーダへ。
   大野が、熱っぽく、動画解説で語っていた思いが、響いてくる素晴らしい演奏であった。

   イーゴリ公」の「だったん人の踊り」は、1970年の大阪万博で来日したボリショイ・オペラを観て、素晴らしく美しい舞台で繰り広げられたこのシーンとメロディーを覚えているので、懐かしくて嬉しかった。
   一度、ヨーロッパにいた時に、コンセルトヘボーかロンドン響で聴いた記憶があるが、先年、ザンクトペテルブルグのエルミタージュなどで韃靼人がらみの絵画を観たり、中央アジアの錯綜した歴史を勉強していたので興味深くて、ロシアの匂いを感じた思いで聴いていた。
   ウィーンやロンドンで観た「ボリス・ゴドゥノフ」も、正に、ロシアの歴史や民族性を色濃く感じさせるオペラだが、何故か、ロシアと言うと特別な感慨を持って、聴いているような気がしているのが不思議である。

   歳を取ると、夜のコンサートが苦痛になり、夜の定期公演から昼のプロムナード・コンサートに変えていたが、少し、物足りない感じがして、昼の定期公演に切り替えた初日であった。
   池袋は久しぶりだが、横浜からは東横線で一本なので、サントリーホールよりは少し便利になった。
   広場で、早稲田の古書店が店を連ねていたので、暫く、見ていたが、本当に古書ばかりで、真面な経済学書や経営学書などはなかった。
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わが庭・・・つつじ、ぼたん、スズラン、コデマリ、ミヤコワスレ

2018年04月19日 | わが庭の歳時記
   椿が殆ど終わって、つつじやサツキの萌える季節となった。
   わが庭には、つつじがかなり植わっているのだが、日当りの所為か、あまり花付きが良くないので、気にはしているのだが、元々、それ程、好きな花ではないので、主木のお供のような感覚でおり、それが良くないのかも知れない。
   
   
   
   
   
   3本のぼたんの内、2本目の黄色いぼたんが、綺麗に咲いた。
   このぼたんも、千葉の庭から移植したのだが、やっと、鎌倉の土に慣れたのか、木が大分大きくなってきて、花もしっかりと咲くようになった。
   
   
   

   コデマリが、一気に咲き切った。
   オオデマリほどの華やかさはないが、白い小花が半球型に密集した形の良い花である。
   
   

   小さなスズランが、地面すれすれに、ひっそりと咲いていて、激しく葉を広げて伸びて来た雑草などに押しのけられた感じで可哀そうである。
   本当は、隔離するなり鉢植えするなりして育てるべき草花なのであろうが、毎年、忘れずに、あっちこっちに表れて楽しませてくれるので、自然に任せている。
   面白いのは、この方は、花木だが、ブルーベリーがよく似た花をスズラン状に咲かせて面白い。
   
   
   
   

   もう一つ、わが庭のあっちこっちで咲き始めたのが、ミヤコワスレ。
   結構、生命力が旺盛なので、株分けして移植して置いたら、下草となって、綺麗に咲いてくれて、彩を添えてくれている。
   
   
   
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METライブビューイング・・・ロッシーニ「セミラーミゼ」

2018年04月18日 | クラシック音楽・オペラ
   ロッシーニの「セミラーミデ」は、初めて見るオペラだったが、ベルカントの美しいサウンドに貫かれているので、最初の長い前奏曲から、文句なく楽しませて貰った。
   紀元前800年頃のアッシリアの伝説上の女王セミラミスを主人公としたオペラだと言うのだが、オペラの舞台や演出は、バビロニアを現出しているので、アイーダの舞台を彷彿とさせて、壮大な歴史絵巻を観ているような雰囲気であった。

   ロッシーニのオペラは、これまでに、かなり観ており、一番多いのは、やはり、「セビリアの理髪師」で、METやロイヤル・オペラで、しかし、最初に観たのは、もう、何十年も前に、イタリア旅行をした時に、ミラノ・スカラ座で、「アルジェのイタリア女」で、若きアバードの指揮であった。スカラ座では、もう一つ「チェネレントラ」を観ているが、「泥棒かささぎ」や「ランスへの旅」「ウィリアム・テル」などはロンドンであった。

   何度か観ている喜歌劇とも言うべき「セビリアの理髪師」の印象が強すぎるので、わたしには、今回の「セミラーミゼ」は、ギリシャ悲劇の「オイディプス」のような悲劇なので、一寸、違った思いで観ていた。
   母である女王セミラーミゼに殺された父王ニーナの亡霊が登場するのなども、ハムレットに似ており、そして、同じく、ドンジョバンニの舞台も思い出させて、非常に、興味深い。
   ヴォルテールの悲劇「セミラミス」を底本にしたオペラであるから、シェイクスピア戯曲のように非常にしっかりと構築された物語で、高度な舞台を鑑賞しているような感慨を感じる。
   ストーリーを知りたかったので、インターネットの100Rossini・comで、事前に勉強していたので、非常に、よく分かって助かった。
   実際にオペラハウスの公演なら、詳しいプログラムが買えるのだが、映画だから、それがない。

   ところで、このオペラは、私にはよく分からないのだが、相澤啓三によると、セミラーミゼは華麗な装飾唱法の頂点を極めたソプラノ・ドラマティコ・ダンジリの難役で、ズボン役のアルサーチェは、それに優とも劣らぬメゾ・ソプラノの至難の役柄で、他の役も難しい技巧を駆使することが要求されるオペラで、解説のC・モルトンも、これに応え得る歌手が揃わないと上演が出来ないので、METでも、15年ぶりの舞台だと言う。

   素晴らしい舞台を演じた配役は、
   指揮:マウリツィオ・ベニーニ、演出:ジョン・コプリー
   出演: バビロンの女王セミラーミデ:アンジェラ・ミード、
      バール族の王族アッスール:イルダール・アブドラザコフ、
      若き軍人・セミラーミゼの実子:アルサーチ:エリザベス・ドゥショング、
      インドの王イドレーノ:ハヴィエル・カマレナ、
      高僧オローエ:ライアン・スピード・グリーン

   このMETライブビューイングで良いのは、休憩時間を利用して、主要な歌手(この場合5人)に、インタビューするシーンがあることで、
   第1幕が終わった直後に、第2幕で、アリア「麗しい光が」や、アルサーチェとの二重唱「その忠誠を永遠に」をうたって観客を魅了したセミラーミゼのミードが、にこにこしながら登場して語っていて、そのバイタリティと余裕の凄さにびっくりした。NHK響でマーラーの8番をうたったとか。柔らかく豊麗な声、圧倒的な声量、完璧な技術で、「声」を聴く悦楽を味あわせてくれる名歌手と言うことだが、とにかく、凄い。

   イドレーノのメキシコ人テノールのカマレナは、甘く柔らかく軽やかな声、驚異的な技術で、ロッシーニなどの超絶技巧を要するオペラを得意とする歌手だと言うことで、片思いの悲しさアリア「甘味な希望がこの魂を魅了して」などで観客を喜ばせ、ハイCの凄さで魅了。インタビューの最後で、家族に挨拶する陽気さ。
   この舞台の凖主人公であるアッスールのアブドラザコフは、色彩感に富んだ深みのある声と驚異的な超絶技巧を武器に、主にベルカントオペラで活躍と言うから、冒頭のアリア「やっとバビロンに着いた」から素晴らしくて、母子再会の感動的な二重唱「よろしい、さぁ、手を下しなさい」で最高潮に達する。小柄なので、アンネ・ソフィー・フォン・オッターのような風格があれば、と思って観ていた。
   セミラーミデを唆して王を殺害した悪役のロシア人バスバリトンのアッスールのアブドラザコフは、最後のアリア「われわれは復讐するぞ」でパンチの利いた歌唱で魅了するが、性格俳優よろしく、一番芸が上手く様になっていた。
   オローエで非常に誠実な高僧を演じたグリーンは、15歳の時の少年院でのこと、METでカルメンを見て、レオンタイン・プライスなどアフリカ系アメリカ人が活躍しているのを知って発奮したことなど感動的に語っていた。
   
   ベニーニは、一寸学者風の風貌、現代を代表するイタリア・オペラの名匠で、とくにベルカントオペラにおいて卓越した手腕を発揮する指揮者なので、素晴らしいロッシーニサウンドを堪能させてくれた。

   4時間少しの舞台であったが、久しぶりに、中身の濃いオペラを鑑賞した。
   最近、能狂言、歌舞伎文楽など日本古典芸能に通っているが、やはり、自分の好きなのは、オペラなのかもしれないと、長かった欧米での観劇の思い出を懐かしんでいた。
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尾原和啓著「ザ・プラットフォーム」

2018年04月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「IT企業はなぜ世界を変えるのか?」と言うサブタイトルのついたこの本、
   まず、グーグル、アップル、フェイスブックの「共通価値観」から説き起こして、日本型プラットフォームの特質や可能性に及び、人類を幸せにするプラットフォーム論を展開する。

  私など老年にとっては、難しいプラットフォーム論には、あまり、興味も関心もないのだが、時流にそれ程取り残せられることなく、それなりに、ICT社会について行ければ良いと思っているので、丁度、恰好の書物であった。
   尤も、私の場合は、スマホを使っておらず、ツイッターもフェイスブックにも
縁がなければ、LINEも、ミクシィにも、全く関心がない。要するに、パソコンを使って、精々、グーグルの検索機能やアマゾンや楽天でのショッピング程度のインターネットとの付き合いなので、ITプラットフォームの関りは極めて限られている。

   著者が言う「プラットフォーム」とは、
   個人や企業などのプレイヤーが参加することではじめて価値を持ち、また、参加者が増えれば増えるほど、価値が増幅するIT企業が展開するインターネットサービス、  
   ある財やサービスの利用者が増加すると、その利便性が増加する「ネットワーク外部性」がはたらくインターネットサービス、だと言う。
   アップルやグーグルやフェイスブックは勿論のこと、著者は、日本型プラットフォームとして、リクルート、iモード、楽天を詳細に論じている。
   日頃感じているインターネットや実生活上での利便性の進歩や便利さの向上など、謎解きのように教えられることがあって、興味深かった。

   専門的なプラットフォーム論は、私の及ぶところではないので、論述するつもりはないが、著者が最終章で論じている  
   プラットフォームは、自由で豊かな生活を楽しむことができる「リベラルアーツ」として機能して、「人を幸せにする」ものだとする論調には関心を持った。

   「問題や課題は必ず解決して行ける」とか、長期的な未来に対してはつねに楽観的でいる「ディープ・オプティミスティック」など、”人を幸せにするプラットフォーム”について論じている。
   しかし、ソロスが、「(基盤事業を握る)巨大ITプラットホーム企業の寡占的行動」を批判して、”グーグルとフェイスブックは「極悪だ」”と論じたように、そして、今回の”フェイスブックCEO”が 米議会で個人データ流出を謝罪した”ように、グローバル社会を震撼させるような異常事態を惹起している。
   一寸した噂話で起こった銀行の取り付け騒ぎが金融危機を引き起こし、時には、取り返しがつかないような大恐慌の引き金にもなりかねない知識情報社会において、著者の説くプラットフォームの利便性や人々の幸せを増幅する機能を認めたとしても、最強のプラットフォーム故に、最悪の情報が流れて、人類社会を、一気に吹き飛ばすような危険性の方が、多いような気がしているのだが、杞憂であろうか。

   話は飛ぶが、ICT革命は、正に、人類史において最も影響の強い両刃の剣であって、 兵器を使った実戦よりも、サイバー攻撃の方が恐ろしいし、むしろ、この方が破壊力が強くて、人類を危機に追い込む可能性が高いと思っている。
   巨大ITプラットフォーム企業は、そのセキュリティ対策は必須だが、現実社会においては、公共企業以上に、パワーと権力を持った公共財であり、いわば、リバイヤサンとなり得る可能性を持っているのであるから、人類の英知を結集して、その対応を真剣に考えるべきではなかろうか。

   私は、なるほど、なるほど、ITプラットフォームは、素晴らしい、と思って読めば、それで、それなりの勉強になったのだが、そうなれないところが、歳の所為だとは思っている。
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国立演芸場・・・歌丸の「小間物屋政談」

2018年04月15日 | 落語・講談等演芸
   酸素吸入器をつけての歌丸の高座だが、体調とは裏腹に、相変わらず、溌溂とした凛とした名調子で、マクラは程々に、45分、「小間物屋政談」を語りきった。

   ここ二三日、天候不順で、低気圧になると、非常に息苦しくなって、酸素の量を増しているのだと言うのだが、本人が可愛い男と言っていたように、肩が角ばってはいるものの、観かけ上は、殆ど、病人には見えないほど元気である。

   この「小間物屋政談」だが、5年前に、この国立演芸場で、歌丸の名調子を聴いている。
   ストーリーは、
   京橋五郎兵衛町の長屋に住む背負い小間物屋の相生屋小四郎は、大坂へ行商に行く途中箱根の山中で、追剥にあって身ぐるみ剥がれて縛られていた芝露月町の小間物屋・若狭屋の主人である甚兵衛を助ける。病弱の甚兵衛は、一両と貸し与えた藍弁慶縞の着物を着たまま亡くなってしまい、江戸に帰ったら妻に返してくれと名前と所書を残していたので、検視に来た大家に小四郎が死んだと間違えられる。行商を終えて帰ったところ、大家の計らいで、女房お時は、既に、同業の三五郎と結婚していて、覆水盆に返らず。腹を立てた小四郎は、奉行所へ訴え、名奉行大岡越前守のお裁きを受ける。若狭屋甚兵衛が亡くなっているので、後家でお時とは比較にならないいい女のおよしと夫婦となり、若狭屋の入り婿として資産三万両を引き継ぐ。オチは、「このご恩はわたくし、生涯背負いきれません」「これこれ。その方は今日から若狭屋甚兵衛。もう背負うには及ばん」

   こう言うしみじみとした味のある人情噺を語る歌丸の姿は、正に、神々しいように輝き、いつも感動しながら聴いている。
   これ程功成り名を遂げた歌丸でありながら、語り口は、何の奇もなく衒いもなく、非常に丁寧に優しく実に明瞭なので、聴いていて、非常に爽やかなのである。
   歌丸の高座では、圓朝ものが多いのだが、「ねずみ」「井戸の茶碗」「紺屋高尾」「竹の水仙」と言った人情噺も聴いていて、私など、通の人は、どう聴いているのか分からないが、とにかく、歌丸の話芸がどうと言う前に、話に引きずり込まれて聴き入っている。

   この日のプログラムは、
   桂游雀 四段目
   桂米助 もう半分
   桂米多朗 ちりとてちん
   桂枝太郎 源平盛衰記
   春風亭昇也 動物園
  
   米團治の「四段目」は、いのししの前足と後ろ足が、藤十郎と仁左衛門で上方歌舞伎だが、游雀の「四段目」は、菊之助と菊五郎で江戸歌舞伎の世界。
   刀を振り回して暴れている定吉に、主人が、お櫃を「御前」と差し出しだすと、「待ちかねたぞ」
   仕事をほっぽりだして歌舞伎に入れ込む丁稚がいたとは面白いが、怒った主人に、二階に閉じ込められた丁稚が、「働き方改革」を主張するところは、時流であろうか。

   「もう半分」は、初めて聴いたが、怪談噺である。
   ちりとてちんは、全編飲んで食べる仕草の連続で、何時観ても、シチュエーションに合わせて顔の表情を無茶苦茶に崩しての熱演で、面白いが、器用でないと難しいであろう。
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タキイのトマトをプランター植えする

2018年04月14日 | ガーデニング
   今年も、プランターにトマトを植えた。
   例年より早い感じがするが、ネット注文していたタキイから4月苗が、送られてきて、苗がそれなりに成長しているので、そのままプランターに植えたのである。
   2種類買って、そのうち
   ”トマト三昧苗A ”(ホーム桃太郎、フルティカ、千果)2組の方を植えて、まだ、苗の小さい”ミニトマト・CFプチぷよ苗 レッドとイエロー”は、そのまま、暫くおいて植えることにした。

   トマト三昧苗は、大玉、中玉、ミニがそれぞれ4株ずつ、CFプチぷよは6株ずつなので、〆て24株。
   タイムラグを維持するために、まだ、5月にかけて、苗を買って植えるために、毎年、40株は超すので、庭全体に葉が茂り満杯となるので、プランターの置き場所に困る。
   このアオリを受けて、バラなどが犠牲になったりして、痛し痒しである。
   

   プランターは、大きめのプランターで、土量は、最初は15~6Lくらいで、後に20L程度にして、2株ずつ植える。
   これまで、特に不都合はないので、苗と土は毎年変わるが、プランターや支柱などは、再使用しているので、準備の手間は省ける。
   
   
   

   このブログでも、以前は、栽培記録を書いているが、とにかく、これまでに、色々なトマト苗を育てて来た。
   昨年は、殆ど国華園の苗を使ったが、質にバラツキがあったので、大体、最初から毎年使っているタキイ苗に統一した。
   変わったところと言えば、いつも失敗している大玉トマトを、ホーム桃太郎で、再挑戦してみようと思ったことである。
   今植えた苗木に、ほんの微かに、花芽が見えている。
   

   プチぷよミニトマトは、
   ”果皮がごく薄く、噛んだ瞬間に果汁があふれとろけるような食感が楽しめる。糖度が高く、トマト本来の風味も豊かでおいしい。”と言うことなので、どんなトマトか分からないが、2歳の孫娘のために育ててみようと思ったのである。
   いずれにしろ、玉が大きくなって行くほど難しく、ミニトマトは、多少手を抜いても、よく実るので、比較的楽であるのが良い。
   
   
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わが庭・・・ぼたん、ハナミズキ咲く

2018年04月12日 | わが庭の歳時記
   私の庭には、ぼたんが3株植わっており、その1株が咲いた。
   20センチ近い大輪であり八重なので、かなり豪華である。
   シャクヤクは、冬季に地上部がないので、あっちこっちに植えてあっても一気に茂りだして消えて行くので、気にならないのだが、ぼたんは、かなり、存在を主張するので、何となく、十分な空間がないと植え難い花木である。
   
   
   
   
   

   ハナミズキも、開花した。
   白とピンクだが、この花弁のように見えるのは総苞で、中心の塊が花序なので、この綺麗なものは、花ではない。
   ハナミズキは、アメリカヤマボウシと言うようだが、ワシントンへの桜のお返しとして、アメリカから頂いたものだと言うのだが、街路樹などで、定着していて、それなりに雰囲気があって良い。
   
   
   
   
   

   綺麗に芽吹き始めたのが、もみじ。
   古木の木は、野村だと思うのだが、芽吹き葉が、色づいていて、華やかである。
   これは、私の好みで植えたのだが、まだ、小木ながら風情のあるもみじで、獅子頭2本、そして、鴫立沢と琴の糸である。
   大木になると、鑑賞に堪えるのであろうが、まだ、木が小さいので、秋の紅葉時期になるまでに、葉がダメッジを受けて、中々、綺麗な紅葉を見ることが難しい。
   一度、獅子頭が真っ赤に燃えるように美しく紅葉したのを見たことがあるが、小さな美しい造形の美は流石で、素晴らしいもみじである。
   今年の秋を楽しみにしたいと思っている。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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