熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

コロナと言うが旅に夢はかけ廻る

2020年05月31日 | 生活随想・趣味
   「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」
   有名な芭蕉の最晩年の句だが、これをもじって、「旅に夢は駆け廻る」、
   これが、最近の私の心境である。
   コロナウイルス騒ぎで、国際観光が壊滅的な打撃を受けており、殆どストップ状態だと聞くと、一層、旅をしたくなる。

   単純な話、暇人であるから、旅に出ようと思えば、いくらでも可能ではあるのだが、まず、孫娘の幼稚園への送り迎えがあるので、再来年の春までは、1週間といっても時間が取れない。
   それに、年金生活の不如意で、今回の特別補助金を回すか、資金的な問題もあって、思うように計画を立てるのもままならない。
   飛行機にしろ、ホテルにしろ、最安値の貧乏旅行となるのは必置だが、観劇だけは上等な席でと思っているものの、最近、とみに歳を感じ始めているので、第一、体が持つかどうかも気にはなっている。

   今回行きたいのは、アメリカで、このブログで書いた2008年の「ニューヨーク紀行」と殆ど同じ旅程でのニューヨークでのミュージアムやオペラ鑑賞の文化旅、そして、フィラデルフィアへの母校訪問というセンチメンタル・ジャーニーである。
   本当は、長く居たヨーロッパへ行きたいのだが、イギリスにしろ、イタリアにしろ、フランスにしろ、ドイツにしろ、行きたいところが多くて選択に迷って悔いが残るので、アメリカだと、一番よく知っているニューヨークとフィラデルフィアだと、これで、1週間の旅程度でも、まず、満足できるのである。
   2年後だと、コロナウイルス騒ぎも終息して居るであろうし、夏の休暇前であれば、オペラやクラシック・コンサートには十分間に合うし、日中は、ミュジーアムや市街散策で文化散策を楽しめる。
   前回同様に、メトロポリタン・オペラの予定を中心にして、ニューヨーク・フィルやカーネギー・ホールのプログラムも勘案して、今回は、2年間通い詰めたフィラデルフィア管弦楽団も、久しぶりに新しいコンサート・ホールで聴きたいと言った調子で、夢だけは膨らんでいる。
   前には、フェルメールに会いたくて、フリック・コレクションも訪れたが、メトロポリタン・ミュージアムで、1日中沈没していても良いと思っている。
   今でも、メトロポリタン・ミュージアムからの情報メールは受け取っており、大英博物館とルーブルと共に、何度通っても、何日居ても飽きないほど、知的好奇心を満足させ続けてくれるのである。
   行く前には、西洋史と美術関係、オペラの本を存分に読んで準備をする。
   敬遠していたトインビーの「歴史の研究」に、今度こそは、本格的に挑戦してみたい。

   さて、次の写真は、わが母校ペンシルバニア大学の創立者ベンジャミン・フランクリンの銅像で、苦しいときにも楽しいときにも、四季を通じて仰ぎ見ていた青春の思い出、
   アムトラックに揺られて、フィラデルフィアに行きたい。
   
   
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わが庭の緑陰の午後のひととき

2020年05月30日 | 生活随想・趣味
   コロナウイルス騒ぎで、殆ど外出はままならない。
   五月晴れの日など、これほど、恵まれた自然環境がないと思うほど、素晴らしい陽気となり、緑陰の木漏れ日の涼風の素晴らしさなど、筆舌に尽くしがたい。
   一寸、大げさな表現だが、わが庭の狭い空間に居てさえそうお思うのであるから、綺麗な花が咲き乱れている古社寺や庭園などの素晴らしさは、言うまでもなかろう。

   身近な大船フラワーセンターなどでさえ、”新型コロナウイルス感染拡大防止のため、神奈川県立施設の臨時休館の方針に沿い、8月31日まで休園いたします。”と言うことで、咲き乱れている薔薇の乱舞を思えば、空しささえ感じる。
   
   さて、家に貼り付けられたような日々を送っているので、天気の良い日には、極力庭で過ごすことにしており、庭に出て、木陰にテーブルと椅子を移動させて、小一時間、新聞を読んだり、本を読むことが多い。
   今は、まだ、蚊や虫が出てこないので、気温も適当であり、微かな涼風でも感じられると、非常に快適な雰囲気の中で、読書を楽しめるのである。
   私の場合、読書スタイルは、学生時代と殆ど変って居らず、専門書や多少固い書物が多いので、小説を楽しむというような雰囲気ではなく、何冊か並行読みしたり参考文献に当たったりしながら読むので、書斎を行き来したりすることも多いのだが、書斎に閉じこもるよりは雰囲気が変って気分転換にはなる。
   歳の所為もあるが、自然光の明るさが、一番読書には快適であると思っている。

   庭なので、バラやアジサイなどがそばに咲いていて、蝶や小鳥が飛んできたり、時には、熊ん蜂が近づいてきたり、結構、気が散るのだが、これも、自然に触れながら・・・と思えば気にならない。
   別に、勉強しなければと言った読書ではなく、楽しみで本を読んでいるのだから、脇目を振ることが多く、庭の花木の手入れやプランター植えのトマトの世話など、手を抜いて庭をうろうろすることも多く、光の加減を見て、花の写真を撮ったりすることも多い。
   気分が向くと、運動不足を解消する意味もあって、鎌倉山に向かって歩くなど散歩に出ることもある。

   今日は、土曜日で、天気も良く、娘夫婦も休日であったので、庭でバーベキューをした。
   尤も、世話を焼くのは、若い二人で、私たちは、食べて飲んで楽しむだけだが、孫たちも遠足気分で結構楽しそうである。
   イギリスに居たとき、何度か、素晴らしい初夏に、グラインドボーンで、、昼頃から殆ど深夜近くまで、美しくて広大な庭園でピクニックスタイルの会食を楽しみながら、オペラを鑑賞していた日々のことを思い出したが、ヨーロッパでの夏の野外での夜長のエンターテインメントの楽しみは格別である。
   古城や宮殿、美しい公園などでの野外オペラやコンサートが結構多く、それに、これらを上手くアレンジしての企業や色々な団体のパーティやレセプションがあって、夏の夜長を楽しく過ごす生活の知恵は、流石にヨーロッパである。

   さて、わが庭での緑陰の読書やバーベキューだが、この僅かにしか五月晴れのない梅雨までの、蚊や虫の出てこない束の間の瞬間で、これからは、殆ど期待出来ない。
   その意味では、イギリスもそうだったが、ヨーロッパの夏は、本当に快適で恵まれていると思った。
   その点、アメリカの東海岸のフィラデルフィアに居た時に、気候が日本に似ているからであろうか、郊外のロビンフッドデルでの野外劇場でのフィラデルフィア管弦楽団のコンサートは素晴らしかったが、雨で中止となることがあった。
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わが庭・・・ジャスミーナ、ベルサイユの薔薇、咲く

2020年05月28日 | わが庭の歳時記
   つるバラのジャスミーナが、ピンクの可愛いばらを咲かせてくれた。
   元々京成バラ園のオベリスク仕立ての薔薇を買って育てていたのだが、場所を取って手入れの仕方も良く分からなかったので、そのまま、垣根腰に移植したところ、いつの間にか、野生化してしまったのである。
   野生化という表現は似つかわしくないかも知れないが、植えた後、適当に施肥は行うが、剪定もしなければツルの誘引もしないし、とにかく、何の世話も出来ないほど、庭木と同化してしまって自然に任すままである。
   丁度、同じ時期に、雑草のイモカタバミの花と一緒に咲くので、華やかになる。
   
   
   
   

   綺麗に咲いたのは、深紅のビロードのような豪華なベルサイユの薔薇。
   折角、大苗に育っていながら、昨年、幼い孫娘の庭歩きを慮って、やや日陰に移して世話に手を抜いたこともあって、今年は元気がないがのだが、とにかく、咲いてくれたのでホッとしている。
   先日、勢いよくベーサル・シュートが伸びてピンチをしたので、秋には復活して、もう少し豪華に咲いてくれるのを期待している。
   シリーズの王妃アントワネットとフェルゼン伯爵も育てたのだが、枯らせてしまって、このベルサイユの薔薇だけが残っている。
   
   
   
   

   廃却したはずのハーブのコモンマロウが、垣根腰に大きくなって花を咲かせている。
   わが庭にある唯一のクレマチス湘南が門扉横の紅梅に絡みついて伸び始めた。
   トマトも、ようやく、まともに花を咲かせて、結実し始めている。
   
   
   
   
   
   
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グローバル経済の誕生: 貿易が作り変えたこの世界・・・嗜好品の貿易(2)

2020年05月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   さて、アメリカのコーヒー文化について。
   アメリカ人は、世界一のコーヒー愛飲家で、謂わば、アメリカ人のアイデンティティ、
   植民地時代の住民は、本国イギリス人に対する反抗のシンボルとしてコーヒーを飲むことが、高貴で愛国的であるとさえ思っていて、この習慣が、アメリカ国家を建設する上で重要な役割を果たしたと考えていたという。
   しかし、現実には、当時のアメリカ人は、コーヒーより紅茶の方を多く飲んでいたようなのだが、誰でも知っているボストン茶会事件が起こった。
   1773年 12月 16日,イギリス政府が、東インド会社に茶の独占販売権を与え密貿易を禁止したので、ボストンの住民の急進派の一団が、インディアンのモホーク族に変装して、停泊中の3隻の東インド会社船に乗込み 342箱 (1万 5000ポンド) の茶を海に投棄した。のである。
   このボストン茶会事件が、アメリカの独立戦争に繋がるのだが、前述のイギリスの「茶法」を切っ掛けに、紅茶不買運動が広がり、紅茶の代わりにコーヒーが普及するようになったと言うことで、嘘か本当か、「アメリカン・コーヒー」が薄味で、レモンではなく、コーヒーにミルクや砂糖を加えるのは、紅茶の味に似せようとしたからだという。
   アメリカへの移民が、トロを食べたくて、アボカドを巻いたという「カリフォルニアロール」の元祖を思い出して、食文化とはこういうものかと、不思議な気持ちになった。
   ブラジルに駐在していたときに、移民の人々が現地で作った日本食品を色々味わったが、ふるさとの味も、地球を半周すると、こんなにも違うのかと感慨深く思った経験もある。

   ところで、このアメリカ人のコーヒー熱が生まれたのは、アメリカ人の愛国心の所為でも、イギリス嫌いの所為でもない。と、ポメランツは言う。
   原因は、一言で言えば、奴隷制度であった。と言うのである。

   アメリカの荷主は、当時、ハイチで大量の奴隷を使ってプランテーションで生産された砂糖を運び出し、奴隷が必要とする基本物資を運び込んでいた。
   一方、田舎に居たハイチの自由農民は、島のエリートたちにコーヒーを売ろうと、狭い耕地でコーヒーを栽培して、それを安い値段で販売していた。
   アメリカからやって来た商人は、ハイチで仕入れた商品だけでは積載量を満たせないので、山積みされていた余剰のコーヒーに目を付けた。コーヒーは長い旅に耐えて腐敗もせず、理想的な積み荷だったのである。
   当時、イギリスが重商主義政策をとっていて、アラビカコーヒーが高止まりしていたので、ハイチコーヒーの導入で、一気にコーヒー価格が急落して、誰でも買えるようになり、アメリカのコーヒー輸入量は、紅茶の10倍を超えた。
   その後、ハイチは独立したので、安いコーヒーが入らなくなったが、同じく、奴隷労働に頼ってコーヒーを栽培していたブラジルから、安いコーヒーを輸入できるようになったので困ることなく、さらに、19世紀になって、コーヒー増産で、益々、奴隷労働が必要となったブラジルに、奴隷貿易廃止のヨーロッパを尻目にして、アメリカが星条旗をはためかせて、不運なアフリカ人を送り込んだという。
   アメリカ帝国主義的な資本主義の芽生えであろうか。

   ブラジルに連行された奴隷は汗水垂らして辛いコーヒー園での労働に耐え、一方、アメリカの大都市で働く産業労働者は、コーヒー中毒になる。コーヒーがアメリカの生活様式に不可欠な飲み物になったのは、アメリカ人が紅茶好きの「イギリス人気質」に反発したからではなく、コーヒーが奴隷制度で安くなり、コーヒービジネスが儲かったからである。と、ポメランツは結んでいる。

   余談になるが、ポメランツは、今から二世紀前には、世界で最も豊かな島で「アンティル諸島の真珠」として羨望の目で見られていた国ハイチが、今では、
   途方もなく高い乳幼児死亡率、約50歳という平均寿命、一人あたり年400ドルのGDP、識字率25%と言う中南米一の被災国に落ちぶれて、   
   悲惨なハイチ難民が、惨めな貧困から脱出するために、米国へ逃れている現状を、
   フランス領の砂糖プランテーションとして、古代ローマ時代を思わせる残忍極まりない奴隷労働を酷使して収奪し、何も残さずに去っていたフランスの植民地政策の非常さと、その後のハイチの状態を「甘い革命」として述べている。
   2016年に、過去10年近くで最大級の大型ハリケーン「マシュー」に直撃されたハイチの惨状が記憶に新しいが、
   私は、2018年08月30日に、ジャレド・ダイアモンド著「歴史は実験できるのか――自然実験が解き明かす人類史」のブックレビューで、google earthの航空写真を借用して、イスパニョーラ島を、東西に政治的に分断しているハイチとドミニカ共和国と比べて、歴然とした貧富の差とハイチが如何に悲惨かを述べた。
   砂糖故に国を棒に振った悲劇の国と言うべきか、世界の国には、豊かな天然資源故に、悪魔に魅入られたように帝国主義や悪徳資本主義にスポイルされてしまった国がいくらでもあり、いつまで経っても、どの国も理想的な国にはなりそうにない。

   日本の喫茶店では、アメリカンと注文したら、レギュラーコーヒーにお湯を加えて出した喫茶店を見たことがあるが、こんな邪道はともかく、このアメリカンコーヒーにも長い歴史があって、それを思うと、感慨深い。
   羊飼いが、羊の群れを追っているうちに、羊が苦い木の実を食べたところ、興奮して跳ね回り乱心した。この逸話がコーヒーの故地エチオピアの伝説だが、紅海を横断してコーヒーの実を輸送したのは奴隷ハンターであり、コーヒーと奴隷を交換していたのかも知れないが、こんな残酷極まりない取引が400年も続けられたと思うと恐ろしいが、コーヒーも砂糖も奴隷労働の悲劇を背負っている。
   毎朝飲む一杯のコーヒーが、何処で栽培されてどのようなルートでどのように多くの人たちの手を経て辿り着いたのか、故事来歴を込めて考えると感無量となる。
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グローバル経済の誕生: 貿易が作り変えたこの世界・・・嗜好品の貿易(1)

2020年05月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ケネス ポメランツ とスティーヴン トピック の「グローバル経済の誕生: 貿易が作り変えたこの世界」のこの本、貿易を通しての世界の歴史という位置づけの専門書で、気が向いたときに、適当なページを繰って読んでいるのだが、非常に面白い。
   ドラッグ文化の経済学という章なのだが、今回は前半のチョコレートから、茶、コーヒーなどの嗜好品の貿易について考えてみたい。
  

   コーヒーだが、海外生活が長く、出張や旅行で世界中を歩いてきたので、色々なところで、コーヒーを飲んできたが、ところ変れば品変るで、国によってコーヒーが随分違うのである。
   最近では、スターバックスの影響であろうか、何となく、例えば、中国でもロシアでも私の経験だが、均質化してきたような気がする。
   ところで、私が、アメリカに居た40年ほど前には、何処へ行っても、不味いアメリカンコーヒーしか飲めなくて、美味しいコーヒーを飲もうと思えば、上等なホテルか高級レストランへ行ってヨーロッパ風の食事を取らない限り、味わえなかったのである。
   ドラッカーが、イタリアのエスプレッソやカフェラテを真似たスターバックスを、イノベーションだといって激賞したが、イタリアの都市やウィーンなどに行けば、いくらでもおいしいコーヒーは飲めるし、第一、日本では、世界に冠たる喫茶店文化があって、おいしいコーヒーには事欠かない。
   それ程、アメリカのコーヒー文化は、ごく最近まで酷かったのである。

   さて、我々の印象では、何となく、イギリスは紅茶の国で、アメリカはコーヒーの国だという先入観がある。
   この話を、ポメランツが、何故そうなったのかと言う歴的な推移を語っていて非常に面白い。

   まず、イギリスのコーヒーと紅茶の嗜好品文化の推移である。
   イギリスで茶の輸入が急増したのは、18世紀で、新世界の奴隷プランテーションで作られた砂糖が安くなったことに呼応して、多くの職人や労働者が、家から離れた作業場や工場で働くようになり、さらに、労働時間が厳格に管理されるようになって、正午に家に帰れなくなった。このような背景から、一杯のカフェインと砂糖を取る休み時間が日課の一つとなり、イギリスの労働者と紅茶に結びつける要因となり、国民的飲み物であったジンとビールに取って代わった。初期の工場は、危険極まりなく、辛い労働に耐えることが出来なくてアルコールに走って職を失う労働者が多くなり、紅茶と砂糖が、この国の主要で手頃な飲み物としてアルコールと交代していなければ、状況はより一層悲観的だったかも知れないと言うのが興味深い。
   朝の11時だったと思うが、ロンドンの交通の激しい繁華街ピカデリィ通りの道路のど真ん中のマンホールの蓋を開けて体を乗り出して、悠々と、大きなマグカップの紅茶を楽しんでいた工事の人を観ているので、分かるような気がする。

   イギリスで、紅茶が普及したのは、値段が安かったためだが、何故そうだったかは、辛口で表現すれば、中国の紅茶が欲しくてインドで栽培したアヘンを売りまくって中国人をアヘン漬けにして、アヘン戦争を引き起こして中国を叩き、門外不出の茶の木を盗んで、セイロンやアッサムに移してプランテーション栽培して環境を破壊するなど、帝国主義大国としての権力をフル活用して植民地政策を遂行したからであろうか。
   エベレストを仰ぎ見るヒマラヤ山麓のダージリンで、超高級紅茶を生み出したのは、イギリスの貢献と言うべきであろうか。
   
   さて、コーヒーは、元々、エチオピアが原産地で、1400年頃から、イエメンのモカで飲まれるようになった。
   コーヒーがヨーロッパで消費されるようになって300年だが、150年はアラビカコーヒーがイスラム世界の専売品で、ヨーロッパ人が知るところとなったのは、オスマントルコのスルタンの特使が、フランスとオーストリアで、威信をかけて贅を尽くした夜会で提供したのが最初で、また、トルコ軍がウィーン包囲網で失敗して、トルコ兵が残したコーヒー袋から、コーヒー液の沈殿物を除いて蜂蜜とミルクを加えて、コーヒーハウスを開いたのが走りだという。
   このコーヒーの木が、ルイ14世の植物園で栽培されていて、その苗木が、フランスの植民地に移植されて、ヨーロッパ植民地主義者が、アメリカ大陸に進出し、アラブのコーヒー独占を崩したのである。

   ところで、コーヒーが、西洋の資本主義的産物へと変貌したのは、コーヒーをヨーロッパへ持ち込んだベネチャ商人のお陰であって、ロンドンの商人たちも、シティで商品取引所や海運取引所としての役割を兼ねたコーヒーハウスで、一杯のコーヒーを飲むようになり、その一つロイズ・カフェが世界最大の保険会社となった。

   さて、イギリスのコーヒーと紅茶事情だが、私は、5年間の在英中に、王族の出席された晩餐会や正式な宴会に随分出てきたが、正式な会食では、絶対にコーヒーで、紅茶など出たこともないし、普通のイギリス人との会食やビジネスランチでも、総てコーヒーであった。
   軍隊でも、将校連はコーヒーであり、その他は紅茶だと聞いたことがあるが、正式な会合では、コーヒーのようである。
   余談だが、会食の時は勿論、何かの機会にも、イギリス人と、ウィスキーを一緒に飲んだことがないののだが、輸出が主のようで、イギリスの酒だというスコッチの印象も日本とは違っており、水割りなどというのは、駐留アメリカ兵をまねたものだと聞いており、飲むなら、ストレートのようである。

   勿論、イギリスの紅茶文化は健全で、私など、好きであったので、フォートナム&メイソンや、リッツやサヴォイなどのホテルなどで、典型的な紅茶文化とも言うべきアフタヌーンティやハイティを随分はしごしてきたが、高級な陶磁器趣味などを見ても分かるように、やはり、紅茶は、イギリスの飲食文化の華であることには間違いない。
   ロンドンでは、紅茶の種類が多くて、給仕人に、紅茶といってオーダーするのではなく、紅茶の銘柄を言わなければならないと聞いたが、フォートナム&メイソンでもそうであった。

   一寸長くなったので、今回はこれでおいて、明日、アメリカのコーヒー文化について書いてみたい。
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東京へ通院できなくなって

2020年05月25日 | 
   新型コロナウイルス騒ぎで、東京へ行けなくなって数ヶ月経ったのだが、困っていたのは、私の主治医とも言うべき乃木坂の病院へ行けなくなってしまったことである。
   行けなくなったと言うよりも、老人であり、公共交通機関を利用して、3密の繁華街、大船、横浜、渋谷を経由して、そして、病院で長く滞在する必要もあるし、出かけることを憚ったという方が正確である。
   還暦を経てから、大手術を2回受け、それも、トラブルがあって大変であったのだが、最近では、幸いと言うべきか、40年来の高血圧症が残っているだけで、これといって悪いところはないのだが、高血圧の薬だけは服用を続けているので、薬を処方して貰う必要がある。
   海外生活は、後年は欧米であったのだが、それ以前は、ブラジルに駐在して南米の僻地や未開地をも駆け回ったり、日本に帰ってからも、アジアや中東など健康上問題のある後進地域へも頻繁に行っていたので、その蓄積というか、いつ病気になっても不思議はなかったのだが、苦痛に耐えながらも、若くて元気だったのが幸いして乗り切れたのであろうと思う。

   この数年、体重減らしに注意しており、大分、スリムになったと思うのだが、歳を取ると、体重が減ったくらいでは体調がすぐによくなるという訳ではなく、今まで、着れなくなってしまっていた服がきれるようになった位の功徳しかなく、体の衰えを随所に感じて愕然としている。
   
   さて、必要な薬の処方だが、3月初には、電話で先生にお願いして薬を出して貰い、東京に住んでいる長女に受け取って貰って郵送を頼んだ。
   本来なら薬の代理取得はダメであろうが、コロナのための非常事態であったのであろう。
   ところが、3ヶ月経つ今度だが、病院の方でも、4月から、電話再診・薬処方を行なえるようになっていて、インターネットで薬の処方をお願いしたら、先生から電話がかかってきて、手配して送って頂くことになった。
   処方箋を送って貰って、街の処方箋薬局に行って薬を手配できれば簡単な筈だが、この病院は、昔から、総ての薬は病院で頂くことになっているので、従ったまでだが、今日から、オンライン診療を開始したようで、検査などは別であろうが、これからは、特に悪くなければ、行かなくても良いのであろうかと思っている。

   2018年の日本人の平均寿命は女性が87.32歳、男性が81.25歳で、ともに過去最高を更新した。
   と言うことで、私自身、男性の平均寿命に近づいているので、それ程、将来に期待せずに、終活を目指すべきなのかも知れないのだが、自分では、一向にその気にはなれない。
   まだまだ、元気だと思っているので、世話はないのだが、いずれにしろ、寿命と運命には逆らえないので、近い将来、ピリオドとなるのは間違いない。

   私の4畳半の書斎には、事務机があって横にパソコン棚があり、横と後ろに書棚があって、足下に沢山の本や資料が堆く積まれていて、押し入れには、入りきれない本やDVD、何台かのカメラやレンズ、雑多な事務用品や道具類などが所狭しと入っていて、とにかく、半ば、収拾がつかない状態であり、ものを探し出すとなると、大変なことになる、ジャングル状態である。
   何故か、机の正面の壁際には、能・狂言と歌舞伎・文楽の岩波講座や世界史の本が並んでいる。
   古典芸能を一から学ぼうと身構えたのであろうが、趣味程度では、中々手が出ない。
   しかし、寿命があと僅かと思うと、外の倉庫の蔵書には手が出ないとしても、この書斎の未読の積読書の半分、せめて、100冊くらいは読んでおきたいと思っている。

   薬を頼んだ後、そんな詰まらないことを考えたのである。
   
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華より幽へ―観世榮夫自伝

2020年05月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   観世三兄弟の一人観世榮夫の非常に興味深い自伝である。
   2007年6月8日に逝去しているので、能の舞台は全く知らないのだが、映画やテレビで何度か観ており微かに記憶はある。
   観世銕之丞家に生れながら、喜多流に移籍し、そしてあろうことか、途中で喜多流を離れて能楽界を離脱して、新劇、歌舞伎、オペラ、モダンダンス、日本舞踊、日劇ミュージックホールのヌード・ショーまで演出し、映画、TVドラマ、舞台などに俳優として出演するなど、それも海外にも亘って多方面のパーフォーマンス・アーツを縦横無尽に動き回って八面六臂の活躍をして、21年後に、能楽に復帰し、まだ、その演出活動を続けると言う、破天荒とも言うべき考えられないような芸術生活を送った逸材の自伝であるから、とにかく面白い。
   これまで、かなりの能楽師の芸論や著作を読んできたが、これほど、興味深くて滋味のある面白かった本は初めてであった。
   
   喜多流への傾倒は、表現する媒体としての自分の身体を創っていく方法、喜多流の身体を創るメソッドに魅力を感じ、喜多六平太の技術主義が出てくる根の深さに新鮮な衝撃を受けたからだという。
   喜多流を離れる動機について、まず、どの流派も「それが流儀の主張です」として流儀で押し通していたが、流儀の問題も含めてこの能をどう演じるべきか、大本に戻って演出的に考え直す必要があると考えていて、物の見方そのものを確立して、この物の見方を総ての曲、つまり一つの能をやる度に演出の目を光らせなければならないのではないか、と考えるようになった。そう思って、演出の勉強のためにオペラや芝居の演出を引き受けた。演出をやってみると、能の人は演出の本質を分かっていないように思えたが、このことが能楽協会の心証を害し、喜多流の方からも拘束が出てきて、自分の能を舞うことが出来なくなってくるような気がした。

   もう一つの喜多流との別れの理由となったのは、梅蘭芳の京劇の来日で、丁度、能の技法だけに拘らず、表現の意味、あるべき姿を考え直し、現代そして未来にどう生かしていったら良いか、大きな課題に直面していた時に、梅蘭芳たちと行動を共にした。二枚目役者李少春たちが能を教えてくれと言うので2ヶ月間パレスホテルに泊まり込んで稽古を付けた。ところが、能楽協会全体の空気として、能楽以外の人と交流してはいけない、と言う悪しき不文律があり、益々、険悪な雰囲気になったが、元々、「伝統の批判的摂取」を積極的に論じて、頑なな伝統主義には馴染めなかったので、愚かなように思えてきた。京劇への能の稽古、稽古のコラボレーションで、異種交流の楽しさを知ったのである。京劇の一行は、自らの芸能の固守せず、日本のトップ演者に稽古を付けて貰い、能、狂言、歌舞伎、雅楽、京舞までも学び、自分たちの芸能の参考にしようとしていたのである。
   1957年のことだから、建国八年目、文化大革命の前のことで、中国も、まだ、文化活動には箍が嵌められて居なかったのであろう。

   さて、3番 劇的探求の旅 は、異種パーフォーマンス・アーツの軌跡であるから、波瀾万丈で面白い。
   冒頭、1954年のヴェネツィアの能舞台公演で、兄の寿夫との「葵上」「猩々」の舞台や、外貨持ちだし30ドルの貧乏旅行で、寝間着の浴衣をボーイに売って外貨を得た話ect.
   芝居好きで芝居をよく見ていて演出には興味もあり、能のシテはある意味では演出家であり、千田是也など新劇人とも面識があったので、演出家への道に入った。
   最初の仕事は、俳優座の「つづみの女」の謡曲指導、最初の大きな演出は、武智鉄二のオペラ「アイーダ」の演出助手で、茂山千之丞や花登筺も演出助手だったというのが面白い。
   その後、オペラの演出の話がどんどん舞い込んできて、1967年、東ドイツに4ヶ月に滞在してオペラを観まくったという。
   私も、ベルリンの壁が崩壊する前と崩壊直後に東ベルリンに入って、ベルリン国立歌劇場とコーミッシェ・オパーを観たのだが、西のベルリン歌劇場と雰囲気が随分違っていたのを覚えている。

   話は飛ぶが、自伝風の著作で、政治運動を書く人は殆どいないが、60年安保で、新劇人も「芸術と政治」という命題に直面し反安保闘争の大衆行動を行い、若い連中を連れて連日デモに出たり、ポリスを揶揄するような台詞を劇に挿入したり、かなり詳しく書いている。
   また、観世流に復帰してから、憲法改悪による戦争への傾斜を危惧し、「憲法改悪反対」の憲法朗読会に参加したり、新作能「原爆忌」を上演して、世界の人々に、非核を訴えている。
   「原爆忌」の節付演出および出演は、著者の他、梅若六郎、宝生閑、山本東次郎で、凄まじい阿鼻叫喚地獄を描いた反原爆、非核能だったという。
   最後の締めに、ぼくの憂いは地球環境の破壊である。と述べている。
   芸術は、社会的存在であり、芸術に社会性がなければ、意味がないと思うと言い続けていた著者の思いもこれであって、正しい価値観と識見を持って舞ってこそ、能が、生きると言うことであろうか。
   
   世阿弥の「離見の見」を引いて、多彩なコラボレーションをやってきたが、能ばかりではなく、あらゆる舞台芸術から自分自身を見つめ直すことが、自分の「離見の見」であったと、自伝を締めくくっている。
   不世出の偉大な能楽師であった観世寿夫が、弟観世榮夫の観世流復帰、能楽師への復帰をお膳立てして逝ったと言う話が、感動的である。
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ニュースはどうして得るのか

2020年05月22日 | 生活随想・趣味
   毎日の生活で、コロナウイルスの話もそうだが、世の中の動きが気になる。
   しからば、その気になる日々のニュースは、どこから得るのか。
   やはり、テレビであり新聞であり、インターネットであり、人からの噂話であるなど、色々なメディアなりニュース媒体なりを通して得ることが多い。

   即効性もあって、まず、テレビである。
   NHKのニュースは、極力見ることにしているが、大体、火事や事故やと言った些細な不満足な情報が多いので、NHKBS朝のキャッチ!世界のトップニュースと、夜の国際報道2020とBSニュースを重視して見ている。
   日本のニュースは、日本に生活して居れば、嫌でもう応でも色々な媒体から入ってくるので気にせず、海外に長かった所為もあるが、グローバルな動向、地球の運命の方が気になるのである。

   次に、新聞だが、日経しか取っていないので、偏っているかも知れないが、まず、標準的な情報はこれで得れると思っている。
   真っ先に読むのは、今では、最終ページからで、新聞小説の赤神諒の「太陽の門」。スペインの内戦の話で面白い。
   新聞小説は殆ど読まなかったが、伊集院静や高樹のぶ子あたりから読み始めて、続けている。
   次は、岸惠子の私の履歴書
   この私の履歴書も好みがあって、芸術家や異色の突出した人たちの履歴書しか読まないのだが、岸惠子は、随分映画も見続けてきたし文章が上手なので、とにかく興味深い。
   そして、「文化」の記事全般。
   この文化ページに興味を持っているのは、ヨーロッパに居たときにもそうだが、ファイナンシャル・タイムスでも、文化ページからで、シェイクルピア戯曲やオペラ、コンサートなどの記事を読んでから、トップページへ進んでいた。
   日経も、裏ページからトップ記事に移り読み始める。
   必ず読むのは、ファイナンシャル・タイムスやエコノミストの特約記事、イアン・ブレマーなどの寄稿記事など、テレビと同じで、海外関係の記事の方が多い。
   現役時代には、結構丹念に読んでいたのだが、最近では、テレビなどで入っている情報などは、追加情報を得るための飛ばし読み程度なので、時間は取らない。

   他には、インターネットで、ヤフーやgooのトップページから気になった記事だけクリック、しかし、朝日や毎日など多くの記事は、ヘッドだけで、続きは購読者だけということだが、これで十分。
   NYTやワシントンポストなどは、ブロックがかかってもかなり読めるし、日本語でも、ニュースウィークやロイターなど、結構読めるので、これもニュース源になっている。

   それよりも何よりも、役に立つのは、纏まった専門書などの本で、例えば、中国の経済の状況など、日常のメディアからの情報だけでは分かるわけがなく、昔からの習慣で、原点に戻って、知識情報をリフレッシュすることに心がけている。
   結局、世界の歴史や文化文明論などの本に行き着くことになる。

   別に、ニュースを知ったとしても、どうと言うことはないのだが、一種の生きて行く上での好奇心の満足であろうか。
   
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Stay-at-homeで日常生活が変ってしまった

2020年05月21日 | 生活随想・趣味
   新型コロナウィルス危機の勃発で、非常事態宣言が発令されて、外出できなくなったので、日常生活が大分変ってしまった。
   私の場合は、もう、会社を離れて大分経つので、自宅に居て悠々自適というか暇人としての生活なので、それ程変ったとは言えないのだが、それでも、思うように出かけられないとなると、精神的に苦痛となる。
   鎌倉は、トカイナカなので、住むのには、まずまずであるが、映画館もなければ大きな書店もないと言う文化都市としては考えられないような半端な都市で、何かというと、どうしても、東京か横浜に出ないと都会生活なり文化生活らしき雰囲気は味わえない。
   それに、私自身、京都で学生生活をしていたので、京都や奈良など古社寺などを巡る歴史散策を趣味としていたが、鎌倉は、シックな歴史を感じさせてくれる素晴らしい古都だと思うが、あまりにも規模が小さくて、ほんの僅かな日数で歩けてしまい、京都や奈良のようにバリエーションに富んだ名所旧跡の雰囲気や四季折々の微妙な変化や情緒などを味わうことが出来ないのを残念に思っている。

   さて、外出の方だが、自動車は、鎌倉に来てから運転免許証を返納してしまい、自転車は立派な電動自転車を買ったものの、危ないと言って家族に止められているので、バスやモノレール、電車など公共交通機関を使っての外出しか出来なくなった。
   そのために、3密だと言うことで、バスにもモノレールにも乗らない方が良いと言われると、大船へさえ行けなくなり、東京などもってのほかである。

   そんなわけで、まず、困るのは、書店に行けないことで、読者家としては、フラストレーションとなる。
   何十冊も、読みたい読みたいと思って買いためた本が積読で、書斎に積み上がっているのだから、それを読めば良いではないかと言うことだが、読書家の悲しい性というか、いくらあっても、書店に出かけて、新しい本に接して手に取らないと満足できないのである。
   結局、本の顔を見ずに、アマゾンや楽天ブックスで、本を買うことになっている。
   

   もう一つは、観劇やコンサートに東京へ行けなくなったこと。
   勿論、私が行く行かないということには関係なく、劇場の方で公演がキャンセルされて、行けないので仕方がない。
   国立能楽堂など、2月下旬から6月末まで主催公演は総てキャンセルされて行けなくなっており、国立劇場の他の劇場の公演も同じキャンセルであるし、歌舞伎座など5月から3ヶ月続くはずだった團十郎襲名披露公演など何時から始まるかさえ分からない。
   私は都響会員だが、3月から5月のコンサートはキャンセルされており、7月に2回予定があるが、是非聴きたいと思っているのだが、どうなるか。
   それに、7月だと大丈夫だろうと思って、宝生能楽堂での納涼能のチケットも手配したのだが。

   他には、カメラを持って、大船フラワーセンターなどを訪れて花の写真を撮ったり、鎌倉湘南巡りを出来なくなったこと。
   最近は、出かけるのが少なくなったが、行けないとなると、無性に出かけたくなるものである。
   孫娘が、幼稚園休園で家に居て、朝晩の送り迎えで、アップダウンの激しい通園路を往復2回歩く日課がなくなっているので、運動不足となっていて、余計に、外歩きが必要なのである。
   そんなこともあって、最近は、面白くもない近所の住宅街を歩いたり、気が向いたら鎌倉山へ向かって歩いている。

   外出が少なくなってくると、勢い庭に出てガーデニングに勤しむ時間が多くなってくる。
   今年は、若葉で鬱蒼としてきた庭木に、思い切ってはさみを入れて整理し、バラや椿などの鉢花を、こまめに施肥や薬剤散布などにも気を配ってやってきたので、殆ど問題なく綺麗に咲いたし、まずまずのできであり、満足している。

   さて、晴耕雨読の書斎生活の方だが、これは、何故か、これまでと同じペースで、それ程はかどってはいないのだが、個々の本をじっくりと読むと言うよりは、積読の本を一冊一冊整理しながら飛ばし読みして、知識を整理して、次に読むべき本を探し出している感じである。
   倉庫の本には、手が届かないのだが、ほんの2~300冊の書斎の書棚や足下に積み上げた本でも、忘れてしまっていて、こんなに素晴らし本を読み過ごしていたのかと後悔するくらいであるから、いい加減なもので、恥ずかしいと思っている。

   もう一つ、観劇やコンサートなど劇場に行けないので、録り溜めたオペラや映画などをじっくりと観ようと思ったのだが、悲しいかな、劇場と同じ時間を要するので、何時間も書斎に籠もって見続けるというのもままならず、飛び飛び千切れ千切れになって、缶詰になる劇場とは違って、思ったように楽しめない。

   いずれにしろ、何やかんやと言いながら、Stay-at-homeの生活を、それ程、苦痛を感じずに、どうにか、我流ながら日々を送っているというのが正直なところである。
   早く、新型コロナウイルス騒ぎが終わって欲しい。
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宋左近著「美のなかの美」

2020年05月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   偉大な詩人であり仏文学者であった宋左近の1992年刊の古い本で、半世紀ほども前に書かれた美についての評論集である「美のなかの美」という本、何処で何時手に入れたのも定かではないのだが、わが書斎の積読棚にあって、時々紐解いている。
   今道友信先生の「美について」などの哲学的な美学の本とは違って、具体的な美術作品や芸術事象などを交えながら語られているので、非常に高度で難しいことは変わりがないが、親しみを感じながら読めるのが救いではある。

   今回は、その本の中の「わたしとは他者」という論考である。
   玉三郎を話題にしていて、篠山紀信の「お染」の写真が掲載されているが、30年以上も前のモノクロ写真である。

   幼少年期に、田舎回りの歌舞伎と新派の大衆判を殆ど観たと言って、引きつけて離さなかったものに二つあって、回り舞台と女形であったと語りながら、現実の中にありながら非現実な(超現実な)世界を生み出す、奇蹟に近い人間の獲得した超自然の力を感じたと語り始める。
   玉三郎の「鳴神」の雲の絶間之姫を二回観て、「綺麗ねえ」と感嘆する観客に同じて魅入られて、玉三郎を憑り代だと感じた。
   玉三郎は、神様の媒体で、玉三郎に乗り移った神様が、玉三郎の姿と形をして、今度はお客に乗り移って、お客を恍惚とさせる。と言うのである。
   大切なのは、三つの虚構で、神は玉三郎という媒体を必要としていること、玉三郎は役者としてフィクションの住人であること、玉三郎は男であること。
   この複雑な三重の虚構によって、妖しさ、理想、絶対を生み出す。と言う。
   理想の美人とは、普遍性を持つ特殊で、尋常の煮詰まった異常、
   実は異常なのに、それを見た多くの人に、直ちに違和感なしにフーウッと感嘆のため息をつかせるもの、それが理想の美人だと言うのである。

   余談だが、美人だと言われると思い出すのは、ケインズが「雇用・利子および貨幣の一般理論」で書いている美人投票論、
   玄人筋の行う投資は「100枚の写真の中から最も美人だと思う人に投票してもらい、最も投票が多かった人に投票した人達に賞品を与える新聞投票」に見立てることができ、この場合「投票者は自分自身が美人と思う人へ投票するのではなく、平均的に美人と思われる人へ投票するようになる」と言う話。
   私など、美人には縁がない所為もあろうが、ミス何とかで選ばれた美女が、どこが美しくて何故選ばれたのか分からないことが多いのだが、案外、人々は、最も美しいのは自分のマドンナと思っており、アバタモエクボではないかと思ったりしている。
   美人などと言われても、基準などなく、おそらく、直覚の愛というか一目惚れと同じで、人それぞれの直感であろうと思うし、かっては、日本もそうだったが、楊貴妃のように福与かな女性が美人であったり、逆に、スマートを通り越した華奢な体型のツイッギーが美人の頂点であった時代もあり、絶対的な決定版などあるはずがない。のではなかろうか。

   多少抽象的な表現になるが、美人の顔の造作を行ったのは誰か、神ではなく、超人間的で非人間的な存在、非人称存在、英語のIt、フランス語のIlだと言う。

   宋左近は、アルチュール・ランボーの、「私とは他者です。銅が一朝にしてラッパになっていたからと行って、それは銅の落ち度ではないのであります。」と言ったのを引用して、玉三郎が、れっきとした男性として、歌舞伎の長い伝承に従って扮装し理想の美人になっているのだから、「私とは他者です。男性玉三郎が一朝目覚めて理想の美女になっていたからと言って、それは男性玉三郎の落ち度ではないのであります。」という台詞を吐いても少しもおかしくない。二重の非人称存在のエネルギーが、憑り代として、玉三郎を作り出している。
   この玉三郎を作り出している非人称存在の人間離れした怪しいエネルギーが放射して人々を魅惑する、その憑り代のエネルギーを放射させるための技術が、本当の美術であり、芸術である。と言うのである。
   尤も、玉三郎は、他の女形のなかには滅多にない天才であるから、憑り代になって観客を魅了させられるのであるが、非人称存在のエネルギーを放射、とまでは行かずともせめては匂い出させることのない芸術は、それはどんなイカスものであっても単に快感をくすぐるだけの日用品であるに過ぎないと言う。

   自然界においては、例えば自然の作った夕焼けが人間を魅惑する。人間界においては、人間が作った舞台という虚構が非人称存在のエネルギーを働き出す媒介となって人間を魅了するのだが、だからこそ、人間は、芸術作品という虚構を作り出さなければならない。と言う。
   この評論で、興味深いのは、神と言わずに、非人称存在と呼称して、非人間的な超自然の成せる技だとしているのだが、アダム・スミスとはニュアンスは随分違うが、「見えざる手」の導きによるとでも言うのであろうか、人知を超えた神業としか言い様がない。
   昔、小澤征爾が、モーツアルトの音楽を、神がモーツアルトの手を取って作曲させたとしか思えないと語っていたが、勿論、玉三郎の歌舞伎役者としての艱難辛苦の修行や研鑽もあろうが、宋左近が、憑り代と言っているのであるから、モーツアルトのような側面があるのかも知れない。

   いずれにしろ、難しい話は別にして、玉三郎の舞台は、非常に楽しみにして鑑賞させて貰っている。
   私も玉三郎の舞台を初めて観たのは、勘三郎とのこの鳴神で、ロンドンであり、その後帰国して、多少、縁遠くなったオペラ鑑賞に切り替えて、歌舞伎座など歌舞伎や文楽鑑賞に劇場へ通っている。
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ニーアル ファーガソン著「スクエア・アンド・タワー(上)―ネットワークが創り変えた世界」

2020年05月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   過去500年の世界の歴史において、「垂直に伸びる階層制」(国家や企業など)と、「ヨコに広がるネットワーク」(知識情報の伝播や革命運動)が重要な役割を果たしてきたが、その階層性とネットワークの相互作用を、経済学から社会学まで、神経科学から組織行動学までと言った具合に、多様な分野の理論的見識を1つに纏め上げて語ると言うのがこの本(The Square and the Tower: Networks and Power, from the Freemasons to Facebook)である。そのネットワークの象徴である、フリーメイソンからフェイスブックまでを説く。
   従って、この本は、従来の国家のような階層性の組織に執着して書かれた世界史とは違って、中心となるテーマは、社会的ネットワークの方であって、社会的ネットワーク分析の視点から500年の人類史を展望するということで、実際に、そのような見方をしてみると、結構興味深い発見があって面白いのである。
   尤も、ファーガソンの主張は、単純明快なので、社会的ネットワーク重視の500年の人類の近代現代史だと思って読めば良いのであって、その意味では、新しい世界史本だと言えようか。

   ネットワークだが、アイデアやイノベーションが伝播するときには、発生源たる重要な役割を果たすキーとなる人物なり組織(ノード)が存在し、そのノードから繋がった結びつき(弱い紐帯)が、普通なら結びつくことがなさそうな集団同士の架け橋となって、アイデアを広める役割を果たす。世界の歴史において、情報伝達のカギとなったノードが、どのようなネットワークを形成し、世界を動かしてきたのかを俯瞰しながら、人類の歴史を捉え直すと言うことである。

   社会的ネットワークが世界を大きく変え始めた時代が2つある。と言う。
   最初の「ネットワーク化時代」は、15世紀後期にヨーロッパで印刷機が使われようになってから、18世紀末まで。
   次が我々の時代で、1970年代に始まるシリコンバレーに結びつけられるテクノロジー革命の時期。
   
   余談だが、原題のThe Square and the Towerは、イタリアの古都シエーナの中心にあるカンポ広場と正面のプブリコ宮殿のマンジャの塔から発想を得たようで、カンポ広場がThe Square(ネットワーク)で、マンジャの塔が、the Tower(階層性)であり、翻訳本の表紙に写真が使われている。
   私は、一度だけシエーナを訪れており、丁度、その日は、このカンポ広場の外周を裸馬で駆け回る熱狂的な競馬(シエーナのパーリオ)当日で大変な賑わいであり、翌朝、静かになってから宮殿(今は市役所)に入ってマンジャの塔に上って、美しいシエーナの街を臨み観た。
   
   

   上巻では、この2つの時代の合間に当たる19世紀末までを分析しているので、今回は、15世紀から18世紀にかけての第1次の社会的ネットワーク時代を考えてみたい。

   この時代を切り開いた最大の貢献は、グーテンベルグの印刷機の普及とポルトガルが先鞭を付けた大航海時代の幕開けであろう。
   グーテンベルクが開発した印刷機によって、知識情報の伝播伝達は革命的な進歩を遂げて、ルターのメッセージは瞬く間に広がり、ローマカトリック教会に真っ向から挑戦して、権威に対する反抗の波が伝播して宗教改革の大波となり、印刷術の普及で張り巡らせたネットワークは、科学革命と啓蒙運動を巻き起こして、新しい知識技術を誘発して、遂に産業革命を引き起こす原動力ともなった。
   尤も、ヨーロッパ中を震撼させたペストのパンデミックが教会の権威失墜を加速したとも言われていて、まさに、ヨーロッパは激動の時代であった。
   ここで興味深いのは、ファーガソンは、啓蒙運動のネットワークに、本や印刷物によるのと同等に重要な役割を果たしたのは、手書きの私的な書簡で、沢山残っているので、その啓蒙運動のネットワークを復元できた言う。
   
   また、ヨーロッパとアメリカとの知的交流も頻繁で、18世紀後期の大規模な政治革命では、フリーメイソンのネットワークがその推進力となって、アメリカ独立革命を切り開いたと語っており、パリの群衆のネットワークが、王家の階層制を打倒してフランス革命を成し遂げたと言う指摘も面白い。

   もう一つの文化文明の栄光は、イタリアから花開いたルネサンスであり、そして、イタリア諸都市で胎動していた資本主義の萌芽とも言うべき商業活動の進化と共に、ヨーロッパの文化文明を一気に底上げしたことであろう。

   特筆すべきは、第一次グローバリゼーションの幕開けとも言うべき大航海時代の到来で、エンリケ航海王を筆頭にポルトガルやスペインの冒険者たちは、優れたテクノロジーと航海術によって世界に雄飛して、新大陸を征服して文化を伝播し、アジアやアフリカの帝国や王国を弱体化させながら商圏に繰り込み、造船や航海、地理、戦争の知識を分かち合って1つの社会的ネットワークを形成して、新しい交易ルートのネットワークを世界中に張り巡らし単一の世界市場へと急変させたのである。

   確かに、これらの歴史的事象は、殆ど、権力構造が強力に作用する階層性の権威組織から生まれたのではなく、社会的ネットワークの成せる技と言うことが出来よう。
   これらの社会的ネットワークの発露を誘発した政治的土壌も、スペインやフランスを除いては、イタリアもドイツも、弱小な小国家や都市国家が主体であって、絶対王政が成立する以前であったと言うことも、幸いしたのではないかと思う。
   19世紀に入って、フランスの政体は揺れ動いたとしても、オーストリア、ドイツ、イギリス、ロシアなどとの王制や帝制の5大国体制になると、一気に、タワー状の階層制に戻ってしまったのである。
   
   いずれにしろ、もう一度、500年のヨーロッパの歴史の19世紀までを復習した感じであったが、基本的な地盤だと思っていた国家を基本とした階層性社会ではなく、横糸のネットワークを主役にして歴史を紐解くと面白いということが分かって興味深かった。
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ミズノマスク2万枚が即完売と言うのだが

2020年05月17日 | 政治・経済・社会
   5月15日に、ミズノから、【予 約 販 売!】水着素材で作ったマウスカバー!と言うメールが入った。
   MIZUNO SHOPのプラチナ会員なので、定期的に通知メールが入るのである。
   
   飛沫の拡散抑制を目的に水着素材で作ったマウスカバー。着用時のストレスが少なく適度な優しいフィット感。手洗いで繰り返し使用でき、また乾きやすいので毎日気持ちよくお使いいただけます。と言うことで、5色カラフルであり、S/子ども向け M/女性向け L/男性向けとあるので、価格:¥935 で、それ程負担でもないので、とりあえずと思って、孫を含めて6つネット予約した。
   ご購入はお一人様10枚までとさせていただきます。としていたのだが、スポーツ報知が、「ミズノマスク2万枚が即完売 繰り返し洗って使える水着素材」と報じているから、その後、すぐに完売したのであろう。

   ミズノでは「新型コロナウイルス感染拡大に伴う社会的課題に対し、スポーツ用品や運動プログラム開発のノウハウをいかし、感染防止と啓発、運動支援に繋がる対策に取り組んでいきます」としている。と言うことで、趣旨は良いのだが、説明書きをよく読まずに、コロナ対策に有効だと思って買ったら、
   よくある質問
   Q.ウィルス対策は可能ですか?
   本品は感染(侵入)を防ぐものではありません。咳やくしゃみをした際の飛沫の拡散をやわらげるための、咳エチケットとしてご使用ください。
   これでは、どう使えば良いのか、苦慮している。

   マスクは、時機を失して、買えなかったので、娘たちが買い置きしていたマスクを貰って使っていた。
   殆ど外出しなくなったので、それほど、マスクは必要なかったのだが、やはり、予備は多い方が良いので、4月あたりから、まともなと思しき業者が、楽天で売り出したので、高いとは思いながら、こんな時期だし薬局で苦労するよりもと思って、単価60円くらいの使い捨てマスクを予約したのだが、意外に早く届いた。
   アマゾンでも、マーケットプレイスで販売されていたのだが、良く分からない中国と思しき業者の販売なので、止めたのである。

   私は、石油危機の時のトイレットペーパー騒動は、アメリカに居たので、経験はしていないのだが、3.11の福島第一原発事故の放射能危機の時には、孫の出産前後で娘が同居していたので、水の調達で大変な苦労をした。
   当然、全国のスーパーでも調達不能で、駆けずり回って水を調達したが、ネットでは、ほんの数本でも、何万円もする高値、
   今でも、臆面もなく、その時買った飲料販売会社からメールが入ってきているが、悪徳商法は許せない。
   後で知ったのだが、阿蘇の麓の素晴らしい湧き水を愛用している大学時代の友人が、いくらでも送ってやれたのにと言ってくれたが後の祭り、懐かしい思い出である。

   いずれにしろ、経済学を勉強してきたので、需要と供給の関係で、買い占めや、転売や高値販売は、常套手段であって分からないわけではないのだが、嫌な世の中である。
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わが庭・・・バラ:快挙咲く

2020年05月16日 | わが庭の歳時記
   京成バラ園作出の淡い黄色いバラ快挙が咲いた。
   
   
   
   
   

   もう一つの黄色いバラは、ストラボ・バビロン。
   房咲きだが、まだ、ちらほら咲きで寂しいが、小輪ながら存在感十分である。
   イングリッシュ・ローズのモリニューは、綺麗に咲き続けている。
   
   
   
   
   
   
   
   黄色い花は、カンゾウが咲き始めた。
   この花は、正式には、ワスレグサと言うようで、ニッコウキスゲと同類らしい。
   残念なのは、花が一日限りで終わることで、英語ではDaylily、独語でもTaglilieと称すると言う。
   しかし、蕾が房状に数輪着いていて、次々と咲き続けるので、ニッコウキスゲのように群生すると凄いのであろう。
   
   
   

   バラ、シャクヤク、それに、アヤメの一種であろうか、
   今日は小雨模様だが、五月晴れの涼風の清々しい朝など、ウグイスの鳴き声を聞きながら、花に囲まれて、緑陰の読書に小一時間、
   また、楽しからずやである。
   
   
   
   

   余談だが、レナウンが民事再生手続きを開始したという。
   ロンドンに居たときに、アクアスキュータムを傘下に収めたと聞いて、日本もここまで来たのかと思ったのを覚えている。
   良く分からないが、斜陽一途の百貨店を販路の主体としたビジネススタイルがインターネット通販にやられたと言うことだが、ICT革命とグローバリゼーションで大きく激変した産業構造、市場構造などを見越して、何故、時流に即応したビジネスモデルに転換できなかったのか。
   日本の多くの輝かしい歴史を誇る老舗大企業が、このコロナウイルスの危機に煽られて苦境に立つと思うのだが、すべからく、時流に乗ったビジネスモデル転換への後れを取っているためであろう。
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ロイヤル・オペラ・・・「椿姫 ラ・トラヴィアータ」

2020年05月15日 | クラシック音楽・オペラ
   ロイヤル・オペラが、YouTubeで、2009年の舞台「椿姫」を放映した。
   La traviata will Premiere for FREE on our Facebook and YouTube channels at 7pm BST tonight(8日), and will be available to watch for 14 days. である。
   ロイヤル・オペラとMETは、ネットでチケットを購入して会員登録しているので、定期的にメールを送ってくれるので、その連絡を受けての視聴である。
   その前に、タイトルロールを歌ったルネ・フレミングが抱負を語っていたのだが、METライブビューイングのナビゲーターよろしく、聡明な語り口は流石である。

   ルネ・フレミングは、たった一度だけ、このブログ欧州紀行(文化三昧ミラノ・ロンドン旅)でも書いているが、ロイヤル・オペラで、ヴェルディの「オテロ」のデズデモーナを観ており、終演後、劇場2階のフローラル・ルームで、自伝「The Inner Voice」とプログラムにサインを貰って、二言三言喋った思い出がある。
   私が、アメリカやヨーロッパに居た頃は、フレミングの名前は知っていたが、まだ、駆け出しで、その後、何度か、ニューヨークやロンドンに行ってオペラを観ているが、その機会に恵まれず、METライブビューイングで、「椿姫」「エウゲニー・オネーギン」「メリー・ウィドー」を観て、感激していた。
   

   フレミングは、1991年3月に「フィガロの結婚」の伯爵夫人でMETにデビューし、ドミンゴの「オテロ」でデズデモーナ、「ばらの騎士」のマルシャリン、とにかく、METの至宝とも言うべき看板ソプラノであるのだが、「椿姫」については1998年にヴィオレッタの話があった時に、一度キャンセルして2003年まで延期している。
   自伝によると、ヴィオレッタは異常に要求の厳しい複雑な役柄で、これまでに多くの卓越した歌い手が解釈し尽くしており、ヴィオレッタ歌いに3種の違った声リリック・コロラトゥーラ、リリコ・スピント、リリック・ソプラノを要求するとかで、歌うからには、人生の最も難しい時期に失敗したくないので全身全霊で打ち込みたかったからだと言う。
   従って、このロイヤル・オペラの2009年版は、会心の決定版と言うことであろうか。
   前にも感じたのだが、鶯が囀るようなフレミングの一幕のアリア「ああ、そは彼の人か」が天国からの歌声のように響いて、感動の連続であった。
   それよりも、何よりも、オペラ歌手でありながら、役者としての芸の資質は抜群で、とにかく感情移入の凄さに加えて、全身全霊を打ち込んでの演技は、特筆ものであり、シェイクスピアの国イギリス人観客を熱狂させるのも当然であろう。

   ところで、フレミングがしっかりと握りしめてアルフレードに手渡した椿だが、安達瞳子さんによると、アルバ・フィレ、乙女椿だというのだが、フランスの田舎でも紅乙女が植えられているらしいが、今回の舞台は、真っ白な千重咲き椿で、フランス白であろうか。
   椿が登場したのは、この一幕だけであった。
   

   La traviata(ラ・トラヴィアータ)とは、「道を踏み外した女、堕落した女」を意味するようだが、決して、あだ花ではなく、文化文明が爛熟した花のパリの、ある意味では象徴のような存在であったように思う。
   「マノン・レスコー」もよく似た悲劇のオペラだが、愛するが故に道を踏み外す滅びの美学が胸に迫る。
         
   1983~4年頃、パリの街角の映画館で、テレサ・ストラータスとプラシド・ドミンゴ主演のゼフィレッリの素晴らしい絵巻のように美しい映画「椿姫」を観て感激して、その後、何度、オペラ劇場に通ったであろうか。
   ジュゼッペ・ヴェルディの音楽が、徹頭徹尾感動を呼ぶ。

   今回の放映オペラのキャストは、次の通り、
   指揮 アントニオ・パパーノ
   ビオレッタ ルネ・フレミング
   アルフレード ジョセフ・カレヤ
   ジェルモン トーマス・ハンプソン

   パパーノとハンプソンは、何度か観て聴いておりお馴染みだが、 ジョセフ・カレヤは、初めてであった。
   以前に、ミラノ・スカラ座の「リゴレット」で、ヨーロッパ公演が立て込んでいて、直前キャンセルで、聞く機会を失したのだが、スカラ座を蹴る傍若無人ぶり。
   マルタ島のアッタルドで1978年1月22日に生まれ、1998年にはミラノでのカルーゾ・コンクールで優勝、1999年にプラシド・ドミンゴ・オペラリアで優勝、
   2003年にマントヴァ公爵を歌ってロイヤル・オペラにデビュー
   2009年にメトロポリタン歌劇場で「ホフマン物語」のホフマンを、2010年にロイヤル・オペラで「シモン・ボッカネグラ」のアドルノをそれぞれ初めて歌い、大成功を収めたという。

   演出は、リチャード・エアー、美術は、ジョン・クローリー、
   見慣れたフランコ・ゼフィレッリとは違うが、クラシックでシックな舞台が素晴らしい。
   さて、この「椿姫」の放映は、まだ、数日続くと思っているが、素晴らしい記録映像である。
   映像の一部を借用して掲載させて頂くと、
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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わが庭・・・バラ:あおい、ハンスゲーネバイン咲く

2020年05月14日 | わが庭の歳時記
   毎朝、一鉢ずつ、バラの花が咲く感じで、Stay-in-home も、それ程気にすることなく、ガーデニングを楽しんでいる。
   京阪園芸の上方のバラあおいが咲き始めた。
   赤紫色のシックな花で、椿の至宝ににた色彩が、京都の雅の雰囲気で、この花が咲き出すと、何となく、嬉しくなるのが不思議である。
   
   

   昨年まで、孫娘が、よちよち歩きであったので、娘から厳しく言われて、陽当たりの良い場所にバラを置けなくて、バラ栽培に手を抜いたこともあって、タグが飛んでしまって、花が咲くまで、何のバラだか分からなくて、それに、咲いても覚えていないので、京成バラ園の買い物履歴をチェックして調べる始末。
   このピンクのばらは、ハンスゲーネバイン、ドイツの花のようである。
   
   
   
   

   オランダのバラだというので、バビロン系の鉢苗を数株買って、そのうち、プリンセスバビロンが、色づき始めた。
   ブーケ状に房咲きになる花で、1輪ではその雰囲気はないが、いくら小さな花でも、一人前のバラの形をしているのが面白い。
   
   
   

   アヤメが、ひっそりと咲いている。
   アイリスや菖蒲は、派手派手しいが、アヤメは、控えめで凜としたところが良い。

   わが庭は、コロナウイルス騒ぎなど全く無縁、
   花が咲き乱れて、ウグイスが鳴き続けている。

   自然の摂理の凄さを前にすれば、神聖をおびつつあると宣うハラリのご託宣にもかかわらず、如何に、人間が、ひ弱い葦であるかを思い知らされて切なくなる。
   
   
コメント (1)
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