熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

能・狂言の鑑賞に少し慣れて

2012年05月29日 | 生活随想・趣味
   日本に帰ってからは、と言っても、もう随分経つのだが、それまでのオペラやクラシック音楽、シェイクスピア戯曲鑑賞から、一気に、歌舞伎と文楽に切り替えて、それに、この半年くらい前から、狂言から入って、能楽鑑賞にも幅を広げて、最近では、国立能楽堂には、月に3回程度は通うようになった。
   まだ、一度、式能に出かけたくらいで、高砂や羽衣、砧、巴、海人、藤戸、嵐山・・・と言ったスタート段階なのだが、心なしか、能楽堂の雰囲気にも慣れて、それに、能舞台の進展を追いながら、少しづつ、曲そのものを楽しめるようになってきた。

   良いのか悪いのか分からないが、私は、何か新しいことを始めようとすると、読書家の性癖であろうか、どうしても、関連本を読んで、理解を深めようとしてしまう。
   歌舞伎でも、あるいは、シェイクスピアでも何でも、とにかく、劇場に出かけて、舞台そのものに接して、少しづつ経験を積みながら、関心を深めていけば良いと言われるのだが、実際には、そんなに易しいものではないと思っている。
   これも、最近行き始めたのだが、比較的分かり易いと思われる落語でさえも、客席で皆が笑っているのに、ついて行けないことがあるので、それ相応の理解力と感受性、それに、経験が必要なのだと言うことがよく分かる。

   ところで、これまで随分色々なパーフォーマンス・アートや舞台芸術の鑑賞を、それも、外国でも、沢山観たり聴いたりして来たのだが、私にとって、能楽は、最も特殊な総合芸術だという気がしている。
   プリマ・アクター、アクトレスが登場し、音楽の伴奏が入り、ギリシャ劇のコロスに似た合唱団のような地謡が加わる等、劇形態の舞台芸術では、最もオペラに近いような気がするが、しかし、オペラは、いわば、音楽劇と言うか楽劇と言うか、セリフが歌曲に変わったと考えても、それほど間違っているとも思えない。
   しかし、能楽の場合には、曲の成り立ちから、公演形態から言っても、随分、他の舞台芸術とは違っていて、初心者の私には、まず、最初に能楽堂に入った瞬間から、別世界に入ったようなカルチュア・ショックを覚えた。
   実際には、シェイクスピア戯曲を能楽の曲に転換した舞台があるようなので、テーマや主題については、差はないにしても、とにかく、猿楽や田楽からの継承はあるにしても、室町と言う独特な時代に生まれ、その後武士に寵愛庇護されて発展してきた歴史そのものにも、その特質が根ざしているのかも知れないと思っている。

   さて、能楽関係の本だが、初歩的な解説書からノウハウ本から始めたのだが、私が興味を持って読めたのは、観世銕之丞八世および九世、観世清和、梅若玄祥の書かれた本で、自伝的なことや、能の歴史や宗家のことども、曲や能舞台のこと、芸術論等々と幅が広いのだが、最高の芸術を極めた能役者にして始めて開陳できる実に含蓄のある滋味豊かな内容で、分かった分からないと言った次元を超えて、能への傾斜を誘う本で、読後の満足感も充実している。
   もう一つ興味深かったのは、実際に能を学んで能楽にのめり込んだ(?)白洲正子、馬場あき子、林望の方々が書かれた能に関する本で、どちらかと言えば、鑑賞者の立場にたって、豊かな知識と芸術論を交えながら解説風に展開されている本で、非常に面白い。
   能楽鑑賞の前には、まず、岩波講座「能・狂言」の能鑑賞案内と狂言鑑賞案内を開いて、当該の曲の解説を読んで、その後、前述の本の中に書かれておれば、その曲に関する記事を再読する。
   実際には、最も参考になるのは、国立能楽堂で発行されているパンフレットではある。
   岩波講座の本には、大概の曲の解説は網羅されてはいるが、先月の、世阿弥自筆本による復曲能で初演の「阿古屋松」や、老体で見る高砂の「高砂」の老体バージョンなどないのは当然であり、仕方がないから、例えば、阿古屋などは、原典の平家物語に当たる。

   ところで、この辺の能楽本をどう探すかなのだが、国立能楽堂には、ロビーに、書籍やDVDの販売コーナーがあって、結構沢山の本を並べていて参考になる。
   しかし、本を探すのに一番良いのは、やはり、アマゾンである。
   能楽で検索すると沢山の本が表示されるので、目星をつけてタイトルをクリックして解説を読みながら、しらみつぶしに当たるのであるが、これこそ、一網打尽で、大体気に入った本が出てくるので、買えば良い。
   絶版なら、古書店が展示しておれば、古書ではあるが、手に入るのだが、正に、ネットショップのロングテイル商法の勝利である。
   三省堂に行っても、丸善に行っても、紀伊国屋に行っても、行けば分かるが、能楽関係等品揃えは貧弱で、能楽堂の方が揃っている。
   今や、私の書架の方が、まともな能楽本は、多いかも知れないと思っているのだが、シェイクスピア本にしてもそうだが、私が死ねば、娘たちは、すぐに、ブックオフを読んで処分するのであろうから、複雑な気持ちになっている。
   
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

ロッテ対巨人・・・QVCマリン球場

2012年05月26日 | 生活随想・趣味
   ひょんなことから、久しぶりに、プロ野球を見に行くことになった。
   幕張のQVCマリン球場でのロッテ対巨人戦で、両方共私の贔屓球団ではないけれど、両球団とも破竹の勢いであり、好カードだと言うので、有り難く切符を頂いて出かけることにしたのである。
   最近で、プロ野球を見たのは、大分前で、神宮球場での阪神対ヤクルト戦であったが、随分昔に、後楽園へ、阪神対巨人戦をしばしば見に出かけたくらいで、元々、プロ野球を球場に出かけて楽しむと言うほどの趣味でもない。

   結果としては、結構楽しませて貰った。
   巨人の澤村拓一投手も、ロッテの成瀬善久投手も、それほど、調子が悪くもなかったので、3回裏まで殆ど動きはなかったのだが、3回裏に井口の2塁打でロッテが1点先行し、その後、サブローの3ランで一挙に勝負が決まった感じで、巨人は、土壇場まで、たったの2安打と言う10連勝中のチームとも思えないような凋落ぶりで、明暗がくっきりした感じであった。
   しかし、最終回に、巨人は意地を見せて、加治前のヒットの後、長野がホームランを打って2点を返して面目を保った。
   1枚目の写真は、澤村の投球で井口が2塁打を打つ直前だが、2枚目は、長野がホームランを打った瞬間である。
   別に写真を撮るつもりはなかったのだが、井口は、昔、ホークスと阪神とのワールドシリーズで、大切な時に、星野阪神にダメッジを与えた選手でよく知っていて、何かをするだろうと思って、シャッターを切ったのと、最後の土壇場だから、ここらあたりで、いくら何でも、巨人だから、簡単に討ち死にしないであろうと思って、シャッターを切ったのが、偶々、当たっただけである。
   小さなデジカメなので、思うように望遠とシャッターが利かないし、それに、バックネットが入って見苦しいのだが、仕方がない。
   
   

   試合は、2時間40分で終わった。巨人のやや元気なさで盛り上がりに欠けたが、ロッテはかなり打っていたし、完封を逸したが、手堅い成瀬のピッチングは光っていたし、ホームグラウンドでの勝利なので、観衆は湧いていた。
   両方共、外野スタンドは、正に、応援合戦なのだが、私が居たネット裏の内野席は非常に大人しく、私の席はややロッテ寄りだったが、ファンは混在していて、隣の若者二人は熱心な巨人ファンであり、前の席には、上下ロッテのユニホームで固めたおじさんが座っていたし、後ろでは、ロッテ・ユニホームの小学生が、しきりに黄色い声を張り上げて応援していた。
   ヒーロー・インタビューになると巨人席は、殆ど、客は引いたが、ロッテ席は満席で、外野の応援団席は、立錐の余地なくインタビューに聞き入っている。
   ヒーロー・インタビューは、成瀬投手と、3ランを打ったサブロー。
   蛇足ながら、非常に気になったのは、一塁側の外野席が日陰で気持ち良さそうなのに、ホームベース側の内野席は南向きで、炎天下。スペインの闘牛場では、入場券は、ソル(日向席)、ソル·イ·ソンブラ(半日陰席)、ソンブラ( 日陰席)と三種類あって、値段が異なり、ソンブラ(日陰席)が最高で、貴賓席などはここにある。マリン球場のオーナーなり設計者は、タダでさえ日射が強くて猛暑の日本の気候が分かっていたのか、常識の差と言うか文化力の差を痛切に感じた。
   その辺の写真を並べて、久しぶりのプロ野球観戦記を終える。
   
   
   
コメント (1) |  トラックバック (0) | 

性善説市場の日本のビジネス

2012年04月21日 | 生活随想・趣味
   地球を半周して久しぶりに帰国した親しい知人から、お土産を頂いた。
   私も随分昔だが、しばらく住んでいたので、懐かしく思い出しながら、甘いチョコレート菓子を頂こうと思って、包装を説いてテープを剥がして開けて見たら、プーンと好い匂いが漂い、正にブラジルの香りである。
   しかし、驚いたのは、カンの中身で、確かに、6つのケーキが並んでいるのだが、カンの中はスケスケで、どう見ても、まともな贈答用商品の詰め合わせとは思えない。
   咄嗟に、思い出したのは、先日コメントした川北潤氏が、「ネットデフレ」で、最も蝕まれやすいのは、性善説市場の日本だと記していた、その「性善説市場」と言う言葉である。

   日本では、ネットショッピングで購入しても、川北氏も私も、額面通りに、必ず正規品が届けられて全く問題などなかったのだが、中国ならどうかと言うのである。
   日本は、ショップは性善説で商売をしているから信じても良いが、中国では、まがい物が横行し、騙される方が悪いと言う性悪説市場であるから、万が一騙されても文句が言える筋合いではない。中国人の観光客が、何の心配もなく、本物を真違いなしに買えるから、わんさと日本に押しかけて来て、ショッピングをして帰るのも、この証左であろう。

   さて、前述のチョコレート菓子だが、大切な友人であるので、この記事を読まれても悪いし、どこで、いくらで買ったのかと聞く訳にもいかないので推測の域を出ないが、コスト削減の上げ底包装であろうとも、日本の商店ならもう少し工夫をするであろうし、安いのかも知れないが、第一、カンに見合わない箱詰めであり、こんな商売をすれば、一気に、ブランドと会社の信用を失墜する筈なのに、そんなビジネスを堂々と行っていて、商売が続けられるのかと言う思いである。
   尤も、製造現場に立つ従業員のモラルの問題かも知れないのだが、いずれにしても、品質管理以前の問題であろう。
   では、ブラジルが、日本と違って、中国のように性悪説市場であるのかと言うことだが、このブログでも随分ブラジルの記事を書き続けているけれど、私自身は、ラテン気質の強いブラジルであるから、当然と言わないまでも、今回も、変っていないなあ、やはり、相変わらずのブラジルのビジネスだ、と思ったことは事実である。

   とにかく、最近は、多少世知辛くなったとは言え、日本は性善説市場の国。
   天然記念物のような市場だが、グローバリゼーションの時代だからこそ、大切に守らなければならない宝かも知れない。
   BRIC’sビジュネスは、要注意と言うのがビジネスの鉄則だが、ビジネス倫理なり哲学の差があまりにも大きいと言うことであろうか。

   念のため、二つ重ねて並べれば、カンの大きさに見合うのだが、空間が開き過ぎると言う写真を添付して置く。
   
   
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

ブログを書き続けて早や7年

2012年03月20日 | 生活随想・趣味
   このブログを書き始めたのが、2005年3月8日、もう、7年も前のことである。
   「ブログの開設から 2575 日」の表示が、編集画面に記されているのだが、2回の病気入院で、10日ずつくらいは途切れたこともあり、旅行などでも1週間くらいずつは休んだこともあるが、大体、平均、月25回くらいは書き続けたので、今日で、2205回目になる。
   何か書きたくて、最初は、アマゾンのブックレビューに投稿していたのだが、書き換えられたり、途中で理由もなく何編かバッサリ削除されたので、嫌気がさして止めたのだが、丁度その頃、ブログが流行り出したので、このブログを始めた。
   最初は比較的小文だったが、その後、1編2000字をかなりオーバーした長文になってしまっているのだが、自分の考えを纏めるのには、丁度適当だと思っている。

   やはり、長く続いているので、有難いことにかなりの皆様にお読みいただいており、日によって違っているのだが、大体、毎日、500人くらいの訪問者をお迎えし、3000〜5000回の閲覧数があり、アクセス・ランキングは、gooの170万人いるブロガーの中で1000位前後である。
   皆さまのブログのように、特別なテーマに絞って書いておらず、興味に任せて自分が思うままに書き綴っているので、分裂症気味に多岐に亘っていて統一性がない。
   私自身の勝手な自己満足と言うか、正に、熟年(老年と言うべきか)の文化的(?自分ではそう思っている)な日常生活における徒然なるままに綴った、紛れもない雑記帳である。
   
   最初は、それ以前に、海外生活が長くて、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパでトータル14年を過ごし、海外事業を担当していたこともあって、1泊以上した外国が40以上あり、自分でも想像できないような貴重な経験をしたので、それに関連することどもを書こうとしたのだが、結局、現実的な生活に引っ張られて、自分自身の専門でもあった経済や経営に関するテーマが多くなって、それに、趣味でもあった観劇や園芸、読書、時事雑感と言ったテーマに広がってしまった。
   しかし、実際には、自分の経験したことに影響されて生きているのであるから、随所に、海外での懐かしい思い出について言及せざるを得ず、かなり、異質な雑記帳になってしまっているのではないかと思っている。

   さて、ブログのテーマの一つである、政治・経済・社会、経営・ビジネス、イノベーションと経営、地球温暖化と言ったカテゴリーについては、私自身、学者でもないし、決して学究の徒でもないので、専門などと言うのはおこがましいのだが、大学の専攻は経済で、大学院は米国製MBAで経営学専攻であり、欧米でのビジネス経験などをも通じて、その後、専門分野の専門書などを絶えることなく読み続けて勉強しており、新しい学問の潮流や動向をフォローして来ているつもりなので、厚顔ながらも、それなりの思いを込めて、持論を展開させて貰っている。
   自己満足であり、思い上がりかも知れないとは思うが、半世紀近くも経済学や経営学について学び、大変な時代の潮流と文化文明の途轍もない変遷に翻弄されると、若い頃には見えなかった世界が、今頃になって、鮮やかに見えて来ることもあって、その思いを記録しておきたいと言う気持ちがあることも事実である。

   観劇については、若い頃は、クラシック音楽やオペラ鑑賞が主体で、有名音楽家などが来日すると無理をしてでもコンサートに出かけていたのだが、海外に赴任してからは、現地で益々拍車がかかって来た。
   フィラデルフィア管、コンセルトヘボー管、ロンドン響、ロイヤル・オペラなどはシーズン・メンバー・チケットを持って通っていたし、片っ端から、有名音楽家やオーケストラなどのコンサートに出かけて行き、訪れる都市ごとにオペラ劇場を訪ねてオペラを鑑賞してきた。
   最後のロンドンでは、これに、シェイクスピア戯曲の観劇が加わって、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーを追っかけて、ストラトフォード・アポン・エイボンとロンドンを掛け持ちし、ロイヤル・ナショナル・シアターのシェイクスピア劇も欠かさなかった。
   日本に帰ってからは、この比重が、徐々に、歌舞伎と文楽に移り、私のブログも、この方面に比重が移って来て、最近では、年期だけ入って来たので、これも厚顔無恥を承知で、勝手な印象記事を書かせて貰っている。
   初期には、劇評ブログで有名な「劇場の天使」のハンナさんにご注意やご教示を頂きながらのよちよち歩きだったのだが、今では手前勝手な観劇印象記を臆面もなく書いている。まあ、悪意の記事は書いていないつもりなので、一ファンの戯言と言うことで許して貰えるのではないかと、タカを括っている。
   それが、最近では、宗旨を変えて(?)、狂言から能楽へと、鑑賞舞台を展開しようとして、世阿弥関連本を読み始めている。
   しかし、これも、昔、学生の頃、勉強は程々にして、京都や奈良の古社寺を巡り歩いて、日本の歴史と文化の勉強に明け暮れていたので、歳を取った今、やっと、先祖返りと言うか、日本人としての自分自身のアイデンティティを確認したくなってきたと言うことではないかと言う気がしている。

   書評・ブックレビュー、展覧会・展示会、旅のことども、その他、花鳥風月など園芸関係は、私の趣味の一環であり、その雑感である。
   欧米の旅紀行は2シリーズだけだが、やはり、アメリカかヨーロッパだが、ぼつぼつ、気ままな旅に彷徨ってみたいと思っている。

   振り返ってみて、やはり、7年とは長いような感じがするが、読み返してみると、昨日のような気がする。
   写真だけは随分残して来たが、今でも残念に思うのは、このブログの最初の趣旨でもあったことだが、私自身が歩んできた随分波乱と思いがけない運命の悪戯に満ちた海外での生活と経験を、何故記録に残せなかったのかと言うことである。
   殆ど忘却の彼方に消え去ってしまって、僅かな記憶しか残っていないのだが、何故か、今の生活を大切に生きたいと言う気持ちが強いので、強いて思い出して記録に残しておこうと言う気持ちがでるまで待つ以外になさそうである。
コメント (1) |  トラックバック (0) | 

アマゾンの新しい使い方

2012年03月10日 | 生活随想・趣味
   私が本を調達するのは、大型書店か地元の書店、神田神保町などの古書店、それに、アマゾンのネットショップかのいずれかである。
   尤も、古書店を使うとしても、新しく出版された新古書ばかりで、所謂、古本は、特別に探している本以外は、絶対に買わない。

   ところで、最近は、アマゾンで本を買う方が、段々、多くなってきた。
   専門書など原書は、当然、アマゾンと言うことになり、米英の定価に為替を勘案した価格なので、最近では、同じ本の日本語版よりは、むしろ、安いくらいであり助かっている。
   面白いのは、アマゾンのページで、古書の出店と同時に、新本の出店も出ていて、新版などは、アマゾンよりも、出店組の価格の方が安いことで、アメリカから直送するようである。
   普通、アメリカでは、新刊本は、30%くらいのディスカウント価格で売られるのは普通であり、恐らく、それをもっと安く仕入れて送るのであろうが、アマゾンの場合には、日本に在庫があり、そのまま、すぐに送って来るので、多少高くても、私は、これを使っている。

   さて、私が、もう一つ、アマゾンで使う新しい方法は、古書の出店から、本を探して買うことである。
   書店では、殆ど新しい本ばかりで、継続的に売れない本は、すぐに書店の書棚から消えてしまって買えなくなるのだが、アマゾンでは、殆ど売れないような本でも、ロングテール現象で、出版されている本は、どんな本でも探せると言う利点がある。
   しかし、絶版だとか、出版を停止している古い本など、新本の在庫がない本も結構多いのである。
   アマゾンは、最近では、多くの古書店に出展させて、在庫がなくても、古書店からの本があれば、検索すれば、その本のページが出て来て、買えるようになっている。
   そして、中古品の出店と言うところをクリックすれば、安い順に並んでいて、その古書店の評価や、古書の状態などが書き込まれていて、コンディションの項目で、中古品・非常に良いと書かれている本を選べば、殆ど間違いなしに新本と変わらない状態の本が手に入る。
   私の場合、これまで、神田古書店のデータ・ベースなどを使って、古書を探したことがあるのだが、アマゾンの方がはるかに充実しており、普通では探せないような古書を、時々アマゾン経由で手に入れて重宝している。

   日本のアマゾンのブック・レビューは読まないが、翻訳本だと、必ず、アメリカのアマゾンのページを開いて、Editorial Reviewsや、時には、Customer Reviewsを読んで、参考にしている。
   日本のアマゾンも、大分良くなったが、アメリカの方は、時には著者のビデオや、詳しいバックデータなどの紹介があり、充実しているのである。
   アマゾンをクリックして、本やDVDや他の商品などを調べたり買ったりすると、うるさい程、それに関連する本や商品の紹介メールが来るのだが、時には、新聞などで見過ごしていた新版本を教えてくれたりして、参考になることがある。

   いずれにしろ、アマゾンの本のネットショップは、日進月歩で、どんどん、内容が豊かになり、便利になって来ており、古書でも、殆ど本当の古書を定価の50%で売っているブックオフよりも、はるかに便利で良くなっており、これでは、既存の書店もブックオフなどの古書店も、アマゾンに市場を蚕食され、駆逐されていくのは当然だろうと思われる。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

日本人の海外留学生は何故減っているのか

2012年03月01日 | 生活随想・趣味
   私は、今でも、東大や早稲田大学に出かけて、学生たちと机を並べて講義を受けることがある。
   両方とも、主に、法学部のCOEプログラムの公開講座なのであるが、私自身、大学の専攻は経済で、大学院の専攻は経営学なので、どうしても、法学の知識をアップツーデイトに保っておきたいと思ってであるが、最近、外国からの教授たちの来訪も多くて、英語で講義されることも多くなった。
   米国製MBAでありながら、法学関係の専門用語になると、専門知識の不足もあるが、殆ど理解できなくなることがある。
   しかし、もう、グローバリゼーションの時代であるから、日本語に通訳して知識を習得するような、悠長な時代ではない。

   ところで、話は飛ぶが、最近、急速に、アメリカのトップ大学や高等学術機関などへの日本人の留学生が、激減している。
   ハーバードのメアリー・C・ブリントン教授によると、2008年度の学部の日本人留学生は、たったの5人だと言う。
   中国や韓国の留学生は、日本人留学生の何倍もの数で、以前から、米国の有名大学などは中国の出先事務所を通じて好条件で、優秀な留学生を積極的に勧誘しているようだが、正に、クリエイティブ時代で、知の争奪戦がグローバル規模で行われているのである。
   東大も、中国に事務所を開設して、中国人留学生を勧誘するようなだが、これは良いことだとして、問題は、もっともっと、日本人の若者を、特に欧米の大学や高等学術機関へ送り出さないと、グローバル・ベースで、国際舞台で渡り合える人材が育たないと言うことである。

   何故、日本人留学生が減ったのか、ブリントン教授は、その理由を、3点上げている。
   一つは、アメリカの大学での学位が、日本社会や企業で評価されていないこと。
   二つ目は、日本人の学生が自分を売り込む能力に欠けていると言う可能性。アメリカの大学が入学を許可する基準として、柔軟な思考ができて、いろんなことに興味を持っている人間だと言うこと。
   三つ目は、日本人の若者が内向きになってきて、知らない国で知らない人たちの間で生きて行く経験をあまり求めなくなって来たから。
   これに対して、対談者の山岸俊男北大教授は、経済的な理由が一番大きいと思うと応えている。

   私が、ウォートン・スクールに留学した時には、同期は16人いたが、中央官庁から2人、日銀から1人、開銀から1人、東証から1人で、他は、都市銀行からが大半で、商社や外資系など民間企業からの派遣留学生であった。
   他の学年では、自費留学生が居たが、大半は、官庁か企業からの派遣留学生であったのだが、もう、40年ほども前のことであり、当時は、日本自体がまだ貧しかった頃だから、仕方がなかったということでもあった。
   
   今、ウォートン・スクールに留学すると、最低、2000万円かかると言うから、相当の財力がないと自費留学は無理で、貧しくなってしまった日本の若者が、自力でアメリカへ留学するなどは、殆ど無理であろうと思われる。
   昨秋、某大学で、欧米流MBA経営学では通用しないBRIC’sビジネスと言う大上段に踏み被ったテーマで講義したことがあったが、終わった後、何人かの学生が、私の所へ来て、留学の意思を語っていた。
   最近の若者は、チジミ志向だとか、外に出ていろんな機会を試して見ようと言うプロモーション志向ではなくて、なるべくリスクの少ない安心できる状態から出たくないと言う傾向だと言われているが、決してそうではなく、チャンスさえ与えれば、十分に挑戦する意欲はあるのである。
   若者たちへの財政的サポートを充実させて、背中を押すことである。

   政府も民間企業も、留学生を派遣する資力に欠けるのなら、NPOでもNGOでも何でも良いから、海外留学基金を設立して、留学生派遣することを考えたらどうであろうか。
   この団体へは、国民の寄付で賄うこととして、その寄付金は、所得控除の対象とすることは勿論、あらゆる便宜を図って優遇することである。
   振り込め詐欺などで、宙に浮く老齢者の預貯金のことを考えれば、眠っている1500兆円の一部でも引き出して、将来ある日本人の若者に注ぎ込むことを考えれば、これ程有効で意義ある投資はなく、日本の再生に大きく貢献することは間違いない。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

何時も迷子になる私のメガネ

2012年02月27日 | 生活随想・趣味
   定かではないのだが、私は大学生になった頃からメガネを掛けはじめたと思う。
   昔の写真を見れば、いつごろからメガネをかけるようになったのか分かるのだが、古い写真がどこにあるのかも分からない。
   今でも近眼のメガネを使っているのだが、50を過ぎてから、読書に不便を感じ始めたので、遠近両用のメガネに変えた。
   しかし、便利なようでだが、あまり調子が良くなかったので、日常用と、読書用との二種類のメガネを使うようになった。

   外出の時でも、結構、本を読むことが多いので、読書用のメガネを離せないのだが、最初はメガネケースに入れて、その都度、交換をしていたけれど、煩わしいので、裸のまま、ワイシャツの胸ポケットに入れて、交換を繰り返している。
   しかし、何かの拍子に、メガネの入っているのを忘れて、胸を硬いもので押さえたりして、レンズをツル近くで折ってダメにしたり、入れたつもりが入ってなくて落としたりすることがあって、トラブルが結構多い。
   被害にあうと、ケースを使ったりするのだが、やはり、億劫なので、今も胸ポケットに入れ続けている。

   問題は、それよりも、メガネをどこかへ置き忘れて、家探しすることが多いことである。
   と言うのは、幸か不幸か、多少ピントはぼけているのだが、私は、メガネを掛けなくても、しばらくの間ならそんなに不自由をしないので、時々、メガネを外したままで作業をしたり、パソコンを叩いたりなどするので、その都度、適当なところにメガネを置いて、その場所が定まっていないので、どこに置いたか忘れてしまって往生するのである。

   尤も、置き場所を忘れるのは、歳の所為か、メガネだけではなく、鍵や財布や本や色々なものもあるのだが、一番、日常生活で脱着が激しいのはメガネであるし、それに、いくらなくても見えるとしても、やはり、メガネに勝るものはなく、ないと不便なのである。
   この口絵写真は、本の上に置いたメガネだが、殆ど見えないし、探す時間が勿体ないと思いながらも、置き場所を決められず、何時も、無意識にメガネを外して行き当たりばったりに置いてしまう。
   近くの小さな文字を読んだり、糸に針を通す時などは、メガネを外した方が良く見えるし、庭仕事などで繁みに入る時などには、当然、メガネを外すし、とにかく、近くを見る動作の時には、メガネを外すか読書用のメガネにかけ替えるかなので、どちらにしても、胸ポケットに何か入っていると、外したメガネをどこかに置いてしまうのである。

   先日も、電車の中で本を読んでいて、下車駅に近づいたので、メガネを外したものの、胸ポケットにものが入っていたので、読書用のメガネを外して空いていた横のシートに置いて、本をバッグに入れたり傘を出し入れしている間に忘れてしまって、そのまま電車を下りてしまったことがある。
   結局、愛用のメガネと、また、おさらばなのだが、要するに、物忘れが激しすぎるのか、整理整頓下手のちゃらんぽらんな性格の所為なのか、とにかく、計画性のなさと言うか、用心深く物事をキチンと出来ないか、そのあたりが原因で、大切なメガネを迷子にさせていると言うことであろう。
   
   少し前に、頭のCTスキャンを受けた時に、頭の皺が十分にあったようで、当分頭は問題ないと先生が言ってくれていたので、安心しているのだが、いずれにしろ、歳が行くと物忘れが進むことは間違いない。
   しかし、メガネに紐かチェーンをつけている人がいるが、あれだけはやりたくないと思っている。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

激動する世界、太平天国のニッポン

2012年02月11日 | 生活随想・趣味
   先日、テレビ番組について、日本のニュース番組が、如何に太平天国で能天気かと言うことについて書いた。
   NHK BS1のワールドWaveを見れば、シリア内乱の熾烈さと世界世論の沸騰、収拾のつかないギリシャ危機と言うダイナマイトを抱えたEUの経済危機、焼身自殺に手を焼く中国の果てしないチベット弾圧、ロシアの大統領選を筆頭とした世界各国の首脳選挙の動向、イスラエルのイラン爆撃の可能性とホルムズ海峡の閉鎖、エジプトの暫定軍事政権への反発、はては、石油資源開発で再燃した英国アルゼンチン間のフォークランド諸島紛争等々、ヨーロッパや中国などで猛威を振るう大寒波まで、とにかく、世界中が大きく激動していることが分かる。

   ヨーロッパの経済危機だが、国民の統治能力も倫理観も完全に地に落ちて、国家を再建するための経済成長能力も殆ど喪失してしまって、他力本願でしか国家再生の道を模索し得なくなったギリシャの悲劇は、正に、欧米日先進国に降りかかって来つつあるディザスターの氷山の一角を象徴していて、暗澹とせざるを得ない。
   ユーロ圏諸国の財務相会合が、国会の決議など条件を付けてギリシャに対する追加支援策の正式決定を来週に先送りしたのは当然であるが、生活に困窮を極めたギリシャ国民の暴動が絶えず、正に、断末魔の様相を呈している。
   能天気なラテン気質の国民が、モラル欠如無能力の為政者に舵取りを任せて、花見酒の経済に酔いしれた結果が、如何に悲惨かを、ギリシャの現実が如実に物語っている。
   結局、国民が賢くなる以外に生きる道はなく、ギリシャ国民が自助自立しない限りギリシャの再建はないであろう。

   アラブの春だが、ムバラク政権打倒では一致したかの様相を呈していたエジプトも一枚岩ではなく、そして、権力維持に執着する軍部支配を解消出来ずに、国家再建への道を暴動や大混乱を伴いながら模索しているのだが、あの東ヨーロッパの共産主義国家の民主化にも、随分、苦難と時間を要したのであるから、まだまだ、混乱と混迷が続くのであろう。
   しかし、シリアの動乱は、アラブ連盟の動きを見ても、既に、アサド政権の崩壊が見えているように思う。
   国連安保理の決議を、ロシアと中国が拒否権を行使して葬り去ったことについては、世界中の人権派や民主主義勢力から非難が巻き起こっているのだが、複雑な民族紛争や内紛を抱えて呻吟している両国にとっては、アサド型の国家治安維持施策が必須であり、対岸の火事だとは思えないのは当然である。
   特に、ロシアは、シリアに対して、巨大な武器取引や旧ソ連諸国以外の唯一の海軍基地の存在など同盟国として国益を有しているので、特に、シリアよりの政策を取らなければならないのであろう。
   しかし、アサド政権が打倒され、新政権が成立すれば、一挙に反ロシアとなり、利権が崩壊してしまう筈であることが分かっておりながら、世界世論に反するこの挙に出るのは、やはり、大統領選挙の余波であろうか。

   イラン問題については、核兵器の保有が1年以内と予測されているので、イスラエルのイランの核施設破壊のための爆撃の可能性は、非常に高いと考えられている。
   たとえ、イランが核兵器を保有したとしても、イスラエルを爆撃するとは思えないのだが、イスラエルとしては、ハメネイ師のイスラエル抹殺発言が、絶対に許せないのであろう。
   それに、これまで、何回か戦火を交えた中東戦争も局地戦で終わっているし、かって、イランの核施設爆撃したこともあり、イスラエルがイランの核関連施設を攻撃すると言う情報は、これまで、何度も流れている。
   読売がWPを引用して、”イラン核開発に対するイスラエルの認識について〈1〉イランが近く、地下深くの施設に爆弾製造に十分な濃縮ウランを貯蔵し終わると予測している〈2〉貯蔵完了後は、単独攻撃による兵器開発阻止は難しいと危惧している――との見方を示した。パネッタ長官は「そうなる前の4月か5月、6月」に、イスラエルが攻撃を行う可能性が高いと見ている、とした。”と報じている。
   イランとの過激な争いが、日本にとっての生命線である石油輸入に重大な影響を与えるので、経済的な苦境を益々悪化させる。

   中国の暗部情報については、BBCやオーストラリアABCやシンガポール放送などで報じられていて、日本には殆ど知られていないが、既に、ラマ僧の焼身自殺は20人以上で、それも、となりの四川省でのことで、英人記者は、チベットへの入国を拒否されたり四六時中監視されたり、酷いらしいが、中国国営テレビは、取材班が、猛吹雪で難渋するチベット人の車を救済するニュースを能天気に報じていて、その落差が激しい。
   しかし、チベットへ、どんどん、漢民族を送り込んで、チベット族の自由を束縛しながら、チベットの中国化を強引に進めているらしく、この対異民族政策の推進は、新疆などウイグル人やイスラム教徒に対しても激しいと言うことである。
   この感覚であるから、アサド政権のシリア人弾圧などには、胸が痛まないのであろう。
   最近の中国国営テレビも、結構、中国国内の暗部や問題なども放映するようになったので驚いているのだが、これもあれも、インターネット、SNSのなれるワザであろうか。

   ところで、北朝鮮では、アンドロイドに対応したスマートホンが普及し始めて、それも、その技術水準は韓国並みだとKBSが報じていた。
   とにかく、世界は、日本人が、つまらないテレビ番組にうつつをぬかしている間に、どんどん、そして、激しく激動しているのである。

   ところで、日本だが、最近、年金年金で、政治家が喧しい。
   もう、現在の状態では、既に、はっきりと破綻しているのであるから、政争に明け暮れている暇はなく、超党派で抜本的な対策を取る以外にはない。
   経済成長に見放されてしまった日本の現状では、源資の自然増は望めないから、税金で取るか何らかの形で収入を増やすことを試みなくてはならないのだが、最後の手段として、分配を公平にして有効需要を増やすこととするのなら、豊かな人から拠出を願う以外に道はなさそうである。
   ギリシャのようになる前に、まだ、日本人の高潔さが健在である時に、考えるべきことであろうか。
   この問題については、長くなるので、次回に譲ることとする。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

テレビを見ることの楽しみ

2012年02月05日 | 生活随想・趣味
   先日、かなり親しい友人が、テレビを見るのは、民放番組ばかりで、NHKは詰まらないので殆ど見ないと言っていたのだが、これは、テレビは、殆どNHK,それも、BS番組ばかりを見ている私には、非常に奇異な感じであった。
   BS番組も、主体は、BSプレミアムの、俗に言う教養番組と言われている類のものだが、録画することも多い。
   テレビ番組表は、NHKステラのBS番組とWOWWOWの番組表くらいしか注意して見ないが、それも、実際には、放映時間だけ時間を潰すことになるので、そんなに沢山は見られずに、録画してもDVDだけがどんどん溜まって行くことになる。

   ニュースにしても、NHK総合のメインの番組は見ようとはしているが、時間が合わないと見ずに過ごすことが多く、民放のニュース番組は、特別な場合は別だが、コマーシャルが煩わしいので、殆ど見なくなってしまった。
   ニュースで必ず見るのは、朝のBS1のワールドWAVEで、一応、これだけは録画していて、見られなかった時には、追っかけて見ることにしている。
   NHKも相当力を入れていて、キャスターも有能な人たちが当たっているので、新聞や他のメディアでは、接し得ないような生々しい激動するアップツーデイトな世界情勢を実感できて非常に参考になる。
   夜10時以降の番組も出来れば見たいと思っているのだが、時間がない。

   私は、アメリカとヨーロッパで生活したことがあるので、アメリカでは、ウォルター・クロンカイトやダン・ラザーのNBCニュースなどの3大ネットワークとCNN、ヨーロッパではBBCが主だったが、相対的には、NHKのニュースよりは、かなり程度が高かったように思っている。
   内容にもよるのだが、少なくとも、盆や正月の大移動の時に、新幹線や飛行機に乗る子供にインタビューして愚にもつかない紋切り型の返事を収録して放映するようなことは絶対にないし、火事や交通事故やDBなど日常的な出来事や大衆迎合型のニュースをこれ程までに力を入れて放映することもないし、もう少し、世界の出来事や人類にとって大切なことに注意を払って番組を組んでいたように思う。
   大宅壮一が、某テレビ番組を、「一億総白痴化」と言ったのは有名な話だが、この程度のニュース番組ばかりを流して居れば、日本人の国際感覚は世界水準以下となり、朝から晩まで、タレントと称する多くの人たちがわいがや騒いでいるバラエティ番組などは、見る人が居るからペイするのかも知れないが、日本人の文化程度と知的水準の将来が思いやられると言うものであろう。

   大阪は、お笑いの方が根付いていると言って、交響楽団や文楽への補助金をぶった切る橋下さんが正しいのか、世界無形文化遺産である文楽維持のためにはもっと公共予算を増やすべしと言う私が正しいのかは知らないが、テレビの「一億総白痴化」効果のお蔭で、どんどん、日本人が営々と築きあげて来た古い価値ある文化や伝統が、消えつつあったり劣化しつつあると言う嘆きの声が、あっちこっちで上がっていることは事実のようである。
   先日も、映画もテレビドラマも、時代劇がどんどん下火になって行くので、時代劇を作り出す人々や技術などが消えて行って風前の灯だと、テレビで報じていたが、あの行燈の灯をワンカット撮影するだけでも、セットの作成準備から大変なプロの人たちの技術や業の蓄積有ってのことで、映画が消えれば、その技術も消えてしまうのである。

   話が脇道にそれてしまったのだが、テレビで何を見て楽しもうとも、人好き好きであるから、自分の勝手なので、それ以上、知人とは、テレビの話は止めてしまった。
   もう少し、どこが民放の良さなのか聞いておくべきだったと思ったのだが、この頃は、もう、人生も最終ラウンドに近づいて来ると時間が惜しくなってくるので、テレビを見るのも、それ相応の心構えが必要なのである。

(追記)口絵写真は、オランダからの輸入であろう、園芸店で球根の入ったボックスを買って来て、窓辺に置いていたら咲いたアマリリスである。キューケンホフ公園では、チューリップが消えた5月に、沢山のアマリリスが展示される。大味だが、華やかである。
   
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

文楽への補助金カット〜文化芸術不毛の橋下市政

2012年01月11日 | 生活随想・趣味
   吉右衛門が対談で、文楽への補助金が切られると語っていたので、インターネットで調べたら、読売新聞の「橋下流に文化団体、戦々恐々…交響楽団消える?」に行き当たった。
   「知事時代、「文化は行政が育てるものではない」と公言してきた橋下徹・前大阪府知事が19日に大阪市長に就任するのを前に、市内の音楽や芸能関連の団体が戦々恐々としている。
   橋下知事当時、府が出していた補助金を全額カットされた大阪フィルハーモニー交響楽団(大フィル)や、「観賞したが、2度は見ない」と酷評された文楽団体などは、市から多額の補助金を受けているためだ。」との書き出しで始まる記事だが、「橋下氏は知事時代、「行政や財界はインテリぶってオーケストラ(が大事)とか言いますが、大阪はお笑いの方が根付いている」と発言。大フィルへの年約6300万円の府補助金を2009年度から全額カットした。」と言うことらしい。
   産経によると、「橋下徹・次期大阪市長が、大阪フィルハーモニー交響楽団(大フィル)や文楽協会などの文化団体に対する市の補助金について、全額カットも含めた大幅見直しを指示したことが7日、分かった。」と言うことである。

   文楽について書いてある部分は、次の通り。
   「大阪市から年5200万円の補助金を受ける財団法人・文楽協会も憂鬱(ゆううつ)だ。
   橋下氏は09年8月、「文楽を見たが、2度目は行かない。時代に応じてテイストを変えないと、(観客は)ついてこない」と発言。07年度に3600万円あった府補助金は11年度、2000万円に減った。同協会の三田進一次長は「採算が難しく、行政が手を引くと土台が崩れる」と戸惑う。」

   私は、昨年4月24日のこのブログで、「民主党「仕分け」が伝統芸を潰す」を書いて、日本芸術文化振興会への予算削減について苦言を呈したのだが、その芸術振興補助金の一部が文楽にも行っていて、それが削減されると、文楽にとっては痛手であることを記した。
   その一部を転記すると、
   「文楽は、松竹から見放されて一時は崩壊の危機に瀕して、大阪市や国やNHKのサポートで命脈をつないで、今日の芸術性の高さと高度な質を維持しているのだが、日本芸術文化振興会のサポートがなければ、維持不能であったであろう。
   文楽協会の決算数字を見ると、事業活動収入6.9億円のうち1.57億円の補助金等収入があるが、この一部が、この振興会から出ているのであろうが、微々たるもので、しかし、それがなければ、文楽協会はやって行けない。
   日本の文楽の芸術性の高さと洗練さてた技術の卓越さは、世界的にも愁眉の的で、その舞台芸術への影響力の高さは、ライオンキングをはじめ、世界中の芝居やオペラを見れば良く分かるし、歌舞伎でも同様であり、正に、日本文化の粋とも言うべき誇りなのである。」

   文楽は、1955年に文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定され、更に、ユネスコ無形文化遺産保護条約に基づく世界無形文化遺産に登録されており、日本が世界に誇る最も代表的な古典藝術の粋である。
   そして、文楽は、淡路仮屋の初世植村文楽軒が「西の浜の高津新地の席」という小屋を大坂高津橋南詰で建てて、興行したのが始まりとされており、正に、大阪で生まれて大阪で育ち、大阪弁を主体とする、大阪の魂とも言うべき、恐らく、大阪が胸を張って世界に誇り得る最高の宝であり文化遺産であることには疑いの余地がない。

   私は、ロンドンで開催されたジャパンフェスティバルで、大阪市と大阪財界の肝いりで派遣された文楽公演で、玉男と簔助の「曽根崎心中」を見たのだが、同行したイギリス人夫妻が、涙を浮かべて感激していた。
   イギリスなので、カーテンコールに登場した玉男の徳兵衛の頬を、簔助のお初が、甲斐甲斐しく拭ってやっている仕種を見て、その優雅さ淑やかさが、また、イギリス人夫妻を感激させて、その後会う度に、思い出を語り続けていた。
   この夫妻だが、ロンドンの著名なエンジニアリング会社の社長夫妻で、私達を毎年、グラインドボーンのオペラへ招待してくれ、私たちもロイヤル・オペラに招待するなど、クラシック音楽やシャイクスピア劇を含めて、正に、芸術鑑賞の友であった。

   それは兎も角、ロンドンのロイヤル・オペラ劇場だが、サッチャー政権が大鉈を振るってグレイター・ロンドン(東京都庁に当たる)をぶっ潰してしまったのだが、この劇場の改修工事費をねん出するためには、ない袖を振れなかったので、公営賭博の益金などを当てて、立派にやりとおして、素晴らしい劇場に衣替えさせた。
   このロイヤル・オペラ劇場もそうだが、あのウィーン国立歌劇場も、ミラノスカラ座も、とにかく、世界の名だたるオペラハウスは、国家や地方自治体の手厚い保護育成や民間の献金などのお蔭で、高度な芸術水準を必死になって守り続けている。
   高度な芸術は、豊かな財政援助とその価値が分かる為政者や国民あってこそ栄えるのであって、人類を限りなくアウフヘーベンし、人々に生きる喜びと限りなき希望を与えてくれるのである。
   あのルネサンスを爛熟させたメディチ家の偉大な貢献と、フィレンツェの途轍もない文化文明の輝きを見れば、そのことが良く分かる。

   橋下市長は、「文楽を見たが、2度目は行かない。」と言っているが、何をどこで見たのか知らないが、単に、文楽を鑑賞する能力がなくて、その価値が分からないだけであって、「時代に応じてテイストを変えないと、(観客は)ついてこない」などと言うのは古典藝術・世界文化遺産への冒涜であり、「文化は行政が育てるものではない」と言うに至っては、教養と識見、さらに、人間性さえ疑わざるを得ない。
   高度な芸術は、一度、衰退を始めると殆ど回復は不可能であり、鳴きもしなければ声も出せない花や木と同じで、水やりを忘れた人に育てられると、悲しいかな、枯れてしまう。
   人々の叡智と審美眼を営々と積み重ねて築き上げてきた世界遺産を守るのも殺すのも、同じ人間。
   大阪の宝を守るのか殺すのか、大阪人の良識と英知が試されている。
コメント (2) |  トラックバック (0) | 

私の年末年始の過ごし方

2012年01月01日 | 生活随想・趣味
   昨日の大晦日の夜は、久しぶりに、最初から最後まで、紅白歌合戦を見て過ごした。
   少し前までは、ベートーヴェンは凄い!を聞きに東京まで出ていたのだが、3年前に、俗っぽさが気になって、止めてしまったので、年末年始は、娘宅で過ごしたり、自宅でどこにも外出せずに家族だけで過ごすようになった。
   欧米でも日本でも、随分、コンサートに出かけて、ベートーヴェンを鑑賞して来たが、結局、一度に連続で、ベートーヴェンの全交響曲を聞くことが、果たして意味があることなのかどうかと言うことだが、むしろ、私にとっては、聞きたいのか聞きたくないのかが問題で、聞きたいと思わなくなってしまったと言うことである。

   紅白歌合戦だが、私の子供の頃は、東海林太郎と言った歌手が居て、直立不動で微動だにせず、赤城の何とかと言った歌謡曲を歌っていたなど、功なり名を遂げた年配歌手が幅を利かせて、面白くもおかしくもなかったのだが、最近の紅白の舞台は、若手のミュージシャンがどんどん活躍して、バックに、CGなど最先端のIT技術や高度な照明技術を駆使して実に美しく、それに、音響効果も抜群の上に、意匠等のデザインや演出などの発展もあって、実にダイナミックで垢抜けしており、正に、魅せて見せるショーに脱皮している。
   若い歌手たちが歌っている歌などは、メロディーがはっきりしている歌にしか慣れていない私などには、到底歌えないのだが、時代の流れをつくづく感じる。

   私の場合には、海外が長かったのだが、もう、何十年前から、この紅白歌合戦は海外でも放映されていて、サンパウロでもロンドンでも楽しみに聞いていた。
   寅さん映画と同じで、唯一のふるさと日本との定期的な接点であり、非常に懐かしかった。
   アムステルダムの時には、放映がなかったので、日本の友人に頼んで、録画して送って貰っていた。
   
   尤も、ヨーロッパの時には、クリスマス休暇で、2週間ほど休暇を取るので、殆ど、長期旅行に出ていた。
   アムステルダムの時には、車で、ドイツやスイスを周遊しながら、ウィーンまで行ったり、コペンハーゲンに行ったり、或いは、飛行機でイタリアに出かけたり、また、ロンドンの時は、スコットランドやウエールズなどへ行くのは車であったが、スペインやドイツなどヨーロッパへは飛行機で飛び、ユーレイルパスなどで列車旅行をしていたので、実際には、紅白歌合戦を直接ではなく、録画で見ることが多かった。
   日本の知人友人たちには、キリスト教徒でもないので、クリスマスカードを出すのもおかしいので、また、年賀状なども失礼していたので、必要な人には、旅先から絵葉書を書いてご挨拶することが多かったし、正直なところ、海外では、日本のように新年とか元旦だとか言った感じは殆どなかった。

   ところで、今年の年末年始は、全く自宅で過ごすことになり、年初に娘たちの家族が来て一緒にゆっくりと過ごす。
   年末は、家内の手伝いで掃除片付けと言ったところだったが、私自身も、庭仕事が結構沢山あって、やり残した庭木の剪定や寒肥の施肥、少し、早いかも知れなかったが、バラの剪定やつるバラの誘引など、それに、積み上がった本や資料などの整理片付けなど、やり始めれば、かなり忙しかった。

   その合間に、録り貯めたメトロポリタン・オペラのビデオを見たり、それに、年末、立て続けに、NHK BSで、ミラノ・スカラ座のオペラを放映していたので、それを見たり、並行して、「男はつらいよ」を飛ばし見したりと、テレビを見るだけでも、時間がつぶれる。
   それに、雑誌や新聞、電子版のメディアなどで、過去の総括や新年度の見通しや動向なども、気になるので、流し読みと、これをしていると、読書がおろそかになってしまう。
   
   ところで、今年の読み始めは、丁度、日経の私の履歴書で、トニー・ブレアが始まったので、「ブレア回顧録」にしようと思って読み始めた。
   スティーブ・ジョブズの2巻本よりも、はるかにボリュームがあるので、多少時間はかかるであろうが、久しぶりに、イギリス学の反芻も面白ろかろうと思ったのである。
   ヨーロッパの経済危機の状況を理解するためにも参考となろう。
   いずれにしろ、外との関わりが希薄な元旦から始まるのだが、今日の午後も、また、震度4の地震が起こって、棚から本が転げ落ちた。
   平穏な1年であって欲しいと祈るばかりである。
   

   

  
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

ネット・ショッピングで調達し浴室乾燥暖房器を取り換え

2011年12月29日 | 生活随想・趣味
   先月、浴室乾燥暖房機が故障したので、付け替えることにし、何時ものように、千葉ガスに電話して、見積もりを取ると、機器代金16万円工事費3.5万円で、トータル19.5万円であった。
   機器代金は30%引きであったが、何となく、価格コムを叩くと、最低価格は50%引きであり、ほぼ、4万円も安い。
   このネット・ショップは、評価も高く、信頼できると思ったので、千葉ガスに電話して、工事だけならいくらになるか再見積もりを頼んだ。
   出て来た答えは、6.5万円で、工事費が50%アップすると同時に、今までなかった機器処分代金も含まれてしまってほぼ2倍となり、機器代12万円を加えると、18.5万円になる。

   まあ、1万円安くなるのだか、良かろうと思ったのだが、念のために、ネットショップや機器メーカーに工事業者の紹介を頼んだら教えてくれたので、電話して聞いたら、取り付け工事費は、5万円だと言う。
   これだと、機器代金12万円を加えても、17万円となり、最初の千葉ガスの見積金額より、2.5万円も安く上がることになる。

   メーカーから紹介を受けた地元のガス工事会社からも見積もりを取っていたので、この会社に、工事だけでもやってくれるかと聞いたら、当初の工事代金より少し高くはなったが5万円でやると回答して来た。
   結局、この会社に頼むことにして、ネット・ショップに、メールで機器の注文を出して調達し、着き次第最短距離で工事を完了して貰い、今では、順調に機能している。

   どうも、ガス水道電気などと言った公共の基幹的なインフラ関係の業務には、地域独占の弊害か、指定業者制度などがあるのか業者間でテリトリーが決まっていて、自由競争原理が働かないようになっているために、どうしても、価格硬直性が固定化しているような感じである。
   はっきりとは分からないが、今度工事を頼んだ会社は、指定業者でもなくテリトリー外の業者のようであったが、実際の所在地は、わが住居には、はるかに近くて優良会社であった。
   
   千葉ガスの場合には、実際には、お客さま窓口として各支社・サービス店舗名で表示されている千葉ガスリビングと言う別法人の指定業者が営んでいるサービス店が、機器の販売や工事などのサービス業務を行っていて、街では千葉ガスの看板を掲げており、当然、その担当テリトリーでは、その業者が、千葉ガスの名前で仕事をしている。
   したがって、私の対応した千葉ガスも、この別法人の指定業者なのだが、責任や信頼関係としては、問題がないので安心ではあろう。
   しかし、問題は、消費者にとっては、千葉ガスにコンタクトすれば、すべて、このリビングを担当する指定会社が独占していて、他の選択肢がないと言うことである。

   私のように、ガス機器と工事を別に発注して組み合わせると言うことを行う為には、それなりに別な手続きを取るなり、多少の手間暇がかかり、厄介かも知れない。
   しかし、型番やモデルがはっきりしている工業製品の調達には、どこで買っても同じ商品であり、特別な場合を除いて、インターネット・ショッピングの方が、はるかに、安く調達できることは間違いなく、楽天やアマゾン、価格コムなどのシステムを通じて調達して、私自身、殆ど問題やトラブルを生じたことがない。
   カメラや電気製品、或いは、ワインなど、殆どの商品で、大型の量販店と比べても、寅さんが「カドは一流デパートの赤木屋、白木屋、黒木屋さんで紅白粉つけたお姉ちゃんにください、頂戴で頂きますと、・・・」と言っているのと違って、ネット・ショップは、販売店などの流通コストをカットして、倉庫なり、場合によっては、メーカーから商品を直送するので、安くなるのは当然である。
   ICT革命は、ユニクロデフレとは違った意味で、価格破壊の立役者であり、絶対に、顧客サービス等で差別化戦略を取らない限り、価格面では、リアル・ショップは太刀打ちできない筈で、ネットとリアルの主客逆転は、当然の趨勢であろう。
   まして、今回の千葉ガスのケースのように、機器とかの商品価格に、利益を上乗せして、顧客からコストを回収しようとしたり、それがダメなら工事代金をつりあげると言ったビジネスが、いつまでも続けられる筈がない。

   今回、福島の原発事故を機会に、東電のビジネスについて、色々な角度から問題視されているが、以前に、日当10万円の筈の作業が、途中に、東電の子会社や多くの地元業者が介在するために、実際に作業員が貰っているのは8千円だと言う現実をテレビで放映していたのだが、地域独占のガス水道電気、あるいは、通信等々公益事業の多くでは、既得利権を持った組織が絡むなど、旧態依然としたこのような常識では考えられないようなビジネス慣行が残っているのであろう。
   私の今回のガス工事などは、全く些細なことであろうが、手厚く保護された地域独占事業であればある程、顧客のために、良かれとサービスこれ努めるのが、公益事業ではないのかと言う思いで、多少苦言を呈することとした。
   
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

男はつらいよ・寅さん映画の思い出

2011年12月25日 | 生活随想・趣味
   WOWWOWで、年末年始にかけて、「男はつらいよ」全編の放映が始まった。
   以前に、NHKBSで放映されたことがあったので、あの時も見たのだが、実は、私には、寅さんの映画には、大切な思い出がある。
   「男はつらいよ」の第1作は1969年だが、私が初めて見たのは、JALの機内か、アムステルダムのホテル・オークラか忘れたが、マドンナが竹下景子で、三船敏郎と淡路恵子の大人の恋を描いた第38作の「知床旅情」であったから、もう、20年くらい経ってからである。
   それまで、映画館には殆ど行かなかったし、海外勤務や海外出張が多かったので、映画を見るのは機内でくらいだったし、それに、人気とは裏腹に、どうせ娯楽映画であろうと言うくらいの認識しかなかったので、チャンスがなかったと言うことである。

   アムステルダムに居た時、娘が友達から寅さん映画のビデオを3本借りて来たので、Hi8に録画して、家族で楽しんでいた。
   沢山の日本のビデオも持ち込んではいたが、寅さんを何度も繰り返して見ているので、その後、東京へ出張する度毎に、4本5本とビデオにダビングして持ち帰り、途中、ガードがかかって録画できなくなってからは、市販のビデオやレーザーディスクを買って帰るなどして、ビデオで出ているすべての寅さん映画を、最初はオランダ、その後はイギリスで鑑賞した。
   最後の2巻くらいは、帰国して日本で見たのだが、家族全員が寅さんファンになってしまっていて、特に、娘二人などは、日本を離れて久しく、寅さん映画で日本を感じ、日本の空気を吸って生活して来たみたいなものであるし、それに、数年間で、寅さん映画を殆ど凝縮して見たのであるから、懐かしさも一入であろうと思う。
   ヨーロッパでは、学生時代に歌っていた歌の文句ではないけれど、私自身、「フィラデルフィアの大学(院)を出て、ロンドン・パリを股にかけて」ヨーロッパを走り回っていて殆ど留守をしていたので、寂しさを慰めるためにも、家族にとっては、寅さん映画は恰好の娯楽であり、私にとっては、願ってもない助っ人であったのである。
   娘二人とも、アガサ・クリスティの大ファンでもあったので、ヨーロッパ文化と日本文化とが、上手くバランスが取れていたのであろうと、海外生活で苦労させた罪滅ぼしでもないが、自分を慰めている。

   ところで、私の方であるが、娘と同じように、寅さんを見ながら、日本を感じ続けていたのだろうと思う。
   日本に帰ってから、その後、仕事の関係で、北海道の稚内から沖縄まで、全国を回るようになって、仕事の合間に、所々、歩きながら、寅さんの舞台を反芻することになったのだが、実際に現場に立つのと、異国で望郷の思いで「男はつらいよ」を見るのとでは、大分、感慨が違っていて、逆に、日本のふるさとの風景の中にどっぷりとつかりながら、何故か、異国での懐かしい思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡り胸を締め付けられるような気持になって茫然とすることがあった。
   寅さんのテーマ音楽を聞いただけで、丁度、パブロフの犬のように、私の心にスイッチが入って、懐かしい映画の日本風景が走馬灯のように脳裏を駆け巡って来て、一気に色々な思いや感情が湧き上がって来る。
   そんな、貴重な映画であった。

   当時は、ベルリンの壁の崩壊前後の10年間くらいであったから、ヴォ―ゲル教授が、Japan as No.1と持ち上げ、日本経済が最盛期の頃であり、我々海外で仕事をしている日本人は、正に、良い意味でも悪い意味でも、1等国の誇りと意気込みで働いていた。
   しかし、私自身は、それまでに、アメリカやブラジルで勉強し仕事を経験していたし、ヨーロッパとの付き合いも長かったので、日本の本当の姿なり立ち位置については、かなり冷静に見ていたので、ヨーロッパの文化や文明の素晴らしさは承知で、それを学ぶためにあっちこっち動き回っていた。
   その代り、昔、京都や奈良を頻繁に歩いて、曲がりなりにも日本の誇るべき歴史や伝統についても多少の知識があるとうぬぼれていたので、イギリスやヨーロッパの友人・知人たちに、日本を語って聞かせ、日本について議論することが結構あったし、ジャパン人気で、良く聞いてくれた。
   そんな私の話を、豊かに増幅してくれたのは、正に、寅さん映画で私の血肉となっていた日本への思いと日本の姿であった。
   サザエさんと同じで、日本の実際の姿より、少し、庶民感覚で脚色しているところはあっても、カレント・トピックスを適度にアレンジして、日本人の生活と心を、あれほどビビッドに鮮やかに描いている映画はないであろうし、何よりも心にしみる日本人の心を叩き込んだ追経験なり代理経験を味わえるのが堪らなかった。
   長い海外との付き合いで、結構、苦しいことも楽しいこともいろいろ経験して来たけれど、この寅さん映画のお蔭もあるのだが、結局、益々日本の良さと言うか素晴らしさを実感することになって、私自身、日本人であると言う思いを痛い程身に沁みて感じながら誇りを持って、生きているような気がしている。

   渥美清が、希代の名優であることは、誰もが認めるところであり、語れば蛇足になるので、止めるが、私は、一度だけでも良いから、渥美清の演じるシェイクスピアの戯曲を聴きたかったと思っている。
   悲劇も喜劇も断トツに上手い両刀使いの渥美清の、滔々と聴く人の心の奥底に語りかけて感動を呼ぶ語り口の素晴らしさは抜群であり、想像もできない程の舞台を創り上げてくれたであろうと思っている。

   多くの日本の素晴らしい女優との恋物語にワクワク、時にはほろりとしながら見ていたのだが、笠智衆を筆頭に倍賞千恵子など脇を固める助演陣が、又、実に素晴らしい。
   それに、替わりばんこに登場する日本の誇る素晴らしい名優たちが、感動的な舞台を見せてくれるのも大変な楽しみであった。
   志村喬の今昔物語の話、森繁久弥の島の老人、田中絹代の農家のおかみさんの語る渡世人の死、画家の宇野重吉と岡田嘉子との恋、陶芸家の仁左衛門、マドロス姿の島田正吾、知床の獣医三船と淡路の恋、小林桂樹と樫山文枝との恋、それに、柳家小さん、小沢昭一、宮口精二、嵐寛寿郎、小暮実千代、ミヤコ蝶々、京マチ子、松村達雄。私より古い世代の名優たちだが、夫々、実に感動的な芸を見せていていぶし銀のように光っていた。

   昨日、テレビを見ていたら、第15作の「寅次郎の相合い傘」を放映していて、船越英二が、家出して旅に出た小樽で、初恋の人を人目見たいばっかりに、彼女の喫茶店へ客として訪れるシーンが出て来て、一言も発せずに店を出るのだが、鞄を忘れて出て来たので、彼女が持って出て来て、玄関口で名前を呼ばれる。
   彼女・岩崎加根子が、入ってきた時から分かっていたと言って、お入りになったらと誘うのだが、電車の時間がありますからとか言って、その場を去って行く。
   夕暮れの港で、あの人と結婚しておれば幸せになれたのにと涙ぐむ船越に、女一人幸せにできない情けない奴と言った寅に、リリーの浅丘ルリ子が反発して喧嘩別れ。
   そんな話だが、寅さんの恋も面白いが、このようなサブテーマの恋物語に、先の三船や宇野の恋物語もそうだが、しみじみとした味わいがあって、好きである。
   私など、気の弱い方だから、船越のだらしなさが痛い程良く分かる。

   ところで、私も仕事や個人的にも、随分、あっちこっちを旅して来たが、残念ながらと言うべきか、寅さんのように、語れるような恋物語はなかった。
   確かに、随分、海外も国内も、一時は旅に明け暮れたような生活をしていたので、多くの美しくて魅力的な女性にめぐり逢って、それなりの思いを感じては来たものの、それだけで、すべて忘却の彼方である。
   ただ、旅に出ると非常に人恋しくなったり、人の人情の機微や温かさが身に沁みて、心が何となくハイになることは事実で、やはり、旅は、寅さんでなくても、非日常の特別なシチュエーションを作り出してくれるようである。
   
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

趣味は読書ですと言えるのであろうか

2011年12月23日 | 生活随想・趣味
   昔、履歴書なんかに、趣味と言う項目があって、何を書けばよいのか、迷ったことがある。
   大辞泉によると、趣味とは、1 仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。「―は読書です」「―と実益を兼ねる」「多―」2 どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向。「―の悪 ...」と書いてある。
   昔から、私は、読書やレコード鑑賞と言ったものなら、すぐに書けるが、これなどは、好きでやっているような程度なら、趣味と言えるほど大げさなことでもないし、また、海外美術鑑賞旅やオペラやクラシック音楽鑑賞のための欧米旅行などということなどになると、1年に一回程度行くだけなら、本人にとっては大そうなことかも知れないが、趣味とは言えないような気がする。と言った感想を持っていた。
   欧米に暮らしていた時には、頻繁に、あっちこっちの美術館や博物館、劇場、コンサートなどを巡っていたので、これらの鑑賞も趣味と言えたが、帰国してからは、例えば、イギリスの頃とは違って、シェイクスピア劇鑑賞も、殆ど機会が少なくなってしまったので、シェイクスピア劇鑑賞と言っても、戯曲を読むだけになってしまった。ので、趣味とは言えなくなってしまったと思っていたのである。
   しかし、大辞泉の2の項目の「どんなものに美しさや面白さを感じるのかその人の感覚のあり方や好みの傾向」と言うことなら、頻度や関わりの深さを問題としている私の趣味感は、少し、ずれていると言うことになる。
   
   音楽鑑賞の場合にも、私は、実際に劇場やコンサート・ホールに出かけて、生演奏を聴いて楽しむのを鑑賞と考えていて、DVDやCDで楽しむのは、いうならば、今様レコード鑑賞であって、同じ音楽鑑賞であっても、全くジャンルが違って来ると思っている。
   この差は、実際に海外旅行をするのと、海外旅行の番組をテレビや映画やビデオで見たり、海外旅行記を本で読んだりするのと同じで、実体験と臨場感など経験的な観点から言っても全然別物だと思うのだが、それよりは、音源の違いによる差と言う要素もあって、旅程の違いはないのかも知れない。
   しかし、昔、日本の音楽評論家など、クナッパーツブッシュなどの実演を聴いたこともないのに、レコードだけ聞いただけで貶して、某日本人指揮者を褒め上げていたのを知っているが、これなどは、比較以前の良心の問題であろうと思う。

   音楽でも芝居でも、やはり、実演に接するのと、奏者なり役者が眼前で、生身の体で芸術を演じているので、機械的に反復される記録媒体とは、雲泥の差があるように思う。
   まずもって、コトが行われる場所へ出かけると言うことから始まって、劇場での臨場感や雰囲気そのものも一種の鑑賞のセレモニーの一瞬であるし、何よりも、鑑賞の対象である奏者なり役者が、眼前で演じており、同じ空間を共有して呼吸していると言う掛け替えのない経験が、音楽そのものを聴くと言うことと同時に、何よりも大切なのである。
   音楽や物語など、細かいディーテールなどは、劇場での鑑賞時よりも、テレビなどで見ている方がはるかに良く分かるのだが、感激なり喜びなりの感覚や感動は、劇場での方がはるかに強い。不思議だが、私の経験ではそうである。
   したがって、同じ音楽鑑賞や観劇鑑賞でも、趣味としての違いはかなり大きくて、芸術云々、芸云々と言うことになると、もっと、差が大きくなるのではないかと思っている。

   さて、趣味は読書です、と言う感覚だが、「どんなものに美しさや面白さを感じるのかその人の感覚のあり方や好みの傾向」と言うことになると、私の場合には、読書が趣味と言うことになる。
   面白さを感じると言うよりも、読者そのものが、私の生活の重要な部分を占めていて、食べ物を食べて生きているように、読書をしながら、仕事も楽しみも娯楽も、すべて、読書が中心で動いていると言うことであろうか。
   生き甲斐だと言うつもりはないが、生活時間の相当部分を読書が占めているのだから、本のない生活など考えられないと言うことである。

   東京に出れば、と言っても、片道1時間と少しだが、必ず、書店の2〜3軒ははしごして、時間があれば、神田神保町に出かけて行き、読めもしない筈なのだが、何冊かの本を求めて帰ってくる。
   速読術ではなく、じっくり味わいながら傍線を引いたり付箋を貼って読んでいるので、読むのはかなり遅いのだが、もう少し若くて元気な頃には、専門書的な本が主体で、年間、200冊は下らなかったのだから、これまでの人生でも、何千冊かを読んだと言うか、本を通り過ぎたことになる。
   今では、読書量も、随分少なくなってしまったが、それでも、本に囲まれた生活は変わっていない。
   e-Bookや電子書籍や、タブレットには全く興味がないので、分厚くて重い紙媒体の本であり、地震の度毎に書棚から転げ落ちる。

   しからば、「美しさや面白さを感じるのか」と言うことだが、確かにそう感じているから本を読んでいると思うのだが、もう少し言葉を変えると、知らなかったことを知る喜びと言うか、新鮮な知や美や善に触れる喜びと言うか、それを経験したくて、それを求めて本を読んでいると言う気がしている。
   幸せなことは、友人の多くは、歳の所為で目が悪くなって本を読むのが辛くなってきたと言うのだが、私の場合には、近視用メガネを掛けてはいるが、全く苦痛なく何時間も机に向かうことが出来ると言うことである。
   この幸せついでが、私の趣味読書を支えていると言うことのようである。
コメント (1) |  トラックバック (0) | 

スティーブ・ジョブズは「世界はひとつなんだ」と言う

2011年12月19日 | 生活随想・趣味
   スティーブ・ジョブズは、アップルを追われた直後のヨーロッパツアーが最高だと言う。
   メキシコや南太平洋、地中海などに家族旅行を楽しんだようだが、晩年、豪華なクルーザーの建造計画も進めていて設計に入れ込んでいたらしい。
   クルーズで、イタリアからアテネ、エフェソスを経て、イスタンブールに行った時、歴史学の教授の案内でトルコ風呂に行き、説明を聞いていた時に、若者のグローバリゼーションについて閃きを感じた言う。

   ジョブズは、本物の啓示だと言うけれど、何故、こんなことが閃きかと思うのだが、トルココーヒーを飲んでいる時に、教授は、トルココーヒーの淹れ方が他の地方と違うことをしきりに説明したのだけれど、トルコを含めて、どこの若者がコーヒーのうんちくを気にするのかと思ったと言う。
   イスタンブールを歩いて、沢山の若者を見たが、他の国の若い連中と同じ飲み物を飲み、同じような服を着て、携帯電話を持っており、しかし、トルコ電話なんてものもなければ、他の地域と違ったトルコの若者だけが欲しがる音楽プレイヤーなんてものもない。
   世界はひとつなんだ。と言うのである。

   世界はひとつだと言うニャンスと表現がよく似たのが、トーマス・フリードマンの「世界はフラットだ The World is Flat」と言う言葉だ。
   世界は本当にフラットかと散々非難を浴びたフリードマンは、「フラット化する世界」の改訂版を出して、
   「厳密にいえば世界はフラットではない。しかし、丸くもない。フラットと言う単純な概念を使ったのは、これまでになく平等な力を持った人々が、接続し、遊び、結びつき、協力し合うようになった、といいたかったからだ。」と書いている。
   昨日放映された「坂の上の雲」で、ロシアのバルチック艦隊が、対馬海峡か津軽海峡かどの方向からウラジオストックに入るのか分からず、日本海軍をどの位置で待機させるかが、まさに、戦略戦術の要諦であったと言うことだったが、ICT革命なった今日では、こんなことは、何の努力をしなくても先刻お見通しとなる。
   先の若者のグローバリゼーションも、フリードマンのフラット化も、まさに、デジタル革命によって引き起こされたICT技術とその影響による人類史上未曽有の大革命のなせる業なのである。

   この通信と情報の革命的な進歩によって、世界の片隅に起こったニュースが、一気に地球上、すなわち、グローブを駆け巡って地球の隅々にまで伝播して行く。
   20年以上前に起こったベルリンの壁の崩壊時は、無線やラジオ、或いは、TVで、鉄のカーテンに囲まれた地域の人々は、壁の向こうの西欧の民主主義と豊かな生活の情報を得て蜂起したのだが、今や、北アフリカや中東のアラブの春革命を見れば分かるように、ユーチューブ、ツイッター、フェイスブック等インターネットを通じて臨場感あふれる情報が世界を瞬時に駆け巡り、世界中が現実を等しく共有できる。

   昔は、先端を行く芸術やファッションや科学・技術など舶来情報は、殆ど、海外の書籍や雑誌、映画などから伝わり、その後、テレビに移ったのだが、今のICT革命による情報の瞬時の爆発的な氾濫は桁外れで、それ故に、仮想の世界ではあるが、世界はフラットになり、ひとつになる。
   フランスの少女たちが、「かわいい」と言って日本の少女の真似をし、アメリカの若者たちが、日本のアニメに殺到するなどジャパン・クールが世界中の若者たちの心を捉えているのも、やはり、ICT革命故である。

   さて、世界はフラット化して、若者たちはグローバル化したと言うのだが、日本の若者たちは、グローバリゼーションから取り残されて、殆ど成長が止まってしまって政治経済社会を変革できなくなってしまった日本の現状によって、閉じ込められてしまったのではないかと言う気がしている。
   今秋、幸いにも、二つの大学で、学生たちに講義をする機会を得て、主にブラジルなどBRIC'sの現状や新興国でのビジネス戦略などについて語ったのだが、私自身は、マイケル・サンデルが脚光を浴びていたので、アメリカのビジネス・スクール時代を思い出して、対話形式で講義を進めようと試みたのだが、学生たちは非常におとなしくて、殆ど反応がなくて出来なかった。
   学生たちは熱心に聞いていてくれたし、非常によく勉強して頑張っていると言うことだったが、やはり、知識を吸収して良い成績を取って良い会社に入ろうとしていた我々が学生であった頃の傾向がそのまま残っているのか、もう、40年以上も経っているのに、不思議な気がした。
   私の講義などは、実務者の話なので、成績云々には関係ないと思うのだが、徹頭徹尾、日本の若者たちは、おとなしくなって社会の激動にも反応しなくなってしまったのか。
   私などは、穏健な方だったと思うのだが、それでも、安保反対などと叫んで京都の河原町に繰り出していたし、いまだに、激しくデモを続けているフランスやアメリカの学生を見ていると、日本が成長したのかそうでないのか、良くなっているのかそうではないのか、分からなくなってしまう。

   私は、元々、いまだに権力を握って既得利権の維持に汲々としている老年のエスタブリッシュメントは、出来るだけ早く退場して、若者たちに道を譲って、日本の舵取りを任せるべきだと思っているので、いくら大人しくなっても日本の若者を信じている。
   知恵と経験に裏打ちされた発想やものの考え方には、老人に一日の長はあるだろうが、それは、あくまで参考にすれば良いだけで、権力は完全に若い世代に譲渡さなければ、明日の日本はないと思っている。
   それが、スティーブ・ジョブズが閃いた若者のグローバリゼーションであり、フリードマンの感じたフラット化した世界の本当の意味ではないかとと言うことである。
   
コメント (0) |  トラックバック (0) |