熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

NHK:ザルツブルク音楽祭2023 歌劇「マクベス」

2023年12月28日 | クラシック音楽・オペラ
   ザルツブルク音楽祭2023▽歌劇「マクベス」(ヴェルディ)鬼気迫る歌唱と演技は必見! 出演:ウラジスラフ・スリムスキー(マクベス)、アスミク・グリゴリアン(マクベス夫人)他 演出:クシシュトフ・ヴァルリコフスキ と言う番組を、NHK BSで鑑賞した。

   舞台は中世スコットランド 勇敢な武将とその妻は 魔女の予言に翻弄され 国と己を破滅させて行く 物語である。

   さて、冒頭に語るべきは クシシュトフ・ヴァルリコフスキの演出、
   映画をはじめとする 文化的象徴を大胆に取り入れ 作品解釈の更新を迫るポーランドの鬼才 と言うのだが、
   解説では、彼は、
   マクベス夫妻に子供が育たなかったと言う原作を設定を元に「医師に赴任を知らされた夫妻の絶望」をすべての発端とした
   また、パゾニーニ監督の映画や のちに恐怖政治をもたらした フランス革命の母体 ”球戯場の誓い”の室内テニスコートを導入し 政治システムと独裁者との関係を問い直す と言うことで、冒頭の舞台セットは、室内テニスコートで 普段は陰鬱で暗い魔女の登場も、舞台下手から賑やかな魔女集団が移動舞台で接近すると言う状態。

   ヴェルディの台本は、1865年のパリ版をベースにしているのでオリジナル通りに上演されているのであろうが、これまで見てきたオペラの舞台やシェイクスピア戯曲の舞台とは殆どかけ離れた公演で、時代考証などあったのかどうか、とにかく、意表を突いた舞台で、「マクベス」を観た聴いたと言った感じがしない不思議な感覚である。
   舞台セットがシンプルで、衣装が現代風であり、舞台展開が殆どないので、シーン展開のメリハリがなく、戯曲をよく知らない観客には、ストーリーを追い難いであろう。
   本来、シェイクスピアは観るではなく、聴くと言うパーフォーマンス・アーツなので、原点に戻ったと思えば何でもないのであろうが、通常、タップリとストーリー展開豊かな舞台に慣れた観客には、フォローに苦労しよう。

   さて、マクベスが、宴会途中で、殺害した盟友バンクォーの亡霊の幻影を観て狂乱するシーンだが、この演出では、マクベスがなぐり書きした風船がそれに見えて怯えると言う演出になっているのだが、ヴェルディは、本番前の演出指導で、亡霊は地下から現われるべきで、それは、バンクォーを演じた同じ人物でなくてはならず、人形ではなくて、生身の人間でなければならないと釘を刺している。
   ヴェルディは、オペラを総合芸術と考えて、音楽だけではなく、音楽と視覚の両方から総合的に表現される効果を追求していたというのである。

   もう一つ、強気一点張りの妻もダンカン王暗殺の罪に苛まれて狂い死にするのだが、この舞台では、何故か生き返って死ぬはずのマクベスににじり寄って行き二人一緒に電源コードでぐるぐる巻きに縛られて幕となる。
   確か、蜷川幸雄の舞台で、栗原小巻の鬼気迫る感動的な狂乱の場を観た記憶があるのだが、今回は、すっぽ抜けの演出であった。

   舞台の背後にモノクロの映像スクリーンがあって、隠れた舞台の情景などが映されていて面白い。例えば、ダンカン王暗殺のシーンでは、舞台ではカーテンで仕切られた内部で行われていて客席からは見えないが、カーテンの中のカメラがそのシーンをスクリーンに映し出す。

   ところで、マクベス夫妻が不妊だったという件に付いては、これまで、シェイクスピア関係の本を結構読み、舞台も結構観てきたが、聴いたことも見た記憶もない。舞台にバンクォーに似た子供が随所に、そして、最後の舞台にも現われたが、この舞台で、どう描かれたのか良く分からなかった。

   ヴェルディの歌劇でありながら、ベルカント、美しいアリアもなければ感動的な愛の二重唱もない、重厚な悲劇的な心理劇に徹したオペラであるが、流石にウィーン・フィルの演奏で、指揮者フィリップ・ジョルダンの冴えたバトン捌きが、感動的なシェイクスピアの物語を紡ぎだす。
   何故か、イングリッシュ・ナショナル・オペラの舞台だけ、微かに印象に残っている。

   余談ながら、ザルツブルグには、二回訪れており、最初に訪れた1973年の年末に、このザルツブルグ祝祭劇場で、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」を鑑賞した。

   それはそれとして、マクベスとマクベス夫人を演じた、ウラジスラフ・スリムスキー(マクベス)、アスミク・グリゴリアン(マクベス夫人)は、実に素晴しい歌手で感激した。
   ウラジスラフ・スリムスキーは、ベラルーシのバリトンで、ザルツブルグでは、2018年に、Tomsky (Pique Dame)でデビュー、
   アスミク・グリゴリアンは、リトアニア出身のドラマティック・ソプラノ、2022年ザルツブルク音楽祭の目玉プッチーニ「三部作」3役を歌い上げてニューヒロインとして話題になったという。

   二人の玉座を得た驚喜するシーンを転写しておきたい。ラストは、正気に戻った第2幕への転換のファースト・ショット。
   
   
   
   
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年末の庭の手入れ:剪定、寒肥、鉢増し

2023年12月26日 | わが庭の歳時記
   陽が照って風がないと、少々寒くても、鎌倉では、庭に出ると気持ちが良い。
   コーヒーを煎れて庭に出て、シェイクスピアでも読みたい気分だが、何となく気になって、庭仕事を始めた。
   先月末に、3人の庭師が入って、綺麗に剪定してくれたので、別にこれと言った仕事はないのだが、それでも、雑草の処理や植木鉢の花木の世話など結構やることがある。
   
   今回は、完全に庭師に任せて何の注文も付けなかったのだが、そのためもあって、庭師の独断で、か細く弱っていた牡丹の木が2本根元から切り取られていたり、虎の子の椿の至宝の枝がバサバサ切り取られていたり、不満もあったが、庭の植木や花木のためには、これで良いのであろうと諦めた。
   とにかく、自分で剪定するとなると、どうしても思い切って枝にハサミが入れづらくなって、だんだんジャングルのようになってしまうのである。
   千葉に居た時には、殆ど自分の独断と偏見で、選定を含めて庭仕事の大半は、自分でやっていたのだが、若かったから出来たようなもので、もう、ずっと前から無理になっている。

   鉢植えのばらの冬剪定を行って、寒肥として乾燥牛糞を施した。
   20鉢以上もあって庭一杯に咲き乱れていたばらも、手入れが悪くて、随分少なくなったのだが、もう、あたらしく新苗を買って植える元気がないので、このままで行こうと思っている。
   少し暖かくなり始める頃に、ばらの肥料を施して、液肥でつなげばよいであろう。

   次に行ったのは、椿の鉢増し。一回り大きな鉢への植え替えである。
   本来は、春か秋にやるべきなのであろうが、休眠中だし、去年冬に庭植えした椿も上手く活着したので、問題なかろうと思う。
   椿の場合は、比較的簡単で、鉢から木を取りだして、一回り大きな鉢に、根鉢を崩さずに、そのまま、植え替えれば良いのである。
   施肥は行わずに、春先にしようと思っている。

   ところで、まだ、鉢植えのままの椿苗が、結構あるのだが、沢山あると目が届かず、枯れさせてしまうことが多い。
   椿は、水切れして枯れ始めると、もう救いようがなく枯れてしまう。
   挿し木して育った親木より元気な苗木を、何本も枯らしてしまっているので、余計に身に染みている。
   最も良い方法は、庭植えすることだが、もう、20本以上も新しく小苗を植え付けたので、大きくなるであろうし、場所がなく、先に植えたのを廃却して植え替える意外に方法がない。
   花芽の付いていない実生苗を千葉から持ち込んで植えた木の中で、同じ種類であったり、期待外れの椿もあるので、これを入れ替えれば良いのだが、かなり、大きくなっているので、植え替えが難しい。

   結局、鉢植えを残すことになろうが、鉢増しを続けても、場所を取るので、株数を整理して楽しむことになろう。

   庭木に、寒肥を施さなければならないのだが、急ぐこともないので、年明けの来月中旬くらいにしようと思っている。
   
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海外の友にクリスマスカードを?

2023年12月24日 | 生活随想・趣味
   ブラジルやヨーロッパに赴任していたときには、確か、会社関係や取引関係などに、12月には、クリスマスカードを送っていたと思うが、秘書任せであったので良く覚えていない。
   しかし、帰国してからは、親しいイギリスやオランダの知人友人たちに、クリスマスカードを送るのに、一寸戸惑った。と言うのは、必ずしもキリスト教徒でもないかも知れない、例えば、ユダヤ人だったら、クリスマスカードを送って良いのかと言うことである。

   宗教は、誰にとっても微妙な問題なので、長く親しく付き合っていても、聞けないのでよく知らない。
   結局、外国の友には、クリスマスカードではなくて、シーズンズ・グリーティング・カードを送っている。
   Season's greetings and best wishes for the New Year. と言った調子である。

   ところが、日本では、何処へでもクリスマスカードを出せば良いと思っているのか、気の利いたカードなどの販売店でも、殆どクリスマスカードばかりで、グリーティングカードを探すのが大変で、結局、選択肢の多いAmazonから選んだ。
   これまでは、歌舞伎座や能楽堂などで、白紙のみのグリーティングカードを買って、挨拶文を書き込んで送っていたのだが、マンネリ気味になったので、毎年新しいものを探している。

   今年変ったのは、コロナ騒ぎで何年間も郵便を送れなかったブラジルが、やっと、普通便を解禁したので、友人に年賀状を送った。
   今年も、無事に年賀状を投函したので、ホッとしている。

   ロンドンの事務所では、秘書が、事務所に紐を張って、送られてきたクリスマスカードを旗竿のように掛けて飾っていたが、友人の家でも、リビングに同じように旗竿を作っていたので、これが習慣なのであろう。
   日本では、虚礼廃止だとか電子メールで転換だとかと言って年賀状が、どんどん、減っているのだが、イギリスでは、このクリスマスカードの旗竿がクリスマスの良き風習ならば、廃れることはないであろう。

   昨日、千玄室さんの日本の伝統の大切さの講演に触れたが、私のような古い人間にとっては、この年賀状は、長く育んできた知人友人とのほのぼのとした温かみのある触れ合いであって、大変貴重なものなのである。
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NHK ACADEMIA  千玄室(裏千家前家元)を聴く

2023年12月23日 | 学問・文化・芸術
   大宗匠・千玄室の素晴しいNHKの講演を聴いた。観たと言うべきかも知れないが、私には聴いたと言うべき感激であった。
   60歳代の大学教授だと言ってもおかしくない、100歳とは信じられないような矍鑠とした頭脳明晰かつ理路整然とした語り口は驚異とも言うべきで、母親の胎内から濃茶を飲み続けていて、体内には緑色の血が流れているのだと言って、一腕の楽茶碗を握りしめながら、茶道の奥深い哲学思想から、世界平和への希いをネツっぽく1時間半にわたって語り続けた。

  千利休の四規 [和敬清寂]の掛軸をバックにして、茶道の精神や心得を語っていたが、まず、裏千家のHPによると、この「和敬清寂」とは、
 この4つの文字の中には、すべてのお茶の心がこめられているといわれています。
 「和」とは、お互いに心を開いて仲良くするということです。
 「敬」とは、尊敬の敬で、お互いに敬まいあうという意味です。
 「清」とは、清らかという意味ですが、目に見えるだけの清らかさではなく、心の中も清らかであるということです。
 「寂」とは、どんなときにも動じない心です。
 お茶を飲むとき、お点前をするとき、また、お客様になったとき、お招きしたときなどに、この「和敬清寂」ということばを思い出し、おけいこに励みましょう。

   冒頭、イグサの畳表の清潔さを語り、日本の伝統文化の貴重さから説き起こして、家族交流の場であった茶の間が消えた家を語り、情の国である筈の日本人が、分をわきまえずに忍耐や寛容を忘れ、頂きます、ごちそうさまと言う精神が薄れてしまって、口先だけのおもてなしになってしまったと、決して難しいことでも何でもないと、茶道の作法が、如何に日本文化に根ざした公序良俗、日本人の精神を教えているかを語った。

   地球温暖化で食べ物がなくなる心配がある。
   ウクライナやパレスチナなど悲惨な戦争が起こっているが、第二次世界大戦の悲惨さ凄惨さはこれらの比ではなく、特攻隊員として実際に経験した人間でないと分からない。平和が如何に大切か、
   茶道とは、あらゆる宗教をも超越した総合的な文化であると、一腕の茶碗に託して、世界平和と人類の安寧を願い続けて世界を行脚してきた熱烈な思いを語り続けた。

   メモを取れずにこのブログを書いたので、大宗匠の思いを伝え得たかは心許ないが、100年の貴重な茶道への限りない情熱と激しい平和への希いを肝に銘じたNHK ACADEMIA の講演であった。

   ところで、これは、私自身の悲しい反省だが、日本の歴史や文化などの頭でっかちの勉強はしてきてそれなりの知識はあるが、実際に、茶道や華道、謡曲や音曲などと言った日本文化の実際に全く触れず、習いもせずに過ごしてきてしまったことである。
   千利休がどうだとか、茶道の歴史的位置づけは、等といった歴史や文化的知識はあっても、悲しいかな、茶道を習ったこともなければお茶碗に触れたこともなかったので、
   友人の英国人夫妻を京都に招待したときに、参考になろうと思って軽い気持ちでお茶席のある場所に案内して、お茶が出された時に、どのように茶碗を受け渡しするのか、その作法が分からなくて、普通に恭しく頂いたものの、相客の手本にもならなくて、恥をかいてしまった。

   とにかく、コーヒー、コーヒーの毎日、
   一寸、昔、椿の絵柄が気に入って買った茶碗を引き出して、濃茶を飲んでみようと思っている。
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大阪万博2025の成功を祈る

2023年12月21日 | 政治・経済・社会
   万博と言えば、私には、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会。
   今でも跡地に岡本太郎のシンボルタワーが建っているが、77カ国の参加のもと6400万人を超える入場者によって好評のうちにその幕を閉じた。

    ところが、今、喫緊に迫ってきた大阪万博2025について、コストが異常に高騰したとか、外国の意欲後退で準備が遅れているとか、批判が噴出して、逆風が吹き荒れている。
   しかし、ここに至っては、万難を排して、絶対に前向きに対処して成功させるべきだと言いたい。
   本来、文化文明の発露、お祭り騒ぎのイヴェントなどと言うものは、金に糸目をつけない贅沢の象徴のようなものであって、セコイ商業主義が跋扈する事業なら、最初から手を上げるべきではなかったのである。
   ルネサンス時代のフィレンツェでの、ダ・ヴィンチの壮大な遊び心の開花やその後の文化文明の礎となったメディチ・エフェクトの爆発を見れば、このことが良く分かる。
   税金の無駄遣いだとオウム返しに唱える分かったような物言いをする賢しい人が多いが、もう、ここまで来たら、愚痴をこぼさずに、当初の目的通りに完遂して、国際的信義を果たすべきである。

   さて、私自身の万博の思い出だが、
   丁度、1970年の大阪万博の頃、会場直近の高槻に住んでいたので、何回も出かけ行ったので、かなり記憶に残っている。後半の何度かは、割安だったし人ごみを避けられたので夜間入場で通った。 
   バスだと、会場から高槻駅、高槻駅から最寄りの団地駅、これを乗り継げば会場通いができたのだが、万博客に加えて通勤通学の路線バスなので始終混んでいて、1歳の娘を抱えての往復は大変であったのを覚えている。
   月の石を見るために、何時間も並んだりして結構苦労したが、異国情緒や外国の文化文明に直接触れる魅力には抗しがたく、楽しかった。
   私は、特に高校時代に、ギリシャやローマ文化などに惹きつけられて、世界史や世界地理を意識して勉強していたので、まさに、願ったり叶ったりの格好のチャンスであった。

   ところが、そのすぐ後に、期せずして、会社から留学命令が出て、アメリカのフィラデルフィアのペン大のビジネス・スクールで勉強して、そのクリスマス休暇に、パリ経由でヨーロッパ各地を訪れており、夢が実現して海外行脚がスタートした。
   しかし、最初に万博を見て、前哨戦と言うべきか、万博会場で受けたカルチャーショックと新鮮な感動には、比べようがなかった。

   帰国するととんぼ返りのように、すぐにブラジルへ赴任、
   弾みがついたように、東京勤務になってからも、海外業務を担当して世界中を走り回ってきており、その後、ヨーロッパに赴任して、アムステルダムとロンドンで過ごし、
   都合、14年間の海外生活を含めてほぼ20年以上も海外を行き来して、その後も、かなり頻繁に海外旅行に出ているので、ずいぶん昔の話にはなるのだが、私にとっては、外国はそれほど遠い世界ではない。   

   日本でも、筑波や名古屋などで、万博が開かれたようだが、興味が薄れたのか日本に居なかったのか、行っていない。
   その後、一回だけ、ロンドンから、スペインのセビリャ万博に出かけて、かなり、エキゾチックなイベントを楽しんだ記憶がある。
   いずれにしろ、私に取っては、大阪万博1970は、世界へ飛躍への原点であった。

   今、日経小説で、辻原昇の「陥穽」が掲載されている。幕末から明治維新にかけての日本の文化文明の躍動、文明国への台頭が、非常に鮮やかに活写されているが、当時の日本のリーダーや為政者たちが、如何に多くを、欧米との接触で啓発されて指針としてきたか、如実に語っていて、欧米化・近代化がなければ文明開化も富国強兵もなかったであろうことが良く分かる。
   最近では、若者の海外留学が激減して、海外雄飛を忌避傾向だという。日本人ノーベル賞学者の殆どが米国経由である。
   しかし、グローバル時代でありながら、世界から距離を置く日本人の現実を思えば、日本が、世界での政治経済社会的地位を落として、先進国の下位集団に落ちぶれてしまって、G7の位置確保も怪しくなってきたという憶測も、よく理解できる。
   文化文明の十字路に位置し、異文化異文明の触発を受けて新陳代謝を遂げない限り、世界の潮流から取り残されて、歴史の発展、国家の成長は、間違いなしに止まってしまう。

   Japan as No.1の時代、日本が破竹の勢いで驀進して、日本人が地球狭しと世界中に雄飛し、欧米人と対等以上にわたり合って切った張ったの激戦に明け暮れていた若かりし頃の猛烈ビジネスマン時代が懐かしい。
   死ぬまで、そんな凋落した日本を観たくないと言っていた日銀の友人がいたが、現に「茹でガエル」状態の日本を観ている。

   「大阪万博2025」が、少しでも、日本再生の起爆剤となることを祈っている。
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PS:ナンシー・チェン「中国の若者の失業は見た目ほど悪いのか?Is Chinese Youth Unemployment as Bad as It Looks?」

2023年12月20日 | 政治・経済・社会時事評論
   最近、経済の悪化とビッグテックや教育軽視などの政策が相まって、中国の若者の失業率は、20%を超えて、将来を約束されていた超一流大学を出ても就職できずに、パラサイトシングル紛いの世捨て人生活に甘んじる若者が多いという。何故そうなのか、トップビジネススクール・ケロッグ校のナンシー・チェン教授のPSの論文「Is Chinese Youth Unemployment as Bad as It Looks?」が面白い。

   ここ数十年の中国の並外れた成長は、若者とその家族の教育とキャリアの選択に影響を与えて来た。 しかし現在、高度な技術を必要とする仕事が枯渇し、新卒者が仕事を見つけるのに苦労しているため、期待と新たな現実の間のミスマッチが増大している。
   中国の若者の失業率は今年毎月上昇した後、6月には過去最高の21.3%に達した。 過当競争の労働環境と厳しい雇用見通しに直面して、この国の若い労働者や中流階級の専門家の多くは、過重労働と消費主義の文化から脱却することを意味する“lying flat” movement(過重労働や過剰な達成を求める社会的圧力に対する個人的な拒否運動)を受け入れている一方で、「“full-time children.”(両親と同居し、料理、掃除、買い物などの家事をして給料をもらっている若者)」ために仕事を辞めている労働者もいる。 こうした驚くべき傾向を受けて、中国政府は毎月の若者の失業率データの公表を停止し、中国経済の「崩壊」に関する否定的な見出しが次々と流れるきっかけとなった。と言う。

   だが、中国経済は本当に悲惨な状況にあるのだろうか?と言えば「ノー」で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によるロックダウンから回復して以来、この国の経済回復は比較的力強かった。 中国経済は2023年第2四半期に前年同期比6.3%成長し、OECD諸国の平均年間成長率を上回った。国際通貨基金は、中国のGDPが今年5.2%、来年4.5%拡大すると予想しているが、これは米国(それぞれ1.6%、1.1%)、英国(0.3%減、1%)の予想をはるかに上回っている。
   しかし、このような奇跡は永遠に続くわけはなく、中国の政策立案者らは10年以上前から景気減速は避けられないと予想してきた。 2013年、中国と世界中の経済学者は、成長率は2030年までに3~5%まで徐々に低下するものの、テクノロジーなど高度な技術を必要とするセクターは引き続き拡大すると予測した。 しかし、政策決定、米国との貿易戦争、中国でより深刻かつ長期にわたる経済混乱を引き起こした新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、他の経済大国よりも、GDP成長率の低下は予想よりもはるかに早く、そして大幅に鈍化した。

   経済学者や政策立案者は、中国の成長鈍化の時期と規模を予測できなかったことに加え、誰が最も苦しむことになるのかを見誤った。 高度なスキルを要する仕事、特にテクノロジー分野は減少から守られるだろうと広く考えられていた。 結局何千万ものブルーカラー労働者が、1990年代後半から2000年代初頭にかけて、中国が低生産性の指令経済から高生産性の市場主導型経済に移行する過程で、不採算工場から解雇された。
   ブルーカラーの仕事の不安定さは、中国人の親が子供たちに学業の成功と選抜された大学への入学を促す理由の1つである。 中国の一流大学の合格率は、一部の省の学生では0.01%未満、北京や上海などの主要自治体の学生では約0.5%と推定されている。 ちなみに、ハーバード大学の今年の合格率は3.41%だった。

   伝統的に、報酬は犠牲を払う価値があった。 低ランクの学校とは対照的に、一流大学の学位は優良企業への扉を開き、雇用の安定がほぼ保証されていた。 失業率が着実に増加しているにも拘わらず、エリート教育機関の卒業生は、中国の成長を促進すると思われていたテクノロジーや金融分野でのチャンスを期待できた。 しかし現在、この層も厳しい雇用市場に直面している。
   最近の経済政策決定は、役に立たずに事態を悪化させた。 資金豊富な教育技術産業に対する取り締まりを含め、ビッグテックを抑制するための長年にわたる規制措置は、潜在的な成長産業に萎縮効果をもたらした。 グローバリゼーションに対する政府のアプローチの進化と市場経済に対する態度の変化が投資家を驚かせている。 そして進行中の不動産危機が投資を抑制している。 銀行やテクノロジー企業は急速にコスト削減を進めており、これらの業界では、新卒者にとって高賃金で高度なスキルを必要とする仕事が減少し不足してきた。

   中国の大規模民営化プロセス中、高齢労働者は急速に変化する経済の中で新たな雇用を見つけるのに苦労した。 しかし、高齢労働者には貴重な経験があり、労働法で保護されているので、現在、雇用主は高齢労働者を解雇することに消極的である。 その結果、雇用の縮小は若者の間で最も深刻に感じられるようになり、 最近の新卒者は、以前よりも給料が下がることが多いポジションをめぐってさえも激しい競争に直面している。
   これは飲み込み難しい錠剤である。 何故なら、これらの仕事に応募している卒業生の多くは、幼い頃から集中的に勉強し、毎日何時間もの宿題をこなしてきた。 彼らの両親、そして時には祖父母も、幼稚園の頃から家庭教師にお金を投資し、もっと勉強するようにと数え切れないほどの時間を費やして子供たちを説いてきた。 しかし、彼らが目指していた仕事がもう存在しないとしたら、この努力は一体何の意味があったのであろうか?

   とはいえ、若者の失業率の急増が中国に経済的終末をもたらすわけではない。 数十年にわたる高度経済成長を経て、たとえ働く人が減ったとしても、今日の若者は中国史上のどの世代よりも裕福になるだろう。 若者の失業が中国にもたらす問題は、結局のところ、期待と現実の不一致がどのように現れるのかという1つの疑問に帰着する。
   若者とその家族は、自分たちが努力してきた目標は、少なくとも現時点では達成できないことを受け入れ、別のところで満足感を見出すようになるかもしれない。 もし彼らがそのような満足感を得られなければ、アラブ世界やアフリカで起きたように、若者の失業が不安を煽り、政治的不安定を引き起こす可能性がある。 中国の経済政策立案者は慎重に行動する必要があるだろう。

   以上が、チェン教授の論文の要旨だが、心配はしていないが、中途半端な叙述が興味深い。
   中国の受験戦争の激しさは、韓国に匹敵するほど凄いというのだが、欧米のように比較的親の履歴や経歴に引っ張られて、そして、親に援助されなくて自分でキャリアを引き上げなければならない世界と違って、日本も含めて、極東の国の子供の教育は、親の方が必死で取り組んでいる。
   しかし、忘れられないのは、日本の前世紀末のバブル崩壊後の経済不況で、新卒者の若者を雇用できずに人生を棒に振らせた就職氷河期の悲劇で、絶対に繰り返してはならない教訓である。
   ところが、今、この轍を、日本の教訓を無視して、中国は踏もうとしている。
   私は、失われた10年が20年になり30年になって、日本が、経済的に、G7の下位に落ちぶれて、先進国の地位から凋落しようとしている信じられないような悲劇に遭遇しつつあるのは、あの就職氷河期で、あたら虎の子の有為の人材の活躍の芽を摘んでしまったことによると思っている。
   GAFAなどビッグテックを生みだした世代であったし、イノベーションのドライバーの時代であったのである。
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歳には勝てない:駐車場から車が消えてゆく

2023年12月18日 | 生活随想・趣味
   住宅街の一番奥に自宅があるので、散歩や用事で出かけるときには、住宅街を通る。
   最近気になったのは、知人宅の駐車場から、1軒2軒と、車が消えてなくなっていることである。
   私のように、傘寿を超えた老年層の自宅で、聞いてはいないが、歳のために車の運転を諦めて、車を処分した所為であることは間違いない。
   危なっかしい運転をしていたので、気にはなっていたのだが、ようやく止めたのかと思うとホッとする反面、歳を感じて一寸寂しくなる。

   この住宅地が開発されたのは、もう何十年も前のことなので、住人が老成化していて、住み続けている人は、どんどん、亡くなったり引っ越ししたりして空き家になっているのだが、地所がかなりの広さなので、空地になると、すぐに、そこに小ぶりの2軒の家が建って、流石に鎌倉なので、すぐに売れて若い住人が入居する。
   住宅街の新陳代謝なので、これまで、隣接した小学校に、何年も入学生徒を出せなかったのが、出始めて、少し賑やかになって来た感じである。

   別な地区では、住宅街の環境や質を維持するために、地所を分割して小分けした住宅建設を禁止しているのだが、鎌倉では、地代が高い所為もあってか、狭い地所に、3階建ての極細住宅を建てたり、このように分割して小ぶりの住宅建設が多くなっている感じである。
   最近は、駐車場が2台分と言う住宅が多くなったので、一戸建てながら殆ど庭や緑地がないのだが、近辺の新築マンションよりも、場合によっては安いので、格好の物件なのであろう。

   もう40年以上も前になるが、私が千葉の田舎に家を建てた時には、家も地所も広いが、これらと同じくらいの金額を要して、それも、厚生年金のローンでも6.5%の金利を払い続けてきたので、今昔の感である。
   その家を、鎌倉に移ってからは、維持管理が大変なので、二束三文ではなかったが、不本意な価格ながら、涙を呑んで売った。思い出だけが残っている。

   尤も、住宅購入で辛酸を舐めたのは、バブル崩壊で住宅価格が下落し始めたので、これが潮時と高いローンを組んで家やマンションを買った人たちで、その後、さらに不動産価格が暴落して暗黒時代が続いた。日銀の友人が、自分の買い物を慨嘆していたのであるから、誰も先など見通せなかったのである。
   アメリカの不動産バブルが発端であった2008年の世界金融危機時代のアメリカ人の悲劇とは、趣を異にするが、土地や住宅は、値上がりし続けると言った幻想の脆さは、日本でもアメリカでも、無残にも崩壊したのである。

   歳には勝てないという話が、住宅談議になってしまった。
   ころころ、関心が移ってしまうのも、歳の所為であろうか。

   
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米国の政治:少数派が多数派を支配

2023年12月17日 | 政治・経済・社会
   スティグリッツ教授の「プログレッシブ キャピタリズム」を読んでいて、気になったのは、米国は、多数派が少数派に支配されている政治経済社会であると言う記述である。常識的には、多数派の横暴を阻止し、数的弱者の少数派の権利や生存を無視することなく大切にするのが民主主義の建前だと思っていたので意外だったのである。
   しかし、よく考えてみれば、米国のみならず世界全体が、少数者に支配されていると言うことが歴然としているのに気付いた。
   例えば、国連の常任理事国の拒否権、欧州議会の全会一致によるハンガリーの反逆、そして、プーチンなどの専制主義的為政者等々枚挙にいとまがない。

   この本は、トランプ政権時代に著されたので、徹頭徹尾トラン糾弾、トランプ批判に徹していて凄まじいのだが、経済学の専門書なので、表立って、トランプがクレームしたり反論していないようなのが面白い。

   アメリカの政治が時代に追い付けず、行き詰ってしまっているのみならず、少数派から多数派を守るために設計された制度が機能しなくなった。いまや少数派が権力を手に入れ、それを使って支配を続けようとしている。問題は、この少数派ばかりがルールを作成している点にあり、その少数派とは、超富裕層、宗教的保守派、不満を抱く労働者階級の寄せ合集めでありながら、経済的政策は主に超富裕層が決めており、必ずしも3者の利害が一致しないのだが、超富裕層は、集団の利益を図るために、危険な保護主義を主張したり、貧困者の妊娠中絶を妨害したりする。
   これらの酷さに加えて、もっと深刻なのは、意識の問題で、彼らの運動によって惹起した、例えば、公的機関に対する攻撃、良い社会を実現してゆくために必要な考え方の変化、所得や資産の格差の拡大に伴う価値観や信念の違いの拡大、多様な社会を機能させるために必要な信頼の喪失などの問題である。と言う。

   スティグリッツは、崩壊しつつある市民社会を再生するために、これらの問題を詳細に論じているが、特に、ゆがんだ価値観が、ゆがんだ経済やゆがんだ政治を生み出し、ますます悪化中で、金融産業に蔓延していたモラル崩壊が、ほかの産業にも広がり、もはや、反倫理の手本とも言うべき人間を大統領に選ぶほどモラルを失ってしまった。とまで言う。
   より高い価値観とは、知識や真実、民主主義や法の支配、自由で民主的な制度や知識機関を尊重する価値観であり、それらがなければ、過去250年にわたる進歩をこれからも維持してゆくことはできない。と説く。
   利己主義で行き当たりばったりで、哲学も思想もなければ高邁な理想もない、嘘八百の指導者には、この高い価値観の片鱗も見いだせなかった。
   この怪物が、次期大統領の呼び声が高いという。アメリカは何処へ行くのであろうか。

   トランプやプーチンのように、根っからのトラブルメーカーが居る。善と悪の闘いの中で、残念ながら一時的に悪辣な指導者によって社会が多大の損害を被ることがある。だが、少なくともこれまでは、大多数の良識が最終的に勝利を収めてきた。と言う。
   一抹の救いである。

   さて、ウクライナ戦争はプーチンの戦争であり、イスラエル・ハマス戦争はネタニヤフの戦争である。
   まさに、一握りの権力者が、戦場をハイジャックして、世界中を恐怖に陥れている。
   それを制止しえず囃しさえしている国民の不甲斐なさ、毎日、断末魔のような地獄絵を見ていて、80億の人類が何の手の施しようがないのが悲しい。
   アメリカの民主主義は、国内のみならず、国際舞台においても、地に落ちてしまった。
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令和6年度の年賀状も出すことにした

2023年12月15日 | 生活随想・趣味
   私の気になる年間行事の一つは、年賀状、
   年賀状は、出す相手が、亡くなったり、歳で交換を取りやめたりする人が出てきて、随分減ってきたのだが、それでも、50枚くらいは、毎年出していて、殆ど接触がなくても、元気な活動ぶりや近況を聞くと嬉しくなる。
   古くからの友人知人、同級生や会社の同僚など、殆ど後期高齢者が相手なので、あまり建設的な話題はないのだが、それでも、老いてからの手習い、新しい趣味に挑戦する人もいて、人生いろいろである。

   とにかく、今日、年賀状の原案を作った。
   と言っても、富士通のパソコンを使っているので、添付ソフトの「筆ぐるめ」を利用してのソフト任せで、それほど、苦労なく作成できる。
   名簿は、打ち込み済みなので、それを使えばよく、年度ごとに、裏のレイアウトを考えればよいことである。
   今年は、去年のモデルをコピーして、写真を入れ替えて、近況の文章をアップデートにする小修整にとどめた。
   まだ、原案なので、プリントアウトするまでに手を入れるつもりだが、まずまずの出来である。

   年賀状交換を取りやめた友は、友人名簿を管理できなくなったというのだが、勿論、パソコンも操作できないので、年賀状作成など論外であるという。
   私の場合は、今のところ、住所録のアップデートは勿論、年賀状の作成もパソコン一つで自分でやれるので、造作はなく、当分は続けられそうである。
   芋版や木版の頃から手作りの年賀状を作っており、ワープロやパソコンを操作できるようになってから、ずいぶん楽になったのだが、今まで、印刷屋に頼んだことは一度もないので、ずっと、手作りで通してきたことになる。
   海外にいた14年間は、業務上のシーズンズグリーティングカードは必要上交換していたが、年賀状は失礼していた。

   何となく惰性と言った感じだが、特に問題もないので、当分は、年賀状を続けていくことになりそうである。


   
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日経:「フードデザート(食の砂漠)」の拡大

2023年12月13日 | 政治・経済・社会
   日経が、12日の朝刊で”「食の砂漠」都心にも買い物難民”を報じた。
   肉や魚、野菜など生鮮食品が入手困難になる「フードデザート(食の砂漠)」が地方だけでなく、東京都心にも広がっている。地方で主にアクセスが問題となる中、都心では大型開発で移り住む富裕層が増加。手ごろな価格で買えるスーパーや個人商店が撤退し、・・・

   今、日経の「私の履歴書」で、倍賞千恵子が執筆しているが、要するに、「下町の太陽」や「男はつらいよ」と言ったような昔懐かしい庶民が肩を寄せ合って生活しながら育くんできた「寅さん」の世界が、消えつつあると言うことであろうか。
   格差の酷さを如実に感じたのは、10年ほど前に鎌倉に移ったときに、市役所前の高級スーパーの値段の高さで、同じトカイナカでありながら、千葉の地元スーパーで、1匹50円か100円以下の生きの良いサンマが、ここでは、2倍以上の価格で売られており、ばら苗に至っては、手が届かない程の高さであったことである。今住んでいる西鎌倉では幸いCO-OPがあって助かっているのだが、安くてふんだんにものがあった千葉の田舎と比べれば、生活環境の不便さは、比べようがない。

   欧米でも同じような問題を抱えているようなので、時代の潮流に逆らえないというか、成り行き任せなのであろう。

   暴論かも知れないが、良くなれば良いと言う功利に徹した野放しの都市開発というか都市計画に問題があって、何が社会にとって、また、コミュニティにとって善であり向上なのか、基準を設定して、開発に箍を嵌めれば良いと思っている。
   フードデザート対策のみならず生活必需品需要をも満たすために、イギリスのパブ建設の場合と同様に、(この場合は既存のバブ維持のためだが、)どんなに素晴しい高級建築の開発であっても、必ず便利な場所にパブを備えて、名目程度の安い家賃で貸し与えるという例を踏襲して、一定の範囲内の新しい開発物件に、一定基準の庶民的なスーパーなどのショッピング施設を、必ず併設することを義務づけるのである。
   更に、その他に庶民生活を維持するために必須な施設を特定して、必ず組み込むと言う方針を確立できれば更に良いであろう。

   世界全体に、経済格差が拡大して、益々、貧富の差による住空間の乖離分離が進んできているが、日本の場合は、まだ、その程度は、欧米並みには酷くはなっていないような気がする。
   しかし、日本の貧困率は、欧米先進国でも群を抜いて高くて、社会騒動を起さないのが不思議なくらいである。

   先進国のみならず新興国でも、古くからゲーテッドコミュニティ(gated community)、すなわち、周囲を塀で囲んで門を設けて、住民以外の敷地内への出入りを規制して通過流入を防ぎ、防犯対策を図る街造りが一般化していて、富裕層が自己防衛を図っているのだが、このまま行けば、日本も、ゲーテッドコミュニティが定着してしまう。
   もう、何十年も前になるが、マニラで、厳重に警護隔離された高級住宅街の知人を訪問したことがあるが、日本も、転ばぬ先の杖である。

   フードデザート論から、話がそれてしまったが、
   貧富、老若男女関係なく、住居や生活空間を分離せずに一体化して文明生活を営める都市開発、コミュニティ開発を、今から十分に考えて開発すべきだと思う。
   今後、間違いなく、経済格差そして生活格差の拡大が酷くなって行くのは歴史の必然であろうから、弱者が安心して生活できるような住空間を確保すべく、政治経済社会政策を策定して推進すべきであろう。
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わが庭・・・獅子頭紅葉する

2023年12月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   わが庭には、獅子頭が2本植わっている。1本は、千葉の庭から移植し、もう1本は鎌倉へ来てから庭植えした。
   このモミジの獅子の頭を思わせる縮れた切れ長の小葉が密集する姿にも魅了されたが、感激したのは、その年の気候の影響も受けて変るが、燃えるように真っ赤に映える鮮やかな深紅の姿である。
   数日で、一気に紅葉するのだが、暑い夏を水涸れすることなく過ごして、綺麗な葉形を維持して紅葉するのは、モミジにとっては大変なことである。湿気の多い京都や奈良などと比べて、乾燥気味の関東の紅葉が見劣りするのは、このためだと思っている。
   まだ、緑の葉も残っているが、嬉しくなってシャッターを切った。
   
   
   
   
   

   もう一つ、小木ながら紅葉し始めたのは、「琴の糸」。
   切れ長の尾を引いた葉が、微風に揺れると風情がある。
   イロハモミジであろうか、表庭のモミジは、殆ど散り始めたが、裏庭のモミジは、まだ、緑葉のままである。
   
   
   
   
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江ノ電バス:待ち客無視の停留場通過

2023年12月10日 | 経営・ビジネス
   先週、午後のコンサートに東京へ行くために、江ノ島ー大船路線の最寄りの江ノ電バスの停留場で、バスを待っていた。私を無視して、バスは走り去ろうとしたのである。

   停留場の標識は、歩道ギリギリに立っているのだが、保育園の玄関口に面していて、人通りや自転車の往来が激しいので、歩道に並ばずに、2㍍ほど車道からセットバックした保育園前の歩道の外れに立ってバスを待っていた。いつもバス待ちの客は、歩道ではなく、保育園の玄関前の空地に待機していて、バスが近づくと歩道に出て、標識横まで進んで乗車する習わしになっていて、私もそうしていたのである。
   バスに乗るので、マスクをかけようとして(杖をついていて、その杖を足で支えて、自分自身が倒れないように立っているのがやっとで、マスクかけに時間がかかった)、ようようかけ終わったら、右手10㍍先にバスが近づいて来ているのに気付いた。何時もなら、5分や10分は遅れるのだが、何故かその日だけは時間ピッタリであった。
   その時、何時ものように、バスの運転手の顔を見ていたのだが、何故か不思議にも、停車場の標識の方を見ずに、反対方向の右手に顔を向けたままで、こっちを見ておらず、嫌な予感がしたが、急いで、歩道に出て標識の前に立った。いくら、右向きであっても、停留所手前100㍍くらいは、バス道路が右側に湾曲してカーブしているので、私の存在は視野に入っていたはずであり、完全に無視したとしか思えない。
   通常通り待ったが、バスは2㍍ほどまでに近づいて来て、バスの鼻先が標識を通過しても止まらずに通過し始めた。声をかけたが聞こえないのか進み続けたので、ついていた杖を伸して、バスのドアーをコツコツとたたいた。
   数㍍先に信号機があり、その手前少し進んだところで止まって、ドアーが開いたので乗り込んだ。1時間に、3本しか便がないので、おくれれば困るので、内心ホッとした。

   しかし、どう考えても、このバス停通過は、故意としか思えない。
   バスの停留場ポストから、正面少し離れたところで、うつむき加減で苦労してマスクかけしていたので、待ち客と思わなかったのかも分からないが、運転手なら誰でも知っている筈のいつもの待機位置である。私が運転手の顔を見続けていた限り、一度も顔を右手前方から変えずに、視線も合わせない。停留場の方を全く見ずに通過しようとしたことは間違いない。いくら不注意でも、バス停方向を見ていなくても、普通に正面を向いておれば、私の存在は視界に入るはずであり、その時は、私以外にその場には誰もいなかったし、無為にバス停前で立っているはずがない。
   大概のバスは、こんな時には、必ず止まってドアを開けて、客の意志を確認して出発してくれている。それに、このバス停は、藤沢行きも通過するので、必ず停車して確認してくれるのが常である。

   私は、杖をついてよろよろ歩いている状態であり、通過するバスを追いかけて杖を叩く芸当など出来ないし、現に、バスストップの標識の前に立って、1㍍すこしの長さの杖で、この小型バスのドアーを叩いているのであるから、バスが通解しようとする時点で、私自身は確実にバス停に立っていた。それを無視して通過しようとしたが、ドアーを叩かれたので、やむを得ず停車させたのであろう。

   念のために、運転手の名前を覚えておこう思って、運転席周辺を見たが名札も何の記載もない。
   大船で下車の時に、「運転手さんの名前は何処に書いてあるのでしょうか」と聞いたら、気色ばったので「名前を教えて下さい」と言った。何故だと怒気を含めて返答したので、このバスストップでの一件だと悟ったのか怒りだしたので、「止まらなかったじゃないですか」と言うと、「止まった」と言う。
   「私が杖で叩いたから止まったのでしょう」と言うと、「叩かないで下さい」と返事する。畳みかけて、「止まらないから杖で叩いたのだ」と言うと、「叩かないで下さい」と答えるだけで、この繰り返しで埓が開かず、下り客の邪魔になるので、車から離れた。名前に触れただけで、何も言っていないしこの件に触れてもいないのに、怒気を帯びた気色ばんだ態度を取ったので、故意に私を無視して走り去ろうとしたのだと分かった。

   確か、タクシーに乗ったときには、ハッキリと運転手の名前が記されていたのだが、多数の乗客の命を預かるバスの運転手の名前を表記せずに許されるのであろうか。
   乗客無視は、これだけではなく、最終便の発車時間に十数秒遅れて、停留所前の階段を夢中で下りて急いだにも拘わらず、バス停からほんの数メートル先の目の前を通過されたこともあったし、結構問題もあったが、運転免許証を返却したので、このバス路線は日常の足であるから、口には出していない。

   この江ノ電バス、「江ノ電グループの経営理念」として実に見上げた理念を掲げている。
   ⾏動指針=Enoden Value“価値”として社会に誓いますとして、
    私たちは感謝の気持ちで「おもてなし」することを誓います。
    私たちは熱意を持って仕事に取り組むことを誓います。
    私たちは素直な⼼で⽇々鍛錬することを誓います。と宣言している。

   悪く考えれば、虫の居所が悪かったので、その腹いせに、弱者を虐めて溜飲を下げ様とする類いの迷惑行為かも知れないが、こんな態度で、公共バスの運転をされたら誰もが困るので、注意を喚起するために、あえてレポートすることにした。
   江ノ電や運輸局にクレームすれば、運転手が特定されるので避けたのである。
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スティグリッツ PROGRESSIVE CAPITALISM 後ろ向きのイノベーション

2023年12月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   スティグリッツ 教授の本で、一番資本主義について易しく本質論を説いたのは、この本「PROGRESSIVE CAPITALISM (プログレッシブ キャピタリズム): 利益はみんなのために]」だと思っているのだが、危機に瀕した資本主義の起死回生のために、過剰な富がもたらす政治力に対抗出来るほど力強い民主主義がなければ出来ないと、政治改革をも巻き込んだ、ドラスティックな経済改革を提言していて、非常に面白い。
   最近のこのコラムのブックレビューでは、書評ではなく、私が注目したトピックスについて書くことにしているので、今回は、ネガティブなイノベーションについて考えてみたいと思う。
   イノベーションと言えば、企業や国家の成長発展のために最も寄与する原動力で、救世主のような扱いだが、このイノベーションが、時には成長発展の足を引っ張ることがあると言うのである。

   市場支配力を乱用して反競争的行為を推進するイノベーションである。
   スティグリッツ教授が、真っ先に糾弾するのは、マイクロソフトが、新たな形態の参入障壁や、既存の企業を追い払うずる賢い方法に長けている、20世紀末に、競争を制限しようとしたかっての大企業を手本に、そのような面で先進的なイノベーションを築き上げたとして、1990年代のインターネットブラウザーを巡る闘いで、新興企業に利益を侵害されるのを恐れて、ネットスケープを追い払ったことである。ほぼ独占状態であったインターネットエクスプローラーには、ネットスケープほどの魅力は無く実力だけでは勝てないので、OS市場での支配力を利用して、OSと抱き合わせ、無料で提供して、殆どのパソコンにエクスプローラーを組み込んだ。さらに、ネットスケープは相互運用性に問題があると言うFUD(恐怖・不安・疑念)戦術を展開して、ネットスケープをインストールすればパソコンの機能が損なわれる恐れがあるとユーザーに警告した。そのほかの様々な反競争的行為を通じて、ネットスケープを市場から追い出した。
   現在でも、市場支配力を乱用するテクノロジー系の大企業はあとを絶たない。と言う。

   また、特許は一時的な参入障壁になるので、特許制度を悪用して競争を制限する手もある。現在のイノベーションでは、多くの特許が必要となり、ある会社が新製品をつくれば、無数にある特許のどれかを知らないうちに侵害している恐れがあり、特に、大企業同士での特許共有システムに阻まれ、新規参入企業などには「特許侵害」訴訟の資金的余裕がないので、諦めるケースが多い。
   実際、クアルコム対アップル、アップル対サムスンなど、数億ドル規模の訴訟が無数にあるが、訴訟で得をするのは弁護士だけで、損をするのは、競争に参加できない小企業や消費者であり、これが、21世紀の米国流資本主義だ、と言うのである。

   その他にも、クレジット業界では、顧客から手数料を取るのを禁じて、事実上価格競争を回避して、様々なサービス提供コストとして任意に加盟店手数料を徴収するなど、市場支配力を利用して新たな契約規定を生み出している。また、米国の製薬企業は、ジェネリック医薬品企業の締め出しを図るなど、どの産業も、市場支配力を維持する独自の方法を見つけようと創意工夫を凝らしている。
   しかし、市場支配力が増大した大半の原因は、暗黙のルールの変更、特に、反トラスト法の基準の低下で、以前よりも容易に、市場支配力を産み出し、利用し、悪用できるようになり、また、現行の反トラスト法が、変わりゆく経済に対応出来ていない。
   合併・買収の規模が、史上最高を更新しており、不適切な競争政策により、Google、Facebook、Amazonなど、ある程度の市場支配力を持つ企業は、その力を高め、広げ、利用し、持続させてゆくことが可能な状態にある。と言う。

   これらの叙述は、迷走する資本主義の、「搾取と市場支配力」という章でのスティグリッツ教授の見解だが、一寸毛色が変ったイノベーション論ながら興味深い。
   大企業の支配市場力が、価格を釣り上げ、従業員の所得賃金を押し下げるなど利益追求に汲々としていると言うことで、ひいては、資本主義の機能不全を引き起こして成長発展を阻害している言うことであろうが、イノベーションと言っても、シュンペーターのイノベーション論から言っても、概念は広くて、プロダクトイノベーションだけではない。

   私が疑問に思うのは、これが民主主義に、そして、真っ当な資本主義に似つかわしいのかどうか、米国のロビー制度である。
   財力のある大企業は、1人のロー・メーカー連邦議員に対して何倍もの弁護士などロビー活動要員を送り込んで懐柔策を推進して利益誘導を図っており、特に、巨大テック企業などは、「テック企業を解体せよ」と言う運動に抗して、規制の弱体化を目指して、ロビー活動を加速させている。
   石油会社やタバコ会社などのロビー活動の悪害はつとに有名であるが、他の業界も活発にロビーイングを展開している。
   
   さて、激しさを増すイスラエルーハマス戦争、世界最強のアメリカのイスラエル・ロビーは、どう動いているのであろうか。アメリカのイスラエルに対する異常とも言うべき入れ込み方を見れば、そのパワーが分かろうと言うもの。
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歳の所為で劇場通いを諦める

2023年12月06日 | 生活随想・趣味
   先日の同期会で会った無類の劇場好きの友に、最近の観劇事情を聞いたところ、耳が聞こえなくなって、殆ど行かなくなったのだという。
   普通に話していて何の問題もないのだが、私も経験しているので、やはり、歳かと思って、何となく自分だけではなかったと感じて諦めが付いた。
   難聴に気付き始めたのは、歌舞伎を観ていたときで、声は問題なく聞こえるが、台詞がクリアに聞こえなくて微妙なところが分からなくなって来た。
   文楽や能などは、元々、良く分かっていなくても気にはならなかったし、音楽などは変わりがないと思って聞いていたので、気にしなかったのである。
   しかし、念のためと思って、大分前に、病院の耳鼻科へ行って調べて貰ったら、片方の耳は半分しか聞こえていないと言われた。早速補聴器を処方して貰って視聴したのだが、雑音が気になって諦めたことがある。

   「歳で耳が聞こえにくい」と」インターネットを叩いたら、
   国際医療福祉大学 岩﨑聡教授の「50歳を過ぎたら要注意!加齢性難聴 耳が遠くなる原因とは」という記事が出てきた。
   加齢性難聴とは、加齢によって起こる難聴で、「年齢以外に特別な原因がないもの」で、50歳代になると高い音が聞こえにくくなってきて、70歳代では音が大きくても高い音が聞こえにくくなってきます。として、次のグラフが示されている。
   

   加齢性難聴は誰でも起こる可能性があります。
一般的に50歳頃から始まり、65歳を超えると急に増加するといわれています。その頻度は、60歳代前半では5~10人に1人、60歳代後半では3人に1人、75歳以上になると7割以上との報告もあります。と言うことで、我々の場合、80代ながら、この7割の中に入っていると言うことだが、80まで良く持ったなあと思って喜ぶべきかも知れない。

   私の場合は、この加齢性難聴に加えて、足腰の弱りで東京へ通うのが億劫になって、観劇やコンサートへの東京通いを諦めつつあるのだが、それ程、執着がないのが不思議である。
それも、海外旅行のことで言及したが、若くて元気なときに、無理を押してでも、行きたいところに行き、観たいもの聴きたいものを求めて行脚し続けて、大袈裟に言えば、知盛の心境に近づいたと言うお陰だと思っている。

   
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旅とは:ぬいぐるみの旅代行?

2023年12月04日 | 生活随想・趣味
   「あさいち」で、「「大洲城に泊まる城主体験」1泊110万円!」を放映していて、インドネシア人母子3人が、和服姿で、至れり尽くせりの趣向を凝らしたイベントも設えた1泊2日の旅を楽しむ姿を映し出していた。
    日本には、歴史と文化伝統を誇る素晴しい遺産が沢山存在しており、地方再生や観光開発のためには格好のソフトウエアの活用であり、感心してみていた。
    欧米主体の現下の世界情勢では、欧米文化や伝統から引けを取らない高度な価値の高いものを持ちながら、日本文化の世界的伝播や知名度は、まだ非常に低いので、最高度の観光資産を開発して、大洲のように、世界のトップ富裕層をターゲットにした観光事業を推進すべきだと思う。
   経済的に落ちぶれつつあるとしても、日本の歴史や文化伝統の質は世界最高峰である。
   今のインバウンド観光で、スケールを意図したマスの需要拡大も大切であるが、最良の方法は、一握りだとしても何万何十万あるいはもっと多くいる世界中の超富裕層に照準を当てた招致事業、特に、付加価値の高い観光開発にシフトすべきだと思っている。

   さて、私が気になった旅は、日経の「老いても「推し活」 消える年齢の差 老若男女で同じ趣味、縮む市場広げる」という記事の冒頭での「本人の代わりにぬいぐるみが旅をする」と言う話である。その部分を引用すると、
   10月末、福島県白河市に新幹線で紅葉を見に来た一行は7体のぬいぐるみ。名所を観光したり、白河ラーメンを堪能したりして1泊2日の旅を楽しんだ。旅を主催したうきうきわくわく(東京・中央)は持ち主からぬいぐるみを預かり、約300の道中の動画などをSNSで共有し、持ち主はそれらにコメントするなどして盛り上がった。ぬいぐるみは子ども向け玩具と思われがちだが、旅を企画する片山きりん氏は「触って幸せな気持ちになるのは大人も同じ」と語る。20回の旅に参加した延べ約130体の持ち主はみな大人で、ぬいぐるみは相棒のような存在という。実際の旅は準備も面倒だが、相棒に旅をしてもらうことで〝2人〟の世界を気軽に楽しむことができる。と言うのである。
   記事の本旨は、旅ではなくて、世代間で異なった嗜好や価値観の差が消えようとしており、若者が熱中する「推し活」も未来はシニアも楽しむのが当たり前になりそうだと言う「消歳化」であり、実際に少子化にもかかわらず、ぬいぐるみ市場は伸びていて、市場規模は約320億円と10年前の1.7倍である。ことであるが、興味深い。

   メタバースとどう違うのか分からないが、自分の分身として、代わりにツアーにぬいぐるみを参加させて、道中の動画などをSNSで共有して楽しむという趣向なのであろう。
   デジタル革命によって開発された一種の娯楽なのであろうが、楽しめばそれでそれなりの価値があるのであろうが、問題は、旅としては邪道であって、自分の愛するぬいぐるみが関わっているだけで、コメントは出来るとしても、TVを見ているようなものであろうと思う。

   さて、師走も押し迫ってくると、クリスマス休暇から年末年始にかけての民族大移動とも言うべき旅行に、関心が集中する。
   欧米に住んでいた頃には、毎シーズン、長期休暇を消化するために、随分、あっちこっちを回って旅を楽しんでいたが、それも昔のことで、最近では、歳の所為もあって、旅が縁遠くなって、今年は、年末に1泊くらいの予定である。

   私の旅行は、海外旅行の殆ども、自分で企画して一切の手配も自分でやると言う手作りの旅で、飛行機や列車や車などを乗り継いで、アムステルダムやロンドンから、北欧やチェコまで足を伸ばした。フランスやドイツやオーストリアやデンマークやスイスなどは、殆ど自家用車やレンタカーを使っての移動だったが、良く分かっていない交通法規も無視せずに走れたと今になって安堵してる。
   苦労も多かったが、旅は、そんな苦しみや苦い思い出も含めて実体験に意味があるのであって、ぬいぐるみの旅代行など、論外であると思っている。
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