熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

タミム・アンサーリー 著「世界史の発明 」1文明は地形から

2021年11月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本のタイトルは、「The Invention of Yesterday: A 50,000-Year History of Human Culture, Conflict, and Connection 」
   ホモサピエンス誕生からAI時代の今日までの5万年の人類の歴史。450ページの大著ながら、「イスラムから見た世界史」のアフガニスタン生まれの歴史学者の書であるからユニークで面白い。
   From language to culture to cultural collision: the story of how humans invented history, from the Stone Age to the Virtual Ageで、英語のアマゾンの読者の評価も高く、独特な世界通史で、ひらめきや発見があって興味深い。

   まず、冒頭の第3章 文明は地形から始まる から面白い。

   およそ6000年前、人類は、農耕に最適な生産性が高い土地に定住し始めた。毎年洪水を起こし、毎年肥沃な土壌の新たな層が出来る川の流域で、最初の都市文明が生まれた4つの大河地帯、すなわち、ナイル川、ティグリス川とユーフラテス川、インダス黄河黄河が突出しており、それぞれ、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明を生んだ。
   すべて、これらの文明は川の流域に生まれたのであるが、自然環境が同じでも、これらの川には地理上の大きな違いがあり、これらの大きな川の流域に暮らしていくために、人類は、それぞれの習慣、伝統、考え方を持つ文化権を形成した―――つまり、別の世界を作ったのである。 

   まず、ナイル川だが、上流の3000マイルは渓谷や滝や急流ばかりだが、下流の600マイルのエジプト側では、文明の揺りかごとなった。この地域は、地形がもたらした天然の防御に恵まれて、文明を育むのに好都合であった。盗賊は、滝を越えなければ南から侵入出来ないし、東側は岩だらけの荒野で無住の地であり、西にはサハラ砂漠が広がっていて、北側は地中海であり、エジプト人は、靴紐のように長細い土地のデルタを守るだけで良かった。それ以外の地域では、彼らは作物を蓄えることに専念できたのである。
   ナイル川が氾濫すると、水が両側の丘陵地まで一面に広がるので、川の治水管理などの大がかりな土木事業を協力して行うことが必要となり、この種のプロジェクトを適切に行うための指揮系統が必要となる。社会の頂点には最終決断を下す神に似た存在が一人君臨し、そのしたには管理を担う多くの官僚組織があって、最下部には多くの庶民の建設労働者が存在した。
   灌漑システムを建設し、維持管理するためには、1年の一時期大量の労働者を必要とするが、それ以外の時期には彼らには用がなく、遊ばせておくと、纏まった無職の労働者は退屈して何をしでかすか分からない。仕事を与えなければ社会不安の勃発・・・解決策はピラミッドであった。
   一人のファラオの死後の快適な生活を保障するために、膨大な人力が結集されて、巨大な神殿と丘のような巨大な彫像、ピラミッドが建設された。
   灌漑事業、ファラオ、官僚制、ピラミッド―――エジプト文明のこれらの特徴は、その文明の源、ナイル川から生まれた。と言うのである。

   トルコの山岳地帯に源を発して並行してイラクを流れるティグリスとユーフラテス流域のメソポタミア文明は、流域沿いに発祥した単一の文明ではなく、多くの個別の村のネットワークとして生まれ、村ごとに異なる神殿と神権を崇めていた。川の傍の農耕は豊かな実りをもたらし、自然環境は放牧にも適しており恵まれてはいたが、周りは平地で地理的には防御に恵まれていなかったので、あらゆる方角から襲ってくる略奪者に備えるための防御こそ最大の緊急事であった。
   そのために天然の要塞の代わりに城壁を作り、これが、やがて、小規模ながら強力な都市国家に変って行く。
   防衛を強化するために、各都市は、軍隊を整えて多くの兵士を抱え込むのだが、一旦軍隊を持ったら常に誰かと戦い続けなければ、兵士達は領内で問題を起こす。メソポタミアの支配者達は、略奪者と戦っていないときには、軍隊を上流へ下流へと進めて近隣を征服して行く。
   都市国家ネットワークの掌握に成功した征服者は、更に広大な地域の資源を手に入れ、更に多くの軍隊が必要となり、多くの戦争を起こして、本格的な帝国を築き上げて行った。

   著者の指摘で面白いのは、内向的なナイル文明とは違って、メソポタミア人は、活気に満ち花火のように威勢が良く、創造性豊かだったと言っていることである。
   エジプト人が、巨大な彫像や墓を作っている間に、メソポタミアのシュメール人は、とにかく、忙しく、ものを作り、物を発明し、交流し、契約を纏め、売買し、法律を作り、詩歌を作り、愛を交わし、物を盗み、噂話をし、喧嘩をするのにも忙しかった。とも言う。
   メソポタミアの多くの小さな都市国家は起業家的な個人主義と、のちのイスラムとヨーロッパの文明の両方を特徴付ける競争を好む多元的な社会を生み出した。この双子の川という地理がそうさせたのである。

   エジプトは、灌漑治水の工事のために集めた労働者を遊ばせておけないので、ピラミッドや巨大な神殿を作らせ、メソポタミアは、防御のために整えた軍隊を戦いのないときには隣国征服のために駆り出して徐々に肥大化して帝国を築き上げた、これも、すべて川の位置する条件次第であった。と言うこと。
   言われてみれば、至極ごもっともなのだが、こんなに明確な意識はなかった。
   最後のシュメール人気質については、メソポタミア・オリジンのイスラム文化文明の輝きを考えると納得できて面白いと思った。

   さて、インダス文明と黄河の中国文明はどうか。長くなるので端折らざるを得ない。
   
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わが庭・・・椿:菊冬至咲く

2021年11月28日 | わが庭の歳時記
   菊冬至が咲き始めた。
   中輪の紅地白斑入り千重咲のシックな花で、完全に開花する前には、宝珠咲きで美しい。
   晩秋に咲く椿は少ないので、貴重な存在である。
   
   
   
   

   モミジの獅子頭が、少しずつ色づき始めた。
   柑橘類は、ミカン、ユズ、夏ミカン、残念ながら、レモンはまだ実がつかない。
   トベラの実がはじけ始めた。
   
   
   
   
   
   
   

   エレガンスみゆきが、咲き続けている。
   残ったススキの穂と小菊が晩秋の気配。
   
   
   
   
   
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相曽賢一朗&佐藤彦大 デュオ・リサイタル

2021年11月26日 | クラシック音楽・オペラ
   コロナ騒ぎで中断されていた相曽賢一郎のリサイタル、
   「相曽賢一朗&佐藤彦大 デュオ・リサイタル」が、二年ぶりに東京文化会館で開かれた。
   二ヶ月ほど前に、電話を頂いて、チラシをメールして貰っていたので、この二年間東京に出かけることさえ憚られて、コンサートどころか観劇すべてを諦めていたが、是非、禁をやぶって聴きに行くと約束していた。
   昨年、ロサンゼルスから電話が入って、演奏活動一切が出来なくてお手上げで、インスタグラムで配信していると語っていたが、本当に久しぶりのリサイタルで、満を持しての演奏であろうと期待していた。

   二人のデュオ・リサイタルは、2019年11月にこのシリーズの「相曽賢一朗vn&佐藤彦大pデュオ・リサイタル」で行われており、このブログでも紹介した。
   プログラムは、次の通りで、冒頭のベートーヴェンは別にして、アンコールもスペイン曲であるなど、異国情緒が濃厚でエキゾチックなムードを醸し出していて、興味深かった。
   ベートーヴェン…ヴァイオリン・ソナタ第8番
   バルトーク…ルーマニア民俗舞曲
   ファリャ…アンダルシア幻想曲
   バルトーク…ヴァイオリン・ソナタ第2番
   ラヴェル…ツィガーヌ

   今回のプログラムは、ブラームスとシューマンだと語っていたが、次の通りで、
   19世紀のドイツロマン派のシューマン夫妻とブラームス、それに、ヨアヒムを絡ませた非常にナラティブで意欲的な演目で、ブラームスに始まりブラームスで終ると言う魅力的なリサイタルであった。
   ブラームス:ハンガリー舞曲第2番、第17番
   ブラームス:ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第3番 ニ短調 Op.108
   ブラームス:6つの小品 Op.118より 第2番 間奏曲 イ長調
   R.シューマン:蝶々 Op.2
   C.シューマン:3つのロマンス Op.22
   R.シューマン:ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ短調 Op.105
   ブラームス:スケルツォ ハ短調 WoO2
   アンコールは、ブラームスのハンガリー舞曲第5番

   相曽賢一郎もプログラムの”「シューマンとブラームス」~人と時代”に、控えめながら書いていたのだが、気になるのは、クララ・シューマンとブラームスの恋である。
   色々な逸話があり、3つの映画にもなっている。しかし、定かなところは分からないのだが、尊敬するシューマンの14歳年上の妻クララに愛情を感じ、シューマンが早く逝って未亡人になってからも思い続け、親身の面倒を見ながらも独身を通したという逸話など、大作曲家の物語としては面白い。
   ハンス・フォン・ビューローの妻であったリストの娘コジマを奪って妻としたワーグナーとは、えらい違いである。

   休憩後の冒頭のクララ・シューマンの如何にも女性らしい優しくて温かい3つのロマンスが、ロベルト・シューマンのしっかりと充実した交響詩のようなヴァイオリン・ソナタ第1番へと移って行くところなど、その落差を感じて感動的であった。
   最後のブラームスのスケルツォは、ヨアヒムに献呈されたシューマンなどとの合作ヴァイオリンソナタの第3楽章だというのだが、ダイナミックながら短い曲で、あっけなく終ってしまった感じだったが、アンコールの粋ながらどこか東欧の土の香りがする感動的なハンガリー舞曲第5番が、観客をうっとりさせた。
   正味殆ど2時間の熱演で、久しぶりに、胸に静かに染み渡る美しく歌う渾身の相曽サウンドを聴いて幸せであった。
   ユーモアセンスが横溢した明るくてダイナミックな演奏の佐藤彦大が、兄貴に付きつ離れつつ、その絶妙なアンサンブルが素晴しい。

   ダヴィド・オイストラフ、ユーディ・メニューイン、アイザック・スターンなどからはじめて、名だたるヴァイオリニストのコンサートやリサイタルに通い続けて随分多くの最高のヴァイオリンの調べを聴いてきたつもりだが、今や殆ど記憶の彼方に去ってしまい、最近では、相曽賢一郎の感動的なサウンドしか私の脳裏にはない。
   相曽賢一郎の誠実そのものの透徹した美しいサウンドに、年輪を重ねて培われてきたおおらかでスケールの大きさとコクの深さが益々藝に円熟味を加えており、リサイタル毎に成長を感じて感激している。
   
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夫馬 賢治 著「データでわかる 2030年 地球のすがた」その1

2021年11月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   2030年の未来展望についてブックレビューしてきたが、やはり、日本人のこの道の第一人者の説明であるから、分かりやすいのがこの本。
   今、グローバル企業と機関投資家の間で特に危機感が共有されているテーマは、「気候変動」「農業」「森林」「水産」「水」「感染症」「パワーシフト」「労働・人権」の分野であるので、この分野について、豊富なデータを駆使して分析して、2030年の地球の姿を活写していて、非常に興味深い。

   企業の社会的責任が議論され始めてから久しいが、お題目だけで殆どの企業がうわべだけの対応で満足してきたが、近年、欧米を筆頭に、ESG(環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の頭文字)の視点からの投資に関心が移り始めると、前記の8つの地球環境を悪化させて人類の未来を暗礁に乗り上げさせる要因に対する企業の姿勢が、一気に問われるようになってきた。
   財務情報は基本だが、新しい企業統治指針では、気候変動リスクや従業員の処遇、知的財産の活用などに関する情報開示の充実が求められ、中長期投資資金を調達するためには、ESG情報の開示が欠かせなくなった。環境改善を後押しする取り組みに資金使途を絞ったグリーンボンド(環境債)をはじめESG債が人気を高め、益々発行が増える勢いである。
   また、株主総会においても、企業のESG対応に向けて投資家の目が厳しさを増し、気候変動関連の株主提案が相次ぎ増加の一途を辿っている。
   既に、全世界のESG投資の規模は、約35兆ドル(4000兆円)に達しており、これは、米国と中国のGDP合計にほぼ匹敵する巨大な大きさになっている。

   言いたいのは、トランプがいくら横車を押して時計の針を逆巻きして地球環境をいじめ抜こうとしても、企業は、世界中の世論から、ESG対応の経営を求められており、地球環境を守るために、締め上げられつつあると言う、大きな経営環境の変化であり、新しい経営哲学が求められていると言うことである。。
   かっては、政府やNGOの要望や圧力に対して、企業も、寄付や基金によるフィランソロフィー(社会貢献活動)や、CSR(企業の社会的責任)の追及によって解決を図ろうと試みて来ていたが、
   ほぼ、10年ほど前に、マイケル・ポーターが、 「共通価値」論を展開し、企業が事業を営む地域社会の経済条件や社会状況を改善しながら、自らの競争力を高めると言う、社会の発展と利益の追及とを両立させることで、あくまで価値(コストを越えた便益)の原則を用いて、社会と経済双方の発展を実現する経営へのシフトを説いた。この社会の発展というポイントをESGと考えれば良いことで、このブログでも紹介したが、新しい企業倫理の確立を目指した経営論だと思って歓迎した。
   あのミルトン・フリードマンは、「企業はほぼ自己完結的な存在であり、社会問題や地域社会の問題はその守備範囲の外にあって、個人の利益追求の道具である会社の経営者が、独自の判断で慈善事業や文化活動を行うことは、個人の選択の自由の巾を狭めてしまう反社会的な行為であって許せない」と論じてCSRに反対していたのだが、正に、隔世の感ではある。

   しかし、今や、自然環境などの外部経済をフリーライダーとして徹底的に利用し搾取しながら、一顧だにしなかった企業のみならず我々人類が、依って立つ地球環境を悪化させて危機に追い詰めつつある現実を突きつけられ、その責任を迫られ始めたと言うことである。
   今回は、前置きについてだけ論じたが、次には、著者の説く地球環境の切実な問題について、日本人が如何に不十分な対応に甘んじてきているかなどについて考えてみたいと思う。
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勤労感謝の日、我が家の集い

2021年11月23日 | 生活随想・趣味
   今日は、秋晴れの非常に素晴しく気持ちの良い一日であった。
   コロナも、トーンダウンした感じなので、久しぶりに、東京の長女の一家もやって来て、家族全員が集まった。
   次女の主人は長期出張で加われなかったが、家族総勢子供2人を含めて8人、過もなく不足もない人数である。

   集まったのは、遅い午後であったので、夕食を共にするという趣向で、集いを計画した。
   夕食を何に、どうするかと言うことだが、家族に負担を掛けないためには、レストランに行くか、出前を取るかしかない。
   レストランを考えたが、アットホームな雰囲気には馴染まないし、幼児も居ることだしと思って、出前を考えた。
   寿司など和食には馴染みの店があるのだが、マンネリで代わり映えしないし、日頃性懲りもなく投函されているレストランのチラシも皆捨てているし、インターネットを叩いて、いくらか条件を変えてレストランを検索したが、これと思える店がない。
   Uber Eats や出前館だと一覧性が利くので便利だが、どの店も、寿司屋ほど家庭パーティにしっくりとした品揃えがなくて、帯に短し襷に長しで、意に沿わない。
   店を変えようとしたので、新しい店になるので、どんものが出前されてくるのか、これまでにも失敗しているので心許なく、意に沿わない。
   調べ方が拙かったのかは分からないが、10人ぐらいの会合や家族パーティに合うようなメニュー設定の店がないことが、一寸、意外であった。

   結局、家族パーティで、成功しているのは、季節の良いときの庭でのバーベキューであり、正月などのすき焼きパーティなので、家族に手間暇を掛けて負担になるが、しゃぶしゃぶパーティをすることに決めた。
   強引な我流の決定で、反対があったが、とにかく、了解を取った。
   私が、100年の老舗河野牛豚店で、しゃぶしゃぶ用の肉やとんかつや牛ミンチカツの手配をして、次女が、野菜など必要な食材他を用意した。
   当然、食後のケーキが必須なので、何時ものフランス風創作菓子のレ・シューで、7号のチョコレートショートを予約しておいた。

   しゃぶしゃぶ用の肉については、色々バリエーションがあったのだが、店頭でしゃぶしゃぶ用と明示されている肉を選んだ。この店は、上等な肉しか売っていないので、折り紙付きである。
   豚肉500g、牛肉1kg、多いか少ないか、まずまずの量であったが、十分に満足した様子で、直前に解禁されていたボジョレーヌーボーを賞味できて幸いであった。
   鍋を囲んでの謂わばDIYであるから、家族で和気藹々、有意義な時間を過ごせた。
   ケーキのプレートには、孫達3人の名前を連記して、勤労感謝 ありがとう と、孫達から両親への感謝を示した。
   食後のケーキの後は、全員でトランプを楽しんでいた。
   
   一寸した非日常だが、コロナが少し落ち着いたので、出来た家族の集いであった。
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ピーター・ディアマンディス , スティーブン・コトラー著「2030年:すべてが「加速」する世界に備えよ」

2021年11月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ピーター・ディアマンディス , スティーブン・コトラーの「2030年:すべてが「加速」する世界に備えよ」の本だが、
   少し前にレビューしたマウロ・ギレン 著「2030:世界の大変化を「水平思考」で展望する」とは、大分切り口も雰囲気の違った「2030年論」で、この本も非常に興味深い。
   尤も、タイトルが、The Future Is Faster Than You Think: How Converging Technologies Are Transforming Business, Industries, and Our Lives (Exponential Technology Series)なので、Exponential Technology (指数関数的に驚異的なスピードで成長発展するテクノロジー)によって10年後には、どのような産業社会や生活環境になっているかを展望しているが、期待を込めた100年後の未来論でもある。

   人類、文明社会の発展を促進するのは進化するテクノロジーによって触発されて生まれるイノベーション、
   ICT革命によってどんどん加速化して行くテクノロジーだが、進化するテクノロジー(たとえば人工知能、AI)が、同じく進化する別のテクノロジー(たとえば拡張現実、AR)と合わさったとき、今、小売り、広告、娯楽、教育をはじめ多くの産業に破壊的変化が起きていて、しかも、これから更に大きな変化が起ころうとしているのは、両者の「コンバージョン(融合)」の結果である。
   このような新しいエクスポネンシャル・テクノロジーのコンバージョンが各分野で加速度的に起きていて、それが世界の変化のスピードと規模を一気に高めており、そのトレンドの凄まじさは脅威的である。と言うのである。

   特に、この10年は、激しいブレイクスルーや驚異的な世界変革に満ちていて、アントレプレナー(entrepreneur)やイノベーターやリーダー、そして、先見の明があり冒険好きなどんな人にとっても、千載一遇のチャンスであり、想像をはるかに超えて加速発展する未来と、かってないほどの早さで空想が実現化する世界が到来する。
   「シートベルトをしっかりと締めろ! 相当荒っぽいドライブになるぞ」というわけである。

   レイ・カーツワイルとシンギュラリティ大学を創設したピーター・ディアマンディスと究極の人間のパフォーマンスに関する世界有数の専門家だと言うスティーブン・コトラーと言うAI等ICTデジタル革命のみならず、この道の科学的学問的知見を兼ね備えた最高の未来学者の展望であるから、まさに驚異的な語り口で感動的である。
   第2部の「すべてが生まれ変わる THE REBIRTH OF EVERYTHING」では、買い物、広告、エンターテインメント、教育、医療、寿命延長、保険・金融・不動産、食糧について、それぞれの未来論を展開していて、こんなことまで出来るのかと、まさに目から鱗が落ちる感じで、非常に面白い。
   一番気になる「寿命延長の未来」については、老化を促進する「原因」9つ、ゲノムの不安定性、テロメアの短縮、後成的変化、タンパク質恒常性の喪失、栄養素を認識できなくなる、ミトコンドリア機能障害、細胞の老化、幹細胞の枯渇、細胞間コミュニケーシの劣化をあげて、それぞれに対する科学者達の挑戦を語り、寿命脱出速度を説きながら、
   100歳の人を再び60歳に戻すこと、すなわち、人間の生存期間を大幅に伸ばすことは、すでに「できるかどうか」から「いつできるか」の問題に移った。と言うのである。

   第3部の「加速する未来 THE FASTER FUTURE」では、まず、「脅威と解決策」で、
   世界経済フォーラムの「グローバル・リスク・レポート」の五つのリスク、水危機、生物多様性の喪失、異常気象、気環境汚染環境汚染 に対する挑戦を説き、
   テクノロジーによるエンパワーメント、世界最大級のチャンス、コンバージェンスなどの威力により、未来を楽観できるという。
   興味深いのは、「五つの大移動が始まる」と言う最終章で、世界は「人の移動」で進歩してきた、「移民」こそイノベーションの原動力であると、
   テクノロジーを主因とする五つの大移動、経済的移住、気候変動による人口移動、バーチャル世界の探求、宇宙の植民地化、ハイブマインド・コラボレーションを展望しながら、かなり明るい未来論を展開している。
   最近の中東やアフリカからのヨーロッパへの難民・移民を、著者達は、どのように位置づけるのか興味のあるところである。
   
   私は、ハーマン・カーンから始まって、アルビン・トフラーへと、これまで、色々な学者の未来論を読み続けてきたが、時代の潮流であろうか、最近では、一気にテクノロジーの変化を主体とした科学技術へと大きくシフトして来ているのを感じて、さて、思想的哲学的な未来展望はどうなるのか、一寸気になり始めている。
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何となくボジョレーヌーボー

2021年11月18日 | 生活随想・趣味
   ロンドンから帰ってきてから、いつの間にか、11月の第3木曜日が近づいてくると、ボジョレーヌーボーが気になって、インターネットで予約する。
   間違いなしに、その年の11月の第3木曜日の朝にボジョレーヌーボーが届けられる。

   ヨーロッパに長かったので、ボジョレーヌーボーに接する機会は、かなりあったのだが、日本のテレビで騒がれるほど、派手なお祭り騒ぎに逢ったこともないし、レストランでも取り立ててボジョレーヌーボーを意識している風でもなかった。
   私は、都合、何十年もワインを飲み続けているのだが、食音痴なのか、食べ物は勿論、ワインについても、いつまで経っても味が分かっている訳ではなく、
その時々に、美味しいとか、これは凄いとか感じる程度で、それで満足している。
   ボジョレーヌーボーについては、極端に若い新種なので、果実香あふれるフレッシュな感じであり、口当たりが良いので、私などの好みである。
   しかし、これで通すという気には、一寸なれないので、しばらくは楽しめるとしても、通常のワインに戻ることになろう。

   ボジョレーヌーボーにも、相当、品質の差があって値段も違うのだが、最高級品になれば結構値が張るので、次善として、AOCボジョレーであるボジョレー・ヴィラージュを選んで買っている。
   金賞蔵のボジョレーヌーボーになれば、それなりに上等で、十分に楽しめる。

   最近、コロナのために外食も控え気味で、親しい友との会食もままならず、やはり、ボジョレーヌーボーのようなワインは、一人嗜んでも絵になる日本酒と違ってそう言う機会がないと、線香花火のようで寂しい。
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後期高齢者:自動車運転免許証を自主返納

2021年11月17日 | 政治・経済・社会
   17日、大阪狭山市大野台2丁目「コノミヤ狭山店」に高齢者が運転する自動車が突っ込む事故が起きた。また、高齢者の自動車事故である。
   私は、強制的に高齢者の自動車の運転を規制すべきだとは言えないと思ってはいるが、後期高齢者は、人生の先輩の誇りを示すためにも、自動車運転免許証を自主的に返納をする良識を持てと言いたい。
   尤も、総ての後期高齢者が同じ状況で生きてるはずがなく、絶対に車がなくては生活が成り立たない人もいて、その人たちは当然運転免許証が必須で手放せないと思う。従って、誠心誠意考えて、良心に問うて、運転免許証返納を考えて欲しいと言うことである。身近な老人を見ていても、危なくて免許証を返納すべきだと思える人が結構沢山いるのである。

   まず、自分自身の運転免許証の遍歴を思い出してみたい。
   私は若いときに運転面免許証を持っていなかったのだが、海外生活を始めると、これがないと生活できないことに気づいた。
   最初のアメリカは、フィラデルフィアでの大学院生活であったので、自動車がなくても生活できたが、ブラジルのサンパウロに赴任してビジネスを始めると、自動車が運転できなければ仕事にならなくなってしまった。
   比較的運転免許証の取得の容易であった仕事先のパラグアイで取得してブラジルの免許証に切り替えた。
   4年後に、日本に帰ったので日本の運転免許証に書き換えた。
   その後、海外出張が多くなってきたので、国際免許を取得したが、オランダに赴任したので、オランダの運転免許証に切り替えて、再び、イギリスに移住した(永住権を取得した)ので、イギリスの運転免許証に更新した。
   結局、ほぼ半世紀前に取った運転免許証が、パラグアイーブラジルー日本ーオランダーイギリスと転々と遍歴し、日本へ帰った時には、前に登録されているので簡単な手続きで日本の運転免許証に変った。

   日本に帰ってからは、千葉の田舎に住んでいたので、自動車が生活必需品であり、非常に重宝した。
   ところが、鎌倉に移転して生活を始めると、必要ではあったが、非常に運転しづらく、運転することが殆どなくなり、意識して自動車の運転を止めた。
   70歳になってから、一度ゴールドから3年更新を行ったが、後期高齢者になった時点で、自動車運転免許証を自主返納した。
   別に身体に異常があるわけではなく、通常通りに運転できると思ったが、確率的に事故フリーであるとは思えなかったのでスッパリと思い切ったのである。

   ブラジルでは、繁華で交通事情が良くないサンパウロは勿論、高速でリオデジャネイロやサントスなど遠くへ足を伸ばし、東西南北田舎へも出かけたし、存分にラテン気質ムンムンの雰囲気を、車があったればこそ味わうことが出来た。ブラジルでノックダウンのフォードのマベリックで、結構故障はするし、ブラジルのガソリンは質が悪いので、街中の急坂で絶えずエンストを起こすし、保険会社にお世話になりっぱなしであったが、大きな事故がなかったのは奇蹟だと思うことがある。

   ヨーロッパは、都合8年居たので、アムステルダムを起点にして、アウディの大型車で、東はウィーン、北はコペンハーゲン、南はブレンナー峠越えでイタリアへ、当然、その間のドイツ、オーストリア、スイス、ベルギーなどは、あっちこっちを移動した。真ん中に位置するドイツには、速度無制限のアウトバーンがあるので、短時間に国境を越えてかなり遠くまで走れるのである。
   フランスは、やはりラテン系なので、装甲車のようなボルボや大型のベンツのレンターカーを借りて移動した。流石に、スペインやポルトガルは、運転を諦めて安いタクシーを使った。グラナダからコルドバまでタクシーで走っても料金は知れているのである。
   イギリス国内は、日頃通勤に使っていた小型のベンツで、イングランド、スコットランド、ウェールズに、くまなく足を運んだが、アイルランドでは、車で走る機会がなかった。
   ヨーロッパの移動では、結構、飛行機やTEE高速鉄道を使ったが、車だと自由にどんな田舎へでも足を伸ばして隠れたヨーロッパの姿が見られるるので、随分貴重な体験をした。絵はがきや旅行記では味わえない本当のヨーロッパが垣間見えると感動する。
   地図の読めない女の典型のような家内のナビゲーターで、唯一の便りはミシュランの地図とガイドブックで、勿論、カーナビなどのない時代であったが、若気の至りと言うことであろうか、よく知らないヨーロッパを、よくも無謀に走ったものだと、今になって冷や汗をかいている。

   今でも良くやったと思うのは、最初はアムステルダムにいて、後半はロンドンに移転して、オランダとイギリスの仕事を掛け持ちしていて頻繁に往復していたのだが、右側通行と左側通行と代わるので、運転席が左右に違う車に乗り換えて、それに、国毎に交通法規がかなり違うところを器用に乗り切れたと言うことである。交差点ではなくサークルの多いヨーロッパだが、侵入の優先が英蘭では真逆だし、ドイツやスイス、オーストリア、デンマークでは又違うし、言語の違う法規が違う交通標識を理解して走るのも、また大変であった。
   
   さて、本題に戻るが、これだけ、自動車の運転に経験を積んで傘寿を超えた私が言うのだから、いくら、運転に自信があっても、後期高齢者ともなれば、体のどこかのピンが外れていて、必ず、自動車事故を起こす筈だと思っても間違いないと思うので、勇を鼓して、自動車運転免許証を、自主返納して欲しい。

   Mew Sphereの記事「運転を年齢制限すべき? 97歳フィリップ殿下の事故で、英国で議論」で、
   ”イギリスでは、運転免許に年齢の上限はなく、70歳を超えると3年ごとに更新することになっている。ただし、運転テストを再び受ける必要はない。視力も、20メートル先のナンバープレートが読めるなどの、最低基準を満たせばよいとされている。運転免許を返納するケースは、医師から運転をやめるように指示された場合、または健康状態が運転に必要な基準を満たしていない、と判断された場合だ。”と書かれている。
   私は、イギリスの運転免許証を持っており、今手元にはないのだが、確かに、70歳までの制限があって、一度取得すれば、その歳まで免許の書き換えも更新もなく、それまで維持しておれば良かったのである。

   個人の人格なり誠意を信じるということであろう。
   免許証をチェックされたことも提示を求められたこともなかったが、そのかわり、ヨーロッパでは、法規違反を冒すと大変だと言うことである。
   私見だが、ヨーロッパより日本の方が運転のモラルはかなり悪いと思う。それにも拘わらず、法規制が弱いのは問題で、イギリスなど、飲酒運転が見つかると、即刻留置される。煽り運転や暴走族を野放し状態にして、よぼよぼ頼りない運転をしている老人を取り締まれない悲しい現実。
   悲惨な交通事故が多すぎる。
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わが庭・・・曙椿咲く

2021年11月15日 | わが庭の歳時記
   曙椿が咲き始めた。
   ”春は曙、やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。”
   清少納言の枕草子の一節だが、匂うようなピンクの優雅な花姿が良い。
   ただ、美人薄命というか、花弁が非常に繊細でか弱いので、雨風に弱くて花の命が短いのが惜しい。
   庭植えでは、完全な花を見つけるのは、中々難しい。
   茶花では、開花前の蕾で生けるようだが、その姿も上品で美しい。
   
   
   
   

   久寿玉が咲いている。
   同じ木に枝変わりで、異なった形の花が咲いていて、典型的な吹き掛け絞りの他に、やや縦紋模様になったり、赤い単色の牡丹咲きになったりと、バリエーションが面白い。
   
   
   
   

   他の椿も、蕾が少しずつ色付き始めて、スタンドバイしている。
   
   
   
   

   わが庭では、ワンテンポ遅れて、ツワブキが咲いている。
   そして、名残の小さなバラ。
   
   
   
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模倣の罠――自由主義の没落(2)中国は思想的覇権は目指さないのか

2021年11月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   中国は、中国共産党の第19期中央委員会第6回総会で11日、党100年の歴史を総括する「歴史決議」を採択した。歴史決議をした指導者は毛沢東、鄧小平に次ぎ習近平総書記(国家主席)が3人目で、40年ぶりであり、習氏の異例の3期目が確実視されており、習氏の「1強体制」をさらに固める新体制に突入しようとしている。

   ところで、この本で興味深い指摘は、中国は、世界的な影響力と世界的な承認を追求し、中国の富が大きくなるにつれて、他国に従われ、賞賛される国になりたいという指導者の要望は大きくなるが、世界で優位に立つと言う中国の野心は、自国の文化を普遍的に他国に共有させようという主張には基づいてはいない。中国は、他国が自らの望みに従うことを望んでいたとしても、他国が中国モデルを模倣することを期待しているわけではない。と言っていることである。
   「一帯一路」計画にしろ、国境を越えた教化に一切頼ることなく、統合と相互の結びつき、相互依存を作り出している。中国は、他国が中国を支持して従うことを望み、中国が、指揮し、おそらく他国を利用する国になりたいのであって、篝火やモデルになりたいわけではなく、他国を中国の小さなコピーにしたいとは考えていない。と言う。

   したがって、この本で、著者は、遅れた国が先進国を模倣することによって成長発展を目指してきたその歴史展開を論じているので、中国は、「模倣の時代」の終わりを示した。と述べている。
   何故なら、中国は、西洋式の政治的変化を試したり、装ったりすることなしに、的を絞った技術的手段の「借用」によって、繁栄と発展、社会の統制、国家の国際的影響力と名声を取り戻す機会を捉えて、様々な次元で西洋をしのぐことに成功した、すなわち、西欧を模倣することなしに今日を築き上げた中国の歴史と現在の成功が、これを示している。中国が世界に教えるのは、西洋の技術や消費傾向さえも必要なものだけ選択的に採用しながら、西洋の規範や制度を拒否することには利点がある。と言うことだと説いている。

   確かにそう言われれば、中国経済は、国家資本主義だと言われるが、マーケットメカニズムは必要に応じて適当に活用してグローバル経済に同化しているが、実質的には、計画経済的な国家統制なり規制によってコントロールしており、政治や社会システムは、西洋流の自由主義的な民主主義体制は取っておらず、中国流の共産主義を通している。
   和魂洋才をもじれば、漢魂洋才かも知れないが、半分魂を洋化してしまっている日本と違って、中国は徹底した隔離主義を維持しているのである。
   尤も、最近の中国は新マルクス主義だと言われているが、ロシアから学んだ共産主義は、儒教など中国本来の思想的バックグラウンドとは全く異質の西洋オリジナルの思想だが、これは、中国にビルトインされた核心的かつ根本的なバックボーンであるから不問と言うことであろうか。

   孔子学院の動きなどを考えれば、思想統制には無関心である筈はないのだが、鄧小平の「韜光養晦(爪を隠し、才能を覆い隠し、時期を待つ戦術)」のように、実質的にアメリカの後塵を拝して覇権を握れていない間は、下手に出ていると言うことであろうか。
   しかし、どんどん、アメリカを追い上げて、アメリカの背中が見え始めた今日、習近平の対外政策を考えれば、爪を隠す段階からはるかに強気に転じてきており、強硬の一途を辿る徹底的な思想統制が、香港やウイグルやチベットは勿論、国内だけでおさまるはずがないと思える。

   さて、習近平政府の思惑はともかく、実際に中国は、中国システムや思想を世界に教化するするつもりはないのか、案外、中華思想から考えてみるのも面白いかも知れない。
   その前に、日経連載中の安部龍太郎の「ふりさけ見れば」で、唐から、日本を正式な国家として認知するための条件を示されたのだが、律令体制など国体の承認に未達であったので、日本国がどのように評価されているのか確認するために、門外不出の国書閲覧の密命を受けて、阿倍仲麻呂が、帰国できずに唐に止め置かれると言うような話が書かれていたような気がする。
   これなど、完全な中国体制の教化であろう。
   いずれにしろ、大唐帝国のように並びなき覇権を確立すれば、右へ倣えは、指示命令はなくても、当然の帰結だと言うことであろうが、中国が、外国に対して国家思想や体制の教化に無関心であるとは思えない。   

   念のために、Britannicaを引用すると、中華思想とは、
   中国が世界の文化,政治の中心であり,他に優越しているという意識,思想。中国では伝統的に漢民族の居住する黄河中下流を中原と称し,異民族を夷狄 (いてき) ,あるいは蛮夷と呼んできた。・・・この思想は古く周代に始り,以後近代まで連綿として引継がれ,中国人独特の世界観を形成してその歴史や文化に多大な影響を与えてきた。漢民族の優位が確保されている限りにおいては寛容で開放的な博愛主義となって現れるが,ひとたび優位が否定された場合には,きわめて偏狭な保守排外主義の傾向が示される。
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映画「山猫 leopard」

2021年11月11日 | 映画
   1964年に、英語版で見たのだが、今回NHK BSで放映されたのは、2003年の『山猫―イタリア語・完全復元版』(187分)。
   感動的な映画であったという印象はあるのだが、アンジェリカ 役のクラウディア・カルディナーレがはしたなくも笑い転げて晩餐会を台無しにしたところとか、ドン・ファブリツィオ(サリーナ公爵)のバート・ランカスターとのワルツを優雅に舞うダンスシーンとか、断片的な記憶しか残っていないのだが、歴史の風雪を噛みしめながら時代の潮流に取り残されて消えて行く貴族の寂しさが妙に胸を締め付けたのを思い出す。

   ここで描かれている時代は、19世紀のイタリア統一時代で、ウィキペディアを借用すると、
   1860年にジュゼッペ・ガリバルディ率いる千人隊はシチリア島西海岸のマルサーラ近くに上陸、シチリア島を占領し、ついでイタリア半島に渡って両シチリア王国の首都ナポリを奪取した。ガリバルディは占領地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上、翌1861年に成立するイタリア王国へシチリア島は統合された。

   これは、シチリアのパレルモ近郊の“山猫”の紋章を持つ名家サリーナ公爵のドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)を主人公とした映画で、
   ガリバルディの革命後、パレルモに、イタリア王国からの代理人がやって来て、公爵の歴史的社会的存在の重さや、人格的高潔さなどを高く評価して、シチリア代表の貴族院議員に推薦したいと言ってきたのだが、古い伝統と柵の中でしか生きられない自分には相応しくないと断わる。悲惨なシチリアの現状を変えなくても良いのかと懇願されるが、「シチリアは変化を望まない、求めるのは深い眠りだ」と固辞し、代わりにセダーラ市長を推薦する。俗物の推薦に眉を顰める代理人の表情が面白い。
   公爵とその家族は、近隣の公爵の主催する大舞踏会に招かれ、甥のタンクレディと婚約者アンジェリカ、セダーラも参加し、大勢の貴族たち、それに、イタリア王国軍の将校たちも集って豪華絢爛たる大パーティが繰り広げられる。
   時代の潮流の激しさに疲れを感じた公爵は、誰もいない別室で休憩を取りながら、壁に飾られていたグルーズの絵画“正義の死”を見て不吉な予感を感じて、そこへ入ってきたタンクレディとアンジェリカに、「私も死ぬときはこんなものか」と呟く。
   その後、アンジェリカが、舞踏の名手として名を馳せた公爵なので、一緒に踊って欲しいと頼んだので、ファブリツィオはワルツならばと受け入れる。二人は、大勢の人々の前で、軽快にステップを踏み、流れるように優雅な踊りを披露して、人々を魅了する。
   舞踏会も終わり、公爵は、誰もいない部屋に入って一人佇む。ひとしずくの涙が頬をつたう。タンクレディや家族らを、馬車で先に帰路に就かせて、自分は一人で荒れ果てた街の夜道を歩き始め、教会の前の路上にゆっくりと跪く。星空を見上げて、「星よ誠実な星よ。いつ つかの間ではないときをもたらす? すべてをはなれ お前の永遠の確かさの土地。」と唱える。ゆっくりと立ち上がって、薄暗い路地に消えて行く。FINE
   一時代の終わり、黄昏の憂愁と没落の悲しさを全身で表現するバート・ランカスターの後ろ姿が実に切ない。
   

   もう一方の主役、野心家の公爵の甥であるタンクレディ(アラン・ドロン)は、ガリバルディの赤シャツ隊に入隊して将校となり、赤シャツ隊が解散すると、早々にイタリア王国正規軍の将校に転身するのだが、ドンナ・フガータ市長のドン・カロージェロ・セダーラ(パオロ・ストッパ)の娘アンジェリカと恋に落ちる。
   セダーラは革命を利用して成り上がった強欲な成金だと揶揄されているのだが、公爵は、裕福で美人であるアンジェリカこそがタンクレディの結婚相手に相応しいと考えて、貴族の名を汚すと反対する妻マリアを押し切って結婚の準備を進める。タンクレディに恋する自分の娘のコンセッタ(ルッチラ・モルラッキ)では、資産も知れており、タンクレディの野望を叶えるためには不相応だと蹴って、時流にさかしく便乗して富と力を築いた新興成金に賭けざるを得ない公爵の哀感を、ランカスターは、実に感動的に演じている。
   

   監督は、ルキノ・ヴィスコンティ、モドローネ伯爵ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti, conte di Modorone) 
   レッキトシタ伯爵であるから、このような豪華絢爛たる美の極致とも言うべき舞台を描き得たのは当然であろう。
   イタリア語が分からないので、この映画の本当の凄さを理解出来ずに見過ごしているかも知れないのだが、度肝を抜くような豪華で華麗極まりない貴族生活を活写して、イタリア文化文明の真骨頂を叩き付けられた感じであり、逆に、土の香りがするような貧しくてうらぶれたシチリアの田舎風景を織り交ぜながら、時代の激動の一瞬を切り取って、イタリアの偉大さを見たような思いで感動している。
   音楽は、ニーノ・ロータであるから文句なしに素晴しい、それに、ジュゼッペ・ヴェルディ(ピアノのための『ワルツへ長調』を編曲)
   指揮はフランコ・フェラーラ、演奏はサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
   撮影はジュゼッペ・ロトゥンノ、フェデリコ・フェリーニの作品を多く手がけた名撮影監督と言うから、これだけ凄く美しい映像美を表現できたのであろう。

   この映画は、まさに名優であることを知らしめたバート・ランカスターとアラン・ドロンと言う外国人俳優を主役にした貴重な名作だが、イタリア語は吹き替えだと言う。 心地よく鉄砲玉のように飛出す早口のイタリア語の感覚とは違って、私が観た英語版だと、大分ニュアンスなり印象がちがっていたかも知れない。
   クラウディア・カルディナーレが、実に美しくて魅力的な女優であることを再発見して嬉しかった。
   市長のドン・カロージェロ・セダーラのパオロ・ストッパ、ピローネ神父のロモロ・ヴァリ、使用人チッチョのセルジュ・レジアニ、などの脇役陣が芸達者で面白かった。

(追記)写真は、ビデオから撮ったのだが、鮮明でないので、「凸凹 Library」から借用させてもらった。
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わが庭・・・椿:ピンク加茂本阿弥咲く

2021年11月10日 | わが庭の歳時記
   玄関脇のピンク加茂本阿弥が咲き始めた。
   加茂本阿弥は、白椿の最右翼と言うべき銘椿で、抱え~椀咲きの白色一重咲き品種なのだが、我が椿は、その変種ピンク加茂本阿弥である。
   何年か前にこの椿の種を蒔いたら、実生苗が何本か生まれて、育てていたら、昨年、先祖返りなのであろうか、オリジナルの白い椿と赤い花を咲かせた椿と2本鮮やかな花を咲かせた。
   両方とも千葉の庭では植えていたので、加茂本阿弥と赤加茂本阿弥であろうと思って育てているので、今春、どんな花を咲かせてくれるのか楽しみにしている。

   紅茜、久寿玉が咲き続けている。
   
   
   
   

   強剪定で切り戻したので、咲かないと思っていたエレガントみゆきに、いくらか蕾が着いて、花が咲き始めた。
   園芸店の見本写真では、秋には、春の桜に負けないくらい優雅に咲いているのだが、わが庭では、まだ、小木なので、そうはいかない。
   わが庭に、他の桜の木は、菊垂れ桜が植わっているのだが、桜は普通の民家の狭い庭では可哀想で、公園など広い空間でないとダメなのであろう。
   しかし、昔千葉の庭で、八重桜の普賢象を植えていたが、あの豪華な優雅さは捨てがたかったのを覚えている。
   
   

   遅ればせながら、イングリッシュ・ローズのモリニューが咲いている。
   
   
   

   小菊、ハナミズキ、キウイ、モミジ、秋の風情である。
   強風で、三河雲龍の鉢が飛ばされて壊れた。
   カマキリが、花木の枝を這う。
   
   
   
   

   
   
   
   
   (追記)今日、Microsoftから、Windows11へのアップグレード可能とのシグナルが入ったので、アップグレードした。
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今回のCOP26は今までとは違うのであろうか Will This COP Be Different?:ケネス・ロゴフ

2021年11月09日 | 地球温暖化・環境問題
   『国家は破綻する――金融危機の800年』の著書ハーバードのケネス・ロゴフ教授のプロジェクトシンジケートの論文
   Will This COP Be Different? Nov1,2021 Kenneth Rogoff, を考えてみる。

   まず、ログフ教授の論文の概要は、次の通り。

地球温暖化を1.5度以下に維持すると言うことは、可能であろうが非常にハードルが高い。
グラスゴーのCOP26で、グリーンエネルギー源について議論は沸騰しているが、パリ協定にも拘わらず、現下では、いまだに、化石燃料へのグローバルエネルギー依存率は80%だと言う事実を看過できない。多くの国家の経済が、パンデミック以前の状態に回復していないにもかかわらず、2021年には史上2番目に高い炭酸ガス排出量を記録している。
IEAの世界エネルギー見通し2021年版では、地球温暖化を制限するために何ができるかに重点を置くことによって楽観的なノートを出している。

しかし同時に、「ドアを摂氏1.5度に開いておく」には、非常に多くの可動部分、革新、適応、そして、犠牲が含まれており、ほとんどのエコノミストが必要だと考えているグローバルな炭素価格なしで、どのように機能するかのを見通すのは難しい。特に、炭素税は、国家計画者が単に達成できない方法で、排出削減の取り組みにインセンティブを与えて調整し、それに応じてリソースを割り当てる。

炭素税の考えは、米国では依然として政治的な難問である。それは最近の予算交渉で一時的に議論されたが、即時却下された。代わりに、バイデン大統領は、電気自動車への移行や化石燃料開発の終結など、良いアイデアではあるが、炭素税よりもはるかに高価で効率が悪い措置を推進せざるを得なかった。

EUは、排出量取引システム(炭素税に代わるキャップ・アンド・トレード・オプション)を導入して、炭素プライシングへの進展を遂げた。それでも、このスキームは現在、EUの温室効果ガス(GHG)排出量の約50%しかカバーしておらず、残りの多くは手付かずである。

その後、新興国や低所得国の政策立案者は、気候変動対策のために自国の経済発展を減速させるリスクを求められると、非常に皮肉に反応するのも不思議ではない。彼らの多くは、代わりに、地球規模の気候協定が、総ての国に、一人当たりの排出量を同様のレベルに達成すべくプッシュしないのかと疑問を呈している。

世界の炭素税が魔法のように通過したとしても、世界は、発展途上国に、将来の主要な排出国にならないように、資源とノウハウを与えるべきメカニズムを必要とする。私は、技術的な専門知識を収容し、ベストプラクティスの交換を促進し、低所得国へ数千億ドルの助成金と融資を促進する専用の世界炭素銀行を設立するという考えを推進した。

途上国からのバイインは不可欠です。世界のCO2排出量の30%を占める石炭は、インドや中国などの国々で安価で豊富に産出する。21カ国が石炭火力発電の段階的廃止を約束しているが、ほぼ総てがヨーロッパ諸国であり、世界の石炭火力発電所の約5%しか占めっていない。しかし、中国単独で、世界の石炭火力発電の半分を占めており、ヴェトナムなど他の諸国が自身で更に石炭発電所を作ろうとしている。
さらに、炭素税があっても、規制当局は、風力タービンを建設できる場所、従来の石炭火力発電所の段階的廃止方法、移行エネルギー源として天然ガスをどの程度使用できるかを決定するなど、無数の問題に取り組む必要がある。
風力と太陽光は断続的なエネルギー源であるので、原子力発電を強化するための新たな強い推進の動きがある。これは、大規模な発電所と原子力潜水艦で使用されている小規模発電機の両方を構築しようと、はるかに安全な近代的な技術を使用することを目論む。

緑の政党はそのような考えに固執するかもしれないが、気候リテラシーはエネルギーリテラシーと融合させる必要がある。2050年までに「ネットゼロ」のCO2排出量を達成するためには、その時には世界人口が現在よりも20億人増加している可能性があるので、諸種のの困難な選択が必要となる。
政策立案者や国民にこれらの選択に立ち向かうよう説得することは容易ではない。今夏風が不足して、ヨーロッパに、現在のエネルギー危機を知らしめたので、指導者達に、ロシアのプーチン大統領に、より多くの天然ガスの供給を期待させた。同様に、エネルギー価格が今年の冬に高騰しているので、バイデンは、彼の政権が国内の化石燃料生産を減らそうとしているにも拘わらず、OPEC諸国に、石油の増産を求めている。

化石燃料投資の資本を遮断することを目的とするESG投資は大流行しており、しばらくは、良好なリターンを示していているのだが、エネルギー価格が再び急騰すると、そうではなくなるかも知れない。いずれにせよ、米国やオーストラリアを含む先進国が化石燃料探査を禁止したとしても、発展途上国は、自国のCO2排出資源の搾取を拡大する強力なインセンティブを持ち続けることになろう。

IEAは、たとえ困難なターゲットであろうとも、地球温暖化を達成可能な目標として摂氏1.5度に制限しようと考え続けようとしていることは励みになる。残念ながら、この目標を達成するための政治的努力が、科学者が地球がどうなるかを語るのと同じように、同じくらい速くヒートアップするかどうかは、非常に問題である。
したがって、気候サミットに関しては、COP26が魅力的な結果を示すことを願うのみである。

   多少の誤訳はあるかも知れないが、以上がロゴフ教授の見解である。
   一般的な考え方の叙述なので、新鮮味はないのだが、カーボンプライシングでの多少の進展があったとしても、私が、地球温暖化や環境問題について、このブログで書き続けてきたことから殆ど進展がなく、グローバルベースの無為無策の対応が続いているだけで、どんどん、状況が悪化して行って、このままでは、煮えガエル状態のまま、タイムアウトしてしまうような気がして仕方がない。
   トランプのような徒花が咲いて軌道を外し、やっと4年後に、バイデンが登場して焦っても、環境対策予算が暗礁に乗り上げ、中国やロシアが欠席するCOP26で、どんな実りある進展が見られるのか、期待出来そうにないように思う。
   人類が自分自身で地球温暖化を悪化させて、地球を窮地に追い込んでエコシステムを破壊し、世界中で、今までに経験したことのないような破壊的かつ壊滅的な異常気象に叩かれて呻吟しているにも拘わらず、殆どの人には、目に見えた形で死地を彷徨うような経験がないので、まさに他人事。
   早く目覚めないと、宇宙船地球号が壊れてしまう。
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アメリカ民主主義とソフトパワーAmerican Democracy and Soft Power:ジョセフ・S・ナイ・Jr.

2021年11月07日 | 政治・経済・社会
   シンジケート プロジェクトのJOSEPH S. NYE, JR.の論文American Democracy and Soft Power Nov 2, 2021について考えたい。

   バイデン大統領は、COP26で各国の指導者たちから、ドナルド・トランプ大統領によって米国のソフトパワーがどれほどひどく損害を受けたかを尋ねられたが、確かに、トランプが修復必須の民主的規範をないがしろにしたけれど、アメリカ文化は、悲観主義者がしばしば過小評価している大きな回復力源resilience を保持している。ヨーロッパの知人も、アメリカのハードパワーの低下を心配していたが、一方、今、内部で何が起こっているのか、そしてそれがアメリカの外交政策の根底にあるソフトパワーにどのような影響を与えるかについて、もっと心配していたが、その心配は当たっていない、と言うのがナイ教授の見解である。

   一部省略しながら、ナイ教授の見解を、まず、紹介すると、
   賢い政治指導者は、価値が力を生み出し得るのだと長い間理解してきた。米国のソフトパワーは、他の人にとってそれらが魅力的であるかどうか、アメリカの文化と外交政策に依存している。それはまた、米国人の価値観と国内で民主主義をどのように実践しているかその方法にかかっている。
   国際的な世論調査が示すように、ドナルド・トランプ大統領の任期中はアメリカのソフトパワーにとっては好ましくなかった。これは、同盟国や多国間機関を敬遠したトランプのネイティビスト外交政策や、COVID-19パンデミックに対する彼の政権の無能な対応に対する反応によっていた。
   しかし、米国のソフトパワーにさらにダメージを与えたのは、2020年の選挙で敗れた後、政治権力の秩序ある移行を混乱させようとしたトランプの所業であった。そして、2021年1月6日、共和党のベン・サッセ上院議員が米国議会議事堂の侵略を述べたように、自由世界の指導者が憲法への誓いの義務を果たすべく、副大統領が宣言を行おうとしたときに、暴徒の乱入で、世界で最も偉大な自治の象徴が蹂躙された。

   アメリカの同盟国や他の国々はショックを受け、アメリカの魅力は一気に下落した。米国のソフトパワーは回復できるのかだが、このようなことは初めてではない。     
   米国は深刻な問題を抱えているが、過去には、それを何度も救った回復力と改革の能力があった。1960年代、アメリカの人種差別のレガシーが大規模な都市暴動を引き起こし、ベトナム戦争に対する抗議が暴力的になった。大学や政府の建物で爆弾が爆発した。州兵はケント州立大学で学生の抗議者を殺した。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアと2人のケネディ家の暗殺を眼前にした。ジョージ・ウォレスのようなポピュリズムのデマゴーグが、憎しみの炎をあおった。しかし、10年以内に、議会は一連の政治改革を制定し、ジェラルド・フォードの正直さ、ジミー・カーターの人権政策、ロナルド・レーガンの楽観主義が、アメリカの魅力を回復するために貢献した。
   さらに、ベトナムへのアメリカの政策を非難する抗議者が世界中の大通りを行進しても、彼らは「インターナショナル」よりも「We Shall Overcome」を歌う可能性の方が高かった。公民権運動の国歌は、アメリカへの誘いは政府の政策ではなく、市民社会と自己批判と改革の能力に大きく依存していることを示した。

  軍事力などのハードパワー資産とは異なり、多くのソフトパワーの源は政府とは別であり、政治にもかかわらず他を魅了する。ハリウッド映画やポピュラー音楽は、自立した女性や権限を与えられたマイノリティを紹介し、他の人を引き付けることができる。アメリカの多様で自由な報道、財団の慈善活動、大学での調査の自由もそうであり、アメリカの企業、大学、財団、教会、抗議運動は、ソフトパワーを開発し、他の人々のアメリカへの国家観を強化する可能性がある。
  しかし、平和的な抗議行動はソフトパワーを生み出すことができるが、1月6日の国会議事堂とその周辺の暴徒は平和とは程遠かった。その日の出来事は、トランプが政治的二極化を悪化させた手法の不穏な表れであり、彼は盗まれた選挙の神話を共和党のリトマス試験にし続けている。
  確かに、米国は2016年にトランプが選出される以前から政治的二極化の拡大を経験していた。トランプが編み出した新しい手法は、GOPを支配する政治的武器としてネイティビストポピュリズムを利用し、悪化させることであり、彼の支持者からの挑戦の脅威で、議会共和党を苦しめた。多くの人はまだ2020年の選挙に関する彼の嘘に反対することに恐怖を感じている。幸いなことに、連邦制度では、多くの州当局者や議員が、彼らに、トランプ票を探せと脅迫するトランプの努力に立ち向かった。一部の悲観論者は、これが続くことができるかどうかを心配している。

   アメリカの民主主義の終焉を悼む人々にとって、2020年の選挙における前例のない高い投票率が、デマゴーグを蹴落としたことを覚えておくことが重要である。そして、選挙の結果は、トランプの任命者の一部を含む独立した司法によって監督された60以上の裁判で支持され、そして、最終的に議会によって認定された。
   これは、すべてがアメリカの民主主義がうまくいっているという意味ではない。トランプ大統領は様々な民主的規範を侵した。二極化は続き、ほとんどの共和党議員は選挙に関する彼の嘘を信じている。ソーシャルメディアのビジネスモデルは、ユーザーの「エンゲージメント」を引き出すことで利益を得るアルゴリズムに頼ることによって、既存の二極化を悪化させ、FacebookやGoogleのような企業は、世論や議会の公聴会からの圧力を受けて、ゆっくりだが、それに対応し始めている。
   同時に、アメリカの文化には、過去の悲観主義者が過小評価してきた回復力の源が、まだ残っている。報道の自由、独立した裁判所、平和的な抗議の権利は、アメリカのソフトパワーの最大の源の一つである。誤った政府の政策がアメリカの魅力を低下させるとしても、自己反省と自己修正の能力は、より深いレベルで他の人にとって魅力的である。私が懐疑的なヨーロッパの友人に言ったように、価値観は世代とともに変化し、若い世代は希望の源である。
   と、ナイ教授は締めくくっている。

   これまで、このブログで、ナイ教授の見解について何度も書いてきたが、徐々に、覇権の後退とアメリカンパワーの凋落を感じさせてきており、外交政策の変更を色濃く感じる。
   以前には、ハードパワーや同盟関係についてもアメリカ優位を論じ、ハードパワーとソフトパワーが上手く調和したスマートパワーについての著作を著していたが、今回の論文では、ソフトパワーに集中している。

   さて、現在は、世界の歴史観は勿論のこと、文化文明論も総て欧米中心で展開されているのだが、5千年の歴史を持つ中国が、起死回生を図り、インドが蘇ることに成功すれば、ギリシャローマ文化文明やキリスト教文化も、一気に影が薄くなるであろう。
   アンガス・マディソンが説く如く、18世紀中葉までは中国インドの天下であって、欧米文化文明が覇権を握ったのはほんの一瞬、
   現在は、欧米からアジアへと中心が回帰しつつあると言う。
   李白、杜甫を掘り起こすだけでも、中国のソフトパワーは、並の欧米文化を凌駕する筈。
   中国の2149年の100年マラソン計画の実現は、もう、目の前である。
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わが庭・・・椿:久寿玉咲く

2021年11月05日 | わが庭の歳時記
   少しずつ、椿が咲き始めていて、久寿玉が咲いた。 
   私の庭には珍しい吹き掛け絞りの花である。
   園芸店の説明によると、
   淡桃地に紅吹掛絞八重~牡丹咲大輪 10月~3月咲。中秋から咲き始める、花形は八重~牡丹咲と変化に富む。
   愛知産で、尾張徳川に愛されていたという。

   長い間椿を育てていると、椿への趣向も変ってきて、最近では、複雑に交配されて豪華に品種改良された洋椿が多くて、単色の椿ならピュアーな色彩のしっかりした椿を育てるように変ってきている。
   この椿は、タキイの通販でセットで買ったので、その中に入っていたのであるが、今では、庭にバリエーションを加えてくれていて、そのシックな花姿に満足している。
   
   
   

   秋色が濃くなってきた。
   モミジの紅葉はまだだが、残っている柿やハナミズキの葉が、夕日に映えている。
   バラが、咲き続けている。
   
   
   
   
   
  
   この数日、最高20度前後で秋晴れに近い日が続いているので、午後には、庭に出て本を読んでいる。
   殆ど葉の散ったヤマボウシの木漏れ日を背にして、2~3時間なのだが、非常に気持ちが良い。
   途中、休憩を兼ねて、たわわに実ったミカンを収穫したり、植え替えの遅れた椿の苗の鉢増しをしたり、徒長枝を剪定したり・・・思いつきで、趣味と実益を兼ねてガーデニングのまねごとをしている。
   徒然なるままの私の憩いの一時である。
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