熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ウォルター・アイザックソン著「イーロン・マスク上下」

2024年04月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ウォルター・アイザックソンの著作を読んだのは、「スティーブ・ジョブズ」と「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と、この「イーロン・マスク」で3作目だが、イーロン・マスクを徹底的に調査研究して余すところなく現代屈指のイノベーター、アントレプレナーとしての偉大な足跡を活写していてまさに驚異を覚える。

   マスクの凄さ偉大さについて、一つだけ例証すれば十分で多言は要しないであろう。
   それは、火星に行きたいとして立ち上げたスペースXの物語である。
   2008年、艱難辛苦を乗り越えて、3回失敗し4回目の打ち上げで、ファルコン1が、民間が独自で開発したロケットとして初めて、地上から打ち上げて軌道に到達したのである。マスク以下、わずか500人で一から設計して、製造も総べて自分たちでやった(ボーイングは、当該部門だけで5万人を擁している)。外部に委託したところはないに等しい。資金も民間だ――大半はマスクのポケットマネーだから。NASAその他とミッション契約は結んでいるが、成功しなければお金は払われない。補助金もなければ実費精算という話もない。
   そして、マスクは、「これは長い道のりの第一歩にすぎない。来年はファルコンを軌道まで打ち上げる。宇宙船ドラゴンも開発する。そして、スペースシャトルの後継になるのだ。やることはまだある。火星にだって行かなければならない。」と言った。
   その年の12月、NASAから、国際宇宙ステーションまで12往復、16億ドルの契約がスペースXに与えられた。

   2020年5月、クルードラゴン宇宙船を頭に付けたファルコン9ロケットがNASAの宇宙飛行士を乗せて、国際宇宙船を飛び立った。
   宇宙飛行士を国際宇宙船まで運べるロケットを開発する契約をスペースXと結んだが、NASAは同日付で、同等の契約を予算60%増しでボーイング社と結んでいる。だが、このスペースXがミッションを達成した2020年、ボーイングは、国際宇宙船ステーションと宇宙船の無人ドッキング試験さえ出来ていなかった。

   マスクは、今や、このスペースXに加えて、テスラ、X Corp.(旧:Twitter)ほか幾多の最先端の企業を経営するイノベイティブな企業家でもあるが、壮大なミッションを掲げて、完遂するためにはドンドンハードルを引き上げて行き、一切の妥協や怠慢を許さず、スタッフを叱咤激励して、突っ走り続けている。
   若くして逝ったスティーブ・ジョブズと並ぶ希有の天才起業家だが、まだ、若いので、この21世紀をどのような別天地に変えてくれるのか、夢は尽きない。

   さて、私が強烈に感じたのは、前述の逸話から、マスクの事業から比べれば、ボーイングでさえ、ゾンビ企業に過ぎないと言うことである。況んや日本の企業をやである。
   現代資本主義が危機だと言われ、日本企業の凋落が問題視されているが、マスクを思えば、そんな悪夢は飛散霧消する。
   国際競争力を失墜しつつある日本企業の経営者が、せめても、このアイザックソンのマスクの本や「スティーブ・ジョブズ」を、ケーススタディの教材として、経営戦略や戦術を、真剣に練り直せば、如何に有効か。
   格好のイノベーション戦略論でもあり、攻撃の経営学本でもある。

   勿論、上下で900㌻にわたる大著なので、多くの驚異的な逸話やストーリーの連続で、マスクとビルゲイツやジョブズ、ベゾス等との絡みなども興味深く、マスクも凄いが、アイザックソンの博学多識の筆の確かさにも舌を巻く好著である。
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ボッカッチオ「デカメロン」

2024年04月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ボッカッチョ (著), 平川 祐弘 (翻訳)の「デカメロン」を読んだ。

   講談社BOOK倶楽部の、田辺聖子の「ときがたりデカメロン」の内容紹介が、「デカメロン」を的確に説明しているので、そのまま引用すると、
   悪党、若妻、修道僧、騎士などの多彩な人物がおりなす性と笑いの物語。大胆に官能を楽しむ笑いと愛の物語ーー機知ある悪党、不倫の若妻、女色にふける修道僧、強情が仇となる人妻、悲恋の王子と王女、復讐された高慢な未亡人、自分に克った聡明な老王など、多彩な人物が、人間の欲望を大胆に肯定し、愛と正義の与える不思議な力で、官能的生を楽しむ永遠の名作。男女のリアルな生活とその美醜をあますところなくとらえ、機智と哀歓に満ちた一幕として明るい笑いとともに、人間性を開放した、ルネサンス期の傑作の楽しい物語。当代随一の作家が、美しい言葉で面白く説き語る愛の物語集。永遠に新鮮な古典の親しみやすい説き語り。
   と言うことで、まだこの本は読んでいないが、平川版のこの本で、頻繁に引用されて居るので興味を持った。

   平川版も、
   世界文学の金字塔! 待望の新訳決定版、ついに完成! いま、清新なルネサンスの息吹が甦る!
   ペストが猖獗を極めた十四世紀イタリア。恐怖が蔓延するフィレンツェから郊外に逃れた若い男女十人が、おもしろおかしい話で迫りくる死の影を追い払おうと、十日のあいだ交互に語りあう百の物語。人生の諸相、男女の悲喜劇を大らかに描く物語文学の最高傑作が、典雅かつ軽やかな名訳で、いまふたたび躍動する。挿画訳60点収録。
   と言うことで、この本は、2012年刊で休刊であるが、今文庫版がでている。
   平川祐弘教授のダンテ「神曲」や「神曲講義」などを読んで興味を持っていたので、文句なしに、800㌻に及ぶ平川版に挑戦することにした。

   前述したような艶笑談が、最初から最後まで、次から次へと100篇繰り広げられるのであるから、面白いと言うよりも、その話題の豊かさと凄まじさに圧倒される。
   語り手すべてが、バージンで結婚する乙女など一人もいないと言うほどオープンなルネサンス初期のイタリアの人生模様の描写であり、生きる喜びを愛に託して謳歌するために、人々の智慧と機転を利かせての手練手管の数々、
   一つ一つの話題が短いながら、独立した短編小説の趣なので、それぞれに興味をそそる。

   ところで、この本の話題は、どれもこれも、愛の交歓、恋の鞘当て、愛憎劇など男女の物語で、プラトニックラブや片思いと言った柔な話はなく、必ずコトに及ぶのだが、描写は極めてシンプルで、嫌みがなくて、ボッカッチオの筆捌きの鮮やかさで、クスリと笑いを誘う程度である。
   前世紀に日経新聞の渡辺淳一の「失楽園」を読み始めて、その性描写の凄まじさにビックリした記憶があるが、それから見れば、この「デカメロン」など温和しくて、発禁本などと言えるジャンルの作品ではない。
   
   第二日第七話に、バビロニアのサルタンの娘アラティエルをアフリカのガルボ国王の花嫁として嫁がせるせる話がある。
   ところが、航行途中で船が難破して、言葉も通じない異国に辿り着き城主に助け出される。貞操観念が強かったが、宴会でたしなみを失って城主と契る。その時の描写が、「城主は女と愛の楽しい営みを始めた。女はそれを感じた。それまで男がどんな角で女の体を突くのかアラティエルは知らなかった。それなものだから、ひとたび醍醐味を味わうと、なぜ今まで男が言い寄った時、もっと早く同意しなかったのかと悔やまれたほどであった。」
   途中は省略するが、アラティエルはあまりにも美しすぎたので、それが知れ渡って、次から次へと略奪、拉致されて不幸に遭遇し続ける。
   しかし、最後には、「4年間に8人と一万回ほど共寝した姫であったが、国王の脇に処女として横になり、そのとおり国王に思い込ませて、王妃として末永く幸多く国王と連れ添った。」と言う話。

   面白いのは、邪恋であろうと不倫の愛の交歓であろうと何であろうと、愛が成就したハッピーエンドの艶笑話の最後には、
   「神様、私たちにも同じように愛の楽しみを存分にお与え下さいませ。」と結んで、皆も同意する。

   ところで、このデカメロンだが、エログロナンセンスの悪書だと思われている向きもあるが、決してそうではなく、ダンテの「神曲」の対極にある愛を主題にした世俗小説であって、
   私など、実業でビジネスに活躍したボッカッチオの見た地中海世界や知見で蓄えた当時の勃興期のヨーロッパの様子が垣間見えて興味深かった。
   しかし、面白いが、このような艶笑談を、延々と続けられると、途中で飽いてくるのは必定で、これも人情かも知れない。と思う。
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ボッカッチョのデカメロンを読もうと思う

2024年03月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ボッカッチョのデカメロンを読もうと思って、平川 祐弘 訳の「デカメロン」を買った。
   2012年刊で古書しかないので、「日本の古本屋」でネットショッピングした。幸いにも新本で、少し安く手に入った。
   定価6600円、800ページ近くの大著で、
   いま、清新なルネサンスの息吹が甦る!
ペストが猖獗を極めた十四世紀イタリア。恐怖が蔓延するフィレンツェから郊外に逃れた若い男女十人が、おもしろおかしい話で迫りくる死の影を追い払おうと、十日のあいだ交互に語りあう百の物語。人生の諸相、男女の悲喜劇を大らかに描く物語文学の最高傑作が、典雅かつ軽やかな名訳で、いまふたたび躍動する。挿画訳60点収録。と言う本である。
   
   「デカメロン」については、好色本と言ったあまり評価の高い本ではないという認識しかなくて避けていたのだが、
   平川裕弘のダンテの「神曲」や「神曲講義」などを読んでいると、ボッカッチョはダンテの権威であり崇拝していて、「神曲」と甲乙つけがたい貴重な本だということなので、より当時の時代背景なども知りたくて、読むことにしたのである。
   「デカメロン」は、「三つの指輪」や「鷹の話」など断片的には知っている程度で、直接には全く読んだことがないので、100話をどう読むか、
   毎日読書を続けている専門書の合間に、2~3話ずつ拾い読みしていくのがよさそうである。

   まず、予備知識として、平川教授の「解説」を読んでみた。
   70ページに及ぶ詳細で丁寧な解説で、ダンテ「神曲」でも重宝したのだが、今回も周辺知識の補強に役に立つ。

   まず感じたのは、宗教に対する両者の違い、
   宗教の退廃について、ダンテは強く糾弾しているのだが、それよりも危険なのは、ダンテ本人を含むキリスト教至上主義者の態度そのものにあるとして、ボッカッチオは、堕落腐敗よりも更に大事な問題点である原理主義的徹底性の危険性を自覚していたのではないか、と述べている。
   ダンテはキリスト教西洋最高の詩人であり、一方ボッカッチオはヨーロッパ最大の物語作家で、ダンテに傾倒しながら、それでいて畏敬の念の奴隷にならなかった。この両作品を一望の下におさめるに当たって偏狭な信仰の目隠しを脱して広角の文化史的パノラマの中に初期ルネサンスの詩と散文を享受し得る。と言うのである。

   ボッカッチオは、国際政治についても、地中海貿易の実務に携わっており、キリスト教世界内部の「正論」を声高に唱えたりはせず、キリスト教徒とユダヤ教徒とイスラム教徒の平和共存を主張していた。 死後の生命よりも生きている間の方が大切であり、寛容を穏やかな声でわらいをまじえながら語った人だったのである。
   寛容はキリスト教の教義からではなく、地中海世界での実際の平和共存と言う生活様式の問題として主張されるようになり、良識派の人々が主張しかねていたのを、ボッカッチオが、巧みな物堅い形式を借りて「デカメロン」で書いた。
   人間の良さも悪さも知り尽くして、その上で滑稽な話、哀れ深い話、またふしだらな艶笑談も書いて、自分で笑い、人をも笑わせる人間性の豊かな人であったので、ダンテのように当世の堕落を告発する義憤癖にはついて行けなかった。 他人の退廃を糾弾する自己正義的な態度の潜む倨傲をいちはやく察していた。理想を掲げる人は得てして相手を侮蔑するひつようにせまられるがその種の正義感を片腹痛いものに思っていたに相違ない。と述べている。

   蛇足ながら、私は、欧米などのめぼしい博物館や美術館を回って沢山の絵を見てきたが、ダンテの「神曲」やギリシャ神話や聖書などをテーマにした絵画作品を結構観てきたものの、「デカメロン」を扱った作品を観たことがない。やはり、艶笑話などの所為なのであろうか。
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フランシス・フクヤマ 著「リベラリズムへの不満」

2024年03月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   本書の帶に大書された『歴史の終わり』から30年。自由と民主主義への最終回答。と言うこの本。
   日本語版のタイトルが誤解を招くのだが、原題は「Liberalism and Its Discontents」で、「リベラリズムとそれに対する不満」である。
   著者は、序文冒頭で、「この本は、古典的リベラリズムの擁護を目的としている。」と述べている。
   ここでは、マクロスキーの「人道的自由主義」を指しており、法律や究極的には憲法によって政府の権力を制限し、政府の管轄下にある個人の権利を守る制度を作ることを主張している。と言う。
   近年、リベラリズムが右派のポピュリストや左派の進歩派から激しい攻撃を受け、深刻な脅威にさらされているが、それは、その原理に根本的な弱点があるからではなく、この数十年の間のリベラリズムの発展の仕方に弱点があるからで、たとえ欠点があったとしても、平等な個人の権利、法、自由が基本的に重要であるリベラリズムは、非リベラルな代替案よりも優れていることを示したい。として、
   リベラルな体制を支える基本原則に焦点を絞り、欠点を明らかに、それに基づいて、どう対処すべきか提案する。と論陣を張る。

   興味深いのは、リベラリズムは「民主主義」に包含されているが、
   「民主主義」は、国民による統治を意味し、普通選挙権を付与した上での定期的な自由で公正な複数政党制の選挙として制度化されている。
   リベラルとは、法の支配を意味し、行政府の権力を制限する公式なルールによる制度である。として、世界大戦後普及した制度は、「リベラルな民主主義」と言うのが適切だという。

   この本は、私にとっては、リベラル史を縦軸にした政治経済体制史と言った感じであったのだが、興味があったのは、経済的側面で、
   歴史的に見れば、リベラルな社会は、経済成長の原動力であり、新技術を創りだし、活気に満ちた芸術と文化を生み出した。まさにリベラルであったからこそ起ったことである。と言う指摘。
   その例はアテネに始まって、イタリアルネサンス、そして、リベラリズムのオランダは17世紀に黄金時代を迎え、リベラリズムの英国は産業革命を起し、リベラリズムのウィーンは絢爛豪華な芸術の華を咲かせ、リベラリズムのアメリカは、数十年にわたって閉鎖的な国々から難民を受け入れながら、ジャズやハリウッド映画からヒップホップ、シリコンバレーやインターネットに至るまで、グローバル文化を生み出す地となった。

   面白いのは、経済思想におけるリベラリズムが極端な形で行き過ぎた「ネオリベラリズム(新自由主義)」への変容で、
   ミルトン・フリードマンなどのシカゴ学派・オーストリア学派が、経済における政府の役割を鋭く否定して、成長を促進して資源を効率的に配分するものとして自由市場の重要性を強調した。
   更に進んで、国家による経済規制を敵視し、社会的な問題についても国家の介入にも反対し、福祉国家にも強く反対する「リバタリアニズム(自由市場主義)」の猛威。
   市場経済の効率性については妥当だとしても、それが宗教のようになって国家の介入に原理主義的に反対するようになった結果は、世界的金融危機を引き起こし、経済格差の異常な拡大など資本主義経済を危機的な状態に追い込んだ。

   興味深い指摘は、新自由主義イデオロギーがピークに達した時に崩壊した旧ソ連は、その最悪の影響を受けたこと。中央政府が崩壊すれば、市場経済が自然に形成されると多くの経済学者は考えた。透明性、契約、所有権などに関するルールを強制できる法制度を持った国に厳格に規制されてこそ市場は機能することを理解していなかった。その結果、ずる賢いオリガルヒに食い荒らされ、悪影響は現在も、ロシア、ウクライナなどの旧ソ連圏の国々で続いている。と言う。「歴史の終わり」の裏面史で面白い。

   フクシマの本は始めて読んだのだが、私の専門の経済や経営の分野ではないので、思想家や哲学者たちの学説や専門用語などが出てきて、多少戸惑いを感じた。
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ヘイミシュ・マクレイ :2050年の日本は?

2024年03月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、ヘイミシュ・マクレイの「2050年の世界 見えない未来の考え方」について、「日本は2050年にも第4位の経済大国」という見解について書いた。
   日本経済についてだけの見解であったので、今回は、全般的な著者の未来展望について考えてみたい。
   かなり、独善と偏見があるので、多少は割り引いて考えるべきだと思うが、ほぼ正鵠を射ているので参考にはなろう。

   まず、日本は、地球上で最も高齢な社会となっていて、高齢化する先進世界の先頭を走っている。高齢化は更に進み、2050年には人口が1億人前後まで減り、労働力は総人口以上に速いペースで減少するため、高齢者がより高齢な人の面倒を見る国になる。
   大規模な移住があれば人口の減少は抑えられるが、他の国が混乱すればするほど国境を閉ざし、国民同士の自助強力の国民性が根付いており、そうはならず、外を見ずに内向きになり、日本は日本であり続ける。
   経済規模は相対的に小さくなっていくが、世界第4位の経済大国を維持し、西側連合の一員としてアメリカとの同盟関係は揺るがず、製造大国であり続けて、世界中に物理的資産や金融資産を保持し続ける。
   日本の文化は他の国々に強い影響を与え続け、高齢化に直面する他の社会の手本として、高齢化社会のパイオニアとして貢献する。

   問題は、日本は真のテクノロジーの座を維持出来るのかであるが、今の高い技術力は、1世代前に培われたスキルの上に成り立っている。日本はソフトウエアよりハードウエアに強く、輸出可能なサービスよりも輸出可能な財の生産を得意としているが、家電でリーダーだった時代は終り、世界をリードする自動車セクターの重要性も相対的に低下傾向にあり、日本の大学はレベル自体は高いものの、そこに学びに行く外国人は少ない。
   国民は文化生活を送っているが、経済のほとんどの分野で世界の最先端から遠ざかっている。
   イノベーションの歌を忘れたカナリア、国際競争力を喪失した日本企業の惨状が悲しい。

   第二の懸念は、国の財政状況、過剰債務の問題である。
   日本は、すでに公的債務の対GDP比が世界の主要国の中でも最も高く、これからも上昇し続ける。この状況は持続不可能で、どの様な形態のデフォルトになるかは分からないが、次の30年のどこかで、債務を再構築しなければならない。
   労働力が急速に縮小する中で、対GDP比で世界最大の公的債務残高は維持出来ないし、日本社会は強靱だが、混乱と痛みを伴わずに公的債務問題を解消できるとは思えない。と言う。

   これまで、何度か論じてきたので蛇足は避けるが、成熟経済に達した日本は、生産性のアップによる経済成長を望み得なくなっている以上、経済成長による債務返済は殆ど絶望的なのだが、
   MMT/現代貨幣理論に従えば、
   「自国通貨を発行できる政府は財政赤字を拡大しても債務不履行になることはない」ということであるから、ケインズ政策の実行などやむを得ず過剰債務になっても、心配はないと言うことであろうか。
   財政金融問題についての知識も乏しいし、まだ、MMT/現代貨幣理論については、半信半疑なので、何とも言えないのだが、
   債務の返済を考えれば不可能であろう、しかし、日本の異常な公的な過剰債務にも拘わらず、日本経済はビクともしていない。金利は払うとしても、このまま、塩漬けして債務償却を考慮しなければ、問題がないような気もしている。
   余談ながら、片山さつき議員と岸田首相が、今日の国会で、名目GDP1000兆円論議を展開していたが、30年間も500兆円台でアップダウンし続けて600兆円越えさえ難しいのに、馬鹿も休み休みに言え、と言っておこう。

   第三の懸念は、地政学の問題である。
   日本は内向きになりすぎて、力を増す中国に対抗する勢力にはなれない。自分の領土は防衛するが、中国の領土拡大を止める盾には加わらない。
   中国は、自国の固有の領土であるとする地域を占領すれば、そこで踏みとどまる、いずれにしても、中国の領土拡大の野望はやがて潰えると言うのが本書の大きなテーマの一つなのだが、東南アジアの近隣諸国の間の緊張を日本が傍観するとしたら、不安を感じずにはいられない。と言う。

   結論として、日本は2050年も結束力のある安定した社会であり続けるが、世界にあまり関心を持たない。国を閉じようとはしないが、相対的には犯罪の少ない環境や清潔さ、秩序を大事にする。と言う。
   島国には、世界に目を向けて、支配するとまでは行かなくても、少なくとも影響力を行使しようとする道を選べるし、世界への扉を可能な範囲で閉ざそうとすることも出来る。1950年から90年代までの40年ほどは、日本は前者の道を選んだが、今世紀に入ってから、日本は後者の道を選んでいる。日本は2050年までその道をひた走って行くだろう。と言うのである。

   日本は内向きで閉鎖的で世界に向かって国を閉ざしていると言うのは、極論過ぎるとは思うが、昔、ドラッカーが、日本はグローバリゼーションに対応できていないと言っていたのを思い出した。中印など新興国や東欧などが破竹の勢いで世界市場に雪崩れ込んで成長街道を驀進していた時期に、日本はグローバリゼーションの大潮流に乗れずに、鳴かず飛ばずで失われた経済に呻吟し続けた。
   私は、文革後の悲惨な中国や、後進状態で貧しくて発展の片鱗さえ見出し得なかった東南アジアの国々を、当時訪問していてよく知っているので、その後の目を見張るような近代化や成長ぶりや今日の偉容と、停滞し続けている日本の現状を見比べて感に堪えない。

   もう一つ内向き日本で思うのは、国際情勢に対する日本人の無関心さであろうか。
   ウクライナ戦争やガザ・イスラエル戦争等に対して、世界の各地で人々の激しい抗議デモなどが巻き起こっているが、日本では、関係者以外は我関せずで、安保騒動やヴェトナム反戦運動以外は、国民運動が盛り上がったことが殆どない。
   しかし、マクレイは、他の国が混乱すればするほど、日本人は国境を閉じるのは正しい選択だったという確信を強くする。とまで述べているのだが、これは看過出来ない。
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ヘイミシュ・マクレイ :日本は2050年にも第4位の経済大国

2024年03月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最も最新の未来論であるヘイミシュ・マクレイ の「2050年の世界 見えない未来の考え方」によると、「日本語版への序文」で、
   日本は、”世界第3位の経済大国であり、2050年にも大差の4位を維持する可能性がとても高い。民主主義の下ですべての国民が快適に生活を送っている非常に重要な成功例でもある。”
   この根拠となっているのは、2020年のIMFの推計値を元に、ロバート・バロー教授が開発したHSBCモデルで推計した「2050年の経済規模上位20か国予測」に基づいている。
   インドが第3位に躍り出るのは当然としても、中国がアメリカを抜いて第1位となり、ドイツやイギリスやフランスが日本に続いて上位を占めるのは少し疑問なしとはしない。
   ロシアを除いたBRICSやグローバル・サウスの人口大国である新興国が、成長の3要素を活用して経済成長を遂げて、成熟経済の先進国を凌駕するのは時間の問題であろうからでもある。
   いずれにしろ、多少、データが古いので、参考程度としておくことであろう。

   2月16日に「日本GDPドイツに抜かれて第4位に」を書いて、持論を述べた。
   22年の購買力平価によるGDPは、日本が6,144.60、ドイツが5,370.29(単位: 10億USドル)、実質的には、まだドイツとは大きな差があるので、円安による為替レート換算の結果だと思っている。
   しかし、ドイツとの比較は勿論、日本の労働生産性の低さが先進国でも最下位で突出しており、このままでは第4位どころか、益々、世界各国との経済成長格差が悪化して下落して行く。
   経済成長要因は、「全要素生産性の上昇(技術革新・規模の経済性・経営革新・労働能力の伸長・生産効率改善など幅広い分野の技術進歩)、労働の増加、資本の増加」の3要素なので、日本の場合、人口と資本の増加についてはあまり期待出来ないので、経済成長のためには、全要素生産性の上昇アップすることが必須である。
   特に、少子高齢化で、移民を活用しない限り、労働人口減が急速に進み経済成長の足を引っ張るので、全要素生産性上昇率と資本装備率の上昇で労働生産性を上げて国際競争力を涵養して経済の質を向上させることが重要である。
   分かってはいても、全く、このような気配はなく、鳴かず飛ばずの日本の経済が30年も続いて、いまだに先は見えず。

   ロバート・ソロー教授によると、経済成長の二つの形態は、
   フロンティアの開拓・最先端技術の開発による成長。
   キャッチアップ型、コピー・アンド・ペースト型の成長。
   前者は、未踏の新経済の開発、ブルーオーシャン市場の開発であるから正にイノベーションの世界。
   後者は、遅れた国が、ほかの国で発明されたテクノロジーを利用する方式で、新興経済国の最大の原動力で、その典型が中国。
   前者で成功を続けているのはアメリカだけで、日本も、悲しいかな、後者に成下がって、アメリカの後追い、
   良く考えてみれば、Japan as No.1の時代の成長もキャッチアップ型経済で、今までに、アメリカを凌駕して、「フロンティアの開拓・最先端技術の開発による成長」を遂げたことは、一度もなかった。

   岸田内閣の「新しい資本主義」はともかく、
   PBRを1以上指令で株価が高騰し始めたが、
   全要素生産性の上昇の担い手は、日本の民間企業であるから、特に経済団体で重要な位置を占めている企業に、創造的破壊を迫って、ゾンビ企業を排出して新陳代謝を図ることが必須であろう。
   どんな経営指標が適当かは分からないが、目標値をクリア出来ない企業に退出を迫るような多少社会主義的な経済政策をとっても良いのではないかと思っている。
   とにかく、日本企業に「創造的破壊」のエンジンを起動させない限り、日本の経済の再生はあり得ない。
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トーマス・K. マクロウ著「シュンペーター伝: 革新による経済発展の預言者の生涯」

2024年03月01日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本の原題は、
   PROPHET OF INNOVATION: Joseph Schumpeter and Creative Destruction
   イノベーションの予言者:ジョセフ・シュンペーターと創造的破壊

   京都の学生時代に、授業とは関係なく、経済成長と景気循環に興味を持って勉強していたので、真っ先に手に取ったのが、シュンペーターの「経済発展の理論」
   そして、「資本主義・社会主義・民主主義」にも手を出したが、今思えば、読んだというか目を通したと言うだけで、良く分かっていたはずがなく、当時出ていたシュンペーター関係の本や解説書などの助けを借りて、ほぼ、シュンペーターの創造的破壊などの核心部分に振れることが出来たのだと思う。
   シュンペーターの著作については、前述の2作に加えて、死後妻エリザベスの尽力で出版された「経済分析の歴史」が主著だが、恥ずかしい話、真面にシュンペーターの著作に挑戦したことが殆どない。これは、スミスやマルクスやケインズなどについても言えることで、原典を読まずに周辺知識だけで分かったような気になって、経済を論じているのに恥じ入ることがある。

   さて、このマクロウの本だが、表題の通り、創造的破壊の理論を確立してイノベーションを予言したシュンペーターの完全なる伝記で、索引と詳細な注記を含めて700㌻以上の大著であり、「景気循環論」をも含めて、膨大な著作についても解説を試みており、偉大な経済学者の生涯のみならず人間シュンペーターを語っていて、非常に啓発的である。
   はじめて、正面切って、シュンペーターに対峙した感じであるが、これまでに理解していた創造的破壊などを根冠としたシュンペーター経済学の理解に誤りがなかったことを確認出来てホッとしている。

   シュンペーターは、創造的破壊を、「資本主義・社会主義・民主主義」で次のように述べている。
   「国内外に於ける新しい市場の開拓と、職人の店や工場からUSステールなどのような大企業組織への発展は、生物学の用語で言えば、工業の突然変異と同じ過程を示している。それは経済構造を内部から休みなく革新している。古い者を不断に破壊しながら、新しい者を不断に創造しているのである。この”創造的破壊”こそ、資本主義にとって本質的な事実である。それが資本主義の存在の仕方であり、すべての資本主義の企業が生きて行かなければならない環境である。」
   殆どすべての企業は、如何に強くて成功していても必ず革新に失敗して、自動車が馬車を、電灯がガス灯を凌駕したように、新しい革新技術で装備したイノベーターの追い上げ参入によって駆逐される。責任ある実業家は、足下から崩れ落ちる地盤の上に立っていて、日々、たちまち変化することが確実な環境下で事業を行っているという教訓を無視すれば命取りとなることを銘記すべきだというのである。
   この記述の中に、既にシュンペーターは、ドラッカーの経営学の核心を暗示し、クリステンセンの「イノベーターのジレンマ」の思想的根拠を示している。

   更に、シュンペーターの偉大なところは、この創造的破壊という革新が、資本主義だけではなく一般的な物質的進歩の牽引力であると洞察していたことである。経済学という学問に一種の創造的破壊を適用したと言われているが、色々な社会現象における進化発展を考えても、創造的破壊現象は機能しており、言い換えれば、トインビーの「チャレンジ&レスポンス」の文明発展論にも相通じる思想でもあり非常に興味深い。
   また、イノベーションを起動する企業家の企業家精神を具体的に「戦略」と結びつけて経営戦略論に言及し、「ベンチャーキャピタル」という言葉をコインしたのもシュンペーターであり、アントレプレナーを論じながら、経営学の基礎を提示していて、経済学者のみならず歴史学者であり社会学者でありギリシャやローマ哲学にも通じていた博識多才の面目躍如である。

   興味深いのは、ケインズが、資本主義の変化に於ける革新の重要な役割を無視すると言う致命的な過ちを犯していたことに鑑み、シュンペーターが、おしむらくも、ケインズから重要なことを学ぶと言うことを一切しなかったことである。
   弱肉強食、盛者必衰、下克上の資本主義の本質が創造的破壊だと、経済格差の拡大をも避け得ぬ現象だと意に介せず、ダイナミズムの極致とも言うべき競争優位の資本主義経済を説き続けていたシュンペーターには、静態的で短期的なマクロ経済の均衡には興味がなかったのであろうか。
   しかし、シュンペーターの代表的弟子のサミュエルソンやトービンなどのノーベル賞学者がケインジアンだというのが面白い。
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トーマス・K. マクロウ「シュンペーター伝」(1)

2024年02月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   トーマス・K. マクロウの「シュンペーター伝―革新による経済発展の預言者の生涯」
   600㌻にも及ぶ大著で、正に、巨人シュンペーターの詳細な伝記である。
   マクロウは経営学者であるので、シュンペーターの経済学理論については踏み込んではいないが、「経済発展の理論」「景気循環論」「資本主義・社会主義・民主主義」等の大著に関しては、歴史的背景や理論展開の詳細などにも触れていて興味深い。「景気循環論」の出版が、ケインズの「一般理論」とかち合って人気をさらわれて、評価されなかったと言うのは興味深い。
   創造的破壊のイノベーション論は、シュンペーターの経済学の根冠だが、初期の大著「経済発展の理論」から、生涯にわたってシュンペーターの経済的思想のバックボーンであったことを、マクロウのこの伝記で感じ続けて感動さえ覚えた。
   
   さて、これまで、シュンペーターのイノベーションについては随分書いてきたので、書評などはおこがましく、産業革命時期の個人的イノベーターに関するシュンペーターの記述が面白いので考えてみたい。

   まず、興味深いのは、マルクスは階級構造として資本と労働の分離を説いたが、シュンペーターは、本当の分裂は新しい産業秩序の中にあると考えた。産業界の巨頭と中規模工場の所有者との大きな格差である。
   しかし、この両者に共通している特質は、その社会的地位が他の階級よりも不安定であると言うことで、「上流階級における一族の急激な変化を見ると、非常に民主的で効率的な頭脳の選択が起こっていることが明確である」。経済は能力主義の領域に入っており、それは本来的に世襲階級にとって敵対的であり、企業家精神は階級を造るものではなく機能になったのである。と説いている。
   支配階級も、強力なイノベーターの新規参入によって、瞬時に追い落とされてしまうと言うのである。

   現代の産業社会では、「階級の地位が固定しているというのは幻想である。階級の障壁はトップだけではなくボトムでも克服可能であるに違いない」。上の階級に上昇する鍵は、「個人が非伝統的な道を歩み始めることにある。これまでもずっとそうであったが、資本主義社会ではまさにそれが妥当する」。ほとんどの大企業家は労働者や職人の間から台頭している。「何か新奇なことをしたお陰であり、事実上、それが自分の階級から大躍進できる唯一の道である」。
   シュンペーターが、イギリス貴族を称讃した一因は、まさにその多様性と参入可能な性格にあった。それは動きの遅い堕落した者で構成されるウィーンの静態的な社会とは全く異なっていた。イギリスの方が、ウィーンよりずっと早く上の階級に上っていくことが出来る。と言うのである。

   重要なのは、経済は、頭脳の選択競走となって能力主義となり支配階級の地位が不安定になる下克上社会の到来と、企業家は、非伝統的な道を歩み、何か新奇なことをやる、と言うイノベーターの指摘である。
   今なら、誰でもが納得する、これこそが、シュンペーターの創造的破壊理論の骨子だが、この本を読んでいると、全編、この思想が、主旋律として変奏を繰り返しながら聞こえてくる。

   学生時代に、「経済発展の理論」と「資本主義・社会主義・民主主義」は読んだが、もう、半世紀以上も前のことで、その後、随分シュンペーター関係の本を読んできた。経済成長に興味を持って勉強し続けてきたので、当時誰もが入れ込んでいたケインズ経済学より、私にはシュンペーターで、イノベーションを勉強し続けてきた。
   大学院では、経営学に変ったが、ドラッカーやクリステンセンでも、やはり、イノベーションであった。

   今では、誰もがイノベーション、イノベーションと言って流行り言葉になっているが、随分長い間、シュンペーターもイノベーションも鳴りを潜めた時代があったが、時代が暗くなってくると、起死回生、救世主を求めるのであろうか、不思議な感じがしている。

   
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ヌリエル・ルービニ:現在の世界は20世紀初頭に酷似

2024年02月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ヌリエル・ルービニは、現在人類文明を危機に追い込みつつある10大メガスレットについて詳述し、最後に総合して、悲劇的シナリオと楽観的シナリオを書いている。残念ながら、悲観的なシナリオに陥る可能性が高いと言う。

   比較的平安無事で成長志向であった第二次世界大戦後の75年間と比べて、その前の20世紀初頭の40年間は、人類は第一次世界大戦を闘い、次にスペイン風邪のパンデミックに襲われ、脱グローバル化、ハイパーインフレ、大恐慌と続いた。そこで勢力を伸したのがポピュリズム、権威主義、軍国主義の挑戦的な体制である(ドイツはナチズム、イタリアとスペインはファシズム、日本は軍国主義)。そして最終的には第二次世界大戦とホロコーストに至った。

   丁度1世紀前のこのパターンこそが、今直面していることの予兆となるかも知れない。ただし、現在のメガスレットの方が、1世紀前の巨大な脅威より多くの点で深刻である。金融システムのレバリッジ比率は1世紀前よりはるかに高く、不平等は拡大しており、兵器はずっと危険になった。ポピュリスト政治家が多くの有権者に働きかけ扇動する手段は増えている。そして、気候変動は加速し危険水位に達している。核戦争のリスクさえ蘇ってきた。新冷戦は、武力戦争がエスカレートする危険性をはらんでいる。
   しかし、巨大な脅威はゆっくり進行するので、すぐに手を打つ必要があると感じさせないために、ことの重大性が理解されず、悲劇を回避するための対策は殆ど取られていない。と言うのである。

   さて、ルービニ教授の「メガスレット」で、20世紀初頭と違う大きな脅威は、気候変動と人工頭脳の脅威であろう。
   気候変動については、人間の営みが地球の限界に達しており、依って立つ地球環境を根こそぎ破壊しつつ、人類は死地を彷徨っていると言うことである。
   また、人工知能については、ルービニは、AIは、ほぼ多くの仕事を確実に奪うであろうと述べているが、それ以上に脅威なのは、ハラリに神になったと言わしめたホモサピエンスを、シンギュラリティの時点で知的水準においても凌駕して、人間を自由自在に支配して地球を乗っ取ると言う途轍もない脅威であろうと思う。

   ところが、悲しいかな、地球上では、想像を絶するような愚かなウクライナとガザの殺戮戦争、戦火が飛び火して、世界中の火薬庫が火を噴いており、
   日本の政界では、お粗末な次元の低い論争で政治が空転、日本の将来を見据えた高邁な理想や哲学が議論されたことが皆無の議会政治の悲しさ、
   人類は、茹でガエル状態で、死の道を奈落へ突っ走っているとしか思えない。
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ヌリエル・ルービニ:脱グローバル化は巨大な脅威

2024年01月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ルービニ教授は「メガスレット」の「脱グローバル化」の章で、何故、保護貿易政策が巨大な脅威なのかを論じていて興味深い。
   メデイアで、貿易やグローバル化に関する報道がなされると、読者を憤慨させ、自由貿易のメリットを強調しようものなら、抗議が殺到する。工場は閉鎖された、仕事はなくなった、ラストベルトはすっかり寂れて陰鬱な雰囲気、人件費の安い中国やアジアへ製造拠点が移ってしまったからだ、と言うのである。  
   トランプを大統領の座に押し上げたのは、この経済的ナショナリズムのうねりであった。

   しかし、ルービニ教授の論理は正反対。保護主義は魅力的に見えるかも知れないが、過去の例では、ほぼすべての人が経済の梯子段から転落する結果に終っており、脱グローバル化をメガスレットと呼ぶのはこのためだという。
   脱グローバル化によって、20世紀型製造業の雇用を守ろうとすれば、サービス、テクノロジ、データ、情報、資本、投資と言ったもっと大きな市場の取引、更には労働市場全般が低調になると言う形でしっぺ返しを食らうことになるであろう。脱グローバル化は経済成長を妨げ、巨額の債務への対処を困難にし、インフレひいてはスタグフレーションを導くことになりかねない。と言うのである。

   また、保護主義を唱えた国はすべて、悲惨な結果に苦しむことになった。アメリカもそうで、トーマス・ジェファーソンは、高関税は政府を潤し、国内製造業の振興に寄与すると考えたが、その結果はおぞましい不況になり、巣立ったばかりのアメリカ経済を破壊させるところであった。
   ハーバート・フーバーは、1929年の大恐慌時に、農業保護のために輸入農産物に高関税を掛けるスムート=ホーリー法で対抗して、他の産業も動揺の関税を求めるなど大騒ぎをして、経済を壊滅的な状態に追い込んだ。結局、ルーズベルトは、ケインズ政策の逆療法で、経済を救った。

   脱グローバル化は、世界の生活水準を満足なレベルまで引き上げる可能性を閉ざし、貿易を制限すれば世界の生産は縮小し、グローバル化の煽りで失業した労働者の就職先も減ることになる。つまり、グローバル経済のパイが小さくなるのである。また、脱グローバル化は、無数のエンドユーザーと世界各地に散らばっていた生産拠点が蜘蛛の巣のように複雑で精緻なネットワークを形成していたグローバル・サプライチェーンを破壊し台無しにする。
   脱グローバル化は、財の貿易のみならず、サービス、労働、データ、技術、情報の取引にも及ぶ。デジタル情報をはじめテクノロジーの貿易を制限すると、結局はすべての貿易を制限することになる。

   興味深いのは、現在は、「グロボティックス(グローバル化+ロボット化)革命の時代だという指摘である。
   技術の進歩のお陰で、多くのサービスが今や貿易の対象になり、人件費の安い国に住み通信技術を利用して先進国のサービスを引き受ける人材、すなわち、「テレミグラント」の活躍である。
   アメリカの労働者は自分の仕事が人件費の安い国に奪われたと憤っているが、今や、会計士や弁護士、コンピュータプログラマー、医師たち高級サービス業務従事者なども、同じ立場に置かれていると言うことである。

   貿易とグローバル化に対する激しい反発は、今日のハイテク世界にとって巨大な脅威であり、たとえ良き意図から出たものであっても、脱グローバル化は間違った闘いである。
   正しい解決は、グローバル化を推進してきた要因を絶ちきるのではなく、取り残された人々を本気で支える政策を導入し、貿易とマシンと人間の平和共存を図ることである。と言う。
   
   現状は、米中対立を考えても、脱グロ-バル化ではなく、まだ、グローバル化の減速すなわちスローバル化の段階にあり、デカップリングよりはましである。
   しかし、スローバル化によって、競争は縮小し生産性は鈍化するため、スタグフレーションの可能性は高まる。だが、大恐慌のような悲劇的な結末は回避できる。と言うのが、ルービニ教授の結論である。

   ルービニ教授は、アメリカが一番危惧してる国家安全保障の問題には一切触れずに、経済的側面からのみ貿易論を展開しているが、脱グローバル化の展開も、地政学面での国際危機など、政治的な側面の方が重要性を増していることを考えれば、もう少し、論理展開が変るかも知れない。
   尤も、いくら脱グローバル化で国境を閉鎖しても、日進月歩のデジタル革命の時代で、重要なハイテク情報や軍事情報などの情報漏洩は日常茶飯事、
   それに、反対派は必死になってキャッチアップを試みて、相手の対抗意欲を喚起して力づけるので、イタチごっことなる。

   文化文明が進化したのかどうか、
   地球温暖化で宇宙船地球号が悲鳴を上げて泣き続けており、依って立つ地面が崩れかかっているのに、
   ウクライナ戦争やガザ・イスラエル戦争などAI時代には信じられないような愚かな蛮行が、人類を窮地に追い込んでいる。
   
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ヌリエル・ルービニ:必ずしもデフレは悪いわけではない

2024年01月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ルービニ教授の「メガスレット」を読んでいて、興味深かったのは、
   「過去20年間に起きたデフレあるいはローフレーションがすべて悪いデフレだったわけではない」という指摘である。
   (ローフレーションとは、lowとinflationの合成造語で、低いインフレ、すなわち、インフレ誘導目標を下回る水準が続く状態を意味する。)

   その多くをもたらしたのは、技術の進歩、貿易とグローバル化の拡大、移民の増加、中国など新興国のグローバル経済への参入による労働力の供給増である。これは良いデフレであり、かなりの期間にわたって物価に下押し圧力をかけ続けた。実際、パンデミックが襲来する2021年まで、インフレ率は多くの先進国の中央銀行が設定した誘導目標の2%を下回って推移した。と言うのである。

   誤った前提に立つと、デフレの影響は殊更悪く見える。誤った状況判断は誤った政策手段、誤った目標を生む。発想を転換し、ここでデフレを良いものと考えてみよう。貿易のグローバル化、進化した技術、豊富な労働力の供給のおかげで、経済の健全性を損なうことなくものの値段がさがったとと考えるのである。実際にもインフレ率はゼロに近づいた。
   ところが、そうなると、中銀は、2%こそが名目インフレ率の適切な水準だと金科玉条のように信じ込んでいるので、デフレとローフレーションは危険な悪者だと考えて、あの非伝統的政策を引っ張りだして、金利をゼロ更にはマイナスまで引き下げて、量的緩和や信用緩和と銘打って民間部門から金融資産を買い取り、信用規制を緩和すると言った措置を導入した。
   中銀は、良いデフレやローフレーションをニューノーマル(新常態)として容認しようとせず、何も解決を必要としない問題を正そうと試みている。緩和政策を導入して借金を促すのは、借金をして消費に回せばインフレ率は目標の2%に近づくと考えているからである。仮に狙い通りになったとしても、それは、不必要な解決であり、非生産的である。過剰な信用緩和は次のバブルを生むだけである。と言うのである。

   さきに、スティグリッツ教授が、インフレ退治目的のFRBの金利引き上げ政策は間違いであって、銀行を儲けさせただけだという見解を紹介したが、いずれにしろ、ルービニ教授の見解にしたがっても、FRBや日銀の金融政策は、誤っていたということになろうか。
   早い話が、スティグリッツだったと思うが、インフレ率2%が適正水準だという確たる根拠も何もないと言っており、なぜ、この程度のインフレ状態が経済成長なり経済の安定にとって良いのかどうか、理論的にも良く分からない。
   誰が考えても、インフレにもデフレにも問題があって、インフレゼロで、物価水準が上下変動せずに安定し続けている方が良いのに決まっている。
   
   アメリカの1990年代は、「大いなる安定」という名称で記憶されている。通常は低い失業率と安定成長はインフレを伴うものだが、主にインターネットとその生産性押し上げ効果によってインフレに歯止めがかかり、「良いローフレーション」が出現したのである。
   このように、色々な経済の新機軸や革新的なインパクトによって、低い失業率と安定成長を維持しながら、低いインフレの「ローフレーション」状態の方が、2%のインフレターゲット政策よりも、良いことが理解できる。

   ここでは、説明は省くが、須く必要なのは、経済を引き上げるイノベーションをインスパイアーすることで、生産性をアップさせて経済を浮揚させる以外に、成長の道も、良いローフレーションもない。
   日本経済が成長から見放されてしまったのは、政治経済社会のすべてにおいて、イノベーションを忘れたカナリアになってしまったからである。
   デフレで、失われた30年をやり過ごしてきたのであるから、ここで心機一転、
   良いデフレやローフレーションをニューノーマル(新常態)として、経済体制を建て直したらどうであろうか。
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木村 泰司「なぜ、フィレンツェでルネサンスが起こったのか」

2024年01月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   木村 泰司の「名画の言い分 数百年の時を超えて、今、解き明かされる「秘められたメッセージ」」が易しくて面白い。
   まず、私の何時も念頭にある「なぜ、フィレンツェでルネサンスが起こったのか」について、興味深い見解を述べていることである。
   これまで、主に、その繁栄を「メディチ・エフェクト」として論じたフランス・ヨハンセンの文化文明の十字路論などを元にして、当時、正に、その十字路であったフィレンツェに、芸術家や学者や起業家たち優秀な頭脳が糾合して切磋琢磨して、文化芸術・科学技術が爆発開化した。と考えてきた。
  
   木村 泰司論を要約すると、 
   13世紀後半、当時行われていた十字軍の遠征で、海洋都市であったベネチアなどの商人が輸送船を提供するなど協力して、商圏の拡大を許されるなど多大な恩恵を享受して繁栄し、富裕な市民階級が台頭してきた。貧しかった中世時代、神様に雁字搦めに束縛されていたが、豊かになると現世を楽しもうじゃないかという気持ちになって、そこで、同じように人間中心の時代であったギリシャ・ローマ時代に非常に興味を抱くようになった。
   15世紀、当時のイタリアは、多数の都市国家が乱立状態であったが、時のミラノ大公が、自分を古代ローマ皇帝に見立てて、全イタリアを支配下に置こうとしたので、危機感を抱いたフィレンツェは、古代ギリシャのアテネを手本にして、軍事力と政治力、そして、美術の力を用いて国民を鼓舞して対抗した。これを機に、フィレンツェの人々は、ギリシャに憧れ、その文明を継承したローマに憧れ、ギリシャ・ローマ時代の人文学、美術、神々をリナーシタ=再生しようしていった。このリナーシタ=再生が、フランスでルネサンスと呼ばれるようになったのだという。
   要するに、地中海貿易の活況によって、一気にイタリア諸都市が経済的に富裕になり、富と知力を備えた市民階級が台頭して、意識革命・精神革命を起して、ギリシャ・ローマ時代の文化文明に憧れて、文芸復興運動に邁進したということであろうか。
   神様に束縛されるのは、もうこりごりだ、マンジャーレ(食べよう)、カンターレ(歌おう)、アモーレ(恋し合おう)、人間中心の時代への回帰が面白い。

   さて、著者の説明で興味深いのは、「煉獄」という概念である。
   ギリシャやローマ人は、キリスト教徒ではなく異教の人々なので、天国へは行けないが、自分たちの文明のルーツなので地獄に行かれても困る。そこで、地獄でもない、天国でもない、罪を浄化するために留まる天国の手前の場所である煉獄を考えたのである。
   尤も、ダンテは、14世紀初頭に、「神曲」で、「煉獄篇」を描いているが、特別待遇だとは言え、ソクラテスやプラトン、ホメロスなどを地獄に送っている。

   もう一つ注目すべきは、「画家から芸術家への昇華」である。フィレンツェは、商人と職人の街だが、出世欲もあり、競争心もあり、自己顕示欲も生まれた画家たちが、職人階級に甘んじているのを良しとせず芸術家となっていった。
   芸術家と認められるためには、自分の作品を文章で裏付けるなど、豊富な知識と精神が必要で、神様のようにすべてのことに精通した男、万能の人、と見なされなくてはならない。そして、その人の知性と精神が作品に反映されて、はじめて、それが芸術作品と認められた。神に等しい存在となった芸術家たちは、作品を製作するのではなくて、創作するようになったのである。
   バチカンのシスティナ礼拝堂の壁画やレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画を見れば、それが良く分かる。

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ヌリエル・ルービニ「MEGATHREATS(メガスレット)」移民の是非について

2024年01月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   破滅は目前だ。平和と繁栄の好循環は終わった――世界経済を破滅させる10の巨大な脅威 が人類社会を窮地に追い込もうとしてる。
   2008年の世界金融危機を予見して「破滅博士」と揶揄されたルービニ教授が、更なる世界大混乱を警告する警世の書が本書である。

   興味深いのは、「人口の時限爆弾」の章で、移民問題に触れていて、まず、日本の経済成長の頓挫、今世紀大半にわたっての生産性の伸び悩みは、高齢化による潜在成長率への下押し圧力であり、労働人口が減れば、生産資本への新たな投資が減って、長い間には生産性の伸びが止まる。先進国で最も高齢化の進んでいる日本の減少は何の不思議もない。と説く。
   どうやって潜在成長率を押し上げるのか、解決策の一つは、若い移民を呼び込むことである。
   経済が堅調に成長し雇用が豊富にあると言う前提だが、給与を貰い社会補償税を支払う若年の労働者が増えれば、年金と医療費の財源に貢献することになり、また、消費者として需要を拡大させ、GDPを押し上げるので、現在および潜在的な債務負担の軽減にも繋がる。

   ルービニ自身も移民なので、アメリカの反移民感情の高まりに対して、門戸を閉ざすことに断固反対である。
   ダニ・ロドリックも、先進国は移民を積極的に受け入れるべきだと主張している。
   実際、移民と高い経済成長率の間には相関関係が認められる。スキルを持つ労働者は、経済成長著しい高賃金国を目指し、ヤル気のある移民は新しい事業を起し、利益率の高いハイテク産業では特に顕著である。移民は本国へ送金するので、出身国の経済の安定にも貢献するのみならず、移民の自由な往来が、世界のGDPの拡大にプラス効果をもたらしてきた。

   しかし、理屈はそうであっても、世界中で渦巻く強力な反移民運動の高まり。先進国の有権者に移民を支持するよう説得するのは至難の業である。
   高度なスキルを持っていない労働者(ブルーカラー労働者とサービス業従事者)の賃金の停滞が移民の流入で更に押し下げられ、職が奪われ、移民は、学校、住宅、医療などの公共サービスを圧迫し、馴染みのない文化圏から来て外国語を話し、社会に軋みを引き起こす。

   ところが、時代の潮流の変化は著しく、今や、現地労働者と移民労働者との仕事争奪戦は、過去のものとなりつつあり、競争相手は、アルゴリズムとなり、AIが、水も漏らさぬ現代の移民障壁になった。と言う。
   工場やオフィスでロボットが人間に置き換わり、高度な資格を持つ人まで仕事を奪われるようになるにつれ、スキルを持つ移民さえ職に就けなくなる。減る一方の仕事を奪い合う事態になって、移民は歓迎されなくなる。先進国の企業は、高齢化による労働人口の減少への対策として、ロボットとAIに頼るようになっている。
   平均的な労働者の年齢が、先進国の中で最も高い日本では、高齢化に対する答えは、移民ではない。日本の雇用主は、ロボットの導入と自動化を進めている。他国も早晩同じ道を選び、人間の代わりにアルゴリズムに仕事をさせるようになる。こうして、技術的失業が増えるにつれて、社会は移民に対する反感を一段と募らせて行く。現にバイデン政権の移民政策も、中南米からの政治的・経済的・気候難民の大量流入に直面した結果、結局は、移民排斥論者だったトランプ政権の政策と射して変らなくなった。

   しかし、世界情勢は、気候変動の激化、失敗国家の増加、身体的安全の不安、開発の停滞、貧困の急増などが進むにつれて、貧しい国から豊かな国への移民流れは、今後数年間でどっと勢いを増すと考えられる。そうなれば、日本のみならず、アメリカもヨーロッパも門戸を閉ざさざるを得なくなる。どうするのか。

   さて、以上がルービニ教授の指摘だが、注目すべき視点は、仕事争奪戦が、先進国労働者と移民労働者との闘いではなく、現地労働者とアルゴリズムとの闘いとなって、殆ど仕事が、アルゴリズム、すなわち、ロボットとAIに取って代わられる。その結果、多くの失業者を排出するので、移民排斥、人々の自由移動をストップせざるを得なくなると言うことである。当然、トランプのラストベルト労働者への救済根拠が吹っ飛んでしまい、ロボットとAIとの闘いとなる。
   アメリカの移民政策で唯一残った選択肢は、世界的頭脳の糾合、すなわち、高度な技能知識を備えて起業意欲の強いイノベーターの導入のみとなって、その他の移民は、国民生活を圧迫するだけなので、ブロックすべきと言うことであろうか。

   日本でのアルゴリズムへの転換が、どの程度進行しているのか私には分からないが、ルービニ説が正しければ、早晩、日本政府の移民政策が時代に即応できなくなり、職業構造の根本的変化に直面して、成長戦略に破綻を来すような気がしている。
   しかし、今の日本の雇用状態を見ている限り、アメリカ市場で排斥されている高度なスキルを持っていない労働者(ブルーカラー労働者とサービス業従事者)については、外国人の活用は必須であろう。工事現場を見れば労働者の多くは外国人であり、先日宿泊したホテルのメイドなどかなりはアジア系の女性であったし、地方の農場や中小工場では外国人労働者が多い。

   ところで、アメリカで言及したハイクラスの高度な技能知識を備えた世界の頭脳と言うべき起業意欲の強いイノベーターの導入については、日本政府も期待しているが、日本の雇用システムや経済社会体制が対応できるのか国際競争力から言っても問題がありそうである。日本のソフトパワー対応の分野なら可能かも知れないが、マッチングが難しい。
   いずれにしろ、この失われた30年のように、世界規模、グローバルベースで時代の潮流に乗り遅れてしまうと、益々後れを取る。

   いつも思う。日本の政治経済社会をリードしていると思っている政治家や経営者が、このルービニの本レベルの本を、どれだけ読んでいるのか。
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わが庭・・・獅子頭紅葉する

2023年12月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   わが庭には、獅子頭が2本植わっている。1本は、千葉の庭から移植し、もう1本は鎌倉へ来てから庭植えした。
   このモミジの獅子の頭を思わせる縮れた切れ長の小葉が密集する姿にも魅了されたが、感激したのは、その年の気候の影響も受けて変るが、燃えるように真っ赤に映える鮮やかな深紅の姿である。
   数日で、一気に紅葉するのだが、暑い夏を水涸れすることなく過ごして、綺麗な葉形を維持して紅葉するのは、モミジにとっては大変なことである。湿気の多い京都や奈良などと比べて、乾燥気味の関東の紅葉が見劣りするのは、このためだと思っている。
   まだ、緑の葉も残っているが、嬉しくなってシャッターを切った。
   
   
   
   
   

   もう一つ、小木ながら紅葉し始めたのは、「琴の糸」。
   切れ長の尾を引いた葉が、微風に揺れると風情がある。
   イロハモミジであろうか、表庭のモミジは、殆ど散り始めたが、裏庭のモミジは、まだ、緑葉のままである。
   
   
   
   
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スティグリッツ PROGRESSIVE CAPITALISM 後ろ向きのイノベーション

2023年12月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   スティグリッツ 教授の本で、一番資本主義について易しく本質論を説いたのは、この本「PROGRESSIVE CAPITALISM (プログレッシブ キャピタリズム): 利益はみんなのために]」だと思っているのだが、危機に瀕した資本主義の起死回生のために、過剰な富がもたらす政治力に対抗出来るほど力強い民主主義がなければ出来ないと、政治改革をも巻き込んだ、ドラスティックな経済改革を提言していて、非常に面白い。
   最近のこのコラムのブックレビューでは、書評ではなく、私が注目したトピックスについて書くことにしているので、今回は、ネガティブなイノベーションについて考えてみたいと思う。
   イノベーションと言えば、企業や国家の成長発展のために最も寄与する原動力で、救世主のような扱いだが、このイノベーションが、時には成長発展の足を引っ張ることがあると言うのである。

   市場支配力を乱用して反競争的行為を推進するイノベーションである。
   スティグリッツ教授が、真っ先に糾弾するのは、マイクロソフトが、新たな形態の参入障壁や、既存の企業を追い払うずる賢い方法に長けている、20世紀末に、競争を制限しようとしたかっての大企業を手本に、そのような面で先進的なイノベーションを築き上げたとして、1990年代のインターネットブラウザーを巡る闘いで、新興企業に利益を侵害されるのを恐れて、ネットスケープを追い払ったことである。ほぼ独占状態であったインターネットエクスプローラーには、ネットスケープほどの魅力は無く実力だけでは勝てないので、OS市場での支配力を利用して、OSと抱き合わせ、無料で提供して、殆どのパソコンにエクスプローラーを組み込んだ。さらに、ネットスケープは相互運用性に問題があると言うFUD(恐怖・不安・疑念)戦術を展開して、ネットスケープをインストールすればパソコンの機能が損なわれる恐れがあるとユーザーに警告した。そのほかの様々な反競争的行為を通じて、ネットスケープを市場から追い出した。
   現在でも、市場支配力を乱用するテクノロジー系の大企業はあとを絶たない。と言う。

   また、特許は一時的な参入障壁になるので、特許制度を悪用して競争を制限する手もある。現在のイノベーションでは、多くの特許が必要となり、ある会社が新製品をつくれば、無数にある特許のどれかを知らないうちに侵害している恐れがあり、特に、大企業同士での特許共有システムに阻まれ、新規参入企業などには「特許侵害」訴訟の資金的余裕がないので、諦めるケースが多い。
   実際、クアルコム対アップル、アップル対サムスンなど、数億ドル規模の訴訟が無数にあるが、訴訟で得をするのは弁護士だけで、損をするのは、競争に参加できない小企業や消費者であり、これが、21世紀の米国流資本主義だ、と言うのである。

   その他にも、クレジット業界では、顧客から手数料を取るのを禁じて、事実上価格競争を回避して、様々なサービス提供コストとして任意に加盟店手数料を徴収するなど、市場支配力を利用して新たな契約規定を生み出している。また、米国の製薬企業は、ジェネリック医薬品企業の締め出しを図るなど、どの産業も、市場支配力を維持する独自の方法を見つけようと創意工夫を凝らしている。
   しかし、市場支配力が増大した大半の原因は、暗黙のルールの変更、特に、反トラスト法の基準の低下で、以前よりも容易に、市場支配力を産み出し、利用し、悪用できるようになり、また、現行の反トラスト法が、変わりゆく経済に対応出来ていない。
   合併・買収の規模が、史上最高を更新しており、不適切な競争政策により、Google、Facebook、Amazonなど、ある程度の市場支配力を持つ企業は、その力を高め、広げ、利用し、持続させてゆくことが可能な状態にある。と言う。

   これらの叙述は、迷走する資本主義の、「搾取と市場支配力」という章でのスティグリッツ教授の見解だが、一寸毛色が変ったイノベーション論ながら興味深い。
   大企業の支配市場力が、価格を釣り上げ、従業員の所得賃金を押し下げるなど利益追求に汲々としていると言うことで、ひいては、資本主義の機能不全を引き起こして成長発展を阻害している言うことであろうが、イノベーションと言っても、シュンペーターのイノベーション論から言っても、概念は広くて、プロダクトイノベーションだけではない。

   私が疑問に思うのは、これが民主主義に、そして、真っ当な資本主義に似つかわしいのかどうか、米国のロビー制度である。
   財力のある大企業は、1人のロー・メーカー連邦議員に対して何倍もの弁護士などロビー活動要員を送り込んで懐柔策を推進して利益誘導を図っており、特に、巨大テック企業などは、「テック企業を解体せよ」と言う運動に抗して、規制の弱体化を目指して、ロビー活動を加速させている。
   石油会社やタバコ会社などのロビー活動の悪害はつとに有名であるが、他の業界も活発にロビーイングを展開している。
   
   さて、激しさを増すイスラエルーハマス戦争、世界最強のアメリカのイスラエル・ロビーは、どう動いているのであろうか。アメリカのイスラエルに対する異常とも言うべき入れ込み方を見れば、そのパワーが分かろうと言うもの。
コメント
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