熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

資本主義に未来はあるか──歴史社会学からのアプローチ:グレイグ・カルフーンの場合

2020年08月30日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   カルフーンの論文のタイトルは、「いま資本主義を脅かしているのは何か」。

   資本主義は、1930年代の大恐慌以来、最も深刻な金融的・経済的危機を生き延びつつある。危機の底はかってほど低くなかったにもかかわらず、それは、大不況よりも長期にわたる成長率の低下やマイナス成長を世界の豊かな諸国にもたらし、さらに、偏った金融化や新自由主義による社会制度の保障制度の縮小、不平等の拡大という傷ついた時期に続いて、現在の危機が到来した。
   これが、資本主義システムに関する従来の中核国の見方だが、今や、経済的推進力は、中核国を離れて新興地域に急速に移動しており、資本主義は、その活力を回復させながら、西から東へ、北から南への移動を通して転換しており、資本主義の未来にとっての中心問題は、この推進力が維持されるかどうかである。
   また、重要なことは、資本主義が完全な自足的なシステムではないと言うことで、資本主義は、市場の大きな混乱や過度のリスクテイキング、あるいは、銀行の管理の不十分さと言ったことだけではなく、戦争とか、環境破壊や気候変動、社会的連帯や福祉の危機などにも影響されやすい。資本主義の実際の現実は、つねに非資本主義的な経済活動や政治的、社会的、文化的要因との接合を含んでおり、それは法的・制度的システムであると共に経済的システムであって、資本主義が直面する最大の脅威は、純粋に経済的なものを超える要因に依存することから生じている。

   そのような視点に立って、カルフーンは、資本主義がグローバルな経済問題において、支配的な地位を失うならば、それは、転換を長引かせ、残存する資本主義活動と並んで別の種類の経済組織を出現させることになろうが、しかし、資本主義の崩壊が差し迫っていると言う意見には反対である。と言う。

   資本主義が何故危機なのか、三つの理由を挙げて詳述している。
   第一は、システム危機の問題、および、金融と他の経済部門とのバランスの問題が依然として存在していること。
   第二は、資本主義の収益性は、その活動の費用―――人間的、環境的、金融的費用―――を外部化することにしばしば依存していること。
   第三は、資本主義は、経済内部の要因や制度要因のみならず、気候変動や戦争のような外的な問題によっても傷つけられること。
   これらの脅威を個々に解決は図れば、資本主義の崩壊を起こさずに転換できるかもしれないが、資本主義が大きな重要性を維持しながらその活力の一部を潜在的に回復しても、もはや近年の歴史を通じて保持してきたほどに、世界システムを組織し支配することが出来ない世界をもたらすかもしれない。と言う。

   まず、システムの危機だが、現代の金融システムを構成する複雑にからむ内的ネットワークに埋め込まれたリスクである。これは、製造業や消費のような「実物」経済に広範な影響を及ぼす危機で、その影響は、数十年の間にグローバル金融が巨大化したことによって、とりわけ、先進西欧諸国で金融資産が支配的位置を占める程度が高まるにつれて増大してきた。過剰な借入資本利用や過度のリスクテイキング、規制の弱さやその欠如、様々な金融工学の乱用を危険なものにし、最終的には決定的な被害を与えた。巨大銀行は、「連結されすぎてつぶせない」状態となり、金融化は、金融部門だけに影響を与えたのではなくて、大規模なグローバル資本主義にとって決定的なものとなった。
   しかし、現実には、金融危機が始まっているのに、経済は、金融資本に支配されたままで、規制による改善がいまだに最小限に止まっていて、システム危機の可能性を縮減するための施策はほとんど何もならせてこなかった。というのである。

   活動費用の外部性については、資本主義的成長は、環境汚染や社会的混乱、不平等という点において、人間と自然に途方もない犠牲を強いてきた。企業は、資本主義の収益と成長の成果は享受するが、環境汚染と廃棄物を生み出すなど深刻な「悪」を副産物として生み出しながら、これらの環境破壊の金銭的・人間的・自然的費用のの責任は引き受けないし、企業が収益を引き出すインフラ整備などの公共投資の費用を負担しないし、費用の「外部化体制」が常態化している。
   今なお勢力を増す「新自由主義」が、政府の支出と経済活動への積極的介入を縮小するとともに、資本主義の諸市場への政府規制を緩和することを追求するなど、この問題の解決に逆行する動きがあり、トランプの政策を見れば、その危うさがよくわかる。

   最後の気候変動や戦争などの人力人知を超えた外部要因による危機については、希少資源と自然環境の劣化に視点をあてるなど興味深い問題を指摘しているが、先のマイケル・マンの項でも触れたし、自明のことなので、ここでは省略する。
   
   カルフーンの議論で興味深いのは、末尾で、インフォーマル・セクターと非合法資本主義の拡大を、フォーマル・セクターの弱体化と結びつける変わった視点から、資本主義論を展開していることである。
   もともと、その大部分は、コミュニティレベルで組織されていて、小規模な物々交換や協同組合、課税や金融機関を巧みに避ける現金取引などからなっていたが、カルフーンは、シリコンバレーの起業なども、インフォーマルセクターだという。
   しかし、国家経済を蚕食しているアングラ経済や、租税回避や非合法的な投資フローなど大規模な不法資本主義も重要な位置を占めており、インフォーマルセクターの台頭は、資本主義の脆弱性そのものを浮き彫りにしている。
   グローバル政治経済の大部分は、国民国家や資本主義の「公式の」世界システムを超える仕方で組織されており、国家と大企業との共謀、様々な規模の組織された犯罪、非公式の軍閥やカルテ鵜の政治力、軍隊を含む国家の半自律的構成部分の経済力など、いずれも複雑に絡み合った世界を示していて、これに、ウィキリークスからハッキングまでのサイバーセキュリティへの挑戦や、スペアフィッシング、国家の支援やフリーランサーによって展開されるサイバー攻撃などその他の戦術、等々、いずれもこの複雑に絡み合った世界を、フォーマル、インフォーマル入り乱れて、不確かな未来に向かう資本主義の転換の一部となっている。というのである。

   カルフーンは、資本主義の刷新を示唆しながら、最後に、「伝統的な西欧の中核的地域の外部から成長が主導されてゆく程度に変革されていき、そして、別の歴史や文化や社会制度に融合されていくことになるだろう。」という。
   先に指摘した欧米先進国の没落によって発展途上国に経済成長力が移っていくことによって資本主義が発展変質してゆくだろうという思惑で、中印や東アジアの台頭に期待しているのだろうが、専制的で国家主導の計画経済を意図した中国のような国家資本主義を考えているのであろうか。
   いずれにしろ、マルクス的・ヴェーバー的伝統を継承した社会歴史学者の見解なので、そんなような気がしている。
   
   実現可能性は未知だが、中国が、2049年に、100年マラソン計画を実現して大唐帝国再建を果たして、世界覇権を確立した暁に、多少変更を加えながら、欧米日先進国の民主主義文化およびシステムを吸収同化していくのではないかと思っている。
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資本主義に未来はあるか──歴史社会学からのアプローチ:マイケル・マンの場合

2020年08月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   イギリスの学者マイケル・マンの「終わりは近いかもしれないが、誰にとっての終わりなのか」と言う論文の論旨は、非常に穏健で常識的である。
   冒頭で、資本主義の最終的危機を、単一のシステムとして描写する理論には疑問を抱いているとして、コンドラチェフ循環と覇権循環を基礎として資本主義を分析するウォーラーステインの世界システム論は、洞察力ある簡潔な理論ではあるが、その半分も受け入れることが出来ない。と述べている。
   マンは、人間社会についての自分の一般モデルは、社会をシステムでなく、多様に重なり合うネットワークの相互作用として把握することで、その中で最も重要なものは、イデオロギー的力関係、経済的力関係、軍事的力関係、政治的力関係の4つのネットワークであるとして、さらに、この4つに、地政学的関係を、軍事的力と政治的力の独特の混合として付け加えることだと言う。

   このフレイムワークで、資本主義世界システムを批判的分析を進めて、二度の経済不況、すなわち、大恐慌と2008年の景気大後退を比較検討しながら、経済恐慌や景気循環論を展開していて興味深い。

   資本主義の将来については、コリンズの悲観的な想定は正しいとしながらも、楽観的な見解を示している。   
   資本主義の崩壊と捉えずに、二つのアルタナティブの未来を想定して、その一つを生み出す可能性があるとする。
   第一は、構造的失業が高いままで、かなり悲観的なシナリオで、「三分の二/三分の一」社会、すなわち、三分の二の人々は高学歴で高い技能を持ち、正規雇用を得て暮らしぶりもいいが、残りの三分の一は社会から排除されている貧しい人々で、反乱せずに済むだけの福祉と慈善を受け取るか、あるいは抑圧されてしまうかである。排除された人々は世襲的な下層階級となり、極端な格差拡大下にあるにも拘わらず、アメリカを筆頭に異常に搾取されているにも拘わらず反対者がいない資本主義である。
   第二は、もっと楽観的で、資本主義市場が地球を埋め尽くすことで、利潤と成長率が低下し、持続的低成長として持続する。この低成長のシナリオでは、投機の役割が縮小し、金融資本の力を弱体化させ、今日のような景気大後退が繰り返される見込みは少なくなる。労働条件が世界中で改善されるなら朗報だが、既に日本が経験しているような、殆ど定常状態の経済に生きることとなり、資本主義の未来は、無秩序な動揺ではなく退屈なものだと思われる。と言う。
   しかし、この比較的安穏なシナリオでも、一国の人口のおよそ10%から15%が臨時雇いや失業中の排除されたマイノリティ下層階級の存在は忍従しなければならないというのである。

   2050年頃のある時点で、最も起こりそうなシナリオを選べと言われれば、低成長のグローバル資本主義である。と言う。
   他のオルタナティブについては、反資本主義的革命運動は、規模を問わず世界に存在しておらず、革命はありそうにもないシナリオである。
   また、先にコリンズが説いていた社会主義化については、改良主義的な社会民主主義か改良主義的自由主義になるのがせいぜいのところだ。と述べている。
   
   しかし、前述の可能性の高いシナリオも、二つの世界大戦を遙かに上回る他の二つの潜在的危機のために、進行が狂ってしまう可能性がある。
   第一のグローバルな脅威は、核戦争の軍事的脅威である。
   第二のシステム的危機は、気候変動である。
   これらについては、かなり詳細に持論を展開しているのだが、自明の論点ばかりなので省略する。
   ただ、気候変動については、外国から主権が縮小されることに激しく抵抗する国民国家主権の時代にあるので、好き勝手なことをする総ての国民国家の自立性を厳しく制限する政府間協定が必要とされると述べており、これ以外の解決法はないのだが、トランプのような大統領が出て覇権国家が協定をぶち壊したら、どうするのであろうか。
   行動が間に合わず、世界の諸国が協定に失敗して、気候災害が猛威を振るい始めると、悲惨なシナリオ―――北の豊かな諸国と富裕な諸国家による「要塞資本主義」の大きな障壁、「要塞社会主義」、世界の他の地域に敵対する「環境ファシズム」、大量の難民の飢え、資源戦争―――が台頭する。と言うのだが、
   私は、「茹でガエル」状態で、地球環境の悪化は、どんどん進んでいって、どうしようもない状態に陥ってしまうような気がしている。

   いずれにしろ、核戦争および気候変動の段階的拡大という二つの危険なグローバル危機のために、安穏なシナリオが吹っ飛んでしまって、資本主義の終わりばかりか、人類の文明の終わりさえももたらすであろう。と結んでいる。
   多少、異論があるのだが、概ね、私自身、マンに近い考え方をしているので、今回は、マンの資本主義論の紹介にとどめておきたい。

   
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小塩節著「旅人の夜の歌――ゲーテとワイマル」(2)

2020年08月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ゲーテは、沢山の素晴らしい詩を残している。
   詩など、短い文芸作品では、本当なら、原文そのままで鑑賞すべきなのであろうが、英語ならともかく、私のドイツ語の知識では、殆ど分からないし、まして、内容が凝縮し、象徴性の強い詩のことであるから、無理である。
   ところが、私が最初にゲーテの詩に接したのは、クラシックコンサートでのシューベルトの歌曲で、分かっても分からなくても、原文そのものであり、リズム感はつかめる。
   宝塚の中学の時には、「魔王」のレコードを聴きながら、詩を朗読する授業があったので鮮明に覚えているし、「野ばら」などは、友達と歌っていた。

   私が、ドイツ・リートをコンサートで聴いたのは、ディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウやハンス・ホッターなどで、シューベルトのどんなゲーテ歌曲を歌ったのか他のリートだったのか、記憶にはない。
   しかし、フィラデルフィアのウォートン・スクールで学んでいたときに、学内で、エリザベート・シュヴァルツコップのドイツ・リートのリサイタルがあって、この時は、間違いなしに、ゲーテの歌曲であった。
   ペンシルバニア大学内の教会であったか、音楽教室だったか、普通の教室だったか記憶はないのだが、質素な部屋にパイプ椅子が並べられた客席で、勿論、私は、最前列のピアノの前に席を占めて、最初から最後まで、熱心に聴いていた。
   その前に、長い間来日が叶わず、やっと、日本でリサイタルを開いたときには、無理して高い切符を買って出かけたのだが、このフィラデルフィアの時は、キャンパスの夏の夜のささやかなイベントの一つといった感じで、実にアットホームな雰囲気で、客も夕涼みにきたといった風情であった。
   キヤノンの一眼レフで、オベーションの時に、写真を数枚撮らせて貰ったのだが、もう、半世紀近くも前のことで、何処に行ったのか手元にはない。
   シュヴァルツコップは1971年12月31日、ブリュッセルのモネ劇場でマルシャリンで最後のオペラに出演し、以後、彼女はドイツ歌曲に専念し、1979年3月17日にチューリッヒで最後のリサイタルを行った。と言うから、その合間の貴重な時期に聴いたことになるのだが、還暦少し前だったと思うが実に優雅で美しくて、天使のような歌声が静寂そのもののキャンパスを荘厳していた。

   さて、この小塩先生の本は、ゲーテの2つの「旅人の夜の歌」がメインテーマとなっているのだが、シューベルトとゲーテとの関わりにつても興味深い話を語っている。
   シューベルトは、ゲーテの詩にいたく感激して触発されて、総計40曲の作品を作曲していて、ウィーンから、ワイマルのゲーテに郵便で送り献呈した。しかし、友人のツェルターの助言のままに中身も見ずせずにそのまま送り返したり紙くず籠に放り込んだ。ところが、完全に無視していたシューベルトの没後2年の1830年4月に、自宅で歌手のヴィルヘルミーネ・シュレーダー・デフリントの歌う「魔王」を聴いて感動し、激賞したという。
   これに関連して、世界の音、音楽の調べに繊細な感覚を持っていたゲーテが、雑音としてしか聞いていない虫の音を、イタリア紀行で、歌声のように感じ取ったと書いているのが興味深い。
   その二年後、ゲーテは82歳で死んでおり、もし、ゲーテが生前に、シューベルトと邂逅していて、対話があれば、どれほど、素晴らしい芸術が生まれていたかと思うと、運命の皮肉を見るような思いがする。
   
   小塩教授は、当時の音楽家との交流も語っていて興味深い。
   イタリアから帰ってきたゲーテは、自宅にグランドピアノを置き、サロンに著名な音楽家を招いて音楽を楽しみ、少年フェリックス・メンデルスゾーンが、ベートーヴェンの作品をゲーテに丁寧に聞かせたりして親交を深め、ロベルト・シューマンの妻となりヨハネス・ブラームスが愛した少女クララ・ヴィークを膝の上にのせてピアノを弾かせていた。
   ゲーテのモーツアルト傾倒は度を超していて、バッハも良く聴いた。ベートーヴェンの音楽は世界を壊してしまうとさえ言ったが、本人同士、夏になると保養地で良く一緒になっていた。と言う。
   ゲーテの、このような最高峰の音楽家との交遊録なり、芸術談義なり、コラボレーション作品が生まれるなど、芸術的な爆発が残っておれば、どれほど素晴らしいかと思う。
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小塩節著「旅人の夜の歌――ゲーテとワイマル」(1)

2020年08月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   NHKのドイツ語講座の先生であった小塩節教授のゲーテの本。
   ダンテの「ファウスト」を読んだ後、多少、ダンテを知りたくて、野上素一の「ダンテ 人と思想」を読んだのだが、良く分からなくて、この本を読んだのだが、小塩教授の主観がはいいているにしても、非常にビビッドで面白かった。
   
   不朽の名作「ファウスト」の作者であるゲーテにとって重要なのは、故郷フランクフルトを離れて、地方の弱小国ワイマルに移り住んだこと。
   ワイマルの当主カール・アウグストが、貴族でもない平民の行政も政治の経験もないゲーテを、高く評価して厚い信頼を置いて厚遇したのだが、それは、ゲーテは、既に、「若きウェルテルの悩み」の有名作家であり、文人文化人を宮廷に招くのが当時のいわば見栄を張る諸邦の流行であったし、また、母后から国権を譲られたアウグストに、学生時代に読んでいたユストゥス・メーザーの「祖国愛の幻想」から受け売りの大国の画一的な「啓蒙絶対主義」には出来ない小国の良さを説いて感服させたからである。

   勿論、ゲーテは、このワイマル行きに逡巡したのだが、父親の束縛から逃れたかったと言うことの他に、フランクフルトは自由都市ではあったが、社会の階層は固定化していて最上層に上がっていく可能性はなく息の詰まるところであったところでもあり、大きな要因は、アンナ・エリザベート・シェーネマンとの結婚からの逃亡で、決断したという。
   愛や恋を詩や小説、戯曲では、高らかに歌い上げていたゲーテが、少年期から去勢恐怖症があって、性行為によってペニスを食いちぎられるという恐怖症が強かったとか、ダンスで女性に腕を回しただけで濡らすなど、性については知識だけはあり過ぎるほどあって、性には異常に潔癖だったという。

   ワイマル時代に、7歳年上のシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人とのプラトニック・ラブは、有名だが、その10年間に、1772通もの手紙を書いたという。ゲーテの身持ちの良さもあり、冷静な夫人の御陰で、1、2度直接接近しようと迫ったらしいが冷静にはじき返されて、母、姉、恋人という関係で推移し、ゲーテのイタリア行きで終った。主君のアウグストは領内移動毎に子孫を残したようだが、ゲーテは身持ちがよくて、それに、何度か、結婚話が持ち込まれたが、総て断ったという。
   このシャルロッテとの恋は、隠れ蓑で、実際に愛していたのは、母后のアンナ・アマーリアであって、手紙の宛先はこの母后だったという説もある。
   しかし、ゲーテが燃えたのは、当時ドイツで絶世の美女と言われていたマリーア・アントーニァ・フォン・ブランコーニ公爵夫人に対してで、本当は猛烈に欲しかったのだという。しかし、ゲーテは、政治家としてか、作家・詩人としての存在形式のことか、一夜の歓楽よりも、自己の存在のピラミッド確立の方が大事であったにちがいなく、自分こそが何よりも大切だという強烈なエゴイズムで諦めたのだと小塩先生は言う。
   
   ウィキペディアを見ても、ゲーテの女性遍歴というか女性との関係は、色々語られているのだが、この本で、小塩先生が、興味深い視点から語っているので、「若きウエルテルの悩み」や、「ファウスト」への見方に深みが増したような気がしている。
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資本主義に未来はあるか──歴史社会学からのアプローチ:ランドル・コリンズの場合

2020年08月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この論文の著者コリンズは、紛争処理の社会学者だが、マルクス経済学的な影響が色濃く、ウォーラーステインの世界システム論を加味した資本主義終末論を展開しているような感じを受ける。
   本人も、マルクス主義を焼き直して、長期的な経済危機の理論をつくったと述べているのだが、私自身、マル経については、殆ど知識がないので、的外れのレビューになるのを覚悟で、考えてみたい。

   まず、冒頭で、機械による労働の技術的代替は、今や、加速化して、中産階級の生存を脅かしており、資本主義的な長期的な脆弱さが目立ってきた。この労働の技術的代替のプロセスが極端に推し進められるならば、マルクスやネオ・マルクス主義的理論におけるような他のプロセスとは関係なく、資本主義の長期に亘る最終的危機が、それ自身によって生み出される可能性が極めて高い。と指摘する。
   かって、マルクスが指摘したように、労働者階級が、機械化を通じて収縮したとき、資本主義は中産階級の出現によって救われたが、今日のコンピュータ化やインターネット、新しいマイクロエレクトロニクス製品の登場は、中産階級を圧縮し始めている。
   少数のエリートが総ての大企業を所有してあらゆるコンピュータ設備やロボットを販売あるいは操縦し、人口の大部分がエリートやロボットに仕える職を得るために仲間争いをすることが放置され、極めて少数の人々しか労働せず、人口の大部分が失業するか低賃金のサービス職を求めて競争するような、高度に自動化されコンピュータ化された社会となり、技術による労働代替が、非常に深刻化して、危機的な状態になると、革命が起こる。と言うのである。
   尤も、革命の引き金は、国家の財政危機、そして、軍事支出などを伴った財政問題などに対するエリート間の対立と行き詰まりなどによる国家機構の麻痺と言った複雑な政治経済要因が絡むのだが、基本的には、労働の崩壊であろう。

   著者は、過去において資本主義は、技術による労働代替の危機から5つの主要な逃げ道で回避してきたとして、これらが、なお、今日の危機回避に有効か検討している。
   新しい技術による新規の職業分野の創出、市場の地理的拡大、金融のメタ市場、政府の雇用と投資、隠されたケインズ主義、の5つだが、いずれの手段も、中産階級の雇用縮小傾向を阻止できないと結論づけている。
   従って、構造的失業は、2040年までに50%、そして、その後まもなく70%に達するかも知れず、21世紀の中頃に資本主義の最終的危機が到来する。これは、ウォーラーステインの世界システム論の結論と一致するというのである。

   しからば、将来はどうなるのか。
   技術による労働代替という構造的傾向は、短期的、循環的、偶発的な危機を経過しながら、資本主義そのものの危機を推し進めていく。また、不平等を拡大するこの傾向は、消費者市場を減らして資本主義を持続できなくして行く。それ故に、危機を解決する方法は、資本主義を、社会主義的所有や、強い中央集権的な規制と計画を意味する非資本主義システムと取り替える事しかないだろう。と言う。
   ソ連の崩壊と共に、国家社会主義体制が終焉したはずであり、著者の分析では、資本主義が、21世紀の末には没落するので、ポスト資本主義の政治経済社会の安定を図るためには、社会主義体制の復活が必須であり、それぞれに優劣があるので、政治経済の二つのシステムの間の揺れが、将来の数世紀にわたって生ずることになるだろう。と言うのである。
   
   私の疑問は、まず、技術の労働代替が、完全に、人間を労働市場から駆逐するはずがなく、何らかの形で、雇用の安定は維持されるであろうと言うこと。
   時代の進展で、農業人口や工場労働人口が急速に低下しても生産はそのまま維持され益々高度化しているように、既存のもの生産やサービスに投入される労働人口は、どんどん、代替されて行くにしても、人間にとって必須な人間にしか生み出せないものやサービスが、いくらでも創造されるであろうし、AIやIOTが究極の働きをしたとしても、人間が生きている限り、人間の働く場は創造されて行くと思っている。

   もう一つは、社会主義体制への短絡的な復帰に疑問。
   中国の国家資本主義体制でさえ、基本的には市場経済を基本とした資本主義体制を根幹としたシステムであるように、多少、計画経済的なリベラルな福祉経済的な要素を加味するなど、望ましい社会を実現するための国家政策による介入は必要であろうが、市場原理を生かした資本主義体制を維持して改革して行くべきで、千年王国やプラトンの哲人政治などではない限り、社会主義体制へ移行すべきではないと思っている。
   前にも書いたように、資本主義そのものを固定観念で考えずに、時代時代に相応しい形で、改革すべきだと思っている。
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ホメーロスの オデュッセイア物語

2020年08月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「イリアス」に続いて、バーバラ・レオニ・ピカード の「ホメーロスの オデュッセイア物語」(岩波少年文庫) を読んでみた。「イリアス」はトロイヤ戦争物語なのだ戦争の話が主体なので比較的単純なのだが、オデュッセイアの方は、オデユッセウスのドラマチックで幻想的なな航海冒険物語や、留守中に愛妃と国家を略奪しようとする敵の成敗など小説のようなストーリー展開なので、はるかに面白かった。
   オデュッセウスがトロイア戦争の勝利の後に凱旋する帰途、漂流して10年間にもおよぶ苦難の航海、オデュッセウスの息子テーレマコスの父を探す探索の旅、不在中に妃のペーネロペーと財産略奪を計る求婚者たちの悪行狼藉とその報復、との3部構成となっていて、女神アテネーが狂言回しのように暗躍して物語を展開する。

   オデュッセウスの漂流譚は、キコネス族の国の略奪やロトパコス(蓮lōtos食べるphagein)の国の楽天人生から始まり、次に転機となるのは、一つ眼の巨人のキュクロプスの国で、部下が二人ずつ食い殺されるので、巨人ポリュペーモスが寝ている間に、その怪人の一つしか無い眼を先の尖った大きな杙で刺し貫き、怪人が、眼が見えず慌てている隙に羊を奪って船に乗せてが寝ている間に、その眼を先の尖った大きな杙で刺し貫き、眼が見えず慌てている隙に羊を奪って船に乗せて逃げるのだが、運悪く、このポリュペーモスが、海の神ポセイドンの子供だったので、子供の報復のために徹底的にイタケーへの帰還を妨害されることになる。
   その後、風神アイオロスの国、ライストリュゴネスの国で攻撃されて、12隻あった艦船を1隻を残してすべて沈められてほとんどの部下も失い、魔女キルケの国で動物に変えられる危機を逃れ、キルケの指示で冥界を訪問し、美しい声の魔女セイレンの海、怪物カリュプディスとスキュラのいる魔の海峡、太陽神ヘリオスの島トリナキエでの神羊殺し、オギュギエ島での美しい女神カリュプソの呪縛、と続くのだが、
   余談ながら、このカリュプソに愛され、夫にするために7年間も引き止められて、ゼウスとアテネが心配してヘルメスを伝令に送って泣く泣く解放されたと言うから、10年のうち、殆どここで棒に振っている。いくら超美人との酒池肉林の毎日でも、イタケーの妻子が恋しくて望郷の念冷めやらず、沈痛な日々だというのが面白い。
   それに、トリナキエ出航後船が難破し全員死亡してオデュッセウス一人になっており、その島には船もなく櫂を漕ぐ男もいなかったので、20本の木材で筏を造り、それにカリュプソから与えられた布で帆を付けて、大海に出帆した。しかし、追い風に乗って順調に進んでいた筏を見たポセイドンは、、三叉矛で海面を掻き回して暴風雨を起こしたので筏が崩壊し、泳いでスケリエ島の浜辺に泳ぎ着く。スケリエ島は、アルキノオス王が治めるパイエケス族の国で、美しいナウシカという王女に助けられて、英雄オデュッセウスであることが分かって、善良な王たちに大いに歓待されて、祖国イタケに船で送り届けられる。
   
   オデュッセウスが死んだと思われているイタケーでは、オデュッセウスの妻ペーネロペーのところに、沢山の求婚者が、領内各地から、結婚と遺産目当てにやってきて宮殿に居着いて言い寄り、連日連夜宴会に明け暮れて、財産を食い潰そうとして数年が経っており、オデュッセウスの妻ペーネロペーの実子テーレマコスは、母の苦境とオデュッセウス家の窮状を救うべく決心し、イタケーの衆を集め求婚者達の横道ぶりを皆に訴え悪辣な求婚者たちへの敵対を表明するるが、若年故無視されて埓があかないので、アテネーの入れ知恵で、オデュッセウスの行方を探す旅に出立する。
   テレマコスは、まず、ピュロスの港に着き、父オデュッセウスと共にトロイア戦争を闘った知者の老将ネストルに面会して事情を聴取し、王の息子ペイシストラトスの案内でスパルタへ行って、メネラオス王とヘレナに面会し、メネラオスは、帰途の流浪の途中でナイル河口に着いた時、オデュッセウスはカリュプソの館に引き留められている、という話を海の老人プロテウス神から聞かされたと、テレマコスに教える。

   偶然、オデュッセウスがイタケーへ帰還した時、アテネが現れて、オデュッセウスをよぼよぼの年老いた物乞いに変身させて、豚飼エウマイオスの小屋を訪れさせ、変身して自分の主人だと分からないが歓待を受ける。そこへ、忠僕な下僕でもあるので、エウマイオスのところへ、旅から帰還したテーレマコスがやってきて父子の再会が実現する。
   これから、オデュッセウスの劇的な帰還と妻との再会、そして、オデュッセウスとテーレマコスの、悪徳求婚者への逆襲と殺戮となる大詰めを迎える。

   いずれにしろ、オデュッセウスの財産を食い潰そうと100人もの求婚者が連日宮殿に押しかけて飲み食いして傍若無人に振る舞うと言うストーリー展開や、いくら、復讐だといっても、全員皆殺しにするというオデュッセウスの活劇話も、一寸、違和感を感じた。
   私には、ギリシャ神話の世界というか、おとぎ話というか、ファンタジックというか、神と人間が入り乱れて展開する前半のオデュッセウス航海譚が、面白かった。

   ギリシャには、悲劇と喜劇の名作があるのだが、ロンドンにいたときに、RSCの「オイディプス王」を観劇して、見るに堪えないほど苦痛を感じて、ダブルブッキングをしていたので、途中で、退席して、隣の大劇場のアンネ・ゾフィー・ムターとLSOのヴァイオリンコンツェルトに移ったことがある。
   エピダウロスの古代劇場で見れば別な印象もあるのであろうし、凄いかも知れないと思いながら、ギリシャ悲劇を敬遠して、シェイクスピアの悲劇程度にとどまっていた。
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掛け軸、そして、室内オーナメント

2020年08月22日 | 生活随想・趣味
   室内の装飾については、かなり、無頓着なのだが、何となく、和室の掛け軸を変えようと思って、調べてみた。
   若い頃、マンションや社宅暮らしの時には、床の間がなかったので、その必要がなかったのだが、一戸建てを建てて和室に床の間を設えると、まず、掛け軸が必要になる。
   当時は、海外出張の帰途などに台北を経由する飛行便があり、トランジットなどで時間が取れたので、空港売店で、掛け軸を数本買って、適当に掛け替えていた。
   その後、中国へ個人旅行をして、どうしても、西湖へ行きたくなって杭州の旅に出て、西湖に行ったときに、西泠印社の売店で、上等な中国の掛け軸を買おうと思った。
   名だたる学術団体なので、間違いなかろうと思ったのである。
   気に入った風景画であったので、これだと思って、中国での常識であるから、一寸値切って買って帰り、台湾の掛け軸と交換して、ずっと使っていた。
   誰の絵で、何を描いたのか分からずに買ったのだが、読めた字は、彩山水だけ、 とにかく、中国の深山幽谷、急流を一艘の舟が下って行く、綺麗に精細に描かれた彩色画である。

   ところで、新しい掛け軸だが、特別拘るわけではないので、とりあえず、インターネットを叩いて、色々、調べてみたが、どうしても、気に入ったものが見つからない。
   本来なら、季節毎に掛け替えるのであろうが、そんな気もなければ、余裕もないので、常時かけておける無難な風景画を探すことにした。
   新作や古い作品なども探してみたが、しっくり行かず、結局、行き着いたのは、
   川合玉堂 秋山帰馬図 印刷絹本掛軸
   横山大観 松に富士図 印刷絹本掛軸
   勿論、印刷の複製だが、本格的な表装の掛け軸で遜色なく、別に、気にもならなかったので、まずまず、気に入っている。
  

   ついでに、葛飾北斎の 長春花に黄鳥 手摺浮世絵木版画 を買った。
   版画であるから、版元さえしっかりしておれば、何の問題もないのである。
   
   花を描いた絵は、リビングに掛けているのだが、この絵だけは、和室脇に掛けている。
   花の絵は、キューガーデンやグラインドボーンなどへ出かけていった時に、気に入って買ったりした外国での絵が大半だが、華やかで良い。

   その代わり、玄関ホールから二階への階段への壁面には、風景画を飾っていて、これも、ブラジルやオランダなどヨーロッパで買った絵が多い。
   日本では、額など殆ど掛けなかったのだが、外国では部屋が広くて絵画が必要となり、買っていた絵を持ち帰って飾っているという感じである。
   その影響もあって、ダイニングの壁面には、所狭しと飾り皿がぶら下がっている。
   勿論、オランダやイギリス、ドイツやイタリア、ベルギー、ハンガリー、フィンランドと言った調子で、孫たちの記念の皿以外は、総て、ヨーロッパ製で、思い出深いものである。

   大きな食器棚がリビングとダイニングにあるのだが、殆ど戸棚に収容したので洋食器よりも、ドイツやイタリアなどの陶磁器製、木製、ガラス製の人形というか民芸のフィギュア―が所狭しと並んでいて、博物館の様相を呈している。
   これでも、千葉に居た時に、9.11の東関東大震災で、震度6弱でやられて、半数近くの陶磁器やガラス器や飾り人形などが壊滅状態になって、泣く泣く処分したのだが、ヘレンドやマイセンやアウガルテンやと言っても、どうせ割れ物だし、墓場には持って行けないので、そのままに置いて使っている。

   もう一つ変ったのは、孫たちの写真を撮ることが多くなったので、写真立てをいくら増やしても追いつかないので、絵画や飾り皿の空き空間を利用して、写真を掲げ始めたことである。
   昔は、部屋や事務所に、ギリシャやイタリアなどの風景写真を飾っていたことがあったが、最近では、良く撮る風景写真や花の写真は飾ったことはなく、もっぱら、孫たちの写真である。
   欧米の家庭では、家族写真が部屋一杯に飾ってある家が多いのだが、我が家では、気恥ずかしさもあって、大人の写真は必要最小限にとどめている。

   そのほか、主に和室だが、私が花好きなので、沢山の花瓶が並んでいる。
   これも、大半は、海外生活や旅で得たもので、ヨーロッパの陶磁器からボヘミアン・ガラス器、景徳鎮など中国、ブラジル、インカの骨董から、これは、日本製も多くて九谷や信楽焼、
   置物なら、パラグアイやボリビアなどの中南米からスエーデン、フィンランド・・・
   とにかく、何十年も海外を歩き、傘寿まで生きてきたのであるから、ガラクタが山ほど山積していて、ぼつぼつ、終活を意図した断捨離が必要だと思い始めている。

   いずれにしろ、部屋のインテリアに多少でも関心を持てるというのは、その瞬間、歳を忘れているので、良しとすべきだと思っている。
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資本主義に未来はあるか──歴史社会学からのアプローチ:ウォーラーステインの場合

2020年08月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   原文のタイトルは、Does Capitalism Have a Future?
   5人の歴史社会学者たちが、資本主義システムが、中期的に、存続可能なのかを問う。
   しからば、Are we on the cusp of a radical world historical shift?と言うことだが、経済学者とは違った切り口の資本主義論に興味を感じたのである。
   5人の見解は必ずしも一致はしていないのだが、まず、イマニュエル ウォーラーステイン 。
   ウォーラーステインは、「世界システム論」を提唱・確立するなど多くの業績のある社会学・歴史学の大家であるが、まともに著作に対峙したことがないので、半端な記述になることを覚悟で、考えてみたい。

   冒頭、著者は、この分析に二つの前提を置く。第一に、資本主義はシステムであるが、総てのシステムには寿命があり決して永遠のものではない。第二に、ほぼ500年にわたる存続を通じて一連の独自のルールで作動してきたがゆえに、資本主義はシステムである。
   この歴史的システムが、資本主義システムと見なされるには、「無限」の資本蓄積の永続的な追求――より多くの資本を蓄積するための資本の蓄積――が主要な決定的特徴でなければらない。この特徴が広がって行くためには、他の価値基準や目的に基づいて行動をしようとする参加者を総て罰するメカニズムが必要になる。
   近代世界システムは、およそ500年間続いてきたし、無限の資本蓄積の行動規範という点から観れば極めて成功していると思われる。しかし、この行動規範に基づいて機能し続ける期間は、今や終焉を迎えている。と言うのである。

   著者は、無限に資本蓄積の追求を目的とする近代世界システムを、コンドラチェフ循環の上昇局面と下降局面、そして、アメリカとドイツとの覇権循環で説明を試みており、
   1945年から1970年前後までのコンドラチェフ循環の上昇局面において、そして、アメリカの覇権が地政学的にも頂点に達して、資本蓄積が、16世紀以降最大の伸びを示した段階に至って、世界システムが、均衡から一気に逸脱して回復不可能の状態に陥り、下降局面に突入し、均衡への復帰圧力を欠き、構造的危機に直面するに至った。
   構造的危機段階に入った世界システムは、もはや、均衡を回復する能力と力を欠き、新しいシステムに転換しない限り回復の余地は少ない。と言うのである。

   興味深いのは、著者の資本主義を構造的危機に陥らせた決定的要因である。
   まず、構造的危機で、第一に、費用と販売価格との差を極大化して資本を無限に蓄積することが資本主義の本旨だが、生産者が支払わねばならない人件費の高騰、費用の外部化の困難化等のコストアップ、第二に、再生可能な資源への社会的関心、第三に、資本主義システムに必須の相当量のインフラ、第四に、反システム運動が要求する民主化等への課税の上昇、と言った生産への基本的費用の絶えざる上昇で、均衡メカニズムへの漸近線から益々解離し、際限なき資本蓄積を達成する可能性は終りつつある。と言う。
   もう一つは、大きな地政文化的変化で、中道主義的自由主義の終焉。
   1968年の世界革命で、保守的なイデオロギーと極めて急進的なイデオロギーを主張するものが自分たちの独自的存在を取り戻し自律的な組織的・政治的戦略を追求し初め、同時に、国家主導の改革や変革を追求していた社会民主主義や穏健な社会主義が勢力を落として、政治経済全体が反動化していったのである。
   コンドラチェフ循環の上昇局面の終期から下降局面にかけて、世界の余剰価値の大量な領有のレベルを維持するために、資本家は、金融部門の獲得に、世界システムの金融化に走ったと、金融危機や格差拡大の因について触れているのが興味深い。
   1968年以降の資本主義のカオス状態など、一寸毛色の違った経済分析を披瀝していて、面白い。

   現実的な表現をすれば、世界的なポピュリズムの台頭による政治の右傾化、福祉国家体制の後退、富裕者への富の集中と貧困の拡大という経済格差の異常な拡大、公的債務の増加と財政の緊縮と破綻、自由貿易体制の後退とブロック化の進行等々、とにかく、歴史の歯車が、逆回りし始めたことは事実で、どんどん、政治経済社会環境は悪化しつつある気配である。

   さて、著者の要約は、
   現在の近代世界システムが存続できないのは、それが均衡からあまりにも遠ざかりすぎていて、無際限の資本蓄積を資本家に容認できるような体制ではなくなってきており、後に来るシステムをめぐって闘争が展開される、そんな中に生きている。合理的に安定した新しいシステムの構築は可能ではあろうが、歴史的選択肢を分析して、望ましい結果をもたらすような道徳選択をして、そこへ至る最適な政治的戦術を評価することが大切である。と言う。

   資本主義システムは、「無限」の資本蓄積の永続的な追求――より多くの資本を蓄積するための資本の蓄積――が主要な決定的特徴でなければならないとする資本主義の定義そのものが、私には異質であり、土俵が違うので、何ともコメントがし辛い。
   例えば、経営者が、株主至上主義に立つのが、ミルトン・フリードマンの哲学であったが、今や、欧米の経済学者や経営者が、日本流のステイクホールダー主義を標榜し始めており、
   株式投資も、企業の社会的責任のみならず、ESGやCSRなど政治経済社会などへの貢献指標が注視され始めており、資本主義そのものへの見方が大きく変ってきている。
   資本主義自身が、どんどん、変質して、短絡的な見方や固定観念では律し得なくなってきているので、資本主義のサバイバルを云々するのではなく、資本主義システムが良いとするなら、その利点を追求しながら、如何に改革して行けば良いのかを、民主主義との関係をも考慮しながら、考えることであろうと思ている
   
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野上素一訳編「ダンテ神曲 詩と絵画にみる世界」

2020年08月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   1968年刊だから随分古い本だが、野上素一訳「神曲」の特徴で、それぞれの篇のタイトルが特異で、「地獄界」「浄罪界」「天堂界」、
   順を追って、神曲の詩編の抜粋を連ねて、そのシーンを描いた多くの絵画を添えて語る、詩と絵画で見るダンテ「神曲」の世界である。
   絵画は、これまでに観たことのない絵ばかりなのだが、地獄篇の絵を見ていて、ヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルの原型の雰囲気を感じて興味深かった。
   天堂界に移るにつれて当時の宗教画に近くなってくるのだが、まだ、稚拙な感じである。

   さて、大分前に読んだので忘れていたのだが、地獄篇で、ダンテが、地獄に落ちたホメロスやオデュッセウスに会うシーンが出てきて、丁度、ホメロスの叙事詩を読んでいるところなので、興味を感じた。
   詩人の王ホメロスは、辺獄で、善良だがキリスト教の洗礼を受けなかった者たち、古典の文人に会うシーンで登場し、オデュッセウスとは、権謀術策をこととした亡者のシーンで出てくるのだが、彼らはギリシャ人であって、キリスト教徒でないから、当然、地獄に落ちているのであり、プラトンやソクラテスさえも、この地獄の第一の谷に落ちている。
   このような偉大なギリシャの哲人や文人たちに、辺獄の冒頭、第一の谷で会うというのは、ダンテが、ギリシャ文明文化に対して相当造詣が深く畏敬していたからであろうと思う。当時、東ローマ帝国は、オスマントルコの支配下にあったので、イスラムやギリシャ学者経由の知識伝播によったのであろう。
   まず、ホメロスとの遭遇は、次の絵の、抜剣を手にした先頭の人物で、ホラティスス、オウィディウス、ルカヌスが後に続く。
   

   オデュッセウスについては、この「神曲」では、相当紙幅を割いて書いており、地獄篇第二十六歌において、自分の航海話を語らせていて非常に興味深い。
   権謀術策をこととした亡者と言う位置づけだが、トロイア戦争で、トロイの木馬を考案するなど謀略の士であったということである。
   当時の考えによれば、オデュッセウスは、故国イタカに帰り着かず、ポルトガルへ渡り、リスボン市を創り、更に、アフリカの西方の海を行くうちに暴風雨にあって死んでしまったと信じられていた。
   ダンテは、オデュッセウスに、妻子や老いた父を思いながらも、この世界を知りたいと言う激情に勝てず、スペインもモロッコもサルジニア島も後にして、ヘラクレスが、この先を越えてはならないと二本の標柱を立てたと言う狭いジブラルタル海峡をも越えて、アフリカ西海岸を南下し南半球の星々が見えるところまで来て、神の御意のままに、大暴風雨に襲われて海に消えていった。と語らせている。
   丁度、インドに到達したバスコ・ダ・ガマの航路と同じであって興味深い。

   勿論、このオデュッセウスの航海記については野上教授のこの本には間単にしか書かれていないので、平川祐弘教授の「神曲」から原文を読んでの補足だが、オデュッセウスが、船員たちに向かって、「世界の西の最果てに来た。もはや余命の長くない諸君が、日の当たらぬ人なき世界を探ろうとしている・・・諸君は獣のごとき生を送るべく生を享けたのではない。諸君は知識を求め徳に従うべく生まれたのである。」と激励するシーンなど実に崇高であって感激する。

   さて、このオデュッセウスの航海だが、EUが、欧州共通教科書として編纂した素晴らしい「ヨーロッパの歴史」に、このことに触れたコメントがある。
   まず、ギリシャが、植民地を必要とした理由をアリストテレスを引用しながら、貴族階級と民衆との内紛であると説明して、この圧力が海外領土で共同体を創るべくドライブして、この大胆な海洋民族が、ホメロスのオデュッセウスのような波瀾万丈の冒険に乗り出させたのだと言う。
   このものがたりは、好奇心旺盛で、大胆不敵、辛抱強く、未知の限界を押し広げて、いかなる障害にも真っ向から立ち向かい、何とか切り抜けていこうとする人物像を描いているのだが、このようなギリシャ人によって発展した大規模な貿易が、彼らを地中海の他の民族と接触させて、地中海が、最初の大きな共同市場になった。と説いていて、ギリシャを持ち上げている。
   この記述で、オランダにいたので、小さな港から木っ端のような船に乗って大海原を横切って、日本やインドネシアへ乗り出してきていたオランダ人のギリシャ人にも劣らない凄さを思って感慨を覚えた。
   オデュッセイアの記述のこの本の絵画は次のとおり。
   

   ところで、余談ながら、パリスとスパルタからトロイアへ駆け落ちしたへレーナは、肉欲の罪を犯した者として、淫婦クレオパトラやトリスタンとイゾルデなどと一緒に、愛ゆえに現世を追われて、辺獄の第二の谷に落とされている。
   この「神曲」では、ダンテの独断と偏見で、法王であろうと国王であろうと直近の友人知人さえ地獄や辺獄へ落として、地獄の責め苦を味わわせているのだから、とにかく凄まじい。

   ついでながら、先に紹介した平山郁夫と高階秀爾の「世界の中の日本絵画」のそのあたりのページを添付しておく。
   とにかく、洋の東西を問わず、地獄は同じで恐ろしい。
   
   
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ホメーロスの イーリアス物語

2020年08月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   孫のために買ってあったバーバラ・レオニ・ピカードの「ホメーロスの イーリアス物語 」を読んだ。(岩波少年文庫)なので、中学生用だが、縮刷版と言うことで、遜色はなさそうである。
   本来なら、岩波文庫などのホメーロスの「イーリアス」原文翻訳本を読むべきなのだろうが、トインビーの歴史の研究もサマヴェルの縮小版を読んで問題なかったと思っているし、どうせ、翻訳であるから、とにかく、手っ取り早く筋を追いたかったのである。

   「イーリアス」は、ホメーロスの壮大な叙事詩で、もう一つの「オデュッセイア」の前編と言った位置づけで、主人公は、ギリシャの勇将アキレウスである。
   「怒りをうたえ、女神よ。ペーレウスの息子アキレウスのかの呪われし怒りを。」と言う詩で始まっているように、「アキレウスの怒り」が主題なのである。
   ギリシャ軍が、トロイに遠征して、トロイア城を包囲攻撃した10年戦争の最後の50日を主題としていて、舞台は、トロイア城、トロイア海岸に設営されたギリシャ軍の野営陣地、その間に広がるスカマンドロス川の平原で、激しい両軍の戦闘と、アキレウスとトロイアの総大将ヘクトールとの壮絶な戦いが描かれている。

   この物語の発端は、トロイア王プリアモスの息子パリスが、神々の女王ヘーラー・知恵の女神アテーナ・愛と美の女神アプロディーテという天界での三美神のうちで誰が最も美しいかを判定させられた「パリスの審判」で、アプロディーテを選んだことで、この時に、パリスは、アプロディーテから絶世の美女でスパルタの王子メネラーオスの妻となっていたヘレネーを妻にするよう唆されていて、訪問時に恋をし略奪してトロイヤに連れ帰った。ことによる。
   メネラーオスの兄アガメムノーンがギリシャ軍の総大将になって、ヘレネーを取り返すべく、求婚者仲間たちを集めてトロイアに攻め寄せ、トロイア戦争が勃発した。
   ヘレネーを返してギリシア勢に引き上げてもらおうという提案がなされたが、パリスが反論し膠着したので、10年間トロイア戦争が継続し、結局、最後はトロイの木馬作戦が功を奏して、ギリシャ軍のトロイア占領で幕が下りた。

   このギリシャ神話を信じたハインリヒ・シュリーマンが、トロイアやアガメムノーンのミケーネなどを発掘して史実確認の端緒を開いたというのが非常に興味深い。
   トルコの田舎は車で少し走ったけれど、トロイアへは、行ったことはないのだが、ミケーネへは一度行ってライオン門を潜り、アテネの国立考古学博物館でアガメムノンのマスクと称されるマスクや黄金遺品などを観てギリシャ神話に思いをはせた。
   
   
   いくらヘレネ―が絶世の美女だと言っても、それだけで、トロイア戦争が起こったとは思えないのだが、訳者が触れているように、この物語の紀元前1700年から紀元前1200年頃にかけてあった、次第に激しさを加えてきたトロイヤとギリシャの制海権をめぐる対立抗争が引き金となったようである。
   黒海に通じるマルマラ海の入り口に位置するトロイアなどの同盟国が、黒海貿易を独占して巨利をはくしていたので、ギリシャの戦艦が、この通路であるヘレスポントス海峡の航行権を要求して争ったと言うのである。
   当時は、多少違ったかも知れないが、ギリシャは、乾燥地帯であって、耕地面積が限られているので、豊かな農耕地の広がる植民都市の開発は必須でもあった。

   この物語は、ゼウスを筆頭にしてギリシャの神々が登場して、それぞれに加担して背後で操るという神と人間が入り乱れての活劇物語で、右に転び左に転びで非常に面白い。
   パリスが審判で肩入れしたアフロディーテは、当然、トロイア贔屓で、銀の弓を持ったアポローンや軍神アレースがトロイア軍に味方、
   パリスに憤懣やるかたないアテ―ナは勿論、神々の女王ヘーラ、ヘーパイトソスはギリシャに味方、ゼウスは、是々非々主義だが、本質的にはギリシャに肩入れ、
   しかし、ギリシャ神話の神々は、至って人間くさくて気まぐれで、途中で手を抜くは、考えを変えるはで、神々に必死に祈っても、信用出来ず、必ずしも霊験あらたかでないところが面白い。

   もう一つ、叙事詩物語だから面白いのだが、「イーリアス」の「アキレウスの怒り」の発端も、また、女性の話。
   ミロのヴィーナスなど美しいのは、確かに、女神像ばかりだが、ところが、ギリシャでは男の子が生まれる方が良いと、店の主人が語ってくれたのを、何故か覚えていて、どっちか分からない。
   アポローンの矢による疫病の発生で窮地に立ったギリシャ軍は、アポローンの怒りを鎮めるために、身の代に、アポローンの神官クリュセースに、総帥アガメムノーンが戦利品として略奪した娘クリューセーイスを返すことになったので、アガメムノーンは娘を失う代償として、アキレウスの戦利品であるブリーセーイスを自分のものにする。怒り心頭に達したアキレウスは、その後、ギリシャ軍が窮地に立って、拝み倒されても、集会にも出ず、戦闘にも参加しなくなる。しかし、アガメムノン以下名だたる英雄たちが傷つき総崩れとなり、陣地の中にまで攻め込まれたので、アキレウスの盟友パトロクロスは、アキレウスがアガメムノンの侮辱を頑として許さずに出陣を拒否するので、仕方なく代わりにアキレウスの鎧を借りて出陣する。しかし、ヘクトールに討たれ、アキレウスの鎧も奪われてしまう。
   アキレウスは、パトロクロスの死を深く嘆き、ヘクトールへの復讐を決心して出陣して、ギリシア勢とイーリオス勢が見守る中、アキレウスとヘクトールの一騎討ちが始まる。アキレウスはヘクトールを追いまわして討ち果たして、パトロクロスから奪った自分の鎧をヘクトールから剥ぎ、戦車の後ろにつなげて引きずりまわし、復讐を遂げて満足して凱旋する。

   この物語の主役であるアキレウスの叙述は、如何にも、冷酷無比で自分勝手な態度で終始しており、何が、ギリシャきっての名将であるのか分からないのだが、最後に、年老いたトロイア王プリアモスが、ヘルメスの助けもあって、単身危険を冒して訪ねてきて、息子ヘクトールの遺体の返還を懇願したので、誠意を尽くしてもてなして遺体を引き渡し、葬儀が済むまで休戦を守った。
   ところで、このアキレウスも、どうしようもない馬鹿男であり、ヘレネーを奪ってトロイア戦争の因をなしたパリスに討たれて死ぬ。
   略奪されてトロイアへ連れてこられたへレネーだが、トリスタンとイゾルデの如く、アフロディーテに惚れ薬を飲まされたわけでもなかろうが、トロイアに来てみて、パリスが、男前だけで、その実のなさ無能ぶりに気づいて邪険に扱うあたりの描写が興味深い。
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8月15日終戦の日に思うこと

2020年08月15日 | 政治・経済・社会
   毎年、やってくる終戦記念日、8月15日、
   私は、5歳になったところで、宝塚の田舎に住んでいたので、何の記憶もない。
   その前に、西宮戎の側に住んでいたのだが、戦争途中に、米軍の爆撃で焼け出されて、母の実家に移り住んだ。
   空襲警報のサイレンが聞こえてくると、部屋の電灯にシェイドをかけたり、頭巾を被って庭の防空壕に駆け込んだりしたのを覚えている。
   衝撃的だったのは、毎夜のように、西宮に居た頃、神戸や大阪方面の夜空が真っ赤に焼けて明るかったことで、今でも鮮明に覚えている。
   戦後、大阪の梅田や神戸の三の宮の焼け野原の悲惨さも、なぜか、瞼の隅に残っている。

   戦争中、良く晴れた日には、豆粒のようなB29爆撃機の機体が白く光って飛んで行くのをよく見たが、時折、銀紙の破片がヒラヒラ綺麗に舞い落ちてくると思ったら、打ち落とされた日本機の破片だと言われた。
   また、川西航空や飛行場だと思うのだが、破壊された日本軍機が、あっちこっちに転がっていた。
   子供だったので、何も分からなかったのだが、アメリカは遠いところだと聞いていたので、多くの米軍機が日本まで飛んできて、こんなに連日連夜、空襲空襲で追い回されているのだから、勝ち目があるはずがないと薄々感じていたような記憶がある。

   終戦後の貧しくて厳しい幼少年時代を過ごし、神武景気と安保闘争の中で大学時代を過ごし、必死になって働き続けて、Japan as No.1に上り詰めると同時に、欧米へ飛出して、平穏な豊かになってグローバリゼーションの中で、暮らしてきた。
   夢のような人生の展開であった筈で、勝手なことを言いながら、平和な生活にどっぷりと浸かって生きてきたのだが、今思うと、その幸せが如何に貴重なもので大切なのかを身に染みて感じている。

   5年前に、新しく上映された映画と1967年版の「日本のいちばんながい日」についてレビューを書いているのだが、また、戦争については、これまでにも随分書いてきたので、これ以上は蛇足なので、止める。
   今考えてみれば、豊かな知識教養に裏打ちされた円満なる常識が如何に必要かが分かるのだが、あの時点で、自分自身が正しい価値観を持っていて、日本人としての健全な判断をして行動が出来たかどうかは自信がない。

   さて、1939年から1945年までの6年余りにわたった第二次世界大戦が終って、既に、75年、
   幸いなことに、米ソ間の冷戦や、今日の米中間の緊張など大国間の軋轢は存在したが、ヴェトナム戦争や中近東などでの戦争はあったものの、世界中を巻き込む世界大戦は起こっていない。
   代理戦争や局地戦争など小規模な戦争はあっても、大国間の戦争が勃発して本格的な核戦争に突入すれば、宇宙船地球号のみならず、人類の消滅に至るのは必置だという認識があるからであろう。

   マクドナルドのある国同士は戦争しない?」と言うトーマス・フリードマンの「紛争防止の黄金のM型アーチ理論」や、それを発展させたデル・システムのようなジャスト・イン・タイム式サプライ・チェーンで密接に結合された国々の間では、旧来の脅威を駆逐(?)するので戦争など起こらないとする「デルの紛争回避論」などが有名だが、グローバリゼーションが拡大深化し、世界全体がリンクされてしまっており、特に豊かになった国同士では、失うものが多すぎるので、戦争はあり得ないと思っている。

   WOWOWで、岡本喜八監督作品の1967年版の「日本のいちばんながい日」が放映されたので、もう一度鑑賞した。
   さて、口絵写真は、何か似つかわしい写真はないかと思って、インターネットで、第二次世界大戦をクリックして出てきた写真を借用しているのだが、天皇陛下と爆心地の広島、言うならば、天皇制維持と原子爆弾が、私には、一番象徴的な問題であったと思っている。

   椅子や机、パンやミルク、その構成源である原子や分子と少しも違わない、全く同じ原子や分子で形成されている人間が、自分という意識を持って生きている奇跡とも言うべき運命の不可思議を思うと、このような自由で平和で恵まれた世の中で生を謳歌できるという幸せを、どのように感謝すれば良いのか、今日一日、噛みしめてみたいと思っている。
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平川 祐弘著「中世の四季 ---ダンテ『神曲』」

2020年08月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ダンテの「新生」を読んだので、ついでにと思って、「中世の四季 ---ダンテ『神曲』」を手にした。
   平川教授の随分古い本の復刻版だが、賞味期限があるような内容でもないので、雑学吸収と考えて読み始めたのである。

   まず、最初に、「神曲」の世界
   翻訳本の概説なので、特に、目新しいものはないのだが、ダンテが、造形美術について非常な興味と関心を寄せた人であったと言う指摘で、彫刻や絵画との関わりについて、興味を感じた。
   「神曲」は、詩と文學の最高峰の作品であるばかりではなく、同時に、彫刻や絵画等の芸術にも、強大な霊感を与えて、多くの主題を提供してきた。
   ダンテ自身が、造形美術に造詣が深く、詩の中で、芸術家について言及して居るのみならず、彼自身に絵心があってその豊かな表現描写が芸術家の霊感の泉となったと言うことが、造形芸術にとって第1級の重要性を持つ人物だったと言うことであろう。
   ジョットとも親しかったようで、詩の中でも言及しているのだが、そのこともあって、いくらかダンテの像が残されているのだが、私は、ジョットの次の繪が一番ダンテを現しているのではないかと
思っている。
   

   ダンテから芸術的霊感を汲んだのは、システナ礼拝堂の壁画のミケランジェロ、ラファエロ、神曲素描のボッティチェッリから、「地獄の門」のロダンまで、枚挙にいとまがないほどだが、平川教授は、この例を、神曲 煉獄篇第十歌の「受胎告知」の図を上げていて、その後の「高慢の罪の償いを払うために岩を背負った人々が、腰を曲げて泣き顔で近づいてくるシーンが、彫刻家の目で把握された人間群像ではないかと述べている。   

   この第十歌の、岩を背負った人物像の繪は、手元にあるギュスタヴ・ドレエとウイリアム・ブレイクの作品から次の通り。
   ドレエの繪は、インターネットを叩いていたら、国会図書館のアーカイブ画像から古い繪が出てきて興味を持ち、古書を漁って買ったのが、昭和17年6月20日発行の「ダンテ神曲画集」、焦げ茶色に変色したまさに古書そのもの。新版も出ており、英語版だと綺麗な本が出ているのだが、まあ、前時代の雰囲気が出ていて、それも良いかと、置いている。
   
   
   
   


   余談だが、文學と絵画との関係を考えていて、前に、ダ・ヴィンチが、「芸術における最高位は絵画である」と言って居たのを思い出した。
   ミラノのスファルツァ城で行われた、幾何学、彫刻、音楽、絵画、詩歌のどれに相対的優位があるか、討論の夕べ「パラゴーネ」で、科学的および審美的観点から、芸術の最高位であると絵画を徹底的に擁護したと言う。絵画を、光学と言う科学的探究や遠近法と言う数学的概念を結び付けて、芸術と科学が如何に密接に結びついているかを訴え、真のクリエイティビティには、観察と想像を結び付け、現実と空想の境界をぼかして行く能力が必要であり、その両方を描くのが偉大な絵画であると熱弁を振るったのである。
   三次元の世界を平面で表現するためには、遠近法や光学の理解が必須であり、絵画は、数学に基づく科学であり、手を動かす作業であると同時に知的な営みである。絵画は、芸術であるばかりではなく、科学である。と言うのである。さらに、絵画は、知性だけではなく、想像力も必要であり、空想と現実がお互いに助け合って、融合すると、自然の創造物のみならず、自然が生み出せなかった総てを生み出す創造性が湧き起こる。と言うのだが、文學との関係については、何も触れていない。
   ダ・ヴィンチは、どちらかというと、理系の科学者であり技術者であって、美学への傾倒著しかった芸術家のミケランジェロやラファエロと違って、ダンテの影響は少なかったのであろう。

   面白かったのは、「神曲」の英語版の全訳が初めて出たのは、1802年で、この「神曲」が、全西欧に巨大な姿を現したのは、実は、19世紀以降の現象だと言うことである。それに、日本へは、森鴎外のアンデルセン「即興詩人」からだと言うから、初期ルネサンスの胎動期のフィレンツェからは、随分時を経ている。
   ダンテが、「神曲」を、地獄篇、煉獄篇と順次完成し、天国篇を書き終えたのは、1321年であるから、世界的には、随分眠っていたと言うことであろうか。
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わが庭・・・タカサゴユリ咲く

2020年08月11日 | わが庭の歳時記
   テッポウユリに似た白いユリ・タカサゴユリが咲いている。
   台湾ユリという名前で覚えているのだが、タカサゴは台湾の古名で、正式にはタカサゴユリと呼ぶらしい。
   この花は、茎がかなり太くてしっかりとしていて、すっくと1.5メートルくらいまで伸びて花を咲かせるので、門扉の高みからは見下ろすように咲いている。
   他のユリのように、頭を下げて写真屋泣かせの風情とは違って、威勢が良さ過ぎるのである。
   それに、この花の特徴は、小さな種子を沢山つけて、風で容易に運ばれて広がって行くので、公園や路傍に一面に咲いていて、花壇の花という感じがしない。
   わが庭でも、植えた記憶がないので、どこからか飛んできたのであろうと思っている。
   

   先日、ミンミンゼミが鳴き始めて秋の気配がすると書いたが、今朝、わが家の裏庭のヤマモモの木に、ツクツクボウシが来て鳴き出し、その後、クマゼミがやってきて、「シャーン、シャーン、シャーン」と激しく鳴き始めた。
   一気に真夏日になって、外出は控えているのだが、陽がやや傾き始めた感じで、陽の暮れもはやくなってきたような気がする。
   そう言えば、昨日午後遅くから、庭でバーベキュー・パーティをやり、夜、孫たちと花火をやったのだが、爽やかな夜風が気持ちよかった。
   もう、秋はそこまで近づいているのである。
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ダンテ・平川祐弘訳「新生」

2020年08月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ダンテの「神曲」を読んで、しばらく経つが、初期の著作「新生」を読んでみた。
   勿論、この「新生」は、ダンテのベアトリーチェへの愛の詩集なのだが、「神曲」でのように、昇天して神格化したベアトリーチェではなく、生身の「あえかなる君」として描いているので、分かりやすくて身近な存在である。
   尤も、天国に召されてからは、天使として昇華されて行くのだが。   
   最後には、「神曲」のように、至高天の上方の栄光の真位に上り、キリストを近くから仰ぎ見る。

   まず、最初に気になったのは、平川教授は、ベアトリーチェを、「あえかなる君」という表現で通していることである。
   「あえか」は、小学館『日本国語大辞典』では、①触れれば落ちるようなさま。危なっかしい様子。②容姿や気持などが弱々しいさま。かよわく、なよなよとしたさま。はかなげであるさま。きゃしゃであるさま。ふつう若い女性に関して用いられる。また、上品で美しいという感じを伴って用いられることが多い。③自然の景物や夢、希望などのはかなげで美しいさま。と言うことで、例証されているのは、源氏物語の夕顔であるように、この表現では、どうしても、上品で美しいとしてもひ弱ななよなよとしたベアトリーチェ像しか浮かんでこないのである。

   ベアトリーチェの絵画像は、いくらかあるが、私は、ヘンリー・ホリディが、1883年に、ヴェッキオ橋の近くのアルーノ川河畔で、ダンテが、18歳の時、愛するベアトリーチェに会った運命的な出会いの瞬間を描いた「聖トリニータ橋でのダンテとベアトリーチェの邂逅 Dante meets Beatrice at Ponte Santa Trinità」(リバープール国立博物館蔵)が、一番イメージを膨らませてくれる良い繪だと思っている。
   

   野上素一教授によると、ダンテが、最初にベアトリーチェに会ったのは、1274年、フィレンツェの少年少女の祭りの日で、真っ白な服を着て色白の美少女ベアトリーチェを一目見るや、雷に打たれたように我を忘れて彼女に執心し、その愛は一生変わらなかったと言う。神秘的な婦人ベアトリーチェは、じつに清新体の詩の女主人公としてはふさわしい人物で、ダンテは、彼女を主題として詩を書き、熱愛していたが、プラトニック・ラブに終わったのは、同じ貴族なので身分上の差からではなく、フィレンツェ第一の銀行家大富豪と貧しい両替業との経済的な落差の大きさだったのだと言う。
   18歳のアルーノ川河畔での邂逅以降、ダンテのプラトニック・ラブはつのる一方なのだが、それを他人に気づかれるのが嫌で、彼女を教会で発見した時に、自分が彼女を凝視しているのを隠すために、二人を結ぶ直線状に座っていた一人の貴婦人に関心がある様に装い、そのスケルモ(隠れみの)の婦人が居なくなると、別の貴婦人をスケルモにして凝視し続ける、それを知ったベアトリーチェが、その夫人に迷惑をかけたと言ってダンテを非難して、それ以降は路上で会っても会釈を拒否したと言うのである。
   この「新生」で描かれていたのは、ダンテにとって、最大の願いは、あやかなる君から、会釈してもらって素晴らしいご挨拶を受けて味わう至福の喜びであったから、苦痛だったはずだが、このことには触れていない。
   ピサへの従軍から帰ったダンテに、ベアトリーチェの父フィルコ・ポルティナーリが病没したと言う知らせが入り、その後、それを追うように、ベアトリーチェも、心労と産褥熱で、25歳の生涯を閉じる。

   「新生」では、このあたりの経緯は、表現されているのだが、フィレンツェ第一の富豪の令嬢故、同じ銀行家のシモーネ=デ=バルディと結婚して、24歳で夭折したのだが、両替業でやっと生計を立てていた貧乏貴族の子息ダンテには、高根の花で、片思いに終わったのが苦痛だったのか、マドンナについて、最も気になるはずのこの結婚については、この「新生」には一切触れては居らず、唐突な感じで、一気に、ベアトリーチェの死が歌われているのが興味深い。

   私の知らなかった挿話で、高貴な女性の結婚式の食事会に友人に誘われて付きそいで参加した時に、ベアトリーチェに会って、稲妻のような一撃を感じて周章狼狽し正体をなくして、醜態を晒して嘲笑のマトとなったと歌っており、ダンテの片思いが、如何に異常だったか、
   ベアトリーチェの側に近づくと、いかにも無様に引きつった顔をして世間の物笑いになる、自分に能力を失わず自由にすらすら答えるだけの力があれば、どんな艱難辛苦があろうとも、会いたいお目に掛かりたいという希いは抑えがたく湧き上がってくる。
   ベアトリーチェが逝くまで、ダンテは何回か会っているが、室生犀星ではないが、すべて、「遠きにありて思ふもの  そして悲しくうたふもの」であったというのだが、まさに、俗に言うプラトニック・ラブで、それ故に、あのような至高のベアトリーチェ像を作り上げることが出来たのであろう。
   
   この「新生」は、詞書と歌がある小さな物語が続く点で、「伊勢物語」とよく似た挿詩文という文学ジャンルだという。
   「新生」は、ダンテという一青年の「内部生命の歴史」だが、それに比べて、「伊勢物語」は、主人公も話もばらばらの百二十五の説話の集合体だというのだが、高樹のぶ子が、「業平」という小説にしたように、業平の一代記であり、殆ど違いはない。
   ただ、「新生」の方は、三十一首の詩が主体になっていて、自註と言うべき詞書が添えられている詩集なのだが、「伊勢物語」の方は、物語が主体であって、和歌が効果的に随所に加えられているという感じで、両方が上手く調和していて、味がある物語になっている。源氏物語や平家物語ばかりに目が行っていたのだが、能を鑑賞し始めてから登場頻度が増すと、最近では、この短い伊勢物語に興味を持ち始めた。

   素晴らしいソネットやカンツォーネについても感想を書きたいのだが、残念ながら、私の力の及ばないところである。
   「神曲」とは違ったダンテを垣間見た思いで、今道友信先生の神曲講義を読んでみたくなった。
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ナショナル・ジオグラフィック・・・米国は第3の原爆投下を計画していた

2020年08月09日 | 政治・経済・社会
   電子版記事で、ナショナル・ジオグラフィックが、「米国は第3の原爆投下を計画していた」という記事で、第3の原爆投下目標は、東京であったと報じていた。
   ”米国は、7月にニューメキシコ州の砂漠で原子爆弾の爆発実験を行った後、8月に日本の広島と長崎に原爆を投下した。だが、長崎への投下から日本が降伏するまでの6日間、米国はこれで終わりとはまだ考えていなかった。次の原爆投下は間近に迫っていた。”というのである。

   1回目の原爆投下の攻撃目標の選定には慎重な議論が重ねられ、科学者と主な軍の代表が率いるマンハッタン計画の目標選定委員会は、候補地として「ある程度広い都市地域で、目標自体は直径3マイル(4.8キロ)以上あり…東京と長崎の間にあって…戦略的価値が高いこと」との基準を設け、具体的に東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市、京都市、広島市、呉市、八幡市、小倉市、下関市、山口市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市の17都市を検討した。その後、リストが修正され、有力候補順に京都市、広島市、横浜市、小倉市、新潟市に絞られて、京都は、大都市でまだ空襲を受けていなかったため、最有力候補に挙げられた。同じくまだ空襲を受けていなかった広島は、中心部に大きな軍事基地があり、周囲が山で囲まれていることから、爆発を「集中させて」破壊力を増幅させるとしてリストに加えられた。
   6月末に、委員会は京都、広島、小倉、新潟を指定目標リストに載せたのだが、5月末に空襲が行われた横浜は、このリストから外され、また、京都もそのすぐ後に外された。ヘンリー・スティムソン陸軍長官が、戦略的理由と感情的理由から、日本の古都は守るべきと判断したためだ。マンハッタン計画の軍部責任者だったレスリー・グローブス少将はこれに強く反対し、京都は価値の高い重要な目標であると繰り返し主張したが、最終的にスティムソンがトルーマン大統領を説得し、リストから外された。
   京都を外したことで、悪天候などに備えて、もう一カ所広島と小倉の近くにある都市を加える必要があり、長崎には捕虜収容所があり、地形もそれほど好ましくなかったが、港湾都市で軍需工場が2カ所あったことから、長崎をリストに加えた。
   「1945年8月3日以降」第20航空軍は最初の「特殊爆弾」を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下せよ(これ以前の草稿では、これが優先順位であると明記されていた)。投下は(レーダーではなく)目視で行うこと。命令が下った。

   8月6日午前1時頃、リトルボーイはB-29爆撃機「エノラゲイ」に乗せられ、基地を飛び立った。この日、広島の上空には雲がほとんどなく、午前8時すぎに町が視界に入った。8時15分、原爆が投下された。それは44秒間落下した後、TNT火薬およそ1万5000トンに匹敵する威力で爆発した。広島はほぼ一瞬にして炎に包まれ、破壊された。数分のうちに数万人が命を落とし、その後も原爆の影響でおよそ10万人が犠牲となった。エノラゲイは1万メートルの高度を1時間弱旋回して町を観測した後、テニアン島へ戻っていった。
   2回目は、テニアン島の幹部は、ワシントンDCに相談することなく(独断で)、時を移さず原子爆弾「ファットマン」を組み立てて別のB-29爆撃機「ボックスカー」へ積み込むと、日本へと送り出した。目標は、九州北端にある武器庫の町、小倉市だったが、町の上空は雲のせいなのか煙のせいなのか(前日に近くの八幡市が空襲を受けていた)視界が悪かった。ボックスカーは45分間上空から目標を探していたが、やがてあきらめて長崎へ向かった。1945年8月9日午前11時2分、ファットマンは長崎上空でTNT火薬2万トン相当の威力で爆発し、一瞬にして7万人以上の命を奪った。ボックスカーはしばらくの間破壊の状態を観察してから、基地へ戻っていった。

   2回の原爆投下もソ連による宣戦布告侵攻も、日本の無条件降伏受け入れを引き出すことはできなかった。日本は、天皇制を維持するという条件付きの降伏を米国へ申し入れる準備を進めていた。米国の首都は騒然としていた。8月10日、日本から条件付き降伏案を受け取ったトルーマン大統領と閣僚らは、その内容を隅から隅まで精査していた。グローブス少将はマーシャル参謀総長に書簡を送り、「次の爆弾」は予想よりも早く準備できると報告した。 ニューメキシコ州ロスアラモスでは、次の爆弾に使用される部品を完成させて、テニアン島へ運搬するための作業が急ピッチで進められていた。8月12日か13日にも最後の部品がロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。

   トルーマンはこの報告を受けるなり、準備作業を止めるよう命じた。マーシャルはグローブスへ「大統領の明確な許可なしに日本へ原爆を投下してはならない」と書き送った。広島への原爆投下後に「歴史上最も偉大なこと」と発言したトルーマンが、なぜ突然投下禁止命令を出したのだろうか。これ以上の原爆は戦争終結を早めるのではなく、終結へ向けた努力を妨げることになるのではと恐れていたという意見もあるが、別の歴史家は、トルーマンは大量殺戮をやめさせたかったからだと考えている。トルーマンが閣僚に対して「さらに10万人の命を奪うなど考えただけで恐ろしい」と語った。と言う。

   トルーマンからの中止命令を受けた後も、陸軍はさらなる原爆は必須と考えていた。8月10日、スパーツ太平洋戦略航空軍司令官は陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドへ電報を打ち、次なる目標は東京にすべしと強く勧告した。トルーマンは英国大使と面会し、日本が無条件降伏に前向きでないことから、「東京への原爆投下を命じる以外もはや選択肢はなくなった」と伝えた。もしその命令が下っていれば、数日のうちに作戦は遂行されていたはずだ。
   だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で1945年8月15日、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。日本がなぜ考えを変えたのか。原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。
   第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。と言う。
   以上が記事の概要である。

   原爆記念日に当たって、ナショナル・ジオグラフィックの記事の紹介だけに終るのだが、私自身、アメリカでMBA教育を受けたので、アメリカには一宿一飯の恩義を感じている。
   しかし、最近カリフォルニアの学者たちが原爆投下は必要でなかったと主張したように、私は、米国史に残る最高の恥辱であり悪行の極みだと思っているので、フィラデルフィアの学び舎での生活を通して、アメリカ人へは、徹底的に原爆投下の悪を説得し続けてきたし、ヴェトナム戦争を批判し続けてきた。
   今回のトランプ大統領を廻る問題の稚拙さを観ても分かるように、アメリカ人兵士の人命を守るために、戦争を終らせるために、原爆投下は必要であったと信じているアメリカ人が多く、必ずしも、良識的な判断が下されているわけではなく、あの広島に原爆投下したエノラゲイが、スミソニアン博物館に麗々しく展示されていることでも分かる。
   「鬼畜米英」と唱えて負け戦を戦っていた日本の世相も悲しいのだが、原爆記念日が訪れると、いつも、胸が締め付けられる思いである。

   政治は、いつまで経っても迷走しており、唯一の被爆国日本が、いかなる理由があろうとも、核兵器禁止条約に賛同せず批准しないのは最高の恥辱だと思っており、
   幸か不幸かは分からないのだが、このブログでは、平穏無事な平和日本の首都東京の今日を口絵写真に使わせて貰った。
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