松岡和子が、シェイクスピア戯曲の翻訳を、蜷川幸雄が、シェイクスピア全作品の舞台化を本格化していた頃、そして、講談社の雑誌「本」に、安野光雅の表紙絵と松岡和子の「シェイクスピア物語」が連載されていた頃、世紀が変る20世紀末に、舞台を鑑賞し戯曲を読み通しての対談集である。その少し前の5年間、ロンドンでシェイクスピア行脚に明け暮れていたので、楽しませて貰った。
二人のシェイクスピア談義が続いておれば、面白いのだが、その後、河合隼雄が文化庁長官となり、高松塚古墳壁画問題での心痛か脳梗塞の発作を起こして倒れて間もなく逝かれたので、この一冊で終っており、残念である。
河合隼雄は、箱庭療法でも高名な心理学者で、日本文学にも詳しく、ロメオとジュリエットから、リチャード3世など6作品について、松岡和子の絶妙な誘導によって、蘊蓄を傾けての、それも、肩の凝らない語り口でのシェイクスピア論であるから、非常に興味深い。
第1話は、「ロメオとジュリエット」で、種本のジュリエットは16才だったのをシェイクスピアは、14才の誕生日を迎える直前のジュリエットに引き下げたことに関しての対話が面白い。
14才に引き下げたのはシェイクスピアの天才たる由縁で、人間の考える最も完成された恋愛を書こうとすると、14才になってくる。この年齢は怖い年頃で、殺すか、死ぬか、という年齢で、死ぬしか仕方がない。普通はそこで死なないから、もう少し人生を不純に生きている。14才になると乱闘が始まる、皆、それを何とかごまかして生きている。と言う。
この舞台では、四日間で14才の少女から大人の女に急成長するのだが、その成長のキッカケは、恋をしたことと、秘密を持ったからだと言うことで、その凄まじさは、子供が大人になるときには、大人に知られてはならない秘密を持つことは絶対条件であり、シェイクスピアは、その元の形を描いたのだから凄い。と言う。
もう一つ、河合隼雄は、「恋愛の根本は、全く不可解に好きになると言うものだと思いますね。」それが上手く書けている。と言う。一目惚れというか直覚の愛というか、理屈抜きで好きになる。と言うことであろうか。
この辺りの叙述については、カミソリの刃を触れただけで、鮮血が迸り飛ぶような鮮烈な経験をしているので、感慨に堪えない
さて、「夏の夜の夢」で、全体が夢の構造になっていて、眠りというのは深まると、森へ行く、そこが凄い。と言う。
森は、無意識の世界そのもので、それ故に、森は昔話にでも何でも必ず出てくる。と言うのである。
ここで、ヨーロッパの森は、山の中にある日本と違って、ドイツのシュヴァルツヴァルトは勿論総ての森が平らに続いていて、入ったら奥がどうなっているか、何処まで行ったらどうなるか分らない。入ったら出てこられるどうか分らない不安感は、この平ら故で、それだけに無意識の世界の、出口がどこか分からないと言う状態が森というもので表されている。と言う話題に花が咲く。
このヨーロッパの森は平らだから入ったら抜けられないということにについては、多少違和感を感じている。
シェイクスピアの描く森は、「お気に召すまま」に登場するアーデンの森が一番典型的で、原作の舞台はフランスとベルギーの国境付近のアルデンヌであるが、それをシェイクスピアの故郷ウォリックシャー州エイボンあたりの森林をモチーフとしており、イングランドの森には、奥が深くて底なしの森というものはないと思うし、実際に外国に行ったことがなくて、原生林ではない故郷の森をモチーフにしてヨーロッパ各地の森を舞台にしているシェイクスピアの戯曲には、芝居を育む場であったとしても、そのような出口の分からない無粋な暗黒のイメージの森は出てこないように思う。
ジェイクイズが次の有名な台詞を語る森である
「この世は舞台、男も女も人は皆、出ては消えて行く役者にすぎない」
All the world's a stage, And all the men and women merely players.
スコットランドやウエールズなど山がちの国土には、まだ、古い森が残っているとしても、そして、少し前のシェイクスピア時代はまだしもとしても、今では、イングランドは、世界に雄飛すべく造船等で原生林を切り倒して森を徹底的に破壊し尽くして、綺麗な田園地帯に自然景観をイギリス人好みに馴化してしまっているので、ここで議論されているような森のイメージとは程遠い国土になっている。
尤も大陸ヨーロッパは別で、グリム童話などは勿論、ドイツの物語には、森は、入ったら抜けて出られない暗黒の森のイメージが主体で、シュヴァルツヴァルトのような森がこれに近いであろうか。
日本の森も、山があるからいくらでも出てこられるというのは誤解で、富士山原始林やその青木ヶ原樹海に入り込めば出てこられないのではなかろうか。
この森については、先日来勉強を続けている今道友信先生の「ダンテ神曲講義」で、森に触れているので、参考にしたい。
「神曲」の冒頭で述べられている森である。
人生の道なかばで、
私は正しき道をそれて
暗き森の中をさまよっていることを知った。
暗い森は、入ったら迷い込んで出られない深い森である。ドイツやオーストリア、スイス、フランス、イタリアなどに行くと、中に入ると抜けられなくなる鬱蒼とした森が、割合に都市の近くにある。いまは自動車道路が出来ていて、迷い込む恐れも少なくなったが、自然のままの森は踏み込むと行き先が分からなくなる。富士山麓の青木ヶ原はそのような森の一つである。ダンテは、そうとは知らずに人生の暗黒の場に入った。と言う。
原生林の森は道もない。森林の奥に入ると外が見えない。方角を知らせる山が近くにあっても、森林の中に迷い込めば見ることが出来ない。そこを歩いている内に、いつの間にか正しい道-----行人としての人間が神に向かって進む正しい道を踏み外しているのに気がついた。それは、森林の暗さの中で見えなくなってしまっていた。森林の暗さが、自覚への道であった。
ダンテは、この森で、豹、獅子、牝狼三頭の獣に遭遇するのだが、この森は、異教的、異域的要素よりも、キリスト教の中で踏み迷う罪の森であって、日常の誘惑がある悪魔が棲むところ、まったくキリスト教の悪の場の象徴であり、現代の悪魔は都会にいるが、中世は妖魔は森にいた。と述べている。
どう解釈すれば良いのか。
分かったようで分からないのが、文学の解説。
いずれにしろ、道に迷って、肝心のブックレビューにならなかったが、この「快読シェイクスピア」は、実に参考になる面白い本である。尤も、シェイクスピアの舞台を観て、戯曲を熟読して後のことではあるが。
二人のシェイクスピア談義が続いておれば、面白いのだが、その後、河合隼雄が文化庁長官となり、高松塚古墳壁画問題での心痛か脳梗塞の発作を起こして倒れて間もなく逝かれたので、この一冊で終っており、残念である。
河合隼雄は、箱庭療法でも高名な心理学者で、日本文学にも詳しく、ロメオとジュリエットから、リチャード3世など6作品について、松岡和子の絶妙な誘導によって、蘊蓄を傾けての、それも、肩の凝らない語り口でのシェイクスピア論であるから、非常に興味深い。
第1話は、「ロメオとジュリエット」で、種本のジュリエットは16才だったのをシェイクスピアは、14才の誕生日を迎える直前のジュリエットに引き下げたことに関しての対話が面白い。
14才に引き下げたのはシェイクスピアの天才たる由縁で、人間の考える最も完成された恋愛を書こうとすると、14才になってくる。この年齢は怖い年頃で、殺すか、死ぬか、という年齢で、死ぬしか仕方がない。普通はそこで死なないから、もう少し人生を不純に生きている。14才になると乱闘が始まる、皆、それを何とかごまかして生きている。と言う。
この舞台では、四日間で14才の少女から大人の女に急成長するのだが、その成長のキッカケは、恋をしたことと、秘密を持ったからだと言うことで、その凄まじさは、子供が大人になるときには、大人に知られてはならない秘密を持つことは絶対条件であり、シェイクスピアは、その元の形を描いたのだから凄い。と言う。
もう一つ、河合隼雄は、「恋愛の根本は、全く不可解に好きになると言うものだと思いますね。」それが上手く書けている。と言う。一目惚れというか直覚の愛というか、理屈抜きで好きになる。と言うことであろうか。
この辺りの叙述については、カミソリの刃を触れただけで、鮮血が迸り飛ぶような鮮烈な経験をしているので、感慨に堪えない
さて、「夏の夜の夢」で、全体が夢の構造になっていて、眠りというのは深まると、森へ行く、そこが凄い。と言う。
森は、無意識の世界そのもので、それ故に、森は昔話にでも何でも必ず出てくる。と言うのである。
ここで、ヨーロッパの森は、山の中にある日本と違って、ドイツのシュヴァルツヴァルトは勿論総ての森が平らに続いていて、入ったら奥がどうなっているか、何処まで行ったらどうなるか分らない。入ったら出てこられるどうか分らない不安感は、この平ら故で、それだけに無意識の世界の、出口がどこか分からないと言う状態が森というもので表されている。と言う話題に花が咲く。
このヨーロッパの森は平らだから入ったら抜けられないということにについては、多少違和感を感じている。
シェイクスピアの描く森は、「お気に召すまま」に登場するアーデンの森が一番典型的で、原作の舞台はフランスとベルギーの国境付近のアルデンヌであるが、それをシェイクスピアの故郷ウォリックシャー州エイボンあたりの森林をモチーフとしており、イングランドの森には、奥が深くて底なしの森というものはないと思うし、実際に外国に行ったことがなくて、原生林ではない故郷の森をモチーフにしてヨーロッパ各地の森を舞台にしているシェイクスピアの戯曲には、芝居を育む場であったとしても、そのような出口の分からない無粋な暗黒のイメージの森は出てこないように思う。
ジェイクイズが次の有名な台詞を語る森である
「この世は舞台、男も女も人は皆、出ては消えて行く役者にすぎない」
All the world's a stage, And all the men and women merely players.
スコットランドやウエールズなど山がちの国土には、まだ、古い森が残っているとしても、そして、少し前のシェイクスピア時代はまだしもとしても、今では、イングランドは、世界に雄飛すべく造船等で原生林を切り倒して森を徹底的に破壊し尽くして、綺麗な田園地帯に自然景観をイギリス人好みに馴化してしまっているので、ここで議論されているような森のイメージとは程遠い国土になっている。
尤も大陸ヨーロッパは別で、グリム童話などは勿論、ドイツの物語には、森は、入ったら抜けて出られない暗黒の森のイメージが主体で、シュヴァルツヴァルトのような森がこれに近いであろうか。
日本の森も、山があるからいくらでも出てこられるというのは誤解で、富士山原始林やその青木ヶ原樹海に入り込めば出てこられないのではなかろうか。
この森については、先日来勉強を続けている今道友信先生の「ダンテ神曲講義」で、森に触れているので、参考にしたい。
「神曲」の冒頭で述べられている森である。
人生の道なかばで、
私は正しき道をそれて
暗き森の中をさまよっていることを知った。
暗い森は、入ったら迷い込んで出られない深い森である。ドイツやオーストリア、スイス、フランス、イタリアなどに行くと、中に入ると抜けられなくなる鬱蒼とした森が、割合に都市の近くにある。いまは自動車道路が出来ていて、迷い込む恐れも少なくなったが、自然のままの森は踏み込むと行き先が分からなくなる。富士山麓の青木ヶ原はそのような森の一つである。ダンテは、そうとは知らずに人生の暗黒の場に入った。と言う。
原生林の森は道もない。森林の奥に入ると外が見えない。方角を知らせる山が近くにあっても、森林の中に迷い込めば見ることが出来ない。そこを歩いている内に、いつの間にか正しい道-----行人としての人間が神に向かって進む正しい道を踏み外しているのに気がついた。それは、森林の暗さの中で見えなくなってしまっていた。森林の暗さが、自覚への道であった。
ダンテは、この森で、豹、獅子、牝狼三頭の獣に遭遇するのだが、この森は、異教的、異域的要素よりも、キリスト教の中で踏み迷う罪の森であって、日常の誘惑がある悪魔が棲むところ、まったくキリスト教の悪の場の象徴であり、現代の悪魔は都会にいるが、中世は妖魔は森にいた。と述べている。
どう解釈すれば良いのか。
分かったようで分からないのが、文学の解説。
いずれにしろ、道に迷って、肝心のブックレビューにならなかったが、この「快読シェイクスピア」は、実に参考になる面白い本である。尤も、シェイクスピアの舞台を観て、戯曲を熟読して後のことではあるが。