熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

椿の美しさに魅せられた一年

2018年12月31日 | 生活随想・趣味
   わが庭には、椿の木がたくさん植わっている。
   と言っても、5年前に、この鎌倉の家に移ってから、植え始めたのが大半で、一番大きな木でも2メートル程なので、まだ、花付きが安定していない。
   しかし、新しく庭植えした椿は、殆ど園芸種の変わった椿で、庭に、一寸、違った雰囲気を醸し出していて、面白いのである。

   私が、幼少年時代を過ごしたのは、宝塚の田舎で、森や林にかこまれた田園地帯であったので、農家の庭先にも椿の古木が植わっていたり、結構、椿の大木が植わっていたが、殆どすべて、赤い花弁で筒形の先の蕊が黄色のヤブツバキであった。
   花弁の付け根を舐めると、ほんのり甘かったのを覚えている。

   ヨーロッパに移ってから、あっちこっちで、椿の花を見て、日本原産の椿が、欧米でも、結構人気が高いのに一寸驚いたのだが、何のことはない、オペラで「椿姫」の舞台を観ているのだから、驚くに値いしないのである。
   それに、私が住んでいたキューガーデンの庭にも、薩摩紅に似た赤い椿の古木が植わっていて、毎年、沢山の花を咲かせて豪華であった。
   近くの世界最高峰の植物園キューガーデン(The Royal Botanic Gardens, Kew)にも、椿は勿論、桜やモミジなど、プラントハンターが持ち込んだ日本の花木が植えられていて、四季に咲き誇っていた。

   日本に帰ってきて、その翌春、庭の隅に植えてあった乙女椿が咲き始めて、匂うような美しさに感激して、私の椿趣味が嵩じ始めたのだが、丁度、菅原道真の飛梅を見た心境であろうか、10年近く忘却して打っ棄っていた椿が無性に愛おしくなったのである。
   その後気づいたのだが、関東には、ヤブツバキよりも、乙女椿の方がポピュラーなようなのである。

   最初に買ったのは、天賜、薩摩紅、
   近くの田舎の園芸店で椿の好きな店主が並べていた椿鉢で、奇麗に咲いていた花を見て、2鉢選んだのである。
   その後、崑崙黒、花富貴、四海波、岩根絞、小磯、曙、紅妙蓮寺、白羽衣、孔雀椿、式部、黒椿・・・
   オランダに居た時に、黒いチューリップに興味を持ったので、必然的に、ナイトライダーやブラックオパール、ブラックマジックに行くのは当然で、ヨーロッパに居て、バラを見過ぎた影響もあって、派手な洋椿に興味が移り始めた。
   と言っても、洋椿の大半は、日本の椿の子孫の交配椿で、この口絵のタマグリッターズも、玉之浦の子孫で、やはり、欧米人には、赤地に白覆輪のツートーン・カラーに、バラに似た八重咲の豪華な花に興味が湧くのであろう。
   今では、わが庭は、唐子咲の和椿もかなりあるが、派手な八重咲や唐子咲の洋椿も多くなっている。

   昨年から、挿し木や実生で、苗木を育てて来ているので、春には、肥料など育種に気を配って、大きく育てたいと思っている。
   至宝やエレガンス・シュプリームなど、希少性の高い椿を挿し木したのだが、枝の先端部分を挿し木した苗木には、花芽がてついているのもあり、苗木には負担がかかるのだが、元気な株は、花を咲かせてみようと思っている。

   私が、椿に拘るのは、椿が好きだというほかに、世話が格段に易しいということで、手間暇がかかって大変なバラや草花などと比べて、庭植えなどになれば、肥料・薬剤散布、そして、剪定などくらいで殆ど手がかからないことである。
   鉢植え管理で、失敗するのは、水遣りで、水が切れれば、必ず枯れてしまって回復が効かないことで、これまで、何度か、貴重な苗木を、この不注意で失っている。

   しかし、いずれにしろ、私が、花に興味を持ってガーデニングを趣味に加えるようになったのは、まだ、30年くらいで、それ以前には、オランダで花に囲まれた生活をしていたり、イギリスのキューガーデンに住んでいて、あの素晴らしい王立植物園が散策路で憩いの場所であったこととか、ヨーロッパ各地を旅していて街並みや民家や町全体が花で飾られている風景を見たり、花の好きな友人がいて、アムステルダムやロンドンから出張などで帰国時に花の球根などを買って帰っていたことなど、色々な経験が重なった結果で、老年になって、その有難さを感じている。
   それに、千葉に居た時も、この鎌倉に移ってからも、かなり、広くて日当たりのよい庭に恵まれていたことや、写真が好きで、絶えずカメラを構えて花の写真を楽しんでいたことも、幸いしていると思っている。

   大みそかの今日、朝、庭に出て、真っ先に、開き始めたタマグリッターズが、目に入ったので、一つの思い出として、椿に魅せられてきた一年でもあったので、この文章で、一年を締めくくることとした。
   今年はまだ、紅葉が美しい。地球温暖化の後遺症でなければ嬉しいのだが。
   
   
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年末の穏やかな今日一日

2018年12月30日 | 生活随想・趣味
   非常に寒いが、日差しがあって、風もなく穏やかな気候で、大雪で大変な地方の方々の苦労を思えば、気持ちの良い年末である。
   
   今日は、朝から、鏡餅の準備と言うことで、私の持ち分仕事なので、餅つきを始めた。
   餅つきと言っても、大層なことではなく、東芝の電動餅つき機を使って、2キロのモチ米を餅にするだけで、ほんの数時間で出来上がり雑作もない。
   小さな鏡餅二組と、餅をあまり食べないので、元旦の雑煮用の餅が搗き上がればそれで良いのである
   子供の頃、宝塚の田舎にいた時には、大きな石臼をぺったんぺったん搗いて大変だったが、子供なりに面白かったし、正月を迎えるという気持ちが湧いてきて、情緒があった。

   午後、庭に出て、枯れ枝の剪定や雑草抜きなど、残っていた庭仕事を始めた。
   今、咲いている花は、椿と日本水仙くらいであったが、すこし切って、花瓶に生けて見たのだが、これだけでも、部屋の中が明るくなって嬉しい。
   
   

   しばらくすると、「キッ、キッ」と鋭い鳴き声がして、ジョウビタキが庭木を渡り始めた。
   逃げ足が速いので、ダメかとは思ったが、部屋に駆け込みカメラを持ち出したら、ほんの一瞬だったが、姿を捉えることができた。
   珍しいことに、雄雌のつがいのジョウビタキで、初めてであったので、嬉しくなった。
   地味な褐色のメスの方は、何となくモズに似ている感じで、オスの方は、目の周りが黒くて顔が良く見えないが、オレンジ色が鮮やかで美しい。

   ウイキペディアによると、ジョウビタキは、
   チベットから中国東北部、沿海州、バイカル湖周辺で繁殖し、非繁殖期は日本、中国南部、インドシナ半島北部への渡りをおこない越冬する。
日本では冬鳥として全国に渡来する。と言うのだが、北海道や長野県などで繁殖例が観察されているという。
   いずれにしろ、毎年同じ所へ飛来するというから、律儀な鳥で、バイカル湖から渡ってきたと思うと、感激である。
   
   
   

   夕方、近くの河野牛豚肉店へ、予約していた肉を受取に出かけた。
   恒例の歳末の大売り出しで、毎年、大繁盛で店頭に長い行列ができるのだが、最初の時には、1時間近く行列に並んで懲りたので、それ以降、事前に予約を入れておいて、取りに行くことにしているので、ショートカット受け取りで助かっている。
   国産の黒毛和牛以上で、神戸牛、但馬牛から、信州和牛チャンピオンと言った上等の牛肉で品質には折り紙がついていて、それ相応に値は張るのだが、毎年年末には、二人の娘家族も全員集まって、すき焼きパーティをすることにしており、今夜集まることになっている。
   帰る途中、老夫婦が営む老舗の林豆腐店で、焼き豆腐を買って帰った。

   今年も、無事に年を越せそうで嬉しい。
   
   
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年末年始になって考えること

2018年12月29日 | 生活随想・趣味
   毎年、期せずしてやってくるのが年末年始、
   一つ歳をとるのだが、わが老年になると、どんどん、終末に近づいていることを意味していて、子供の頃のような嬉しさも喜びもなければ、殆ど何の感慨もない。
   年末になると、喪中欠礼はがきが来て、友の訃報を知るのだが、親しかった同窓生や同期の友人知人の3割ほどは既にこの世にはなく、寂しい限りである。

   最近、つくづく感じるのは、あまりにも早い世の中の移り変わりで、ハラリの「ホモ・デウス」の書評などをはじめ、何度もこのブログで書いてきたが、早い話、近い将来、科学技術の進歩発展によって神になり替わろうとしていたホモ・サピエンスが、AIとロボティックスによって、逆に支配される運命にあると言う信じられないような未来が展開されようとしているのである。
   尤も、そんなに大上段に振り被らなくても、もう、10年もすれば、今現在ある仕事の相当部分は、なくなってしまって、人間が、もっともっと勉強して賢くならなければ、生きて行けなくなるのは目に見えている。
   団塊の世代までは、紆余曲折、進歩発展はあったが、根本的には、政治経済社会構造の変化は、それ程ドラスティックではなくて、世の中の動きも自分の将来も、ほぼ、予測がついたし、未来設計も、まずまず、可能であった。
   しかし、デジタル革命ですべてが激変。NHKで放映していたが、今では、メガ銀行の総合職OLが、危機意識に駆られて、将来を見越して、転職のための資格取得のために学校に通わなけれならないと感じるような時代になってしまったのである。

   Japan as No.1で快進撃を続けて、アメリカでさえ、日本の覇権に危機意識を感じた頃もあったのだが、バブル崩壊後、鳴かず飛ばずで、国威発揚もままならず、普通の国になってしまって、最近では、日本企業の経営や経営者の不祥事が相次いでいるものの、全般的には、殆ど無風状態ではあるが、明るい未来を展望できなくなってしまった。
   結局、日本を取り巻く国際環境は大きく激変しているのに、日本人の意識も日本の政治経済社会も、殆ど変わらず、日本と言うか日本人は、時代・歴史感覚欠如かつ勉強不足となって、急速な時代の流れについて行けなくなってしまったのである。

   実業から離れて、無為な日々を送っていると、このような変化にも、無関心でおられるので、何も焦ることはないのだが、何となく気になる今日この頃である。
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国立劇場・・・12月文楽「鎌倉三代記」「伊達娘恋緋鹿子」

2018年12月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   最近、東京の文楽公演は、チケットのソールドアウトがあり人気が高くなっている。
   以前には、東京の12月公演には、寒くて大変なのであろう、住大夫、初代玉男や簑助と言った人間国宝のエース級は上京せず、大阪の新春公演に満を持していたのだが、最近は、多少事情が変わって来ており、また、橋下補助金打ち切り以降、東京の文楽人気は、上昇している。
   大阪の国立文楽劇場は、太夫にとっては、少し大きくて語り難いようだが、しかし、文楽発祥の地であり、浄瑠璃は大阪弁であるから、そして、何となく古い文化と伝統、その雰囲気が残っているような感じがして、私は、あの劇場の佇まいが好きで、正月公演も大阪に行って、先に、「壇浦兜軍記」を聴きたいと思っている。

   「鎌倉三代記」は、「局使者の段」から「高綱物語の段」までで、三浦之助(玉助)の死への出陣と母(和生)の死を見送る時姫(勘彌)の悲痛な別れと、高綱(玉志)の登場と旗揚げがメインだが、大坂城落城の大坂方の悲劇をテーマに据えた、真田幸村をモデルにした佐々木高綱の物語である。
   物語全体は、大坂の陣の故事なので、ほかに、徳川家康を北条時政、千姫を時姫、木村重成を三浦之助、後藤又兵衛を和田兵衛、淀君を宇治の方、豊臣秀頼を源頼家にしているが、最後には、時姫は父時政を討とうと決心したが果たせず自害し、高綱は頼家とともに琉球へ逃れると言うことになっているとかで、その発想が興味深い。

   
   この舞台で、やはり、重要な役割を果たすのは、「三姫」の一つの時姫で、「赤姫」と呼ばれる華麗な深紅の衣装が眩いばかりに美しく、天下の為政者の姫君であるから、落ちぶれて田舎に引き籠っていたとしても、凛とした風格と気品、それに、初々しさと可憐さ、さらに、愛する夫三浦之助に迫られて実父を殺す約束までする剛毅さを併せ持つ奥の深いキャラクターを演じなければならない大変な難役である。その上に、面白いのは、赤姫の豪華な衣装を着て手ぬぐいを姉様被りにかぶってタスキ掛けで、ぎこちなく米を炊いだり、大根を切る姿で、
   この教授をするのが、女房おらち(簑一郎)で、大坂のおばはんを彷彿とさせる近所の田舎の主婦であるから、お姫育ちの時姫の台所仕事を見ていると、じれったくて仕方がないので、井戸水の汲み方からコメの研ぎ方まで実演して教える。大酒は飲むは、ガラも悪いが、実に温かくて人情味豊かな憎めぬおばはんで、この悲劇の舞台では一服の清涼剤。2015年の舞台では、在りし日の紋壽が遣っていたが、流石にベテランの冴えが光っていた。
   しかし、時姫で見どころは、母の身を案じて帰ってきたのに面会さえ叶わず、母に咎められて泣く泣く出陣しようとする三浦之助を、愛しい一心で時姫が必死に止めようとする儚くも美しいシーンで、時姫のかき口説きに死を決して苦悶する三浦之助の美しい男女の絵のような舞台、文字久太夫と藤蔵の義太夫と三味線が胸に迫る。
   

   もう一つ、清涼剤となるコミカルな舞台は、百姓の安達藤三郎に扮した高綱で、時姫を口説くなど軽妙洒脱な道化役を演じているのだが、井戸の中に追い込まれて、再登場した時には、豪華で貫禄充分な英雄姿で現れて、坂本城に進軍の檄を飛ばすフィナーレ。
   やっと心から打ち解けた義母の臨終を見守りながら、同じく断腸の思いで、母と時姫を残して出陣する三浦之助を見送る時姫が悲しくも美しい。
   織大夫と清助の名調子が、さわやかで感動を呼ぶ。

   後半の「伊達娘恋緋鹿子」は、八百屋お七(簑紫郎)と小姓吉三郎(玉勢)の物語。
   吉三郎の命がかかっている殿から預かった天国の剣を手に入れたが、九つの鐘が鳴って江戸の町々の木戸がすべて閉ざされので、届けられない。  
   しかし、吉三郎を助けたい一心で、火炙りの刑を承知で、お七は、出火と思って木戸が開けられるので、火の見櫓に駆け上がって半鐘を打つ。
   
   以前に歌舞伎「松竹梅湯島掛額」の大詰めの「四つ木火の見櫓の場」で、別なバージョンのこのシーンを観た。
   吉右衛門の紅長の方が印象的で、この記憶が鮮明なのだが、猿之助(当時亀治郎)の人形振りのお七が面白かった。
   歌舞伎の場合には、火の見櫓の梯子は、下手側の側面にあって、お七の駆け上がる様子が良く分かるのだが、面白いことに、文楽では、正面に梯子があって、人形遣いの主遣いだけが背後に回って人形を遣うので、あたかも人形が梯子に張り付いて登って行く姿が、実にリアルで美しく演じられており、非常に感激する。
   このシーンでは、人形遣いの姿が全く見えないので、人形が自力で生きているように梯子を上って行く感じで、やはり、生身の役者が演じる歌舞伎とは違った文楽の良さがあって面白い。
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国立劇場・・・Discover BUNRAKU(菅原伝授手習鑑)

2018年12月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   12月文楽鑑賞教室のうち、今回は、Discover BUNRAKU-外国人のための文楽鑑賞教室-を鑑賞。
   プログラムは、
   解説 文楽の魅力 解説=ステュウット・ヴァーナム‐アットキン
   菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)
     寺入りの段
     寺子屋の段
   で、団子売(だんごうり)は、省略されている。

   能・狂言の場合にも、同じような鑑賞教室で、外国人用の公演があって、英語の解説がつくのだが、特に、英語に拘ることはないので、私は、日時の都合で、このプログラムを選ぶことがある。
   能・狂言の方が多いと思うのだが、結構、白人系の外国人観客が鑑賞していて、かなり、日本の古典芸能にも興味を持つ人が多くなってきていることが分かる。
   それに、能狂言とはちがって、アジア系の観客も結構見えていた。

   この文楽の「寺入りと寺子屋の段」は、人形浄瑠璃でも決定版中の決定版で、ほかにも素晴らしい段があるのだが、時折、上演される通し狂言の「菅原伝授手習鑑」(最近では、14年に大阪の国立文楽劇場で、その前は、02年5月にこの小劇場で鑑賞)で観ると、格別の感動があり、日本古典芸能の奥深さとその真価が痛いほど実感できる。

   この日の舞台は、寺子屋の段の義太夫と三味線は、千歳太夫と富助、睦太夫と清友、
   人形は、松王丸が玉男、女房千代が清十郎、武部源蔵が玉也、女房戸波が文昇、春藤玄蕃が玉輝、と言う素晴らしい布陣で、最初から最後まで、熱気を帯びた意欲的なパーフォーマンスで、大詰めのいろは送りの哀切極まりない幕切れまで、感動の連続である。

   私が、最初に観た松王丸は、文吾の豪快でありながら実に繊細で人形とは思えないほど感情豊かな舞台であり、残念ながら、2回くらいで、その後、勘十郎や当代玉男の松王丸の素晴らしい舞台に代わっている。
   あの当時は、簑助や紋壽たちが、文吾の舞台を支えていて素晴らしかった。
   特に、今回の玉男もそうだが、松はつれないと言われ続けて苦悶していた人間松王丸の激しい肺腑を抉るような慟哭と心情吐露が聴きどころであり見せ場で、その後のいろは送りの浄瑠璃に乗って、悲しくも儚い思いに悶えながら舞い続ける千代の姿が涙を誘い、ラストの後ろ振りの美しさに感動する。
   今回の「文楽鑑賞教室」では、勘十郎が松王丸を遣う別バージョンが上演されたのだが、これも、素晴らしい舞台であったのであろう。

   「文楽の魅力」の解説、How to Appreciate BUNRAKU in English は、ステュウット・ヴァーナム‐アットキンが担当で、文楽を良く知り、日本語も堪能なので、立て板に水、
   私は、30分近く遅れて入場したので、希太夫たちの人形の解説パートだけしか見れなかったのだが、これなど、日本語の分からない人には、非常に助かるのではないかと思う。
   それに、イヤホンガイドも、日本語のほかに、英語、中国語、韓国語、スペイン語、フランス語があって、至れり尽くせりである。

   私は、ずっと以前に、ポルトガルのリスボンで、国立劇場で、フランスの芝居を観たことがあるのだが、英語のパンフレットもなくて、まったく分からなかった経験がある。
   オペラも同じで、ハンガリーのブダペストで、国立歌劇場ほかで、何度かハンガリーのオペラを観たのだが、舞台と音楽は楽しめたが、何のことかサッパリ分からず、オペラのタイトルも、読み方を隣の青年に聞いたほどであった。
   尤も、イギリスでは、RSCやロイヤルシアターのシェイクスピア戯曲に通い詰めた時には、小田島雄志の翻訳本を小脇に抱えて予習をして行ったので、問題はなかった。
   その点、アルゼンチンタンゴ、フラメンコ、ファドなど劇場やバー・レストランで聞く民族芸能など音楽は、万国共通なので、楽しめたが、やはり、言葉が絡む芸術鑑賞は、ハードルが高い。

   それに、今回の文楽「寺子屋」などは、主に忠誠を尽くすために、自分の子供を、主の子供の身代わりとして殺してしまうと言う、今の日本人でさえ理解できないような深刻なテーマ、を核とした芝居なので、果たして、異文化異文明の外国人観客に、どのように鑑賞されたかである。
   ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」や「ホモ・デウス:テクノロジーとサピエンスの未来」が説くように、人類の自由意志、意識、知能の発展推移を分析して、神になりつつあると言う現代人からは、あまりにも落差が激しい。
   しかし、この公演は、早くからチケットはソールドアウトで、多くの外国人が詰めかけて大好評。
   このあたりに、日本の古典芸能の秘密があるのかも知れない。
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季節感覚が希薄になった年寄りの年末

2018年12月26日 | 生活随想・趣味
   かなり、暖かいと思っていたら、急に寒くなる。そんな日が続いていて、日差しもままならない。
   実生活から離れて、悠々自適の生活に入ると、クリスマスに始まって大晦日、正月とはじまる年末年始の慌ただしい生活のリズムから、完全に外れて、季節感覚も希薄になってくる。
  
   季節感を感じるのは、年賀状を準備すること。
   ひと頃よりは随分少なくなったが、それでも、まだ、せっせと出し続けている。
   昨日、日経の夕刊に、「年賀状 終活でやめます」と言う記事が掲載されていた。
   「平成最後 高齢者らで広がる」「付き合い整理・負担軽減」と言うサブタイトルで、大体記事の内容が分かるのだが、私には、そんな思いはない。
   ただ、多少気が引けるのは、パソコンに収容されているソフトを利用して、適当な写真を載せて挨拶分を考えて年賀状を作成して、そのまま、投函してしまうことである。
   一人ひとり、顔や生活を思い浮かべながら、何らかの文章を書くべきだとは思っているのだが、残念ながら、気持ちの上で、その余裕がないのである。
   その点では、「年賀状 終活でやめます」に近いのかもしれないが、年始の挨拶が届けば、それだけでも有難いと思っている。

   もう一つ、何となく、年が押し詰まってくると、あっちこっち、整理をしなければならないと思って、多少焦りを感じる。
   とりあえず、使わなくなったオーブン・電子レンジやプリンター、三脚など、大型ごみを集めたのだが、
   倉庫の中を整理し始めて、これが、大変であることが分かった。
   とにかく、倉庫へ収納しておこうと、気軽く暫定的にと思っていた書類や資料、こまごまとした道具や小物、本など、雑多なものがわんさとあって、もう少し、奥のものや下のものに手を付けると、前世紀にヨーロッパから持ち帰った懐かしい思い掛けない品々が飛び出してきて、手が止まってしまって先に進まなくなる。
   沢山の段ボール箱や、道具類や子供たちの遊具などまであって、整理を終えて奥の書棚まで届くのには、大分かかりそうだが、昨日書いたマリア・カラスの本が、洋書和書合わせて4冊くらい目に入ってきたので、書棚の前をすっきりさせたいと思っている。
   しかし、今日は、手前の大きな粗大ごみを整理した程度で止めてしまったので、終わるか分からないのだが、毎年、同じことを繰り返している。

   明日からは、段ボール3箱の欧米でのオペラやコンサート、シェイクスピア戯曲などの観劇資料、そして、長い大型のコンテナに入っている膨大な写真のプリントやネガを整理したいと思っている。
   写真の大半は、ヨーロッパ在住8年で、あっちこっち移動して撮った写真で、個人的な家族写真は、適当に抜いてアルバムに収めたのだが、大半は、DPEから持ち帰った写真の袋を、一度見たくらいで、そのまま、収容してあるので、劣化したり張り付いてしまっていて、使い物にならないかも知れない。
   しかし、それよりも、思い出がぎっしりと詰まった私自身の生活の軌跡であるから、一つ一つ立ち止まると動けなくなるのではないかと思う。
   尤も、思い起こせば、楽しくて愉快だった思い出ばかりではなくて、苦しくて思い出したくないような苦しくて悲しい経験の方が多かったような気がしているので、どうなることかわからない。
   いぜれにしろ、今まで、なくても何の生活に不自由はなく、なしで済ましてきたのであるから、そのまま、打っ棄って捨ててしまっても、痛くも痒くもないので、気にする事もないのかも知れないとも思っている。
   
   現役時代の年末年始は、特に、外国にいた時には、若かった所為もあって、目いっぱい、あっちこっち移動してメリハリのある日々を送っていたが、最近では、家族ともども、大晦日をホテルで過ごして元日に初詣に行き、あとは家でゆっくり過ごすことにしている。
   これから年末までは、外回りも含めて大掃除であり、ほっとした気持ちで、年を越すことになる。
   
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映画「私は、マリアカラス MARIA BY CALLAS」

2018年12月25日 | 映画
   素晴らしい映画が出たというのが、私の印象。
   マリア・カラスと言っても、生涯は1923年12月2日-1977年9月16日であるから、知らない年代が大半だと思うのだが、幸い、私は、この希代の大ソプラノを聴いた最後の世代で、それも、1974年、留学先のフィラデルフィアのアカデミィ・オブ・ミュージックで、ジュゼッペ・ディ・ステファーノとのワールドツアーのコンサートを聴いた思い出が残っている。
   おそらく、フィラデルフィア管弦楽団のシーズン・メンバー・チケットの保有者か、オペラ鑑賞者の名簿を利用しての招待であろうが、レセプションとチケットの案内状が送られてきた。
   学生の身、チケットの30ドルを出すのがやっとで、125ドルの捻出が出来なかったのでレセプションは諦めたのだが、今でも慚愧の思いで一杯である。

   日本でも、東京ほか4都市で、このコンサートが公演されて、東京でのNHK録画がDVDで出ているが、この映画では、殆どラストで、艶やかな衣装のカラスがステファーノと手を繋いで退場するシーンが映っていて、懐かしい。
   カルメンを歌った後で退場し、拍手に応えて再び舞台に登場して、その後、観客の熱狂と興奮が冷めやらず、退場しようとしたら、先にドアに消えたステファーノがドアをロックして入れなくなって、カラスが「意地悪!」と言った優しい仕草でドアをノックしたのだが、流石に千両役者で、歌のみならず名優で抜群の評価を得た大ソプラノの実に美しい絵になる期せずした演技、今でも、脳裏に焼き付いている。
   ロンドンで握手したダイアナ妃も美しさに圧倒されたが、マリア・カラスも大変魅力的な女性で輝いていた。その後、パゾリーニの映画「王女メディア」で、マリア・カラスを見たが、やはり、オペラハウスで「ノルマ」や「トスカ」を鑑賞したかったと思っている。

   余談ながら、この映画の初期のカラスのオペラ公演の楽屋シーンなどに、スマートで背の高いフランコ・コレルリが見え隠れしているのだが、カラスの指名で共演することも多かったのであろう、私も、フィラデルフィアに居た頃、METで、コレルリのカラフを観たり、カラスの良きライバルであったレナータ・テバルディとのジョイント・リサイタルを聴いたりしたのだが、素晴らしいテノールであった。
   まだ、あの頃、ステファーノは勿論、マリオ・デル・モナコやディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウは、オペラではなくピアノ伴奏付きのリサイタルだったが、聴いて楽しむことができて幸いであった。

   この映画では、オペラの舞台は少ないが、中々しおらしくて初々しい蝶々夫人をはじめ、色々なカラスの舞台姿に接し、懐かしい歌声が聴けて嬉しかった。
   冒頭は、やはり、カラスのカラスたる舞台である「ノルマ」、そして、若くて美しいエリザベス女王が登場する 1964年のコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラの歌劇「トスカ」第2幕 歌に生き、愛に生き  の素晴らしい映像は格別である。
   ラストは、ドラマチックなカラスの生涯を締めくくるには格好の プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」 私のお父さん
   カルメン以外は、殆どイタリアのベルカントオペラだが、「私の声は好きではないでしょ」と言っていたカラスの胸を打つ歌声が堪らないほど感動を呼ぶ。

   この映画で、私にとって一番関心があったのは、METの総支配人ルドルフ・ビングの「1959年のマリア・カラス解雇」の決然とした発言であった。
   英語のWikipediでは、ここのところを、
   Bing is also remembered for his stormy relationship with the era's most famous soprano, Maria Callas. After hiring her for the Met with a debut as Norma on opening night in 1956, he famously canceled her contract in 1958 when they could not come to terms regarding the roles she would sing. Bing invited Callas to return to the Met for two performances of Tosca in 1965, the year that turned out to be her final season in opera.
   ビングは引退後、大分経ってから、2冊目の著書「A Knight at the Opera (1981)」を著したので、ニューヨーク出張時にMETで、この本を買って読んだが、その後のカラスとの経緯などについて書いてあって興味深い。
   
   

   第5章の冒頭で、ビングは、マリア・カラスについて、次のように述べている。
   マリア・カラスは、スターの中のスーパースター、グロリアスな歌声のみならず、音楽的で、途轍もない舞台パーソナリティを備えていて、美しい(good looks)。何の欠点もない。
   彼女は、如何なるマネージャーからもアドバイスを必要としておらず、何を歌うか、フィーはいくらか自分で知っている。ステージマネージャーを見れば5分で良し悪しを判断し、うまく働けたのは、ゼフィレッリのような人物だけで、もし、ディレクターが気に入らないと、その人物を無視して、自分の好きなようにし、それが、異常に良かったり、エキサイティングであったりする。自分の創り出したい効果を知っており、それを実施し、悪いトーンでも、望ましいドラマチックな効果が出るのなら厭わない。

   この映画でも、大々的に取り上げられているのだが、1958年1月2日、ローマ歌劇場で行ったベッリーニ「ノルマ」公演で、カラスは発声の不調のため、第1幕だけで出演を放棄して、場内は怒号の渦巻く大混乱となり、非難轟々の仕打ちを受け、フランスのパリオペラ座に移ったが、ギリシャの大富豪で海運王アリストテレス・オナシスとの豪華な生活に明け暮れて、結局前述のロイヤル・オペラやMETでの1964-1965年の「トスカ」の舞台を最後に事実上の引退状態となり、カラスの波乱万丈の歌手人生は短かったのである。

   MET追放後、ダラスで歌っていたカラスが、徹底的にMETの公演システムを批判しており、ビングは面白くなかったようだが、それでも、その後、ビングは、カラスのMET復帰を目指して、連絡を取っており、翌年電話連絡が取れて、ビングが「椿姫」を提案したが折り合いがつかず、次の手紙で、カラスから、〇〇記念公演に「トスカ」をやりたいので、コレルリと上手いバリトンを用意してくれと言ってきたのだが駄目であった。
   その後、どちらかと言うと、ビングの方からカラスへの出演提案が続けられている。イタリアオペラ主体のカラスに、ホフマンスタールのリヒャルト・シュトラウス作曲の新作「The Legend of Joseph」を提案するのだが、興味を示すも埒が明かず、カラスの「ノルマ」提案には、METには、経験さえ少なくて準備不能。結局、カラスの舞台は、1965年の「トスカ」2夜だけ。
   詳細は省略するが、このビングの自伝を見る限り、映画とは違って、かなり、カラスの方が横暴で横車を押している感じである。
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国立劇場・・・12月歌舞伎:「通し狂言 増補双級巴―石川五右衛門―」

2018年12月24日 | 観劇・文楽・歌舞伎
    12月歌舞伎は、吉右衛門の「通し狂言 増補双級巴―石川五右衛門―」。

    この歌舞伎は、初代吉右衛門の手がけた五右衛門ものの傑作を通し狂言として、当代が公演するというものだが、私など、太閤秀吉に捕らえられて、釜煎りの刑になった大盗賊と言うイメージしかなかったので、この歌舞伎は、五右衛門を題材にした複数の作品を繋ぎ合わせたとかで、五右衛門の生涯を綴った一つの物語として構成されていて、嘘か本当かわからないのだが、盗賊としての五右衛門よりも、家族への情愛や胸中の葛藤に焦点を当て、五右衛門の人間像を描いていて、面白い。
   團十郎が嫌っていた宙乗りを、吉右衛門が演じるというのも時代の要請であろうが、大きな葛籠を背負った五右衛門が、舞台下手から3階奥に消えて行くのも国立劇場としては、異例のサービスなのであろう。

   木屋町二階の場では、二階の五右衛門が、下にいる久吉(菊之助)に手裏剣を投げて、久吉が柄杓で受けるというあの「金門五山桐」の「南禅寺山門」の場のパロディ版が演じられて、先月の吉右衛門と菊五郎の舞台を思い出した。
   先の「葛籠抜け」の宙乗りは、この二階で寝ていた五右衛門の夢だというから面白い。

   冒頭、壬生村の次左衛門(歌六)がひょんなことで殺した道中の奥女中から生まれた子供が五右衛門で、(発端 芥川の場で幕が引かれた後で、オギャーと言う声だけが流れる)、26年ぶりに壬生へ帰ってきて、持っていた系図から西国大名大内義弘の遺児だと分かって、大泥棒(?)として大成していたので、天下を狙う野望を抱いて、勅使に化けて、将軍足利義輝(錦之助)の館に乗り込むというところから面白い。
   そこに、奇想天外と言うか、竹馬の友・此下藤吉郎久吉がいて、見破られるのだが、懐かしくなって、寝転がって頬に手を当てて戯れるあたり、真面目な芝居なのかどうか、とにかく、全編、ストーリーのある物語として見ていると、肩透かしの連続である。
    五右衛門の隠れ家の場では、一気に、五右衛門は夫と父と言う世話物の世界に早変わりして、先妻の子五郎市を邪険にする後妻のおたき(雀右衛門)を誤って殺してしまうなど、五右衛門の隠れた人間像が描かれていて、盗賊の世界とは全く雰囲気が変わって面白い。

   最後の藤ノ森明神捕物の場は、追い詰められた五右衛門と取り手たちの立ち回りで、久吉の温情を蹴って五右衛門が縄を打たれるフィナーレ。
   何となく、歳を感じさせる吉右衛門の動きが気になるのだが、千両役者の大泥棒石川五右衛門の多彩な、一寸、人間の弱さを滲ませた味のある舞台を見て楽しませてもらった。

   石川五右衛門の芝居にしては、かなり、バリエーションのあるごった煮の豊かな芝居であったが、やはり、通し狂言の良さで、裏表面白い舞台の連続であり、見取り公演よりは面白いのが良い。
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国立能楽堂・・・宝生和英宗家の「道成寺」

2018年12月23日 | 能・狂言
   国立能楽堂の特別企画公演 明治150年記念 苦難を乗り越えた能楽 の最初の舞台が、人間国宝山本東次郎の狂言「呼声」と、宝生流の能「道成寺」であった。
   私が最初に、能「道成寺」を観たのは、2013年11月01日この能楽堂で、金剛流の金剛永謹宗家の金剛流の舞台で、次は、シテ本田光洋の金春流で、この時のワキが故人間国宝の宝生閑であり、次は、シテ山階彌右衛門の観世流の舞台で、今回は、宝生流であるから、喜多流以外の舞台は、鑑賞したことになる。
   それぞれ、微妙なバリエーションの差があって興味深いのだが、能楽初歩の私には、アイ山本東次郎・則俊(全部、そうだったっと思う)が、舞台後方の天井の滑車に鐘を吊り下げるタイミングと、シテが鐘入りする作法との違いが、非常に印象的であった。

   まず、鐘だが、今回の宝生流や観世流の上掛りでは、囃子方や地謡が着座した後、能の開始前に、アイ方が鐘を運び込んで舞台に吊り上げるのだが、金剛流や金春流の下掛りの舞台では、能の進行にあわせて、ワキ/住僧の指示で、アイたちが、演技をしながら橋掛かりから鐘を運び込んで、舞台で、東次郎が長い棹の先に輪っか状に綱を括り付けて、舞台の屋根裏に付けられた滑車に通すと、反対側から則俊が、綱を引っ張り下ろして鐘を吊り上げると言う趣向である。

   鐘入りは、上掛りでは、「乱拍子」の後、急之舞に転じると、シテは鐘をキッと睨みつけて扇で烏帽子を払い落として、鐘の縁を叩いて鐘の下に入って、正面を向いて、左右の手を広げて鐘の両内縁を押さえて、大きく跳躍した瞬間に鐘が落下する。下掛りでは、鐘の縁を扇で叩き上げて、斜め正面から跳躍して鐘に飛び込み、同時に鐘が落ちると言う一寸ダイナミックな手法である。
   この「鐘入り」だが、大変な修行を要するようで、梅若玄祥師の「能 梅若六郎」の「道成寺を舞う」で、梅若実師でさえ、一度だけ鐘に入り損ねて、鐘の後の方に跳んでしまって、後見にいた父が背中をポーンと押してくれたので助かったと述懐しており、非常に危険を伴い難しいとのこと。何しろ80キロの実物大の鐘なのである。

   今回の宗家は、泣増であったが、殆ど視界の利かない面をつけての舞台で、「乱拍子」での小鼓の息を詰めた長い間と鋭い掛け声に乗って、時々大きく足を上げて無音で土を踏み反対側の足を踏み下ろして足音を響かせる、殆ど動きのない緊迫した動きと足使いが観客の息をのみこみ、この長い気が遠くなるような「乱拍子」の静寂を一気に破って囃子方が咆哮すると、「急之舞」で激しく舞い狂い、クライマックスで鐘に飛び入る「鐘入り」。寸分違わぬ磨き抜かれた美しい芸が感動的であった。
   こんなに高度に昇華されたパーフォーマンス・アーツが、世界にあるだろうかと思っている。

   鐘が引き上げられると、端正に正座した般若の面の後シテ蛇体が現れる。厳めしい蛇体姿だが、恋い焦がれて必死になって旅僧を追っかけてきたうら若き乙女であるから、立ち居振る舞いは女そのものであるべきで、奇麗でなければならないという。
   宗家の蛇体姿は、実に優しくて優雅である。殆ど抵抗の気配も見せずに、幕際まで追い詰められて、一気に反撃に出て住僧たちを追い返して再び舞台に出るのだが、柱巻キで、山階彌右衛門の時にも感激したのだが、シテ柱に体を預けて悶え苦しむ哀れな姿は、堪らない程妖艶で美しい。
   あの歌舞伎で良くある呪い狂った女が鬼と化して大立ち回りを演じる激しさ荒々しさなどは全くなくて、非常に研ぎ澄まされたセーブの利いた美しい舞で、能の能たる由縁と言うか、その真価を見たように思った。

   書きたいことは多々あるが、これまでに、「道成寺」印象記を結構書いてきたので、蛇足は避けたい。
   崩壊寸前であった明治の能を支えた「明治の三名人」であった初世梅若実と宝生九郎知英の後裔である梅若実と宝生和英宗家をシテとして、明治150年記念公演の「道成寺」を、国立能楽堂が企画した。
   来月のシテは、実師に代わって、銕之丞師が舞うことになったが、大変な大舞台で楽しみである。
   紀州の道成寺を訪れたのは、もう、半世紀前の話になるが、組踊の「執心鐘入」を2回見ており、歌舞伎の白拍子花子の道成寺ものは、何回も見ていて、安珍・清姫物語は、子供の頃から知っているので、とにかく、色々なバリエーションの存在は、日本の芸能文化の豊かさであって、興味深い。
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十二月大歌舞伎・・・玉三郎の「阿古屋」ほか

2018年12月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座では、どうしても、玉三郎の「壇浦兜軍記」の「阿古屋」を観たかった、聴きたかった。
   歌舞伎での「阿古屋」は、何回か観ているのだが、このブログの記録では、2007年9月と2015年10月に、玉三郎の阿古屋で観ている。歌右衛門以降、玉三郎しか、この舞台を務め得る女方は皆無であったので、当然ことだが、今回は、ほかに、玉三郎の指導で、梅枝と児太郎が、ダブルキャストで阿古屋を務めている。

   「阿古屋」は、文耕堂らの合作の時代物義太夫狂言『壇浦兜軍記』の3段目で、平家の残党を詮議する京都堀川の評定所で,岩永左衛門(松緑)は平景清の愛人阿古屋を拷問して,景清のゆくえを白状させようとするが埒が明かず,秩父庄司重忠(彦三郎)は、阿古屋に琴,三味線,胡弓を弾かせ,その音色に乱れがないことから,彼女の心に偽りはないとして許す。と言うシンプルなストーリーだが、文楽では、人形に三曲を弾かせる趣向がおもしろくて、楽しめるのだが、歌舞伎では、この「琴責め」では、三曲を、一人の女方が、義太夫に合わせて華麗に弾き通すのであるから、大変な舞台である。
   文楽では、簑助(左勘十郎)と勘十郎の「阿古屋」を観ているのだが、前回の舞台では、実際の三曲は、三味線の人間国宝故鶴澤寛治の孫である鶴澤寛太郎が弾いていた。

   さて、玉三郎の三曲だが、河竹登志夫が、琴と胡弓の大家川瀬白秋との対談で、玉三郎への胡弓など三曲の指導について興味深い話を聞きだしている。
   舞台で阿古屋の胡弓を弾くのは、滅法難しい。玉三郎の舞台で、川瀬先生が弾いているのかと聞かれて、「玉三郎さんご自身です。もし裏で弾くとしたら、あの速さに合わせるのは大変ですよ。」と応えたと言う。また、歌右衛門は元々器用なうえに勉強家だったが、「玉三郎さんはただごとじゃない勉強家でしたよ。」胡弓は、左側の本体の動かし方も、左利きで上手なので、自分でも「胡弓は合っているみたい」と言っていたと言う。
   この胡弓は、中国製の胡弓とは違って、三味線を小型にしたような和製の胡弓で、毛を沢山張った弓で外側からチェロのように演奏するのだが、重清が「胡弓擦れ」と指図するところが面白い。
   
   琴はある程度弾けたので、三味線を、一寸上手いくらいではダメだと勧めたら、「やりたい」「やりなさい」で、朝から晩まで弾き続けた。と言う。
   玉三郎は、努力の人で、勘三郎が、旅の途中で、朝起きてあくびをしながら電気を点けたらもう弾いている、あんなに弾かなきゃダメかね、と言ったら、これだけ弾いてもこれっぽっちしか上手くならない。と言っていたと言う。
   いずれにしろ、阿古屋にかけるプロ以上の玉三郎の芸の昇華は特筆もので、これを聴くだけでも、鑑賞の値打ちがある。

   玉三郎の舞台の印象は、2007年の私の印象記とほとんど変わらないので、それを多少修正して記しておきたい。
  多くの捕り手に前後を囲まれて花道を静かに登場する豪華な打掛と俎板帯の傾城姿の阿古屋の何と艶やかで素晴らしいこと、もうこの花道での見得から舞台が展開しており、この時と、階で仰け反って殺せと迫って中空を仰ぐ艶姿と見紛うような姿、それに、舞台最後の玉三郎の後姿の華麗さ美しさ。私は、簔助や文雀の後ぶりの美しさに何時も感激しているので、この玉三郎の華麗な見返り美人姿を舞台に移したような、前足に比重を乗せながら大きく体を後ろへ引いて見せて魅せる艶姿にいつも感激している。

   どんな責め苦や拷問にも動揺しない阿古屋が、重忠の情けある問い掛けが辛かったと心情を吐露する。実際に、景清の行方など全く知らないのだから、「いっそ殺してくださんせ」と言って、きざはしにかけ上がり、中段に腰を下ろして身を投げ出し下手側に反り返って訴える玉三郎の姿は、正に、絵画の世界そのもので、帯の鮮やかな孔雀が格別に美しい。
   私は、この阿古屋の舞台は、玉三郎の三曲の素晴らしい演奏と随所に魅せる玉三郎の阿古屋の錦絵から飛び出したような傾城姿、それに、景清に対する女心の機微を三曲の演奏に託して語りかける玉三郎の芸が総てで、裁き手である重忠や岩永など素晴らしい人物が登場するが、狂言回しに過ぎないと思っている。

   総てを弁えて風格のある凛々しい判事の重忠の颯爽たる井出たちに対して、権力に胡坐をかいて少し教養と知性の足りない岩永を人形ぶりのパペット演出で演じさせるあたり、非常に面白く、彦三郎がいい味を出している一方、松緑の新境地を開いたような、厳つい赤顔の惚けた表情が絵になっている。
   この岩永の人形振りだが、実際の文楽の人形は、時に生身の歌舞伎役者以上にスムーズでリアルなので、むしろ、人形には悪いくらいであって、ジャック・オッフェンバックのオペラ「オフマン物語」での人形のオランピアなどは、もっとぎこちない人形振りを披露するものの、一寸、異常な感じはしている。
   もう一つ、私などは、玉三郎の音曲、サウンド・パフォーマンスを聞きたくて劇場に来ているので、阿古屋の三曲は、義太夫、特に、三味線との協奏曲であるものの、阿古屋が、ソロ・プレーヤーであるから、4丁の三味線は、サウンドをトーンダウンするなり協力すべきだと思っている。

   本来の義太夫の舞台、文楽の阿古屋が、新春早々、大阪と東京で、上演される。
   勘十郎が阿古屋を遣って、華麗な舞台を見せてくれるようで、大いに期待している。
   
   「阿古屋」が終わって、劇場の外に出たら、13夜の月が、歌舞伎場のファサードの上空に輝いていた。
   
   

   「あんまと泥棒」は、あんまの秀の一(中車)のあばら家に、泥棒の権太楼(松緑)が、あくどい金貸しで小金を貯めこんでいるといううわさを聞いて、入り込む。
   しかし、悪知恵の働く秀の一に丸め込まれて、投げ捨てて埃を被っていた師匠の位牌を、亡くなった妻の位牌だと言って、仏壇も買ってやれないと泣きつかれて、なけなしの金を置いていく話。
   一枚上手のあんまの口車にまんまと乗せれて、人の好い泥棒が、少しずつ陥落して行く対話の妙が面白い。
   こんな芝居になると、中車は、歌舞伎を超えた上手さと芸の奥行きが炸裂して独壇場の世界で、これに受け答えして振り回される松緑の芸の冴えも凄くて、先の人形振り岩永と好対照で、大車輪の活躍。
   三年前に、おなじ「あんまと泥棒」を、秀の一は、同じ中車で、猿之助の権太楼で観たが、面白かったのを思い出す。

   「二人藤娘」は、藤娘に扮する梅枝と児太郎の華麗な舞踊の世界。
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強くて軽いカーボン製品を使う

2018年12月19日 | 
   ウィキペディアによると、炭素繊維(Carbon fiber)は、アクリル繊維またはピッチを原料に高温で炭化して作った繊維で、合成樹脂などの母材と組み合わせた複合材料として、炭素繊維強化プラスチック、炭素繊維強化炭素複合材料などとして使われる。
   特徴は、軽くて強いという点で、鉄と比較すると比重で1/4、比強度で10倍、比弾性率が7倍あり、耐摩耗性、耐熱性、熱伸縮性、耐酸性、電気伝導性に優れている。短所としては、製造コストの高さ、加工の難しさ、リサイクルの難しさが挙げられる。また、素材自体が異方性を持ち、どういった形で積層するか、また、損傷を受けた場合の破損の判断が難しく、クリティカルな状況での使用は細心の注意が必要である。と言う。
   東レ製のカーボンが、自動車の車体に使われると言うので話題を呼び、私自身も、その製品を見たが、素晴らしいイノベーションであった。

   さて、最近では、身近な我々の日常製品にも、カーボンが使われ始めて便利さが増している。
   まだ、私など序の口だが、まず、折り畳み傘で、
   旅行に最適 超軽量重さ98g 超軽量カーボン骨折畳み傘 50cm テフロン加工 と言う触書きの小宮商店の一番小さい傘を買った。 口絵写真の傘である。
   コンパクトな3段折で、畳んだ時の長さは約21.5㎝で、小さなショルダーバックに入れいておいても忘れてしまうくらいで、常備なので、急な雨や小雨には重宝している。
   勿論、強い風雨には耐えられないので、その時には、8本骨、10本骨の少し大きなしっかりした折り畳み傘を使用している。
   何故、折り畳み傘かと言うと、古くなければ、結構、水切りが良くて、水分を弾いて、ビニール袋に入れてケースに収納したまま、ショルダーバッグに入れておけば、雑作がないからである。
  
   次に使っているのは、カメラの三脚。
   VANGUARD トラベル三脚 VEOコレクション カーボンファイバー 5段 小型 自由雲台 キャリングケース付き 145cm VEO 2 235CB
   重量 約1.2kg/耐荷6重kg であるから、老人には、助かる。
   ManfrottoやVelbonなどいろいろ考えたが、一脚ならいざ知らず、どんなに簡単な三脚でも、結構面倒なので、これを選んで、古いのを廃却して、軽くて丈夫なカーボンに切り替えたのである。
   特に、写真に拘るわけではないのだが、これまで手持ち撮影で通してきたが、少し、最近では、それが怪しくなってきたので、三脚を使おうと思っているのである。
   

   もう一つ、特に必要はないのだが、転ばぬ先の杖・・・ステッキである。
   歳の所為か、時々、駅の階段を上り下りしている時に、ぎくりとすることがあり、また、ひっくり返って入院したという知人友人が増えているので、折り畳み可能なカーボン製ステッキを買ったのである。
   カーボン 雨にも負けず 4つ折伸縮ステッキ VH54型 胡桃 VH5401 ひまわり社製である。
   重さは、240gと軽量である以外は、長さ: 約79cm-89cm(25mm間隔)・太さ: 上部 20.5Φmm /下部 17.0Φmmの普通サイズであり、これも、折りたたんでショルダーバッグに入れておけば、殆ど苦にならない。
   
   

   若いサラリーマンが、最近では、リュックサックを背負って、空いた手で、スマホを叩いているが、私など、ショルダーバッグがやっとで、とにかく、軽い方が良い。
   と言っても、いつも本が入っているので、重さには耐えなければならないのだが、カメラも双眼鏡も眼鏡も、軽い方が良い。
   いずれにしても、カーボン製品は、大体、一番高いので、もう少し、カーボンが安くなれば良いのにと思っている。
   
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都響定期C・・・アラン・ギルバートのスペイン・プロ

2018年12月18日 | クラシック音楽・オペラ
   今日の都響定期Cは、指揮/アラン・ギルバート、チェロ/ターニャ・テツラフ 、ヴィオラ/鈴木 学 で、次のスペイン・プロ

   R.シュトラウス:交響詩《ドン・キホーテ》op.35
   ビゼー:『カルメン』組曲より(アラン・ギルバート・セレクション)
    前奏曲(闘牛士)/第1幕への序奏/アラゴネーズ/ハバネラ/闘牛士の歌/間奏曲/密輸入者の行進/ジプシーの踊り
  リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲 op.34

  バリエーションに富んだ洒落たスパニッシュ・プログラムながら、オーストリア、フランス、ロシアの音楽家が作曲した異文化の遭遇で、面白い。

   スペインの作曲家の音楽では、ホアキン・ロドリーゴ の『アランフエス協奏曲』、フランシスコ・タレガ の『アルハンブラの思い出』、パブロ・デ・サラサーテ の『ツィゴイネルワイゼン』、イサーク・アルベニスのピアノ組曲「エスパーニャ」などのスペイン音楽、と言ったところしか聴いてはいないのだが、土の香がする一寸小粋で洒落た感じの音楽とは、少し、ニュアンスと雰囲気が違うが、「ドン・キホーテ」と「カルメン」には、物語があってスペインの風土を色濃く感じさせて視覚的な魅力がたまらないし、「スペイン奇想曲」には、強烈な民族音楽が綾織のように錯綜してスペインの空気さえ感じさせてくれる面白さがある。

   マドリードのホテルの前のスペイン広場に、ドン・キホーテとサンチョパンサの騎馬像があったのを覚えているので、チェロとヴィオラの掛け合いを面白く聞いていた。
   ただ、申し訳ないのだが、白鷗の「ラマンチャの男」は見たものの、ドン・キホーテの原文を読んでいないので、実際の話を知らないのである。

   ビゼーの『カルメン組曲』はアラン・ギルバート・セレクションで、「音楽で物語を語りたい」という、『カルメン』を歌なしでオケに歌わせるのである。
   尤も、私自身、あっちこっちのオペラ・ハウスで、何度も、オペラ「カルメン」を観ているので、殆どのシーンは目に焼き付いていて、この組曲のように重要な場面の音楽が流れ始めると、条件反射が作動して、走馬灯のように情景が駆け巡り、「カルメン」の舞台が彷彿としてくる。
   ハバネラから闘牛士の歌に移る時には、間髪を入れずに懐かしい高揚したサウンドを一気に紡ぎだして観客を魅了するなど、メリハリの利いた色彩豊かなドラマチックな音楽を都響に歌わせていた。

   「スペイン奇想曲」は、ロンドン響かコンセルトヘボウ管で、前奏のような感じできいたことはあるが、今回のようにコンサートのラストで、きわめてダイナミックに終幕を迎える曲だという気はなかったので、ギルバートの選曲とオーダーが新鮮であった。

   ヨーロッパに8年在勤していたので、殆どの国を回っているのだが、私の印象では、自然風景もそうだし、文化文明もそうだし、スペインが最もエキゾチックで、ほかの国とは違った魅力があった気がしている。
   マドリード以外に、サラマンカ、セゴビア、セビリア、グラナダ、コルドバ、バルセロナなどを訪れたが、セビリアからであったか記憶が薄れてしまったが、マドリードへの列車旅で車窓から見た不思議でダイナミックな台地の風景や、飛行機で飛んだり、グラナダからコルドバまでタクシーで走ったり、サラマンカへの車旅で遭遇した風景なども、忘れられない思い出である。

   スペインは、非常に懐かしい思い出に満ちているので、今日のギルバートのスペイン・プロは、私には映画を見ているようなひと時を楽しませてくれた。
   ギルバートは、演奏を終える直前の、高揚し感激した思いを一気に体全体で表し、その表情の豊かさが素晴らしい。
   それだけ、都響が、指揮者に応えて素晴らしい演奏をしたと言うことであろう。

(追記)口絵写真は、都響HPより借用。
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わが庭・・・椿・タマグリッターズ・曙椿咲く

2018年12月15日 | わが庭の歳時記
   今年は、かなり蕾を付けたタマグリッターズが、やっと、咲きだした。
   先日咲き始めた玉あけぼのと同じ、玉之浦の交配種だが、アメリカ生まれである。
   この椿は、千葉の庭から持ち込んだ数少ない椿で、もう、2メートルくらいの大株に育っていて、玄関口を華やかにしてくれている。
   
   
   

   もう一つ、まだ鉢植えだけれど、千葉の庭で、大きく育って豪華に咲き乱れていた曙椿が懐かしく買った椿だが、華奢な花弁ながら大輪で、匂うようなピンクが美しい。
   ただ、問題は、華奢な花弁が、自然の営みには弱くて、すぐに、痛むことで、褐色の傷がついて可哀そうになる。
   千葉でも、そうだったが、木の奥に隠れてひっそりと咲きだした花弁は、比較的奇麗であったので、一輪挿しにさして楽しんでいた。
   茶花として、蕾の状態で生けることが多いようだが、折角の美しくて優雅な椿であり、ピンクの花弁の美しさを愛でなければ申し訳ないので、私は、満開直前で、抱え咲きくらいの時に切り花にして花瓶に生けて楽しんでいる。
   
   
   
   
   
   

   さて、これも、咲くまで気付かなかったのだが、千葉の庭から実生苗を持ってきて庭植えしていた椿が、一輪だけ咲きだした。
   先日は、ラッパ咲きの赤い椿であったが、今回は、同じような椿の花だが、濃いピンクである。
   いずれにしても、このようなシンプルな椿は千葉の庭にはなかったので、先祖返りの雑種であろう。
   4~50種植えていたのだが、実をつける椿は少なくて、実を採った椿で今思い出すのは、小磯、天賜、玉之浦・・・先日のように、小磯の種ではないかと思っている。
   名もなき新種と言うことになろうが、椿をたくさん植えておれば、雌蕊は隠れて見えない椿でも、必ず雄蕊があり、雌蕊の露出している椿は、交配して雑種を生む。
   
   
   
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METライブビューイング・・・「西部の娘」

2018年12月14日 | クラシック音楽・オペラ
   今回のMETライブビューイングは、プッチーニの「西部の娘」。
   異国情緒たっぷりの北京を舞台にした「トゥーランドット」や、長崎を舞台にした「蝶々夫人」を作曲したプッチーニであるから、西部劇のオペラであっても不思議はないのだが、このカリフォルニアの片田舎鉱山町を舞台にした西部開拓時代のジョン・ウェインが登場してきそうなこてこてのアメリカ風のオペラは異彩を放っている。

   さすがに、本国のアメリカであるから、舞台は、紛いもなく、19世紀半ばのカリフォルニアの鉱山町で、第一幕の酒場ポルカは臨場感たっぷりであり、第三幕の田舎町のメイン通りの雰囲気など両側に並ぶ建物は勿論、通りの土の凸凹や汚れなども敷物に手を加えるなど当時そのままで、それに、今回の舞台は、左右ではなく、舞台設定を縦に長くして出入り口を中央に置くなど奥行きを強調した舞台セットが実によく、酒場のドアー越しに馬や馬車が行き来するシーンが効果的である。
   雰囲気を示すために、HPの写真を借用すると、
   
   
   

   私は、まだ、この「西部の娘」を観たことがなかったのだが、一度だけ、チャンスをミスった記憶がある。ロンドンに住んでいた頃に、シーズンメンバー・チケットを持っていて、ロイヤルオペラに通っていたのだが、偶々、この「西部の娘」が、私のシリーズにはなくて、郵便で申し込んだのだが、何かの手違いで予約が成立していなかったのか、チケットが届かず、ジューン・アンダーソンの舞台を諦めざるを得なかったのである。ジューン・アンダーソンについては、バーンスティン指揮の「キャンディード」にも、ロンドンに来れずにに涙を呑んでいる。

   さて、この「西部の娘」は、プッチーニの最も美しいサウンドのオペラと言われながらも、三大大作の「トスカ」、「蝶々夫人」、「ラ・ボエーム」などと比べて公演回数が少なくて、私自身もDVDやCDさえ持っていなくて、まともに聞いたことさえなかったのだが、しかし、あのベルカントの美しいプッチーニ・サウンド全開の凄い作品であることを知って、感激の連続であった。

    キャスティングは、
    指揮:マルコ・アルミリアート
    演出:ジャンカルロ・デル・モナコ
    ミニー:エヴァ=マリア・ヴェストブルック、
    ジョンソン:ヨナス・カウフマン、
    保安官ランス:ジェリコ・ルチッチ

   タイトルロールのミニーのエヴァ=マリア・ヴェストブルックは、実に魅力的なオランダのソプラノ。オランダに住んでいたので、オランダの女性を見ているのだが、現代を代表するドラマティック・ソプラノで、強靭で劇的な美声で、ワーグナーからイタリア・オペラまで幅広いレパートリーを手がける。とかで、本人もこの役をやりたくて一番好きだと言っていたが、爆発するような凄くパワフルな演技に加え、初々しいほどの繊細さを示して、ジョンソンに愛を訴える健気さ、パンチの利いた温かみの籠った美しい声が、印象的であった。「ワルキューレ」のブリュンヒルデを楽しみにしている。
   ヨナス・カウフマンについては、21世紀を代表するオペラ界のスーパー・スター、現在最高のテノールであるから、コメントなど無用だが、今回、エヴァ=マリア・ヴェストブルックとケミストリーが合う、相性が良くて素晴らしい舞台を演じられると言っていたので、これ以上のジョンソンは望みえなうと言うことであろう。
   ジェリコ・ルチッチは、実に個性的な風貌であり、ドスの利いたバリトンがすごい。METで、マクベス、オテロ、カヴァレリア・ルスティカーナ、リゴレットを歌っているのは良く分かるし、椿姫も面白いのではないかと思った。
    指揮のマルコ・アルミリアートは、イタリアのオペラ指揮者。文句なしの名演。

   ストーリーは、HPを脚色して示すと次の通り。
   アメリカの西部開拓史に燦然と輝くゴールドラッシュで沸くカリフォルニアを舞台にした盗賊の親玉と純粋無垢で偉丈夫な西部の田舎娘のラブロマンスで、清々しい。
   19世紀半ば、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア。酒場ポルカの女主人で、鉱夫たちのマドンナでもあるミニーは、初めて酒場に現れたディック・ジョンソンと惹かれ合う。ミニーは、初めて自宅にジョンソンを招いて初めてキスを交わすが、そこへ、ミニーに気がある保安官ランスがやってきて、実はジョンソンは盗賊団のボス、ラメレスだと彼の正体をミニーに明かす。怒って詰問して詰め寄るミニーを残して、ジョンソンは家を出るが、ミニーは、ランスに撃たれて戸口に倒れこんだジョンソンをかくまい、彼の命と自分の身を賭けてランスとカードの勝負をする。イカサマで危うく勝ち抜けたミニーはジョンソンを逃すが、彼は盗賊団を恨む鉱夫たちに捕まり、ランスの前に引き出された。死を覚悟し、ミニーへの伝言を口にするジョンソン。そこへミニーが現れて、皆が仲良く暮らしていた時代を思い出させて、皆の許しを請う。 悄然と見送るランスを残して、ミニーとジョンソンは、炭鉱町を後にする。

   「西部の娘」の初演は、1910年、METで、ミニー:エミー・デスティン、ディック・ジョンソン:エンリコ・カルーソーで、指揮:アルトゥーロ・トスカニーニと言う凄い布陣で、大変なプレミアが出たという。    
   カルーソーが、アリアがないと言ったと言うことだが、確かにアリアは殆どなくて、第一幕のランスのアリア「ミニー、家を出てからおれは」と、それに応えて、ミニーのアリア「ソレグラードにいたころ子供だった私は」、
   しかし、第三幕のジョンソンのアリア「自由の身になって遠くに行ったと彼女に信じさせてくれ」の、途轍もなく美しいアリアは、特筆ものである。
   しかし、このアリアが終わらないうちに、ランスが後ろから近付いて肩を鷲掴みにして、Ah, sfacciato!... 遮ってしまうので、感動した聴衆が、どこで拍手してよいのか、出鼻を挫かれ、感動の余韻が残らないのが一寸残念。

   観るまでは、感覚がつかめなかったのだが、最初から最後まで、甘味で美しいプッチーニ節の連続で、アリアが少ないとか不協和音がどうのと言うことなど関係なく、楽しませてもらった。
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井深大著「幼稚園では遅すぎる―人生は三歳までにつくられる!」

2018年12月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、ほぼ半世紀前に出版されたソニーの創立者井深大の著者なのだが、今読んでも、風化する気配なく、非常に新鮮である。
   私には、同居していて、毎日のように保育園に送り迎えしている孫娘がいて、来年3月に3歳になるので、「幼稚園では遅すぎる―人生は三歳までにつくられる!」と言われれば、他人ごとではない。

   まず、冒頭の、「モーツアルトもミルも、生まれながらの天才だったのではなく、生まれてからすぐの恵まれた教育・環境によって、類まれなる才能が育まれたのです。」と言う見解である。
   結果的には恵まれたと言うことかも知れないが、ベートーヴェンの場合もそうだが、モーツアルトなど、子供とも思えないほど、スパルタもいいところで、情け容赦なく、徹底的に扱かれて音楽の勉強訓練を叩きこまれたのである。

   井深大は、自分の知恵遅れの子供でも、0歳からの育て方次第では、かなりの程度まで能力を伸ばしてやることが可能だったということを知らなかったのだが、そのような目を開かせてくれたのは、バイオリンの早期才能教育鈴木メソッドの鈴木鎮一の「どの子も育つ、育て方ひとつ」と言う言葉だったという。

   その根幹となる人間の脳細胞だが、約140億個で、生まれたばかりの赤ん坊の脳はまだ白紙の状態で、脳細胞が稼働し、決まるのは三歳ごろまで、すなわち、それまでに、脳細胞が絡まり合い、情報処理と言う頭脳特有の機能を果たすようになる。
   外からの刺激をキャッチしてパターン化し記憶するといった最も基本的で重要な情報処理の仕組みが三歳までに形作られて、思考、意思、創造、情操と言った高度なもの、つまり、三歳までに形成されたものを「いかに使うか」と言う働きが、三歳以降に発展成長して行く。と言うのである。
   三歳以前には、コンピューターのハードウエア、つまり、「機械の本体」に相当する部分が形成され、三歳以降に、コンピューターのソフトウエア、機械の使い方を教える部分が形成されるというのであるから、機械の本体が悪ければ、どうしようもないということであろうか。
   最新の脳科学の見解がどうなっているのか、私自身、何の知見もないので、分からないが、いずれにしろ、モーツアルトやベートーヴェンのように、鉄は熱いうちに鍛えないとダメだということで、ニコニコ健やかに育っているなどと喜んではおれないのである。

   この本の冒頭部分で井深大が、指摘していることで、納得できるケースがいくらかある。
   ”「難しい」「易しい」と言うの大人の判断は子供に通用しない”
   これは、わが孫、孫息子と孫娘二人を見ていて、まったく、そうだと思っており、関心を持つことには何でもやらしてみようと思っている。
   例えば、算数など、1年、2年などと限定せずに、やれれば、どんどん、高学年の算数を教えてもよいし、本なども、読み始めれば、大人の本でもよいと思っている。
   孫娘は、「お母さんと一緒」ではなくて、大分前から、ポニョやトトロを、最初から最後まで飽きずに見ており、兄のテレビやビデオも一緒に見ている。
   「どんぐりコロコロ」よりも、ポニョが、大海原を必死に駆け抜けるワーグナーの「ワルキューレの騎行」の素晴らしいサウンドに魅かれているのは確実である。

   ”幼児は、パターン認識と言う優れた能力を持っている”
   これは、この本でも述べているが、神経衰弱は、誰も、幼稚園児の孫息子には勝てなかった。
   それに、しゃべり始めた孫娘が、「きかんしゃトーマス」に登場するたくさんの機関車などの名前を殆ど正確に言い当てていた。
   私など、アメリカの大学院まで出ているのに、神経衰弱では最低だし、機関車の名前など何回見ても覚えられない体たらく、歳の所為だけでもなさそうである。

   とにかく、賛否両論はあろうが、井深大の幼児教育論は、ソニーの創業者としての偉大な経営者と言った視点から見るべきではなく、偉大な教育者井深大の教育論として読むべきだと思う。
   本の冒頭部分だけのコメントになってしまったが、教えられることが結構多い本である。
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