熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ダロン アセモグル , ジェイムズ A ロビンソン「自由の命運  国家、社会、そして狭い回廊」(3)

2021年07月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先に、新冷戦下にある米中関係につい何度か書いてきたが、アセモグルが、中国について、どう考えているのか、本書の第7章 天命 に、中国のリバイアサンについて、興味深い議論を展開しているので、考えてみたい。

   中国の歴史は、ヨーロッパの歴史とはまるで異なる経路、自由を生み出さない経路を辿った。
   しかし、当初からそうだったのではなく、 孔子の教えである儒教は民衆の福祉を大いに重視し、徳のある為政者によってこれが増進されると主張していた。

   同時に、 中国が国家としての体を成し始めたこの春秋戦国時代だが、商鞅たちによって提唱されて実践された専横的な新しい政治思想である法家主義のモデルで、秩序を最優先する強い国家の確立で、全能の統治者が国家と法の重圧によって社会を押しつぶすことによって達成されると考えられた。
   この法家主義の高圧的な手法に異を唱える儒教のモデルは、道徳的な規律と「民の信頼」を得ることを重視していたが、しかし、この二つの手法には、専横の基本原理については一致を見ていた――――一般市民は政治に発言権を持たず、国家と皇帝に拮抗する勢力には絶対にならない。と言う原理である。民の福利に配慮するよう為政者を駆り立てるのは、為政者の徳行だけで、孔子も、「庶民は政治を論議することはない」と述べていると言う。

   漢の高祖など、法家主義の教えを土台として、それに儒教の思想を組み合わせて政を成したと言われているが、それ以降、現代に至るまでの中国の総ての政府と法律は、これらの二つの哲学の融合として、またそれらを両極とする連続体上を揺れ動く運動として解釈することが出来る。連続体のどこかに位置していようとも、総ての体制がいくつかの基本原理については一致していた。
   そのうちの最も重要なものが、全能の皇帝が、政治に関わる役割や発言権を一切民衆に与えずに支配すると言う、専横のリバイアサンの中心原理である。
   まさに、現下の習近平の政治は、このものズバリで、言い得て妙である。

   いずれにしろ、中国の歴史と政治は、国家や為政者に発言権を持たず対抗勢力にはならない無力な国民の存在する専横のリバイアサンであるから、自由が横溢し着実な繁栄に道を開く足枷のリバイアサンなど夢の夢という訳である。
   「近代化論」と呼ばれる社会科学の学説があって、国は豊かになるにつれて、より自由で民主的になれるとされるが、そのような転換を中国に期待するのは、2500年近くにわたって専横の経路を歩み、回廊から遠ざかってきた中国にとっては、どんな方向転換も容易に行くとは考えられず、中国が「歴史の終わり」が速やかに訪れるという望みは幻想に止まりそうである。
   尤も、専横国家に於いて、既存技術に基づく投資と工業化によって、牽引されて高度成長を遂げてきた国もある。これらは、政府の要請に応える形で、軍事技術や宇宙開発などブレイクスルーを遂げてきたものの、大半が、よそで成し遂げられた技術進歩の移転・模倣によってもたらされたものであった。

   しかし、未来の成長に欠かせない、幅広い分野での多用で継続的なイノベーションに必要なのは、既存の問題を解決することではなく、新しい問題を創出することで、それには、自立性と実験が欠かせず、大勢の人が独自の方法で思考を重ね、ルールを破り、失敗と成功性の高い、創造性や企業家精神を発揮できる自由な社会環境である。
    したがって、創造性は継続的なイノベーションに不可欠な要素であり、有力者の邪魔をしたり、党公認のアイデアとかち合ったり、ルールを破ったりするなど心配する、自由のない世界では、どうすれば良いのか、70年代のソ連で果たせなかったのは、まさにこの種の実験とリスクテイク、ルール破りによるイノベーションであり、中国経済もまだその解決方法を見だしていない。
   中国の成長が、今後数年で先細りになるとは思えないが、中国にとっての死活問題は、大規模な実験、イノベーションを始動することにあり、過去の総ての専横的成長の事例と同様、中国がこれに成功する見込みは薄い。と言う。

   アセモグルの理論は、きわめて単純明快、
   「専横」と「不在」のふたつのリヴァイアサンに挟まれたどちらにも属さない不安定な「狭い回廊The Narrow Corrido」のハザマで、強力な国家と強力な社会のせめぎ合いによって民主主義的な「足枷のリヴァイアサン」を生み出した国だけが、自由と繁栄を維持できる。
   中国は、自由と繁栄への道筋にある「足枷のリヴァイアサン」の埒外にある「専横のリバイアサン」であるから、ある程度成長しても、今後の更なる持続的成長は、到底無理である。と言うのが、アセモグルの結論である。

   さて、私自身は、南シナ海を筆頭とした領土問題、チベットや香港やウイグルに対する自由や人権の圧殺、台湾への締め付け、国民に対する思想や情報統制など基本的人権の無視など、言語道断だと思っているし、許せないと思っており、2049年のマラソン計画に向かっての覇権国家確立には懸念を感じている。
   ただし、高邁な思想や自由で平等な世界への希求など歴史の大きな潮流とは別に、経済成長などと言ったどちらかと言えば雑で物理的な世界は、別な動きをしているようで、旧ソ連のような共産主義的な生産方式の計画経済と、中国の自由な資本主義経済を内包した国家資本主義とは、大きく違っている。
   現在、自由主義国家よりも専制国家体制を取って、中国よりの国家体制に移行している国が多くなっているという報告があるが、良かれ悪しかれ、中国の国家資本主義に似た専横体制を取って成長発展を目指している国が増えているということである。
   今時、昔先進国が、企業家精神を発揮して経済をテイクオフして成長発展を図った恵まれた時代は夢の夢となり、現在の発展途上国などでは、自由に任せた国家経済の発展成長など不可能であり、独裁であろうと専制であろうと、強力なリーダーシップのもとでの専横体制で政経を行うべきで、中国を見本とする以外にモデルはない。
   
   アセモグルの理論では、狭い回廊に入っている民主主義国家のみを相手に、「足枷のリバイアサン」の自由と繁栄論を説いているようであり、次元が違う中国の専横のリバイアサンについては、もう少し、検討すべきだと思っている。
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鎌倉プリンスからオリンピックを観る

2021年07月29日 | 鎌倉・湘南日記
   今日、二人の娘婿を除いて、3人の孫と一緒に、次女のバースディを祝って、家族で、鎌倉プリンスで昼食会を持った。
   ところで、期せずして、江の島ヨットハーバーでのセーリングのオリンピックを、遠目ではあるが、観る機会を得たのである。

   ところで、ランチは、フレンチのトリアノン・レストラン、
   小学生の孫も、メニューは、夏のプラージュ~浜辺~、
   久しぶりのフルコースだが、日本のフレンチは、やや、軽い繊細な味の、実に美しい料理であるから、老人にも子供にもヘビーにならずに楽しめる。
   若い頃には、欧米生活が長かったし、ミシュランの星付きのレストランを求めて歩いてきたので、ヘビーなフルコースでも平気で楽しんできたが、若かったから出来たのであろう。
   別に美食家でもなかったし食に特別に興味を持っていたわけではなかったが、真善美の追求の一環というか、頂点を極めた欧米の食文化を通して、少しでも、欧米の文化文明の神髄に触れたいという大それた思いがあったのである。
   美味しかったし、歴史と伝統に培われた何とも言えない欧米の文化の香りが濃厚に漂う独特な雰囲気が心地よく、旅情に似た懐かしささえ感じさせてくれて、楽しかった。
   主に、ヨーロッパだったが、あっちこっちの街に行くと、ミシュランガイドのレッド・ブックを広げて、真っ先に、星付きのレストランを予約した。
   決して安くはなかったが、ワインさえ注意して選べば、日本のように法外な料金を取られることがなく、安サラリーマンの私にも、どうにか行くことが出来たのである。

   さて、このトリアノンは、やや、高台にあり、南側の窓は、全面、太平洋に向かって解放されて、パノラマ模様に江ノ島の海が展望できる。
   
   
   
   ここから眺めると、遠くの方に、大小さまざまなヨットやウインドサーフィンが、青い海に、斑点のように漂っている。
   オリンピックの舟などが観られると知っていたら、せめても、双眼鏡くらいを持って来たのだが、後の祭り。
   持っているのは、キヤノンの小型のデジカメで、それでも、望遠で撮って、拡大したら、ヨットの縁にのけぞってヨットを操縦している選手の雰囲気が微かに分かる。
   どれが、何のヨットで、何がサーフィンなのかも良く分からなかったが、ヨットハーバーに急ぐ船影を観ていると、競争だと言うことが分かる。
   コロナの時期であり、時々、マスクを付けて席を離れて、窓際に出てシャッターを切るのだが、相客に気を使う。
   しかし、双眼鏡さえあれば、良い観覧席となろう。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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ダロン・アセモグル:デカップリングの危険性 The Dangers of Decoupling

2021年07月25日 | 政治・経済・社会
The Dangers of Decoupling
Jul 22, 2021
DARON ACEMOGLU

   プロジェクト・シンジケートのダロン・アセモグルの論文「デカップリングの危険性」で、米中対立と分断について、興味深い論陣を張っているので、考えてみたい。

   世界が、米中のデカップリングによって、危機的な新冷戦状態に陥っているとの認識で、熾烈なイデオロギーやAIなど先進テクノロジーに対する鬩ぎ合いや、深刻な経済や貿易紛争と、地政学的および地球環境問題など共存共栄などグローバルベースで協力しなければならない問題の解決とを調和させ得る平和的共存のモデルを確立することが必須だと説く。
   識者誰もが議論しているテーマだが、世界政府がなく、国際協調を欠く世界(だから、冷戦なのだが)では、一番実現の難しい難題であるが、どうするか。

   今回は、多少訳文に問題があるとは思うが、アセモグルの論文を以下に紹介して置きたい。

   中米関係が元の冷戦の地政学的ダイナミクスにますます似て来ており、世界は、明確に新しい均衡に向かっている。西側の一部は、投資と改革を動機づけるための新しい「スプートニク・モーメント」を切望しているが、自分たちが望むものに注意する必要がある。
   中国政府が、昨年アリババを、今月配車会社ディディを粉砕する勢いで規制して、その国のハイテク産業の将来について過熱気味の憶測を呼んでいる。最近の中国の規制介入は、米国当局自身のビッグテックの精査強化に対抗した正当防衛の一部であると考える人もいれば、そうでなければ西側諸国によって悪用される可能性のコントロールのための行為だと観る見方もあり、そして、さらに、中国共産党が、統括統括していることを中国の大企業に思い起こさせるために打ったショットだと見る。

   しかし、ほとんどは、中国政府の行動は、中国を米国から切り離す広範な取り組みの一環であって、世界的に重大な影響を及ぼす可能性のある展開である。米中の経済的戦略的関係が着実に悪化しているにもかかわらず、ライバル関係が冷戦スタイルの地政学的対立に変わると考える人はほとんどいなかった。一時期、米国は中国に過度に依存しており、両国の経済はあまりにも密接に絡み合っていた。現在、根本的に異なる均衡に向かっているかもしれない。

   3つの相互に関連するダイナミクスが冷戦を定義した。最初の、そしておそらく最も重要なのは、イデオロギー的なライバル関係であった。米国主導の西側とソ連は、世界がどのように組織されるべきかについて異なるビジョンを持ち、時には悪質な手段によってそのビジョンを伝播しようとした。核軍拡競争によって最も鮮やかに描かれた軍事的側面もあった。そして、両ブロックとも、これがイデオロギー的、軍事的に勝つために重要であることを認識していたので、科学的、技術的、経済的進歩においてリードを確保することを熱望していた。

   ソ連は最終的に経済成長を促進する面では米国よりも成功しなかったことを暴露したが、初期には技術軍事勝利を知らしめた。スプートニク衛星の打ち上げ成功は、米国を覚醒させた。
.   冷戦の厳しいライバル関係は、主に米国とソ連が分離したために可能であった。米国の投資と技術的なブレークスルーは、スパイ行為を除けば、ここ数十年の中国へ漏洩したような方法では、ソ連に自動的に流れなかった。
   しかし今、ドナルド・トランプの支離滅裂な外交によって悪化した中米の敵対は、冷戦のライバル関係の近代的なコピーを作り出した。20年前には地平線上にさえ現われていなかったイデオロギー的な亀裂は、現在では十分に定義されており、西側は民主主義の美徳を強調し、中国は自信を持って、特に、アジアやアフリカで権威主義的モデルを広報し拡散している。

   同時に、中国は南シナ海と台湾海峡に新たな軍事戦線を開いた。そして、もちろん、経済的、技術的なライバル関係は過去10年間でエスカレートしており、双方は人工知能の優位性を達成するための存亡を掛けた競争下にあると結論づけている。AIに焦点を当てることは見当違いかもしれないが、デジタル技術、バイオサイエンス、先進エレクトロニクス、マスターマスターが最も重要であることは間違いない。

   一部のオブザーバーは、西側に明確に定義された共通の目的を与えると信じて、新しいライバル関係を歓迎している。結局のところ、「スプートニク・モーメント」は、米国政府がインフラ、教育、新技術に投資する動機付けとなった。今日の公共政策に対する同様の使命は、多くの利益をもたらすかもしれない。確かに、バイデン政権はすでに中米のライバル関係の面で、米国の投資の最優先事項と位置づけている。。

   確かに、西側の冷戦時代の成功事例の多くは、ソ連が引き立て役として機能したことに依存していた。西ヨーロッパの社会民主主義のモデルは、ソ連スタイルの権威主義的社会主義に代わる好ましい選択肢と見なされた。同様に、韓国と台湾の市場主導の経済成長は、共産主義には脅威となり、独裁的な政府は、土地改革を行い、教育に投資することを余儀なくされた。

   しかし、新しいスプートニク・モーメントの潜在的な利点は、おそらくデカップリングのコストをはるかに上回っている。今日の相互依存の世界では、グローバルな協力が根本である。中国との対立は、世界中の民主主義の防衛に不可欠であるが、西側の唯一の優先事項ではない。気候変動も文明的脅威であり、緊密な中米協力が必要となる。

   さらに、今日、冷戦の莫大なコストを軽視する傾向がある。香港や中国を含む人権と民主主義を主張する際に、西側諸国が今や信用を欠いているとすれば、それは、中東における悲惨な軍事介入の失敗だけではない。米国が、ソ連との実際の紛争に閉じ込められていると考えていた間に、それは、イラン(1953年)とグアテマラ(1954)で民主的に選ばれた政府を倒し、コンゴ民主共和国のジョセフ・モブツやチリのアウグスト・ピノシェのような悪質な独裁者を支持したなど、悪行を重ねてきたことにも依る。

   冷戦が国際的な安定を促進したと考えるのは同様に重大な間違いである。それどころか、双方の核軍拡競争と瀬戸際政策は、戦争の地盤を準備した。キューバのミサイル危機は、米国とソ連が開かれた紛争(そして「相互に保証された破壊」)に近づいた唯一の瞬間ではない。ヨム・キップル戦争中の1973年にも戦争間際まで行き、1983年、ソ連の早期警報システムが米国の大陸間弾道ミサイル発射に関する誤報を送った時。そして他の機会にも多数の危機があった。

   今日の課題は、世界の相容れないビジョン間の競争と、地政学的および気候関連の問題に関する協力とを許す平和的共存のモデルを確立することである。だからといって、西側諸国が中国の人権侵害を受け入れたり、アジアの同盟国を放棄したりする必要があるわけではなく、それ自体が冷戦スタイルの罠に陥ることを許すべきではない。特に西側政府が市民社会に、国内外の中国の虐待の精査を主導することを許すならば、原則的な外交政策は依然として可能である。

   アセモグルが、「自由の命運」第7章「天命」で、中国のことについて書いているので、次回はこれについて考えてみたい。

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TOKYO 2020オリンピックが始まった

2021年07月24日 | 生活随想・趣味
   賛否両論、大荒れに荒れたTOKYO 2020オリンピックが、とうとう、開幕した。
   この口絵写真は、日刊スポーツの「長嶋茂雄、王貞治、松井秀喜の国民栄誉賞3氏が聖火ランナー」の記事から借用したものである。
   開会式の模様は、書斎のパソコンテレビで観ていたのだが、色々感激するシーンがあったが、この3人の姿が、非常に印象に残っている。

   馬鹿だと言われるのを覚悟で言えば、結論として、私は、オリンピックの開催に賛成である。
   コロナは怖いが、元々、古代オリンピックは、戦争など騒乱のなかで、この時だけ、戦争を中止して、ギリシャ人たちは、スポーツの祭典として、フェアなスポーツの戦いを享受した。
   出来れば、万難を排してでも、芸術やスポーツなどの大々的なイヴェントは実施すべきであって、これが、人々の高揚心を発揚し、新知識やイノベーションを触発し、人類の文化文明の発展を支えてきた一つの原動力だと思っている。
   今回、一番感激したのは、東京の夜空に、オリンピックのシンボルマークが浮き上がったと思うと、それが綺麗な球体に早変わりして、地球儀となって舞い始めたのだが、1824台のドローンが描いたのだということである。
   今日、ドローンは、戦争の武器として一番恐ろしいものの一つだが、ICT革命の華として、良くも悪くも、どのような発展を続けてゆくのか、戦々恐々であって、興味津々である。

   残念だったのは、天皇陛下が、オリンピアードの宣言をされているときに、総理や知事が起立していなかったこと。明治時代なら切腹ものだと思うが、象徴天皇の時代と言えども、あまりにも、礼を失した非常識極まりない所業である。途中で立ち上がったので、余計に目立ったのだが、世界中の人々は、どのような思いで観たであろうか。
   礼を重んじる日本である筈だが、為政者のトップがこれでは、日本の将来が危ぶまれる。

   オリンピック・パラリンピックの成功を心から祈念したい。
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日経:気候対策問う株主総会

2021年07月23日 | 経営・ビジネス
    日経朝刊の「第4の革命」のGXの衝撃4は、「気候対策を問う株主総会 「緑のマネー」世界を動かす」であった。
    先日、アセモグルの「CEOが問題である CEOs Are the Problem」を記事にして、企業経営の大変質、すなわち、株主資本主義からステークホールダー資本主義への変革について書いたので、それに関連して、株主総会の変質についての記事なので、今昔の感の思いで読んだ。

    私は、世紀末から21世紀初めに掛けて、監査役として務めていた。
    当時の株主総会は、総会屋対策が総てと言った感じで、準備と言えば、経営哲学がどうだとか、業績の説明などはそっちのけで、総会荒らしを目的として押しかけてくる総会屋を如何に撃退するかに、何処の企業も腐心していた。
    弁護士や信託銀行などの行員が企業に出向いて、想定問答集などを駆使して、総会乗り切り方を指導伝授していたのだが、スキャンダル紛いの追求が多く、中には、一応バランスシートが読める若手のインテリ総会屋もいたが、殆ど実りのない株主総会準備であった。
    あることないことをまくし立てて、一種の脅迫紛いの質問をして経営陣を吊し上げ締め付けるのだが、埃の立たないような経営をしている企業など皆無であり、必ず臑に傷を持っているので、紛糾して、2時間で終っていた総会が何時間にも及んで、深夜を越えて翌朝まで続いた大企業の総会もあった。
    多少は、悪徳企業の自浄作用を促進したと言えるかも知れないが、バブルが崩壊して、下り坂を転げ落ちていた日本企業にとっては、悲しい性であった。今の、国家の命運を決するような重要問題はそっちのけで、思想も哲学もない無意味で末梢的な議論にうつつを抜かしている国会と同じで、実に悲しい株主総会が続いていたのである。

    さて、今様株主総会だが、日経記事によると、
    6月に開かれた住友商事の株主総会。温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」に沿った事業計画をつくるよう、ある株主が詰め寄った。定款変更まで求める株主提案をした環境系非政府組織(NGO)、豪マーケット・フォースの代理人だ。
    提案は否決されたが、企業側が耳を傾けざるを得ないのは、名だたる機関投資家が背後にいるから。その1つが2020年末時点で約180兆円の運用資産を持つ機関投資家、英リーガル・アンド・ジェネラル・インベストメント・マネジメント(LGIM)で、日本企業約90社を含む1000社以上の企業の環境対応を評価・公開した。最低要求水準をつくり、改善しなければ経営トップの選任議案に反対したり、投資対象から除外したりする。環境保護に対する環境対策を政府に求めていたが、化石燃料に流れる資金を止める方がカーボンゼロへの近道であり、文字通り「市場の力」を借りて、企業にグリーントランスフォーメーション(GX=緑転)を迫る。のだと言う。

    5月に開かれた米石油大手エクソンモービルの株主総会では、0.02%の株式を持つ環境系の投資会社エンジン・ナンバーワンが「再生可能エネルギーの選択肢を持っていないと株主の利益が増えない」と主張して、再生エネ企業の元幹部など4人の候補者を取締役に推薦し、そのうち3人の就任が決まった。総会では運用規模30兆円超の米カリフォルニア州教職員退職年金基金(カルスターズ)などが提案に賛同して、ひっくり返ったのだが、膨大な資金を動員してロビー活動して環境破壊を続けていた石油会社の経営を根底から揺すぶって、イデオロギー的、政治的なものであった気候変動問題を、株主価値に関わる問題にしてしまったのである。

    善意に解釈すれば、企業活動によって、使い捨てになり翻弄されるままに荒らされていた外部経済の残滓を、内部経済化すべきとする強力な倫理的な経営思想が、ようやく目覚めたと言うことであろうか。
    アセモグルは、経営姿勢が、ステイクホールダー資本主義に変ったと言うのは幻想で、国民の圧力を感じて、自分たちが引き起こした問題に対する解決策の一環として実行しているに過ぎないのだと述べているが、株主至上主義を至上命令として守り続けていたはずの株主に、逆に、反逆されて挑戦を受けているという皮肉。
    いずれにしろ、倫理感に目覚めた、特に、宇宙船地球号を持続可能な状態に必死になって戻そうという思想が活力を得たと言うことであれば、万々歳と言えると言うことであろうか。
    ことの推移のは早さに驚いている。
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わが庭・・・カノコユリ咲く

2021年07月22日 | わが庭の歳時記
   カノコユリが咲き始めた。
   カサブランカなどの改良種のオリエンタルハイブリット系と違って、一寸小型だが、鹿の子模様が綺麗な日本のユリである。
   草丈も小型なら、蕾も小さく着いて、気づかないうちに、咲くときには、一気に膨らんで、綺麗な花が咲く。
   吸収や四国、台湾など南国に咲く花のようだが、鎌倉のわが庭では、自生のように、手入れをしなくても、毎年、咲いてくれる。
   シーボルトが持ち帰ったという。
   華麗なユリの欠点は、雄蘂の花粉が衣服や体に着くと、困るので、生け花にするときには、花粉を切り落として、一寸美観を損ねること。
   
   
   
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ついついアマゾンで買ってしまう

2021年07月20日 | 生活随想・趣味
   コロナでの巣籠もり生活の所為だけではないと思うが、買い物は、ネットショッピングが主体となってきた。
   出不精にもなり、それに、殆どこと足りし状態になっているので、近くでの買い物は、定期的に消費するような食糧や日常雑貨品など補助用品が主体になってきた。

   ところで、口絵写真のメリタ Melitta コーヒー フィルター ペーパー 4~8杯用 1×4 用 100枚入り ×5個 セットだが、
   アマゾンだと、1679円、楽天だと、3067円、ヤフーだと、2984円~で、店によって値段にかなりの差があり、楽天等とは違って、アマゾンは、販売元がアマゾンなので、コスト削減も可能なのであろう。商品によっては、頻繁に変更して、時には特価品にする。
   これだけ、価格に違いが出ると、どうしてもアマゾンで買ってしまう。
   勿論、私の場合は、プレミア会員ではないので、合わせて2000円以上買わないと、送料が掛かるのだが、適当に追加購入商品が出てくるので、クリア出来る。
   閲覧履歴に入っていると、アップデイトな価格が表示されるので、下がったときに買えば良いので便利である。
   尤も、低額商品なら、どこで買っても、それ程気にはならないのだが、最近買ったもので、Canon プリンター A4インクジェット複合機 PIXUS TS8430や、タニタ 体組成計 など多少値の張る商品は、価格コムなどを叩くが、結局は、何故か、アマゾンで買っている。

   ところで、本だが、コロナで、東京や横浜の大型書店に行けなくなったのだが、大船の書店では、専門書や一寸程度の高い本は探せない。
   結局、アマゾンのブックのページを開いて、最新情報などを得て、買うこととなる。
   長年の経験で、書店で実物を見て選ぶのと、アマゾンの検索で選ぶのとでは、それ程情報量は変らないと感じている。
   実店舗では、本そのものを一覧できるので良く分かるが、関連本などを検索する場合には、アマゾンの方が情報量が多くて、検索の利便性は突出しているので、原書との関係や関連書籍などの情報なども得られるので、格段に有効である。

   それに、最近、小説など軽い本は、アマゾンで、古書でも、「ほぼ新品」の品を選べば、全く、新古書なので、少し安いので、買うことがある。
   書店で新本を買っても、客が手を付けているはずだし、同じことなのである。
   そして、全く、手つかずだったが、時々、メルカリで検索すると、結構、色々な本が出ていて、「新品」だとか「ほぼ新品同様」などの本を買えば、書店で新本を買うのと同じで、多少安く買えるので助かることがある。面白いことに、メルカリの方は、個人の売買が主体なので、アマゾンより安い場合が多い。

   ネットショッピングも、慣れてくると、少しずつ知恵が付くのだが、早く、本当の大型書店に行って、十分に読書生活の本道に戻りたいと思っている。
   コロナの第4波、ワクチンを二度打っても、非常事態宣言下では、老人の悲しさ、電車に乗って遠出も出来ない。
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ダロン・アセモグル:CEOが問題である CEOs Are the Problem

2021年07月16日 | 政治・経済・社会
   project-syndicate.のもう一つの次の論文について考えてみたい。
   CEOs Are the Problem Jun 2, 2021 DARON ACEMOGLU

   アセモグルは、この「CEOが問題である CEOs Are the Problem」という論文で、最近の欧米企業のステイクホルダー重視への経営の急旋回について、興味深い議論を展開しているのである。
   まず、
   企業の美徳重視の最新のシグナルの波は、ステークホルダー資本主義(企業は、総ての利害関係者、すなわち、消費者(顧客)、従業員、株主、債権者、仕入先、得意先、地域社会、行政機関等々総てのために経営すべし)の新しい時代が到来したと言うサインだと見做してはならない。それよりも、企業のリーダーは、国民の圧力を感じて、自分たちが引き起こした問題に対する解決策の一環として自分たちを位置づけようとしているのである。と言う。
   アセモグルの見解は、リーダーの資質や頭の構造など変るはずもなく、企業や経営者たちが、真の経営に目覚めて、株主資本主義を捨てて、ステイクホールダー重視の経営に変ったのではなく、単に国民の圧力に屈して当座しのぎの経営をしているのであって、CEOは、変っておらず、外から法的規制などで徹底的に箍を嵌めて変革しなければダメだと説いているのである。

    エクソンモービルは、最近、温室効果ガス排出量を削減する5カ年計画を発表し、グリーンな未来へのコミットメント宣言広告を頻発した。タバコ大手のフィリップ・モリスは、喫煙者に、禁煙への補助計画を宣伝している。Facebookは、新しいインターネット規制を求めている。そして、これらの動きは、アメリカ最大の企業のCEOを代表するビジネスラウンドテーブルが、すべての利害関係者にサービスを提供するようビジネスに求める声明を発表してから2年も経たないうちに起こった。
   今日の企業幹部は、企業責任の新しい時代を迎えているのであろうか、それとも、彼らは単に自分の権力を守ろうとしているのであろうか。と問いかける。

   何十年もの間、ビジネスリーダーや著名な学者は、企業の唯一のコミットメントは株主であると信じていた。1970年に、ニューヨークタイムズに、ミルトン・フリードマンの " ビジネスの社会的責任は、利益を増やすことである “The Social Responsibility of Business Is to Increase Its Profits”という署名記事が出て、この見解が主流となった 。ハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ジェンセンが、フリードマンの教義に理論的かつ経験的なサポートを提供した記事を書き、それに続いて、沢山の学術論文が出て、アカデミア内では、株主への利益追求至上主義とも言うべき株主資本主義が、さらに勢いを増していった。と言う。
   ROEアップによる株価重視の経営が至上命令のようになって、経営者たちは、長期的な企業経営を軽視して直近の短期的利益アップに奔走し始めて、ストックオプション等とも連動して経営者たちの報酬がうなぎ登りに上昇した。
   フリードマンは、企業の社会的責任の追及については、利益にプラスにならなければ、株主にへの背信行為だと切って捨てており、長い間、アメリカでは、株主至上主義的な経営が継続した。
   ICT革命の時流にも乗って成長を謳歌したアメリカでは、経営者たちの報酬が異常に高騰し、資本家やウォール街に富が集中し、賃金の上昇や生活水準の上昇から見放された一般庶民との深刻な経済格差の拡大と、同時に深刻化した地球温暖化による公害や環境破壊問題が、アメリカの民主主義や社会を蝕み始めた。

   1980年代までに、ゼネラル・エレクトリックのジャック・ウェルチのような大企業のCEOや多数の経営コンサルティング会社の多くは、株主価値に対する熱狂ぶりを多少修正して、株主価値のより良い反映として、企業は、従業員の削減、賃金の伸びの制限、および業務のオフショアリングを開始するなど経営の変質はあったが、
   しかし、株価至上主義経営は変らず、株価の上昇に執着する一部の経営幹部を、行き過ぎた行動に走らせ、エンロン、WorldComなどの詐欺の粉飾決算などの企業悪は後を絶たなかった。

   今や、株主価値の最大化が企業の唯一の目的であってはならないという合意が高まってきている。
   さすれば、どうするのか、
   経営幹部が、より広範な利益を検討する権限を与えられたと感じるように、経営幹部のための新しい憲章を作成する必要があると、ビジネスラウンドテーブルは思っているようだが、アセモグルは、経営陣にさらに裁量権を与えるようどのような解決策にも注意すべきである。なぜなら、株主優位性の問題は、株価への執着を生み出し、株主に対して労働者を競わせると言うことではなく、トップマネージャーに膨大な力を与えたからであった。言う。
   多くのCEOは、現在、自分の個人的なビジョンに従って会社を経営している。社会的監視はほとんどなく、役員報酬は急増する一方。パンデミックによって引き起こされた前例のない苦難にもかかわらず、大きな打撃を受けた企業のCEOは、昨年、数千万ドルを家に持ち帰った。過度の権限を与えられたCEOに、ステークホルダーの利益を自身で適当に追求せよと言ったあいまいな命令を付与すると、その乱用が確実に起こる。一部の企業は、CEOのペットプロジェクト(メトロポリタン美術館や好みのチャータースクールプログラムなど)や、本当に単なる影響力行使のベールに包まれた「慈善活動」に数百万ドルを終やしたりするのである。

   現在のインセンティブ構造では、企業が慈善活動や美徳を宣伝しているとしても、膨大な量の消費者データを収集し、労働者や市民の権限を弱体化させ、横暴な新しい形態の監視を確立するのを止めることはほとんど出来ない。彼らが人件費を削減するために過度の自動化を追求することや、株主のためにさらに収益を生むために仕事を破壊することを妨げるものは何もない。 これらの反社会的傾向を逆転させる方法は、ビジネスラウンドテーブルが好むものとは大きく異なる次の2つのアプローチを通じてである。

   第一に、経営幹部に対する法的および制度的制約を強化する必要があること。あまりにも長い間、マネージャーは刑事犯罪行為に対する刑事訴追を避けてきた。2008年の金融危機につながる巨大な職権乱用でさえ、ほとんど完全に処罰されなかった。ジャーナリストのジェシー・アイジンガーが指摘するように、今日のエグゼクティブフレンドリーな法的状況は、野心的で利己的な検察官が、自分のキャリアを増進させようと慮って、企業や経営者に対して刑事告発に手を抜く傾向がある。
   さらに重要なことは、より明確なレッドラインを設定するために法律が必要である。積極的な租税回避に従事し、収益を支払うかどうかを決定することは、CEOに任せてはならない。企業が二酸化炭素排出量を削減することは、オプションであってはならない。そして、企業を絶え間ない自動化から遠ざけ、技術の変化を早急にリダイレクトする必要がある。これらの問題はすべて、社会の機能を維持するための方針に基づいて行われ、私利私欲のCEOの善意に委ねてはならない。
   2 番目は、第1の補完である。エクソンモービル、フィリップ・モリス、フェイスブックは、CEOは、突然、世間への精神を高めたからではなく、市民社会からの強力な圧力によって、美徳シグナリングを出した。このような圧力は、経営幹部に、さらに裁量権を与える改革を阻止するために必要である。脱税、過度な業務の自動化、汚染、または、株主や貪欲な経営者を豊かにするための会計上のトリックなど、容認できない企業行動として列挙して法律で特定すれば、市民活動は、より良く機能する。
   エクソンモービル、フィリップ・モリス、フェイスブックが、社会的に革新的ななビジネスモデルの改革に取り組んでいると信じるべき理由はない。彼らの広報活動は、彼らが感じているプレッシャーの反映である。市民活動は、機能し始めており、さらに効果的になる可能性がある。
   しかし、これこそが、企業に対する、より良く組織化されたより強力な要求となる。 批判を和らげ、批評家を排除するために設計されたホワイトウォッシングキャンペーンではない。
   企業の責任はあまりにも重要すぎて、企業のリーダーに任されるべきではない。
   と結論する。

   アセモグルは、経営者の倫理観など、全く信用して居らず、すべからく、今日の企業経営の悪化は、CEOの責任、CEOの問題、であると言っているのである。

   21世紀の初頭まで、会社の監査役として働いていたので、株主至上主義のアメリカの経営思想は、痛いほど強烈に日本の経営を直撃していたのを経験している。
   私が、ウォートン・スクールでMBA教育を受けていたのは、1974年までで、まだ、フリードマンの害毒の影響はそれ程なかったと思うのだが、三方良しの精神で商売をする日本では、昔から、「ステークホルダー資本主義」は常識であり、当時は、アメリカはそうであろうが、経営のやり方は、国によって違って当然だと思っていた。
   それに、私自身、昔から、ガルブレイスを勉強していて、外部経済に与える企業経営の悪弊や企業の社会的責任や、ローマクラブの影響もあって成長の限界や環境破壊の問題などに興味を持っていたので、企業経営は、どうあるべきかについては興味があり、勉強していたので、利益優先、株主至上主義には、かなり、距離を置いて見ていた。

   良かれ悪しかれ、”世界で脚光「ステークホルダー資本主義」、企業経営の潮流になるのか”という信じられないような現象が起こっており、企業経営の軸足が、社会、そして、人間の生活を重視する傾向に移りつつある(尤も、アセモグルの言うように信用は出来ないが)と言う革命的な経営環境の変化に驚いている。
   これも、人民パワーの為せる技と言うべきか、
   トランプ現象も含めて、ある日、世論が雪崩を打って胎動して、突然社会を大きく動かせる。
   そんなことが起こりそうだと言うことは、まだまだ、民主主義は健全だと言うことであろうか。
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名門「オンキヨー」上場廃止と言うのだが

2021年07月15日 | 生活随想・趣味
   ダイヤモンドonlineに、「名門「オンキヨー」上場廃止の裏側、東京商工リサーチが解説」という記事が出た。
   この記事を読みながら、レコードをせっせと買い続けて、クラシック音楽を聴いて楽しんでいた半世紀前の自分を思い出していた。
   オンキヨーとは関係ないが、その思い出を反芻してみたい。

   記憶は定かではないのだが、それまで全く縁のなかったクラシック音楽に興味を持ち始めたのは、大学生になってからで、これからの人生で、洋の東西を問わず時代を超越して人々が価値を認めて楽しんでいるクラシック音楽が分からなくて何の人生かと思い至って、聴き始めたのが、その動機である。
   アンプ付きのレコードプレイヤーに大型ラジオを左右につないで簡易ステレオを作ったのが最初で、それが飽き足らなくなって、その後、大阪日本橋の電気店にいって、ビクターの一体型のステレオを買ってきて使っていた。当時は、モノラルからステレオに変る時期であったのが懐かしい。
   最初に買ったレコードは、リーダーズダイジェストから出ていた10枚組のクラシック名曲全集であった。少しクラシック音楽が分かり始めてきてからは、アンセルメのバレエ音楽やカラヤンの協奏曲などと、西梅田にあったワルツ堂というレコード店に出かけて行って、少しずつレパートリーを増やしていった。
   出始めたソニーの大きなテープ・レコーダーも買って、FMのクラシック音楽の録音に努めた。
   それと同時に、会社の同好会を通じて、労音などクラシック・コンサートにも通い始めた。

   こうなれば、早いもので、給料の半分を割いて、来日したバイロイト音楽祭のワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を観にフェスティバル・ホールへ行き、大阪万博の時には、カラヤン指揮のベルリン・フィルやバーンスタイン指揮のニューヨーク・フィル、ドイツオペラの「ローエングリン」やボリショイ・オペラの「イーゴリ公」と言った調子で劇場に通い、ウィーン・フィルだ、イタリア・オペラだ、シュワツコップだと言うと、薄給も厭わず、コンサートホールに向かった。
   仕事が多忙であった所為もあって、家で、レコードを聴くことは少なくなってきたのだが、レコードだけは、どんどん、増えていって、米国留学時に、買い集めた洋盤を含めると、今でも、かなりのレコードが残っている。捨てなかったので残っているのだが、時代が違うので、子供や孫たちにとっては、無用の長物で、私が逝ったらどうするのか。
   ヨーロッパ生活が長かったので、その後、買い集めたCDやDVDもワンサとあるのだが、欧米では、オペラハウスやコンサート・ホールへ通い詰めて鑑賞することが多かったし楽しかったので、音響機器で聴くことは少なくなってしまっていた。

   ロンドンを離れるとき、上等なイギリス製のスピーカーを買って帰って、日本に帰ってから、ガイドブックを見ながら、かなり複雑な設定で、アンプなどを調達して、良く分からないままに、我流でセットを組みたてて、聴き始めたのだが、だんだん、興味が薄れて音楽を聴く機会も少なくなり、程なく廃却状態で倉庫に埋もれてしまった。
   DVDレコーダーに、DVDやCDをセットして、スピーカーシステムの付いた音響セット台の上のテレビに飛ばせば、それなりの映像とサウンドを楽しめるので、特に、不自由を感じなくなったのである。
   最近では、パソコンが、4Kでハイレゾなので、これで録画したものや、ブルーレイのDVDを再生して楽しんでいる。

   音響機器の第1次革命は、やはり、ソニーのウォークマンの登場で、音楽ファンの嗜好が、身近に自分で楽しむ携帯傾向にシフトしたと言うこと、
   そして、追い打ちを掛けたのは、アップルのiTunesとiPodによる大革命であろう。
   高級な音響機器を自宅なり、オフィスに設営して音楽を鑑賞するなど言った現象は、時代のニーズには合わなくなってしまった。

   オンキョーは、ミニコンポ、スピーカー、AVアンプなど得意の音響機器から、ミニコンポやPCの販売に軸足を移し、パイオニアのAV機器などを買収し、規模拡大を狙ったが、オーディオ市場は縮小一方で今日に至ったという訳である。
   オンキヨーのHPを見ても、業績数字は出ていないのだが、後藤賢治氏の記事によると、
   
   これで、良く経営が、今まで、持ったなあと思う。

   今、子供や孫たちは、アマゾンのアレクサを重宝しているが、時代の潮流にマッチした破壊的イノベーションを追求して新鮮さと差別化を生みだし続けなければ、生きては行けない時代になってしまったということである。
   どんどん、脱皮していかなくては、勲章であったはずの老舗が、時には、足枷になるということでもあろうか。
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ダロン・アセモグル:本当のインフレーション・リスク The Real Inflation Risk

2021年07月13日 | 政治・経済・社会
   Project Syndicateのダロン・アセモグルの次の時宜を得た論文について考えてみたい。
   The Real Inflation Risk Jul 6, 2021 DARON ACEMOGLU

   最近、コロナ後の経済復興やバイデンの積極的な公共政策の加速もあって、米国経済は、やや、インフレ基調となって、オーバーシュートを懸念して議論を巻き起こしているが、この傾向について、アセモグルは、本当に心配すべきは、アメリカを窮地に追い込んでいる深刻な民主主義の危機であるから、多少、インフレが起ころうとも、米国経済を機能させて経済成長を策して、民主主義を救済する絶好のチャンスであるこの期を逃してはならない。と檄を飛ばしている。

   米国社会を苦しめている深刻な問題の元凶は、保守と リベラル二つのイデオロギーの政治的分極化(political polarization)、国家の分断である。
   アセモグルは、1960年代の民主党の公民権運動に対して白人を利用したニクソンの「南部戦略」を皮切りに、GOPは、二極化は良い政治である(the GOP decided that polarization was good politics. )と決定して以降、その主義を貫いており、近年では、社会から阻害されたと不満を持つ白人たちを取りこむために、有権者の弾圧やその他の反民主的な戦術に頼らざるを得なくなり、それが、トランプの時にピークに達したと論じている。
   この二極化の解消が急務であり、そのためには、政府は、雇用と賃金を伸ばす経済政策を推進して経済格差の拡大を抑えて、民主的で平等な社会を構築して国民の信頼を得ることが先決である。と説く。

   ところが、気になるのは、Qアノンなどの保守党支持者の相当数のトランプ支持者が、岩盤支持者として主張を変えそうにないとしており、更に、米国経済の構造変革も二極化の解消も、遅すぎたかも知れないと述べていることである。
   私自身、アメリカで二年間生活して高等教育を受けてきたので、多少、アメリカを知っているつもりだが、大統領まで上り詰めた人物が選挙は盗まれたと嘘も極まれり、営々と築き挙げてきた世界に誇るべき虎の子のアメリカ民主主義を根底から否定した主張を連呼し、それを、熱狂的に支持する常識さえ欠いたと思しき国民が相当数居るという信じられないような現実に直面して、恐怖さえ感じている。
   従って、アセモグルの言うように、トランプ現象の解消など到底無理で、経済構造の改造も二極化の解消も、既に遅きに失してしまって修復不能であり、行き着くところまで行くまで、アメリカ病の治癒は勿論、アメリカ民主主義の再興もあり得ないであろうと、考えたくはないが、思い始めている。

   折角なので、アセモグルの論文を、私なりの意訳で、下記紹介しておきたい。
   
   持続的な米国のインフレリスクは無視すべきではないが、現在のパンデミック後の経済で、本当に危機に瀕しているのは何か、我々の見る目をを曇らせてはならない。アメリカの民主主義は困難に直面しており、今回の強固で包括的な政府主導の回復は、経済をより健全な足場を築く最後の最良のチャンスを提供するかもしれないのである。
   米国の年間インフレ率が5月に5%に達したことで、エコノミストや投資家は、赤字支出、公的債務、持続的な物価上昇リスクに不安を抱いているのは正しく、これは、最近40年間よりも高くなっている。しかし、経済にブレーキをかけて、これらの懸念に対応するのは間違いであろう。

   一部の進歩主義者が私たちに信じ込ませているように、政府は、コストを払わずに、好きなだけ借りて支出することはできない。しかし、インフレを心配する人々は、政府への信頼の崩壊によって引き起こされている深刻な政治的二極化と言った、米国を苦しめているより深刻な問題を無視することはできない:。雇用と賃金の伸びを促す公共政策の推進による急速な景気回復は、米国が、政府と民主主義に対する信頼を回復するために最良のチャンスとなる。インフレに起因する本当のリスクは、この根本的な問題から我々の目をそらすことである。

   確かに、政治的機能不全に対する特効薬はない。一部のコメンテーターは、米国がすでに帰還不能地点に達したと当然の如く警告している。結局のところ、共和党の過半数は、ドナルド・トランプが2020年の選挙に勝ったという誤った信念に固執しており、ある推定によると、米国の人口の15%は親トランプのQアノン陰謀説の支持者である。これらの数字は、先述のアメリカの危機の徴候の一つだが、人々が、安定の確保、繁栄の共有、貧困との戦いのための効果的な措置という約束を果たせば、民主主義を、より信頼する傾向があることを忘れてはならない。
   例えば、急速な経済成長と十分な公共サービスがある安定した民主主義国家で育った人々は、独裁者や説明責任のないテクノクラートに反対する可能性がはるかに高くなる。逆の傾向として、経済不況と経済格差の拡大の時には、ここ数十年、米国や世界中の他の多くの国で起こったように、二極化と国民の信頼の喪失を促進する傾向があった。

   本来、米国経済は、あらゆる種類のバックグラウンドを持ち、あらゆる種類のスキルを持つ労働者のために、まともな賃金、合理的なレベルのセキュリティ、キャリア構築の機会を持てるような優良な雇用を創出してきた。第二次世界大戦後35年間、所得分配の最下位も上位も両方の労働者は、堅調な雇用の伸びと急速な賃上げの恩恵を受けていた。しかし、この時代は1980年代に終わり、その後、賃金の中央値が停滞し、不平等が忍び寄り始めた。大学の学位を持たない男性は、賃金の上昇を享受できなくなり、求職オプションと実質賃金や収入が急激に低下し始めた。

   賃金の低下と機会の減少を経験してきたアメリカ人が、米国政治の過激派フリンジに移動する人口の大きな比率を占めた。経済が機能していないと思い、自分のためになっていないと思えば、「厳格な」システムを解体することを求める日和見主義の政治家やメディアの人物に同情的であるのは当然であろう。

   もちろん、経済問題だけが、米国政治の残念な状態に責任があるのではない。共和党もまた、機能不全に大きな役割を果たしてきた。1960年代の民主党の公民権アジェンダに対する白人の反発を利用しようとしたリチャード・ニクソンの「南部戦略」を皮切りに、GOPは二極化は良い政治であると判断した。政党が、大学卒ではない低学歴の白人有権者を代表することに移行すればするほど、有権者の弾圧やその他の反民主的な戦術に頼らざるを得なくなり、それが、トランプの時にピークに達した。

   しかし、民主党も非難を免れない。2008年の金融危機を引き起こしたウォール街の銀行家たちは、ジョージ・W・ブッシュだけではなく、バラク・オバマによっても救出された。最終的に銀行と銀行家を、政府がその総てのコストを被って援助することを決めたのはオバマ政権であり、後に有罪当事者を起訴しないことをも選択した。政府と金融の間のあまりにも居心地の良い馴れ合い関係に関して、有権者がその疑惑を確信して、機関への信頼の喪失を加速したと同時に、すでに政府を問題とみなす傾向がある人々に多くの攻撃手段を与えることとなり、解決策にはならなかった。

   以上の診断が正しければ、アメリカの政治的機能不全を逆転させる第一歩は、経済と政府の両方が、すべての人のために働くことができることを示すことである。あらゆるバックグラウンドとスキルを持つアメリカ人の雇用と賃金の伸びを生み出することが最優先事項であるべきである。経済のパイ全体の規模を拡大し、それを再配布することに焦点を当てることができるが、その戦略は、有権者がシステムに包含されていると感じる可能性は低い。人々が経済と社会に有意義に貢献できるようにすることは、彼らを納得させるためのはるかに良い方法である。

   インフラ支出、拡張的な財政・金融政策、セーフティネットの強化、雇用創出投資、その他の公式措置が、堅調な回復の一環と見なされれば、政府は依然として機能するという考えが、より一層支持されるであろう。国家機関に対する信頼は、抽象的にその美徳を強調するだけでは回復できない。市民は、効果的に機能する機関から得られる利益を見て、経験しなければ納得できないのである。

   アメリカの民主主義は、よく練られた景気回復を通じて救い出すことができるかどうか、その保証はない。米国経済は、大学の学位を持たない労働者を無視し、長い間大企業のニーズに応えてきたので、今や既に、コース変更には遅すぎたかも知れない。企業が雇用を自動化し、労働者を監視し、賃金を押し下げるために技術への投資を拡大し続けると、平均的なアメリカの労働者の窮状は益々深まり続けるであろう。
   また、アメリカ社会を弱体化させた有害極まりない二極化を逆転させるには遅すぎたかも知れない。ほとんどの熱心なトランプ支持者は、いかなる状況下でも考えを変えないことをすでに示している。
   経済を再び機能させることは、アメリカの民主主義を救う最良のチャンスであり、インフレ率が少し高くなるリスクは、機会を浪費する理由にはならない。
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「ローマ三越、46年の歴史に幕」と言う現実

2021年07月12日 | 経営・ビジネス
   共同が、「ローマ三越、コロナで閉店 観光客減、46年の歴史に幕」と報じた。
   イタリアの首都ローマ中心部の「ローマ三越」が10日、閉店した。新型コロナウイルスの影響で観光客が減少したことなどが理由。午後7時(日本時間11日午前2時)ごろ、共和国広場近くの店舗で、大楽勤支配人らが最後の客を見送り、1975年の開店以来46年続いた歴史に幕を下ろした。欧州に残る三越で唯一の店舗だった。同店はイタリアの有名ブランド品やカメオなどの工芸品、土産物を扱い日本語が通じる店として観光客に人気だった。新型コロナで昨年はほとんど営業できず、主要な顧客であるアジアからの旅行者が戻る見通しも立たず閉店を決めたという。

   良くも悪くも、イタリアへの日本人観光客と運命を共にしたと言うことであろう。
   百貨店なので、総花的に土産物を主体に売っている店舗なので、当然、地場の高級ブランド店や専門店とは競合関係にはなく、便利店としては有効であっても、あくまで、日本人客向けと言う域を抜けなかったと思う。
   製造業のように、事業拠点の進出拡大という意図などなかったのであろうから、日本人客が来なければ存在価値がなくなってしまう。
   しかし、特色もあって、ウィーンの三越店は、一時、あの有名なカフェ・モーツアルトを傘下に収めて経営していたので、ウィーンに行った時には、良く出かけて古いウィーン・ムードを楽しんでいた。
   
   私がヨーロッパに駐在したのは、1985年から1993年までで、バブル崩壊前のJapan as No.1の時代で、日本人が欧米先進国を大手を振って闊歩していた時期なので、日本人観光客が大挙して、ロンドンに押し寄せてきていて、日本の出店は活況を呈していた。
   私の良く知っているヨーロッパの三越店は、ロンドン店で、このローマ店やパリやウィーンの店にも行っていたが、確かに便利ではあった。
   ロンドンでは、この三越とJALの店が人気店で、伊勢丹やそごうも店を出していたように記憶している。客の大半は、日本からの観光客で、昨今の中国人の爆買いほどではないが、それに近くて、観光よりも買い物目的の人が多かった。
   羽振りの良かった農協さんの団体も多く、それに、地方の名士なのであろうか、餞別のお返しに、何十本も見境なく、ネクタイを買っている人なども居て、まさに、戦場さながらであった。「そこのネクタイ、10本ばかり、1本ずつ包装してくれや」と、商品を愛でずに、エルメスやグッチなどの店でもやるのであるから、何をか況んやである。

   三越は、レストランを経営していたので、サントリーと同様に、日本からの来客接待で、重宝していた。
   しかし、店舗としては、在住者たちは、ブランド品などは、そのオリジナルの本店に行ければベターだし、ヨーロッパの製品にしても、格好の支店や専門店やハロッズ等高級百貨店があって、頻繁にセールをしていたので、適当に使い分けていたと思う。
   しかし、日本の大型土産店では、やはり、日本人客の嗜好を良く理解していて、上手くセールを展開しながら運営していて、例えば、帰国前の赴任者たちへの買い物支援で、英国家具やインテリア商品などをセールすることがあって、私など、JALショップで、大型の応接セットを買って帰って、孫たちにぐちゃぐちゃにはされてしまってはいるが、今でも重宝して使っている。

   ついでながら、不思議なのは、日本からの客の接待で、ミシュランの三つ星レストランや、不味いと言われているイギリス料理のイメージを一気に覆すような高級なイギリスのレストランへ招待するのだが、10中8,9まで、「日本食にして欲しい」と言うので、三越やサントリーにお連れすると、東京のあそこはどうだとか、京都はどうだとか言って品定め談義をする。慣れぬ異国での長旅や激しいビジネスに、くたくたになって食が進まず、「うどんでも蕎麦でも、握り飯でも何でも結構です」と言っていた舌の根も乾かぬ内になのだが、元気を取り戻したので、「まあ、いいか」とホッとしたことが多い。こんな人に限って、帰国すれば、「ロンドンのピカデリーでは・・・」と自慢話をとくとくと喋るはずである。

   コロナ前に、大阪の黒門市場に行くと、殆どの客は、中国系の外人観光客で、店舗のかなりが中国資本に移っているように思えたが、日本経済が、インバウンド需要に沸く姿は、今様のグローバリズム展開の一環なのであろうが、
   Japan as No.1の時代には、MITのレポートを見ても、欧米先進国は、本当に、日本経済に支配されると心配していた。
   弱肉強食とは言えないものの、長期トレンドで見れば、強いものが勝つのは必定。
   大挙して、ヨーロッパへ進出した日本企業が、業務を縮小したり閉鎖したりで縮小均衡に向かっているのであろうが、ローマ三越の閉店は、その道程の一里塚かも知れない。
   

   
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ダロン アセモグル , ジェイムズ A ロビンソン「自由の命運  国家、社会、そして狭い回廊」(2)

2021年07月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「足枷のリバイアサン」で、非常に興味深いケースを、イタリアのシエナのコムーネで語っていて、非常に面白いので触れてみたい。
   コムーネだが、現代ではイタリアの自治体の最小単位の組織(基礎自治体)だが、中世・近世のイタリア中部や北部地域に存在した自治都市の都市共同体をコムーネと呼称していて、シエナはそのコムーネの一つであった。
   コムーネの統治形態は、市政を一定期間運営するノーヴェ執政官は市民によって選ばれるのだが、司法機能を遂行し評議会の議長となるその長である執政長官ポデスタは、独立性を保つため、シエナの外部から来た人が就く必要があり、任務遂行に必要な管理官などは自身が任命する。ポデスタの選任も執政管の推薦で市民が選び、任期満了時には勤務評定され再任は許されない。
   このシエナ統治システムが、強力な国家と強力な社会の鬩ぎ合いによって民主的に均衡した「足枷のリバイアサン」のケースだというのである。

   ところで、このシエナに一度、幸運にも、王宮(現市庁舎)前のカンポ広場で催される競馬パーリオ(Palio di Siena)の日に、訪れており、この王宮とマンジャの塔にも入ったのだが、問題は、この王宮の「ノーヴェの間」の壁三面に、このコムーネの民主的な統治機構による「足枷のリバイアサン」を象徴するフレスコ画「善政の寓意」「悪政の寓意」などが描かれていると言うことで、これらの絵を必ず見ていたはずなのだが、全く知らずに見過ごしてしまったと言うことである。
   しかし、興味深いのは、シエナのコムーネ自身が、「不在」でも「専横」でもない、民主的な「足枷のリバイアサン」の価値を認識して、その理想像を市庁舎の壁画に残したと言うことであろう。
   

   まず、「善政の寓意」と「善政の効果」について。
   第1図の右上に王様然として座っているのは、当然、王も専制者もいない市民社会であるから、これは、シエナの象徴の黒と白の衣に身を包み足下にロムルスとレムスが居るので、シエナのコムーネを著していて、その回りを、左に、不屈、思慮、平和、右に、節制、構成、寛容の擬人像が取り巻いている。左側に、平和の女性像から離れて、天秤を持っているのが正義である。ロープを持った評議会委員などの姿や貴族が呪縛されているのを見ると、「足枷のリバイアサン」である。
   支配者たちが背後に止まり、社会の代表としてコムーネが最前面にでて、自由が横溢した社会であったが故に、市民たちに幅広いインセンティブと機会をもたらし、繁栄への道を開く経済を支えた。
   「善政の効果」には、その活発な経済活動を謳歌して賑わう市民の生活が描かれている
   
   


   一方、「悪政の寓意」には、牙と角の生えた暴政(専横)の擬人像を真ん中にして虚飾、裏切り、残虐、詐欺、騒乱の悪徳が舞い、右側に座っているのは剣を掲げた「戦争」で、足下には手足を縛られた「正義」がいる。「悪徳の効果」は、荒廃して廃墟となったコムーネの姿である。
   
   


   さて、著者たちは、前著「国家は何故衰退するのか」で、
   投資やイノベーション、生産性向上活動を行う幅広い機会とインセンティブを提供する制度は、「収奪的経済制度」ではなく、「包括的経済制度」で、このような制度が長期的に存続するためには、社会の限られた集団による政治権力の独占を防ぎ、国家が法を執行できるようにすることが欠かせないと論じていた。
   「足枷のリバイアサン」は、この包括的経済制度を実現するために必要な包括的政治制度の集大成とも言うべき位置づけで、市民社会が、国家と政治エリートに対抗し、それらを制約し、抑制する社会能力を持っていて、更に、シエナの場合には、法を執行し、紛争を解決し、公共サービスを提供し、経済的機会とインセンティブを生み出す経済制度を支えることが出来る力を持ったリバイアサンであったと言うことである。
   もう一つの要件は、規範の檻が、適度に緩かったと言うことで、規範や伝統、慣習に基づく制約が、市民を抑制せずに、自由のための条件を生み出し、社会の政治的参加を阻む要因を取り除き、「足枷のリバイアサン」を育み機能させる助けになっていたと言うことである。

    いずれにしろ、このようなコムーネが、イタリア各地やスイス各地に割拠していて、中世から近世に掛けて政治経済を支えて、西洋文明の夜明けを導いたのであろうが、規模が小さい都市を核とした統治システムであったと言うことが幸いしたのであろう。
   シエナのパリオの翌日、街を歩くと、優勝した街区の人々が優勝旗を掲げて、派手に街中を行進していたが、あの頃の自治都市としての名残が、雰囲気として残っていたのであろう。
   しっとりとしたクラシックな美しい街であった。
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ヨーロッパ大陸をドライブした時があった

2021年07月09日 | 海外生活と旅
   朝日デジタルで、「パリ市内の道、制限速度30キロに シャンゼリゼは例外」という記事を見た。
   パリ市は8日、市内の道路の制限速度を原則として時速30キロにすることを明らかにした。歩行者の安全や騒音の軽減が目的で、8月末から実施する。交通政策を担う副市長が、仏メディアに語った。市によると、シャンゼリゼ通りなどの一部の大通りは例外として時速50キロのままにするほか、車両専用の外環道も70キロを維持する。と言う記事だが、
   この記事を見て、あの凱旋門のサークルを、良くも無事に通過して、シャルル・ド・ゴール空港に辿り着けたものだということを、思い出して懐かしさを覚えたのである。

   後期高齢者に仲間入りをして、すぐに、自動車運転免許証を返納したので、既に車とは縁が切れたが、若いときには、随分、車で各地を走ってきた。
   私の免許証は、外国での取得で、ブラジルとヨーロッパでは、ビジネスと私用での足代わりであり、生活の必需品であったので、随分、あっちこっちをドライブした。

   さて、パリでの運転だが、ヨーロッパでは、イタリアやスペインなどラテン系の国では、極力避けていたのだが、1993年のヨーロッパからの帰国時に、フランスを10日ほど周遊しようとして、どうしても車でないと無理なので、シャルル・ド・ゴール空港でレンター・カーを借りて走ることにして、その最後の日に、シャルトルから空港への途次に、パリを抜けた時のことである。
   元々、運転が上手なわけでもなく、ラテン系のフランスであるから、安全を期して、車は、ボルボの一番大きな装甲車のような車を借りたので、まずまず、快適であった。

   問題の凱旋門のサークルだが、その後、信号機が付いて通過しやすくなったが、当時は、信号機もなくて、蜘蛛の巣状のサークルに車が一斉に集中して散らばって行くと言う状態で、何重列の輪の中から目指す支線へ抜けて行くと言うのは大変な緊張を要するのだが、誰でもがやっているのだから出来ないわけがなかろうと、無謀にも突っ込んでいった。

   この時の旅のルートは、ロワール渓谷の古城を回り、アンボワーズ城近くのクルーの館で、レオナルド・ダ・ヴィンチを忍び、ブルターニュに抜けて、サン・マロ、シェルブールから、モン・サン・ミッシェル、そして、シャルトルで旅を終えた。
   それまで、結構、フランス各地を仕事で回っており、休日や仕事の合間を利用して旅を続けていたので、かなり、フランスは知っているのだが、この時は、イタリア人の本「人の話を聴かない男と地図の読めない女」の典型的な夫婦と娘との家族旅行であった。
   旅のガイドは、すべて、ミシュランで、グリーンガイドで旅の概要を摑み、レッドガイドでホテルとレストランを選び、ミシュラン地図で車をドライブする。
   ルートは勿論、ホテルもレストランも、ミシュランの★★★に拘ってハシゴして走った。
   地図の読めない家内が、ナビゲーターであるから、どんな旅であったか。

   尤も、私の場合は、出張も個人旅行の場合にも、旅程の決定からホテルやチケット等旅行の手配など一切は、自分でやっていたので、途中でのスケジュールの変更などは自由自在で、いくらでも臨機応変に対応できたので、それほど、苦労することはなかった。
   旅行の途中は、殆ど英語で対応できたが、場合によっては、十分ではない独仏西などの断片を駆使(?)して切り抜けたりしていたが、ハンガリー語やチェコ語などになると、もうお手上げで、結構苦しみながらの旅も経験している。
   それでも、ラテンアメリカのように、殆ど英語が通じなくて、まずまずのポルトガル語と少々のスペイン語で対応しなければならなった所よりは、幾分は楽であった。
   
   ヨーロッパに居たときには、まず、最初は、飛行機で移動して、ドイツに行った時に、ハイデルブルグにどうしても行きたくて、フランクフルトでレンターカーを借りて往復したのだが、帰りに高速に乗り間違えて明後日の方向に走って難渋し、高速の待機ゾーンで止まっていたら、大型トラックの運転手が飛び降りてきて、誘導してくれて無事に帰り着いたことがある。厳つい顔の大男だったが、大学教養部程度の貧しいドイツ語に実に優しく応えてくれた。
   また、この時、ジュネーブで、湖を一周するために、レンターカーを借りて走ったのだが、途中で、エンジンブレーキを十分外していなかったので、煙を吹き出したので困っていると、田舎のお兄ちゃんが助けてくれたが、これが、フランス語で困った、
   しかし、旅で出会う人たちは皆優しくて親切であったし、時々車を止めて、アルプスを仰ぎながらの湖畔の瀟洒な波打ち際での喫茶のひとときが楽しかった。
   ラテン気質丸出しでいい加減な運転にどっぷりと浸かっていたブラジルから、急に、先進国ヨーロッパに来て、良く分からない交通法規の中で、無謀にも、レンターカーを走らせるのであるから、色々なことがあっても不思議はないのだが、当分、ブラジル免許で通していた。

   その後、アムステルダムの生活に慣れてからは、自家用車の大型のアウディで、夏冬の休暇の時に、ドイツ、オーストリア方面へ向かうことが多くて、
   ローテンブルグなどのロマンティック街道から、ノイシュヴァンシュタイン城、インスブルック、ウィーン、ブレンナー峠、
   ウィーンからドナウ川沿いに下ってリンツ、又別なときには、ハイデルベルク、ザルツブルグ、フランクフルトからドナウ川沿いの古城巡り、
   ブレーメンからハンブルグ、コペンハーゲン、帰途、ハーメルなどのメルヘン街道、
   著名な都市や観光スポットを数珠つなぎの旅だったが、車だったので、途中のヨーロッパの田舎の思い出が懐かしい。

   オランダとベルギーは地元なので、頻繁に各地をドライブした。
   ロンドンに移ってからは、仕事もあって、趣味と実益を兼ねて、スコットランドの北端からウエールズ、そして、イングランドの各地を、自家用車のベンツで走った。

   下手な運転であったが、殆ど問題なく、ヨーロッパで車生活を送って来れたので、まずまずであろう。
   ヨーロッパ大陸は左運転、イギリスは右運転、
   とにかく、今日はロンドン、明日は、アムステルダムと言った仕事をしていて、左右を使い分けながら車を運転していたのだが、若かったから出来たのであろう。
   
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ジョセフ・S・ナイ「国家にモラルはあるか?:戦後アメリカ大統領の外交政策を採点する」(2)

2021年07月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   モラルと来れば、当然、気になる大統領評価は、トランプ。
   ナイ教授の評価で、悪い大統領は、ジョンソンとブッシュ43(子)とトランプで、その悪い一人である。

   何故、トランプのようなユニークで型破りな大統領が出現したのか、激動の時代の潮流が生んだ徒花と言えば語弊があろうが、とにかく、民主主義の牙城であったはずのアメリカのイメージを一挙に突き落としてしまった。

   トランプの最大の武器は、2009年に使い始めて注目を集めたツイッターで、この革新的なICT技術を駆使して、メディアを通さずに、一切の政治的コミュニケーション情報を直接発信して大統領職を遂行したことであろう。FDRがラジオの草創期に行った炉辺談話や、放送を開始したばかりのテレビを使ってJFKが行った記者会見に類似した手法で、規制の政治家よりはるかに独創的だったという。
   トランプの政治的武器は、予測不可能である点で、プリーバス首席補佐官の言によると、感情をかき立てる物語に注意を払い、対立を好み、相対する者同士を集め争わせ、過程には関心なく、決定は自分で下したがる。と言うことで、識者や側近の提言や助言さえ無視して独走したという。
   替え玉を使って入学して天下の名門アイビーリーグのウォートン・スクールを出たものの、真面な本は勿論、ゴースト・ライターに書かせた自著の原稿さえ読まず、情報源の大半はfoxなどのテレビニュースで、真面な確たる世界観や哲学思想などさらさらなく一般常識も欠如する、ニューヨークの不動産ビジネスで培った経営と取引のスタイルで推しまくってきた、と言うのが、一般的に流布しているトランプ評だが、先の大統領選挙で勝利したのは自分で選挙は盗まれたと主張し続けているに至っては、正気の沙汰とは思えない。
   トランプの常軌を逸した異常な大統領としての行状や生き様などは、「ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日」など多くの暴露本を読めば、良く分かる。
   ナイ教授は、トランプの感情知性は低レベルで、彼の気質は、これら感情知性や状況を把握する知性の低さとなって表れており、トランプの個人的な気質は大統領にふさわしくないと言って憚らない。

   この本は、トランプ政権の末期に著されているので、トランプの評価については時期尚早だとはしているが、かなり、穏やかであるのが興味深い。

   それでは、ナイ教授の、トランプの外交政策の倫理的評価だが、
   まず、第一次元の意図、目標や動機だが、トランプが提示する価値観は偏狭で、リベラルな国際秩序を否定し、ホッブズ的、ゼロサム的なリアリズムに依拠して、アメリカの自己利益を狭く定義している。彼の個人的な要求が政策を歪めており、性向を喧伝したいというトランプの個人的な要求のせいで、政策に欠陥が生じ、それが、アメリカの同盟国との絆を弱めている。価値とリスクのバランスを取るという慎重さに関して言えば、トランプの不介入主義は、軍事的行使による過ちを防いでいるが、今世紀における力の拡散が、アメリカのリスクをもたらすのは間違いない。
   手段という観点からは、トランプのISISに対する軍事力の行使や、シリアの化学兵器使用に対する報復措置は、均衡と軍民を区別したものであり、イランがアメリカの無人機を襲撃した時にも、トランプが軍事力による反撃を取りやめたのは道理に叶っていると、この点だけは及第点を付けている。
   結果については、更なる時間の経過が必要だとしながらも「悪い」の総合評価である。
   トランプはリベラルな国際秩序を拒絶して、同盟関係に疑義を呈し、多国間制度を攻撃し、オバマの貿易協定や気候変動枠組協定から撤退、中国とは貿易戦争を始め、米国の政策の焦点を中東のサウジアラビアやイランに戻した。アメリカを再び偉大にすると約束したが、それは通商を主眼にした偏狭なアプローチと、一般通念に挑戦する破壊的な外交政策によるものだった。と言うことである。

   オバマが整えたリベラルな外交政策を、トランプが逆方向にひっくり返して、その反動で、バイデンが、以前のややリベラルな外交政策に戻そうとしていると言うのが最近の5~6年のアメリカの動きのような気がするのだが、民主主義だから、これだけ、ぶれるのか、
   トランプ現象の出現で、アメリカが分からなくなってしまった。
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ダロン アセモグル , ジェイムズ A ロビンソン「自由の命運  国家、社会、そして狭い回廊」(1)

2021年07月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「国家はなぜ衰退するのか」の著者の新著で、今回は、文明社会の根幹である自由について、人間がどのようにして自由を獲得して、どのようにその自由が人類社会の繁栄に影響を与えてきたのか、ジョン・ロックの自由の定義から説き起こして、古今東西、時空を越えて分析し、人類の未来への道標を論じたのがこの本、
   The Narrow Corridor: States, Societies, and the Fate of Liberty

   自由を勝ち取り、経済的な繁栄を成し遂げた国々が、人類史上まれなのはなぜか?
   人類社会の繁栄のためには、個人の自由と安全を確保維持する強力な国家=「リヴァイアサン」が必須だが、しかし、独裁主義的な専制国家で「専横のリヴァイアサン」となって国家が強くなりすぎれてもダメであり、逆に、無政府状態の無秩序な「不在のリヴァイアサン」に堕してしまてもダメである。
   ここで重要なのは、自由には、国家と法律が必要であるが、その自由は、国家やそれを支配するエリート層によって与えられるものではなく、自由は、一般の人々、すなわち、社会によって獲得されるべきで、社会は国家を制御し、人々の自由を保護し促進するようにさせなければならないと言うことである。自由を実現するためには、政治に参加し、必要とあれば抗議し、投票によって政権を追放する、結集した社会が必要である。
   すなわち、自由と繁栄のためには、国家と対等に対峙して自由を守り育むカウンターベイリング・パワーとして、国家に健全で民主的な足枷を嵌め得るパワフルな社会が息づいていることが必須だと言うことである。
   
   この「専横」と「不在」のふたつのリヴァイアサンに挟まれたどちらにも属さない不安定な「狭い回廊」のハザマで、強力な国家と強力な社会のせめぎ合いによって民主主義的な「足枷のリヴァイアサン」を生み出した国だけが、自由と繁栄を維持できる。
   この本のタイトルのThe Narrow Corridor:が、文化文明、そして、繁栄への十字路であって、 幸いにも、その回廊に突入したStatesとSocietiesが鬩ぎ合いによって、 自由の命運the Fate of Libertyを決して、その帰趨如何によって、繁栄するかどうかが決まる。と言うことである。
   

   この本の凄いところは、アフリカの未開文明から、カオス状態の内戦下のシリア、古代ギリシア、建国時代のアメリカ合衆国、現在の中国やインド等々、我々には殆ど未知な古今東西の多岐に亘る歴史をも徹底的に分析して、三つのリバイアサンを俎上に載せて、人類が如何に自由を獲得するために戦い翻弄されてきたか、微に入り細に入り論じていて、当然、悲惨なストーリーも多いのだが、壮大な世界史絵巻を読んでいるような錯覚を覚えて感動を禁じ得ない。
   自由と繁栄に浴しているいるかどうかは疑問だが、日本は、幸いにも、この足枷のリバイアサンの中にいるのであろうか、
   自由を維持し、「狭い回廊」内に留まって、如何に繁栄を享受して行くか、方策を探りながら、読み進めると面白い。
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