熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

都響定期C・・・オール・ロシア音楽

2022年05月25日 | 欧米クラシック漫歩
   東京芸術劇場で、第950回定期演奏会Cが開かれたので、久しぶりに池袋へ出かけた。
   プログラムは、次の通り。
出演
指揮/小泉和裕
ピアノ/清水和音
曲目
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 op.18
チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 op.36


   ウクライナ侵攻で、ロシアの音楽家や音楽が、世界中で拒否され続けている煽りを受けて、予定されていたロシア人のピアニストのニコライ・ルガンスキーが、現下の諸状況に鑑み、双方で協議を重ねた結果、残念ながら今回の来日を断念することになったと言うことで、ソリストが変更となった。
   ルガンスキーは、人民芸術家で、ラフマニノフを得意とすると言うことなので、残念であった。
   もう、12年前に、都響定期で、ルガンスキーのショパン「ピアノ協奏曲第1番」を聴いて感動した思い出があるので、よけいに聴きたかった。

   ギルギエフやネトレプコと言った大物芸術家はともかく、ロシアの芸術家を見境もなく排除するという風潮が吹き荒れている。
   「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という感情を、これほど強烈に、芸術の世界にまで持ち込むのは、どうであろうか。

   さて、私の関心事は、この日のプログラムは、オール・ロシア音楽であるのだが、都響は、別に何の意思表示もしていないし、プログラムの変更も意図していない。観客が、どんな姿勢で対応するのかであった。
   しかし、何の変ったこともなく、ボイコットした観客がいたとも思えない盛況で、日頃の定期コンサートと全く変らなかった。
   
   ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番も、清水和音の愁いを帯びた抒情豊かに歌い上げるピュアなサウンドの冴えは抜群で、私だけの感覚だと思うが、ロシアの土の香りさえする感じさせくれ、一度見たザンクトペテルブルグのネバ川の夕暮れを思い出させてくれた。
   こんなに美しい芸術を生む文化伝統を、一気に葬り去ろうとする専制者の暴挙を、阻止さえ出来ないロシアという国の悲しさ。
   
   チャイコフスキーの交響曲第4番は、第6番の「悲愴」ほどでもないが、第5番と共に、結構聴く機会の多い曲である。
   風土が良く似ている所為か、アムステルダムのコンセトヘボウで、ドイツや北欧の指揮者で聴くチャイコフスキーなどのロシア音楽は素晴しかったのを思い出す。
   この「運命の交響曲」とも呼ばれている第4番のフィナーレは、これまでの暗い雰囲気を一気に吹き飛ばすような華麗で凄い迫力のサウンドなのだが、ウクライナ戦争でのロシアの迷走ぶりを思い出して、何故か、明るい祭りの雰囲気を醸し出すのではなく、空元気というか、空回りして苦境に落ち込んで行く運命を暗示するように感じさえしてしまった。
   ところで、小泉さんが、小遣いで最初に買ったレコードが「悲愴交響曲」で、学校から帰ると毎日聴いていたと言うから、チャイコフスキーには特別な思いがあるのか、大変な熱演で、会心の出来であったのであろう、終演後、興奮冷めやらぬ表情で観客に応えていた。

   私は、感動して会場を出たのだが、ウクライナを思って、この日は、一切拍手をやめて仏頂面を通した。せめてもの抵抗である。
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(30)チケットがありながらミスったオペラ:その2 METのパバロッティの「ばらの騎士」

2021年06月28日 | 欧米クラシック漫歩
   ヨーロッパへ赴任する前だったので、1980年代だったと思う。
   一番残念であったののは、この時、ニューヨークへの出張で、偶然にも手に入れたMETでの「ばらの騎士」のチケットで、開演に遅れて劇場に行き、第1幕のパバロッティのイタリア人歌手を聞き損なったことである。
   出張などでニューヨークに行くときには、勿論仕事優先だが、夜の会食などのスケジュールを避けるなど、出来れば、METやニューヨーク・フィルやカーネギー・ホールでのコンサートなどチケットを取得して行くことにしていた。

   この時は、午後の仕事に空きが出たので、METのボックス・オフィスに行ったところ、幸いにも、夜の「ばらの騎士」のストール席がとれた。開演まで大分時間があったので、ホテルに帰って仕事をしたのが悪かった。早く余裕を持ってホテルを出たのだが、丁度、夕方のラッシュアワーだったので、タクシーが捕まらない。焦って場所を移動すればするほどダメで、メトロに切り替えようとしたのだが、東西の連絡が悪くて間に合いそうにない。
   結局、METに着いたのは、開演時間少し後で、もう、広場には誰もおらず、正面のシャンデリアと大きな左右のシャガールの壁画が嫌に鮮やかに照明に映えていて空しい。静かになったホールに入ってロビーで足止めを食らうほど空しいものはない。
   仕方なく、地下に下りて、ガランドウの部屋に、申し訳程度に置かれた小さなテレビのスクリーンの前のパイプ椅子に腰掛けて見た。あのころは、まだ、スクリーンは白黒で鮮明ではなく、それに、舞台全体を定点カメラで写しているので歌手の姿は豆粒のようで動きなどは良く分からない。それに、サウンドなどは推して知るべしで並のテレビを見ているのと同じである。
   とにかく、ホールに入っておれば、全く、あのばらの騎士の第1幕の豪華な舞台を楽しめたのに、牢獄のような地下室で、こんな貧弱な映像で我慢しなければならないとは、残念であった。時計の針が少し戻ってくれないかと思った。

   舞台にイタリア人歌手が登場して歌い始めた。ルチアーノ・パバロッティである。その前に、イタリアオペラで、「リゴレット」のマントバ公爵の舞台を観て感激して、パバロッティのレコードを嫌という程聴いているので、音が悪くても聞き違いはない。あの張りのある美しいテノールが響き渡る。画面に堪えられなくて目を瞑って、出来るだけ現実のパバロッティの舞台姿を想像しながら聴こうと試みた。
   この、ほんの瞬間にも近い僅かなイタリア人歌手の登場だが、パバロッティのような天下の名テナーが登場するとなると、この公演自体が、一気にグレイドアップする。
   この後、ロンドンのロイヤル・オペラで、「愛の妙薬」や「トスカ」などで、パバロッティを聴いている。
   このばらの騎士のもう一つのお目当ては、キリ・テ・カナワの伯爵夫人ではあったが、最大の期待はやはりパバロッティであったので、残念であった分、次からの幕は、一生懸命観ようとする。最後の二重唱、オクタヴィアンのトロヤノスとゾフィーのブレゲンも上手かったが、キリ・テ・カナワの色濃く憂愁を帯びた陰影のある歌唱と魅力的な演技に感動した。
   とにかく、この「ばらの騎士」は、全幕通して鑑賞してこそ素晴らしいのであって、その素晴らしさを味わうのは、ロンドンに移ってからであった。

   もう一つ、遅刻して見そびれたのは、キリ・テ・カナワついでに、ロイヤル・オペラの「ドン・ジョバンニ」。
   この時は、時計の電池が切れてしまっていて、時間に気づかず、開演時間に間に合わなかった。
   ロンドンも交通事情が悪いので、遅れてくる客が結構居て、二階のテレビのある部屋は賑わっている。いつも混雑しているワインバーが広々としていて、ゆっくりと椅子に腰を掛けて、チビリチビリとやりながら、この第1幕もかなり長いので、全部待たされると大変だなあと思っていた。
   ところが、ボーイが上がってきて、入場させるから下に下りてくれと誘う。嬉しくなって従う。オーケストラ・ストールの後方のロビーを回り込み、狭い急な階段を上がり、一つ上のストール・サークルの背後に回り込んだ。本来、ここは、最上階の天井桟敷と同じ立ち見席であるが、この時は、何故か殆ど客がおらず空いていたので、我々を誘導してくれたのである。
   居を構えて舞台を観ると、丁度、ドンナ・エルヴィラのキリ・テ・カナワが登場したところであった。不実なドン・ファン:トーマス・アレンのドン・ジョバンニが、それとは知らずにドンナ・エルヴィラを口説こうとして、お互いに訳ありの相手同士と知ってビックリする場面である。
   とにかく、コンサートとは違って、オペラは、序曲から楽しむべきで、遅れてくると、それだけで興を削がれる。

   別の機会に、ワーグナーの「ジークフリート」の時も遅れたのだが、この時は、グランドティアのボックス席が空いていたので、ここへ誘導してくれた。ロイヤル・オペラは、結構気を使って融通を利かせて、遅れた客にサービスしてくれるのが有り難い。

   最後にもう一つは、イタリアのベローナのローマ時代の野外劇場での壮大なスペクタクル野外・オペラ、
   イタリア旅行の途中、ロメオとジュリエットで有名なベローナに二泊して、野外劇場の「アイーダ」と「トーランドット」を鑑賞した。
   二日目の「トーランドット」の時で、ヒョンナことで、第二幕の幕間の休憩で、入場が遅れたのだが、平土間の上等な席であったので、まだ、始まってもいないのに、係員が、頑としてメインの入場口からの入場を許さない。コロッセオ以上に巨大な青天井のアリーナなので、いつでも入退場自由だと思ったのがアダで、このままでは、ホセ・クーラの『誰も寝てはならぬ』(Nessun dorma)」を聴けなくなる。
   押し問答しても埓があかない。イタリアなまりの英語ででまくし立てるので良く分からないし、とにかく、入り口はここだけではないと思って、上階の横の手薄な出入り口で、今度は、ドイツ語やポルトガル語混じりのヨーロッパ語(?)を駆使して係員を説得して中に入った。大分、後方で距離があるが、平土間の自分の席までは、場内を相当歩かないと行けないので、階段状の通路には空間があったので、少し下に下りて適当な所に座って観た。

   まだまだ、いくらでもあるが、思い出したくないので、これで止める。
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(29)チケットがありながらミスったオペラ:その1 ウィーン国立歌劇場の「こうもり」

2021年06月26日 | 欧米クラシック漫歩
   コンサートやオペラのチケットがありながら、何らかの都合で行けなかったり、あるいは、開演時間に間に合わずに、ホールで足止めを食ったりすることが結構ある。苦心惨憺して手に入れたチケットや、千載一遇のチャンスだといった演奏会の場合などでは、特に残念であるが、暇人でない限り頻繁に起こる。
   私の場合、シーズンメンバー・チケットを持っていながら行けなかったことが一番多い。海外にいたので、フィラデルフィア管弦楽団、ロイヤル・アムステルダム・コンセルトヘボウ、ロンドン交響楽団などのメンバーチケットを複数シリーズ、複数年持っていたが、半分も行けなかった年もあった。コヴェントガーデンのロイヤル・オペラのチケットも何回も無駄にした。しかし、当日券を入手するのが非常に困難であったし、少し安かったので、事前に手に入れておく以外に得策がなかったのである。

   残念さが増すのは、行けなかった時よりも、会場への到着が遅れて、コンサートの最初の曲や、オペラの前奏曲や第1幕をミスることである。コンサートの場合には、ピアノや歌手などのソリストが登場するのは、前半の最後であり、メインは休憩後なので、それ程、気にはならないのだが、オペラの場合には、前奏曲を聴き損なったり長い第1幕を観られなくなると目も当てられないほどダメッジが大きい。
   そんな残念な経験をいくらか披露しておきたい。

   まず、1973年のことである。ヨーロッパを旅行していて、ウィーン国立歌劇場の大晦日恒例のシュトラウスの「こうもり」を観たくてチケット売り場の長い列に並んでいた。
   全く幸いと言うべきか、私の前にキャンセルしたいという人が近づいてきて素晴らしい席のチケットを見せてくれたので、私と後ろのアメリカ人が、喜んでチケットを手に入れた。長い行列が出来ていて、尋常ではチケットなど取得できるはずがなく、手に入ったとしても立ち見席であろうから、まさに、幸運であった。
   当時、日本を離れてフィラデルフィアに住んでいて、長い間故郷の雰囲気を味わっていなかったし、ウィーンでの大晦日で、幼い娘帯同の家族旅行であったし、偶々日本レストランがあったので、和食をゆっくり楽しんでいた。ところが、これが災いしたという訳ではなく、開演時間を三〇分間違って理解していて、劇場に着いたらシーンとしていて、時既に遅し。もう後の祭りで、階上に上がったが入り口で制止されて入れず、あの夢にまで見たウィーン国立劇場管弦楽団、すなわち、ウィーン・フィルの「こうもり序曲」を聴けなかった。
   大晦日の「こうもり」は特別で、観客の殆どは、タキシードとイブニングドレスに正装したカップルで、インターミッションでは、一列縦隊に並んで、豪華なシャンデリアの美しい広間や廊下を、ゆっくりと歩いている晴れやかな風景は格別で、映画の中に入ったような錯覚に陥った。背広姿の私とアメリカ人は、場違いなところに迷い込んだ感じがしたこと、クリスタ・ルードウィッヒのオフロフスキー公爵に感激したことだけは、何故か覚えている。

   初めてのウィーンの大晦日で、ホテルは、ワーグナーが定宿にしていたカイザリン・エリザベート・ホテル、
   深夜の12時に、新しい年を祝って、町中に爆竹の音が鳴り響いていたが、いつの間にか寝入っていた。
   
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(28)ストラトフォード・アポン・エイボンでシェイクスピア戯曲を その3

2021年06月25日 | 欧米クラシック漫歩
   さて、この時の観劇記を残しているので、書き留めておきたい。

   帰国前でもあったので、貴重な機会だと思って、「リア王」を、二回続けて聴いた。
   ヘンリー4世のファルスタッフを演じたロバート・ステファンスが、タイトルロールを演じていて、非常に人気が高かった。イギリス人が最も愛するシェイクスピアのキャラクターの一人である無頼漢のファルスタッフを演じて、全くと言っても過言でない程性格の違った悲惨な主人公「リア王」を、それも、間髪を入れずに演じるのであるから、その力量の凄さは分かるというもの。観客の先入観を取り除く必要もあったのであろう、残酷な運命を畳みかけるように切々と語り続ける芸の確かさは格別であった。
   気が触れた後半、正気と狂気の間を、まさに鬼気迫る迫力でリア王を蘇らせるステファンスの役者魂が凄い。第4幕第6場のドーヴァーに近い野原の場で、眼を抉られて追放されたグロスター伯爵に再会したときに、リア王がグロスターに語りかけるのを聞いた伯爵の息子エドガーが、「ああ、意味のあること、ないことが入り交じって。狂気の中にも理性がある。」と独白するシーンがある。狂気か正気か、そのはざまで、リア王が、「人間、生まれてくるときに泣くのはなあ、この阿呆どもの舞台に引き出されるのが悲しいからだ。」と、肺腑を抉るような真実を述べる。理性と真実と正気の入り交じった狂気の世界を彷徨うリア王を、魂が乗り移ったように演じるステファンス、悲しくも辛い感動的な舞台である。大詰めで、コーディーリアの死体をかき抱き、断腸の悲痛に絶叫するリア王が、真実の父親に戻って絶命する場面も、真迫の演技で涙を誘う。
   この「リア王」は、エイドリアン・ノーブルの演出による素晴らしい舞台であった。

   「ヴェニスの商人」の舞台は、鉄骨むき出しの柱に二階のフロアーが乗っているようなモダンな舞台セッティングで、登場人物も、背広やスーツ姿で、現代劇に移し替えている。ヴェニスの商人シャイロックを演じるディビッド・カルダーは、リア王の舞台で、王の唯一の忠臣ケント伯爵を、実に骨太に演じていた、豪快な野武士のような風格のある役者で、黒澤映画の三船敏郎の役がよく似合う感じであった。このシャイロックという役は、特異なユダヤ人の金貸しという何重にも先入観の染みついた性格俳優的なキャラクターなのだが、カルダーは、チラリと人間の弱さを見せながら、激しさを抑制した理知的な役作りに務めていた。私自身、この芝居では、個人的にシャイロックには同情的であり、最後の裁判で、形勢不利になり始めてから、段々追い詰められていく姿を見るのが嫌なので、今回のカルダーの運命を甘受したようなからりとした演技が救いでもあった。普通にイメージされている狡猾で情け容赦のないユダヤ人金貸しシャイロックの悲劇の没落劇ではなく、きわめてスマートでシャープな現代感覚に訴える演出が小気味よい舞台であった。
   尤も、その前に、ロンドンで見た別バージョンのRSCの「ヴェニスの商人」の舞台は、追い詰められて胸の肉1ポンドを切り取られそうになって、腹の筋肉をピクピク緊張させて恐怖に戦くシャイロックのリアルな舞台を観ているのだが、それはそれで、素晴らしい舞台であったので、演出の差や役者の藝の妙を楽しむのも、シェイクスピアの奥深さだと思っている。

   先日書いた「ウインザーの陽気な女房たち」も素晴らしい舞台であった。
   ドイツ語圏では、年末にシュトラウスの「こうもり」を上演して笑い飛ばして年を越すのだが、先日、シェイクスピアでは、年末年初には、「間違いの喜劇」が面白いと書いた。
   しかし、この色好みの無頼漢ファルスタッフが、女房たちにモーションをかけて振られて散々虚仮にされていたぶられ、最後には、幻想的にセッティングされた夜の森の中で、大団円のハッピーエンドとなる「ウインザーの陽気な女房たち」を鑑賞しながら、新年を迎えるのも面白いのではないかと思っている。
   このRSCの舞台も、それなりに、趣向を凝らして楽しかったが、昔観たウィーン国立歌劇場の「ファルスタッフ」の夢のように幻想的で美しい舞台が現出されるのなら、最高ではないかと思っている。
   

   口絵写真は、シェイクスピアの生家、
   この写真は、シェイクスピアの妻アンの里である。
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(27)ストラトフォード・アポン・エイボンでシェイクスピア戯曲を その2

2021年06月23日 | 欧米クラシック漫歩
   ストラトフォード・アポン・エイボンは、私が住んでいたロンドン郊外のキューガーデンから、かなりの距離がある。
   ロンドンからは、列車でストラトフォードまで往復できるが、私は、自家用車で通っていた。
   宿泊せずに夜の観劇を楽しもうと思えば、どうしても、終演後、夜半に、二時間ほど田舎道と高速を飛ばして帰らなければならないので、やはり、ここは雰囲気のあるホテルに宿泊して、どっぷりとシェイクスピアに思いを馳せる方が良い。ストラトフォードでなくても、オックスフォードでもウォーリックでも何処でも近くなら良い。ヨーロッパには、古いシャトウやイン、それに、キャッスルや貴族の館を転用した古城ホテルなど旅情を誘う宿舎がかなりある。悲劇でも喜劇でも良い、シェイクスピアを楽しむ機会を利用してヨーロッパの文化や伝統を肌で感じながら余韻を楽しむのは良いものである。

   RSCは、ストップ・オーバー・イン・ストラトフォードと言うプログラムを持っていて、観劇券、宿泊料及び夕食ないし昼食がセットされていて、割安で便利であるのだが、相当前から予約する必要がある。泊まりたいホテルなども予約できるので良いのだが、今日はパリ、明日はマドリッドと言った多望な仕事をしていたので、日時をフィックスして予約するなど到底無理であった。
   従って、私の場合には、思い立ってぶっつけ本番でストラトフォードに行くことが多くて、普通は、事前に電話を入れて空席を確認して出かけることにしていたのだが、一度だけ、予約せずに直接ボックス・オフィスに出かけてチケットを手に入れたことがあった。年末の30日で、どうせ空席が多いであろうと高をくくったのだが、運悪く満席であって、幸い早かったのでキャンセルが出て、1枚チケットが手に入って、「ウィンザーの陽気な女房たち」を楽しむことが出来た。ロンドンでは、年末年始は劇場は比較的空いているのだが、ストラトフォードは観光のメッカ、それを忘れていた。開演前に隣の席の紳士が話しかけてきた。私の席は、彼の妻の席で、クリスマス前に亡くなったのでキャンセルした、比較的良い席で、生前は夫婦一緒にシェイクスピアを楽しんでいたのだと懐かしそうに語っていた。

   さて、今回は、ストラトフォードでのホテルについて、書いてみたいと思う。

   スワン劇場の向かい側、道路を隔ててアーデン・ホテルがある。古風でこじんまりしたホテルで、玄関へのアプローチは、色とりどりの花が咲き乱れていて、スワン劇場とマッチした茶色の煉瓦造りの建物が美しい。土曜日で、「ヴェニスの商人」と「リア王」を昼夜観る機会を得て、夜の「リア王」が長時間なので、ロンドンへ車で帰るのも遠いので、一泊しようと思ってフロントに駆け込んだが満室であった。尤も、当日は、雰囲気のあるホテルはことごとく満室で、仕方なく、深い霧の中を車を走らせて深夜遅くキューガーデンに帰った。

   別の日には、予約を入れて置いて、劇場から少し離れた中心街のシェイクスピア・ホテルに泊まった。この時も「リア王」を聴いたのだが、旧市街にある何百年も風雪に耐えた高級ホテルなので、床など傾いて軋んでいて、まさに歴史を色濃く感じさせてくれる雰囲気は、シェイクスピア観劇の余韻が残っていて中々良いものである。狭い踏み込みそうな暗い廊下を歩いていると、シェイクスピアの登場人物とすれ違っても気づかないかも知れない。ヨーロッパを旅すると好んで最古のホテルを探して泊まるのだが、階段の踏み面が大きくすり切れていたり床や柱が大きく傾いていたりする古い木造のホテルに泊まると、いつも、昔の人と隣り合わせに生活しているような錯覚に陥る。このホテルの部屋の名前は、総てシェイクスピア戯曲と関係があって、この時の私の部屋は、「ヴェニスの商人」であった。
   

   「テンペスト」を聴いたときには、街から数キロ離れた郊外のシャトウホテル「ビレスリーマナー・ホテル」に泊まった。大きな古い領主の館をシャトーホテルに改装したもので、内装は勿論、家具調度などもそのまま転用されていて中々雰囲気がある。普通、夕食は、このホテルで取ることになるのだが、この日は、劇場で予約を入れていたので諦めざるを得なかった。
   その前の夏休みに一週間ほど、スコットランドのシャトウホテルを行脚したので、その思い出を記すと、
   必ず、ネクタイ、ジャケット着用で、正式なディナーを頂くことになる。豪華なリビングルームで食前酒を楽しみ、人心地付いたところで、豊かなダイニングルームに案内されてフルコースのディナーを取り、再び、リビングルームに戻って食後酒やコーヒーを楽しむ。ピアノや室内楽の演奏があることもあって、雰囲気を盛り上げる。
   スコットランドでは、五カ所ばかり、ほんの短期間ではあったが、英国貴族の雰囲気を味わうことが出来た。このようなシャトーホテルは、岬の突端にあったり、荒涼とした荒野にあったり、山の中の鬱蒼とした森の中にあったり、とにかく、辺鄙なところにあって、旅情を誘ってくれるが、寂しい。
   尤も、ストラトフォードは、やはり観光地で、最初に泊まったのは、中心街から南へ10キロばかり離れた郊外のビクトリア朝のゴチック様式の大きな領主の館「エッチング・パーク・ホテル」で、ここは、何処へ行くのも便利で、昼間、街へ出て散策したりショッピングしたりする以外は、終日、このホテルでゆっくりしていた。

   スペインには、古城を改装したパラドール・ホテルがあって、パラドール デ グラナダなど予約を試みたが、勿論、キャパシティが限られていて不可能であったが、ヨーロッパでは、そんな歴史的建造物に泊まって旅情を楽しむのも良いと思って、尋ね歩いたのだが、あの頃が無性に懐かしい。

   他にも、ストラトフォードには、フッと、路地裏からシェイクスピアが飛出してきても不思議に思えないような懐かしささえ感じさせてくれるホテルの思い出などもあるのだが、長くなったのでこれで置く。
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(26)ストラトフォード・アポン・エイボンでシェイクスピア戯曲を その1

2021年06月21日 | 欧米クラシック漫歩
   ロンドンでのシェイクスピア観劇について書いてきたが、今回は、シェイクスピアの生誕地であり、RSCの本拠地であるストラトフォード・アポン・エイボンでの思い出について綴ってみたい。この記事は、ロンドンから帰国した1993年秋の備忘録からの書き起こしなので、随分前の話になるが、私自身のシェイクスピアの故郷での貴重な経験なので、非常に懐かしい。

   まず、RSCの劇場であるが、この街には、ロイヤル・シェイクスピア劇場とスワン劇場とジ・アザープレイスの3館がある。ロイヤルは、大劇場でシェイクスピア劇専用に近いが、他の小劇場の2館は、シェイクスピア以外の古典劇も上演している。

   メインのシェイクスピア劇場は、広々とした開放的な公園に面し、木漏れ日が美しいエイボン川のほとりの堂々たる大劇場で、クラシックな雰囲気のストラトフォードの町並には一寸違和感を感じさせるが、本拠地であると言う存在感であろうか、堂々とした佇まいが興味深い。
   この劇場はシェイクスピアの聖地でのメイン劇場であるからフォーマルな感じがするのだが、少し観光ずれしている嫌いがあって、通い詰めていたロンドンのバービカン劇場のRSCの劇場の方が、本当にシェイクスピアを楽しみたいファンが来ているような雰囲があったような気がしている。
   公園に面した玄関を入ると、横長のフォイヤーが伸びていて、ほんの10数メートル歩くと扉があって、平土間の客席に入る。劇場は、何処にでもある現代的な大劇場である。フォイヤーの右端にギフトショップがあって、反対の左側の階段を上ると、二階にボックスツリー・レストランがある。入り口を入ったところは、普通のレストランだが、エイボン川に面したテラス席は、開放的で外の景色が美しくて非常にシックなレストランである。特に、夏の晴れた日には、開演前、雰囲気をエンジョイしながら、ゆっくりとディナーを楽しんで、そのまま、階下に下りれば、シェイクスピア劇を満喫できるのであるから、非常に便利である。勿論、それ程高級なレストランではないが、5000円程度で、前菜から、メイン、デザート、コーヒーまで楽しめるのであるから、私などよく利用した。
   

   私が好きな劇場は、ロイヤル・シェイクスピア劇場の裏側に接して正面は町の方に向いているスワン劇場である。古風な概観で、壁面のファサードには、彫刻が施されているなど凝っていて、茶色の煉瓦造りの風格のある建物である。外観は、舞台部分は方形で、客席部分は半円形になっている。ファイヤーはこじんまりとしたクラシックな感じで、劇場に入ると、木組みが鮮やかで、舞台も客席も全く木製のシンプルな佇まいで、シックなムードが素晴らしい。
   舞台前方が、平土間の殆ど中央近くまで飛出していて、床の高さも客の目の高さよりも少し低いくらいで、その一階部分を二層の角張った馬蹄形の客席が囲んでいる。屋根がなければ昔サザックにあったグローブ座に近いと思われ、バービカンにあるもう一つのシンプルなシェイクスピア劇場ピットも、この劇場のように、日本の田舎の小屋がけのような簡素な雰囲気が残っていて中々良い。この劇場で観た古典劇カントリー・ワイフが印象に残っている。

   もう一つの劇場ジ・アザープレイスは、入ったことがないので分からない。
   

   ストラトフォード・アポン・エイボンの中心街は、これらの劇場から少し離れているので、開演前や幕間には、前の公園で時を過ごすのが良い。グリーンの芝生に、色とりどりの花々が英国式花壇に映えて美しく、川面に浮かぶ白鳥の白、それに、一斉に芽吹く落葉樹の若芽が目に染みる頃など、散策するのが楽しい。
   ストラトフォードの街全体がシェイクスピアを中心とした観光地だが、劇場から離れて街並みに入ると、古いイギリスの面影が随所に残っていて、タイムスリップした感覚に襲われる。大通りに沿っても、路地裏に迷い込んでも、沢山の工夫を凝らした洒落た店が並んでいて、シェイクスピアと全く関係なく、そんな街の雰囲気やショッピングを楽しむためにやってくる観光客も多い。
   ほんの五分も歩けば街外れに出てしまう、そんな小さな街だが、この町には、イギリスがぎっしりと詰まっている。
   シェイクスピアは、この故郷の町とその近郊、そして、ロンドン以外は行ったことがないと言う。シェイクスピアは、色々な異国や色々な時代を舞台にして36の戯曲をかいているのだが、結局は、このシェイクスピア・カントリーを軸として、素晴らしい多くの作品を作ったと言うことであろうか。
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(25)ロンドンでシェイクスピア戯曲を鑑賞する その3

2021年06月16日 | 欧米クラシック漫歩
   シェイクスピアのオペラやバレエについて書いたが、やはり、興味深い大作は、ベルディで、それも最晩年に挑戦したという「マクベス」、「オテロ」、それに、「ウインザーの陽気な女房たち」を改題した「ファルスタッフ」である。私は、主に、ロイヤル・オペラとイングリッシュ・ナショナル・オペラでだが、それぞれ、複数回は劇場で観ているのだが、何故か、最も印象に残っているのは、ウィーン国立歌劇場の幻想的で美しい「ファルスタッフ」の舞台である。戯曲の舞台の方は、RSCだが、その度毎に演出が変っていたが、ウィンザーの方は喜劇なので、ファルスタッフのキャラクターや振り付けのバリエーションが面白かった。

   晩年のヴェルディが、悲劇ではなく喜劇に興味を示して、シェイクスピアのタイトルの陽気な女房たちの代わりに、無頼漢のファルスタッフを題名にして、主役を入れ替えて作曲までしたのが興味深い。ここに出てくるサー・ジョン・ファルスタッフやサー・フォードも、紳士のジャンルからは程遠い俗物で、フォード夫人もページ夫人も、いわゆるレイディではさらさらなく、これらの泥臭い生身の人間たちが、恋と欲のドタバタを演じて、最後は笑い飛ばして幕となる。
   エリザベス女王が、ファルスタッフが恋をする芝居が観たいとご所望になったのでシェイクスピアが書いた芝居だと言われているが、徹底的に虚仮にされているのだが、ヘンリー4世やヘンリー5世に登場するファルスタッフよりは、随分血の通った人間的と言おうか、好意的に描かれているのが面白い。
   いずれにしろ、まだ、ところどころ中世の面影が残っているウィンザーの街を歩きながら、どの辺りで、ファルスタッフが陽気な女房たちを口説いたのか、どの河畔で、ファルスタッフがテームズ河に投げ込まれたのか等と考えてみるのも散策の楽しみである。

   さて、観劇記だが、「ロメオとジュリエット」、
   RSCの舞台は、どの場面にも使える大きな幕を壁にしたシンプルなものであった。
   ロメオとジュリエット、乳母、そして、牧師の演技に注目してみていた。ロメオは、ヘンリー4世の舞台で、ハル王子を演じていたマイケル・マロニーで、少し小柄でドスの効いたしわがれ声ながら、若くて溌剌としたロメオを骨太に演じていた、クレア・ホールマンのジュリエットは、美人ではないのだが初々しくて可愛くてイメージ通りの仕草が印象的であった。乳母のシエラ・リードは、そこはベテラン、どこか間の抜けたワンテンポずれた演技が、この悲しい悲劇の救いであった。
  それから、大分経ってから、この戯曲の舞台となったベローナを訪れて、ジュリエットの家と称される館などを訪れて、戯曲の雰囲気を楽しんだのだが、二度訪れていて、一度は、アレーナ・ディ・ヴェローナ、すなわち、ローマ時代の壮大な野外劇場でのグランド・オペラの鑑賞で、「アイーダ」と「トーランドット」を楽しんだ。

   バレエの「ロメオとジュリエット」は、プロコフィエフの作品。
   ロイヤル・バレーで、ジュリエットは、実質的には引退していたナタリア・マカロワだったが、信じられないほど初々しい感動的な公演であった。
   この日の公演は、ロイヤル・ガラで、ダイアナ妃が、グランド・ティアの中央右寄りに座っていて、ブルーのワンピースが映えていた。舞台がはねてもオペラハウスの正面は立錐の余地もないほどの人だかりで、動けないのを幸いに仲間に入って待っていると、ダイアナ妃が出てきて、微笑みながら、ほんの数メートル先でジャガーに乗り込んだ。
   もう一度、ロンドン交響楽団の定期でベートーヴェンの第九のコンサートの時、開演前に少し遅れて劇場に行ったら、ロビーにロープが張られて通路を人が遠巻きにしており、誰が来るのだと聞くとダイアナ妃だと言う。偶々、私の隣に、彼女の親戚がいて「マム」と呼びかけると、ダイアナ妃が近づいてきて、小さな花束を受け取り二言三言。上が銀鼠色で下が黒のツートンカラーの裾の長いワンピースが優雅で、実に美しい。
   実は、この少し前に、ある建設プロジェクトのレセプションで、会場入り口で、お出迎え4人の内の1人で列に並んで握手をして、お話申し上げる機会を得て、儀式中ずっと、ダイアナ妃の真横に立っていたと言う貴重な経験をしている。大きなブロマイドにサインされている間、許されると思って、ご尊顔を拝したが、しとやかで凄い美人であったのを強烈に覚えている。

   ところで、オペラは、ベルリーニのタイトルを替えた、「キャプレッティとモンテッキ」。
   これは、ロイヤル・オペラの公演で、メゾソプラノのアンネ・ゾフィー・フォン・オッターのロメオと、英国の若いソプラノのアマンダ・ロークロフトのジュリエットであった。ズボンもので人気絶頂のフォン・オッターが、実に壮快なロメオを演じて、スターの居ないキャストながら素晴らしい舞台であった。悲劇そのものであるRSCの舞台とは違って、リアルさにはかけるが、音楽で表現する分、それだけ想像と雰囲気で補うので、オペラの場合は、どうしても情緒的で美しく終ってしまう。

   もう一つ、新年になって、バービカン劇場に行って観たのは、RSCのシェイクスピアの「間違いの喜劇」。
   この戯曲は、船の難破で別れ別れになった二組の双子が成人してから出くわして、取り違えられて巻き起こすドタバタ喜劇である。
   ドイツ語圏では、年末年始に、シュトラウスの喜歌劇「こうもり」が、上演されるのが恒例となっているようだが、(私は、ウィーン国立歌劇場で観る機会を得たが、)シェイクスピアの方も、喜劇で笑い飛ばして、新年を迎えるのも趣向であろう。
   この舞台は、サルバトール・ダリの振り付けで、とにかく派手な、しかし、きわめてシンプルであった。三面の壁面は、長屋形式のドアだけで、正面だけメインドアになっていて、これが、邸宅の入り口になったり、教会の入り口になったりして、二幕の芝居が展開される。衣装は、派手な現代風のセビロ、スーツ姿であり、非常にエロチックな娼婦まで登場する。
   シェイクスピア戯曲の場合、舞台が僅かなシーンの展開で、場所や時間が次々と飛んで進行するので、舞台を、オペラや普通の芝居のように固定できないので、とにかく、それに適応した瞬時に舞台転換が可能な、シンプルで多様性のあるセットが必要となる。
   蜷川シェイクスピアは、それを意図して、非常に素晴らしい舞台展開をしているが、やはり、日本の多くの舞台は、大劇場で演じられることが多いので、固定式の派手な舞台セットが多いような気がする。
   私は、初めて、イギリスで、RSCのシンプルで簡素な舞台で、照明やスポットの移動等で展開されるシェイクスピアを観て、やはり、シェイクスピアは聴きに行く戯曲なのだと言うことが分かったような気がしたのである。
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(24)ロンドンでシェイクスピア戯曲を鑑賞する その2

2021年06月11日 | 欧米クラシック漫歩
   私が、ロンドンで最初に観たRSCのシェイクスピア戯曲は、「ヘンリー4世 第1部」で、この舞台の印象が強烈であった。シェイクスピアは、決して大劇場で演じられるような華麗な芝居だけではないことを思い知らされたのである。
   この当時は、テームズ河対岸のグローブ座は、まだ姿を現していなかったので雰囲気は良くは分からないのだが、バービカンのこじんまりとした小劇場では、色と欲に突っ張った無頼漢たちの生き様を活写するためには最適で、酒気がムンムン漂った下町の雑踏が似つかわしい。日本の能や歌舞伎の舞台は、虚実皮膜と言うべきか、舞台は美しいし観客に不快感を与えることは少ないが、このシェイクスピアの場合には、写実もいいところで、生身の人間の姿がそのまま演出されており、タイム・スリップして、16世紀のイギリスの田舎町のうらぶれた居酒屋で、教養の欠片もないファルスタッフたちと一緒に酔い潰れて居るような錯覚に陥るほどリアルであった。必要なら、腸を曝け出すこともあると言う実にリアルな舞台に洗礼を受けて、私のシェイクスピア行脚が始まったということである。

   尤も、演出にも依るであろうし、シェイクスピアは、戯曲だけでも、史劇、悲劇、喜劇等バリエーションに富んだ36有余の作品を残している。その後、シェイクスピアの舞台は少なくとも24~5くらいは鑑賞したので、エイドリアン・ノーブルの「冬物語」などメルヘンチックの美しい叙情的な舞台や起承転結の激しいドラマチックな舞台など、流石にシェイクスピアで、奥行きと幅の広さ、戯曲の豊かさに感激し続けたのは、勿論である。

   1980年代の後半であるから、もう、30年以上も前の青臭いシェイクスピア戯曲観劇初期のロンドンでの独白だが、幼稚は幼稚として、懐かしいので、以下に転記しておきたいと思う。

    これまで、日本でもそれほど芝居を観たわけでもないが、ここにきて、芝居をする、演技をすると言うことがどう言うことか、観劇に少し馴染んできたような気がする。舞台では、丁度歌舞伎のように、大きな声で少し大仰な演技をする。台詞にしても、何千人かの総ての客に分かるように喋らなければならないので当然無理が出る。これは、映画やテレビのように、きわめて自然な演技に比べて、全く違っており地で行くわけには行かない。映画やテレビは、沢山の映像の集合でありその編集であるので、やり直しが効き、どの方向からも撮影が可能であるが、芝居は、観客一人一人の個の一方向からの視点でしか見せられない一回限りの一瞬で消えてしまう演技である。その一瞬が勝負で、極論すれば、表情に万感の思いを込めて、時には思想や哲学をも込めて、この芝居がかった演技で、観客を引き摺り込まなければならない。全身をはっての真剣勝負なのである。
   少し後になって、ケネス・ブラナーの「ハムレット」をバービカン劇場へ聴きに行ったが、「To be or not to be, that is the question.」心して聴き入った。
   ブラナー監督主演の映画「ハムレット」を観たのは、その後のことである。

   余談だが、サー・アントニー・シャー(「恋に落ちたシェイクスピア」に出ていた変な腕輪を売りつけた占い師)が、RSCの「マクベス」で来日した時に、正に絶品のイアゴーを演じていたが、終演後のレセプションで会って色々話を聞きながら、次の大役は「オセロー」ですねと言ったら、あの役は黒人など有色人の役者がやることになっていて白人の自分はやれないのだと言っていた。(オリビエのオテロは映像で残ってはいる。)ついでながら、真田広之が道化で出演しナイジェル・ホーソーンなどイギリス人ばかりで演じたRSCのニナガワ「リア王」は、何故だったのか理由は聞けなかったが、一寸納得できないと言っていた。

   舞台俳優出身の役者が、映画やテレビに出ることが多いが、実に上手いと思う。映画出身の俳優との差は、このような藝の積み重ねの差のように感じている。栗原小巻はファンだったので、「肝っ玉おっ母とその子どもたち」など劇場にも行ったし、ロンドンで蜷川幸雄のマクベス夫人も観たが、あのような舞台での演技があって、寅さんの小巻があるような気がする。第36作の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」で、マドンナの小巻が、平凡なロシア語学者と結婚すると決心したときに、空を仰いで、「もう、身を焦がすような恋とも・・・」と独白するシーンがあるが、これは、舞台女優としての小巻の演技であって、なぜか、妙に忘れられなくて印象に残っている。

   イギリスでは、ローレンス・オリビエやリチャード・バートンなど多くの名優がシェイクスピア役者からスタートしている。また、このようなバックグラウンドの英国人が、ハリウッドの映画俳優のかなりを占めている。
   RSCの公演に通い詰めていて、シェイクスピア役者が、芝居は勿論、歌も歌えて踊りも踊れる、芸達者であることを知って驚いた。
   このイギリスに於いて、シェイクスピア劇が、オペラやミュージカル、バレエ、あるいは、その他の劇場での演劇や映画やテレビに与えた影響は計り知れず、沢山の素晴らしいパーフォーマンス・アーツのみならず、文化芸術への貢献には著しいものがある。特に感じ入っているのは、イギリス出身のオペラ歌手が、総じて、演技が秀逸で、役者顔負けであることである。

   あのヴェルディでさえ、晩年になって、シェイクスピアに挑戦した。シェイクスピアの戯曲で、オペラやバレエになっている例がかなりある。オテロ、マクベス、リア王、ロメオとジュリエット等々、とにかく、シェイクスピアは、人間にとって永遠のテーマを提供しているのであるから、オペラ作家など芸術家をインスパイアするのは、当然なのであろう。ダンテの「神曲」や、ゲーテの「ファウスト」が、文化芸術に多大の影響を与えたのと同様である。
   観劇記は、次の項にしたい。
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(23)ロンドンでシェイクスピア戯曲を鑑賞する その1

2021年06月05日 | 欧米クラシック漫歩
   イギリスで5年間生活して、本場のゴルフには一切縁はなかったが、シェイクスピア戯曲の鑑賞には、かなり、熱心に通った。
   この記事は、1990年末の記録を元にしているので、私が、シェイクスピアを聴きに行く(本来は、シェイクスピア劇は聴くと言う)ために、頻繁に、主に、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(Royal Shakespeare Company RSC)に通っていた頃の、全く初期の初歩的な観劇記を、思い出を交えながら書いてみたいと思う。
   このRSCは、シェイクスピアの生誕地であるストラトフォード・アポン・エイボンを拠点とする劇団で、ここに、ロイヤル・シェイクスピア・シアター、スワン・シアター、ジ・アザー・プレイスの3つの劇場を所有しており、主に、シェイクスピア劇を上演している。
   五年間の在英中には随分足を伸ばしたが、この頃、ロンドンのバービカンに常設のシェイクスピア劇場を持っていて、私が、頻繁に訪れたのは、こちらの方である。
   ロンドンには、シェイクスピア劇を上演する劇場が他にあったのであろうが、まだ、グローブ座もなかったし、私が、通ってシェイクスピアを聴いたのは、他には、ロイヤル・ナショナル・シアターの舞台であった。

   シェイクスピア戯曲は、観に行くと言うのではなくて、聴きに行くと言うことだが、イギリス人の友人に言われて、何故だと聞きそびれた。シェイクスピアの名戯曲は、聴いてこそ価値があるのは尤もであろうが、この口絵写真のグローブ座のような陽が照る青天井の舞台で、「ハムレット」の冒頭の漆黒の闇での父王の亡霊の出現のシーンが演じられるのを考えれば、良く分かる。
   グローブ座で、カンカン陽の照りつける日や、雨の降りだした日に、シェイクスピア鑑賞の機会を得た。芝居のストーリーとは全く関係のないシチュエーションで、舞台セットも殆どない吹き晒しの舞台で展開されている芝居を楽しむためには、それ相応の知識と教養で武装して、気を入れて聞き込む必要があるのである。
   当時、劇場以外では、田舎のコ型に建つ旅籠の中庭の開口口に舞台を設えて、中庭とコ型の回廊を客席にして、青天井で、シェイクスピアを演じていたと言うから、今のように、至れり尽くせりのオーディオ・ビジュアル完備の豪華な劇場での公演は、邪道なのであろう。
   日本でも、文楽鑑賞に行くのに、浄瑠璃を聴きに行くと言う表現があるようだが、多少、似ているのかも知れない。

   さて、RSCの公演を鑑賞するためには、年初に、メイリングリストに登録して、送られてきた年間予約の申込書に、適当にスケジュールを決めて記入してチケットを予約する。
   最初に行ったのは、「ヘンリー四世 第一部」で、その年、シェイクスピアでは、「ヘンリー四世 第二部」「ロメオとジュリエット」「ヴェローナの二紳士」、そして、ストラトフォード・アポン・エイボンでの「ウィンザーの陽気な女房たち」だけだったが、他に、ベン・ジョンソンの「アルケミスト」、リチャード・ネルソンの「コロンブス」、ソフォクレスのギリシャ悲劇「オィディプス 三部作」、それに、丁度来訪していた蜷川劇団の「テンペスト」であった。

   このバービカン・センターは、ロンドン交響楽団の本拠地で、毎月、定期コンサートで大ホールには通っていて、隣のRSCの公演は、場外のTVスクリーンで何度も観ており、興味がなかったわけでもなかったのだが、オペラやクラシック音楽鑑賞の方がプライオリティが高くて、シェイクスピアは何となく敬遠していたのである。
   しかし、折角、シェイクスピアの本国イギリスに来ており、シェイクスピアを鑑賞し学ぶ機会を逸しては、千載一遇のチャンスを棒に振って後悔するに違いないと思って、分かっても分からなくても、とにかく、劇場へ行こうと決めた。

   当時は、芸術鑑賞には糸目を付けなかったので、オペラも何でもそうだが、最良の席に限ると思っていたので、前の中央席に決めていた。
   この劇場は、舞台が低く、一番前列の客の目の高さにあり、平土間の傾斜が急なので、何処に居ても舞台を見下ろす位置にあり、その臨場感に圧倒される。劇場が小さい所為もあるが、役者の唾が飛ぶのが分かるくらいに近く、それに、顔の表情は勿論、体の細やかな動きや微妙な仕草など手に取るように迫ってきてビックリした。
   しかし、グランド・オペラの豪華で華麗な舞台を見慣れているので、舞台セットなどセーブされた案外貧弱でシンプルな舞台設定には、何となく違和感を感じた。
   尤も、シェイクスピアの戯曲は、時には、ほんの数シーンで、一挙に、舞台が外国に移ってしまい、時間が飛んでしまったりして、舞台展開が激しいので、当然なのであろう。

   ところで、子供の頃に、イギリスのどこの家庭にも、聖書とシェイクスピアの戯曲本があるのだと聞いていた。それほど、イギリス人の生活の中に、シェイクスピアが息づいていると言うことであった。
   しかし、私が付き合ってきたイギリス人の教養や知的水準はかなり高かったはずだが、これは真実ではなく、イギリス人にとってさえ、シェイクスピアは、難解であって、それ相応の心の準備と勉強を、そして、鑑賞機会を重ねないと、楽しめないと言うことである。
   日本の能・狂言、歌舞伎・文楽などの古典芸能によく似た位置づけであろうか。

   最初の頃は、手元には、英語のシェイクスピア関係本と劇場でのパンフレットくらいしかなかったので、手探りでシェイクスピア劇に挑戦していて、殆ど良く分からなかったが、日本への帰国時に、小田島雄志の翻訳本やシェイクスピア関係の本をせっせと買い込んで帰り、ほぼ、四年間、そして、帰国後も渡英の度毎にグローブ座などに通って、シェイクスピアに接し続けてきた。
   イギリス生活での貴重な財産となっている。
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(22)オペラ座の怪人を観る その2

2021年06月04日 | 欧米クラシック漫歩
   さて、この「オペラ座の怪人」だが、叶わぬ恋をした怪人は、慈しみ育てたオペラ座のプリマドンナ・クリスティーヌの熱い接吻に、初めて人の愛を感じて、運命の悲哀をそのままに静かに舞台から消えてゆく。
   このアンドルー・ロイド・ウェーバー版とは違った別の演出の「オペラ座の怪人」が、ロンドンの他の劇場にかかっているのだが、これは、全く話題にさえなっていない。
   とにかく、このロイド・ウェーバー版は、当初から大変な人気で、前述したようにチケットの取得が困難で、ずっとソールドアウトなのに、朝から劇場の横に列が出来ている。
   1992年当時、一番良い席で25ポンド(6000円ほど)であったから、1年前から売り切れでも仕方がないのかも知れないが、この値段は、ロンドン交響楽団やフィルハーモニアなどロンドンのトップ・オーケストラと同じで、ロイヤルオペラの3分の1で、3時間美しい音楽と華麗な舞台を満喫できるのであるから安いのだが、観客の大半は、観光客だという。

   この舞台には、いくつか叙情的で美しい場面がある。怪人が、クリスティーヌを舟で地下室へ導くシーン(口絵写真)は、丁度、オッヘンバッハのオペラ「ホフマン物語」の”ヴェニスの場”のホフマンの舟歌のセットを思い出させる。霞にかすむ燭台の光が美しい薄明かりの中を怪人の漕ぐ船が進む。いい気持ちになって見ていると、この霞が煙で、舞台正面手前のオーケストラ・ピットの端で、強力に回収すべく吸い込んではいるのだが、それでも、相当部分が指揮者の頭を通り越して客席まで流れ込んできて、これが、また臭気を帯びていて艶消しである。
   これとは違って、満天星の輝くパリの夜、オペラ座の屋上でのクリスティーヌとラウルの愛の二重唱のシーンは、デュエットも舞台セットも美しい。当時のパリは、公害でそんなに美しいはずがなかったと思うが、何となくセットの夜の雰囲気がパリだと思わせるところが不思議で、ロンドの夜景は、やはり、メリーポピンズであろう。

   ところで、このハー・マジェスティーズ・シアターは、ロンドンの劇場の中でも由緒正しい劇場で、元は、ロンドの最初のオペラ・ハウスであったという。(ウィキペディアから写真を借用)
   
   1705年にクィーンズ劇場としてオープンし、ヘンデルのオペラやオラトリオが公演されたが、1789年の火災で倒壊した。1789年に再建されたときには、正式にオペラ・ハウスの名称を得て、今のロイヤル・オペラ・ハウスのように大規模で、平土間の上に五層の客席があって、更に、立ち見の天井桟敷があって、オペラやバレエが演じられていたと言う。現在の建物は、1890年に再建されたもので、昔日の面影はなく、ロンドンのミュージカル劇場としては平均的ではないかと思うのだが、「ウエストサイド・ストーリー」や「屋根裏のヴァイオリン弾き」や「アマデウス」が上演されており、この「オペラ座の怪人」は、1986年9月27日以来上演されている。
   因みに、ニューヨークのブロードウェイで上演され始めたのは、オープニングにセーラ妃が出席したのをBBC TVで観たので、それよりずっと後であった。レックス・ハリソンの「マイフェア・レィディ」やユル・ブリンナーの「王様と私」の舞台をブロードウェイで観たが、ロイド・ウェーバーのミュージカルが脚光を浴び始めてからは、ミュージカルの比重は、一気にロンドンへ移った感じであった。

   先日、WOWOWで、「オペラ座の怪人 25周年記念公演 in ロンドン」が放映されたので、久しぶりに華麗な舞台を観て、感激を新たにした。
   この記念バージョンは、あのBBCプロムスの会場である巨大なロイヤル・アルバート・ホールでの最新のオーディオ・ビジュアルを駆使した最新版の記念公演の映画で、実際に、あの巨大なサーカス劇場のような多目的ホールで観て聴くとどうのような印象になるのか、興味深いところである。
   私など、プロムスなどで、かなり、このホールには通ってはいたが、オーケストラやコンサート形式のオペラであったので、このように、巨大な会場を舞台にして、縦横無尽に、パフォーマンス・アーツの極と粋を表現するとどうなるのか、この映像を見るだけでも、興奮を覚える。

   とにかく、高度なミュージカルは、オペラとは違った素晴らしい芸術鑑賞の醍醐味を味わわせてくれる。この「オペラ座の怪人」は、その最右翼であろうと思う。
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(21)オペラ座の怪人を観る その1

2021年05月31日 | 欧米クラシック漫歩
   1992年にロンドンで書いた「欧米クラシック漫歩」を久しぶりに再開する。

   ロンドンに居たとき、ハー・マジェスティーズ・シアターに4回通って、「オペラ座の怪人」を鑑賞している。
   ロンドンの場合、当時、この「オペラ座の怪人」以外にも、「ミス・サイゴン」「レ・ミゼラブル」「キャッツ」などと言った比較的人気の高いミュージカルが、ウエストエンドからコベントガーデンの劇場にかけてロングランで上演されていたが、チケットの取得が困難で、数ヶ月前から予約をしなければダメであった。
   尤も、数倍のプレミアム料金を払えば、取得は出来るが、行きずりの旅行者などでない限り馬鹿らしいと思う。通になると、開演数分前に劇場の窓口に行って、ダフ屋を叩いて、額面価格で取得するのだと聞いたことがある。

   さて、この時は3回目の鑑賞のときであったのだが、直前になって、チケットがなくなっているのに気づいて大慌てした。
   そのチケットは、前年の4月、すなわち、10ヶ月も前に手配をしていたので、それまで、随分、あっちこっちの劇場やコンサート会場に通っていた所為もあって、大切だと思いながら置き場所を忘れてしまったのである。
   本来なら諦めてしまうのだが、英国の場合には、クレジット・カードでチケットを買っているので、その公演がキャンセルされたりキャストが変更されたときなど連絡が来るのを思い出した。前年の4月に、10月10日と翌年の2月21日にそれぞれ3枚ずつ、ボックス・オフィスで、クレジットカードで予約したので、必ず、本人を特定できる記録が劇場のコンピュータに残っている筈だと思ったのである。ダメ元で、チケットの再発行が可能かどうかを、秘書を通じてボックス・オフィスに照会したら、色よい返事が返ってきた。

   ベソをかいていた「オペラ座の怪人」ファンの小学生の次女をつれて、半信半疑で、ボックス・オフィスに行き、クレジット・カードの記録を示し、私の名前で3枚予約されているはずだからチケットを再発行して欲しいと頼んだ。
   窓口の婦人が、手元のコンピュータを叩き始めた。何回か打ち間違えたのか訂正を繰り返した。データを見つけたようで、メモの座席番号E13~15と照会番号を記入して、これを持って開演10分前に来いと言った。
   英国で、こんなに上手くスムーズに事が運ぶことのないことは、嫌と言うほど経験しているので、貴方の名前を教えて欲しいと言ったら、窓口にいるから心配するなと言った。

   近くの三越で食事をして、少し約束の時間を過ぎて窓口に行った。尤も、もう、先の彼女はいなかったが、窓口で私の名前を聞くと、当日渡しのチケットの中から封筒を取りだして3枚のチケットを渡してくれた。にっこりとした11才の娘は、チケットを持ってエントランスを入った。

   客席は、前から4列目の中央であった。目の前、舞台中央にデンと横たわっている大きなシャンデリアは、後で引き上げられて丁度頭上に固定された。すると、第1幕の最後の場面で、このシャンデリアが頭の真上から急降下して舞台に落下するはずである。娘が心配そうに上を見上げていた。

   このミュージカルは、パリ・オペラ座を舞台にしており、この劇場へはオペラやバレエ鑑賞に何度か行っていたので、劇場のオペラの舞台と思しき場面と実際のストーリーの場面とが交錯して二重写しとなって、私にはスペクタクルとしても面白い。
   原作ガストン・ルルーの小説を読んでいないので、オリジナルのストーリーは分からないが、実際には悲しい物語だが、若い二人のラブ・ストーリーが、その暗さを幾分か救っていてくれている。
   とにかく、ロイド・ウェーバーの音楽が限りなく美しい。

   映画では、バート・ランカスターが、悲しい運命の性を、オペラ座の怪人の父として上手く演じている。映画「山猫」を思い出したが、運命というか宿命というか、避けられない人の定めを、ランカスターは憂いを滲ませた何とも言えない表情で悲哀の限りを演じていて胸を打つ。
   主人公の怪人は、自分の運命を直情的に生き真っ直ぐに奈落に突き進むが、それに止めを刺すのは父親で、運命の悲惨を一身に背負って生きているのが哀れである。
   ところが、このミュージカルでは、父親は登場せず、怪人自身が、自分の運命に止めを刺す。
   
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(20)傘寿のショルティの振ったウィーン・フィル

2021年03月08日 | 欧米クラシック漫歩
   外国で、比較的コンサートが少なかったウィーン・フィルが、創立150周年を迎えた1992年から、世界の大都市で定期的に演奏会を開くようになり、ロンドンでも、この年に、ジェイムス・レヴァイン指揮で、翌年に、ゲオルグ・ショルティ指揮とリカルド・ムーティ指揮のコンサートが開かれて、3回とも出かけて楽しませて貰った。
    それ以外に、ロイヤル・アルバート・ホールでのPROMSで、クラウディオ・アバード指揮でのマーラーの交響曲第1番「巨人」とハイドンの交響曲93番については記したとおりであるが、「巨人」の演奏は圧倒的な迫力で、全員総立ちで、長い間拍手が止まなかった。その翌日に、ピエール・ブーレーズ指揮で、ストラヴィンスキー、バルトーク、ドビュッシー、ブーレーズと言った比較的現代の曲が演奏されたのだが、仕事でヘルシンキに飛んだので涙を飲んだ。

   さて、これらの演奏会で、ショルティのコンサートだけ、メモが残っているので、思い出を書いてみたい。

   この日のコンサートは、サウスバンクのロイヤル・フェスティバル・ホールで、私の席は、平土間(ストール)の中央で前から5列目、極めてオーケストラに接近していた。目の高さが丁度演奏者の目の高さより一寸高い程度で、前と後ろの演奏者が少し重なって見えるが、中央なので全体は俯瞰できる。音は広がるが、左右のバランスは良く、それぞれの楽器の微妙な表情まで手に取るように感じられる。特に印象的であったのは、コンサート・マスターの美しいヴァイオリンの音色で、気のせいか、第一ヴァイオリンのパート全体のサウンドが一点に集中して、コンサートマスターだけが演奏しているように聞こえてきて感動した。
   ショルティは、前年に傘寿を迎えて、カラヤンが亡くなった歳になったのだが、昔のように、指揮台の上で飛び上がるようなことはなくなったし、少しよろけることもあるが、あの敏捷でダイナミックなタクト捌きは少しも変っていない。水泳選手が、飛び込み台に立ってまさに飛び込もうとする時のような出だしだし、手を下に下ろして左右に掃くようにして激しく動かせる仕草等々、ロンドンに来てからは、ロイヤル・オペラやロンドン響も含めて随分ショルティを聴いているが、何時もお馴染みである。サウンドを耳で聴くのか、身体全体で聴くのか、とにかく、ショルティの身体全体がバネ仕掛けの音楽そのものといった感じである。
   
   この日のプログラムは、メンデルスゾーンの「イタリア交響曲」とショスタコーヴィッチの交響曲第5番。
   イタリアは、飛び跳ねるようなメリハリの効いた激しいサウンドで、ヴァイオリン奏者が激しく体を前後左右に動かし、大きなボーイングでこたえ、管や打楽器が咆える・・・そんな感じの演奏で、各パートのサウンドが美しい。
   ショスタコーヴィッチの方は、少し前に、ロストロポーヴィチ指揮でロンドン響の定期演奏で聴いていたので、どうしてもその演奏の印象が強烈に残っているので、比較して聴いてしまう。ヴィルトオーゾ・オーケストラよりも、地味で重厚な感じのオーケストラの方がこの曲に向くのか、あるいは、指揮者の血の差なのか、非常に感動的な素晴らしい演奏だと思ったが、あの暗く陰鬱なロシアを感じさせてくれたロストロポーヴィチの、地の底から湧き上がってくるような熱く胸に染みる感動とは異質であった。ショルティはハンガリー出身だし、ロシアの風土とは近いと思うのだが、やはり、フランツ・リストのふるさとで、同郷のオーマンデイがそうであったように、東欧の土属性とは違った一寸粋で華麗なサウンドを紡ぎだすのであろうかと変なことを考えながら聴いていた。
   アンコールは、シュトラウスの「こうもり序曲」で、ニューイヤー・コンサートもかくやと思いながら、疑似体験を楽しませて貰った。たしか、レヴァインもムーティも、アンコールは、シュトラウスのワルツで、レヴァインなど冒頭だけタクトを振っただけで、スタスタと舞台を去ってしまって、ウィーン・フィルが華麗な演奏を続けた。

   ショルティで忘れられないのは、1991年に、傘寿を記念してロイヤル・オペラで上演されたヴェルディの「オテロ」である。
   プラシド・ドミンゴのオテロ、キリ・テ・カナワのデズデモーナ、セルゲイ・ライフェルカスのイヤーゴと言う錚々たるソリストで、大変な人気で、定期会員権保持者の特権を活用して不可能に近かったチケットを取得した。確か、280ポンドで、日本円で6万円でかなり高かったが、当時は、パバロッティでも、ドミンゴでもスパースターが登場する舞台は、ほぼ、同じくらいであった。BBCで放映されたのだが、深刻なシェイクスピアの悲劇でありながら、会場の熱気は凄くて、それに、聴衆も久しぶりのお祭り気分で華やいでいた。(素晴らしいDVDが出ている。)
   同じく、ロンドン交響楽団も、ショルティの傘寿の記念公演を催して、ショスタコーヴィッチの交響曲第10番を演奏した。
   Sir Georg Solti KBE、英国では、最高峰の芸術家で、最も尊敬される指揮者であった。

   最初にショルティ指揮のウィーン・フィルを聴いたのは、1970年代で、京都にいた頃で、京都文化会館にいそいそと出かけた。
   1970年の大阪万博の時に、大阪フェスティバル・ホールで、カラヤン指揮ベルリン・フィル、バーンスティン指揮ニューヨーク・フィル」などを聴いていたので、とにかく、貧乏サラリーマンのクラシックファン初歩で、分かっても分からなくても、刀の目利き養成と同じで、最高峰の本物に触れよと言う鉄則を守り通していた。今思うと、この欧米時代の「欧米クラシック漫歩」など夢のような世界だが、長い人生、捨てたものではないと感動している。
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19・ロイヤル・アルバート・ホールのPROMS(3)

2021年03月01日 | 欧米クラシック漫歩
   この年の他のコンサートは、オーケストラの舞台であった。

   まず、お祭り気分が高揚したのは、アシュケナージ指揮の「ベルリン・ラジオ交響楽団」。
   プログラムは、エルガーの「ファルスタッフ」とベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」であったが、チャールズ皇太子やメイジャー首相をはじめ多数の英国政府の高官や、それに来英していたパウエル米国務長官などが来賓としてきていて、さながら、ガラコンサートの雰囲気であった。以前、ロンドン響の第9には、ダイアナ妃が来ていたが、やはり、日本と違って、かなり演奏回数の少ない「合唱」となると、貴賓の来演があるのであろう。
   ソリストに、バスのクルト・モルが登場したのだが、ロイヤル・オペラのモーツアルトの「後宮からの誘拐」のオスミンやシュトラウスの「バラの騎士」のオックス男爵の印象が強すぎて、直立不動で真面目に歌っていたので面白かったが、流石に大歌手で凄い迫力であった。普通、ソリストの声がオーケストラや合唱にかき消されて、善く聞こえない場合が多いのだが、この日は、歌手が重量級で、朗々と響き渡っていて、久しぶりにバランスの良い演奏を味わった。

   アバード指揮ウィーン・フィルは、ハイドンの交響曲第93番とマーラーの交響曲第1番「巨人」。
   アバードが、ウィーン国立歌劇場と決別したと聞いていたので心配していたのだが、ウィーン・フィルとは続いているようで安心した。前述したように、マーラー・ユーゲント・オーケストラの薫陶でマラーに入れ込んでいるアバードの「巨人」であるから、大分前に聴いたバーンスティンの「巨人」の印象とは違って、もっと激しくうねるような重厚なサウンドで凄かった。元々この会場は、ドーム状のオーディトリアムなので音響は善くないのだが、アバードは、そのハンディを超えて、あのウィーン・フィルを、まさに、広大なオーディトリアムを共鳴板にして、朗々と歌わせていていたのである。

   ザンクト・ペテルブルク・フィルは、ヤンソンスは、ロッシーニの泥棒かささぎ序曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番、テルミカーノフは、ベルリオーズの海賊序曲、シベリウスのヴァイオリン協奏曲、チャイコフスキーのマンフレットであった。
   シベリウスのヴァイオリン独奏は、18才になったばかりのマキシム・ベンゲーロフで、一寸荒削りの演奏ではあったが、以前に聴いていたムッターやクレーメルのように、あんなに完璧で美しいサウンドでは、あの寒い北欧の土の香りや激しい愛国心のシベリウスの命の叫びが響いてこないと感じていたので、何故か、ベンゲーロフの音色が、凄く愛おしく胸に迫ってきた。
   余談だが、この日、カーテンコールの時に、スナップしたのをBBCのTVカメラが捉えていたらしく、翌日、同僚に、早く帰ったので、デートかと思ったらPROMSに行っていたのかと言われた。悪いことは出来ない。

   もう一つのコンサートは、マイケル・ティルソン・トーマス指揮のロンドン交響楽団。
   シーズンメンバーとして通い続けているので、お馴染みのオーケストラだが、この日のプログラムは、ベルクのヴァイオリン協奏曲とマーラーの交響曲第5番。
   全員リラックスした白のタキシード姿で、気楽な夏の夜の演奏といった感じだが、アンネ・ゾフィー・ムッターの華麗なヴァイオリンの音色がお祭り気分にふさわしい。
   トーマスのマーラーは、マーラー・ワルター・バースティン・トーマスの流れで、アメリカ人ながら、マーラーには造詣が深く録音も多い。

   ところで、このブログを書いていて、この1980年代後半から1990年代にかけてのヨーロッパのクラシック・コンサートで、マーラーの演奏が多いのにビックリする。
   私が、クラシックに興味を持ち始めた1960年代、それから1980年代に掛けて、日本のコンサートでは、殆ど、マーラーがプログラムに載ったことがなかったように思う。私が、マーラーに興味を持ち始めたのは、1972年にフィラデルフィアに住んで、フィラデルフィア管弦楽団の定期公演に通い始めてからである。

   ブルックナーもそうで、日本では聴く機会がなくて、欧米での経験である。
   1980年代の後半に、ウィーンから、ドナウ川沿いにアムステルダムへ車で帰る途中に、リンツ近くの片田舎のブルックナーの故郷であり、音楽の原点であるザンクト・フローリアン大聖堂を訪れたことがある。

   この「欧米クラシック漫歩」の記事は、過去の私のメモを見ながら書いているのだが、走馬灯のように思い出が蘇ってきて懐かしい。
   倉庫に、当時のパッフレットや写真が眠っているので、もう歳だし、見る機会もないので、思いきって、開けて整理しようかと思っている。
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18・ロイヤル・アルバート・ホールのPROMS(2)

2021年02月22日 | 欧米クラシック漫歩
   1992年は、前年に予約をミスったので、4月末早々にプロムス92のプログラムを手に入れて、期日が来ると、すぐに申し込んだ。幸い希望通りの総てのチケットが手に入った。
   問題のラスト・ナイト・コンサートのチケット取得には、5演目以上の予約が条件で何組買っても二枚までと言うことであったが、これも、予約できた。しかし、このコンサートは、ソリストにキリ・テ・カナワが出演していたにも拘わらず、出張のために行けずに、家内と次女が出かけてお祭り気分を味わってきた。このラスト・ナイトのチケットは、取得困難で、どのようなルートで取得するのか、ホテルとのセットでプレミアム付きで売っているエージェントもあり、いずれにしろ、高値に拘泥しなければ、ロンドンでは、手に入らないチケットはないと言われていた。
   尤も、ラスト・ナイト・コンサートに行ける確実な方法があって、それは、このプロムスの全回分(オールシーズン・チケット)か後半の半回分の立ち見席チケットを買うことである。多くのファンのために、アリーナ(広い一階の平土間)と最上階のギャラリーが立ち見席となっていて、アリーナの全回分が95ポンド、半回分が60ポンドで、ギャラリー席では、それぞれ、25ポンド、20ポンド安くなる。
   特に、人気を博するのは、この夜の祝祭ムードで、アリーナの齧り付きの客が、仮装したりカラフルな帽子や服装を身につけて、旗を振ったり時には花火を使ったりと、派手なパフォーマンスで熱狂すると、お祭りムードが頂点に達して一気に感興を盛り上げる。

   この年、実際に出かけて行ったコンサートは、グラインドボーンのチャイコフスキーの「スペードの女王」、ドホナーニ指揮のクリーブランド管弦楽団、ロストロポーヴィッチ指揮のECユース・オーケストラ、ヤンソンス、そして、テルミカーノフ指揮のザンクト・ペテロスブルク・フィル、ティルソン・トーマス指揮のロンドン交響楽団、アシュケナージ指揮のベルリン・ラジオ交響楽団、そして、アバード指揮のウィーン・フィルであった。
   また、チケットがあって行けなかったのが、シャイー指揮のコンセルトヘボウ、ブーレーズ指揮のウィーン・フィル、そして、前述のラスト・ナイトである。
   因みに、チケット代金だが、在英オーケストラは15ポンド、クリーブランドが25ポンド、コンセウトヘボウが20ポンド、ウィーン・フィルで40ポンド、ラスト・ナイトは50ポンドである。
   他のコンサート・ホールのトップ・オーケストラやロイヤル・オペラのチケットと比べれば、随分安いのだが、それでも、3枚ずつ買ったので相当な出費となった。
   しかし、これは、ヨーロッパに滞在している故の、他では経験できない恵まれた幸運であり千載一遇のチャンスだと思って、オペラやコンサート、観劇など芸術鑑賞やヨーロッパ旅に糸目をつけなかったので、何時も火の車であったが、それでも、幸せであった。
   今にして思えば、引退してからゆっくり・・・等というのは間違いであって、足腰が丈夫で瞬発力が効き、好奇心が強くて感受性豊かな壮年期こそ、当然、仕事中心・激務の連続ではあったが、寸暇を惜しんででも、芸術文化知的行脚に没頭すべきだと思って必死であった、そんな自分を今になって慰めている。
   8年間のヨーロッパ時代では、シェイクスピア戯曲鑑賞には通い詰めたが、駐在員が入れ込んでいたゴルフには、クラブのメンバーではあったが、一度も行かなかったし、代表者ではあったが、夜の会食や付き合いを極力避けるなど変った過ごし方をしていたので、時間を捻出できたのかも知れない。

   さて、実際の公演だが、まず、グラインドボーンの「スペードの女王」は、指揮はホワイトタイで正装のA・ディビスで、オーケストラは、ロンドン・フィル。女性陣は、コンサート・ドレスで、男性陣は、ブラック・タイで威儀を正している。このオペラは、少し前に、グラインドボーンのオペラハウスで実際に鑑賞済みであり、全く同じキャストであり、今回はセミ・ステージではあったが、舞台が彷彿としてきて楽しませて貰った。グラインドポーンの舞台は、モノトーンのモダンな舞台セットであったが、ここでは、天井の高いオープンスペースで、雰囲気が大分違っていた。動きが少ない分、サウンドに集中したコンサートではあったが、舞台が広くてかなりの余裕があるので、多少の小道具もあり、ソリストたちも演技をしており、ただのコンサート・オペラのような単純さはなかった。
   若いライザのN・グスタフソンとヘルマンのY・マルシンは初々しく、逆に、トムスキーのS・ライフェルカスと伯爵夫人のF・パルマーが渋い味を出していて好演していた。ロシア語のオペラであったので、ロシア人歌手が中心となっていたようであった。

   このロイヤル・アルバート・ホールでは、その後、「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」の記念公演が催されて、帰国後だったので、テレビ放映で見たのだが、凄い舞台であった。
   とにかく、巨大な多目的ホールなので、演出次第では、いくらでも、素晴らしいパーフォーマンス・アーツが上演できるのであろう。
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17・ロイヤル・アルバート・ホールのPROMS(1)

2021年02月15日 | 欧米クラシック漫歩
   日本でも、毎年、夏のロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの「プロムス」のラスト・ナイト・コンサートが、NHK BSPで放映される。
   ロンドンに5年間も居ながら、知ってはいたが、いくらでも何処でも、素晴らしいクラシックのコンサートは聴けるし、どうせ巨大なサーカス劇場かドーム状の競技場でのコンサートだからと見向きもしなかったのだが、良く通っていたピカデリーのタワー・レコードで、何の気なしに堆く積まれていたPROMS 91の100ページほどの立派なパンフレットを開いて、その豪華さにビックリした。アバードやハイティンクや小澤の写真が目に入り、マリア・ユーイングやギネス・ジョーンズからブレンデルや内田光子の写真が出てきて、びっしりと素晴らしいプログラムが目白押しである。
   小澤指揮のボストン交響楽団はベートーヴェンの交響曲第8番とベルリオーズの幻想交響曲、アバード指揮のベルリン・フィルはブラームスのピアノ協奏曲第2番とマーラーの交響曲第4番という調子であったが、時既に遅しで、総てソールド・アウト。手にしたチケットは、アバード指揮のグスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラと、コリン・デーヴィス指揮のドレスデン国立交響楽団、ロンドン・フィルのグラインドボーン祝祭歌劇の「皇帝の戴冠」だけであった。

   さて、このプロムスだが、BBCプロムナードコンサート、正式には、Henry Wood Promenade Concerts。
   毎年、世界中から、クラシック音楽関係の名だたる音楽家が集まり、7月中旬から9月の上旬にかけて、毎夜、コンサートが開催されて、主なものは、BBCで放映される。
   平土間のアリーナ席は立ち見席で、毎日売り出されるが、熱心なファンなどは、1シーズン通し、または、半シーズン通しのチケットを購入して通っていて、楽譜を持って熱心に聞き入る音楽学生もかなり見かける。
   人気があるのは、ラスト・ナイト・コンサートで、ポピュラーなクラシック音楽に始まり、後半は、TOP演者が登場し、エドワード・エルガーの行進曲「威風堂々」第1番や国歌「女王陛下万歳」など愛国的な音楽が奏されるなど、それぞれ趣向を凝らした観客たちが華を添えるので、お祭り気分が頂点に達する。
   オーケストラは、当然、BBC交響楽団である。
   プロムスの光景は、説明しても分かりにくいので、ウィキペディの写真を借用すると、
   
   

   アバードの方は、チケットが殆ど残っていなかったので、奥深い天上桟敷であったから気の遠くなるような距離で、シューマンのチェロ協奏曲とマーラーの第5番を聴いたのだが、凄まじいカーテンコールの渦。このオーケストラは、鉄のカーテンの東西から集めた若い音楽家によって形成されたウィーンに本拠を置く楽団だが、翌年、ロストロポーヴィッチ指揮のEUユース・オーケストラのショスタコーヴィッチの交響曲第11番を聴いたのだが、これも、すごい熱演で、偉大な巨匠たちが、若い音楽家たちのオーケストラを心血注いで積極的にバックアップし育成している姿に感動し、ヨーロッパの若い音楽家の力量と層の厚さにびっくりした。

   デービスとドレスデンは、人気がないのか良い席が取れた。私は、このコンビをテレビで何度か見ていたので、非常に興味があった。当日のプログラムは、モーツアルトの交響曲第31番、シューベルトの第6番、ドボルザークの第7番であった。英国人のデービスと、旧東独のドレスデンとの相性がどうか、気になったが、きわめて端正な演奏で、ドボルザークの7番など、機械のように正確無比で、旧共産圏の鬱積したエネルギーが爆発したような激しいサウンドであった。ベルリンの壁が崩壊した直後に、ドレスデンを訪れたことがあるが、歴史のある凄い大都市が、廃墟のように無残な姿を呈していたのを覚えていて感慨深かった。
   
   グランドボーンは、その年、現地へ行って、「フィガロの結婚」と「イドメネオ」の舞台を実際に鑑賞しており、非常に質の高い舞台を見せてくれるので、このコンサート形式の公演にも、興味を持っていた。グラインドボーンは、常設のオーケストラを持っていないので、ロンドンの4大オーケストラのロンドン・フィルが、オーケストラピットに入る。アムステルダム・オペラでは、コンセルトヘボウがピットに入っていたが、普通は、ウィーン国立歌劇場のオーケストラも兼ねているウィーン・フィルを除いて、コンサート・オーケストラのオペラ演奏は少ないのだが、ロンドン・フィルは、グラインドボーンのお陰で、素晴らしいDVDやCDを沢山出していて、その殆どが名盤として人気が高い。このモーツアルトは、それなりの水準ではあったが、歌手のアクションが限られており、天井が限りなく高いオーディトリアムなので、一寸セミステージの限界を感じて感興はもう一つであった。

   とにかく、このプロムスは、クラシック音楽鑑賞の別な楽しみ方を教えてくれ面白かった。
   ここでは、それ以前に、テニスの国際試合を見ており、日本の大相撲のロンドン場所を見ており、異次元の体験もしていて、興味深い場所であるが、円形の巨大なオーディトリアムなので、パブリックスペースが限られていて、丁度、後楽園球場をもっと切り詰めて小さくしたような雰囲気である。
   ロイヤル・オペラ・ハウスが改装されて、レストランなど広大なパブリックスペースを取り込んで一体化した理想的なアミューズメント施設の良さを思うと惜しいと思う。
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