浜名史学

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大杉栄・伊藤野枝・橘宗一墓前祭について

2020-09-12 22:08:26 | 大杉栄・伊藤野枝
 9月12日、静岡市の沓谷霊園で、大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の墓前祭が行われた。開始前に降っていたこぬか雨もあがり、曇天の下、午前11時、墓前祭は開始された。コロナ禍の中、今年は墓前祭のみで、午後に予定されていた講演会は中止となった。

 ところで、なぜ大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の墓が静岡市にあるのかを説明しておこう。

 大杉栄、伊藤野枝、橘宗一は9月16日、関東大震災の混乱の中、甘粕憲兵大尉を中心とした国家権力により惨殺され、遺体は東京憲兵隊の古井戸に投げ捨てられた。この事実がどのように明らかにされていったかは、鎌田慧『自由への疾走』(岩波書店)などを読んでいただくとして、陸軍第一衛戍病院から引き渡された遺骨は荼毘に付され分骨された。分骨された一つは、福岡へ運ばれた。

 大杉らの葬儀は、1923年12月16日に行われるはずだったが、葬儀当日、弔問を装って来訪した右翼・大化会の下鳥繁造ら3人の男に遺骨が奪われ、遺骨は大化会会長の岩田富美夫の手に渡った。内務省警保局、北一輝らの動きにより、遺骨が返還されることとなり、12月25日に警視庁に提出されたのだが、しかし、「虎ノ門事件」が起きたことから遺骨の返還は遅れ、結局引き渡されたのは、1924年5月17日となり、弟の大杉勇が警視庁で受け取った。

 そして静岡の共同墓地・沓谷霊園に遺骨が埋葬されたのは、1924年5月25日。墓の建立は、1925年7月14日。

 ではなぜ沓谷霊園なのか。

 栄の父、東(陸軍歩兵少佐)は日露戦争で負傷し退役、再婚した妻かやの故郷清水・三保に隠居し、「赤旗事件」で大杉が獄中にいるときに死去(1909年)。その遺骨は、清水の鉄舟寺に葬られた。栄も鉄舟寺に葬られるはずだったが、檀家や在郷軍人会、青年団が猛反対したため、結局沓谷の共同墓地に葬られることになった。当時静岡に住んでいた栄の妹である菊夫妻(柴田勝造、菊)が求めたもので、1924年5月24日、遺骨は東京から柴田家に運ばれ、その夜葬儀が行われた。翌25日、遺骨が埋葬された。当時の新聞は、こう伝えている。

「柴田家の六畳座敷に南向きに安置された栄、野枝、宗一の三名の遺骨をひとまとめにした骨箱とこれを左にして栄氏の実弟伸氏の遺骨とが相並べて安置され、其前には栄、野枝、宗一三名の最近の肖像に僅かばかりのバナナと西洋菓子の一皿が置かれてあり、如何にも物淋しい部屋の中には香の煙が満ち満ちて居るのみで、他には喪章の付いた花輪が淋しく立って居るのみであった。葬儀は午後三時半から始められ新善光寺僧侶の読経が終わって一同は臼井、富田、金原の三刑事に衛られ、清水山麓の共同墓地に向かった。宗一の母橘あやめは紺サージの地味な洋服姿で、栄、野枝、宗一三名を、伸氏の遺骨は栄氏の実弟勇、進両氏の手に護られて腕車で墓地に向かった。会葬者は栄兄弟、柴田一家と他に親戚の熊谷、宇佐見両氏の十二名であった。
 栄氏の遺骨は小高い丘の南部に面した約二坪ばかりの所に埋められたのであるが、穴掘りが穴を掘るサベル(シャベル)の音をあやめは堪えられないやうな面持ちでじっと聞いていたが、柴田氏妻女菊子(あやめの実姉)に勧めらるるままに兄等と愛児宗一と野枝の遺骨の上に手もて土を落とし祈りを捧げた。折柄吹きしきる烈風に雨雲が空一杯に拡がり墓地は益々物淋しさを増して来た。斯くて薄命の栄と夫人野枝並に果報ない最後を共にした橘宗一は永遠に此共同墓地に眠りを続けるのである」(『静岡民友新聞』1924年5月26日付)

 その後1925年7月、清水の大工・志田繁作により、コンクリート製の墓碑が建立された。「大杉栄之墓」の文字は、菊宛て書簡の自署を模写したもので、大杉の自署である。

 戦後、この墓を訪れた山川均は、「おお、これは大杉の字だ!」といって、墓を抱きしめたという。また戦前、近くにあった女子師範学校の学生が、愛の成就を願って、この墓にお詣りに来ていたという。
 しかし、この墓、大杉だけでなく野枝や橘宗一の遺骨も埋葬されているのに、墓は大杉栄の名だけが刻まれている。

 また分骨された宗一の名古屋の墓は、1972年に発見された。覚王山日泰寺ちかくの団地に住む女性が夏草に覆われた墓石を発見した。そこには「宗一ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正12年9月16日夜、大杉栄、野枝ト共ニ、犬共ニ虐殺サル」と刻まれていた。

 また福岡の墓は、菩提寺の前にあるNさん宅の庭にあったとのこと。劇作家の宮本研氏が「すでにいくつにも砕けていたが、Nさんの好意なのだろう、つる草をからませ原型が保存してある。文字はない。ただの石塊(いしくれ)である。」と、「青鞜の女」に書いていた。今は移されて、山の中にあるという。「石塊」は、三つに割れているとのこと。福岡の墓だけ、未見である。



  
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