浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ジャクリーヌ・デュ・プレ

2013-07-16 22:14:28 | 日記
 毎週火曜日、歴史講座の講師をつとめている。今夜は南京事件について話した。見せようと思ったDVDは持って行ったのだが、肝心のプロジェクターを持って行かなかったので、DVDの鑑賞は空振りになった。

 しかし、いつものように、話した後の質疑応答は白熱したものになった。それにこたえていくわけだが、途中声が出なくなったりもして、なかなかきついものとなった。

 さて帰途、車ではちょうどジャクリーヌ・デュ・プレ演奏の、ドヴォルザークのチェロ協奏曲がかかっていた。

 デュ・プレが演奏するCDの多くを持っているにもかかわらず、最近CD17枚セットの全集を購入した。

 彼女の演奏はすべてが一期一会の演奏であるが、なかでもこのドヴォルザークの協奏曲は、彼女の全身全霊をかけて演奏しているような気がして、とても好きである。

 彼女の「今生でこの一回だけ」という演奏は、ボクの生き方にも大きな影響を与えている。

 帰宅してもう一度聴き直した。そしたら、演奏には、その力強さだけではなく、そこに悲しみがあることに気づいた。悲しみ、いや寂しさといってよいのかもしれない。

 今生でただ一回の演奏に全力を尽くす、というのも、考えてみればさびしい話しだ。それぞれの一回が、孤立しているわけだから。

 ボクも、依頼されたことなどには全力を尽くす。しかし全力を尽くしても、その結果がまずいこともあるし、何らかの事件が起こって不満足のままになってしまうことがある。人生とはなかなか難しいものだ。

 第1楽章。オーケストラの前奏が徐々に静かとなり、チェロの登場を促す。さあ出番だというオーケストラの演奏のあとに、チェロは力強く一期一会の演奏を始める。自由に飛び跳ねながら自己を主張するのだ。そしてチェロは静かに自分を語り始める。オーケストラは、その語りをやさしく受けとめる。
 さらにチェロは自分語りをすすめる。しかしそこには、悲しみとさびしさ、そしてそれから逃れようとする意思が混在する。逃れようとする意思を支えるオーケストラの演奏が続く。

 第2楽章はオーケストラがやさしくチェロを迎える。チェロも静かに登場する。しかしここには全力を尽くしながらも、どうにもやるせない感情がこめられている箇所がある。チェロが泣いているようなところだ。全力を出しながらも、それが通じないという悲哀。

 そしてその後に、安らかな慰めを感じるところもある。その慰めをあらわす音色は、しかしボクの部屋に漂ったあと、静かに窓の外へと出て行く。

 第3楽章。もう一度力づよいリズムが刻まれる。しかしその後に悲痛な叫びが聞こえ、それを打ち消そうというリズムが続く。孤独なチェロの音色が、様々な感情の起伏を帯びながら進んでいく。

 オーケストラの演奏がチェロを引き立てようとするが、孤独なチェロの音色はそれを拒否するようにひとり佇む。
今度はオーケストラが慰めの声をかける、するとチェロはそれにこたえるかのように前進しようとする。オーケストラと呼応しながら、チェロはオーケストラとともに歩みはじめる。

 チェロは、しかしもう一度回想しながら、悲しみのメロディを奏でる。そして何事かをふっきるように、曲は終わる。

 今晩ボクは、ドヴォルザークのチェロ協奏曲が、目を閉じながら、悲しみにたえようとする音楽でもあることを発見した。

 
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虚妄の大義

2013-07-16 05:03:14 | 日記
 世論調査の結果を見ると、現行の日本国憲法を改めたほうがよい、という意見の方が多いようである。
 
 でも、ボクは、現行の日本国憲法を絶対に今、変えるべきではないと思う。変えてはならない。改憲を推進しようとしている支配層に、いっさいの幻想も期待ももたないからであり、改憲の本当の理由を推測できるからだ。

 彼らは、私利私欲のためにそうしたいのだ。

 「政府や、軍閥や、資本家」、いわゆる支配層は、確かにボクたちと同じように、日本に足場を持っている。ボクたちは、この日本という“くに”が好きだ。自らが生まれ育ち、同時にボクたちを育んでくれたボクとつながる人々が生きているこの“くに”を、大切なところだと、思う。

 だがいわゆる支配層は、決してそうではない。支配層は、この“くに”を破壊しても、平気なのである。

 振り返って見るが良い。1941年から始まる対英米戦争の戦争目的は、「自存自衛」だといっていた。今の支配層も、同じことをいう。そうでない考えについては、「自虐史観」とか、「東京裁判史観」などとわけのわからないレッテルを貼る。

 ならばボクは問う。「自存自衛」のための戦争であったならば、何故に、この“くに”が、空襲によって破壊されはじめたその瞬間に、戦争をやめなかったか。日本の主な都市は、空襲によって灰燼に帰し、多くの日本人が空襲のなかを逃げ惑い、そして死んでいった。

 サイパン島をはじめとしたマリアナ諸島が米軍によって陥落したとき、東条英機内閣は瓦解した。勝利がまったく見込めなくなったからだ。敗戦が確定した。ならばなぜその時、支配層は、「自存自衛」のために戦争を始めたとしたなら、それが確実に不可能だと判明したとき、なぜ戦争をやめなかったか。戦死者の統計を見れば、1944年7月頃から戦傷死者が急激に増加している。

 日本という“くに”に住む人々、日本という“くに”が、破壊されつづけるその姿が各地で見られても、支配層は戦争をやめずに、支配層のよりどころであった「国体護持」にひたすら拘泥して、それが可能かどうかだけ、連合軍に対して打診していたのではなかったか。
 
 支配層は、ボクたち、日本という“くに”に住む人々とは、もう考え方は異なるのだ。彼らは、ボクたちや日本という“くに”なんて、実はどうでもよいのだ。

 彼らは、自分たちの財産や、自分たちの既得権が大事であり、さらに今後も政治的・経済的利得を増やすことができるかどうかだけに関心があるのだ。

 もし彼らが日本という“くに”とそこに住む人々を大切に考えているのなら、海外に生産拠点を移動させることはしない。日本という“くに”に住む人々の雇用がなくなってしまうから、企業活動維持のための海外進出は必要最小限にするはずだ。しかしそうではない。日本という“くに”に住む人々の生活を考えるなら、そしてその人々の生活が世代を重ねていくことを考えるなら、それを不可能とする賃金しかださない非正規労働者を大量に雇用したりはしないはずだ。

 あるいは、日本政府の赤字がものすごいというのなら、莫大なカネを儲けている企業、役員の報酬として億単位のカネを支給する企業(役員)は、日本の“くに”の前途を考え、幾分かを寄付したり、あるいは法人税を適正に納付するはずだ。しかし、日本の大企業のほとんどは法人税を納めていない、もちろん合法的に。だけどそれを可能にする法制度をつくってあげているのは政府だ。

 もう支配層は、国籍を持たない。支配層にとって、国家は、みずからの利益を追求するための手段でしかない。国家機構をみずからの手足として活用している。 

 だが人の良い人々は、疑うこともせずに、支配層が自分たちのことを考えてくれていると思い込んでいる。歴史を振り返れば、現実を凝視すれば、そんなことはあり得ないのに。

 もうずっと前に、それに気づいた詩人がいる。萩原朔太郎である。

 ボクも時たま詩をつくるようになったが、この高名な詩人は、「虚妄の正義」という文を書いた。1929年、もう80年以上前だ。ボクが引いた下線を注目して読んで欲しい。


復讐や、正義やの純な感情が、民衆を戦争に駆り立てる。丁度我々の個人間で、侮辱への決闘を意志する如く、そのやうに民衆は、彼等の敵国を人格視し、戦争を倫理化しているのである。

 一方で、戦争の主動者たる者ども-官僚や、政府や、軍閥や、資本家や-の観念は、ずつとちがったものに属している。彼等にとつて、戦争は全く打算的に決行される。たとへば領土の野心から、金融上の関係から、人口移植の必要から、もしくは内乱や危険思想の転換から、政府当局の都合と虚栄心から、その他のさまざまな事情による利益と損失の合算が、彼等の「戦争への意志」を決定する。そして戦争は、かく功利的打算による投機の外、彼等にまで、何の倫理的意義を有していない。正義とか?復讐とか?もとよりこの種の感傷的な言語は、ただ素朴な民衆にだけ、民衆を扇動する目的にだけ、太鼓によつてやかましく宣伝される。

 それ故にまた敵国は、彼等戦争の指導者にまで、何ら人格的のものでなく、賭博商売における相手の張り方にすぎないのだ。我々の張り手が、いま互に争ふものは、ゲーム台のかけひきであつて、相手の人間そのものに関係しない。もとより彼等は、互に決闘すべき理由を知らない。況んや憎悪の念もなく憐憫の意志もない。所詮互の敵国は、戦争の主謀者にまで、一の運だめしのカードにすぎないだらう。そのやり方で、ペテンと奸策を弄することでは、両方共に抜目がなく、もちろんの話であるが。

されば戦争の終わつた後までも、民衆の間には、尚久しくあの愚劣な興奮―敵愾心を指すのである-の残り火が燃えてゐるのに、一方では、それの扇動者等が、丸でけろりとしてしまつている。丁度、ゲームを終わつた同士のやうに、彼等は互に笑顔をつくり、次の新しき打算のために、いそいそとして敵に近づき、心底からの親睦を始めるのである。それによつて民衆が、いつでも馬鹿面をし、呆気にとられてしまふ

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