浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

時期

2013-05-11 21:37:35 | 日記
 最近ボクは、少しの苦痛を感じながら、村上春樹を読んできた。そして今、これから読むであろう『1Q84』を読み通すためのエネルギーを蓄えている。とにかく、村上好きの人びとと異なり、ボクは村上作品を決してよいとは思っていない。時に怒り、時にあきれかえりながら読むことの苦痛。

 だが今日、学生時代に読んだ『贈る言葉』(柴田翔)を読み返してみた。ボクはこの小説にいろいろなことを考えさせられた記憶がある。まさに青春期の読書であった。

 読みながら、ボクは何にそんなに惹かれたのかを想い出しながら読んだ。おそらくボクは、主人公の「ぼく」と自分自身を重ねながら読んだのだろうと思った。

 主人公の「ぼく」の思念は、学生時代のボクの、ある意味での「純粋性」にとても近いことがよくわかったからだ。また、「ぼく」の相手となる女性が、女性に対して外側から押し付けられる「枠」のなかで、精一杯生きている姿と、大学生のボクが当時仲良くしてた女性の姿に相似形を見いだして、それについて彼女に長い手紙を書いた記憶が甦ってきたからだ。

 だが、解説に指摘されている、この小説の重大なテーマ、その頃はまったく思ってもみなかったが、「純粋」だった「青春の生」を過ぎてからの「荒廃」を、ボクも今、認識させられていることに気付いた。

 この小説を読んでいた頃、ボクはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など、ドストエフスキーの作品に食らいついていた。そしてボクは、人間や人間の生、人間関係などについて、大きくて広い観念の世界を自らのなかにつくりあげ、その観念をあたかも現実であるかのように、他方で現実を観念であるかのようにしながら、自分自身がつくりあげた観念の世界を彷徨っていたような気がする。観念は、実現されるべきものとして、ボクの前につねに佇んで、ボクを見張っていた。ボクはその観念の世界から現実を見ていたから、おそらく現実は歪められた「存在」としてしか見えなかったのだろう。

 この小説の「ぼく」も、同じような生き方、考え方をしているようで、今はこの小説のテーマがよく理解できる。
 

 そうなのだ。同じ小説でも、読む時期によって、その小説から生じる感懐は大きく異なるのである。だとすると、ボクがもしもっと若いときに村上作品を読んでいたら、その感想は異なっていたかもしれない。


 ここで少し補足。文学作品は、青春の、感性が豊潤であるそのときに、とにかく読んでおかなければならないと思う。その「時期」は、あっという間に過ぎていってしまう。
コメント
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