今日は東京へ。明治大学で行われた某研究会に参加した。他者からの知的刺激を受けることも必要だと思い、研究会だけを目的に上京した。行くたびに、東京は高層ビルが増えている気がする。そして東京はどこでも人が多い。地方では高校生や中学生以外の若者は、東京ほどたくさんいない。お茶の水周辺ではそうした若者がたくさんいた。そして東京にはたくさんの人がいて、地方からときたま上京する者を疲労させる。
研究会が終わったらすぐに帰った。帰りは「こだま」を利用した。空席が目立っていた。人びとは「こだま」ではなく、より速く走る「ひかり」に集中する。私も行きは「ひかり」を利用したが・・・
今日話を聞いていて、大杉や野枝が遺した言説を単なる言説に終わらせないためには、現代の視点から捉え直しをする必要がある。だが彼らの言説を現代の視点から捉え直すというとき、どのような方法を採用するのか。彼らの言説は彼らが生きた一定の時間・空間のなかで生み出された言説なのである。その一定の時間・空間のなかで課題としてとりあげた問題が、今もって未解決の課題のまま残されていることを指摘することによって捉えなおすという手法もあるだろう。その実例としては、東大日本史担当の加藤陽子さんが「100分de名著 フェミニズム」で、野枝の「不覚な違算」を取りあげたことがある。ではそれ以外の手法はどうなのか。
その捉えなおしというとき、みずからが対象者に入り込み、その対象者をみずからを表現する手段にする手法は、とるべきではない。そういう手法をとる「評伝」めいたものが多くなっているという。私はその一つを厳しく批判したことがある。
過去の人物が遺した言説を捉えなおすというとき、やはり方法論を考えなければならないだろうと思う。過去の人物が遺した言説を説明することはそんなにむつかしいことではない。それを現代の視点から捉えなおすというときには、やはり方法論が問われるのではないかと思う。