羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・中岡慎太郎1
中岡慎太郎
天保9年(1838)4月13日、安芸郡北川郷で大庄屋
中岡子伝次の長男として生れた。
7歳で野友村の島村策吾塾で、詩書・儒学・南学と広く知識
を吸収し、高知に出て武市半平太に剣術を学び、また
江戸に出て高島に砲術も学んだ。
文久元年(1861)、土佐勤皇党に加盟、翌2年五十人組
に参加して出国、以後諸藩の志士と交わり国事に奔走、
慎太郎と名を改めた。
3年9月、土佐勤皇党弾圧が始まり、武市半平太らが
投獄されると、慎太郎も危険を感じて脱藩、以後石川
清之介と変名、尊皇攘夷派の指導者として活躍した。
禁門の変では、遊撃隊に加わって負傷、長州に逃れて
11月には忠勇隊長となった。
この頃から、武力討伐の立場に立って
薩摩・長州の間を周旋した。
薩長連合の達成は慎太郎の努力に負うところが多い。
慶応3年(1867)には、岩倉具視と三条実美の提携を
実現し、一方で薩土倒幕密約の締結を実現、陸援隊を
組織して自ら隊長で副隊長に田中光顕をすえて、
倒幕挙兵に備えた。
しかし、大政奉還後同年11月15日、京都近江屋で
坂本龍馬と会談中、見廻り組に襲われて龍馬は即死、
慎太郎は重傷を負い、2日後 絶命した。
墓は京都霊山墓地にあり、遺髪が北側村に埋葬されてる。
除 幕: 昭和10年5月7日
題 字: 贈正四位 中岡慎太郎
説明文
所在地:室戸市室戸岬
天保9年4月、安芸郡北川村に生れる。
幕末の頃、天下の志士と交友し、陸援隊を組織し
その長とはり、海援隊長 坂本龍馬とともに、薩長連合
をはかり、明治維新の大業に尽力したが、慶応3年
11月15日夜、京都において刺客のため斃れた。
満30歳。
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