羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・ジョン万次郎(その1)
所在地 土佐清水市足摺岬
1827年1月1日(文政10年)、幡多郡中ノ浜村谷前
(土佐清水市中浜)の漁師の次男として生れる。
十四歳の時、宇佐浦(土佐市宇佐)から漁船に乗込み
出漁中暴風に巻き込まれて「鳥島」に漂着、143日間の
無人島生活の後、アメリカの捕鯨船に救出された。
先輩漁師4人はハワイに残り、万次郎はウィリアム・H・
ホイットフィールド船長に見込まれて、アメリカ本土の
フェアセブンで学校教育を受け、測量術や航海術を学ん
で、捕鯨船の乗組員となって世界の海を廻った。
1849年には、ゴールドラッシュのカリフォルニアに行き、
金山に入って資金を造り、上海行きの船に先輩漁師
2名と便乗し、1月沖縄に上陸して保護された。
8月には鹿児島に送られ、藩主島津斉彬に外国事情を説明
するなど優遇されたが、9月に長崎で獄舎に繋がれた。
1852年6月、土佐藩に引渡され、7月11日高知城下に
帰着したあと、10月故郷中ノ浜に帰るも間もなく藩に
呼び出され、定小者という軽格の武士の資格を与えられ
藩校教授館に出仕していた。
1853年6月ペリーが浦賀に来航したため、万次郎は幕府
に呼びされ、旗本普請役格の待遇を受けて外国奉行の
顧問役を務めた。
1860年にはかいりん丸の渡米に通訳として同行し、以後
鹿児島に迎えられ、教授を務めたり、数々の本を出版す
るなど、44歳で健康を害するまで、多方面で活躍した。
1898年(明治31年)没、72歳 墓は雑司ヶ谷霊園に
あり、中浜の大覚寺に空墓がある。
除 幕:昭和43年7月11日(高知城下 帰着を選んで)
総経費:2465万円(補助50万、他は寄付金)
銅像建設実行委員:吉田茂元総理、八田一郎、県知事等
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