羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その1)
梼原町出身の維新の志士を顕彰するため、町内には吉村
虎太郎の居住した庄屋跡と掛橋和泉邸が保存されて
おり、前田繁馬、中平龍之介、那須俊平・信吾の招魂碑
のほか、一ヵ所にまとめて建立した六志士の墓もある。
また吉村虎太郎らが脱藩した宮野々関には記念碑が
建てられている。
文久二年(1862年)澤村惣之丞とともに脱藩した
坂本龍馬も、3月25日夜那須俊平宅で一泊、翌日
那須俊平・信吾父子の案内で国境を越えたことが
明らかになっている。
郷土出身の六志士とゆかりのある坂本龍馬・澤村惣之丞
を加えて八人の群像建立計画が、橋本大二郎知事を
名誉会長にすすめられた。
銅像は特徴を持ったそれぞれの姿態で、自然石を
組み上げた台座に建てられている。
製作者の浜田氏は「ただ立っているだけでなく、未来に
向かって駆ける志士をイメージし、竜馬は旅たちへの
覚悟や決意をこめた姿にしました。」と語っている。
除 幕: 平成7年11月11日
題 字: 維新の門
字 : 橋本大二郎高知県知事
事業費: 1億373万5,000円(全額寄付)
幕末の風雲急を告げる文久二年春、坂本龍馬は勤皇郷
梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友
澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢みて脱藩した。
この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之介が
国境を越え、維新動乱の渦中に身を投じた。
また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。
それから年を経ること六年、明治維新は成り、
近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は
壮烈な死を遂げていた。
いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の
到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を駆け抜けた
男たちの決意が偲ばれる。
ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て
「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。
近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。
その郷土を誇りとする青年達の情熱と維新の里の発展を
希求する町内外の数多くの有志の熱き想いが、
この群像を建立する。
梼原町長 中越準一
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