「大師の霊験(真言宗伝道団・明治45年出版)」より趣意
伯爵東久世通禧様のご子息に「孝人」という方がおられた。(注1)。この子は4歳になっても口を利かず、聾唖者と診断されどこの名医も治しようがなかった。ここに「お元」という信心深い乳母がおり、麻布不動院(注2)の山科俊海僧都に相談したところ山科僧都(注3)は「自分も修法するが、そちらも毎日千遍不動真言を唱えてお参りせよ」と教えた。その後、お元は教えの通り、明治13年5月15日よりこの不動院に日参してご真言をあげた。満願の明治14年5月14日、若様の「孝人」氏を連れてお参りしたが、一向に聾唖の「孝人」氏は物も言わないので、乳母のお元はついに願いは聞き届けられなかったのかと胸に迫るものがあり泣き出してしまった。すると「孝人」氏が「乳母よ何が悲しいか」と聞く。乳母は誰の声かと辺りを見回したがそこで孝人氏が再度「乳母よなんで泣いているか」と尋ねた。乳母はこれを聞き驚天動地に大喜びし、「大師の加持力のおかげ、乳母の信心のお陰である」と山科僧都も喜んだ。伯爵家もおおいに喜び熱心な大師信者となった。
(注1)伯爵東久世通禧は貴族院副議長・枢密院副議長。
東久世の家系図はここです。この聾唖であったという「孝人」の名もあります。
(注2)【御府内第六番】五大山 不動院
(注3)山科俊海僧都は大安楽寺の開基でもあり、徳の高かった方と思われます。
2015年大安楽寺を福聚講で参拝したとき、中山ご住職が次のようなお話をしてくださっていました。角田さんの参拝記です。ここにあります。https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/655b62ecb79a7aa6dedaee641f744224
「明治初年、高野山の山科俊海大僧正が、弘法大師の教えを広く教化するため江戸に出て、巡行しているとき、この地にきて、不思議な燐火がたびたび浮かんでいるのを見たといいます。さらに、数多くの無告の諸霊,鬼哭愁々と何かを訴えるような魂魄の声を聞き、大慈大悲の徳を感得されずには、おられませんでした。さらに、寄る辺のない無縁の諸霊、ここで処刑された吉田松陰らの勤王の志士の霊を慰めなければならぬ。この、世にも恐ろしい地獄のような牢獄跡地と処刑場こそ、極楽浄土にしなければならずと、明治5年から、勧進し、同8年、堂宇を建立したのが、始まりです。このときの、堂宇の建設には、大倉財閥の大倉喜八郎、安田財閥の安田善次郎氏らが、浄財を寄進しました。大安楽寺の名は大倉、安田の頭文字をとったもの。このあと、諸堂、伽藍を整備、准別格本山になりました。しかし、大正12年の関東大震災で、壊滅。昭和3年、現在見られるような、規模の諸堂伽藍が整備された」