電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
あみだくじ読書メモ
本はいつでも複数冊を並行して読むことになってしまう。
読んでいる本の中で「ああ、このことについてもっと知りたいな」とか「ああ、この人の書いた本も読んでみたいな」と思うと忘れないうちにネットで調べて注文し、届いたら動機を見失わないうちにすぐ並行して読み始める。そうやって同時に読む本が増えていき、縦線が本で横線が興味の伝線経路というあみだくじ状になっている。
そうやって選んだ本なのでどの本もけっして無関係ではなく、どこかで興味の糸が繋がっているので、その時の気分にまかせてどの本を手にとっても、とんでもない世界への飛躍に戸惑うこともない。あちらこちらに散らばった本の間を行ったり来たりしながら一冊の本のように読んでいる。
郷里静岡にある大型書店が発行している郷土誌の編集委員を引き受けて十年近くになる。
この夏は担当ページに原稿を書くため、幕末明治維新を生きた土着のやくざ者について調べ物をした。手始めにいちばんまともそうな本から読み始め、興味が枝分かれして読みたい本が増えていき、封建時代通史、やくざの民俗学、農民一揆や民権運動、明治メディアや文学論、国家論から演歌史までと縦糸が増え、やはり20冊くらいのセットになってしまったものを、1冊の本のようにだらだら汗をかいて読みながらだらだらと原稿も書いた。
そういう読み方をしていてありがたいのは、ある人のわかりにくい文章でつっかかっても、別の人のわかりやすい文章でストンと腑に落ちたりすることだ。また、どの本にも書いてある定説であっても、複数の人によって別の語り口で語られると、微妙に違う陰影を帯びて立体化してくるのが面白い。部分としての「結論」ではなく全体としての「語り」の中にこそ、実は大切な筋が隠されているかもしれないということも学んだ。
「なるほど~」と感心した部分はパソコンやスマフォに打ち込んで抜き書きし、あとで検索できるよう読書メモにしているのだけれど、ここに来て記憶力に年相応の衰えが出てきたのか、読み返してみても「こんな文章のどこに感心したのだろう」と首をかしげることが増えてきた。抜き書きというのは「語り」の文脈から切り離して「断片」を引き写しているのだから無効になりがちなのも無理はない。
まるで酔っ払いのひとりごとを聞かされているように意味不明な読書メモばかり作っていても役に立たないので、最近は感心した箇所があったらどう感心したかを要約して、自分の言葉で書いておくようにしている。
読みながら学生に戻ったようなミニ感想文を書いているわけだけれど、これはこれでなかなか面白い。やっているうちにわかったのは、自分の言葉で他人に説明するように書けないことは、抜き書きメモを作って読み返してみたところでしょせん身につかないということだ。
著者になりかわって自分の言葉に言い換えて講釈を垂れてみると、著者が書いたものより自分が書いたものの方がはるかに読みやすくわかりやすい。蟹は甲羅に似せて穴を掘るというけれど、難しい術語を使わず分相応に平易な言葉を使って書けた読書ノートこそが自分の身の丈に合っているのだろう。
そして平易に書けないことについては、沈黙するしかない(ウィトゲンシュタイン風)ということにしている。
(Bricolage 222号 2013年10月)
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あみだくじ読書メモによる文章がこれからどのように登場してくるにか、ワクワクする気分です。