まちみちふうけい

四角い枠に切り取られた風景は一瞬のもの、そんな一瞬を追い求めてこれからも相棒と走り続ける・・・

No.1277 滋賀の旅2019年秋編(7)・・・最終目的地はどの駅に?

2020-02-18 09:06:43 | 旅行記
よろしくお願いします。


















滋賀の旅、昨年秋に走った記録は今回が最終回となります、前回は東近江市から近江八幡市へと入り中山道へ、その後は国道8号線を進んで野洲市へと入りました。そろそろ帰りの時間を気にしなければならないところ、どの駅で輪行をするかを考えながらの走りとなっています、できれば料金を抑えたいところですが果たしてどこまで行けるでしょうか・・・。
まずは野洲市の中心部、朝鮮人街道との分岐点を通り過ぎると旧街道の雰囲気が漂う町並へと差し掛かる。先を急ぎたいところなのにこの辺りでもお地蔵様があれば止まっては写真、小寺院があれば止まっては写真の繰り返し、しかも空模様もちょっと怪しくなってきた感じ、雨も心配になってきた。酒蔵が建つ所からJR東海道本線の下をくぐりぬけると県道が合流してきて交通量も多くなってくる、その合流点にも写真下2枚目にあるお堂があるが、車線の反対側にあり上り坂の途中、車も多くてここは写真を撮るだけでスルーするしかなかった、さあ、先を急ごう。




















守山市に入ると中山道は車の多い通りから外れるが、旧街道の方が県道151号線を名乗っている。吉身の町並もいい雰囲気、更に進んで行くと守山宿の中心部、緩やかにカーブした道が旧街道のいい雰囲気を醸し出している、この辺りでもお地蔵様や道標など見るものには飽きない。癪場町の終わる辺りにあるのが東門院↓↓↓

「延暦年間(782-805)、「比叡三千坊」といわれる比叡山の僧坊のひとつとして最澄<サイチョウ>(767-822)が開き、正確には「比叡山東門院守山寺」といいます。桓武天皇(737-806)から「比叡山を守る東門」としてこの名を賜り、寺領5村350石を賜ったという縁起が伝えられる寺院です。」

とのこと、仁王様が立つ立派な山門が印象的な寺院です。ああ~、とうとう雨が降りだしてきた、予報では雨なんて言ってたかな・・・などと思いながら先へと進んで行くとここでもよく取り上げたことがある焔魔堂交差点、ここを通り過ぎてすぐの所にあるのが十王寺、ちょっと雨がきつくなってきたのでここで雨宿りとするか。山門の小さな入口をくぐるとお堂が建っている、これが閻魔堂なのか、その横には看板が立っていて何体かの閻魔様の写真がかかげられているが怖い顔もあれば穏やかそうな表情のお顔もある、地獄で悪の裁きを降す閻魔様は怖いイメージがあるがこれを見るとイメージも変わってしまいそう。










草津市に入って雨も止んだ、まだ空は明るい、こうなりゃもう大津市まで行ってしまうか、と言うことで草津市の中心を抜けて朝に通った浜街道へと向かう。旧東海道を行くと遠回りになってしまうが近江大橋経由なら大津市もあっと言う間にたどり着ける、大津駅からなら奈良まで千円札1枚だけで帰ることができる、自分的には上出来な走りだ。空は曇っていて普段の夕暮れ時より少し薄暗く感じる中、近江大橋を渡って大津市へ、旧東海道へと入ってJR大津駅を目指す・・・はずがなぜか大津を通り過ぎて国道1号線の逢阪越えの上りを走っている。大津に着いたところでまだ時間に余裕があったし体力的にもまだ余裕はある、こうなりゃ一気に京都まで行ってしまおう、となったわけである。最終目的はJR宇治駅、逢阪を過ぎるとそこから宇治までは基本下りが続く所、山科を過ぎて外環へと入り、六地蔵からは旧街道を経由して宇治へとたどり着いた。空はもう真っ暗になっていて最後はちょっとヘトヘトになってしまったが、金欠が続く状態でここまで走れたことは自分でも「よくできました!」状態、宇治駅からは急ぐことなくゆっくりと座れる普通に乗ってそのままzzz・・・、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち



No.1276 お地蔵様で町巡り・・・川西町

2020-02-17 09:47:57 | まち
よろしくお願いします。




















お地蔵様や小寺院を巡って奈良盆地内の町をあちらこちらへと、前回は大和郡山市内から川西町へと向かう途中の所までお送りしました。今回はその続き、いよいよ川西町の町中へと入って行きます、お出迎えしてくれたのは温水さんに似たお地蔵様、なぜか流し目をしておられます。町の玄関口となる近鉄結崎駅前の踏切を過ぎて西へと向かうと町役場があり、その西側には環濠集落、その入口には説明の看板が立っていて、ここの環濠は地元の有力者の家を守るためのものとある。濠に沿って狭い道を入って行くとこれぞ環濠集落と言った風景、入り組んだ道に民家がひしめくように、その真ん中にある有力者の家が守りを固めるようにして建ち並んでいる。集落を抜けて寺川に架かる橋の方へと進んで行くと神社の向かい側に公民館があり、その左側には薬師堂が建っている。そのお堂の扉の前には紙が貼られていてそこにはそれぞれの仏様の真言が記されている、仏様にはそれぞれ真言がありお祀りする時にはその文言を唱えると言うのは前にもここで取り上げたことがありましたが、あまりに難しすぎて書いてる自分(一人称)もよく分かりませんでした、元々信心などない人間なのでここも軽くスルーしておきましょう。












寺川を渡るとすぐに信号がある交差点、左手側へ行くと三宅町方面へ、その道が太子道に当たる。右手側にある道は西へと向かっていて途中で二つに分かれる、右側へと入って行くと旧街道の雰囲気が漂う町並へと入って行く。自分(一人称)はこの道がずっと太子道だと思っていたが、前回お伝えした油崖地蔵が立つ所にある道が太子道だったと言うことで、この道は太子道ではないと思い知らされた。それでも旧街道の雰囲気は十分、近くには大きな古墳があり、道中ではいくつかのお地蔵様と出会うことも、狭い道だがコミュニティバスのバス停もあって、地元の人たちの生活に密着した道と言った感じ。やがてその道を抜けると唐院交差点、飛鳥川に架かる橋の所へとたどり着く、この交差点の一角にはお地蔵様に道標も、ここは川西、河合、三宅、広陵へと向かう道が分岐する交通の要所よもなる所だが、周辺は田園風景が広がるのどかな場所である。













唐院交差点からは河合町へと続く道へと入って行く、すぐに葛城川に架かる橋へとたどり着くがここを渡ると河合町へと入ってしまうので、ここは渡らずに集落の中の狭い道へと入って行く。川に沿った所にある集落には寺院や神社もあって環濠集落っぽい雰囲気を感じる、ただここまで巡ってきた町とは離れている場所にあり同じ川西町にあっても中心部からは離れていることもあって、ここはここ、と言う独自の集落のルールの中での生活があるように感じてしまう。この先大和郡山市や大和高田市にある環濠集落を巡った走りの記録をお伝えして行くこととなりますが、走ってみて感じたのはそんな集落の頑なそうな雰囲気、よそ者を受け付けない雰囲気を感じる所が多かった。奈良県は割と環濠集落を観光の目玉としていることもあって人の訪れを奨励している部分もあるのだが、その意識が地元の人たちとかけ離れているように感じてしまう。もちろん地元の人たちはそうではないよ~と言う人も多いと思うし、それは自分なりの勝手な思い込みかも知れないが、奈良県の中央部にある町がひとつに合併しないのもそこに原因があるのかも・・・。まあくまでも「意見には個人差が・・・」なので、そんなことなど思っていないという地元の方、お許しください、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。            まちみち


No.1275 備前の旅(2)・・・一路、姫路市へ

2020-02-13 08:16:48 | 旅行記
よろしくお願いします。

















昨年末の兵庫、岡山方面への旅、30日は出発時刻を遅らせて午後に明石に到着、そこから姫路へと向けて走っているところです。雨は上がったものの空は晴れる気配はなくむしろまた降って来そうな感じ、これは先を急がなければならないところなのですが、相変わらずお地蔵様や小寺院を見つけると相棒君を止めてはカメラを構えるの繰り返し、なかなか先へと進むことができません、まあ自分(一人称)が悪いんですけどね。まだこの辺りは明石市内、小さな寺院に佇むお地蔵様もいろいろな表情で旅人を迎えてくれています、何か霜降り明星の粗品のツッコミポーズをしているお地蔵様・・・今の漫才と言うとツッコミの方が重要な役割を占めていますね、この前のM1でもそんな感じでした、昔はボケの隣でうなづいているだけで、うなづきトリオと言うのもありましたね・・・が多いようです。その左手に持っているのは宝珠と言うもので、あらゆる願い事を叶える後利益のあるものと言うことです。














しかしここまで走っては止まりの繰り返しを続けていると暗くなるまでに姫路にたどり着くことができなさそう、と言うことでこの先はペースを上げて行くことにしよう。東二見を過ぎた所で国道250号線に合流してそこからはスピードアップ、加古川市を一気に通り過ぎて高砂市へ、ついこないだ来たばかりや、と思っていたがあれからもう1年以上も経っている。ここからはその時に走った道を逆向きに姫路まで進んで行くことに、時は経っていてもその時の記憶は十分に残っている、何とか暗くなるまでに姫路にたどり着きたい・・・って思っているのにお地蔵様を見つけると止まっては撮影、小寺院を見つけてはまた止まりの繰り返し、さっきまでの快走ペースがまたここに来て鈍り出した。しかもこの先では今回の走りの目的のひとつでもある万葉歌碑巡りが待ちかまえている、まずはその最初のポイントである曽根天満宮、ここも初詣の準備が進められている中の境内へとお邪魔です。その境内のど真ん中には池があり、写真上から6枚目、7枚目にあるように天然記念物の松が植えられている、万葉歌碑はその池の周りをズラリと囲むように立ち並んでいて、ざあ~っと見ただけでも200本近くはあるみたい、この辺りは万葉歌碑巡りの項でのお伝えとしておきましょう。















曽根を過ぎると国道はぐるりと曲がりこんで姫路市へと入る、空は相変わらずグレーなまんま、ちょっとポツポツ来ている感じも。山陽鉄道では普通しか停まらない的形駅だが、この辺りにも万葉歌碑があるのでまたまた経路を外れてそちらへと向かう。その歌碑があるのが上の写真にもある湊神社、山の斜面に沿うようにあり長い階段が見えているが・・・これも歌碑巡りの項でのお伝えとして、さあ、ここからはこの旅唯一の峠越え、山が近い所になると細かい雨が降ってきた、あまりにもゆっくりとし過ぎたので罰が当たったのかも。峠を越えるともう一気に姫路まで突っ走ることに、って思ったがまたまた見つけたお地蔵様、もう空も暗くなってきているのでこれが最後の写真撮影となるだろう。この先飾磨にも巡りたい万葉歌碑があったが、完全に暗くなったしサラサラした雨も降っている、今回はもうあきらめて次回の宿題としておこう。イオンがある交差点で進路を右へと変えて以前も走った国鉄播但線の廃線跡へ、やがて先の方に今夜の宿泊地姫路の町が見えてきた。道中、雨は大したことはなかったが出遅れのハンデを取り戻す分ちょっとはしゃぎ過ぎた走りとなってしまった、JR姫路駅の広い自由通路で相棒君をたたんで宿泊先のホテルへと向かう。さあ、明日は大晦日、今回のメインでもある美作、備前の旅の模様は次回へ続くと言うことで、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。            まちみち




No.1274 再訪、古市古墳群・・・ちょっと道草、お地蔵様巡り

2020-02-12 10:02:21 | まち
よろしくお願いします。

















昨年古市古墳群を再訪した時の記録をお送りしているところですが、今回はちょっとだけ道を外れてお地蔵様、小寺院を巡った記録をお送りしていきます。巡ったのは柏原市から藤井寺市にかけてのエリア、見慣れた風景の中にも見逃していた風景があるはずです、早速行ってみることとしましょう。
まずはこれまで訪れたことがなかった柏原市の玉手地区、近鉄国分駅の西側は小高い丘の上のニュータウン、玉手山古墳群巡りではアップダウンに苦労した所でした。古墳巡りを終えて急な坂を下りて行くと写真1枚目にある安冨寺の山門へとたどり着く、崖の下の少し薄暗い所にある参道を進んで行くと、その崖にはいくつかのポコポコと穴が開いている。少し不気味にも感じる穴は昔からあったもので人が入るために造られた感じだが、写真にある看板には実はこれはお墓だとある、まあ確かにあまり入りたくはないと思ってしまう穴である。参道は地蔵堂がある所から先はカーブになって上まで続いている、その辺りには地図サイトで古墳の印がついていたが参道は行き止まりになっていて結局古墳がどこにあるのかは分からなかった、この横穴が墓とあるからもしかしたら古墳なのかも知れないが確定はできないので、あきらめて寺院を後にすることに。



















石川に架かる登録有形文化財の橋を渡って藤井寺市へ、府道の北側にある允恭天皇陵とその陪塚を巡った後は近鉄土師ノ里駅の南にある町並へ。狭い道が網のように民家の中に展開していて、よそ者は受け付けないような雰囲気さえ感じてしまう、そんな町並の中にもお地蔵様、お堂の中で地域の人々の平和を見守ってくれているかのよう。その入り組んだ町並を抜けると東高野街道へと出て道明寺へとたどり着く、さっき通り過ぎた近鉄の駅名にある「土師」はこの地を支配していた土師氏から来ていて・・・土師氏は菅原道真の祖先と当たる・・・この寺院は土師氏の氏寺として建立された。

「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」

大宰府に左遷されることになった菅原道真はこの寺院に伯母の尼僧を訪ねて、上記の歌を詠んで別れを惜しんだというのは人形浄瑠璃や歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』でもよく知られている。菅原道真の死後、それまでは土師寺と呼ばれていたこの寺院は道明寺と改められたとのこと・・・あ、だからこの寺院の向かい側に道明寺天満宮があるわけなのか~、寺院と神社は一体化、その後の神仏分離を経て再び分離して、現在は東高野街道を境にして並ぶように位置している。











古墳巡りの方は本編でのお送りと言うことにして、こちらは藤井寺の町中でお地蔵様巡り、とは言っても写真にある地蔵堂からはなかなか話を膨らませることは難しい、昨年の秋に巡った記録だからどこの場所にあったのかもはっきり覚えていない状態です。写真下5枚にあるのは誉田八幡宮から西へ曲がった所にある旧街道、位置的には竹内街道ではなさそうな道は道幅も左程広くなくいい雰囲気の町並が続いている。民家が密集しているところだが、たまに家の並びが途切れた所からは古墳の緑の森もチラッと姿をのぞかせる。、さあ、古墳群の真ん中へとやって来たことだしそろそろ軌道修正、古墳巡りに戻るとしましょうか、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち


No.1273 謎の都、長岡京

2020-02-11 22:20:43 | 
よろしくお願いします。










京都方面へと走って長岡京市へと入りました、今回の走りの目的は長岡京都巡り、平城京と平安京の間でたった10年間しか機能しなかった都とはどんな所だったのでしょうか、古墳巡りもそこそこに早速行ってみることとしましょう。












やって来たのは乙訓寺、乙訓と言うと何年か前の秋季近畿大会で智辯学園が不覚をとったのが乙訓高やったなあ・・・っそんなイメージしかないんかと言われそうですが。その乙訓寺は上の写真にもあるように長岡京の北西部に位置している、創建の年は分からないが聖徳太子による建立と言うのが意外な感じ。写真2枚目にあるのは早良親王の供養塔、その下の写真にある説明板には、長岡京遷都後にあった事件が原因で、桓武天皇によって早良親王がここに幽閉されたとあります。この出来事が引き金になって都は10年後に平安京へと移されることになる、まあこの辺りの時代、クーデターや事件は頻繁に起きていて、その度に無念を被る人が出てくるわけですが、人間は本当に争いごとが好きって言うことですかね、怖いわ・・・。ちなみに今お送りしている歴代天皇都巡りは25代までお送りしてきましたが、26代継体天皇が一時期ここに山背弟国宮を置いていました、その辺りの話についてはまた近々都巡り本編でのお送りと言うことに・・・。










乙訓寺は三条西二坊の位置にあり、その北東側に大極殿があったことになるがその位置は長岡京市ではなく向日市に当たる。上の写真にあるのはその宮跡域の西側の丘陵にある古墳、カーブになった上り坂から団地の棟が建ち並ぶ所を曲がりこむようにして細い道を更に上って行くとたどり着くことができる。ここはもう向日市に入っていて、丘の上には古墳の他に向日神社もあって市の一大観光スポットとなっている。市は変わっているのにこの辺りでも乙訓と言う地名を見かける、と言うことでこの「乙訓」について調べてみると、元は京都市南部と向日市、長岡京市、大山崎町は乙訓郡に属していたとのこと。その後一部の地域が京都市に編入し、長岡京市、向日市が市制施行で郡から離脱し今は大山崎町だけが乙訓郡に属していることになる、要は長岡京があった長岡京市、向日市より先に「乙訓」があったと言うことである。ちなみにこの「otokuni」は元は「弟国」・・・さっきもこの表記が出てきていましたね・・・と記されていて、対して京都市の西部は「兄国」と呼ばれていたとのこと、しかしここまでほとんど長岡京について触れていませんねえ、そのことについては次のゾーンにて↓↓↓
















長岡宮跡は西国街道から東へ少し行った所、阪急京都線が通るすぐ横にその跡があったとされる場所があった、近くにある交差点名も写真1枚目にあるように大極殿交差点、そのまんまである。平城宮や藤原宮はその跡地は広大な原っぱと言う感じだがここは住宅地のど真ん中、大極殿となると広大な地域に巨大な建造物があったと思われるが、もちろん今となっては復元は無理な話である。この都があったのが784年から794年までのほんの10年間だけ、平城京から平安京への橋渡しのための都であったと言われても仕方ないところだが、都を今の京都の中心部へ移すことになったのは、当時の桓武天皇が無実の罪で陥れた早良親王の祟りを恐れたからという面もあった。桓武天皇が奈良からこの乙訓の地に都を移したのには水運に恵まれていたからだと言うことだが、ほんの10年後には都を更にその水運の先にある地域に移したことによって、京都はその後1000年以上栄えることとなった。水運には恵まれなかった奈良、いわば歴史的には敗北の地になってしまったのだが、たった10年しか都が置かれなかった場所にその要因があったとも言える。この時は表面的に巡っただけの長岡京、また機会を見つけて今度はもっと奥深い所を巡ってみようと考えています、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。         まちみち