まちみちふうけい

四角い枠に切り取られた風景は一瞬のもの、そんな一瞬を追い求めてこれからも相棒と走り続ける・・・

No.1784 都跡巡り・平城京八条西一坊界隈

2022-06-29 10:20:42 | 
よろしくお願いします。






















今回は都跡巡り、まあ自分(一人称)が住んでいるのが平城京のエリア内なので、近辺を走ればもうそこは1300年前は都だった所、過去の風景に思いを馳せながらチョイ巡りと行ってみましょう。そんなわけでやって来たのは八条町界隈、一番上の写真にある平城京の模型図では黄色の丸で囲った辺りです、丸の右側に小さく2つの塔が見えているのが大安寺、と言うことで自宅からはもうすぐにある場所です。佐保川と岩井川に挟まれた所には旧街道の雰囲気が漂う町並やお地蔵様、常夜灯があってなかなか趣深い感じもするのですが、集落を外れた所ではただいま大規模の工事中。将来はここを通るJR大和路線には新しい駅ができ、京奈和自動車道もやっとルートが決まったところでこの辺りもガラリと風景が変わってしまいそう。更にそれに合わせてリニア新幹線の駅も誘致するとか、でもこれについてはルートも決まってないしまあ難しいでしょう、正直言えばこんな所に新幹線の駅は要りません・・・。ちなみに町名は八条町ですがここを通っていたのは七条大路で、八条大路はこの町並から南へ500メートルほど行った辺り、国道24号線では杏交差点がある所でここを通っている道を西へと進んで行ってみることとしましょう。












進んでいるのは元は八条大路だった道、佐保川と秋篠川が合流する所で大和郡山市へと入り、JR大和路線の踏切を渡って県道9号線奈良口交差点へとやって来ました。ここも奈良市と大和郡山市の境界線となる所で、秋篠川が緩やかにカーブしていてそこに沿って通っている自転車道はもう庭と言った感じでいつも走っています。交差点の手前にあるのが九条公園、その入口に立っている看板には、ここが「富本銭」の出土地との案内が記されている。富本銭とは↓↓↓

「683年頃に日本でつくられたと推定される銭貨である。鋳造年代は708年に発行された和同開珎より古いとされる。この貨幣が実際に流通したのか、厭勝銭(えんしょうせん:まじない用に使われる銭)として使われたに留まったかについては学説が分かれている。」

とのことだが、手前を通っている八条大路には朱雀大路を挟んで東西に市があったので、普通に貨幣として流通していたと信じたいところ。そう言えばかなり前に都巡りでこの場所を取り上げた時に、貨幣が出土したと言うことは昔の誰かが落としたのかな・・・、と書いたことがありました。この前テレビを見ていたら開かずの金庫の扉を開けると、昔のお金がたくさん出てきたと言うのをやっていたが、価値がなくなったらほったらかしにされるのは昔からずっと変わらない、その価値に気づくのはいつも時間が経ってからです。



















奈良口交差点から自転車道へと入って秋篠川に架かる橋を渡った所には西市の船着き場がある、京の方から川伝いで届けられた物資がここで降ろされ市で売られていたと言うことか。物が流通し貨幣が流通して都が栄える・・・となるはずだったのに平城京はたったの70年しか栄えませんでした、結局はお金だけじゃなくそれを使う人の思惑が時代の盛衰を左右するんだよなあ~。そう言えば最後の話は逸れてしまいますが、BSで『ハゲタカ』再放送やってましたね、この前の月曜日にやっていたのが第3話、第4話、この辺りのエピソードが一番いいんだよなあ。もう15年前の作品なのに、柴田恭兵のセリフにはやっぱり泣かされてしまいました、自分(一人称)も人生の折り返しはとっくに過ぎていますが、残りの人生、自分に言い訳して生きて行くのは・・・やや、言い訳ばっかりやろうな、ここでも言い訳ばっかりですもんね。鷲津はやっぱり大森南朋やな、綾野剛とは格の違いを見せられた感じでした、まあ今回はお金の話をしたと言うことで、最後は『ハゲタカ』の話で締めとしておきましょう、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち








No.1772 都跡巡り・・・藤原京七条東二坊界隈

2022-06-07 09:14:31 | 
よろしくお願いします。





都跡巡りは平城京編は過去に2度ほどやりました、一方の藤原京については4月に藤原宮跡に菜の花を見に行った後で、その付近界隈を取り上げてお送りしました。今回はその藤原京編の2回目、宮跡の東側に当たる天香久山に近い部分を巡った記録をお送りしてみようと思います。タイトルは「七条東二坊界隈」としたのですが、これではイマイチどこなのかよくわからないですね~、と言うことでこれで分かりやすくなったかな~↓↓↓




上の条坊復元の地図では緑色の四角で囲んだ所、その下の模型図の写真では赤色の四角で囲んだ所が今回取り上げる場所となっています、それではまず天香久山に一番近い部分から巡って行くこととしましょう。
















藤原宮跡の東を通る道は東一坊と二坊の間道に当たる道、近鉄耳成駅から南へと続く道なので中ツ道~東二坊と思ってしまうが、中ツ道は橿原市に入った辺りで経路があやふやになってしまうので、結果的にこの道は中ツ道から1本ズレることになってしまう。藤原京文化財研究所の入口の前には昔の道路跡の表示がある、その辺りが本来の経路となっていたのだろうそれももう1300年も前のこと、今となっては言ってしまったもん勝ち、という気もしますがね~。この市道は橿原市と明日香村の中心部を結んでいて、奈良からだと中ツ道とつながっているので明日香村に行く時にはいつも利用する道だが、橿原市内は道が狭い上に車が多く走るには注意が必要な所。そこから一歩内側に入った所では、狭い道に時代も一歩戻ったかのような民家の並び、その中にはホントに時代が戻ってしまっている看板がたくさん掲げられている「おもちゃ館」と言う建物があった。何かめっさ興味をひかれるんだけど、ちょっと入りにくい雰囲気も、でも画像検索してみると結構いろいろと見ものがありそうなので、機会があれば一度行ってみようかと思っています。












市道が少し左にカーブした所で明日香村に入る、ここでも真っ直ぐ明日香には向かわずちょっと寄り道、右に曲がって小山と言う集落へと入る。少しだけ先へと進むと学生さんの賑やかな声が聞こえてくる、自分(一人称)がここにやって来たのは藤原京時代にあった紀寺跡だが、その隣と向かい側には庭球場があって学生さんがたくさん集まっているわけである。最寄りの駅は近鉄畝傍御陵前駅だが、そこからここまでは結構距離があり、本薬師寺前から飛鳥川へと至る道にもたくさんのジャージ姿の学生さんが歩いているのを見かける、まあ若いから歩くのもいい運動だし何とも思わないのだろう。ただ、その賑やかな雰囲気の中での観光と言うのも何とも気が引けるもので、紀寺跡の説明が書かれた看板を写真に撮っているだけでも、ちょっと怪しい人に見られかねない。ここには廃寺巡りの他に吉野川分水巡り、万葉歌碑巡りでもやって来ているが、万葉歌碑はいまだに見つけられないままになっている、庭球場の中を自転車で走るのは気が引けるし、ラケットを持ってないとここには来てはいけない雰囲気さえ感じられる、どうも自分(一人称)の苦手な場所です。紀寺については・・・条坊図では小山廃寺と記されている・・・、奈良市に紀寺と言う町があっていろいろと関連があるとのことですが、その辺りは前に藤原京廃寺巡りで触れているので、詳しいことに関しては今回はまあいいでしょう・・・。



















ちなみに先述した近鉄畝傍御陵前駅から紀寺跡へと至る道が、今回のタイトルにある七条大路にあたる道。紀寺跡から東へと進んでさっきの市道を越えると、またまたたくさんの人の姿が、今度は学生さんではなく家族連れの姿が多い。交差点から少し入った所にはミルク工房・・・↓↓↓

「牛乳から作る幻の乳製品「古代チーズ 飛鳥の蘇」が評判の工房。蘇とは古代飛鳥人が愛した風味豊かな乳製品だ。日本で数少ない自家ブランドの自家牧場で採れた牛乳を使用した商品を数多く製造販売している工房で、オリジナルアイスクリームやパン・チーズケーキなども人気が高い。飛鳥の蘇は限定販売されている。」

・・・があって、明日香村観光の名所となっているがもちろん自分(一人称)はそこには興味なし。前に廃寺巡りで訪れた日向寺前を通り過ぎて、東二坊大路に当たる道へと入って田園風景の中を進んで行くと、これも前に訪れたことのある大官大寺へとたどり着く。ここも前に取り上げたことがあるので詳しいことは置いといて、最後は条坊図の緑枠から少しだけ外れて九条大路へ。少しだけズレているが山田道・・・桜井市から天香久山の東側を通って明日香村へと至る現在の県道15号線・・・に通じているので県道15号線に相当しているのだろう。バスも通る広い道の正面には古墳かと思ってしまう緑の丘が見えている、それが雷丘、雷神が落っこちていて天皇の家臣に捕えられた場所と言うことで前に取り上げたことがありました。雷神が落ちていたと言えば、昔読んだ童話を思い出すのですが・・・って、この話もその時にしたのだったかな。これからはまた雷の季節がやって来ます、自分(一人称)にとっては何とも憂鬱な季節ですが、自然には逆らえませんからね、自身で気をつけるしかないですね、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち



No.1740 都跡巡り、藤原京・・・イエローガーデンの都

2022-04-06 10:03:17 | 
よろしくお願いします。




























久しぶりに藤原京の地図を引っ張り出してきたのですが、平城京、藤原京の都があった部分を町巡りした記録をお送りしていこうと思います。平城京については前に大安寺界隈をお送りしましたが、今回は藤原京の初回としてこの間行ってきた藤原宮跡の菜の花の風景をお送りしていきたいと思います。まずは一番上にある地図と模型図で確認ですが、宮と言うことはもちろん都の中心部、青色の四角や丸で囲ったところがそうなのですが、そないなことしないでも分かりますよね。上の写真は3月の最後の休日に菜の花を見に行ってきた時の写真、例年ならセンバツを耳に聞きながらやって来て、一面黄色の絨毯が敷き詰められた風景を見るのですが、この日は生憎の曇天、しかも天香久山側のエリアはまだ緑色が目立っていて咲き具合ももうあと一歩と言う感じでした。場所は宮の北側に当たる所で大和三山が花畑をバックにきれいに見渡せる、本当は自転車は立ち入り禁止・・・昨年まではそんなことなかったんだけどなあ、車も通る道だから・・・となっていたが、警備員さんが横向いている間に知らなかったことにしてチョイとお邪魔させてもらいました。池の畔にある桜はまだ五分咲き、日曜日の朝でまだ早い時間、人の出具合もまだまだこれからと言った感じだが、来週なら見頃となってたくさんの人が繰り出してくるだろう。と言うことで、特に予定もないことだし来週もう一度ここに訪れることに決めました、何か今シーズンはこんなのが多いですね、自分(一人称)の気が早いのか季節の進み具合が遅いのか・・・。











地図と模型図では黒い印をつけたのが本薬師寺跡、藤原宮跡とはいつもセットと言った感じで訪れる所です。2つの地点を結ぶ道が西一坊大路なのか~・・・今朝の『こころ旅』ではこの道を走っていた・・・、と地図を見て改めて思ったわけだが、自分(一人称)の手元には藤原京の道が現在のどの通りに符合するのかがはっきりわかる資料がないので、この大路はこの道なのかな~と予測するしかない。本薬師寺はホテイアオイの植栽でお馴染みな所、毎年初秋には寺院を囲む田んぼ一面に咲き誇る花を見ることができたのですが、ここ2年は感染症禍のために植栽が行われず、ずっと寂しい風景が続いています。でも周辺の田畑は夏にはハス、秋には彼岸花が咲いたりと見所もいっぱい、今回は寺院だけですが周辺の町並や風景についても追々お伝えしていこうと思っています。













センバツは大阪桐蔭が圧倒的な強さで優勝を決め、その翌日からは4月となりました。別に月が変わったからと言って風景が劇的に変わるわけではないのですが、再訪した藤原宮跡は菜の花は咲き誇り桜もほぼ満開となっていました。天気は先週と同じく曇り空でしたがたくさんの人がやって来ていて、思い思いに花のある風景を楽しんでいました、周囲の道は車が渋滞していて駐車場には大型の観光バスも入ってきている、以前は隠れた名所だった場所も、今はメジャーな観光地となってしまったようです。この時も自転車でやって来たのですが、警備員さんが御好意で道を通してくれました、でも人があまりにも多くて相棒君を止めるのも気が引けたので、畑から外れた場所で写真を撮るだけにとどめました。黄色とピンクのコラボレーション、暖かくなって人もこの光景に楽しみを求めてくるのでしょう、でも感染症禍はまだ収まる気配はなさそう、何やらディスタンスを守って十分に気を付けてほしいところです、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち







No.1714 平城京六条東三坊界隈

2022-02-14 10:35:30 | 
よろしくお願いします。























1月23日、この日は朝からどんよりと曇り昼頃からは雨が降る予報。前日京都巨椋池周辺を走ってきてこの日は自宅でまったりとしていたわけですが、表がやけに賑やか、そうか!今日は大安寺の笹酒祭りの日だった。雨が降らないうちに買い物へと近くのスーパーに行くと朝早くから駐車場には車が多い、それもそのはず、この日は笹酒祭りに来た人たちのために駐車場が解放されていた。近鉄、JR奈良駅からは山門前まで臨時のバスが運行され例年たくさんの人が訪れるのですが、昨今の感染症禍のこともあって境内の方はいろいろ規制もされているようです。買い物も終わって寒いし雨も降りそうだし、家でゆっくりまったりとテレビでもみていようか・・・と思ったのですが、表の雰囲気に押されるような感じで界隈を歩き回ることとしました。まあ祭りには行かないですけどね、お酒は飲めないし賑やかな場所は苦手ですからね、まあ町の雰囲気を感じながらチョイ歩きと行きましょう。















歩き回ったのは大安寺の旧境内と呼ばれている所、一番上の写真にある平城京の模型図の赤枠で囲んだところが大安寺。かなり広い区域が寺院となっているがそれはこの頃の話、都が奈良から離れてからは火災や落雷、地震や他寺の勢力にも押されて衰退していく一方。現在は小さな寺院とその南側に遺構が残るだけで、旧境内は古い町並が軒を連ねる住宅地となっている。今回はその町並をふらりと歩いて気ままに写真を撮ったわけだが・・・そう言えば前に怪我で仕事を休んでいた時にこんな感じで町並を写真を撮りながら歩いたなあ~、まあ嫌な思い出は忘れたいからその時の写真は使わないことにして、町並再発見を続けて行くとしよう。
















大安寺の山門前はたくさんの人で賑わっていた、警備員が出ていて交通整理をしているし、隣の駐車場では奈良交通の臨時バスが交代で出入りしている。まあ祭りには興味のない自分(一人称)はここを素通りして寺院の南側にある森の中へ、そこにあるのは元石清水八幡宮、かつては大安寺の鎮守宮だった神社は森の中にひっそりとたたずんでいる。森を抜けると寺院の遺構である東西の七重塔の台座が残っている所へと出る、塔があったのは一番上にある写真の模型図でも確認できる。昨今は当時の面影を取り戻すように大安寺もいろいろと手を尽くしているようだが、さすがにこの塔が再建されることはなさそう、もしできてしまうとここから若草山を見ることもできなくなってしまいますからね。そう言えば昨夜は若草山の山焼き、夕方に花火の音がバンバンと聞こえていたが夕方は寒いしたまに焦げた臭いもしてくるので見る気はしなかった。焼けた後の山肌はスッキリした感じ、でも例年は山焼きは1月の最終週じゃなかったな・・・と思って調べてみると、1月の第4土曜日に行われることになっているとか。今年は元日が土曜日だったからこの日程になったわけか、山焼き→大安寺笹酒祭りのコラボレーションはまたしばらくなさそうです。さあ、そろそろ雨が降ってきそう、早く家に戻ることにしよう、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち



No.1435 尾花谷川と興福寺

2020-09-29 10:05:42 | 
よろしくお願いします。






















今回は怪我で休んでいた時期の歩きでの記録です、骨折して1週目は地獄のようなギプスの期間、2週目にサポーターに変わったのですがL字に曲がる金具は入っていても最初は曲がらない様に逆向きに設定されました。それでも気分的には全然違いましたよ、足は曲げられないけどこの時からもういろいろと出歩いてましたからね。翌週にはL字に曲げられるように設定されていやいや快方へと向かう足掛かりとなった頃、それまでは近辺歩きばかりだったのを少し距離を伸ばして奈良町方面まで行きました。まず最初のゾーンで貼った写真は奈良ホテルの近く、1枚目の写真には尾花谷川とありますがこれはどうやら橋の跡であって、ここは暗渠になっていてすぐに小さな水路が姿を現してくる。この川はどこから流れてくるのか、地図を見てみると暗渠になっている部分から推測して多分春日大社辺りを流れている水路がそうなのだろうか、はっきりしたことは言えない状態です。尾花谷川は姿を現した後、奈良ホテルの横を過ぎて興福寺の近くへとたどり着くがまた姿を消してしまう、そこにあるのがホテル尾花、前に写真で紹介したこともあったのですが、昭和の時代にはここに映画館があって当時は凄く賑わっていたとのことでした。水路は猿沢池の横から姿を現して、その後は率川、菩提川の名で再び暗渠となって奈良市の中心部を流れていく、その辺りはついこないだの万葉歌碑巡りの項でもお送りしました。














そんなわけで猿沢池へとやって来ました、感染症禍、平日とあって人は少ないのですが、それでもこんな時期に奈良に来てくれる人がいるのは嬉しいことです。以前は奈良も外国人観光客に占領された感じで、聞こえてくる言葉も日本語ではないものばかり、それが感染症禍の影響で様相は一変してしまった。この間も奈良公園付近を走ってきましたが・・・その記録についてはまた別枠にての紹介としておきます・・・、外国人の姿はほとんど見かけなくなり話し声も日本語ばかり、殺伐とした時代になってしまいましたが、その代わりに奈良が再発見されたかのようで嬉しい誤算と言ったところではないでしょうか。もちろん、外国人観光客にも早く戻ってきてもらってほしい気持ちもありますよ、日本には奈良と言う地があって、こんな場所なんだよ、って世界の人に知ってほしいですからね。でも今しばらくは静かな観光地でもいいでしょう、まずはGoToで日本の人にもっと来てもらいたいところです。















さて、興福寺です、足の治り具合を確かめたいとのことで階段を上ってみる・・・、行けるやん、痛みもない、サポーターをしているので曲げ伸ばしはぎこちないが上りには問題はない、ただ下りる方はまだまだ不安、一段ずつ進めて行かなければ下りれない、仕事復帰はそれができるようになってからだ。興福寺についてはここでももう何度も取り上げているので細かい説明はいらないでしょう、奈良駅に着く前に町の真ん中に見える五重塔、それが興福寺だと分かってもらえれば十分です。最近は大河『麒麟がくる』でこの寺院が覚慶=足利義昭が預けられていた寺院として名前が出てきました、覚慶を一条院様と呼んでいたのが興福寺を示していたこととなります。足利義昭と言うとこれまで玉置浩二や和泉元彌などがネタキャラみたいな感じで演じていましたが、今回の滝藤賢一の足利義昭はなかなか良さそうですね。将軍職の時代の足利義昭を役者さんがおもしろおかしく演じていたからそのイメージがついてしまったが、今回はその職を継ぐまでの葛藤が描かれていて、なかなか興味深く見ています。足利義昭にとってはこれからが本当に正念場となるだけに、その辺りを滝藤賢一がどのように見せてくれるのかがまた楽しみなところです。あららら、話が逸れてしまいましたね、毎度毎度の僕の悪い癖・・・と言うことで今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち