まちみちふうけい

四角い枠に切り取られた風景は一瞬のもの、そんな一瞬を追い求めてこれからも相棒と走り続ける・・・

No.1436 大和郡山市の水路巡り(2)・・・大和郡山城外濠その1

2020-09-30 11:07:15 | まち
よろしくお願いします。




























今回はまずズラリと大和郡山城付近の写真を並べました、と言っても取り上げるのは城そのものではなくその城を守っていたお濠です。大阪夏の陣では大阪城を囲むお濠が埋められたことによって大阪城本丸が攻められることとなりました、防御の際にはならなくてはならないお濠、豊臣秀吉は濠を充実させた城をいくつも築きましたが、この大和郡山城はその弟である豊臣秀ながによる築城、ここもお濠の存在は大きかったように思われます。と言うことで、その大和郡山城を囲むお濠を巡ってみようと思います、お濠と言っても城の側だけではなく内濠、外濠とあるので2回に渡ってのお伝えとなります。
まずは天守台付近、本丸からは一番近い場所にある内濠、よくここでも城の石垣をバックにして近鉄電車が走る風景の写真を載せましたが、その線路と石垣の間あるのが内濠です。近鉄線の踏切を渡るとカーブになった上り坂、その右手側には城跡が見え、手前にはその城を守るかのように水がたっぷりと張られたお濠が控えている。ちなみに左手側にあるのは奈良県の名門郡山高校、最近は甲子園から遠のいている高校ですが、奈良の高校野球の歴史を支えてきたのは間違いないこと、今は奈良大付にその座を奪われた感じですが名門復活が待たれるところです。上り坂は天主台と郡山高校に挟まれた所を通っていて市街地から小高い所にある住宅地へと通じている、その住宅街に入る手前で内濠は終わりすぐに中濠に架かる橋へと差し掛かる。とりあえずお城に一番近い部分を回ってお堀の重要性は確認できた感じ、はまったら深そうやもんね、さすがに攻める方も一筋縄では行かなかっただろう。












近鉄とJR、両方の郡山駅にはさまれた所にある町並も、もうここでは何度も紹介してきました、またここか~、って思われてるかも知れませんが今回もやって来ました。まあ前回の水路巡りとダブってしまう部分もあるかも知れませんが、この界隈には小さな水路が縦に横にといくつも流れていて、そのひとつが前回紹介した紺屋川でした。写真1枚目、2枚目にある水路はJR郡山駅近くの集落の中の暗渠から姿を現してくるが、これが中濠か紺屋川へと通じる流れかは分からない。ここから近鉄郡山駅に近い柳町商店街を通り過ぎて民家が建ち並ぶ中へと入って行く、この界隈で出会った水路は郡山の中心街からら突然姿を現すような感じ、その側にはこの水路が中濠跡だったと言う碑が立っている。今となってはこの町並の中、どれが中濠だったのかを追うのはかなり難しそうですが、この小さな流れがさっき通った橋の下にある所へと通じているのだろう。柳町商店街へと戻り、その通りの一番南へとやって来る、ここは以前電話ボックスの金魚鉢があった所、その隣には銭湯があって手前には写真一番下にある碑が立っている。更にその向かい側には写真下2枚目にある碑があって、そのどちらにも外濠の文字が彫られている、と言うことは中濠のすぐそばに外濠があったと言うことになる。ここからはこの外濠の跡を追って、大和郡山の中心部を囲む町並を巡って行ってみようと思います。











と言うことでやって来たのは大和郡山城の西側の更に小高くなった辺り、県道9号線のバス通りを過ぎて、更に上りを進んで行った所が南郡山町界隈。写真1枚目、2枚目にある緩やかなカーブを過ぎると写真3枚目にある碑が立つ場所へとたどり着く、そこに刻まれているのは外濠の何とか池跡の文字、どうやらカーブの道の下は住宅地は元はお濠だったと言うことになるわけか。それにしてもここは城からは更に標高が高い所、もちろん昔は山だったわけだから、城の後ろにある山の方も守りを固めていたと言うことになる。ここから先にあるのが郡山中学校、その先は小高い所に立つニュータウンになっているが、学校に沿う道を進んで行くと写真一番下にある碑が立つ場所へとたどり着く、その手前にある池が碑にある尼ケ池で、ここも元は外濠の一部だったのだろう。ちなみにこの場所の一番近くにある奈良交通のバス停が大阪口バス停、その大阪があの大坂と言うことになるのかは分からないが、もしそうだとしたら外濠がここにあるわけだからここが郡山城へと至る大阪からの入口があった場所と言うことになる。まあ何一つ確証があるわけではないただの素人の思い付きですが、そんな想像をしながら、戦国時代の風景を思い浮かべながらの外濠巡り、400年以上前の痕跡を見ることができるのかどうかは次回へ続くと言うことで、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち








No.1435 尾花谷川と興福寺

2020-09-29 10:05:42 | 
よろしくお願いします。






















今回は怪我で休んでいた時期の歩きでの記録です、骨折して1週目は地獄のようなギプスの期間、2週目にサポーターに変わったのですがL字に曲がる金具は入っていても最初は曲がらない様に逆向きに設定されました。それでも気分的には全然違いましたよ、足は曲げられないけどこの時からもういろいろと出歩いてましたからね。翌週にはL字に曲げられるように設定されていやいや快方へと向かう足掛かりとなった頃、それまでは近辺歩きばかりだったのを少し距離を伸ばして奈良町方面まで行きました。まず最初のゾーンで貼った写真は奈良ホテルの近く、1枚目の写真には尾花谷川とありますがこれはどうやら橋の跡であって、ここは暗渠になっていてすぐに小さな水路が姿を現してくる。この川はどこから流れてくるのか、地図を見てみると暗渠になっている部分から推測して多分春日大社辺りを流れている水路がそうなのだろうか、はっきりしたことは言えない状態です。尾花谷川は姿を現した後、奈良ホテルの横を過ぎて興福寺の近くへとたどり着くがまた姿を消してしまう、そこにあるのがホテル尾花、前に写真で紹介したこともあったのですが、昭和の時代にはここに映画館があって当時は凄く賑わっていたとのことでした。水路は猿沢池の横から姿を現して、その後は率川、菩提川の名で再び暗渠となって奈良市の中心部を流れていく、その辺りはついこないだの万葉歌碑巡りの項でもお送りしました。














そんなわけで猿沢池へとやって来ました、感染症禍、平日とあって人は少ないのですが、それでもこんな時期に奈良に来てくれる人がいるのは嬉しいことです。以前は奈良も外国人観光客に占領された感じで、聞こえてくる言葉も日本語ではないものばかり、それが感染症禍の影響で様相は一変してしまった。この間も奈良公園付近を走ってきましたが・・・その記録についてはまた別枠にての紹介としておきます・・・、外国人の姿はほとんど見かけなくなり話し声も日本語ばかり、殺伐とした時代になってしまいましたが、その代わりに奈良が再発見されたかのようで嬉しい誤算と言ったところではないでしょうか。もちろん、外国人観光客にも早く戻ってきてもらってほしい気持ちもありますよ、日本には奈良と言う地があって、こんな場所なんだよ、って世界の人に知ってほしいですからね。でも今しばらくは静かな観光地でもいいでしょう、まずはGoToで日本の人にもっと来てもらいたいところです。















さて、興福寺です、足の治り具合を確かめたいとのことで階段を上ってみる・・・、行けるやん、痛みもない、サポーターをしているので曲げ伸ばしはぎこちないが上りには問題はない、ただ下りる方はまだまだ不安、一段ずつ進めて行かなければ下りれない、仕事復帰はそれができるようになってからだ。興福寺についてはここでももう何度も取り上げているので細かい説明はいらないでしょう、奈良駅に着く前に町の真ん中に見える五重塔、それが興福寺だと分かってもらえれば十分です。最近は大河『麒麟がくる』でこの寺院が覚慶=足利義昭が預けられていた寺院として名前が出てきました、覚慶を一条院様と呼んでいたのが興福寺を示していたこととなります。足利義昭と言うとこれまで玉置浩二や和泉元彌などがネタキャラみたいな感じで演じていましたが、今回の滝藤賢一の足利義昭はなかなか良さそうですね。将軍職の時代の足利義昭を役者さんがおもしろおかしく演じていたからそのイメージがついてしまったが、今回はその職を継ぐまでの葛藤が描かれていて、なかなか興味深く見ています。足利義昭にとってはこれからが本当に正念場となるだけに、その辺りを滝藤賢一がどのように見せてくれるのかがまた楽しみなところです。あららら、話が逸れてしまいましたね、毎度毎度の僕の悪い癖・・・と言うことで今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち



No.1434 Go To 京都(1)

2020-09-28 10:18:25 | 旅行記
よろしくお願いします。

























Go Toシリーズの京都編、京都市の中心部へと入るのは実は今年初めてのこと、山科や伏見、向日市には来ていたんですけどねえ、中心部となると感染症禍もあって足が遠のいてしまっていたんですよね。そんなわけで木津川自転車道、国道24号線、伏見街道と経由して京都市の中心部へ、東福寺から東大路通へと入り東山五条へ。ニュースでもよく報じられていたが、やっぱり感染症禍と言うことで観光客も少ない感じ、いつもは人や車の通りであふれている東山五条の交差点もひっそりとしていた。今回もどこへ行こうかと目的も決めずの気ままな走り、まずは定番コースの八坂の五重塔へ、塔へ向かう上り坂の石畳は無理はしないで相棒君を押し歩いて行く。人の姿は普通にあるもののいつもの京都の賑やかさは感じられない、奈良も深刻な状況だと思うが京都はそれ以上な感じだ。でも人が少ない分相棒君との走りはスイスイと進んで行ける、いつもならたくさんの人通りでうざったく感じる花見小路通も写真にあるようにひっそりとしている、拍子抜けもいいところだと言った感じもするが、ここは外国人のマナーの悪さでよく取り上げる所だから、これくらいがちょうどいいかも知れない。
















祇園界隈を通り過ぎて知恩院へと向かう、東大路通から坂を上って行くと真正面に大きな山門が見えてくる・・・がここも様子が変だ、いつもはたくさんの観光バスが停まっている駐車場がガラ~ンとしている。久しぶりに境内へ上ってみようと思ったが、そこらに自転車を止めると目立ってしまう、近くにいたタクシーの運転手さんに聞くとこの辺りには駐輪場は全くないとのこと、久しぶりに来てマナー違反はしたくないのでここは境内に入るのはあきらめて先へ進むことに、それにしても京都は相変わらず自転車には不親切な町だ。知恩院の側を流れる川沿いを進んで行って三条通へと向かう、時期は8月の終わりだがこの日もとんでもない暑さが続いていた頃、涼し気な川の水の流れがちょっと毒気ついてしまった気持ちに落ち着きを差し込んでくれる。三条通を過ぎて平安神宮へとたどり着く、ここの大きな鳥居にはいつも圧倒されてしまう、何でもかんでも大きなものばかり作っていいもんではないだろうと言いたいところだが、三輪の方がもっと大きなはずだからそのことは言えないか。神宮の脇を通り過ぎて行くと琵琶湖疎水の水路を見つけた、ここはいつか走りのテーマにしたいと考えていた所、次回への宿題としておこう。











その後は京都市内を北へと進んで、叡山電鉄の映画『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』のロケ地となった宝ヶ池駅へとたどり着く。小松菜奈のサインが記されたベンチはあるかな~、って思ったらなくなってるやないか~、撤去されてしまったのかな、この辺りの記録についてはまた別枠でお送りしようと考えています。さて、走りの方はせっかく京都に来たのだから久しぶりに嵐山へでも行ってみようかと、しかしここから嵐山となると結構遠い、まずは北山通を西へと進んで行くことに。写真2枚目~4枚目にある山は文字の後が見えているから送り火が行われる山か、しかし今年の送り火は中途半端やったな~、テレビでやってたけど大文字なんかただの矢印にしか見えなかったもんな、あれならいたずらでも点火された大文字の方が余程らしかったんじゃない。でも伝統と格式を重んじる京都ではそれを言うわけにはいかないんですよね、その辺りの敷居の高さが自分(一人称)はどうも苦手なんだが・・・。まあ一言さんお断りのお店に行くわけではないから今まで通り、気ままに走らせてもらうこととしておきます、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち


No.1433 過去旅より・・・夕刻の鞆の浦

2020-09-27 19:55:06 | 瀬戸内
よろしくお願いします。















今回は過去旅編、2018年11月に鞆の浦を訪れた時の写真を貼り付けました。この旅は日帰りと言うことでしたが、途中にフェリーを挟んでいるので前半の尾道では相棒君を休ませて徒歩で散策、後半の鞆の浦は瀬戸の夕景と帰りの電車の時間を気にしながらのせわしない走りとなってしまいました、・・・って始めようと思ったのですがその前に。前回もちょっとだけ明日香のことを書きましたが、奈良県が朝ドラの舞台となったのがもう20年前のこと、タイトルが『あすか』で菓子作り職人の女性が主人公でした。その主人公は一度店がつぶれて菓子作りから離れるのですが、40歳近くになってもう一度情熱を取り戻すんですね、なのに演じていた女優さんは40になって・・・、常に女優陣の先頭を走っていたイメージのあった人だけに、何があったんでしょうかね・・・。話は逸れてしまいましたが鞆の浦です、この時は向島からフェリーに乗って常石へとたどり着き、峠を越えて現地へと入りました。時間的にはもう夕刻で陽が沈むのももう間もなくの頃、これはいい風景が四角い枠に収められるかもと思いながらも、駈け足でレトロな町並を巡りました。
















今回は主に海が見える風景の写真を取り上げました、これまで夕刻に鞆の浦に来たことがなかったので、この時はまあ自分(一人称)がよく言う泣ける風景が見ることができたと思います。それにしてもこの時間でもたくさんの人が訪れているのが写真でもお分かりになると思います。大きな常夜燈が立つ港、古い民家が建ち並ぶ狭い通り、旧街道の雰囲気が漂う町並、どこも人でいっぱい、車もいっぱい、自分(一人称)もそうでしたが、この時間を狙って訪れた人も多いのでしょう。太陽は山影、島影に隠れてしまうがちょっとだけ移動するとまた姿を現してくれる、どこに沈んで行くのかは予測はつかないが、そのおかげで空は暗くなることはない。常に明るみを残してくれていて、短い時間だったが鞆の浦界隈を隅から隅まで写真に収めることができました。





















でもその時間もいつかは終わってしまいます、日は完全に暮れてしまって空は残照を残すのみとなってしまった。そろそろ帰りの時間も気にしなければならなくなってきた、と言ってもここから福山駅までは約12キロ、途中にはちいさな峠越えもある。旅の終わりはやっぱり寂しいもの、右手側に見えるまだわずかだけ明るさが残る海に別れを告げて、ひとときの楽しい時間から現実へと戻る道へと相棒君を走らせる。福山市街地に入った頃には空は完全に暗くなってしまって、この先は車やバスが多く走る道を気をつけて走らなければならない。やがて福山駅へと到着、相棒君を寝床へとつかせて帰りの新幹線・・・ああ~、帰りの時間は調べてなかったんだった。旅の終わりもせわしないもの、待っているのは明日の現実、とりあえずみどりの窓口に並ぶこととしよう、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち


No.1432 万葉歌碑巡り・・・奈良市補完編

2020-09-26 23:23:44 | 万葉
よろしくお願いします。











今回は万葉歌碑巡り、奈良市補完編と言うことでまだ巡っていなかった所、これまで紹介できなかった所をお送りしていきたいと思います。まずは奈良町から、やすらぎの道沿いにある率川神社にある歌碑から↓↓↓

「はねかづら 今する妹を うら若み いざ率川の 音のさやけさ」(作者不詳・巻7-1112)

率川は「isakawa」、奈良公園から猿沢池の横を通り過ぎてやがては佐保川へと注ぐ水路についてはここで菩提川と題してお送りしたことがあります。奈良市の中心部を暗渠として流れる川も昔はサラサラとした流れだったのだろう、そのほとりに立つ若い女性を率川の流れに例えて「いざ、いざ!」と誘おうとしている歌だとのこと、作者不詳とあるがもしかしたら朝ドラ『エール』の久志みたいな人物が作者だったのかも知れない。

「白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我れし知れらば 知らずともよ」(元興寺の僧・巻6-1018)

写真2枚目にある歌碑は奈良町資料館にあるもの、作者が元興寺の僧とのことで同じ歌の歌碑が元興寺にもあります。何かねえ~、「知」の文字がやたらと並んで分かりにくい感じがするが、要はこの作者の僧は自分は博識なのにそれを人に知られず軽んじられていたので拗ねている気持ちを歌ったものなんだって。分かるわ~、その気持ちィ・・・って思っている人もたくさんいるかも、万葉集には恋の歌以外にもこんなユーモアや皮肉にあふれた歌もあったんですね。




























奈良縣護国神社・万葉歌碑


奈良市中心部から少し外れたところにある護国神社、ここにはたくさんの歌碑・・・と言うにはちょっとお粗末な、かまぼこ板に筆で書かれたような歌碑がたくさん並んでいます。まあ全部を紹介していると日も暮れてしまうので、ここではとりあえず並べた写真とフォトチャンネルにての紹介としておきます。護国神社って全国にあってその目的は国に殉じた人たちの霊を祀っているとのことですが、戦争を思わせるだけあってどうも自分(一人称)はこのような場所は苦手です。しかし「海ゆかば」のように、万葉集にある歌が戦争に向かう人たちの支えになったこともあるだけに、決して無関係なわけではないんですよね。万葉集にはそう言った人の思想を暗い部分に左右させる部分もあったと言うことでしょうが、過ちを招く方面に用いられるのは勘弁願いところです。













「故郷の、飛鳥はあれど、あをによし、奈良の明日香を、見らくしよしも」(大伴坂上郎女・巻6-992)

写真1枚目にあるのは高畑町界隈で見つけたかまぼこ板・・・失礼、これも歌碑と言うことで揶揄した書き方はやめておきましょう、その歌碑に書かれていた歌です。「奈良の明日香」と言うのは元興寺を示していて、明日香の地から奈良へと移ってきた大伴坂上郎女が明日香を思いながらも、「見らくしよし」と奈良の素晴らしさも歌ってくれている。ただ奈良の明日香と呼ばれる辺りは元の飛鳥に未練ありありと言う気持ちも現れている、その思いが現在にもつながっているかのように、元興寺界隈では飛鳥と言う地名やその名のついた施設もいろいろと見られます。

今回最後の訪れたのは平城京羅城門のあった場所、今は佐保川が流れていてその横には工場が建ち並び、写真にある歌碑が立つ公園は橋の下でまるで存在を忘れられたかのような感じ。いくつかある歌碑の中で万葉集にあるのは写真5枚目にある歌碑↓↓↓

「あをによし、奈良の都は、咲く花の、にほふがごとく、今盛りなり」(小野老・巻3-328)

奈良の美しさがこの歌に詰められているかのような感じですが、この歌は作者が大宰府の地で奈良を思って詠んだとのことです。奈良と九州、現在のように新幹線でひとっ飛びと言う時代ではない頃でも、遠く離れた地をこんなに端的に詠んでいる辺りは、奈良に対する思いも格別だったんでしょうね。でも奈良が美しかった時代は長く続かなかったんですよね、人ひとり分の人生よりも短かったわけだから・・・、どことなく儚さを感じてしまう歌って気もします。今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました・・・・・・・・・・・まちみち