まちみちふうけい

四角い枠に切り取られた風景は一瞬のもの、そんな一瞬を追い求めてこれからも相棒と走り続ける・・・

No.1208 お地蔵様で道巡り・下ツ道編(1)

2019-10-16 10:35:09 | みち
おはようございます。











このところ橿原市方面へよく走りに行っているのですがそのルートの一つが下ツ道、もうここでも何度もお伝えしたことがある道ですが、今回は2回に渡ってお地蔵様巡りで下ツ道を進んで行ってみようと思います。まずはついこないだお伝えしたばかりの場所、稗田環濠集落です、防御のために造られた集落で見かけたお地蔵様は1体だけ、民家が密集して道が入り組んだ中に町に守られるように立っていました。この集落を抜けて下ツ道へと入っていきます、そのスタート地点となる場所には写真一番下にある下ツ道を説明する看板、そこにはこの道が壬申の乱の頃にはもう存在していて、しかもこの辺りも戦況が緊迫していたとあります。



















大和郡山市には上記の稗田以外にも環濠集落がいくつかあるのですが、下ツ道付近にあるのが若槻地区と番条地区の二つの集落。若槻環濠集落は稗田環濠の東側の国道24号線に近い所、お目当てのお地蔵様はその入口付近で屋根に囲われているものと、野ざらしになった双体のものと2つ見かけました。集落には入ったかと思ったら2分も経たずに抜けてしまう、小さな民家の集まりにはよそ者を受け付けない雰囲気も漂っていて、環濠集落の説明の看板は立っているものの観光をPRしているわけではない、ここはスッと抜けて行くことにしよう。下ツ道に戻るとすぐに番条の集落へと差し掛かる、ここは割と規模が大きく民家もたくさん集まっている、集落の中には神社や古ぼけた寺院、奈良では知られた戦国武将の名がつけられた酒造会社があり、町を突っ切る道にはコミュニティバスのバス停もある。この前ここで正暦寺を訪れた話をお伝えしましたが、その時にも紹介した菩提仙川はこの町で佐保川へと合流している、ここからはちょっととあるページの文章を拝借↓↓↓

「鎌倉時代から室町時代にかけて、鉄製農具が普及しました。堤防を築いて河川を改修し、平野が開墾されました。番条は、大和川の上流にあたる佐保川に東から菩提仙川が流れ込む地点にあたり、日本最大の商業貿易都市・堺と大和北部を結ぶ河川交通の港として築かれたものと推測されます。交通の要衝は争奪の対象となります。1459年に番条氏は破れ、筒井氏立っているの配下に入ります。筒井氏の拠点・筒井と番条は佐保川を境に接しています。」

と言うことで、なるほど、そう考えれば佐保川の西にある筒井の町の栄え具合と比べると確かにこちらは寂びれた感じがしているわけです。番条の町は半分を巡っただけでそこではお地蔵様と出会うことはできず、気を取り直して下ツ道を南へと進んで行くこととしましょう。












郡山下ツ道JCTを通り過ぎて京奈和道の地上部の横断歩道を渡ると二階堂の町並へとたどり着く、旧街道の雰囲気が漂う町並を進んで行くと写真上から6枚目にある大きな地蔵堂前、そのそばには小さな五輪塔と小さなお地蔵様がひっそりと立っている。ところでこの地蔵堂の説明が書かれた看板を見ると、そこには「膳夫寺跡」の文字がある、「zenfudera」・・・違う違う、「kashiwadedera」です、この間藤原京廃寺巡りで紹介した寺院でしたが、この寺院名をなぜこの地で・・・?写真7枚目にある看板にある「芹を摘んでいた少女」は母親の看病で聖徳太子の行幸を見送ることができないと話したところ、そのことに感動した聖徳太子は少女に歌を贈ったとのこと、その歌に対しての少女の返歌が素晴らしかったとのことで感心した聖徳太子はその少女を妃にしたと言うことです。その妃が膳夫姫、膳夫寺はその母親のために建てたお寺と言うことでしたが、藤原京にあった寺院はその後廃れてこの地に移設された、とあります。別に狙ったわけではなくたまたま走っていてこのつながりを見つけたわけですが、これも拙いとは言え日頃の勉強の賜物とでも言ったところでしょうか、なるほど、二階堂と言う地名もこのお堂から来ているわけか~、勉強になるなあ~。と言うことでお地蔵様巡りと言うには少し物足りない内容になってしまいましたが、下ツ道、橿原市への道はまだまだ続きます、その模様については次回と言うことで、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。               まちみち