とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

食歴クロノロジー(2) 賞味期限切れ:生卵2日前、ベーコン十ヶ月前

2012-01-12 19:51:10 | 最近の出来事
何故かくも賞味期限切れの食材が多種多様に我が家にあるのか。
先日、冷蔵庫の棚卸を行った際に食べられそうなものと完全に食べられないと判断されたものを二つに仕分けし、食べられないと判断されたものについては買った後に消費しきれなかった無駄と捨ててしまう罪悪感を感じながら破棄を行った。
ここまで云々思うのであれば、買わなければ良いのに、あるいは食べれば良いのにと世間では思うのかもしれないが、まず私が計画的に食材を購入できない為、日持ちが良いものを買ってしまって、そこから先はきままに料理してしまうからその食材使用期限に則した進捗を達成できない事が原因に挙げられる。これは深く反省しなければならない。
次に悪くなった食材を胃に入れて体調が悪くなってしまった事もあるので、顔色が悪くなるのであれば、捨ててしまわなければならないという判断が働くのである。

だが、それでもまだこれは食べられるのではないか、と思われた食材は賞味期限が切れても仕分けの際に生き残り、冷蔵庫の中に居を構えたものがいる。

1/7は賞味期限が1日切れたラーメンを食べた。
昨日1/11は賞味期限がこれまた1日食べた牛肉こまぎれをキャベツと炒め、肉野菜炒めとして食べた。
いずれも現在の所、問題は無い。
また先日も記載したが、半年以上賞味期限が切れたヨーグルトについても問題は無かった。

さて今回であるが、生卵とベーコンである。
生卵の方は[12.1.10]、
ベーコンは[11.03.18 /B]
と記載されており、生卵は賞味期限二日過ぎ、ベーコンは賞味期限が約10ヶ月弱過ぎた代物だ。これを今、ベーコンエッグとして焼いている。

結果については後日記載したい。

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食歴クロノロジー

2012-01-05 22:30:49 | 最近の出来事
普段気にもせず食事を取ると、どの日に何の食事をしたか忘れてしまう。
ので、少し備忘的な意味でちょこっとここに書いておく。

今日は普通のご飯、味噌汁、肉野菜炒めの他、ヨーグルトを食べた。
ここまでは普通だがこのヨーグルトが大変のクセモノだ。

貧乏性である私は断捨離などという言葉の応援が無ければ物が捨てられない性格で(そもそも「物が捨てられない」などという言葉は物を大切にする精神からして正しいのか? )、御多分に漏れず食品もタンスのこやしならぬ冷蔵庫のこやしと化していたのだが、本日その内容の棚卸を行った。出るわ出るわ賞味期限切れの食品の山。物を大切にする精神云々などと書いた矢先にこれである。
こうなるのが勿体と思うのであれば買わなければ良かった・・・とひどい後悔をするが、仕分け対象となったその先にヨーグルトを発見した。明治ブルガリアヨーグルトとラベルが光を放つ。

賞味期限を確認する。

「11. 5.18/Kナ QP2」

「Kナ QP2」が何を指し示すのかはよく分からないが、とにかく数字が意味しているものは賞味期限と分かる。しかもそれは本日2012/1/5時点からすると実に半年以上前のものだ。

私はこれを捨てようとしたが、「まだ食べられるのではないか? 」と危険な疑念を胸の内に持つに到った。
もともとヨーグルトはヨーグルトを構成する菌を選菌して作られた発酵食品なのであって、それは人体に悪影響を及ぼす雑菌による腐敗とは異なるベクトルの性質である。ならばこれは食べられるのではないか? と疑問が渦巻き、「食べられる」「食べられない」と理性と本能が押し問答している内に食欲が勝ってしまった。

世界情勢を鑑みるに、最大の武力と最高の知力を持つアメリカが現在のヘゲモニーを維持しているのと同様、最大の食欲とこじつけ的生半可知識が融合した結果、私という人間を「ヨーグルトを食す」という正義の行為へと駆り立てたのである。

かくて、現在は450gと記載されている賞味期限切れのヨーグルトの半分以上は私の胃の中へ移動した。20分前の事だ。まだ私の生体に異常反応は無い。

かつてイラクでの湾岸戦争で指揮を取ったコリン・パウエル氏は、その自著「マイアメリカンジャーニー」の中で「結論が出てから作戦を開始したのでは遅すぎる」との言葉を残している。
情報の収集と作戦の遂行は大抵同時に行われる事が多いが、情報が1割しか無い状態で作戦を開始するのは無謀だが、8-9割情報が集まった所で作戦開始をするのも、これまた遅すぎる。4-7割の辺りで作戦遂行を開始するのが経験上良いと語っている。

無論私もある程度まで情報収集を行った上で、この「賞味期限が半年すぎたヨーグルトを食べても大丈夫か否か」という情報を完全に収集できぬまま、一種の冒険を試みたのであった。

先日賞味期限が2年前の乾燥昆布と賞味期限が1年前の乾燥大豆を発見し、五目豆を作ろうとしたのであるが、6時間ほど水に晒して戻した結果、かなり怪しげな臭いを発していたので泣く泣く捨てた。本当に勿体無かった。
私の記憶が正しければ、あの乾燥コンブは高いやつだった。
高いが故に使い惜しみをし続けた結果、忘却し、記憶の彼方においやってしまっていたのだ。
麗しの乾燥昆布よ、罪なる私を許してくれ・・・などと思いながら捨てたというのは、実に嘘であるが、作った人の手間を考えれば本当に気が滅入った。
人の努力を無駄にしたのかと。
それはさておきその作りかけの五目豆はヤバイ臭いを発していたが、このヨーグルトに関しては大丈夫そうである。

臭いは通常のものと変わらない。色も白一色。見た目上は、雑菌などの繁殖による腐敗は進んでいない。半年も経っているので乳清との分離が進んでいるかと思いきや、わずかに分離しているのみで、まったく乳清が出ていなかった事に驚いた。
食感・味・喉越しはこれもまた通常のヨーグルトと変わらない。

私が無事であれば、なおかつ私がこの話しを覚えていれば続きは報告したい。

[2011/1/7]追記。
無事です。体調も悪くはなっておりません。

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音楽は何故価値があるのか

2012-01-04 11:51:02 | 哲学・社会
稚拙な意見かもしれないが、備忘として記載したい。
急に記載したものなので読みにくかったり、あるいは文章的な不備があるかもしれないが、ご容赦頂きたい。

本来、音楽とは日常生活には必須ではない要素ではあるが、現在の私達の生活において、洪水のごとく、容赦なく我々の生活に入り込んでくる。
20~10年前にあった音楽の最盛期からは幾分か減衰したとは言え、テレビには音楽専門番組があり、店に入れば音楽が流れ、電車に乗れば必ず携帯用音楽プレイヤーをつけている人を目にする。
私などは音楽など無くても生活できるんじゃないか、ゼロになっても大丈夫なんじゃないか、などと感じている為、音楽は完全にサービス品ながらもまだまだ繁盛している分野だと考えている。

当然の事ながら、音楽を聞いたり、あるいは放送したり、あるいは店内に流している人々は何らかの金銭的やり取りを経て、音楽というものを使用している事になる。
ここで疑問なのだが、なぜ音楽にそのような対価を支払うべき価値があるのだろうか。現在はほぼ無料で手に入れられたり、あるいは趣味の範囲で作成できる、音階の組み合わせによるデジタルデータであったりするのだから、無料だって構わないのではないか。

通常、こうした意見に対して、音楽に対してなぜ金銭的価値を対価として払われるのかというと、リスナーが受け取るまでの手間ひまや、人員的な労賃、CD媒体などの輸送費、作成費や作曲者・作詞者など関係者の著作権上の権利などが挙がる。これは正論であって、現在のボーカロイドやDTMなどで趣味的に作成できる音楽と従来の商業音楽は、動員する人員や使用する資材などで根本的に違うものであるので当然の事だ。しかし、私はこれに少し補正を加えたい。「音楽に価値がある」という意味においてはこれは多少表面的な意味なのである。

もしそうした労働的対価・権利的対価のみでリスナーが購買を判断するのであれば、全ての曲で売り上げが均一していないといけないと思うのだが、現実的にはそうではない。売れる曲もあれば、売れない曲も沢山存在する。作り手側の労働的・権利的対価の他に、音楽を価値たらしめる「何か」が存在する。
リスナーはこれらの何かを持って対価を支払って手に入れる、あるいは、対価に見合わない曲なので買わない、と言う選択を行っている。その判断基準は何になるのだろうか。

困難は分割せよ、との言葉どおり、この理由をポイントを絞って分析した上でまとめ挙げてみたい。この文章において全てを網羅できるとは思わないが、できる限り試みる事にする。

まず人が音楽を買う理由としては大きく分けて次に挙げる三つの理由・背景があると私は考えている。
1.心に響く本当に良い曲だから買う。
2.(曲の良し悪しは関係なく)皆で騒げる曲だから買う。
3.周囲の人間に「こういう音楽を聴く人間です」とアピールする為に買う。

上記の三つの理由のうち、上記の単一の理由で購入する人は少ない。少なからず1の良い曲であるという理由が付随する。
この1の良い曲とは何であるのか、という部分が音楽に価値を持たせる本質的な部分と捉え、ここにスポットを当てて考えてみたい。(2,3については
時間のある時に記載したいと思います)。
この良い音楽とは何か、を考える上で更に分割を試みたい。その内容は、音楽のメロディーとその歌詞である。まずはこのメロディーについて考えてみたい。

音楽の価値の一つは、そのメロディーに感動する事にある。この感動になぜ価値がつくのだろうか。
メロディーラインとはただの音階の配列にすぎない。しかしそこに何故か受け取り側が感動するという偶然や奇跡性を見る事ができる。
このただの音階の配列にすぎない創造が、人の感動を得るという偶然や奇跡性により、唯一無二に作り出されたものとして認定されうるからこそ価値として認められるのではないか、というのが私の意見である。
仮にその音階の奇跡を第三者が完全に模倣して自己の著作物として宣言した場合(いわゆるパクリ)などにおいて、それらの価値が認められないという心理にはこうした理由が内在するのではないだろうか。

そうした奇跡の創造を独創的に行った者に対して、作曲者の著作権上の権利が与えられる、という認識が世間一般に通底しているからこそ、音楽に価値が与えられ、そしてその対価を支払って購入するのではないか、というのが今のところの私の意見である。

次回更新は1年後あたりになると思います。
宜しくお願い致します。
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