とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

ゴールデンボンバー

2015-08-31 23:14:00 | 音楽
ipodバンドにゴールデンボンバーと言うバンドがいるのだが、握手券つき無音CDを出そうとして怒られたと言う話しを聞いて、私は若干ゴールデンボンバーが好きになった。
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駆け抜けろ、老後はもうすぐそこ。

2015-08-31 02:35:49 | 雑感
何があっても。
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缶詰は腹を下す

2015-08-31 02:33:16 | 最近の出来事
賞味期限を一年過ぎたヨーグルトを食べても何ともないのに、賞味期限内であるはずの缶詰は内容が変質しているからか消化不良で腹を下す。なぜか。
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そうか

2015-08-30 23:02:24 | 雑感
プログラムを作るというのはマンガを描くのと同じなのだ。
作ることによって誰かが傷つくのかもしれないが、所詮は創作の内かもしれない。
それに私はウィルスを作っているわけじゃなく、本当に個人向けに作っているただのちょっとだけ動くソフトだ。

私が作るものによって世の中に良い影響が出るならまだしも、悪影響が出るんじゃないかと心配していたが、心配のしすぎだろうか。よくネガティブに考えすぎとは言われるけれども、そうだろうか。

そもそも影響があるだなんてことの発想自体がおこがましいね。所詮はミジンコとかゾウリ虫みたいな人間が書くちっぽけなプログラムなのだもの。基本は人の役に立つものを作っている。自由に作ろう。

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佐野氏のデザインを正面から検証する

2015-08-30 12:48:42 | 映像作品
例の如く放言。


佐野デザイン東京五輪エンブレム 完全に終了
http://2logch.com/articles/5099646.html



さて、似ているだとかパクりだとかの前に、このデザインが本当に優れているかどうかを検証せねばならない。

デザインというのは、その図案だけで「何を示したいのか」という象徴としての構成、あるいは、人に与える感銘を二次元の図案だけで示さなければならない。

そしてここからが難しいのであるが、象徴としての分かりやすさと詰め込みたい表現の幅というのは逆相関の位置にある。
いろいろなものを表現したいとなると、そのカンバスにいろいろな要素を詰め込めば良いのだが、しかしそれだと分かりずらくなる。
逆にシンプルだと分かりやすいが、しかし伝えられるものは少なくなる。これが難しいが、成功すると素晴らしいものに仕上がる。芸術、美術、芸能という表現は、常に制約との戦いであった。カンバスの大きさは限られているし、使える絵の具も限られている。映画は表現の幅が狭まっているし(北野武氏はこれを逆手にとってどんどんと削っていった)、音楽も使える楽器やら何やらで制限がかかってくる。しかしその制限の中で皆自己を表現していたのであった。

さて、今回の佐野氏のデザインを検証してみよう。

1.配色

配色の金と銀は良し。なぜ中央が黒なのかよくわからない。ネットでは喪章と揶揄されているけれども、問題はそこではなく、単に黒を選択した理由が分からないのだ。金銀と来たら銅だと思うし、個人的な感想だが、仮に中央部分に銅を持ってきた場合「なぜ銅が中央なんだ? 」という議論が巻き起これば、「こいつをデザインした人間はやってくれたな」と私などはニヤリとする(弱者も讃えられるべきだというメッセージにも繋がるので)。そこへ来て黒・・・黒・・・、なぜ黒なんだ? その意図が分からない。

2.線形と配色の組み合わせ

この線がパクリ元ネタが沢山あるという批判はあるが、元ネタが無いとして、真面目に検証してみよう。

正直、そこそこのデザインで悪いところがない。シンプルで良い。だがなぜこの配色にしたのか? 
単一色でつっぱっているリエージュ劇場のデザインはイデアの純粋な具現化に成功している。純粋な高級豆を使ったブラックコーヒーを飲んでいるが如くにスッキリする。
だが、東京五輪のロゴはなぜ配色をこのようにするのだ。ブラックコーヒーに砂糖とミルクを入れるのであればまだ分かるが、そこにレモンと梅干しまで添えて訳が分からない。梅干し添えるなら、原型のデザインを最初からおにぎりにしとけやと思うし、それなら日本人らしさが最初からアピールできる。

いや、これは逆説的な反省をせねばならないのかもしれない。「ブラックコーヒーに砂糖とミルクだけでなく、レモンと梅干しを添えている」という訳の分からない混沌的な状況が今の東京であり、この線形の組み合わせのレベルが現在の東京のデザインレベルを表していると言えば、ぐうの音も出ない。

デザイン的に欧米の真似っこちゃんで、日本風にヘンテコに変化したのね、というレベルを批判したいのであれば、もうこれを世界にアピールしても仕方無いのかもしれない。「私はいずれにしても中途半端でオリジナルなデザインができない国の人間です」と。外国人に会った時に「こんなデザインレベルの国の人間です」と自己紹介する。そしてこれは文化が熟し、衰退する甘くてただれた腐った匂いを発している象徴という社会的なメルクマールを示しているのかもしれない。そう考えると「残念ながらこれが今の日本のレベルです」という反省しながらの正直申告で言えば、このロゴを採用するしかない。

しかし、本来のデザインとは、もっと人間味豊かで、真理をえぐりぬき、スポーツの頂点に到達するがごとくに、デザインの頂点にも到達すべきなのだ。

3.
また、悪いところが無いというアクの無さが私には気に入らない。もっとワルになれよ! 光沢が光っているように見えるグラデーションつけるとか! 
(ちなみに1964年のロゴは「ワル」だったなあ、と。なぜ下からの照射で日の丸が光るようなグラデをつけたのか、これ普通だったら通らないんじゃないか)。
欧米のデザイナーたちは1964年のロゴに「こいつはしてやってくれたな」と思ったはずだ。少ない色と強烈なアピール、ガツンと来るメッセージ。これが日本だとアピールしても何も恥ずかしくなく、むしろデザインに追いついていない自分の国民性を恥じるくらいであっただろう。高級の漆塗りに貼り付けられた金箔を思わせるデザイン。そしてそれが東洋のイデアの発現として、欧米の批判を追いつかせない感覚と美意識があった。だが今回のロゴは批判を受けまくる脇の甘いものになった。批判を受けるならまだいい。同氏デザインの中には「影響を受けちゃったのね」と子ども扱いの侮辱を受けるものすらあって、「デザインの世界の中では、その創造性の議論において話しにならない」とハナからコメントを避けられるものまであった。


積み木の組み合わせとか、マイナス点にもプラス点にも繋がらないデザインは、毒にも薬にもならないカップラーメンのような番組をありがたがっている日本人には支持されるかもしれない。
けれども、イデアを切り開いて具現化し、世界を率いていくデザイナーが衆愚にその感覚を合わせていいんですか? 

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