とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

「情報」とは何か(解答編)

2013-06-30 12:40:20 | 日記
前回の記事で出した「情報」の定義について、私なりの解答を出しておく。

情報はどんな時に情報と認識されるのだろうか? 
通信が行われた時? データベースに蓄積された時? 書籍に書かれた時? 
人間の思考の外部に出した時に情報と定義されうるならば、人間が宇宙の彼方にある物質をスペクトラムから分析してどういう物質があるのだろう、と類推するときには、その人の頭の中にある思考は情報ではないのだろうか? 
と、言うことを考えると、情報の定義は次のように集約される。

情報とは「意味の器」である。
「意味」が主観的に見出された時に情報が生まれる。
「意味」が遠方や未来に伝達された時に広義の通信となる。
例えば、現代のネットワーク通信時代だけでなく、古代に戦いののろしを上げた場合でも、のろしがある種の合図であるならば、人間が特定的に見出した「意味」を伝達することができる。
人間が意味を見出したなら、それはそれだけで情報となり、情報として位置づけられる。
それを蓄積するデータベースや、あるいは図書館などは人間の見出した「意味」が蓄積されていることになる。
「意味」が伝達できた時に、それが通信となる。これは敵との戦闘を合図する狼煙であっても、光ファイバの光速通信であっても、その意味は変わらない。


その意味の度合いによって、インフォメーション、インテリジェンス、更にはその奥の何か、と分類分けすることができるだろう。

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中国とは何か

2013-06-29 23:40:41 | 日記
中国って何? と言うと、大体の人は大体のことが想像できると思う。日本の西にあって、面積が広大で、人口が多く、中国語を話していて、大雑把で豪快だ。日本に近くて東洋的で割合親近感はあるけれど、おおかたの人達の文化の度合いは低くて、相互信頼がさほど無く、共産主義で、それでいて一党独裁、貧富の差が激しく、日本を目のかたきにしていて、日本や日本以外の国にとって脅威であり、山東省に設置されているミサイルの方向は日本を向いていて・・・。
まだまだあるだろうけれど、それでは、少し奥に入ると一般的にはその本質があまり言語化されていない。
なぜあんなに暴力的なのだろう、なぜ領土拡張するのだろう、なぜ周辺地域を弾圧するのだろう、なぜ独裁なんだろう。なぜみなルールを守らないのだろう。なぜ政情が不安定なのだろう。中国はなぜ今のような形態になっているのだろう。
こうした疑問に対し、私では完全に力不足ではあるが、今日はこれに関する考え方の記述を出来うる限り行った。

これから以下に記載する内容は私が書籍を読んで知り得た内容を私なりに咀嚼、整理し、私の考察も加えているものを記載している。よって、次の点を読む前にお断りを挨拶に代えて記載させて戴く。

・以下の文章は私自身が私自身の中で煮詰めた考えではない。極力、多数の事例に通底するある種の社会性法則を見出そうとしているが、結論はまだまだ出ていない。また、何だか私の考えとしてこうだ、というような書き方になると思うが、中国に関する知識人が言う共通解の中で、私が納得しているものに私の意見を添えて書いている。こうした形式を取っているので、内容としてまだまだ煮詰められる部分があり、材料が不足している部分がある。こうした部分があればご容赦頂きたい。
・有識者にとっては「中国とは何か」という論は議論しつくされたお話しであるとは思う。上述した通り、以下の論はいくつかの書籍の内容を統合し、そこに通低するであろう法則を私の推測によって添えているだけに過ぎない。その内容についてはこれまで多くの人によって推察されてきたであろう。よって読む人にとっては見飽きた部分が必ずある。その意味において新しい部分は何もない。しかし、一般的には理解されていない中国の根源を解き明かすことに挑戦している。そんなことは誰でも知っている、と言う部分があればこれにもご容赦戴きたい。仮に私の書き添えた部分に目新しい発見があればそれはそれで幸いである。
・私が文中において、中国を解釈するため「こうではないか」という想定も含めており、想定である旨添え書きしている。これに誤りあればご指摘戴きたい。
・事実関係を極力正確に書こうとしているが、事実として誤りがあればご指摘戴きたい。
・結論は出していないが、中間結論を出している。念を押しておくと、引用が多いとは言え、最終的に導かれるこの中間結論が私個人の一意見であることにご留意戴きたい。
・ここの記事とは私の思考を整理するための文章である。この為、文章を書く際に読者の思考の利便性は全く考慮せず度々脱線する。「話しを戻す」と再三再四断りを入れるのだがご容赦戴きたい。


それでは始める。

1.中国は国であるか

まず中国と言う言葉が会話の中に出てくると、まず中華人民共和国と言う国を想像する人も多いと思う。しかし、この理解に補足する必要がある。正確に言えば中国とは国では無い。中国とは領土的概念とその統治機構、そしてその思想をないまぜにした社会機構と歴史の統合概念のことである。どういうことか。以下にここを詳しく、しかし出来るだけ簡潔に説明していく。

私は繰り返しここのブログで、「国家とは富の再配分の決定機関とその範囲のことである」という解説を繰り返している。これは世界のどの国にも適用できる。無論中国にも適用できる。だが補足が必要だ。
通常、この「国家とは富の再配分の決定機関とその範囲のことである」という解説は、自分の住んでいる国に対しても、それ以外の他の国に対してもそれを適用可能であることを前提としている。こと、その範囲を定める国境策定においてはその国に住んでいる人たちの主観的な自認と、客観的な他認を伴うことが必要だ。

簡単に言うと、日本の領海線はここまでで、日本の漁船はここまで魚をとっていいという範囲を当事国である日本や対象国であるロシアが認識したり、アメリカとカナダの国境はここだから、ここをバイクで通ろうとなると申請が必要だ、とアメリカ自身やカナダが認識したりするのがそれである。時にはその定義に揉めたり、あるいは漁船が潮に流されて相手国の領海に入ってしまったりで揉めたりするのだが、双方ともその境界となるラインや揉めている地域を「相手国がいる」と認識しているのが通常だ。
無論、中国に対しても同様で、中国以外の人間が中国の領土・領海はここまで、と外部から認識することはあるだろう。
だが、中国以外の国の人間が中国領土の国境を認識することがあっても、中国人自身による亜周辺の対外国を想定した国境を中国人は認識しない。亜周辺とは、国の中央から遠く、対外的に国境や境界線を接している国や地域を指す。が、これが起こるのは何故か。
日本やアメリカやフィリピンが中国の領海はここまでだね、と思っても中国人はそう意識しない。明確に中国領と認識しているその外側にある地域は、飽くまで中国領土の中心から遠い存在であるだけのことであって、他の国の領土とは考えない。あくまで中華の領土の一部なのである。これは1800年代中盤、アメリカがマニフェスト・デスティニーと称してインディアンの民族浄化やハワイの政治基盤強奪を進めていった領土拡大理念と方向性は一致する。が、これに関しては別途考察をしていきたい。

話を戻す。日本やフィリピンなど、中国に接する地域的な「亜周辺」においては「中国はここまでが富の決定を行えるのですね」と中国以外の人たちによる客観的意見は適用できても、中国人自身はこうした思考はしない。

この点について私は考える。中国には対等の概念が無い。これは人権としての対等云々という観点ではなく、中国以外の外部領域は辺境とみなし、国としてみなさないということである。これは長い歴史と広大な地理から生まれた中国人自身に内在する強烈なアイデンティティに基づく思考傾向だと私は類推する。そしてその自尊と誇りに裏打ちされた中国には領土的概念はあるものの、それは通常の領土的思想ではなく中国を中心とした延々と続く領土志向である。はっきりと自国領土と分かる範囲の外側は「まあ中心より遠いけれど、うちの領土の圏内だよね」程度の認識である。

これから何度もおさらいをすることになるが、一度整理する。
国とは富の再配分の決定機関とその決定範囲のことである。中国はこの点において、その思想から中国外部辺縁における決定権を中国外部の人間に委ねることは無い。外来の人間には外部の地域性コミュニティに基づく決定権を風土・思想の上において認めることはない。よって、武力・非武力を問わず侵略し、統治する。対外国の武力が十分であって実質的な国境を譲らない場合は戦闘になる。

以下は私の想像である。極めて乱暴に言ってしまえば、中国自身は亜周辺と中国のことをそれぞれ地方自治体と国のような関係を想像しているのではないか。例えば神奈川県川崎市あたりが「北と国交樹立します」というような宣言を行った場合、国としての日本政府が「まあ、それはちょっと待て」と釘を刺すことになる。これと同じ様に日本がアメリカと関係強化します、と言えば、中国が「まあ、それはちょっと待て」と言いたくなっているのが中国側での根源的心情ではないだろうか(ただそうは言っても、現実問題として日本がロシアと連携強化します、と言った場合に、アメリカが「まあ、それはちょっと待て」と間接的にマイルドに言ってくることも容易に想像できる。この点において程度の差はあれ、現時点の日本もあまり変わりない)。中国の意識は長大な歴史に依拠している。よってその意識により中国人自身のプライドを形成しているが、この副作用が過ぎて、他国民を下に見る嫌いがある。これによって中国以外の他地域・他国にあれこれどうすべきと口出し出来ると言う意識が生まれ、実際そうしてくる。まあ、ちょっと待てと尊大な態度で口を出してくる。これが更に過ぎると実力・武力行使に至る。

話しを戻す。中国人自身による世界観は、世界はどこまでも中国なのであって、その中心にたまたま自分達の住んでいる現在の中国大陸があり、根源的な決定権はその中心にいる我々中国人自身が握っているという発想だ。即ち大陸に住んでいる人間が一番偉い、中華が一番偉いとする、いわゆる中華思想へと連なる。

この発想は世界における国の一つ一つが(建前であっても)発言権を持っているとする理想と反駁する。
しかし現実問題として、今も尚、軍事・外交・政治力や思想・イデオロギーなど、国際的に跨る社会性の暴力によってその領土の範囲が決定されるという国際社会でのリアルの志向と一致する。

中国はこの国際社会の理想と現実に対し、中国外部からの行動原理に全く依拠していない(対等の対外国がいると想定した交渉をしていない)。これらを無視し、中華固有の独自思想を基に自らの外交を繰り出しているのが中国の現在である。
これは中国の歴史に刻まれた地域性の記憶であり、人間(じんかん)に時代を超えて通低する記憶である。例え教育が変わってもこの性質は変わらない可能性は高い。
現行、教育も変わらない中国の現実において、この領土拡張主義に内在する中国人における意識は変わらない。常に外来から来たものは辺境であるのだからこちらに従えというスタンスは中国人にとって普遍的な思想なのである。

中国とは国ではない、というのには実は更に次の論拠がある。
これは中国の統一王朝が(即ち中国という概念が登場した)3000年以上の昔に夏が成立したことを考えれば、近代に成立した国家理論で説明することは出来ない。よって西洋からみれば中国と言う概念を国家と言う補助線で分析することに失敗する。それに中国人自身はそもそも中国自体のことをおおよその範囲で捉えていて、きちんとした国家観で捉えていない節がある。中国人は自らの国を、漠然とした皮膚感覚の中で中国らしきものの概念を思想として意識しているのだ。
よって、中国は近代の国家観では論ずることができず、新たな角度での見解を構築する必要がある。

話しを戻す。この領土拡張精神が実際の周囲諸国への領土拡張と結合した時に、いかなる結論を導くか。答えは3つに分かれる。

第一は漢民族によるウイグル、南モンゴル、チベットなどに見られる各地域住民への虐待・虐殺・弾圧だ。尚、民族浄化の動きもあるように見えるが、私が納得できるだけの裏が取れない(民族浄化は可能性がある、ということだけ頭に留めて置いて話しを進めた方が良いだろう)。この地域の政府は在来の抵抗する為の戦争能力を持たないこと、他の事例と比較して激しい戦闘が起こらなかったこと、比較的ではあるが通常の徒歩による通行不可能地域が無かったことも書き添えておく。話を戻す。亜周辺を潜在的自国領とみなしたとき、文化を奪い、言語を奪い、職を奪い、伝統を奪う、その行為を正当化する理由として中華思想が使用される。これは黄文雄 責任編集「日本は中国にこうして侵略される」に詳しいのでこちらに説明を委ねたい。黄氏の著書は賛否両論であるが、弾圧された各地域の人間による著述は中国を考える上で参考になる。

第二は香港返還に伴う地域的・経済的併呑のパターンだ。こちらは英名を持つ人がほとんどであるが、それと同時に香港に住む多くの住民が漢民族であった為、併合は比較的平穏に行われたように見える。虐待・弾圧の一切を聞かない。しかしそれでも返還前の中国政府による一国二制度の発表は在来香港人の不安をかきたて、香港人の移民ブームを作り出したようだ。
傍目には何も騒動など起こっていないように見えるが、その実植民地としての香港の誕生から香港返還に至るまで、香港の歴史とはイギリスにとっても中国にとっても武力的で暴力的なストーリーに終始する。
アヘン戦争の講和条約である南京条約(で香港島が割譲)・北京条約(で九龍半島の南端が割譲)とこれに香港領域拡大協約(で新界が割譲)を加えて香港は清からイギリスへ割譲され、植民地となった。
この香港であるが、1969年にイギリスから中国へと返還された。これを「(香港領域拡大協約での)99年間の租借期限が切れたから、契約に基づいて平和的に中国に返還された」と思ったら間違いだ。平和な記念式典は虚構である。元は香港領域拡大協約(新界租借)の延長をしようとサッチャーがネゴしたところに小平がこれはチャンスとばかりに「『新界の租借の延長はしないし、香港島、九龍の返還も要求する。交渉で実現できないのであれば人民解放軍を投入して実力で香港を回収する』と領土問題の解決に戦争も辞さないという態度で臨んだため」、民族自決の観点とイギリスの経済的疲弊から止む無く返還に合意した経緯がある(上記の「」内はとあるところからの引用である。素晴らしく、尚且つ簡潔で分かり易いので文章を拝借させて戴いた)。
イギリス視点で文章を書いたが、何もイギリスの肩を持つ訳ではない。ただ、民族自決の視点に立てば、かつ、清から割譲された歴史的経緯からすれば、中国に返還されて当然であろうという見方もあるだろうが、本当にそうだろうかと言う疑問がある。本当に本来の民族自決であるならば香港人にその判断を委ねるべきであったであろう。そうした本当に本来の民族自決でないことは返還発表後の香港人の移民ブームを見れば分かる。中国中央にとっては亜周辺の地域の人間の意見などおかまいなしなのだ。この点において民族自決の精神から真っ向に反する。日本に目を転じてみる。日本政府は沖縄に対し、車座で互いの話し合いの場を持つ。中央と地方の人間が集まって、こうした話し合いの場を持つというのは、現在の中国の姿勢と対極を為す。

第三は実際の戦闘能力がある周辺地域との戦争・衝突である。
中華人民共和国とソビエト連邦の国境の一つにウスリー川がある。1960年代、この川の中にある島(珍宝島(中国側呼称)、ダマンスキー島(ソ連側呼称))の帰属について両国はもめた(中ソ国境紛争)。
1969年3月の激しい戦闘が始まり、この戦争の末に中国側に帰属することを決定した。ソ連側の攻撃が激烈に激しかった為か、その後中国はこれ以上の拡張方針は取っていないように見える。この後中国と国境線に関する関係であまり揉めていないように見えるがどうだろうか。
またこの他にも1979年中国とベトナム間で戦争が勃発(中越戦争)。中国はカンボジアのポルポト政権の後ろ盾になっていた名目だったが、そのポルポト政権に対してベトナムが侵攻したのがきっかけとされる。
この侵攻およびプノンペンの攻略、親ベトナムのカンボジア政権の樹立に加え、更にはこのベトナムが親ソであって、当時の中国とソ連は非常に仲が悪かったことも災いした。
このベトナムに対する戦争に関して中国側は懲罰戦争としている。ここからは私の想像だ。つまり中央政府である中国が後援している地方政府のポルポトに、同じく地方政府のベトナムが何をやっているのかという上から目線の批判である。対外的な領土拡大ではなく、内乱の鎮圧と考えれば、一地方行政府に対する内輪揉めの「懲罰」として意味が通る。乱暴に言えば官軍と賊軍であろうか。ベトナムの古典や記録は漢字で書かれている漢字文化圏なので、中国の潜在的領土と認識していた可能性はある。
この中越戦争であるが、こちらも上記の中ソ国境紛争と同じく、双方に激甚の被害をもたらしながら、最終的に中国領土が拡張する形で決着を向かえた。その戦闘が苛烈であった為か、その後国境線は動いてはいない。

この三つに共通する点は何かというと、しつこく原点を見返すことになるが、中国の領土拡張における進捗に後退の精神が無いということだ。
そして現在の中国はこうした領土拡張意欲の思想を現実に備え続けている。
これは拡張しなければ経済が停滞する、という現実的側面もあるが、そもそもの根幹として中国人の風土的気質として、中華思想と亜周辺の認識があり、現在の現実として領土拡大意欲があり、実際にいまだこれが稼動していることが領土拡張におけるおおまかな原因だ。
この他、中華思想の亜周辺への決定権拡張の潮流は、現代では各国家社会に通低している民族自決と融和しない。よって西洋的価値観では分析することが不可能である。

人間とは完全に自分の主観から逃れる事は出来ない。それが正義の自認や他認によって強化され、悪行の自認や他認によって弱体化される。
この「どうあっても中国が世界の中心」「どうあっても中国が偉い」そして「亜周辺の地域の人間が四の五の言っているが、結局は中国みたいなものでしょう、こっちが元々ある中国なのだからこっちに従いなさい」という無根拠かつ究極的に強烈な自我が、歴史の記憶として中国に刻まれている。尚且つ自らの正義として行動原理に適用し、尚且つ彼我への暴力性の容認を伴いながら中国人への民族の記憶として刻まれているのが中国の本質だ。

この中国人自身の性質から周辺地域への領土拡張、侵略、虐待や弾圧へ向かうのである。

取り急ぎはここまで。
機会があれば中国はなぜ人権を守らないのか、暴力的であるのかについて言及したい。
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「情報」の定義(予告)

2013-06-29 23:05:42 | 日記
ここのブログには私の思考実験の足跡を残している。
その多くは抽象的な言葉の定義化だ。

死とはなんだろう。キリスト教の研究では関係の喪失であるとされる。
あの人が死んでしまって悲しい、というのは関係が恒久的に喪失したからだ。
それでは生とはなんだろう。上記の逆で、関係の創出と維持、強化の喜びである。お祝いパーティーが嬉しいのは、普段は顕在化しない関係の確認をし、その強化が図られたからだ。

恋とはなんだろう。それは異性との特別な関係を築く際の期待値だ。
愛とはなんだろう。それは異性や家族との特別な関係を築いた実績のことだ。
友情とは、異性間には無いが、それがために 却って貸し借り抜きになった特別な関係のことだ。

国家とは何か。それは富の再配分の決定機関とその範囲のことだ。
戦争とは何か。決定権の簒奪における社会的様式のことだ。

こころとは人間の本能や理念による行動、あるいは社会的要求に対するリアクションの思念の複数が混ぜ合わさり、これを保持して入れておくような、器の抽象概念のことである。
もっと簡単に言うと想念と思考の結合体のことである。
心が痛いと言うと、想念の受動にマイナスの要素が発生したことに伴い、これに引きずられる形で思考に葛藤が生じ、その想念と思考が結合された状態を人間が主観的に捉えている様を指す。
心が疲れたと言うと、想念の受動にマイナスの要素が発生したことが継続するなどしたとき、思考の持久性が徐々に失われせしめた状態を指す。
心が弾むと言えば、想念の受動にプラスの要素が発生し、思考も活動的になり、その想念と思考の結合が主観的に快活に感じられる様を指す。

それでは情報とは一体なんだろうか。
後でまた記載するので、ここでは解答を書かない。

先日私が夢の中で討論した通り、情報とは何かの定義とは非常に重要である。
日本が基礎工学がダメなのに、応用工学が発展しているのは、ものごとに対する哲理的理解は日本人の得意とするところだが、ものごとに対する哲理的創出、哲理的解析は日本人の最も苦手とするところであるからではないかと私は考えている。その面から見て、情報とは何か、という問いに対する答えは基礎工学に貢献できるのではないかと、ちょっとだけ期待している。


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自身活死の選択

2013-06-29 20:28:38 | 日記
自分はこれまで社会に不要な人間だと思ってきた。
人に迷惑をかけた。疎まられる存在であった。
人によっては、「そんなことは誰にでもある、くよくよするな」と声をかけてくれる方もいるかもしれないが、自分は格別である。
生き残るべき人間に入るか、そうでないかについてを考えれば、世間一般から見れば著しく卑下した結果になる。

ただ、最近別の角度から考えるようになった。
イソップ寓話のうさぎと亀を思い出して欲しい。
着実に進んだ亀はなまけたウサギに勝った。
本来は能力で言えば格段に劣る亀が走る能力に秀でたウサギに勝っている。
これは天命によって、世界が亀を選んだともいえる。

能力が秀でているものが生き残って、劣っているものが死ぬべきという考えは間違っている。誰もが秀でているものを持ち、誰もが劣っているものを持つ。その集合が社会なのだ。
そもそも誰が生きてていい、誰が死ぬべき、というのは神様が決める。

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各国への分析小備考

2013-06-29 13:14:35 | 日記
ロシア:
知もてロシアは解し得ず ひたぶるに信ずるのみ
人の関係に人情と冷徹を利用する。
恐力。

中国:
広大な事例と人間知の及ばぬ運命の流動、中国大陸に住む人間に通底するその認識を天とする。
(少数民族に天の認識はあるか? )
人との関係にコネと賄賂を利用する。

米国:
法と理と利と力、そして正義。主張。
勝者と敗者の二元。

インド:
雑多と階層。人の力。英語。
階層が社会的に強固に存在する為、情報機関関連の人達は大国にはならないと分析。
「階層が社会的に強固に存在する為、大国にはならない」。
グループ会社の人達は分かるだろうか。
特に○○○○○○事業部の人達、あなたたちのことですよ。5年前はお世話になりました。


朝鮮半島:
ウリとナム。二元性による失質。
短期的パワーとその性質。
日本を敵性国家として世論をまとめるのは、もうそろそろやめて欲しい。
看過できない。
客観による正確な歴史を元に未来は築き上げていくべきなのに、主観による歴史観測は重要な欠点を見つけにくく、自身にフィードバックできない。
これを脱却しない限り、同じ失敗を繰り返すことになる。本質的な国家運営を進捗させることは難しいだろう。

イギリス:
狡猾狡知、知識の効果的隠匿。
報道の効果的利用。経験重視。
老獪と気骨。真理は言葉にできない。
インテリジェンス。

フランス:
理論と理念。哲理的理解重視。
豊熟。真理は数式で表すことができる。
かなり世渡り上手である意外な一面も。

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