とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

鉄拳の振り子と社会

2012-03-25 03:03:39 | 哲学・社会
次の文章はかなり個人的見解に偏っている文章だが、私個人の心情において書かざるを得なかった。
私の偏った意見である、という事を念頭に読み進めて頂ければ幸いである。

鉄拳という芸人が作成した「振り子」というパラパラ漫画作品をご存知だろうか。
既に見た人は分かって頂けると思うが、感動的な作品である事に異論はない。
(以下は内容についての記載もあるので注意頂きたい。できれば、その作品を観た後で、私の以下の文章を読んで頂きたい。)

私はたまに「社会を良くするのにはどうすればよいのか」という事について考えたりするが、鉄拳の振り子を観た後に、このお題が浮かんできたのでこれについて記載したい。
ここから先に書かれる文章は、感動も何もない無粋な個人的考察である。一般論ではない事に注意されたい。このブログを見ている人は現在一人もいないが(残念というか意図通りであるというべきか、足跡は私のもの+通りがかった一人のみ)、遠い将来誰かに見られる機会が仮にあった場合でも、反発を覚悟で書く。これは人として非常に大事な事なのだ。

鉄拳の振り子は確かに美しい。但し、これが現実にあったと仮定したらどうか。

このストーリーは美しいが、「現実にあってはならない」。実際にあるかどうかが問題ではなく、有ると仮定した場合、それはあってはならない。

振り子のストーリーの上では、妻は夫にマフラーを意識のある内に手渡せなかったし、夫は生きている間にベールを妻に渡す事が出来なかった。
失ったからそのありがたみが分かったのかもしれないけれども、本当ならそれは互いに生きている時に互いへ手渡すべきだった。もっと言うなら、最後に二人は若返ったけれども、本当の若い時にそれをすべきだった。
夫はベールを確実に渡す。妻はそれに「ありがとう」と言う。
妻はマフラーを夫に渡す。夫はそれに「ありがとう」と言う。
これがあるべき姿だったのではないか。

愛が渡されない事があってはならない。
その気持ちは、現実に、手渡されなければならない。

よって、私の勝手な意見ではあるが、二人が安アパートを借りた真実の愛の生活を始めたときに、結婚式なりなんなりでそうした事をすべきだったのではないか。
そして、臨終の時に「ずっとずっと愛していた」と言うのがスジなのではないか。

しかし、それをできる社会体制が今の社会に備わっていない。
若い時にベールがあげられない、それはよくない。
仕事や金や生活で苦労したからこそ、本当の愛が出来たという意見もあろう。
しかし、夫が仕事で苦労したのは、家族が生活で苦労したのは、真実の愛を獲得するのに本当に必要であった事だっただろうか。

昔、五千円札の肖像であった新渡戸稲造は、その自著「自警録」の中で、友人の話として「貧困であれば真の幸せを獲得する事ができない」と言う談話を紹介している。「よって日本では先に経済的貧困を克服すべきで、宗教的救済は二の次なのだ」と。

今の日本に必要なのは、本当の幸せを獲得できるような、あるいは幸せを支援できるような経済的余裕を持った社会だと思うのだ。

自身の考察に対してもっと深く踏み込んでみれば、幸せとは絶対的尺度であるとギリシャ哲学では解いた。それは真理に近い部分で正しいと言えるが、それでは真理から派生し実装された、真理より一番遠い実際の庶民の生活感覚ではそうではなく、他者との比較の上での相対的尺度によってそれがなされると私は考える。

踏み込んで言うと、年収1000万の家庭と年収300万の家庭ではどちらが幸福か。絶対的尺度で見れば、個々の家庭に幸せはあるし、愛が最終的な幸せの尺度なんだよ、という方がいるかもしれない。しかし、その人がかりにあなたで、尚且つ年収1000万の家庭に属していたとして、年収300万の家庭の人に「あなたは幸せなんですよ」と言えるだろうか。言える事はあるまい。収入の多寡も、少なくとも幸せを構成する一部なのだ。ここに収入と幸せに相関関係は無いとする論理の限界がある。

個人で得られる収入こそは幸せの一部となりうる。それを求めてより一層皆働くのだ。
これを私自身の心情として存在すると仮定すれば、私個人は、社会に対して格差を肯定する新自由主義に基づくハイエク型傾斜分配主義構造ではなく、みんな幸せになろうというケインズ型公平分配主義構造を欲している事になる。
余談ではあるが、きちんと書いておくと、但しそれは共産主義や社会主義などの思想などではなく、やはり成果主義や成果に対する承認なども含めた体制でなければならないとも個人的に考えている。
私は過去に、量にして私の先輩の15倍の仕事をこなしていた事があった。そしてそれが全く認められなかった。そして先輩は昇進し、私には何もなかった。他の上司(副部長)に聞いてみると、「あいつは9年もいたから昇進したんじゃないのか」と毒づいた言葉も出てきた。どんなに頑張っても報われない、共産主義の社会を垣間見た気がしたが、それと同時にスタインベックの怒りの葡萄のように、流通するマネーの減少に伴い資本企業が雇用できる雇用口が減った事によって、最低賃金の底は融解し、雇用も得にくくなるという事も経験した。私はろれつが次第に廻らなくなり、言葉が正確に話せなくなった。相手の考えている事の2手先・3手先が読めなくなった。私は仕事する人間として完全に死んだ。
私は資本主義と共産主義の本質を正確に捉えている事ができているとは思わないが、私はこの経験からこの資本主義と共産主義の暴力を同じ会社から逐次受けたような思いになった。
私は現行のこの体制を憎む。心の底から憎む。それと同時にある種の愛情があった事も事実なので、これについては、これとは別に本当に感謝しているが、しかしその愛情も世情の変化により完全に消えてなくなるかもしれない、という危惧が私の中にあるのも事実である。私のいる場所とはそういうものだ。ある日を境にぷつっとその縁が切れる。事実私は言葉が話せなくなった後、しばらくしてからその職場より切られて別の部署へ異動させられた。そしてその後は引き継ぎに関する連絡が2・3あっただけで、そのほかの連絡は一切無い。異動をする前、その職場に入った直後やその後の数年間は私に対して気遣って頂いたり、私を育てようとしてくれた人に恵まれた。私は仕事を覚えていったが、次第に私の先輩を追い越すケースまで出てきた。先輩は私を疎んじたのだろう。イジメにも似た仕事のアサインにめげずに頑張ってきたが、それも体力と忍耐の限界を突破し、良くない形への収束に向かった。
本部長に実情の話しを細かくした。私の仕事への貢献は「知らなかった」という。本来は報告を上げるべき先輩が、明らかに報告を上げていなかったのだ。私は失望し、発声に不調を生じ始め、ここでは何をやっても無駄なのだとやる気を全て無くした。そして現在の私と同じ部署で仕事に対する承認に関して、人事の承認が機能していない為、かなり腐っている人が他にもいると聞く。

話しを元に戻す。
日本という国は貧困の世代から金持ちになった。
しかし、日本は真の幸せを全国民に与えるのにまだ完全ではない。
それはできる所からやっていければ良いと思うのだが、年収300万円時代と呼ばれる昨今は、それらができる時代ではなくなった。
原発の事故に伴う東北の困窮は、更にそれを押し進めるだろう。
格差の広がりは不幸を生む。そしてそれらがあってはならない。
せめて人の幸福を喜ぶ結婚式は、基本的な社会生活部分で用意すべきではないだろうか。
大企業や公務員関連であれば、提携している素晴らしい式場を安価で使用する事もできる。しかし、それ以外の人達が利用できないのは何故か。

=====
話しは変わるが、私は結婚式に招待されて出席するのが昔から好きだ。
数合わせの為の招待をされた事が無いからかもしれないが、人の祝い事に招かれて文句を言った事は無い。友人に恵まれているせいなのかもしれない。
あるいは本当は数合わせに呼ばれているけれども、私がそう意識していないだけなのかもしれない。
たまに結婚式に招待されて3万円を払うのがイヤだ、いやいやながら出席するんだ、という人がいるが、私はこれに対して閉口する。あるいはあいた口がふさがらないというのか。

私という人間は精神的に汚れている。人に迷惑をかけつづけながら生きてきた罪人だ(本当に心の底より申し訳なく思う)。よって美麗字句を言えた人間ではない。
だが、それでも次の事を言わなければならない。
人のお祝い事をするのには誰であれと心の底からの誠心誠意を込めてやるべきなのだ(これに笑う人間もいるだろうが、笑いたければ笑え)。新郎新婦はマフラーやベールを生きている内に交換すべきなのだ。周囲の人間は、マフラーやベールとまでは行かなくても、本当にその人が幸せになれるように、心の底からの気持ちをこめてお祝いをすべきなのだ。

私は、人の結婚式に呼ばれたならば、銀行に行って一万円札の新札を三枚用意しが。職場に鍵付きのロッカーが無かった為、それを封筒に大事に入れて折り目のつかぬように一日胸ポケットにしまい(夏場のワイシャツ姿の時に、ワイシャツの胸ポケットに飛び出た封筒を差し込んで一日そのスタイルで通した。この奇妙な姿をした私を見た人は多いと思う)、家に帰って保管をし、結婚式の当日に丁寧に出す、という事を繰り返してきた。
失礼があってはならないし、仮に折り目がついた札を出されて、その結婚した当人が不幸せになって欲しくないのだ。

私はよっぽど一の結婚式が好きだったのか、人の結婚式の余興の練習とか二次会のセッティングを自分のスケジュールに組み込む事などはある種こなれてしまった感がある。これは私だけではない。私の仲間も大概そうなのだ。もしかしたら私自身が知らず知らずに周囲を引っ張って行ってしまっているのかもしれないが、私から見れば私が周囲の集団の行動ロジックに組み込まれているにすぎない。今から考えれば向こうが迷惑だろうがなんだろうが、人の結婚式については常に全力投球だった為、それが為に疲労困憊していて随分バカだったな、と思うけれども、それでも結果的には良かったと思っている。

これに対して、結婚式の招待を面倒臭がる人からは、私の結婚式が好きだと言うスタンスに対して「ふーん、そうなんだ」と言う反応が返ってくる。明示的に言われた訳ではないけれども、その方は私が馬鹿に見えているのではないかと思う。実際、私の行動は世間的に見てバカなのだろう。

気持ちの問題とは言えど、私はこの部分に関して、世間で言うバカであってよかったと思う。逆に世間で賢いと呼ばれる人は、私から見れば非常に不幸だ。人の幸福を喜べないような人は、悲しい人生を送っているようにしか見えない。それで本当に人と呼べるのだろうか。

本人達が、その幸・不幸を作るにしても、その取り巻きからの幸せを願う心は本物なのだと私は言いたい。
新郎新婦の互いへの愛をしてマフラーとベールを送るならば、その友人は本当の幸せを願ってその気持ちを届ける。

ここで疑問が残る。
ベールやマフラーとまでは行かずとも、友人として私の友人に届けた私の幸せになって欲しいという心の底からの気持ちは届いただろうか。私の友人達は幸せになっただろうか(結婚式以外での当人達の生活は当人の勝手次第だけれども)。
コメント
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