とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

人は絶対的認識をすべきだが、相対的認識でしか判断できない

2018-01-20 09:25:36 | 哲学・社会
人は絶対的認識をすべきだが、相対的認識でしか判断できない。
これはどういうことだろうか? 

例えば、ここにりんごと鉛筆が机の上に置いてあって静止して見える場合、宇宙の座標的にはどこをどう移動しているのか、と言う最終的な判断が人間にはできない。
と言うのも、地球は時速1674キロで自転しており(東京であれば時速1359キロ)その速度で移動していることになる。
対象者から見て静止しているように見えても、同じ速度で移動しているから動いていないように見えて、宇宙の座標的には変わりまくっている。

同様に、地球は時速10万7280キロで公転しており、机の上のりんごと鉛筆は、この速さで観測者と一緒に宇宙の座標を移動していることになる。
その上、太陽系を回る地球の話だけではなく、その太陽系そのものですらも、銀河の中を時速86万4000キロで螺旋機動を描きながら周回している。
更にその銀河そのものも時速216万キロ(諸説の中央値)で移動することになる。

しかし我々に見えるのは、机の上にある静止したりんごと鉛筆なのであって、観測者はその外側から観測しない限り、正確な観測ができない。

何か相対的な指標が無ければ、我々は観測することができないのだ。

別の例を出そう。
例えばセーターがこの時期50%オフとか量販店に並んでいたとしても、その元値が適当につけた高値ならば50%オフでも買いづらい。
スウェーデンでは豆腐が一丁800円の世界でそれが普通であるらしいが、日本では一丁100円と言う度肝を抜かれる価格で、スウェーデンの人は「安い! 」と思うかもしれないが、日本にとってはそれが普通だ。
逆にスウェーデンでのりんごが1キロ100円と言う世界は、日本人にとってはこれまた「安い! 」と言う世界だが、スウェーデン人にとってはそれが普通なのである。

世の中には絶対的な価格の値が存在しない。
それは、個々人の心象の中にある基準から見た、高い安いを判断しているだけなのであって、どこを基準にすべきかという絶対値が存在しないのである。


それではもっと具体的に、実際の例を見てみよう。






実際に、上記のソーセージは確かにパンからはみ出ているのだが、ものは言いようで、
通常は通常我々が考えるパンのサイズからソーセージがはみ出るほどボリュームがあるというような想像をするのだが、
しかしここでは単にパンのサイズが短くなっただけなのである。

そう、この商品を考えた担当者は、我々が相対的認識しかできないと言う宇宙における人間の認識限界を悪用し、騙しているのだ。
宇宙物理における哲理的理解はこのように使うべきではないのである。

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社会的課題の哲理的実践解決方法

2018-01-19 01:44:00 | 哲学・社会
前記事にも書いたが再掲する。

現在日本にある社会的課題は、

・対応できる尺度に分割して組織を作る。
・できるだけコンピュータと機械に任せるようにし、迅速で正確、かつ大量の対応を可能とし、また、対応人員の労力の低減を求める。

と言う形で対応すべきである。

また、余剰の仕事を民間に払い出しするのも良い(路上駐車の違反切符切りなど)。
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「村本さんの勇気を称えるべき。“クズ“のクレームは気にしなくていい」社会学者・宮台真司氏がウーマン村本を擁護!

2018-01-17 23:34:37 | 哲学・社会
宮台真司さんは「なんせ僕は援助交際を擁護し、広めた人間だったので」と言っているのですが、自身が経済で困窮して、自分の体を売らざるをえなくなった時に、自分のケツの穴を売るのかどうかについては、どう考えているんでしょうか? 
他人が体を売るのは経済のため、と言う論について、自分の身に降り掛かった場合は・・・? 

・ケツの穴を売る
 →経済主観でスジは通っているが、しかし一般的な人間のプライドがない。

・ケツの穴を売らない
 →人間としてのプライドはあるが、それじゃあスジが通ってないじゃないか。

と言う論になるんじゃないのかなって思ってます。



「村本さんの勇気を称えるべき。“クズ“のクレームは気にしなくていい」社会学者・宮台真司氏がウーマン村本を擁護!
2018.01.17 07:00
https://abematimes.com/posts/3548242

「テレビは若い人からお年寄りまで見ているワケです。だから1から10まで聞く必要があるんですよ。視聴者の代弁者だから」。


 元日に放送された「朝まで生テレビ」に出演した際の発言が波紋を広げているウーマンラッシュアワーの村本大輔。しかし、ネット上では「無知な人間の政治的意見を聞くほど無駄な時間はない」と、批判の声が殺到した。テレビ番組で"そもそも論"を持ち出すことは問題なのだろうか。15日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、社会学者の宮台真司・首都大学東京教授を招き、村本がたびたび口にした"そもそも論"について考えた。

■「"クズ"のクレームは気にしなくていい」

 「"クズ"のクレームは気にしなくていい。はっきり申し上げると、村本さんのことを無知だと言っている人間がどれだけ知っているのか非常に疑問」、そう切り出した宮台氏は、こう続けた。


 「僕も1993年、まさに"そもそも論"で朝生デビューした。あの空間は人畜無害な"お座敷"で、意味のない議論をやっていた。世の中の流れも、あるいはアメリカや中国が日本をどう見ているのかも分からないヤツが、適当なことをギャーギャーしゃべっているだけ。それを論破していって名を上げた。なんせ僕は援助交際を擁護し、広めた人間だったので、それは集中放火を浴びた。そこで『お前の言う道徳とは何だ』と"そもそも論"を問うことで全て論破していく。それが僕のスタイルだった」。

 自身の立ち位置として村本が盛んに主張する「無知」という言葉についても、「プラトンの書いた『ソクラテスの弁明』に出て来る、"無知の知"という有名な言葉がある。無知であることを知っていることは価値があるということだ。村本さんのことを『無知だ』なんて言っている人間は、自分が無知であることを恥じるべきだ。だって無知を知らないんだから。村本さんは、自分が無知であるということを知っていて、そういう切り口からモノを聞いているわけだから、ソクラテスそのものだ。プラトンの著作について教養のある人間であれば、村本さんのことを無知だなんて言うことはあり得ないし、イコール、"クズ"だ」と述べた。

その上で宮台氏は「1980年代に人々が毎日を楽しく暮らしたいと消費社会化した時、日本以外の先進国の多くはそうではなく、"正しさ"と"面白さ"をいかに合体させるかに心を砕くようになった。コメディアンやコメディ映画を作る人たちも、お笑いに政治的なメッセージをいかに入れるのかということに腐心してきた。ところが日本のテレビ界、お笑い界は易きに流れた。『政治ネタでは視聴率が取れない』『もう正しさの時代ではない。これからは面白さの時代だ』と、"正しさ"から"おかしさ"、"面白さ"にシフトしてしまった。そうじゃないだろう!正しいことを面白く伝えるのに腐心すべき。他の国々はそうしているではないか」と厳しく批判。「そう考えれば、村本さんは非常にチャレンジング。予定調和の"お座敷"に丸腰で突っ込んでいって『私は無知なので、そもそも論からいかせてください』と言うのは、非常に勇気が要ること。称えるべきだ。村本さんのことを『無知だ』と言うヤツに同じようなことができるのか、コラ!」と舌鋒鋭く指摘した。

「村本さんの勇気を称えるべき。"クズ"のクレームは気にしなくていい」社会学者・宮台真司氏がウーマン村本を擁護!
2018.01.17 07:00

 「テレビは若い人からお年寄りまで見ているワケです。だから1から10まで聞く必要があるんですよ。視聴者の代弁者だから」。


 元日に放送された「朝まで生テレビ」に出演した際の発言が波紋を広げているウーマンラッシュアワーの村本大輔。しかし、ネット上では「無知な人間の政治的意見を聞くほど無駄な時間はない」と、批判の声が殺到した。テレビ番組で"そもそも論"を持ち出すことは問題なのだろうか。15日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、社会学者の宮台真司・首都大学東京教授を招き、村本がたびたび口にした"そもそも論"について考えた。
■「"クズ"のクレームは気にしなくていい」

 「"クズ"のクレームは気にしなくていい。はっきり申し上げると、村本さんのことを無知だと言っている人間がどれだけ知っているのか非常に疑問」、そう切り出した宮台氏は、こう続けた。


 「僕も1993年、まさに"そもそも論"で朝生デビューした。あの空間は人畜無害な"お座敷"で、意味のない議論をやっていた。世の中の流れも、あるいはアメリカや中国が日本をどう見ているのかも分からないヤツが、適当なことをギャーギャーしゃべっているだけ。それを論破していって名を上げた。なんせ僕は援助交際を擁護し、広めた人間だったので、それは集中放火を浴びた。そこで『お前の言う道徳とは何だ』と"そもそも論"を問うことで全て論破していく。それが僕のスタイルだった」。

 自身の立ち位置として村本が盛んに主張する「無知」という言葉についても、「プラトンの書いた『ソクラテスの弁明』に出て来る、"無知の知"という有名な言葉がある。無知であることを知っていることは価値があるということだ。村本さんのことを『無知だ』なんて言っている人間は、自分が無知であることを恥じるべきだ。だって無知を知らないんだから。村本さんは、自分が無知であるということを知っていて、そういう切り口からモノを聞いているわけだから、ソクラテスそのものだ。プラトンの著作について教養のある人間であれば、村本さんのことを無知だなんて言うことはあり得ないし、イコール、"クズ"だ」と述べた。

 その上で宮台氏は「1980年代に人々が毎日を楽しく暮らしたいと消費社会化した時、日本以外の先進国の多くはそうではなく、"正しさ"と"面白さ"をいかに合体させるかに心を砕くようになった。コメディアンやコメディ映画を作る人たちも、お笑いに政治的なメッセージをいかに入れるのかということに腐心してきた。ところが日本のテレビ界、お笑い界は易きに流れた。『政治ネタでは視聴率が取れない』『もう正しさの時代ではない。これからは面白さの時代だ』と、"正しさ"から"おかしさ"、"面白さ"にシフトしてしまった。そうじゃないだろう!正しいことを面白く伝えるのに腐心すべき。他の国々はそうしているではないか」と厳しく批判。「そう考えれば、村本さんは非常にチャレンジング。予定調和の"お座敷"に丸腰で突っ込んでいって『私は無知なので、そもそも論からいかせてください』と言うのは、非常に勇気が要ること。称えるべきだ。村本さんのことを『無知だ』と言うヤツに同じようなことができるのか、コラ!」と舌鋒鋭く指摘した。

 村本が「ありがとうございます。出ようか出るまいかすごく迷った。朝生には僕の発言を訂正してくれる専門家がたくさんいるわけで、僕を呼ぶ意味は、無知を恥じることなく、『僕はこれが分からないのでイチから教えてください』と言うことだと思った」と話すと、宮台氏は「村本さんが出ているから見る人というのは、今までの朝生の視聴者層にはいないタイプ。そこで従来の"お座敷"を繰り返していいわけがない。だから村本さんがやったことは当然のことだ」と重ねて擁護。「エネルギーはないけど方向性を知っている知識人と、方向性は知らないけどエネルギーのある大衆が合体すると、社会がより良い方法に変えられる、という図式は、60年安保闘争の中で崩れていった。それを指摘したのが吉本隆明。そして70年代以降、論壇誌もただの"お座敷"になり、読者投稿欄は『70歳、団体職員』みたいな人ばかりになっていった」と話した。


 朝生で村本と共演した落合陽一筑波大学准教授は番組終了後、「初学者がその場で考えた結論は大抵、先人が既に議論済みであって、時間有効化のために歴史を学ぶこと、それを起点に現代的発展を探す姿勢は小学校訓練から始まる」と感想をツイートしている。

 宮台氏はこれについても「お笑いだね。子どもにしゃべると、何も知らない人間にしゃべることがいかに重要か分かる。ものすごい言語能力がいることがわかる。説明に苦労して、そこで初めて大学教員の側が気づきを得ることもある。"そもそも論"は、議論を深く、実りあるものにするためにも重要だ。大学教員で小学校4年生に教えることができる能力を持つ人間というのは日本にはまだほとんどいない」と指摘、さらに「理系のエキスパートが世界で戦えるのと同じように考えてもらっては困る。日本の文系の学問の水準の低レベルたるや、はっきり言って驚くべきもの。朝生にいる知識人は初学者以下」と切って捨てた。
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ベルヌーイ:「大数の法則」を大規模事業経営に応用する

2018-01-11 21:39:07 | 哲学・社会
1.大数の法則

大数の法則 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%95%B0%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

大数の法則(たいすうのほうそく、英: law of large numbers)は、確率論・統計学における極限定理のひとつで、「経験的確率と理論的確率が一致する」 という、素朴な意味での確率を意味付け、定義付ける法則である。


つまりコイン投げを大量にすると、その確率は表裏で1/2に収束することである。
これを利用して、個々の不規則発生事象に対応できないように見えて、大量に扱うことによって安定した運用・運営をできるようにしたのが保険の世界である。

2.保険にみる、不確定事象の大量与件扱いに基づく数量的解決

サピエンス全史 下 ユヴァル・ノア・ハラリ P66

過去二〇〇年間に、現実の持つ複雑な側面に対処するために、新しい数学の部門が発展した。すなわち、統計学だ。
 一七四四年に、アレクサンダー・ウェブスターとロバート・ウォーレスという二人のスコットランドの長老派教会の牧師が、無くなった牧師の妻や子供に年金を支給する生命保険基金を設立することにした。二人は長老派教会の聖職者たちに、各自が収入のごく一部をこの基金に拠出し、基金をそのお金を投資することを提案した。ある牧師が亡くなると未亡人は基金の利益の配当を受け取る。そうすれば、死ぬまで生活に困らない。だが、牧師たちがどれだけの額を拠出すれば、基金は義務を果たし続けられるかを見極めるためには、ウェブスターとウォーレスは毎年亡くなる牧師の数や、後に残される未亡人と孤児の数、未亡人がその後生きる年数を予想する必要があった。
 この二人の牧師がしなかったことに注目してほしい。彼らは答えを啓示してくれるように神に祈らなかった。聖書や古代の神学者の作品の中に答えを探すこともなかった。抽象的な哲学の議論も始めなかった。二人はスコットランド人らしく、実際的なタイプだった。そこで彼らはエディンバラ大学の数学教授コリン・マクローリンを雇った。そして三人で、人が死ぬ年齢についてのデータを集め、それを使って、一年に亡くなるであろう牧師の数を計算した。
 彼らの作業は、そのころ統計学と確率の分野で起こったばかりのいくつかの飛躍的発展に基づいていた。その一つが、ヤコブ・ベルヌーイによる「大数の法則」の発見だ。ベルヌーイは、特定の人の死のような、単一の事象を正確に予想するのは難しくても、多くの類似の事象の平均的結果を高い精度で予想するのは可能であるという原理を体系化した。つまり、マクローリンはウェブスターとウォーレスが翌年亡くなるかどうかを数学を使って予想することはできないが、十分な量のデータがあれば、スコットランドの長老派教会の牧師が翌年何人ほぼ確実に亡くなるかをウェブスターとウォーレスに教えることができた。幸い、彼らはおあつらえ向きのデータを利用できた。五〇年前にエドモンド・ハリーが発行した保険数理表がとりわけ役に立った。ハリーはドイツの都市ブレスラウ〔訳注 現在ではポーランドの都市ヴロツワフ〕で手に入れた、一二三八件の誕生と一一七四件の死亡の記録を分析した。ハリーの表を見ると、たとえばどの年であれ、二〇歳の人が亡くなる可能性は一〇〇分の一であるのに対して、五〇歳の人が亡くなる可能性は三九分の一であることがわかる。
 こうした数字を処理し、ウェブスターとウォーレスは、どの時点でもスコットランドの長老派教会の牧師は平均で九三〇人おり、毎年平均で二七人が亡くなり、そのうちの一八人が妻を後に残すと結論した。妻を残さなかった牧師のうちの五人が孤児を残し、妻を残した牧師のうち二人は、以前の結婚でもうけた、まだ一六歳に達していない子供も残す。彼らは未亡人たちの死や再婚(いずれの場合にも年金の支払いが終わる)までに何年が過ぎるかも計算した。こうして得られた数値のおかげで、ウェブスターとウォーレスは、二人の基金に加入した牧師たちが家族を養うためにいくら支払うべきかを決めることができた。牧師は毎年二ポンド一二シリング二ペンス払えば、亡くなった後、妻が年に最低でも一〇ポンド(当時としては相当な金額)を確実に受け取れるようにできた。もしそれでは不足と考えれば、年に再考で六ポンド一一シリング三ペンスまで払うことができ、その場合、未亡人には、毎年二五ポンドという、さらに高額な年金が保証された。
 彼らの計算によれば、「スコットランド教会の牧師の未亡人と遺児への支払いのための基金」は一七六五年までに総額五万八三四八ポンドの資金を調達できるはずだった。そして、その計算は驚くほど正確だった。その年が来たとき、基金の資金は五万八三四七ポンドで、予想よりわずか一ポンド少ないだけだったのだ! これはハバククやエレミヤ、聖ヨハネらの預言さえ凌ぐ。今日、「スコットランドの未亡人(スコティッシュ・ウィドウズ)」と略称されるウェブスターとウォーレスの基金は、世界でも最大規模の年金・保険会社だ。一〇〇〇億ポンドの資産価値を誇る同社は、スコットランドの未亡人だけではなく、同社の保険に加入する気のある人なら誰とでも契約する。



3.社会の問題解決方法

 社会の問題解決方法には、無限の方法があるが、既に見つかっているいくつかのアプローチを採用することが、よりスマートだ。

 一つは問題となっている社会的事象に税をかけること。渋滞が起こっているなら通行税、酒やたばこを規制したいのなら酒税・たばこ税、あるいは教育や医療に回せば誰も文句は言わないので、競馬やパチンコなどの射幸心を煽るものに関しては、教育の国家費用に回せばいい。

 一つはロボットとコンピュータの導入。将来的に労働人口が少なくなることが見込まれ、かつ、日本に特有な過剰な労働搾取も問題になっている。
 それであるならば、「二回以上同じことをする仕事であればロボットとコンピュータで代替できる」ので、これを導入すべきである。

 この上に上記のベルヌーイの大数の法則を使った新しいアプローチを記載しておきたい。
 日本では統計数量的に対応できる社会的課題が存在し、それが場所と時間を置いてランダムに発生するものがあって、個々の地方で担当部署を置くのであれば、それは大変なコストになるが、しかし規模と対応時間を考慮し、相応の部署を置くと言うのは有効のように思われる。

 部署を新設するのもそうだが、既存の部署で、長時間残業で対応が困難になっているところを切り出し、暇な部署と併せて再編するという、「山をならす」と言うのが地方公務員での組織再編に必要になるかと思われる。
 (災害が発生している地方に個別派遣チームを特派しても良い)。

 これはいささか古い手法で、「そんなことはもうやっているよ」と言う話かもしれないのだが、しかし災害が発生した地域での地方公務員の長時間残業が問題になっているので、対応そのものは実質的にできていないと言わざるを得ない状況なのではないのだろうか。

 警察が、路上駐車取締の業務を、外部委託したというのは非常なる英断だった。
 あれによって、社会の雇用は増えているし、警察も労務を軽減できているのである。

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組織と所属員 どこまで忠誠を尽くし、どこまでで逃げ出すべきか

2018-01-08 16:01:09 | 哲学・社会
以下は私の妄想である。

中国のレンガ工場で、奴隷然として扱われて働いていた少年がその劣悪な労働環境から逃げ出した。
彼にかけられる言葉はこうだ。「大丈夫だったか? 工場はひどいことをする。なんて経営だ! 」

ここから問題である。組織はどこまで所属員に対して、道義的、倫理的な忠誠を誓わせられることができるだろうか? 
現在において、この答えは一意に定まっていない。

そう、逃げ出す人間に心配の声をかけて保護をする場所もあれば、根性なしと罵声を浴びせたり、あるいはさげすみの視線を送ったりと様々なのである。

しかしそうした人間がいれば保護すればいいでしょう、正義を追求すればいいでしょう、と言うことにも一定の答えが実は出ていない。
社会的事例は個々に転がっているので、一つ一つ見てみよう。


1.相撲とマフィア

日馬暴行は平手で十数回、リモコンで数回 ボトルはなし【協会中間報告要旨】と言う、元横綱日馬富士の貴ノ岩への暴行事件であるが、これの後始末の所作が若干問題になっている。
貴乃花が相撲協会の頭を越えてそのまま警察に相談した。それが相撲協会にとって難色を示す結果へとつながっている。

これを分かりやすく書いているツイートがあったので引用する。


https://twitter.com/furukawa1917/status/936181288549040128

なぜ相撲関係者は日馬富士ではなく貴ノ花に怒っているのかを文明人に説明する方法としては、「マフィアファミリーの実力者が新入りを殴ったのを若手幹部がファミリー内部に話を通さず警察に訴えたのでファミリーから報復として命を狙われている」とすればだいぶわかりやすくなるかと思う


と言うことになる。
貴ノ岩と貴乃花部屋は、仁義を切るために、まずは相撲協会内で話を通し、それで協会の手に負えない部分が出てきたら、そこの部分だけを協会の判断で警察に任せるというのが筋であったのだろう。

それでは中国の煉瓦工場で奴隷労働をしていた少年の話に戻ろう。
彼が工場組織内で処遇を決着しようとした場合は、どうなっていただろう? そう、言いくるめられ、組織内では白眼視され、ひどい場合は暴行と殺害まであったのではないかという可能性まである。


2.海保

 2010年9月に発生した、尖閣諸島中国漁船衝突事件での映像リークは、海上保安官の一色正春が行ったと本人が述べている。
 これは公務員における法違反であり、組織命令を無視する形となった。公益や国益の毀損と、どちらを取れば良かったのか。
 公に訴えるべきか、それとも公僕で有り続けた方が良かったのであろうか。

 組織の中で、何らかの妥結をすべきであったか、あるいは、外に出て本当のことを知らしめるべきだっただろうか? 

3.地検

 同2010年9月、大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件で主任検事と部長、副部長が逮捕された。
 若手検事からのメディアへのリークが元だったとされる。
 そう、これは組織内で妥結しておいて、「ボートを揺らすな」とばかりにそっとしておくべき問題だったのだろうか? 
 それとも検事の不正を暴くべきだったのだろうか? 

4.エドワード・スノーデン

 エドワード・スノーデンは、アメリカからの出国後に、自らの正義感をもって、アメリカの情報収集的不正を暴露した。
 これはどうだろうか? 内輪で収めるべきだっただろうか? それとも外に出て暴露すべきことだっただろうか? 



この上記の情報を一旦整理する。
インテリジェンス関係者であった佐藤優さんの意見を見てみよう。佐藤さんの意見は一貫している。
1には言及がないが、2・3・4に関しては、「内輪で収めるべき問題であった」と言う。
無論、内部でもみ消すと言うことではない。

組織は必ず、その構築と運用において、矛盾と問題を内包する。
それは組織主体にしてみても、所属員の思想と一致しないというのはよくないので、内部機構内にそれを防いだり、処罰を適切に加える機関の設置が必要だ。それは洗脳と言うことよりも個人理解を重点におくべきだ(人の力が最大限に発揮できるため)。それが設置されているならば、内部的な通報を可能とし、連絡体制を維持するべきだ。


それでは1は? そして冒頭の中国のれんが工場の少年は? 
公的機関の所属でない彼らはどうすべきだったのだろうか。

私が思うに、人間と言うのは意見を引くことのできない線が、軽いものから重い物まで、何段階かに分かれて線が引かれている。
命をかける機関であれば別だが、例えば普通の組織で、何の咎もないのに、生命を奪われる時には、それを覆そうと、その生き物はその環境から逃れようとする。
そして生命に安全が訪れ、安心して生活できる場所で社会を作り始める。

その判断の最下層には、「自分の生命を守る」と言うものが働いており、それを侵害するのであれば、組織から出て、遠慮なく外部に言うべきなのではないのだろうか。


例えば、普通の経理システムの開発などで、人月計算の契約上の数字を会わせるために、長時間残業を命じられ、結果として100時間を超えた時、「100時間を超えると労働の方の問題があるから超えないようにつけてくれ」と言われる。

厚生労働省労働基準局長通達によれば、『脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について』の中で、
(2)発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できる

と言う旨の展開がなされているので、日本の社会基準と照らし合わせても倫理面で問題がある。

これを私が組織を飛び越して、厚生労働省、労働基準監督署、法務省人権擁護局に持ち込む話をすると、「きちんと筋をつけた方がいい」と言われる。

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