とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

フルスタックフレームワーク

2019-06-30 22:07:48 | IT・ビッグデータ・新技術

11: 以下、\(^o^)/で30がお送りします 2019/06/30(日) 10:22:33.454 ID:RFFJ59GL0

Angularってどうなの?




13: 以下、\(^o^)/で30がお送りします 2019/06/30(日) 10:25:06.342 ID:B6aPgmbAH

>>11
フロントエンドのフルスタックフレームワークで唯一の存在
俺は大好き


15: 以下、\(^o^)/で30がお送りします 2019/06/30(日) 10:26:08.040 ID:RFFJ59GL0

>>13
すまんわからん
フルスタックってなんなん?




18: 以下、\(^o^)/で30がお送りします 2019/06/30(日) 10:28:11.108 ID:B6aPgmbAH

>>15
ライブラリ全部入りみたいな
vueやreactはview部分しか担当しないけどangularはdiの機構とかhttpclientとかデフォで用意されてる
自分で各所のライブラリ選定しなくていいから楽




20: 以下、\(^o^)/で30がお送りします 2019/06/30(日) 10:29:41.116 ID:RFFJ59GL0

>>18
おお…なるほど
そりゃ便利そうだな
じゃあangularだとexpressも要らないの?




21: 以下、\(^o^)/で30がお送りします 2019/06/30(日) 10:32:26.645 ID:B6aPgmbAH

>>20
流石にサーバサイドはついてこないw
expressでもrailsでもspring でもバックエンドは好きなもの選ぼう





フルスタックフレームワークとはUIやDB、セキュリティなどの基本的な問題領域にAll in oneな環境を提供するもの

各コンポーネント毎のフレームワークではそれらを組み合わせて動作させることに一定以上の複雑さが有り、特別なノウハウが必要となる。

フルスタックフレームワークでは組み合わせることの相性の問題が無く、ビジネスロジックに集中することが可能となる。

C++: TreeFrog
Haskell: Yesod
Java: JBoss Seam, Grails, Trails, Chura, Able
Perl: Catalyst
Python: Django, TurboGears
PHP: Ethna, CakePHP, Zend FW
Ruby: Ruby on Rails


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勉強が手につかない時の心構え

2019-06-30 21:52:50 | 文章・日本語・言葉
私事ではあるが、勉強が手につかない。
個人的な事情を言えば、先日6/25に人が倒れて自宅療養しているとのことだが、心配をしているということだ。

こういう時にネット検索をするも、どういう対処をすべきかは、ドンピシャでの回答を与えてはくれない。

一番近いのは、「遠い将来のことを心配してもしょうがないから、その日一日にできることを一生懸命やりなさい」と言うものだったが、何かしっくりこない。

よって私が私自身に向け、独自に編み出すことにした。

もし同じような境遇で、自分の日常生活でやるべきことが手につかない、と言う人がいらっしゃったら、次の言葉を参考にしてほしい。もししっくりきたなら編み出した私にとって幸甚である。

まず、その日その日にできることをやれとは言っても心配事というのはなくならない。この意味において、上記の言葉は完全に無意味をなすことになる。

なので、もっと大局的に見るべきなのだ。自分が生まれてから死ぬまで、そこの舞台は自分が主人公を演ずる舞台なのだから、初めから終わりまで、自分の全てを出し切って演ずるべきである。
それは10年のスパンであったり、1年であったり、一ヶ月であったり、一日であったりする。
その心配事にはいずれ対処をしなければならない時があり、しかしその主観的な何らの感情を今消化するよりも、客観的・俯瞰的に、長期的な何かをこの現時点ですべきところでもあるだろう。

その日できることをすべきだということは間違いがない。しかしそれに補足すべきは、それをやる理由を理解すべきだ、と言うことだ。自分の人生で、その心配事をかたす日はいつになるか? そう、色んなことがらが錯綜し、並行して走っていく人生の中で、今自分と言う登場人物がなすべきなのは、その日の直感的心配ではなく、未来に向けた長期的行動なのである。
キリスト教で言えば、「明日のことは神様がなんとかして下さるから、今日やるべきことをやりなさい」と言うことになる。

よって、心配して手がつかなくなる、と言うのも、人間としての登場人物である自分自身の行動として十全ではあるが、しかしそうした主観的短期的スパンの考え方・捉え方に囚われるのではなく、客観的長期的スパンの人生という舞台に上がった登場人物としての自分を見た場合、長期的展望においてはその人物が長期的には何をすべきか、そしてその日その瞬間では何をすべきかを整理し、理解すべきなのである。
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ビッグデータ解析から何らかの傾向を読み取る

2019-06-30 20:52:16 | 国内社会批判
1.


これを投入し、
・優勝都道府県は基本ランダム、あるいは強豪なる都道府県の偏差が事前にあるという点から、何らかの法則を見出す。


2.
捕鯨国とその漁獲高、並びに捕鯨反対デモの対象国を洗い出し、何らかの偏差を見出す。
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韓国における歴史戦 発生事実と決定事実

2019-06-30 18:30:03 | 海外・国内政治情報等
韓国における歴史戦とは何かを書き出していく。

そもそも歴史戦とは何か。歴史で争うようなところは無いでしょう? とは普通の日本人では思うところかもしれないが、しかしこれは若干の誤認がある。

理想は歴史戦などは無いべきなのであるが、しかし現実には存在し、その歴史線が有る現実の社会において我々は生きていかねばならない。これを見ていこう。

歴史の”解釈の仕方”によって、後世の我々は国際関係上有利な立場を確保できたり、あるいは生き残りのための座を確保できたり、あるいは逆に損害を被ったりもする。

良例がイスラエルで、イスラエルは米国世論について、例えばアメリカ大使館での各国調査の末尾に「ユダヤ人の迫害はないか」と言う項目を設けることによって、差別的な扱いを国際的にされることを逃れ、防止している。

一方で悪用もある。
例えば、現在の世界での教育においては「日本に原爆を落としたのは正義であった」と言うのが通常通底される教育であったので、その結果における甚大な民間人死亡被害と、米国より派遣された医師達は偽薬を患者に渡し続けて観察したという、生きている(そして原爆の後遺症によってこれから死んでいく)日本人を使っての人体実験の側面があった非人道的な思想がそこにあったことは鑑みない。

バルカン半島での戦争犯罪については、国連決議がなされてから断罪というものが行われなくなってしまった。

こうした中、何が問題であるのかというと、国際社会、いや、人類社会と言うものは、事実を二種類に分けてしまっていることだ。
これは法律用語で言う、発生事実と決定事実の二つである。
両者はそれぞれ何が異なるのかというと、発生事実は発生した事実(例えば自動車事故が○年○月○日の○時○分ごろに△県△市△△△での路上でAさんが乗った車とBさんが乗った車が衝突したため起きました、と言うような事実の羅列)、そして決定事実は、発生事実を下にして決定した事実(自動車事故はAさんの不注意と判断んされるので、Aさんの過失割合が重く、Bさんにお金を払うべきです、と言う社会決定)と言う形で、それぞれ客観性のある事実と、主観的判断を伴う事実の2つに分かれる。

そして問題なのが、人間社会は後者の決定事実によって動いていくことである。
いや、決定事実は発生事実を元に、皆が納得できる社会地域決定を起こすものだから問題はないのではないかというと実はそうでもない。

例えばABCDEFGHIJの10の事実の内、Aだけにクローズアップしてその他を見なかった場合、本来であれば全体を俯瞰した結果で総合的判定をすべきであるのだが、これがAの立場に近い声の大きい者、実力のある者、政治家に近く金が払える者などが有利となり、その全体決定に偏差が発生することになる。

韓国では韓国国内で一時期流行った登山不倫の際の「自分がすればロマンスだが、他人がやれば不倫」と言う言葉の通り、倫理的判定に客観性を欠いた超主観主義とも呼べる社会判断を行う傾向がある。

他国の企業倫理性を糾弾する傍ら、日本のイチゴの品種を窃盗し、かけあわせたら韓国のもの、と言うものに関して目をつぶる。

韓国側が変更したいのは発生事実とそれに伴う歴史解釈である。そしてそこから優位な立場の保全を行いたいと思っている。
民族的社会思想・イデオロギーとも呼ぶべきその特殊な考え方から発せられる、その特異な思想は何も韓国のものだけではない。その片鱗はアメリカ、フランス、スペイン、オランダにもある。

アメリカは、正義のためと原爆を日本に落としたが、何も戦争を早く終わらせたいのであれば、単純に戦線を引いて講和すればよかったのだ。
フランスは英仏戦争の頃、異教徒にしか使ってはならないとされるボウガンを、なんのかんのと理由をつけて同じキリスト教徒に向けて発射し、正当性を訴えながら戦争した。
スペインのコルテスによるアステカ帝国の苛烈なる加虐はその通りであるが、それでも本国側は何らの問題にはしなかった。
オランダもインドネシアを300年ほど植民地にしていた割には何らの謝罪もない。
英仏露に関しては、オスマン解体後におけるサイクス・ピコ協定で、民族分布と異なる国境線を引いて少数民族を国とトップに据えるなどしたため、中東社会の混乱を引き起こす火種を歴史的につけた訳だが、しかしここも何らの倫理的対応はしていない。
日本も日本でひどい話で、東南アジアで軍需物資を現地調達せよなどという中央からの司令によって、軍票が金代わりになるからと言って現地の食品を調達していたが、しかし終戦と同時にそれは紙切れに変わった。当時の軍人たちは日本の敗戦(=軍票が紙くずになる)を想定するわけが無かったが、しかし結果として、現地住民の困窮に対して一役買ったことは間違いがない。
韓国も慰安婦での訴求こそあったものの、現地における誘拐略取は昭和13年で言えば97%以上が現地日本人(現韓国人・北朝鮮人の祖先)であった。

こうしたことは現在において鑑みられない。反省もないし、謝罪もない。
そういう決定を過去を鑑みるべきであろうが、そうしないのが現代の世の中なのだ。

そうした中、何が発生したのかをつぶさに拾い上げ、それを総合して判断してしかるべきなのではないかと私は考える。
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作品群における面白さでの読者側での忖度

2019-06-30 16:46:59 | 映像作品
これは小説・マンガ・アニメ・映画・ゲームなど、全ての作品群に対して言えるのだが、どうにも「面白いものを面白いと言う」自由と「面白くないものを面白くないと言う」自由が社会から消えているように思う。

例えばちょっとした笑いを誘うシーンなどは、本当に面白ければガハハだとかクスリだとか笑ってもいいが、面白くない場合は無反応で構わない。

しかし、何やら製作者側が「ここが笑うポイントですよ」と言うのを用意しておいて、それが読者側に伝わった時、読者が無理をして(製作者側に忖度をして)笑っているように思える作品があるように思えてならない。

しかもそれが面白いと思わなければ、あたかも非国民のような扱いさえ受ける。
うーん、どうやってもあれは面白くないのに、どうしたら面白いと思えるんだ? 
あるいは面白くないことを面白くないと言えないこの雰囲気は一体何なのだろうか。

本来であれば、そういう面白い作品と言うのは自然に人が集まって自然に見るべきものなのだ。
それを義務の勉強みたいに嫌々ながら見させられてそれを面白いとか言わなければいけない苦痛は一体何なのかと憤慨するものである。

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