とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

昔の思い出

2024-02-24 21:28:48 | 思い出
本当の意味での断片でしか無いが昔のことを思い出す。

私が幼児であった頃、家族で海に行ったことがある。
そこでの行きの道中と帰りの道中は覚えていない。
覚えているのは到着した時のことで、その記憶の内訳は2つだ。

一つは砂浜に出ようとしたら、完全に日光によって高温に熱せられていて熱かったことだった。
ぬるい温度か、冷えている温度の砂しか知らなかった私は、砂でも熱い温度になるんだ、と衝撃を憶えたのを思い出す。

もう一つは、海で砂浜であったはずなのだが、ザリガニがいて、干上がっていて死んでいた。
「死んでいる」と意識させる生物の死体を見るのは初である・・・と思う。
「思う」と書いたのは、この前後に私の祖母が亡くなっていて、人間の死と言うものはどこかで経験しているからである。

これは以前も記載したが再掲する。
祖母の死と言えば、私は祖母が死んで、泣いて泣いて泣きじゃくった。
それで周囲の子供たちからはからかわれるし、それがまた男として情けないと思って更に泣いた。
私の叔父などは笑顔で葬式に来て「なんだこの人は」と思った記憶がある。

で、そうした死に対してあまりに悲しむ自分は異常だと思い、自分自身が強くならなければと思った。

が、大人になってこれがちょっとおかしいと思うようになる。
老人の葬式に出席した子供に、そうした死を認識せず、ただただはしゃいでいる子がいるのである。
ん? こういうのは、悲しみがあるがそれをぐっとこらえてつつましく席に座っているのが普通なんじゃないか? と。

なるほど、大人になってから気づいたが、昔の私は異常ではなく、むしろ比較的において普通の部類だったのだ、と。
で、葬式に出席し、その死の悲しみの心が内発的に湧いてこない子供は、何らかの心の発達に問題があるように思われる。非難されるべきは私ではなく、周囲であったのだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が昔すごい嫌だった「褒められ」

2024-01-07 15:45:47 | 思い出
幼少期の育成環境はどのようなものが適正だろうか? 

けなしたりするのは最悪の分類であるといい。
それはそれとして、では褒めることについてはどうか? 
これもいくつか種類があると思うのだが、悪い「褒め方」もある。

それは赤ちゃんをあやすように、初めて歩けた幼児を褒めるように「すっごぉ〜い」とちょっとややオペラ調を含めて褒めることである。

いやこれは褒めることには変わらないのだから、何かこちらが倦厭感を抱いたとしてもそれを指摘することもできずにやきもきし、こちらがちょっと嫌な気分になって終わる。
仮にこれを指摘した場合どうなるか? 
そう「(こっちが褒めているのに)どおしてそんなことを言うのよぉ〜」とこれまたオペラ調にこちらを非難してくるので本当に手に負えない。

けものフレンズのサーバルちゃんのように淡白寄りにあっさり言っていて純粋に褒めているならば全然いい。褒めの主体が褒められた当人にあるからだ。
だが、初めて歩けた幼児を褒めるように「すっごぉ〜い」と褒める時には、褒めた当人は褒めた当人がちょっといいことをしたという主人公感を出していて、相手を褒めたいからそうしているのではなく、相手を褒めた自分が主人公として存在するからあなたのことはちょっとどうでもいいのよ感があって本当に嫌なのだ。

人は自然な表現がある。
びっくりした時には「わっ」だとか「うぉっ」だとか言う。
面白い時には素直に笑うだろう。
悲しい時には泣くだろう。
で、ワンテンポおいて理性を取り戻した時に「驚いた」だとか「面白かった」「悲しかった」と言うようなことを言うだろう。

熊が出た時に「こんな熊が出るだなんて驚き〜」とか言うか? 言わない。
芸人が漫才やっている時に本当に面白ければ、ギャグやってるタイミングで「面白い〜」とか言うか? 言わない。
人が死んだ瞬間に「悲しいですね」とか言うか? 言わない。

それらは心の奥底でそう思っている自分から離れて、ある程度客観視できるような冷静さを持つことや、時間的な経過、あるいは距離的な離脱が起きてからそう考えるのであって、それは本当の自分ではないし、本当の自分の意見ではない可能性、つまり意図的についた嘘である可能性もある。

そうした時、「〇〇って凄いね〜」にどれだけの本当が含まれているのか。
それは本当に凄いと、本当の意味で褒めているのではなく、客観的視座を保った冷静である自分が嘘も含めてある程度の相手を動かす企図をも持ってそう言っている可能性が高い。
本来はそうした裏のある言葉と言うのは正面から受け止めずに受け流したりするのが正しい。そうでないとこちらも精神的に健全な生活などは送れない。

しかし、上述の例は違う。
本来の「褒め」と上述の「裏のある褒め」をあえてまぜこぜにして、嘘を塗り固めて社会的な是認される美徳に仕立て上げた上でこちらに正面から受け止めたと言うその反応を強制してくる。

これが本当に面倒くさいのだし、煩わしいし、忌避感も感じるし、人間の社会生活営為として健全ではないと思うのだがいかがだろうか。

(ちなみに当人へここまで書いたことを言うのを予想すると、「(こっちが褒めているのに)どおしてそんなことを言うのよぉ〜」とこれまた面倒な反応をするだろうと。)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供の頃に見た蓄音機の図の謎

2023-11-24 23:28:20 | 思い出
子供の頃に見た蓄音機の図には謎があった。

おおよそ蓄音機の図解と言うのはだいたいこんな↓感じだったのだが、





構造的には、トランペットのような発音管が針に直結されていて、その針がレコードの上に乗ることでその振動で音が出る、と言うことだったのだが、いやこれ支えがなくてどうやってこの姿勢を維持しているんだ? 
どう考えてもバランス悪くね? これでレコード再生していたら、支えが無いからこの発音管ごと斜めに倒れるっしょ、と思っていたのだった。
が、不思議だなあ不思議だなあと思って今に至ってその謎が解ける。


と、要は見えない裏側に、こういう支えがあったんですね。納得。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

CM経済圏の範疇外であった我が家

2023-10-11 19:47:36 | 思い出
私が大人になった後での感想と、子供の頃に体験した経験には齟齬があって、時々「おや? 」と思うことがある。

その内の一つがCMだ。

普通の人々の視線に寄り添って理解しやすいように言及すれば、次のようになる。
普通はテレビのCMを見て「おっ、あの商品欲しい! 」と思うことだろう。
そしてそれの効果が発揮され、そのCMを見たことによって、それを購入する人が増え、かつ、スポンサーたるCMの広告主はそれを見込み、あるいは実績として発生したことがあるので、次なるCMを出す。
これによってテレビ業界はそれなりに潤ってきたはずだ。

一方において我が家の状態はそれとは異なった。
CMに出ている製品は絶対に買わない。それはなぜか? 理由を言えば、CMに出ている商品はそれなりに「ちょっと高い」からだ。

なので、我が家はそれではなく、ちょっとロゴが似ているぱちもんだったり、あるいはCMを出せない企業での安い商品を買うことになる。

当然、私の幼少期はテレビの洗脳にかかっていた訳で、そこに流れる商品も買いたくはなったが、それを購入できる実態としてのお金がないので、いつの日か、「CMで紹介される商品」=「基本的に買わないもの」として自分の認識が定着した。

なので、昔の味噌のCMとか見ると「あんなものは買わなかったなあ〜」「でもなぜそれがCMで流れていたんだ? 」とかなり疑問に思うのである。
答えは簡単で、周囲の一般的な家には、そういうCMで流れる商品を買える金があったのに対し、私の家は単純にそれを買える金が無かったのである。

で、私の中に齟齬が生まれる。
「CMって言うものは購買意欲を増進させるために打つ広告戦略なんだろうけれども、なぜ買わないものを広告するんだろう? 」と。
それの正体が分かったのは、大人になってから随分後になってからであった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私とスケジュール帳

2023-08-12 00:48:18 | 思い出
今では無くてはならなくなった電子端末でのスケジュール帳だが、私の幼少期からの変遷を考えると、それが常にそうであったかと言うとそうでもない。
それは自己が必要とするかの認識であったり、あるいはその媒体がどうであるかの物的な変遷であったりと様々だ。

幼少期の私はスケジュール帳を不要のものとして認識していた。
と言うのも何となくの忌避感があったのである。
これを現在の私が代打で言語化すれば次のようなことになる。
スケジュールをするということは、社会的にスケジュールされるということと同義で、管理されること、支配される意味合いと同じである。
人は本来、誰に支配されることもなく、管理されることもなく、奔放に自が思うままに生きていくと言うのが本来の人間の姿であるべきはずで、いつ誰に会うと言うような足かせは、自己を自由な獣からみじめな家畜に陥れる柵なのではないか、それに自ら入るのはおかしいことではないのか、と言ったところである。
一方において、その柵の中に進んで入らないと生きてはいけないというのも人間である。ここにジレンマがある。みじめな家畜として繁栄するか、孤高の野生として貧して行くのか。

なぜか小学生の時分においては、女子達はおおよそ自分のスケジュール帳(紙)を持っていて、まあ女子はそういうの好きなんだろうな、と言う感じで眺めていた。
逆に男子は絶対に持たなかった。明示的に言語化は誰もしていなかったが、クラスでの雰囲気をあえて私が言えば、もし男がスケジュール帳を持っていれば、それは女々しい人間で、あるいは必要もないのに大人の真似をしているちょっと変なやつ、と言う扱いだったように思う。

2006年4月。スマホはまだ普及していなかったが、PDA端末はあったが、スケジュール帳は相変わらず紙だった。
そこで衝撃の発言が飛び出す。広島出身のSさんが「スケジュール管理はいずれ電子化されてPDA端末に統合される」と言う未来の予言を行ったのである。
結果、PDAはなくなり、スマホで皆管理するようになったが、しかしこの未来の予言「スケジュール管理はいずれ電子化される」と言うのは当時の私にとっては大衝撃発言だった。

なぜ壊れたり電源が取れなかったらわからなくなるものに、そうした情報を託すのだ? 
しかし効率化を考えればそうなるかもしれないが、大胆すぎる予測だろう、と。

そして今に至る。

思えば、人間は元来スケジュールに縛られるべきではない、昔からそうであったろうに、と言うのは半分当たっていて半分違っている。

江戸時代の人間は明確な時間を意識することはなく、おおよそが時間にルーズであった。
一方ローマの時代から、王やそれに準ずる位置の人間はスケジュール管理に追われていただろう。



王さまなくした時間
https://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=29829



109:本当にあった怖い名無し:2013/04/14(日) 21:09:48.43 ID:jKi+zgww0

王さまなくした時間1

今アニメもやってる児童向けのぼくは王さまシリーズの一篇です
Ⅱシリーズなので初期のしか知らない人は知らないと思う

やることなすこと時間に縛られた王さま
起きる時間とか勉強の時間とかなにもかもがタイムスケジュールで
押さえられていて色々と窮屈

それがある日国中の人間が重い風邪をひき
一人だけ無事な王さまは自由な時間が出来る

普段は入れない時計塔に入ってみるが
何故か階段をいくら上がっても終わりがなく
更に時計が見当たらず時間が分からない
不安がる王さまに不気味な血文字で描かれたメッセージが届く
「しんぱいするな時をまて」



110:本当にあった怖い名無し:2013/04/14(日) 21:17:25.89 ID:jKi+zgww0
王さまなくした時間2

時計塔をさまよう王さまは角の生えたその少女「ピ」と出会う
「ピ」は王さまを助けに来たという
王さまは時間時間時間、と時間に縛られておりいつも可哀想、
その元凶である悪魔イビリシを倒しましょうと言う

王さまが見つけた血文字もイビリシが誰かを怪我させたのかもしれない
「ピ」は多少意味ありげな発言をしつつ王さまを
不思議な世界に誘導する

そこでは羽のない生き物だけが空を飛べる世界
何故か風邪で寝込んでいるはずの大臣など周りの人たちが
飛べない羽をつけてなんだか怠け者になっている



111:本当にあった怖い名無し:2013/04/14(日) 21:25:12.28 ID:jKi+zgww0
王さまなくした時間3

そこでは「ピ」が人間以外の動物から何か急かされており
「ピ」は大臣らを治療と言い注射をしたり温泉に入れたりしている
王さまはどれくらいで治るのかと聞くが
「ピ」はあと一時間くらいかな…?と答え
そこで悪魔イビリシがやってくる

イビリシは「ピ」には時間が存在しないため時間について
確かなことを口にするのはおかしい、何か騙されてるぞと王さまに言う
イビリシと「ピ」は喧嘩を始め「ピ」がイビリシのしっぽを
切り落としたことが分かる

そのとき動物たちが「ピ」に早く人間を食わせろと騒ぐ
イビリシの邪魔のせいで仕事を邪魔されたと「ピ」は怒る
王さまは「ピ」を疑い始める



113:本当にあった怖い名無し:2013/04/14(日) 21:37:37.21 ID:jKi+zgww0
王さまなくした時間4

「ピ」は王さまを時間でしばりつけいじめるイビリシを責めるが
時間は正確でなければいけない、と冷静なイビリシと言い争う

「ピ」は王さまをいじめる周りの人間は動物に食わせてやればいいと叫び
「わたしは王さまが大好き! 王さまのためならなんでもするわ!」
イビリシは王さまを誘惑する鬼と罵り互いに一歩も譲らない

王さまは二人の喧嘩を止めとにかく今夜は頭を冷やすように言う
イビリシが言うには
鬼も悪魔も嫌われ者の同類だけど
「ピ」は王さまをどこからかずっと眺めていて
王さまを好きになり、王さまを縛りつける時間を消し去ろうとしていた
全ては「ピ」が黒幕であり病気を広め
王さまにだけ治療薬を与えていた

王さまはイビリシと共に「ピ」の治療薬を盗み大臣らを治療し
元の世界に戻していく

「ピ」は発明の才能が有り特殊な薬を作り
イビリシを完全に殺そうとしていたが
時間を操るイビリシは不意打ちでなければほぼ無敵



114:本当にあった怖い名無し:2013/04/14(日) 21:45:21.75 ID:jKi+zgww0
王さまなくした時間5

「ピ」は時間を省略され数時間が飛んでしまい油断していた
イビリシは王さまに囁く
「さぁ、仲間を殺そうとした悪い鬼をやっつけろ!」
威勢よく王さまを突き動かすイビリシ
「ピ」の弱点は角
王さまがイビリシに言われ角をつかむとあっさり取れてしまう

「ピ」は目を見開いて王さまを見つめたくさんの涙を流す
涙で池が出来る位「ピ」は泣いて王さまに別れを告げる
「さよなら」
「……でも、王さま好きよ」と池に吸い込まれ消えてしまう
「ピ」は本当に王さまが好きなだけだった
時間がない存在だからこそ王さまを時間から解放しようとした

そしてすべては元通りになりイビリシが時間を元に戻し
王さまにとっては何も変わらない元の暮らしが戻る
だけど「ピ」のことはいつまでも王さまの心の中に残っていた


と言うことで、恐らく人間社会はこれのジレンマを元々持つのだ。

人間は社会と組織体制、そして時間調整による人の結合と、知識修得と融合・発展において力を発揮してきた。

このガタピシ車は、あるところで力強い走りを見せるが、一方においてそれが故に自分自身の身を焼き焦がし苦しめる火車でもある。

束縛と引き換えに高度運用の社会を得る、それが我々だ。
それが出来なければ虢略に起臥して野生の虎になるしかない。

一方において、その船舶を用いて利得をおさむることもできる。
無論、自己、そして他者においても、苛烈な労働は強いてはいけない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする