とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

自分の周囲で障害であったかもしれない人たち

2024-05-01 00:48:45 | 思い出
自分の周囲で障害であったかもしれない人たちを思い出す。
これは現在社会で規定されている障害であった人のことを指すのではない。

現時点において、医学としては障害として規定されていないが、今の定義を適用すれば障害であったのかもしれない、と言う人たちのことだ。

端的にごく簡単に言えば、現代的にリア充や陽キャと呼ばれる人たちのことである。
「リア充や陽キャはある種の障害である」これが今回のテーマである。
古い世代だと、テレビに追随していた人たち、現代で言えば、流行りの中身のないYoutuberのムーブメントに追随している人間を指す。


それでは進めて行こう。

イメージ的には下記になる。


私はシティーハンターは好きだったが、これは創作の中であるから面白いのであって(少しばかり日常を逸脱しているのが創作として面白い)、現実にこういう人がいたならば少し引くし、ちょっと頭の中を疑う。

ただこれを当然のように踏襲していたのがテレビ業界であり、かつ広告業界、そしてそれに何も考えずに追随していたリア充や陽キャと呼ばれる人物だった。

ただこれらの人は病気や障害であると定義されることはなかった。

ここから先は個人的意見になる。
これまで私は違和感があった。こうしたリア充や陽キャと呼ばれる人(正確に言えば昔はこうした用語定義がなかったが)が、私にとっては不快な存在だった。
面白くないギャグを言ってはこちらが笑わなければいけないような空気を作るし、何事も理屈ではなく勢いでものごとをかたすような嫌いがあった。

私にとってはこうした所作が不快だったが、そちらが世界の標準なのだと私自身を無理やり納得させてきた感はある。


一方において、昨今の発達障害の定義が明らかにされるに、ごくかなり乱暴に言えば情緒障害などもここに含まれ、そして更に乱暴に言えば、なぜその分類の人間がそう分類されるのかというと「周囲の一般的な人が人間関係上での健全だとされるラインを下回って扱いに困る人」と言う区分けで分類を考えているらしい。

確かにコミュニケーションが適切に取れない、気分障害や情緒障害がある、注意欠陥が多い、落ち着きを得られない、文字が読めないなどである。
そうすると周囲の人間が対応に困る。よって「これは普通ではない」から「対処が必要」と言う形で分類をするに到る。

では私から見たリア充や陽キャの場合は? 
そう、私も対応に困っていたし、私個人から見れば、彼らと言う存在は、明らかに思考のプロセスや他人への思いやりが欠けていた。
笑いや知的素養の味覚がないのである。
ユーモアを寿司のおいしさと言い換えれば寿司屋に皆で行って「(味を感じないけれども)皆で楽しんでいるから『おいしい』」と思っている。
いや寿司屋はそういうところもあるが、味や食の満足が80くらいで誰と食べにいくかというのは20くらいでしょう。リア充や陽キャが人との関係でのユーモアの理解のセンスがないので、勢いや場が100だとか思っていて、その内容が0でもいいと思っているのだ(いやそれですらなく、世界がそういうものだと思っているフシすらある。彼らはユーモアと呼ばれる寿司の味が分かっていない)。
ユーモアの醍醐味が分からず、勢いだけで笑わそうとする。
これは一つの障害ではないのか? 

あとあの場を楽しんでいる人は、あれが本当の楽しさだと思っているのだろうか? 
いや厳密にはああいうノリだけの場と言うのはどの国でもどの時代でも存在した。
だから人間と言うものはそうしたものなのだろう。

一方において、私が考える、こうした陽キャやリア充と言うものに関して、一種の障害であるという論は崩れない。
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昔の思い出

2024-02-24 21:28:48 | 思い出
本当の意味での断片でしか無いが昔のことを思い出す。

私が幼児であった頃、家族で海に行ったことがある。
そこでの行きの道中と帰りの道中は覚えていない。
覚えているのは到着した時のことで、その記憶の内訳は2つだ。

一つは砂浜に出ようとしたら、完全に日光によって高温に熱せられていて熱かったことだった。
ぬるい温度か、冷えている温度の砂しか知らなかった私は、砂でも熱い温度になるんだ、と衝撃を憶えたのを思い出す。

もう一つは、海で砂浜であったはずなのだが、ザリガニがいて、干上がっていて死んでいた。
「死んでいる」と意識させる生物の死体を見るのは初である・・・と思う。
「思う」と書いたのは、この前後に私の祖母が亡くなっていて、人間の死と言うものはどこかで経験しているからである。

これは以前も記載したが再掲する。
祖母の死と言えば、私は祖母が死んで、泣いて泣いて泣きじゃくった。
それで周囲の子供たちからはからかわれるし、それがまた男として情けないと思って更に泣いた。
私の叔父などは笑顔で葬式に来て「なんだこの人は」と思った記憶がある。

で、そうした死に対してあまりに悲しむ自分は異常だと思い、自分自身が強くならなければと思った。

が、大人になってこれがちょっとおかしいと思うようになる。
老人の葬式に出席した子供に、そうした死を認識せず、ただただはしゃいでいる子がいるのである。
ん? こういうのは、悲しみがあるがそれをぐっとこらえてつつましく席に座っているのが普通なんじゃないか? と。

なるほど、大人になってから気づいたが、昔の私は異常ではなく、むしろ比較的において普通の部類だったのだ、と。
で、葬式に出席し、その死の悲しみの心が内発的に湧いてこない子供は、何らかの心の発達に問題があるように思われる。非難されるべきは私ではなく、周囲であったのだ。

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私が昔すごい嫌だった「褒められ」

2024-01-07 15:45:47 | 思い出
幼少期の育成環境はどのようなものが適正だろうか? 

けなしたりするのは最悪の分類であるといい。
それはそれとして、では褒めることについてはどうか? 
これもいくつか種類があると思うのだが、悪い「褒め方」もある。

それは赤ちゃんをあやすように、初めて歩けた幼児を褒めるように「すっごぉ〜い」とちょっとややオペラ調を含めて褒めることである。

いやこれは褒めることには変わらないのだから、何かこちらが倦厭感を抱いたとしてもそれを指摘することもできずにやきもきし、こちらがちょっと嫌な気分になって終わる。
仮にこれを指摘した場合どうなるか? 
そう「(こっちが褒めているのに)どおしてそんなことを言うのよぉ〜」とこれまたオペラ調にこちらを非難してくるので本当に手に負えない。

けものフレンズのサーバルちゃんのように淡白寄りにあっさり言っていて純粋に褒めているならば全然いい。褒めの主体が褒められた当人にあるからだ。
だが、初めて歩けた幼児を褒めるように「すっごぉ〜い」と褒める時には、褒めた当人は褒めた当人がちょっといいことをしたという主人公感を出していて、相手を褒めたいからそうしているのではなく、相手を褒めた自分が主人公として存在するからあなたのことはちょっとどうでもいいのよ感があって本当に嫌なのだ。

人は自然な表現がある。
びっくりした時には「わっ」だとか「うぉっ」だとか言う。
面白い時には素直に笑うだろう。
悲しい時には泣くだろう。
で、ワンテンポおいて理性を取り戻した時に「驚いた」だとか「面白かった」「悲しかった」と言うようなことを言うだろう。

熊が出た時に「こんな熊が出るだなんて驚き〜」とか言うか? 言わない。
芸人が漫才やっている時に本当に面白ければ、ギャグやってるタイミングで「面白い〜」とか言うか? 言わない。
人が死んだ瞬間に「悲しいですね」とか言うか? 言わない。

それらは心の奥底でそう思っている自分から離れて、ある程度客観視できるような冷静さを持つことや、時間的な経過、あるいは距離的な離脱が起きてからそう考えるのであって、それは本当の自分ではないし、本当の自分の意見ではない可能性、つまり意図的についた嘘である可能性もある。

そうした時、「〇〇って凄いね〜」にどれだけの本当が含まれているのか。
それは本当に凄いと、本当の意味で褒めているのではなく、客観的視座を保った冷静である自分が嘘も含めてある程度の相手を動かす企図をも持ってそう言っている可能性が高い。
本来はそうした裏のある言葉と言うのは正面から受け止めずに受け流したりするのが正しい。そうでないとこちらも精神的に健全な生活などは送れない。

しかし、上述の例は違う。
本来の「褒め」と上述の「裏のある褒め」をあえてまぜこぜにして、嘘を塗り固めて社会的な是認される美徳に仕立て上げた上でこちらに正面から受け止めたと言うその反応を強制してくる。

これが本当に面倒くさいのだし、煩わしいし、忌避感も感じるし、人間の社会生活営為として健全ではないと思うのだがいかがだろうか。

(ちなみに当人へここまで書いたことを言うのを予想すると、「(こっちが褒めているのに)どおしてそんなことを言うのよぉ〜」とこれまた面倒な反応をするだろうと。)
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子供の頃に見た蓄音機の図の謎

2023-11-24 23:28:20 | 思い出
子供の頃に見た蓄音機の図には謎があった。

おおよそ蓄音機の図解と言うのはだいたいこんな↓感じだったのだが、





構造的には、トランペットのような発音管が針に直結されていて、その針がレコードの上に乗ることでその振動で音が出る、と言うことだったのだが、いやこれ支えがなくてどうやってこの姿勢を維持しているんだ? 
どう考えてもバランス悪くね? これでレコード再生していたら、支えが無いからこの発音管ごと斜めに倒れるっしょ、と思っていたのだった。
が、不思議だなあ不思議だなあと思って今に至ってその謎が解ける。


と、要は見えない裏側に、こういう支えがあったんですね。納得。
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CM経済圏の範疇外であった我が家

2023-10-11 19:47:36 | 思い出
私が大人になった後での感想と、子供の頃に体験した経験には齟齬があって、時々「おや? 」と思うことがある。

その内の一つがCMだ。

普通の人々の視線に寄り添って理解しやすいように言及すれば、次のようになる。
普通はテレビのCMを見て「おっ、あの商品欲しい! 」と思うことだろう。
そしてそれの効果が発揮され、そのCMを見たことによって、それを購入する人が増え、かつ、スポンサーたるCMの広告主はそれを見込み、あるいは実績として発生したことがあるので、次なるCMを出す。
これによってテレビ業界はそれなりに潤ってきたはずだ。

一方において我が家の状態はそれとは異なった。
CMに出ている製品は絶対に買わない。それはなぜか? 理由を言えば、CMに出ている商品はそれなりに「ちょっと高い」からだ。

なので、我が家はそれではなく、ちょっとロゴが似ているぱちもんだったり、あるいはCMを出せない企業での安い商品を買うことになる。

当然、私の幼少期はテレビの洗脳にかかっていた訳で、そこに流れる商品も買いたくはなったが、それを購入できる実態としてのお金がないので、いつの日か、「CMで紹介される商品」=「基本的に買わないもの」として自分の認識が定着した。

なので、昔の味噌のCMとか見ると「あんなものは買わなかったなあ〜」「でもなぜそれがCMで流れていたんだ? 」とかなり疑問に思うのである。
答えは簡単で、周囲の一般的な家には、そういうCMで流れる商品を買える金があったのに対し、私の家は単純にそれを買える金が無かったのである。

で、私の中に齟齬が生まれる。
「CMって言うものは購買意欲を増進させるために打つ広告戦略なんだろうけれども、なぜ買わないものを広告するんだろう? 」と。
それの正体が分かったのは、大人になってから随分後になってからであった。
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