私の意見は下記。
と言うことで、いろいろ。
このマンガがヘイトであるとやり玉に挙げられていると言うネット上の文章を見て、うーん? そうか? と疑問に思うことしばしば。
なぜかというと、そういうのは別に外国人に限らず日本人でもたまにやらかす人がいるからだ。
阿川佐和子さんのインタビューで、インタビュー相手の人が、「銭湯話の時にぼけちゃったおじいさんがウンコをして、番頭が子供に「絶対誰にも言うなよ」と言われた」と言うエピソードなどがたまにある。
日本人でもボケれば、大衆浴場で例外的にウンコをするのだ。人間とは完全ではない。
ただ、日本人自身にそういう民族的な習慣性はなく、それは他国の習慣(と言うよりそうしたルールを遵守するような習慣がない、と言った方が適切化)でもあるが、しかしこのマンガではそれに言及していない。
なのに、このマンガはなぜヘイトとなるのだろうか?
ここで言うヘイトとは、人種や所属国家、民族に限らず、本来であればそれら全ての人は平等の権利をうけるべきで、それは、平等であるという意識から成り立つのに、偏見による先入観を植え付けることによって、その平等と言う社会倫理を毀損たらしめる行為、あるいはその諸端となる言動のことである。
つまりは個人に対する諸注意ではなく、人権の毀損になるのだが、風呂場でウンコをしてはいけないと言う注意をすることが、なぜ人権の毀損になるのだろうか。
西洋流に、これはアヴァンギャルドな芸術を今体現してるんです! だとか、あるいは、風呂場でウンコをする可能性とその人間の行為を芸術思想的に確保したいんです! と主張するなら、まだ1ミリくらい分からないこともないが(分からないが)、実態としては、その社会を構成している倫理規範やルールを一切無視し、己の本能の命ずるままに放縦の行為をすることを権利と誤認しているのだろう。
一応、権利周りでの考え方についても、私の考えをここで述べておく。
現在西洋社会を中心にして構築されている「権利」思想なるものは、これは歴史的に「社会的抑圧」と「人間の社会行為と地位保障」の戦いでもあった。
古くは、かつて職業は選択できず、思想も自由に言うことができなかった。これは社会が民間人をそう抑圧していたからである。
それではいけないと、フランス発で「そんな抑圧耐性は人間としてありえないから、せめて最低限、人間が生活していく上で、人生を送る上で、ここだけは守らなければいけない意識と社会的規範を思考や概念の上で規定しよう」と言ったのが権利である、と私は考えている。
さて、それでは実例を見てみよう。
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リトルロック高校事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E9%AB%98%E6%A0%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
リトルロック高校事件(リトルロックこうこうじけん、英:Little Rock Nine)とは、1957年にアメリカ合衆国のアーカンソー州リトルロックで起こった人種差別騒動。アメリカ公民権運動における重大事件のひとつである[1]。
1954年のブラウン判決によって、それまで行なわれていた公立学校における白人と黒人の分離教育が違憲となり[2]、各地で白人と黒人が同じ学校に通う融合教育化が進められるようになった。
アーカンソー州は人種偏見の強い南部の中では差別撤廃に最も積極的な州ではあったが、1957年にリトルロック・セントラル高校の融合教育化が決定すると、当時のアーカンソー州知事オーヴァル・フォーバス(英語版)は州兵を学校に送って黒人学生の登校を阻止した。異人種融合に反対する地元の白人も大群衆となって学校を取り巻き、黒人学生の登校に反対した。
リトルロックの市長がフォーバス知事に法律順守を進言したが拒否されたため、市長はドワイト・D・アイゼンハワー大統領に軍の派遣を要請した。アイゼンハワー大統領は事件について報告されていたにもかかわらず、州の権限に介入することによる政治的問題が起こることを鑑みて静観していたが、騒動がテレビで大々的に報じられ国内外で大きな注目を浴びるに至り、市長の要請に応じて合衆国軍の第101空挺師団をリトルロックへ送り込んだ。入学予定の9人の黒人学生(Little Rock Nineと呼ばれた)は軍の護衛付きで登校した。
その後も軍の警護がついたが、校内では白人生徒による黒人生徒への激しいいじめや命にかかわるような暴力的な嫌がらせが続き、耐えかねて一人が中退したが、1958年に一人が無事卒業した。フォーバス知事は、騒動後も融合教育に反対し続け、融合を命じられた高校3校を突然閉校するという暴挙にまで及んだ。
>
当時の写真:
後ろにいるデモ隊の白人女性が、登校した黒人女性のオーザリン・ルーシーに叫んでいる。
あるいはアメリカでは、つい50年ほど前までは、露骨な黒人差別は普通の出来事だった。
こんな感じ。
水飲み場は分けられ、バスは後部座席に黒人、前部に白人、と言う具合に分けられていた。
あるいは、アメリカの第65代国務長官だったコリン・パウエルの話を思い返してみよう。
氏は、自伝の中で、「妻との新婚旅行の時、トイレを探すのが大変だった」と回想の中で述懐している。
なんでも、南部の州でのトイレは男性用・女性用・カラード用の三種類に分かれていたと言うのである。
さて、こうしたことに対して、社会的公平性は誰にでも与えるべきだろうか?
答えはイエス。人種によらず、学校に入れるべきだし、教育は受けられるようにすべきだ。
そう、誰でも社会を構成する際の公平な行動原理を担保するのが権利なのだ。
それでは「誰でもどこでも、集団で使う浴場ではウンコをできるようにするべきだ」と言う論は通るだろうか?
一応日本国内の話を言えば、答えはノー。
そして欧米各国でも答えはノーだろう。
これは文化の違いなのかもしれないが、日本人にできていて外国人にはできないと言うことであるならば、その権利を声高に主張してもいいかもしれないが、「俺一人だけのわがままを通させろ」と言う意味合いにおいて人権が守られるわけではない(=その指摘や注意、あるいは補導、逮捕はヘイトではない)。
その社会共同集団が、属している構成員に対して、待遇を意図的に下げたりするのが差別なのであって、その共同体内でみんなが守っている一定のラインを守らず、構成員が犯罪やマナー違反をしてそれを告発したり、しょっぴいたりすることは人権侵害でもヘイトでもなんでもない。単に治安維持だとか注意とかの類だろう。そこを諸外国人は履き違えている。
と言うことで、いろいろ。
このマンガがヘイトであるとやり玉に挙げられていると言うネット上の文章を見て、うーん? そうか? と疑問に思うことしばしば。
なぜかというと、そういうのは別に外国人に限らず日本人でもたまにやらかす人がいるからだ。
阿川佐和子さんのインタビューで、インタビュー相手の人が、「銭湯話の時にぼけちゃったおじいさんがウンコをして、番頭が子供に「絶対誰にも言うなよ」と言われた」と言うエピソードなどがたまにある。
日本人でもボケれば、大衆浴場で例外的にウンコをするのだ。人間とは完全ではない。
ただ、日本人自身にそういう民族的な習慣性はなく、それは他国の習慣(と言うよりそうしたルールを遵守するような習慣がない、と言った方が適切化)でもあるが、しかしこのマンガではそれに言及していない。
なのに、このマンガはなぜヘイトとなるのだろうか?
ここで言うヘイトとは、人種や所属国家、民族に限らず、本来であればそれら全ての人は平等の権利をうけるべきで、それは、平等であるという意識から成り立つのに、偏見による先入観を植え付けることによって、その平等と言う社会倫理を毀損たらしめる行為、あるいはその諸端となる言動のことである。
つまりは個人に対する諸注意ではなく、人権の毀損になるのだが、風呂場でウンコをしてはいけないと言う注意をすることが、なぜ人権の毀損になるのだろうか。
西洋流に、これはアヴァンギャルドな芸術を今体現してるんです! だとか、あるいは、風呂場でウンコをする可能性とその人間の行為を芸術思想的に確保したいんです! と主張するなら、まだ1ミリくらい分からないこともないが(分からないが)、実態としては、その社会を構成している倫理規範やルールを一切無視し、己の本能の命ずるままに放縦の行為をすることを権利と誤認しているのだろう。
一応、権利周りでの考え方についても、私の考えをここで述べておく。
現在西洋社会を中心にして構築されている「権利」思想なるものは、これは歴史的に「社会的抑圧」と「人間の社会行為と地位保障」の戦いでもあった。
古くは、かつて職業は選択できず、思想も自由に言うことができなかった。これは社会が民間人をそう抑圧していたからである。
それではいけないと、フランス発で「そんな抑圧耐性は人間としてありえないから、せめて最低限、人間が生活していく上で、人生を送る上で、ここだけは守らなければいけない意識と社会的規範を思考や概念の上で規定しよう」と言ったのが権利である、と私は考えている。
さて、それでは実例を見てみよう。
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リトルロック高校事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E9%AB%98%E6%A0%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
リトルロック高校事件(リトルロックこうこうじけん、英:Little Rock Nine)とは、1957年にアメリカ合衆国のアーカンソー州リトルロックで起こった人種差別騒動。アメリカ公民権運動における重大事件のひとつである[1]。
1954年のブラウン判決によって、それまで行なわれていた公立学校における白人と黒人の分離教育が違憲となり[2]、各地で白人と黒人が同じ学校に通う融合教育化が進められるようになった。
アーカンソー州は人種偏見の強い南部の中では差別撤廃に最も積極的な州ではあったが、1957年にリトルロック・セントラル高校の融合教育化が決定すると、当時のアーカンソー州知事オーヴァル・フォーバス(英語版)は州兵を学校に送って黒人学生の登校を阻止した。異人種融合に反対する地元の白人も大群衆となって学校を取り巻き、黒人学生の登校に反対した。
リトルロックの市長がフォーバス知事に法律順守を進言したが拒否されたため、市長はドワイト・D・アイゼンハワー大統領に軍の派遣を要請した。アイゼンハワー大統領は事件について報告されていたにもかかわらず、州の権限に介入することによる政治的問題が起こることを鑑みて静観していたが、騒動がテレビで大々的に報じられ国内外で大きな注目を浴びるに至り、市長の要請に応じて合衆国軍の第101空挺師団をリトルロックへ送り込んだ。入学予定の9人の黒人学生(Little Rock Nineと呼ばれた)は軍の護衛付きで登校した。
その後も軍の警護がついたが、校内では白人生徒による黒人生徒への激しいいじめや命にかかわるような暴力的な嫌がらせが続き、耐えかねて一人が中退したが、1958年に一人が無事卒業した。フォーバス知事は、騒動後も融合教育に反対し続け、融合を命じられた高校3校を突然閉校するという暴挙にまで及んだ。
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当時の写真:
後ろにいるデモ隊の白人女性が、登校した黒人女性のオーザリン・ルーシーに叫んでいる。
あるいはアメリカでは、つい50年ほど前までは、露骨な黒人差別は普通の出来事だった。
こんな感じ。
水飲み場は分けられ、バスは後部座席に黒人、前部に白人、と言う具合に分けられていた。
あるいは、アメリカの第65代国務長官だったコリン・パウエルの話を思い返してみよう。
氏は、自伝の中で、「妻との新婚旅行の時、トイレを探すのが大変だった」と回想の中で述懐している。
なんでも、南部の州でのトイレは男性用・女性用・カラード用の三種類に分かれていたと言うのである。
さて、こうしたことに対して、社会的公平性は誰にでも与えるべきだろうか?
答えはイエス。人種によらず、学校に入れるべきだし、教育は受けられるようにすべきだ。
そう、誰でも社会を構成する際の公平な行動原理を担保するのが権利なのだ。
それでは「誰でもどこでも、集団で使う浴場ではウンコをできるようにするべきだ」と言う論は通るだろうか?
一応日本国内の話を言えば、答えはノー。
そして欧米各国でも答えはノーだろう。
これは文化の違いなのかもしれないが、日本人にできていて外国人にはできないと言うことであるならば、その権利を声高に主張してもいいかもしれないが、「俺一人だけのわがままを通させろ」と言う意味合いにおいて人権が守られるわけではない(=その指摘や注意、あるいは補導、逮捕はヘイトではない)。
その社会共同集団が、属している構成員に対して、待遇を意図的に下げたりするのが差別なのであって、その共同体内でみんなが守っている一定のラインを守らず、構成員が犯罪やマナー違反をしてそれを告発したり、しょっぴいたりすることは人権侵害でもヘイトでもなんでもない。単に治安維持だとか注意とかの類だろう。そこを諸外国人は履き違えている。
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