とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

仕事で感謝された話

2017-12-10 13:25:13 | 最近の出来事
最近のことであるが、水曜にポカをやらかしてへこんだ後、木曜日に別のことで朗報があった。

○○のことで、とある人が困っているという話だったので、私が「原因を○○と仮定するならば、こういう解決策はどうでしょう」と言っていた件がヒットし、問題が解決したらしい。

そこで解決後の連絡で「大変助かったと言っていました。ありがとうございました。」と言う報が入った。

私は脆弱なので、誰かに自分がやっていることの礼を言われたかったのだと思う。
勿論、それを期待して仕事をするのはいけないとは思うのだが、甘えたことを言えば、実に過去の扱いが本当に不憫だった。

10年前の私は、それこそ自分のやっている努力が、組織のため、事業のため、グループのためになると、本当に馬鹿正直に信じてやっていたのだったが、仕事に対する総合的な評価が何にも出ず、そのまま潰れてしまった。

そこから10年経過し、その10年の間で一日一日、「なぜあの時に私は評価されなかったのか」と言うのを都度考えていたのだが、その積み重ねの結果、私が出した総合的な結論は、「仕事で何か役立つことをやっても、評価はされず、人生は壊れ、搾取されるだけであるので、仕事に心血を注いだり、あるいは情熱を持って仕事をしたり、あるいは自分の人生を捧げてはだめだ」と言う結論だった。

誰からも何も感謝されず、ただ自分の人生が破壊されるだけであるのであるならば、仕事は真摯に取り組むべきではない、と。

ただ、そんな中でも、上述した先日の問題解決と御礼の例では、御礼の一言を受け取った時「ああ、良かった、誰かの役に立ったんだ」と思った。
その礼を言って下さった方にはこちらからこそ礼を言いたいし、それを迅速に伝達して下さった方にも礼を言いたい。

人としてやるべき仕事とはこうしたものであるべきなのだ。
私が現在の職場で役に立っていることなんて、本当にちっぽけなことしかやっていないし、逆に足を引っ張りまくっている始末であって周囲には大変申し訳なく思っている。
ただ、ほんのわずかだが、上述の瞬間に人の役に立ったと言う充足感が出たのも確かだった。

そして10年前の職場はそれらを全くと言っていいほど言わなかった環境であるとも言える。
人は殺伐として仕事をする為の存在としているのではない。
時に、役に立ったことに関して礼を言える間柄でなければ、信頼ある人間関係とは言えない。
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