カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

カーゲル作曲「フィナーレ」

2008-10-25 14:55:08 | Weblog
 メモです。。。

 可笑しすぎます。。。

The falling conductor ~演奏中に指揮者が倒れるクラシック音楽~
http://jp.youtube.com/watch?v=IA2_W6spGiY

カーゲル作曲「フィナーレ」より

指揮:飯森範親
管弦楽:山形交響楽団

 ***

平成の世にサムライを探して:特集・飯森範親氏
第二十四回 (2007.10.18掲載)
指揮をしながら倒れることもいとわない演技派指揮者は、
日本以上に世界で知られる日本人。
http://www.hitachi-system.co.jp/samurai/feature/24/index.html

あるクラシック音楽に「指揮者が演奏中に倒れる」という指示のある作品があります。この曲に挑んだことのある日本人指揮者は、知られている限り今までただ一人しかいません。それが飯森範親さんです。輝かしいキャリアの陰で人知れぬ挫折を繰り返しながら、今日では日本のみならず世界の交響楽団からラブコールを送られる大人気指揮者に。たった一度の人生ならこんな風に生きてみたいと思わせてくれる熱血仕事人を訪ねるコーナー、今回は世界で知られる日本人 飯森範親さんの生きざまをお届けします。

《ラヴェルの「ボレロ」を聴いて指揮者になることを決めた10歳の少年》

名を成す音楽家は、たいてい幼少の頃からその才能を現し、自分の未来の照準をしっかりそこに定めてしまう人が多い。飯森さんもその例外ではなかった。ピアノを始めたのは4歳のとき。自分から習いたいと両親に告げた。あるとき、ポーランド出身のピアニスト アルトゥール・ルービンシュタインが弾くチャイコフスキーのピアノ協奏曲をレコードで聴いて強烈な印象を受け、「この楽器を弾きたい」と思ったのがきっかけだったという。

飯森さんがピアノを習いたいというと、情操教育の一環としてならそれもいいだろうと両親は考え、おじいさんの援助もあってほどなくピアノが飯森家にやってきた。飯森さんは、小さくて指が届かないながらも、ルービンシュタインの奏でるピアノ協奏曲に合わせて一生懸命メロディーを追いかけていたらしい。また耳のよさも特別で、お母さんがジャーンとでたらめに鍵盤を押さえるとその音をすべて言い当てることができた。

指揮者になりたいと思ったのは10歳のときだ。ある日、お父さんにシンセサイザーで演奏されたラヴェルのボレロを聴かせてもらった。飯森さんは即座に「この曲は何?」と尋ねた。お父さんはラヴェルのボレロだと説明し、あとからオーケストラバージョンのボレロも聴かせた。飯森さんは雷に打たれたような気持ちになり、「この曲を指揮したい!」と猛烈に思ったのだそうだ。

《音楽しか知らない人間にはならない、と普通科高校を志望》

一般的に、音楽家をめざす人は、英才教育で知られる私立の名門音楽校に早い段階で入学しようとする。早く入ればそれだけ長く一貫教育が受けられるからである。しかし、飯森さんは県立の普通高校を志望した。これは非常に珍しいパターンである。なぜなのだろう。

「指揮者になりたかったからです。これは音楽のみならず非常に幅広い知識や教養が必要な仕事です。音楽だけしか知らない人間ではダメ。社会に出たときに誰もが知っていて当然とされる知識はちゃんと身につけておきたいと思いました」

中学生にして飯森さんにはこうしたビジョンがきちんと描けていた。そして志望どおり県立の普通科に入学する。それも神奈川県立追浜高等学校という有数の進学校である。

学校は楽しかった。しかし、指揮者になるためにはやはり音楽大学へ行かなければならない。音楽大学へ行くためには、他の学生のように授業のある科目の勉強をしていたのでは追いつかない。さまざまな音楽の専門レッスンに独力で通う必要がある。これは飯森さんにとって大きなハンディキャップだった。

作曲や聴音は地元の鎌倉で教わることができるからまだいい。しかし、指揮とピアノの先生は東京都在住でレッスンは14時開始。学校の授業が終わってから駆けつけるというわけにはいかない。飯森さんはどうしたか。自主早退である。人知れずいなくなるのである。このことで先生に呼び出されると、音楽大学へ入るための勉強があるのだと説明した。しかし、進学校の先生にはそのことがなかなか理解してもらえなかったという。

《周りのレベルの高さに圧倒されて、出口のない迷路に迷いこんだ2年間》

桐朋学園大学音楽学部指揮科。それが飯森さんの志望した最高学府である。迷いはまったくなかった。飯森さんにとっては、小澤征爾先生がいて、秋山和慶先生がいて、日本の第一線で活躍する音楽家を輩出し続けている、まさに憧れの大学だった。指揮科はなかでも難関中の難関で、合格に該当する者がいなければ入学者ゼロという事態がなかば常態化していたが、飯森さんはそこに現役合格を果たす。しかも、それは外部から、つまり他の高校から入学した生徒としては桐朋学園史上初の快挙だった。入学当初、「飯森範親とは一体何者か」と相当騒がれたらしい。

だが、飯森さんは周りの賞賛に反して、入学を機にとてつもない挫折を味わうことになる。レベルが違う、ついていけない、というのがその理由だった。テクニックがどうこうというのではない。もはや周りは表現者として自己を確立していた。自分の音楽のスタイルというものが完全にできあがっていた。特に指揮という仕事にはそれが求められた。まだ学生だという言い訳は通用しなかった。内部入学生はそれがわかっている。しかし、飯森さんはいわば新参者である。中には飯森さんが桐朋学園の指導法に慣れていないことにまったく頓着せず、厳しく指導する教授もいた。それに耐えに耐えたのだが、精神的なストレスのあまり、なんと十二指腸潰瘍と胃潰瘍と胆嚢炎を併発し、吐血にまで至ってしまったのである。「最初の2年はまさにブランクの2年だった」と飯森さんは振り返る。

「スランプじゃない。ブランクなんです。スランプだったらまだ脱出できる。しかし、あの頃の僕はまったくの空っぽでした。何をしても空回りで、先生からは『なぜ君はそんなに焦っているんだ』といわれるし、何をしても前に進まないという状態でした」

環境も言葉も違う国に転校生としてやってきたも同然だったのだから無理もない。むしろ隔たりを感じて当然だ。しかし、飯森さんの飯森さんらしいところは、そこから一歩も逃げようとしなかったことだ。他の人ならドロップアウトという道もあったかもしれない。しかし、飯森さんはそれを選ぶことはしなかった。

真似できるものはすべて真似し、参考になりそうなものはすべて参考にし、とにかく自分のレパートリーを広げないことには何も始まらないと、飯森さんは手に入るオーケストラ譜をかたっぱしから記憶することにした。オーケストラ譜というのはその曲に参加するすべての楽器のメロディーが記述されているのだが、それをまるまる覚えるのである。

あるときはピアノで、あるときはCDで、あらゆる手段を使って頭に入れた。一日中図書館にこもって楽曲を聴きっぱなしの日もあったという。飯森さんはのちに数多くのオーケストラ譜を完璧に覚えていることで知られ、「暗譜の飯森」と異名を取るようになるのだが、それはブランクを抜け出すための飯森さんの苦闘から始まったことだったのである。この学生時代に覚えたオーケストラ譜だけでも300は下らないというから、実にすさまじい努力だ。

大学時代のほぼ3年間、そのようにして日を送った。大学3年の終わり、フランスの名指揮者ジャン・フルネ氏が来日、桐朋学園大学で特別レッスンが行われることになった。飯森さんはフランス人の先生だからフランス音楽がいいと、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」、ドビュッシーの「海」「牧神の午後への前奏曲」の3曲を演奏した。フルネ氏はすべての演奏を「すばらしい。飯森はフランス人よりフランス音楽を理解している」と高く評価した。これは出口のない闇の中にいた飯森さんをブランクから救う何よりの特効薬となった。今までの勉強がまちがっていなかったことが証明された瞬間だった。飯森さんはフルネ氏の評を心の底から喜び、今でも非常に感謝しているという。

それでようやく自信が持てるようになり、コンクールにもチャレンジ。そして大学4年生の秋、いきなり第20回東京国際指揮者コンクールで第2位入賞(1位該当者なし)を果たす。たちまち飯森さんの名前は日本のクラシック音楽界の知るところとなり、大阪フィルハーモニー交響楽団、札幌交響楽団など、5つのオーケストラから飯森さんは指揮をする機会を提供された。つまり、大学在学中にプロフェッショナルの指揮者として颯爽とデビューしたのである。大学を卒業しても、このまま順風満帆に仕事が来るものと信じていた。

しかし、その考えは甘かった。一人前の指揮者になったつもりでいたのに、仕事の依頼はいっこうに来なかった。5つのオーケストラで指揮棒を振らせてもらえたのは、コンクール受賞のご祝儀だったのだ。飯森さんは仕事が来ないということはもう少し勉強していろということだと自分なりに解釈し、自費で西ベルリンへ行くことを決めた。

かの地では、西洋音楽の本場から大きな刺激を受けたという。しかし、学んだものを試そうと国際コンクールに挑戦するのだが、なかなか入賞できなかった。求められていたのは、単に優秀な指揮者ではなく、明日にもオーケストラをまとめあげて観客の前で指揮ができる即戦力の指揮者だった。そのことに気づいた飯森さんは、再びオーケストラ譜の記憶に取り組み始めた。第二のスコア暗譜時代である。

クラシック音楽は西洋音楽である。それを東洋人として本場で学ぶということはどういうことなのだろう。飯森さんはここでずっとどんなことを考えていたのだろうか。

「ここに来てわかったことは、音楽の中心には作曲家がいるということです。どういうことかというと、音符というのは作曲家の話す言語で書かれているのです。モーツァルトならドイツ語かイタリア語で書かれている。メロディーがそのまま彼らの言語なのです。だから楽曲の理解は、その言語を話し、西洋音楽の伝統を頭ではなく体でわかっている彼らの方が、はるかに分があります。
しかし、四苦八苦しているのは日本人だけではありませんでした。程度の差はあれ、ドイツ音楽にはフランス人指揮者は四苦八苦していたし、イタリア音楽にはドイツ人指揮者も四苦八苦していました。条件はそんなに変わらなかったんです。
それでも、指揮するからには「イイモリはいい」と認められたい。どうしたらそれが可能かを西ベルリンの地で死ぬほど考え抜きました。そしてたどりついた答えが『日本人であることを前面に押し出すこと』だったんです」

日本人は勤勉で完璧主義者で研究熱心という国民性を持っている。これはひいき目ではない。海外に出ると実際に自覚できることだ。それが音楽の世界にも如実に表れる。日本人音楽家の聴音能力の高さは、海外でも非常に有名である。また、労を惜しまず熱心に練習に取り組む姿勢も持っている。さらに、伝統が自分の国のものでないだけに第三者から見た冷静な観察ができる。傍目八目でそこに新しい解釈を持ち込めるというわけだ。ゆえに、日本人だからといって西洋音楽の世界で主役になれないことはなく、かえって日本人であることを誇りとして、それを差別化のポイントとして、前へ前へ打ち出していけばいいのだ、と、飯森さんは西ベルリンにやってきてそのことを悟ることができた。

最初は2、3年で帰ってくるつもりだった。しかし、あるとき、ミュンヘンオペラの練習風景を見る機会を得て気が変わった。今度はオペラ音楽を指揮する魅力にとりつかれたのである。急いで帰ることはないとこちらの勉強にも注力し、結局1991年まで5年間、日本とドイツを行ったり来たりする留学生活を送ることになった。そして「そろそろ日本でも振ってくれ」という声に応える形で飯森さんは日本に帰国する。

《休みは3ヶ月に1日という超多忙な日々、そこまでするのは人々にクラシックに触れてほしいから》

日本に帰るやいなや、飯森さんは恐ろしく多忙になった。1994年、東京交響楽団の専属指揮者に就任。1995年から大阪のザ・カレッジ・オペラハウスを本拠に活躍するオペラハウス管弦楽団の常任指揮者に就任、2002年には名誉指揮者の称号を受けるまでになっている。それだけではなく、広島交響楽団の正指揮者、モスクワ放送交響楽団特別客演指揮者なども務め、海外ではフランクフルト放送交響楽団、ケルン放送交響楽団、チェコフィルハーモニー、プラハ交響楽団、モスクワ放送交響楽団など世界的なオーケストラを指揮している。現在は、ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団音楽総監督(GMD)、東京交響楽団正指揮者、山形交響楽団ミュージックアドバイザー 兼 常任指揮者、いずみシンフォニエッタ大阪常任指揮者、オペラハウス管弦楽団名誉指揮者である。

これだけの交響楽団の指揮を担当すると、たとえばある一週間はこんな感じになる。月曜日は京都、火曜日は徳島、水、木、金は山形で練習し、土、日に本番を披露。その夜のうちに東京に戻り、空いた時間で原稿まで書くという具合だ。完全な休日は3ヵ月に1回というペースだという。なぜそこまで精力的に動くのか。日本の人々にクラシック音楽に触れる機会を少しでも増やしたいから、と飯森さんは語る。

「『この指揮者がなんだか気になる』『テレビで聴いたあの曲を生で聴いてみたい』『マーラーという作曲家に興味を持った』理由はなんでも構わないんです。僕が動くことで、『クラシックを聴いてみようかな』とコンサートホールへ足を運んでいただくきっかけになったらいい、ただそれだけですね。

クラシック音楽こそが音楽だ、と無理に押しつけるつもりはありません。なかにはどうしても性が合わないという方もいらっしゃるかもしれない。しかし、食わず嫌いというか、まったくクラシックに触れることなく人生を終えていただきたくないなと思って。こういう世界もあるんですよ、ということをなんとか伝えたい。そのために僕ができることは、プライベートを削ってでもなんでもしたいと思っています」

現代ドイツの作曲家カーゲルに「フィナーレ」という作品がある。この曲はなんと、後半部分で指揮者が苦しみだし倒れるようにと楽譜に指示が入っている。楽団員は動揺しながら指揮者なしで演奏し、指揮者はそのまま担架で楽屋へ運ばれていく。まるで演劇を見ているかのような心持ちになるこの作品、日本で初演したのは飯森さんだった。2001年、いずみシンフォニエッタ大阪での定期演奏会でのことである。
このことはテレビのバラエティー番組『トリビアの泉』でも「演奏中に指揮者が倒れる曲がある」と取り上げられた。ほかの指揮者なら、このようなパフォーマンスをあえてしようとは考えなかっただろう。事実、飯森さん以前にこの曲を選んだ日本人指揮者はいなかった。しかし、飯森さんのサービス精神は次元が違う。聴衆に楽しんでもらいたいという気持ちがほんとうに強いのだ。

「コンサートに来るお客さんの思いはきっとさまざまです。朝、ちょっと親とけんかをしてしまって、なにかもやもやした気分で来られた独身サラリーマンもおられるかもしれないし、風邪で体調をくずして来るかどうしようか迷いながら、チケットがもったいないから足を運んだ人もいるかもしれないし、この人と結婚すべきかどうしようか考えている最中のカップルもいるかもしれない(笑)。そうしたさまざまな思いで来られた方々に、コンサートを聴き終えて『ああ、やっぱり来てよかったな』と感じてもらいたいんですよね。音楽で生じるプラスの感情、それを届けるのが音楽家としての使命なのではないかと思っています」

《手綱をゆるめず人間修業を続け、最後には「飯森のベートーヴェン」を確立したい》

そのために飯森さんは万全な準備をする。今も彼は「暗譜の飯森」だ。演奏する楽曲は必ず完璧に頭に入れてしまう。指揮台の前に譜面を置くことができ、多くの指揮者は譜面を見ながら棒を振っているが、曲がすっかり頭に入っているのといないのでは、自然と指揮のクオリティは違ってくるという。指揮者には神がかり的なところがあり、楽曲に没入するあまり、自分が自分でないような、あるいは自分が作曲家になったような状態になることがあるという。しかし、そうしたことも楽曲をすっかり体の中に入れてしまわないと起こらない、と飯森さんはいう。

飯森さんは今年7月、日本人指揮者とドイツのオーケストラの組み合わせとしては史上初の快挙といえる「ベートーヴェン交響曲全曲」のCDを完成させた。長い間の夢であったドイツのオーケストラとの来日公演も実現した。プロデビュー以来20年、目標として胸に抱いていたものがすべて形になったのだ。これでようやくひと段落、というのが今の正直な心境だそうだ。しかし、これで夢がなくなったわけではない。今は、もっと壮大なゴールがある。それは、「飯森範親のベートーヴェン」「飯森範親のモーツァルト」を確立することだという。単に指揮の技術という問題ではない。それは、これからもさまざまな分野に興味を持ち、見識を広げて、またさらに人生経験を重ねていった先にようやくかなうことなのだ。

「もっと本を読みたい。もっと人に会いたい。もっと日本や世界を旅したい。この世のすべての楽器を知りたい。いろいろな文化に触れたい。やりたいことは山ほどあります。指揮者というのはその全人格が問われるとともに、それがすべて指揮に出てしまう仕事。人間としての成長を止めた時点で、もう終わりなんですね。これからも人間修業を続けて、最後には僕のベートーヴェン、僕のモーツァルトといえるものを作り上げ、それが聴きたいといってお客様がコンサートホールに足を運んでくださるようにしていきたい。それが僕の究極の夢ですね」

自己評価では現在の完成度は60%。残りの40%を満たすために、飯森さんはますます加速度を上げながらクラシックの世界を疾走し続ける。

特集 飯森範親/了
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