「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           あるインドネシア残留日本兵の生き様

2012-12-06 06:39:57 | Weblog
年末に向かって恒例の書棚の整理をしていたら昔、知人から頂戴した「車の轍」というバンドン自動車第28連隊第3大隊の戦友会誌が出てきた。10数年前インドネシア旅行を共にしたOさんから頂いたものだ。懐かしく当時を思い起こしながらページをめくっていたら驚いた。”ある同年兵の消息”というOさんの原稿の中に、僕が先月訪ねたテマングン郊外の残留日本兵、宮崎富夫さん(故人)の事が書いてあるのだ。宮崎さんは数年前亡くなり、今は息子さんが雑貨店を営んでいるが、日本語ができず短い訪問だったので、何故、宮崎さんがこんな中部ジャワの小さな町に残ったのか聞き忘れていた。

Oさんは戦時中南方地域の軍政要員を育成する「拓南塾」を卒業後、スマラン政庁に勤務していたが、昭和19年現地召集を受け、前記バンドンの自動車連隊に入隊した。宮崎さんはその時の同年兵で終戦は第48師団の移動支援のため駐屯していたバリ島近くのスンバワ島で迎えた。宮崎さんは当時軍隊を離脱してジャワへの脱走を図ったが発見され、Oさんらと一緒に名古屋へ復員した。

Oさんの記事によれば、宮崎さんはその時、日本の土を踏んでも一向に喜ばず”僕はこれからどうすればよいのだ”と絶句していたという。Oさんは宮崎さんがジャワ島生まれで、お父さんの生まれ故郷の北海道には頼れる親戚、知人が一人もいないことを知って同情したのを覚えている。しかし、混乱の時代だったので援助もできずそのまま別れ別れになってしまっていた。

それから数十年の歳月が流れ、Oさんはジャカルタにできた残留日本兵の組織「福祉友の会」の名簿の中に宮崎さんの名前を発見した。そして、お互いに連絡をとって判ったことは、宮崎さんは日本に帰国したが生活が苦しく、在京の和蘭大使館経由でジャワへの再渡航を申請、当時日本に在住していたインドネシア人留学生と一緒に”帰国”したが、すぐ独立戦争に巻き込まれ各地を転戦し、最後にテマングンに居住したようだ。人と人とのつながりは不思議である。まさか僕は宮崎さんがOさんの戦友とは知らなかったし、残留日本兵の中に宮崎さんのような境遇の人がいたことも初めて知った。