おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

発信しないという選択

2024-02-19 11:06:28 | 日記
 Yahoo!ニュースを見ていたら、神戸新聞の記事でこんなのが紹介されていた。

 阪神・淡路大震災では、災害ボランティアセンターを通じて活動したのは、発生から1カ月で延べ62万人だった。それから29年、今度の能登半島地震では、延べ2739人。記事では「自立した市民社会の後退を危惧する声も出る」とあった。

 なぜこんなに少ないのかという背景には、能登半島という地域柄、交通事情から自粛ムードが広がっているというが、そのほかにも大きな要因として、SNSの発達により、支援に向かった人間を売名行為と叩いたり、復興の邪魔になると抗議したり、偽善と攻撃したりする声により、ボランティアに行こうとする者が萎縮してしまうという。馬鹿なことだと思う。SNSで攻撃する人たちは、ただ自分がやらない理由を難癖をつけて正当化しようとしているだけなのだから。

 最近僕が気になるのが、一般人が簡単に「発信」という言葉を使いたがることだ。じっくり自分の人生を振り返ってみれば、「発信」しなければならないことなど滅多にない。が、なぜか「発信」するのは善いことで、「発信」することが何か立派な行いのような風潮である。が、公ではない「発信」なんて、大したことはないとタカをくくっていれば、世の中に出回る「発信」の数々が気になるなんてことはない。気にならなければ、ボランティアをするのに「発信」の必要もないし、それに対するレスポンスを気にかけることもない。「発信」は公の機関に任せておけばいい。

 別の記事で、最近アメリカで通話とメールしかできないスマホができて、人気なのだという。最初からSNSに参加できないと分かっていれば、連絡はごく親しい者の間だけでやりとりすればいい。アメリカの若者にも、SNSが面倒だという人たちが一定数生まれているということなのだろう。

 黙って何かをする、ということがいかに現代では難しくなっているか。自分自身が決めたことをするのに、自分以外の誰が関係しているというのだろう。
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海辺の絵を再び

2024-02-18 11:49:26 | イラスト
 この前描いた海辺の絵を描き直すことにした。前回は用紙を横に使ったのを、今回は縦に使うことにした。横画面だと海辺の広さを感じられるし、縦画面だとモデルを大きく扱うことができるので、どっちもどっちで何が正解というわけではない。

 ただ、縦画面にするに際して、空の部分に新たに雲を描き足すことにした。そうすることで奥行き感を出そうと思ったのだが、そのせいで少しドラマチックになったようだ。



「あちらを立てればこちらが立たず」という言葉があるように、なかなか思うような絵にはならない。もっともうまく行かないので次があり、それが面白いとも言える。

 今読んでいる「本阿弥行状記」によると、寛永の三筆のひとりと呼ばれた光悦が書を始めたのは遅く、それまでは商人が書くような普通の字を書いていたという。それを同じ字を繰り返し書き、太く細く、濃く薄く、さまざまな工夫を加え、誰のものでもない私流の字を会得した。何事も始めるのに、遅いということはないというひとつの代表的事例だ。こういう話は、ジジイに勇気を与えるのである。
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望遠鏡を買う

2024-02-17 11:47:48 | 福島
 30年ほど前に買った双眼鏡を、カフェを始めるときに福島に持って来ていた。窓際のテーブルの上に置き、バードウオッチングを楽しんでもらおうと思ったのだが、どれだけの人が利用したか怪しい。一番利用したのは、結局僕だった。

 それなりに便利だった双眼鏡だったが、あちこちガタが来て、ピントが合わせるところが動かなくなってしまったので、今度は望遠鏡を買うことにした。両目で見る双眼鏡は、意外と扱いが難しいのである。望遠鏡なら片目でターゲットを追いかけることができるため、例えば野鳥の位置を確認するのが簡単なのだ。

 調べてみると安価な望遠鏡でスマホ用というのが出回っている。倍率10倍くらいなら、簡単なもので十分である。ネットで評価が高いのを探すと4000円弱であったので、それを頼むことにした。安物買いの銭失いという言葉もあるが、物は試しなのである。



 届いた望遠鏡はそのまま使うことに関しては問題なく、窓から野鳥を観察するくらいなら十分だ。ただ、スマホに取り付けるのには、付属の部品では脆弱でなんだか危なっかしい。おまけに付属の小さな三脚は、スマホと望遠鏡の重さを支えられず、グラグラしてピントが全然合わないのである。さすがにこの三脚はオモチャであった。

 望遠鏡をスマホのカメラレンズの位置に取り付けると、スマホの画面に望遠鏡で覗いた拡大された丸い景色が現れる。それをスマホの画面上で拡大すると、さらに拡大できるので、実質10倍以上の倍率になった。一眼レフの望遠レンズには敵わないが、身近なものを望遠で撮るにはこれでも結構用が足りるかもしれない。



 連日暖かい日が続いている。散歩をしていると白梅の花がほころんできている。例年は3月に入らないと見ることができない梅の花だが、今年はひと月は早くなっているようだ。散歩の時に望遠鏡を持って行って、バードウオッチングをするのも楽しいだろう。
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領収書が欲しくない時

2024-02-16 11:25:41 | 日記
 国会中継でもニュースでも、出てくる言葉は「裏金、裏金」だ。はなから「裏金」と言っているんだから、そのことがすでに社会的にアウトじゃないかと思うが、岸田さんは「政治資金として使っているので裏金ではない」と言い切る。政治資金として使っているということなら、何に使おうが問題ないという理屈だ。

 政治家はよく、政治には金がかかると言う。一体何にそんなに金がかかるのかという質問には、秘書を雇ったり事務所を借りたり、事務員を雇ったり、選挙ポスターを作ったり、あちこちのイベントに出席したり、政治家の会合に出たりと、とにかく何かと入り用なのだという。

 が、これだけ聞くと、全部領収書があるお金の使い道である。国民に発表してもなんらやましいところのないお金の使い方である。だったら全部領収書をつけて記載すれば問題ないと考えるが、政治家はどうしても領収書のいらないお金を使いたいらしい。

 だったら、堂々とどういう場合に領収書がないお金が発生するのかを説明すればいい、と僕なんかは思うのだ。後輩政治家にお小遣いを渡す時だとか、お世話になっている後援者にお金を渡したりだとか、どうしても票が欲しいからお金を配ったとか、そういうことなので領収書はありませんと言ってくれれば、国民だって「そうだよな。政治家だもんな。そのくらいのことはしているよな」と少しは情けをかけるのである。それを、真っ当な使い方をしてますみたいな言い訳をするから、国民は呆れているのである。

 裏金を何に使ったか、ということを言いたくないのであれば、「例えば」でいいので、領収書があると困る場合を説明してくれれば、国民も正直な人だと評価してくれるのである。
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本阿弥行状記

2024-02-15 11:32:54 | 日記
 習字をやり始め、初心者向けの書道の歴史の本も読んだ。それによると、日本で三筆と呼ばれる書の名人は、嵯峨天皇、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)ということになっている。うろ覚えだが、嵯峨天皇の時代、平安時代の初め頃に遣唐使として唐に渡ったのが空海と橘逸勢で、3人とも同時代の人である。

 それから時代が下ると、NHKの大河ドラマ「光る君へ」にも登場する藤原行成ほか、藤原左理、小野道風が、書のうまい3人ということで三蹟と呼ばれている。

 で、ずっと時代が下り江戸に入ると、寛永の三筆として本阿弥光悦、近衛信尹、松花堂昭乗が登場する。この中のひとり本阿弥光悦が、現在、東京国立博物館で「本阿弥光悦の大宇宙」として展覧会が開かれている。それもあって、報道番組や特番で光悦のことが紹介されている。

 この前たまたまNHKの「歴史探偵」というのを観たら、本阿弥光悦の回だった。習字の本で見ていたので、書の展覧会かと思ったら、光悦という人は日本のダ・ヴィンチと呼ばれるくらい多彩な人で、書はその中のひとつだと知った。

 千利休もそうだが、茶ばかり立てていたわけではない。茶室や茶道具、振る舞いや心構えも含め、すべてをプロデュースしたのが茶道として受け継がれているのである。今で言うところのアートディレクターかプロデューサーが、立場として近いのかもしれない。

 本阿弥光悦もそうしたマルチな活躍をした人で、家柄は刀剣を磨いたり鑑定したりしていた家に生まれている。が、鍛えられた審美眼は、刀剣だけではなく、書や陶芸へと幅広く発揮された。そうしたことから徳川家康から京都の北の鷹ヶ峰という場所を与えられ、そこに今風で言えば芸術家村を作った。

 そんなことが紹介されていたので、もう少し詳しく知りたいと、早速ネットで「本阿弥行状記」(中野孝次著)というのを頼んだ。中野さんは昔、「清貧の思想」というのでベストセラーを出した作家だ。ベストセラーになるくらいだから、きっと誰でも読みやすいのだろうと気軽に注文したが、届いた本は光悦の子孫が書いたという体裁を取っているため、読むのに骨が折れる。

「年寄りの昔話で退屈でありましょうが、これはこの家に関わる大事な言い伝えゆえ、我慢して聞いてくだされ」という具合だ。辛抱強く読まなければちっとも頭に入りそうにないので、我慢して読み進めることにする。
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たっぷりの日差し

2024-02-14 11:39:32 | 福島
 日中の気温が15度にもなるというので、朝食後は早速ランニングに出た。明日は春一番が吹くくらい風が強いらしく、明後日は冬に逆戻りだという。今日を外したら、再び凍えるランニングになるのである。

 朝から暖かいので、ランニングには寒さ対策のウインドブレーカーやジャージは必要ない。長袖のシャツとランニングタイツとランニングパンツの軽装だ。いつもは凍ったアスファルトに足の裏が痺れ、まるで正座した後の足の裏みたいな状態になるところが、今日はしっかりと足の裏で地面が感じられるのである。おお、体も軽い軽い。というわけで、いつもより全然疲れず2時間走り切った。



 季節はすでに4月である。とても2月前半とは思えない。この冬初めて我が家の庭にヤマガラが可愛い姿を見せたが、いろんな野鳥が活発に動き回っている。





 周囲を見ても、春の野に春の山。そして春の空。どこまでも春の景色が広がる。雪解けの雪の上には、おひさまで溶けかけた野うさぎの足跡が続いている。モクレンの蕾もすっかり大きくなっている。





 ニュースではスキー場の雪が溶け、ワカサギ釣りのための湖の氷が薄くて営業できないと言っていたが、暖かい冬は僕にとってはありがたい。リラックスして外にいられる時間が長くなるというのは、なんとも楽しいのだ。
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達人への道

2024-02-13 11:43:26 | 日記
 小林秀雄の本を読んでいたら、「葉隠」の中の言葉が引用されていた。「葉隠」というのは、藩主に仕える武士の心構えについて江戸時代に書かれた書物である。「葉隠」は読んだことがないが、「武士道と言うは死ぬことと見つけたり」という言葉は有名だ。

 で、引用されていた言葉は「修行においては、これまで成就ということなし。成就と思うところ、そのまま道に背くなり。一生の間、不足不足と思いて、思い死するところ、後より見て、成就の人なり」というものだ。簡単に言うなら、こういうことだろう。

 何ごとかを成し遂げようと思って努力するというのは、決して終わりということはない。すべてうまくできたと思うことは、すでに努力する道に反している。一生にわたって「まだまだ」と思い、思いながら死を迎えてこそ、周囲の人たちは何ごとかを成し遂げた達人と思うものだ。

 これと同じようなセリフを最近ニュースで見た。それは大谷くんがインタビューの中で、「バッターとして自分にはまだまだ技術的に修正するところがあり、やることがたくさんある」と応えていたことだ。それを聞いた瞬間、ちょうど読んでいた「葉隠」についての文句と同じだったことから、達人と呼ばれる人たちはいつの時代でも同じことをしているものなんだなあと感心したのである。

 人間というのは、あれやこれやといろんなことを考えて生活している。夢や理想や野心や計画といったことで頭をいっぱいにして日々暮らしている。が、行動という観点に立つと、僕らには常に「やるのか、やらないのか」という二者択一しかないことに気づく。その中間というようなものはない。だから、僕らの精神と行動というのはなかなか一致を見ないわけだが、精神と行動とがピタリと一致する瞬間がある。それを人は「覚悟」と呼んでいる、と小林秀雄が同じ本の中で書いていた。となると、凡人が達人になるために足りないのは、きっとこの「覚悟」ということなのだろう。
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すっかり春

2024-02-12 12:29:54 | 福島
 穏やかで暖かい日が続く。まだ2月も半分も過ぎていないのかと思うと、地球温暖化の影響を肌で感じるようになったと言えるだろう。温暖化の問題と言ってもピンとこないなあと思っていたが、こうなって来ると、いよいよ地球は危ないんじゃないかと心配になる。環境破壊というのは徐々に進むのではなく、お風呂の水が溢れるように、さっきまで乾いていた浴室の床が溢れ出した瞬間からどんどんビショビショになってしまうのと同じなのである。



 とは言うものの、暖かいというのは気分は上がる。とりわけ東北のように寒い日が続く冬よりも、暖かい冬の方が過ごしやすいのだ。



 まだ雪の残る里山を、テオを連れて歩き回る。冷たい北風に震えながら歩くよりも、ぽかぽかと暖かな日差しの下をのんびり歩くのは幸福感に包まれる。



 テオものんびり歩く方が、より道草が食いやすいので、あちこちにマーキングしたり、周囲を観察したりとやることがたくさんあって楽しそうだ。



 2月とは思えないほど空は真っ青だ。その中を白く細い飛行機雲がどんどん伸びて行く。飛行機からはこちらがどう見えているんだろう。



 ぐるっと里山を周り、我が家に近づいてくると、それまでモコモコとしていた雲が、いつしかうろこ雲になっていた。空はますます高くなり、まるで秋空のような気配である。
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再び大谷くんの絵、春の陽気

2024-02-11 11:37:36 | イラスト
 再々再度大谷くんの絵に挑戦した。なんだか描けば描くほどうまく行かなくなる気がしてくる。ただ、描けば描くほど理想が高くなってくるので、満足するということがなくなるのかもしれない。とにかくこれくらいしか描けなかった自分の実力を認めるしかない。何枚も描いて行けば、そのうち少しは満足行くものができるだろう。



 それにしても、毎日春みたいな陽気だ。おまけに来週は気温も上がり、20度近い日も出てくるという。体感的にはすでに3月下旬の感じだが、この調子で行くと3月には桜が咲くんじゃないかと思う。



 山には雪が残るが、この辺では4月の下旬でも山は雪を被っていたりする。空の感じはすっかり冬が終わり、ひねもすのたりのたりかな、といった感じである。毎日のように午後はテオを連れて長い散歩に出る。本当に気持ちのいい日が続く。



 空き地ではすでに菜の花が咲いている。と思ったら、庭先で福寿草の花が咲いているのを見つけた。





 福寿草の花が咲いているなんて、本当にひと月は季節が早く進んでいる。



 春は黄色い花が目立つようになるが、電線の上に黄色いキセキレイの姿を見かけた。このキセキレイは毎年冬になると同じ場所に生息している個体だ。



 テオは毎日長い散歩に連れて行ってもらえるので、午後になると「早く出かけよう」と催促するようになった。
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とばっちり

2024-02-10 10:55:54 | 日記
 ニュースで四国犬の話題が続いた。ひとつは脱走した犬が近所の公園で人間や小型犬を襲ったというニュースで、ケガ人も多数出て全国的なニュースになって当然ともいえるものだ。飼い主は犬好きで、散歩も欠かさず犬中心の生活を送っていたというが、多頭飼いになっていたうえに、義務付けられている狂犬病の注射も怠っていたというのだから、言い訳しようがないのである。

 が、もうひとつのニュースは全国ニュースで取り上げるほどかと思わずテレビにツッコんだ。高齢者が犬を散歩中に首輪が抜け、そのまま行ってしまったというものだ。ニュース映像では、犬が車の往来のある道を、不安そうに歩いているもので、早く保護されればいいなと犬にも飼い主にも同情した。

 首輪が抜けたり、リードが手から離れたりというのは珍しいことではない。テオは早朝散歩をしていたら、突然近くの小学校で運動会を予告する花火が上がり、驚いて逃げ出してしまったし、前の犬のトトは、マラソン大会のピストルに驚いて逃げてしまった。

 ストレスで脱走する犬はフラストレーションが溜まっているので危険な要素をはらむが、普通は逃げ出したくらいではニュースになるようなものではない。ただ逃げたというだけで、ニュースではクマが現れたとか、毒蛇が逃げ出したくらいの扱いだ。わざわざその辺の人にインタビューし、怖いですねと言わせてテレビで流す。警察が出動して犬の行方を探していると、まるで凶悪犯か脱獄犯みたいである。日本人の動物恐怖症を常々いぶかしく思っているが、飼い犬の脱走にもこの騒ぎかと驚いてしまう。

 ニュースにするのは、人を噛んだときだけにしてもらいたい。また、フンの始末をしなさいという看板をやたらに見るが、始末をしない人に直接言ってもらいたい。これは海外でマナー違反をしたのが日本人だったというので、日本人すべてがそういう人だと言われるのと同じような気持ちになるのである。

 話はちょっと変わるが、毎年実施している狂犬病の注射というのは、実はあんまり意味がない。なぜなら、日本に狂犬病は存在していないからである。ただ、海外にはある。だから一番危険なのは、海外に出かけた旅行者が海外で狂犬病の犬にかまれて帰国することである。

 そういうことなので、本来注射をしなければならないのは、日本国内の犬ではなく、海外旅行をしてきた人間のほうなのである。では、なぜいまだに狂犬病の注射を義務付けているかというと、それでおいしい思いをしている人たちと、規則を改めることには後ろ向きなお役所体質のせいである。
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