ノーベル文学賞(2001年度)作家のナイポール(Vidiadhar Surajprasad Naipaul)が執筆した、「ヤムスクロの鰐」という小説がある。取材記者としてコートジボワールを訪れた作家本人が、日常の出来事や、ここに住む人々の反応などを観察して、素直な驚きを書き綴っている。そして次第に彼は、生活風習に根差す神秘主義や、その背後にある呪術信仰・世界観に、引き込まれていく。
小説の中で彼は、人々の自然崇拝、つまり呪術の世界を解明しようとして、もどかしい努力を重ねる。呪術の世界は、アフリカの人々の心の底に浸透している。フランス人が教導してきたキリスト教の文化と文明は、その上から覆いかぶさっているに過ぎない。
アフリカの人々には、「昼の世界」と「夜の世界」がある、と小説は説く。昼の世界では、西洋文明に生きて、生産と経済発展を追求し、近代社会の物資的な価値を重んじるけれども、夜の世界に入れば、人々は、内心の世界、因習の世界、過去から続く世界のなかに入り込む。そこでは精霊や呪術師が絶大な権威を持つ。そして、この国にある多くの物語と同様、この小説も、起承転結も結論もないまま、曖昧の中に終わる。
この小説を1年前、こちらに来た前後に読んだ。その時には、何か不思議なことが脈絡もなく書かれているという印象だけで、とくに記憶に残っていない。最近もう一度読み返してみたら、いろいろ発見がある。まず、コートジボワールの風物や、人々と時間の怠惰な流れがよく描かれている。四半世紀経っても、そういうところは全く変わっていない(小説は1983年に執筆されている)。
それだけではない。小説に描写されているとおり、こちらの人々は、たしかに超自然の力をとても素直に崇敬している。それを私も、日ごろの付き合いの中で感じている。それに呪術信仰とかアニミズムとか、名前を付けてから、いざ解明してみようとすると、まったく雲を掴むようだ、という小説の可笑しさが、私自身の経験と一致している。呪術信仰に興味を持ったナイポールは、タクシーに乗って、事件の現場までわざわざ出かける。しかしそこには、要領を得ない答えと、何の変哲もない村の風景しかなく、手ぶらで帰るのである。
さて、小説の標題になっている「ヤムスクロの鰐」というのは、ヤムスクロの大統領官邸のお堀に住む、大きな鰐の群れである。ナイポールは、この鰐に、ウフエボワニ大統領の絶対的権力と呪術的魔力を読み取ろうとする。そして、ヤムスクロまでやってきて、単に観光客相手の餌やりの見世物になっているのを見るだけで、やはり手ぶらで帰ってくる。
ヤムスクロに行く機会があったので、鰐を訪ねてみた。ナイポールの小説にある通り、黄色い塀の続く大統領官邸をとりまくお堀の一角に、鰐の餌場があった。これも小説にある通り、観光客らしい人々が、何人か集まっている。岸に近づくと、いるいる、ほとんど背中まで水につかった奴が、十数匹たむろしている。岸辺の丘にあがっている鰐は、軽く口をあけ鋸のような歯を見せながら、じっとしている。目はどこを見ているのか。何を考えているのか。ちょっと愛着の持てない、わからない連中である。
どのくらいの鰐(クロコダイル)がいるのですか。私は、そこにいる餌係に聞く。
「クロコダイルじゃない。ここにいるのは、みんなカイマンだ。」
どう違うのだ。クロコダイルでもカイマンでも、私には同じ鰐だ。餌係が言うところのカイマンが、この堀には300匹ほどはいるという。1960年にコートジボワールが独立して間もないころ、マリのモディボ・ケイタ大統領が、ウフエボワニ大統領に鰐を贈呈した。その鰐が子供を作って増えた。一番大きな鰐は、「大将」と名前がついていて、そのころからずっと住み続けている奴だと言う。すると、私と同じくらいの歳である。鰐は、ずいぶん長生きするものだ。
駕籠に鶏が、何羽も入っている。聞くと、1羽3000フラン(600円)だ、という。可哀そうだけれど、これを見に来たのだ。餌係にお金を渡す。駕籠から取り出されるや否や、鶏は激しくばたついて、叫び続ける。こんな奴でも、自分の運命が分るようだ。餌係の手の中で、鰐から首を反らすようにして、必死にもがいている。無慈悲に、鶏を放り投げた。岸の岩の上に落ちて、鶏は走り、逃げる。
一匹の鰐が、悠然と近づいてきた。丘に首を上げると、突然敏速に走り、鶏を追いかけ、食べるのかなと思ったら、ぴたっと止まる。鶏は、うまく護岸の角に逃げ込んだのであるが、餌係が棒で叩いて、引きずり出した。あわれ鶏は、首を叩かれた上に、鰐の前に追いやられた。途端に、鰐は大口を開けて、鶏めがけて突っ込み、口に挟んだと思ったら、もう数枚の羽根しか残っていない。
これだけのことである。鶏が投げ込まれても、鰐たちは争わない。まるで一匹が、おい次はお前の番だ、と言われて動いたかのようである。鰐は、逃げる鶏を前にして、一回ではすぐに食べず、ちょっと気を持たせる。口をあけて、恐ろしげな歯をみせ、そのままじっとして、観光客相手に、見得を切っている。そして餌係は、鰐の横に降りて、尻尾を掴んで写真を撮らせて、さらに観光客からお金をせびっている。ナイポールの不可思議の世界も、ウフエボワニ大統領の魔力も、何も感じることはできない。単なる見せ物であった。 ヤムスクロの大統領官邸
お堀の一角に鰐が
確かに鰐だ
口を開ければ怖い
鶏は逃げ、鰐は追いかける
鶏、絶体絶命
あわれ鶏
餌係の親爺が鰐を掴む
最新の画像[もっと見る]
-
二つの報道 15年前
-
白黒はっきりしない理由 15年前
-
白黒はっきりしない理由 15年前
-
白黒はっきりしない理由 15年前
-
白黒はっきりしない理由 15年前
-
白黒はっきりしない理由 15年前
-
白黒はっきりしない理由 15年前
-
白黒はっきりしない理由 15年前
-
白黒はっきりしない理由 15年前
-
大使たちが動く(2) 15年前
応援していきます!!