コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

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エピローグ(4)

2012-04-25 | Weblog
「よりによって、なぜあの日本大使が、って、とても心が痛みました。」
コートジボワールの友人たちが、私にそう言う。
「日本大使を、申し訳ない目に遭わせた。国民みんなに代わって謝りたい。」
そう言ってくれる人もいる。

日本は、大統領選挙の実現にむけて、けっこう大きな役割を果たした。投票箱を全国に供給しただけでなく、大統領選挙実施の直前には、さらに追加の資金を提供した。投票所が足りないといえば小屋の建設費を出し、開票結果が運搬できないといえば車の借料を肩代わりするなど、モグラ叩きのように、延期の口実となりうる資金不足を潰していった。

そうした支援のたびごとに、私は新聞やテレビに登場し、大いに宣伝を打っていった。選挙期間中には、民謡のコンサートを開催した。テレビ番組にもなり、子供たちは「ソーラン節」を口ずさんだ。だから、日本が選挙の実施に、大いに力を発揮したことは、コートジボワールの人々はよく知っている。そういう支援をした国の大使が、よりによって襲撃に逢うとは、まことに割に合わない、ひどい話になったものだ、と受け止められている。

ところが、本人である私自身がそう感じているか、割に合わない話だったと思っているかと言えば、少し違っている。たしかに襲撃はひどい話だった。犠牲も損害も大きかった。でも、そのひどい話を償って余りある、後日談がある。

昨年4月6日の襲撃のあと、私はアビジャンを脱出して、大使館ごとパリに一時待避していた。4月11日のバグボ逮捕により、現地の情勢は次第に落ち着き、いよいよウワタラ大統領が、就任式典を行うことになった。民主主義と平和の回復を祝う意味もあって、式典には国連の潘基文(バンキムン)事務総長、フランスのサルコジ大統領ほか、22ヶ国の首脳が集まるという。私はパリから飛んで、式典に出席することにした。そういうわけで、私は脱出後はじめて、アビジャンに戻ったのである。

当日、つまり5月21日、就任式典は、法律上の首都であるヤムスクロで行われる。ヤムスクロは内陸に250キロ離れているので、私を含め出席する各国大使は、アビジャンから国連機に乗って行くことになった。ところが、小さなヤムスクロ空港に、22ヶ国首脳の特別機が到着するものだから、私たちの飛行機は後回しにされ、2時間近くも遅れて到着した。

空港からバスに乗って連れて行かれた式典会場には、何千人という人々がすでに詰めかけ、座って式典開始の時を待っていた。私たち大使連中は、会場の後ろの入り口から導かれ、前のほうに用意された外交団席に歩いていこうとした。私たちが並んで入場するや、座っていた人々がどよめいた。そして誰からとなく立ち上がって、拍手をはじめた。

私は、何がおこっているのか、よく分からない。たまたま私たちのあとから、バンキムン事務総長か、サルコジ大統領あたりが入場してきたのだろうと思った。そして後ろを振り返ったけれど、誰もいない。それでようやく、私は気がついた。

拍手は、私に対してであった。私は、両手をあげて拍手に答えた。数千人の大歓声になった。手前の席に知り合いをおおぜい見つけたので、誰彼なく肩を抱き合って挨拶した。会場じゅうが立ち上がって、「日本大使が戻ってきた」と声を上げている。コートジボワールの人々は、皆たいへん心配してくれていた。私の姿をみて、無事だったと喜んでくれているのだ。

この様子を、中継のテレビカメラが捉えていた。国内だけでなく、西アフリカ向けの衛星放送に乗って、私の映像が流れた。そののち、「あなたはあの日、隠れたヒーローだったね」と、アフリカ各地の友人からも言われた。

ここまでは、コートジボワールの人々の真心にふれて、嬉しかった話である。もうひとつの後日談は、得意になった話だ。

それは、8月7日、ウワタラ大統領になって初めての、独立記念式典の日のことである。私はすでに、大使館をパリでの一時待避から戻し、アビジャンで執務を再開していた。私たち大使連中が外交団席に座って待っていると、ウワタラ大統領は、予定時間の10時に1分たりと違わずに、記念式典をはじめた。2ー3時間遅らせても平気だったバグボ時代との違いを、際だたせた。式典は、国旗への栄誉礼、軍隊・警察の行進、ウワタラ大統領の演説と続き、最後に民主主義と平和のために戦った人々への叙勲、ということになった。ソロ首相や、バカヨコ選挙管理委員長など、立役者たちが名前を呼ばれ、勲章が付与された。

そのうち、国連のチョイ代表の名前が呼ばれた。チョイ代表は戸惑いながらも、前に出た。次に、フランス大使が呼ばれ、そして米国大使の名前が呼ばれた。私の近くに座っていた米国大使は、そんな話聞いていない、と言いつつ、フランス大使に目配せをした。大使が任国で叙勲を受けるには、本国の許可がいる。フランス大使にも米国大使にも、事前の相談はなかったらしい。フランス大使は、断る道理はないだろう、と言いながら、拍手の中をいっしょに前に出た。

「日本大使、岡村善文閣下。」
と、私の名前が呼ばれた。私はびっくりした。ウワタラ大統領を一貫して支持し、軍事力まで提供したフランスや、オバマ大統領自ら強くバグボを非難してきた米国は分かる。しかし、日本は両者の対立には中立を保ち、努めて介入を避けてきた。日本の立場は、ウワタラ大統領には、冷たい態度だったと思われても不思議はない。それでも、私の名前が呼ばれた。そして、大使の名前が呼ばれた国は、そこまでだった。

私は前に出た。もちろん私にも事前の連絡などはなかったから、手続き上は困るのだけれど、東京の本省には事後承諾を頼もう。私は、並みいる政府や各界の要人たちが拍手で祝ってくれるなかを、フランス大使と米国大使と並んで、国爾大臣からコマンダー章を授章した。かなり高い等級である。私は勲章を胸に付けてもらいながら、心に快哉を叫んでいた。勲章が嬉しかったからではない。フランスと米国と肩を並べたことが、この上なく嬉しかったのである。実にここまでの道のりは長かった。

思えば3年前に着任した頃、日本の存在は皆無に等しかった。紛争のために、日本のビジネスマンは皆、引き上げていた。経済協力も、たいへん限定的なかたちでしかできなくなった。そして、コートジボワールの問題は、その地理的な位置や、経済的な利権からは、もっぱら欧米の国々の関心事と考えられていた。ここでは、旧宗主国で駐留軍を派遣しているフランスの影響力は、絶大だった。そして、世界の政治を主導する米国には、誰もが重きを置いていた。しかし日本は、部外者とまでは言わないまでも、あまり主要な関係国であるとは見られていなかった。

悔しかったのは、コートジボワールの経済運営面を指導する上で主要な役割を果たしていた、世界銀行やIMF(国際通貨基金)から、日本が忘れられていたことである。政府の予算や経済の構造改革を監督するため、数ヶ月ごとに本部から出張者が来て、検討会議が開かれていた。そこに、日本は招かれていなかった。一方で、欧州諸国は皆、招待されていた。

それからというもの、私は一つ一つ声を上げていった。ワガドゥグ政治合意の実施プロセスに、日本を混ぜろと主張した。そして、政治合意の国際会議に出席するようになり、また、他にも関係の会議に出たら、必ず手を挙げ、何でもいいから発言した。使える経済協力資金を駆使して、いろいろな案件を始めた。そして、これが肝要なのだが、そのたびごとに新聞を使って宣伝に努めた。

大統領選挙が近づくにつれ、私はどんどん正面に出ていった。資金の手当については、先に述べた。それに加えて、私はコートジボワールの人々に、日本は手本になると説いた。日本の人々はコートジボワールの人々とともにある、と演説した。およそのこと、思いつくことは何でもやった。そのうちに、日本には必ず声がかかる、というのはもちろん、何事にも必ず相談があり、頼りにされるようになった。

そして今、ウワタラ大統領は、外交団のなかで感謝すべき国として、フランスと米国と、そして日本を挙げた。あのフランスと、あの米国と、ここコートジボワールで同列に並んだのだ。私は、とうとうここまで来たかと、感無量だった。

あの事件がなかったら、コートジボワールの人々の真心が、これほど鮮烈に示されることはなかったかもしれない。日本が、危機の最後まで残って、コートジボワールの人々と苦難をともにしたことが、覚えられることはなかったかもしれない。日本の役割と重さは、多くの人々の心に、しっかりと記されただろう。私は、3年間の私の外交の手応えを、たしかに感じたのである。
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