コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

偏ったテレビ報道

2010-12-13 | Weblog
「1984年」というジョージ・オーウェルの小説がある。1949年に執筆された当時、まだ生々しいヒットラーのナチス独裁の経験、そして現在進行中のスターリンの恐怖政治などを踏まえ、全体主義国家の恐ろしさを描いたものである。舞台である仮想の国「オセアニア国」では、ビッグ・ブラザーという本当に存在するのかどうかさえわからない指導者が、つねに目を光らせ、人々の思想を統制している。

思想統制のために、言語が制限され、「ニュースピーク」なる新開発の言葉を使うように指導されている。その「ニュースピーク」の世界では、自由や人権といった思想を表現する語彙は、徹底的に排除されている。歴史も常に改竄され、人々はもはや、何が事実であり、何が真実であったかを、知る術を失っている。そして、街のあちこちにあるスクリーンでは、常にビッグ・ブラザーのにこやかな肖像が映し出され、人々に何をどう考えるべきかを指導している。

という筋書きである。さて、決選投票が終わってからこのかた、ここの国営テレビ放送を見ていると、この「1984年」に描かれた思想統制を思い起こさせる。つまり、バグボ大統領の側の立場でしか放送が流れない。アケ・ンボ内閣の閣僚が、それぞれの役所で仕事を順次始めている様子、バグボ大統領を祝福に訪れる人たち、そして、バグボ大統領の選出を正当化する解説番組、等々。ウワタラ大統領の側の情報は一切流れず、西アフリカ共同体(ECOWAS)やアフリカ連合(AU)から加盟資格停止を食らったような報道は一切出ず、そして国連が登場するとしても内政干渉の悪者として出てくる、という具合である。

国内の地上波テレビは、この国営テレビ放送しかない。コートジボワールには、民放は存在しないのだ。海外からのケーブルテレビはあって、こちらのニュースではウワタラ大統領側の動きが報じられているけれど、これについては、配信の回線が切られたり、音声が邪魔されて出なくなるといったことが起きている。国連(UNOCI)が放送していたラジオ放送「UNOCI-FM」は、中継局で妨害されて聞こえなくなった。結局、一般庶民は、バグボ大統領を肯定する情報を流すテレビ番組ばかりを、朝から晩まで見続けることになっている。

12月8日に出された、国連の安全保障理事会の「報道声明」でも、この事態を問題視している。
「理事会メンバーは、非政府系の放送メディアが中断させられたことを憂慮する。コートジボワールの全ての市民にとって、メディアを通じて複数の立場にたつ多様な情報が得られることの重要性を想起するとともに、コートジボワール当局が国営メディアへのアクセスを認めるように要請する。」

いくらバグボ大統領が、自分は「憲法的には正しい」大統領だと主張しても、国営テレビでこのような一方的な番組しか流さないでいるとしたら、それは「1984年」の独裁政権みたいなものであり、自由と民主主義を標榜した「コートジボワール憲法」の理念には到底そぐわない。

そこで、安全保障理事会の理事会メンバーである国々の大使のなかから、有志できちんと申し入れをしに行こうということになった。米国とフランスは常任理事国として、そして日本も今月末までは非常任理事国であるので、私もその有志大使グループに参加することを了解した。他にも、今の非常任理事国のうち、コートジボワールに大使を置いている国は、トルコ、ブラジル、ガボン、ナイジェリア、レバノンがある。これらの国の大使にも、それぞれ声がかかった。

さて、私たちの間で相談して、まず申し入れの中身をまとめた。今のようなバグボ大統領に偏った報道や、バグボ大統領に批判的な放送局には放送を許さないという姿勢は、これは至急に改めるべきである。そういう、安全保障理事会としての一致した意見であるということを伝えるとともに、これからもそれを続けていくならば、国際的は批判が高まって、制裁措置が打ち出される可能性がある。だから気をつけた方がいい、ということを助言する内容にした。そういう準備をしたうえで、国営テレビ放送局の局長ほかの幹部、そしてメディアの統制を担当している「国家視聴覚評議会(CNCA)」の幹部を選んで、申し入れのための面会を申し込んだ。

同じような働きかけ、つまり安全保障理事会が「報道声明」で表明している内容を伝える働きかけを、軍、警察、憲兵隊の幹部にも行うことにした。そうしたら、バグボ政権側から、おおいに激しい反応が返ってきたのだ。

土曜日(12月11日)の夜8時半のニュースで、画面にギリエウル内相が現れた。そして、こう声明を読み上げた。
「ここ数日、いくつかの西側諸国の大使館から、こっそりと個人宛に、国軍の将校たちへの働きかけが行われている。それは、あたかも当選したように振舞っているウワタラ候補になびくように、説得する試みなのだ。同様に、メディアの規制機関の責任者に対し、また国家メディアの局長たちに対して、接触が試みられている。」

「こうした働きかけの目的は、軍・警察・憲兵隊のなかに、この不幸な候補への支持の声を求めようというものであり、その一方において、国家メディアを引き入れて、わが国の平和と社会共和を揺さぶり、破壊しようとするものである。」

「コートジボワール政府は、外交団に対して、自分たちを接受している国の内政問題に関し、外交官としての地位に伴う節度の義務があることを、改めて注意喚起する。政府は、いかなる外交官であろうとも、コートジボワールの内政問題に介入するような外交官を、これ以上許容することはできない。」

内相が言う、内政問題に介入するような外交官とは、どうも私たちのことのようである。許容できないといって、何か措置をとるというのだろうか。ともあれ、私たち大使連中の働きかけが、かなりバグボ政権側を苛立たせているということだけは、はっきりした。

ギリエウル内相が、私たちを非難する声明を述べたニュース番組が終わった後、映画が始まった。何と、「ルワンダの涙(Shooting Dogs)」である。1994年にルワンダで起こった、民族紛争と大量虐殺。罪もない一般の人々に襲いかかる残酷な出来事と恐怖、それに対して何も抵抗できない無力感、国連の平和維持部隊が、任務上の制約から人々を守れない様子などを描いた映画だ。

国営テレビ放送は、放送統制への私たちの嫌悪感を逆なでするように、この映画を上映している。その意図ははっきりしている。コートジボワールの一般の人々への警告である。下手をすると、この地獄のルワンダのようになるぞ。人々が、無抵抗に鉈で切り倒されるような、そういう怖いことが起こりうるぞ、と。そして、そういう事態になったからといって、国連は全然頼りにならないぞ、というわけだ。

一方でこの「ルワンダの涙」は、地元のラジオ局「千の丘(Radio Télévision Libre des Mille Collines)」が、民族対立を煽る放送を流し続けて、大虐殺を鼓舞した事実も描いている。さて、コートジボワールの国営テレビ放送局は、自らが「千の丘」局と同じ役割を果たしつつあるのかもしれないことを、薄々気づいているということかもしれない。

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