コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

敵意の上の平和

2010-12-20 | Weblog
あの激しい衝突の日は、あれは何か夢でも見ていたのだろうか。そう思えるほど、それ以降この週末にかけて、実に静かな日々が続いている。スーパーマーケットなども開店して、客で賑わっている。平和が戻ったのだろうか。まだ、とてもそうは判断できない。バグボ政権側は、国営テレビで自分の側の番組だけを流し、野党系の新聞を発禁処分にし、そして夜間外出禁止令を継続している。街のあちこちに、警官や治安部隊が睨みを利かせている。静かなのは、人々が怖れているからだ。店が客で賑わっているのは、平和を束の間と見て、人々が買いだめに走っているからだ。

今回のように政治危機が訪れるたびに、一般の人々は家に閉じこもる。必要最低限だけの外出にとどめて、あとは鉄格子で窓を守られた家のなかに、鍵をかけて閉じこもる。人々には、繰り返された騒乱の思い出がある。それは、1999年のクーデタ、2000年の大統領選挙、2002年の内戦勃発、そして、2004年の対フランス暴動、2006年の対国際機関襲撃と、ここ10年の間に何度も繰り返されてきた、厳しい現実なのである。その度ごとに、商店は襲われ、家の窓は破られ、人々は暴力に曝されて、多くの血が流れた。

実に温厚で親切で、知的にも優れ、ユーモア精神にも富んでいて、およそ暴力などと無縁のコートジボワールの人々のなかから、どうしてそのような乱暴な話が生まれてくるのか。それは人々の中に、ごく一部だけれど、政治的・宗教的・民族主義的な熱狂の余り暴走し、あるいは暴力そのものを目的として、平和を破壊する行動をとる人々がいるからである。その人々は、自ら暴力をふるうだけでなく、普段ならば平和に暮らしているはずの他の人々に働きかけ、憎悪と暴力へと誘う。ルワンダでもそうだった。コソボでもそうだった。これは、紛争に病んだ地域に、共通の現象であった。

今回ふたたび、コートジボワールに政治的混乱が訪れている。これまで政治的混乱があるごとに繰り返されたのと同じような、暴力と破壊が訪れることは避けられない。そう感じ、そう怖れられている一つの大きな理由は、過去において暴力と破壊をもたらす元凶となった人々、熱狂の余り暴走しかねない人々が、今も健在で活動しているからである。

「若き愛国者(Jeunes Patriotes)」という青年団体は、そうした活動家によって結成された。この団体を率いるブレ・グデ(Charles Blé Goudé)という政治家は、コートジボワールの主権を守り、コートジボワールを従属させようとする外国、特にフランスとムスリム勢力を排斥するべきだ、という国粋主義的な主張を繰り広げてきている。バグボ大統領の、熱狂的な支持者であり、大統領の青年運動組織の主導者となっている。

2004年11月に、国軍の戦闘機がフランス軍の駐屯地に爆弾を落とし、9人のフランス人兵士が死亡した。フランスのシラク大統領は、ただちに報復し、コートジボワール空軍の全ての戦闘機を破壊した。ブレ・グデは、人々の間の怒りを煽り、「若き愛国者」を動員し、フランス軍と、在留フランス人に対する報復行動を展開した。フランス軍がデモ隊に発砲して、多くの死者を出したことで、さらに火に油を注いだ状態となり、暴力と破壊に発展し、フランス人のみならず全ての外国人、ムスリム人への迫害を生んだ。おおぜいの欧米人の居住者が国外に避難し、多くの欧米系企業が活動をたたんだ。

2005年10月、バグボ大統領は5年の任期を迎えたが、大統領選挙を実施しなかった。内戦によって国が分裂しているので、大統領選挙が行える状態ではない、という理由である。翌2006年1月、国連は、バグボ大統領の任期は終わっているはずだ、そして国民議会も5年の任期を迎えるので選挙をするべきである、と宣言した。これに対して、ブレ・グデと「若き愛国者」は強く反発した。コートジボワールの主権に対する侵害である。ただちに、駐留する国連平和維持部隊、国際機関などへの攻撃が始まった。国営放送局を占拠し、フランスと国連・国際機関を殲滅せよ、と訴え続けた。この時の暴力と破壊を前に、日本大使館も一時閉鎖を余儀なくされた。

ブレ・グデは、国際社会から、このように暴力と破壊の元凶とみなされた。2004年の騒動で、外国人や国連職員に対する暴力を呼び掛け、民兵を用いた暴動を指揮した、という咎で、国連から制裁を発動された。各国は彼への査証発給を拒否し、彼の在外資産は凍結された。このたび、バグボ大統領がアケ・ンボ首相を任命して、新たな内閣を作った時に、ブレ・グデは青年・職業訓練相になった。国連制裁が発動されている人間を、閣僚に起用するというのは、それ自体がバグボ大統領の国際社会へのメッセージとなっている。

そして、決選投票が終わり、選挙結果の発表をめぐって対立が激化し、二人の大統領が並立する異常事態のなかで、人々はいつブレ・グデが、あの扇情的な演説をふたたび叫び、彼の「若き愛国者」を動員し、バグボ大統領への熱狂的な支持を煽り始めるのかを、ひそかに見守った。そして、人々の期待に反し、ブレ・グデはこれまで実に静かであった。ソロ首相が「行進」をかけると言った時、ブレ・グデは「若き愛国者」の集会を開いた。しかし、そこでも若者に動員を求めなかった。

一昨日(12月18日)に、バグボ政権が「国連平和維持軍とリコルヌ軍は、すみやかにコートジボワールを出ていけ」と宣言したあと、ブレ・グデが、「若き愛国者」の大集会を開催する、と言った。私をはじめ誰もが、いよいよ青年組織の動員が始まるのだと感じた。なぜなら、「国連出ていけ」、「フランス出ていけ」というのは、彼をはじめとする「若き愛国者」の、思想の根幹に他ならないからだ。大集会に集まった青年たちが、そのまま街に繰り出して騒擾になる可能性も考慮して、私はおおいに警戒を払った。

その「若き愛国者」の大集会は、ヨプゴン地区で、昨日(12月19日)に開かれた。ブレ・グデは、首にコートジボワールの三色旗の花輪を巻きつけて登場した。おおぜいの若者が広場に集まり、両手を大きく手を振って彼を迎える。相変わらず、扇情的な言い方ながら、そのメッセージは、「攻撃するな」というものであった。

「国際社会の権益を攻撃してはいけない。そんなことをしたら、バグボ大統領への武力攻撃への、いい口実を与えてしまう。「若き愛国者」には、コートジボワール在住のフランス人を攻撃する意図は毛頭ありません。フランス関係の施設を、襲って強奪するような意図は全くありません。」
フランス人を徹底的に敵視した2004年の時とは違う、と説く。

「私は、国連を攻撃せよなどとは、誰にだって言ったことはありませんよ。ウワタラを攻撃せよなどと、言ったことはありませんよ。私が言ったのは、国連のチョイ代表と、フランスのサルコジ大統領は、大量虐殺を企てている、ということだけです。」
攻撃しないと言いながらも、かなり敵意むき出しだ。

「国連軍とリコルヌ軍は、平和維持のための軍とは言えなくなっている。だから、わが国から出て行ってくれと言っているのだ。それも、親切に、丁寧に。」
親切・丁寧でないやり方もあるのだ、という意味である。
「国連出て行け、リコルヌ出て行け。」
そう叫んだあとに、続ける。
「われわれコートジボワール人を、互いに対立させる、というのが彼らのやり口なのだ。この罠にはまってはいけない。われわれは、平和に行こう。平和に。」

ブレ・グデは、攻撃はしない、暴力はいけない、平和に行こう、と呼びかけた。あの暴力行為の扇動者が、とつぜん平和の使徒になったようだ。いやいや、彼がそう呼びかけるのには、ちゃんと背景がある。バグボ大統領として、余計な暴力事件を起こして、国際社会を刺激するようなことがあってはいけないのだ。ことさらに平和を訴え、平常の生活に戻りつつあることを、世間に世界に強調したい。それがバグボ政権の方針である。だから、コートジボワール人どうしで乱暴しあうような事態を避けなければならない。熱狂して今にも行動に乗り出しそうな青年たちに、彼は告げる。敵と考えるべきは、国連軍でありリコルヌ軍であり、フランス人社会でも、コートジボワールの同胞でもない。

ここ数日、社会には静寂が戻り、平常生活への回復が見られるように思える裏には、そうした「平和」を必要とする、バグボ政権の思惑があった。しかし、ブレ・グデの「平和」は、敵意の上の平和である。敵意がいつか平和を上回り、いつか暴力に化していくのか。けっして油断はできない。

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