コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

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エピローグ(3)

2012-04-19 | Weblog
バグボ前大統領は、ほぼ1年前の2011年4月11日、立て隠っていた大統領府の地下壕で、夫人や側近とともに逮捕された。アビジャンでの市街戦が始まって(3月31日)以来10日余り、市民は家から出られず、食料や生活物資の危機に陥っていただけでなく、何より連日の激しい砲撃や銃撃に震え、いつ襲われるか知れない略奪の恐怖に怯えていた。だから、バグボ逮捕の報に、おおいに安堵したのである。

ウワタラ大統領は、大統領選挙以来4ヶ月にわたって軟禁状態にあったゴルフホテルから出て、正式に大統領としての就任式を行った(5月21日)。幾年にわたる政治の混乱と、とどの詰まりは戦乱の後に、コートジボワールの政治権力は、民主主義上の正統性に裏付けられた大統領の手に渡った。それだけではなく、2002年の北部反乱以来の、国が南北に分裂した状態に、ようやく終止符が打たれることになった。

民主主義は、最後に勝利したのだ。めでたし、めでたしと言いたいところが、そう素直に喜べない。そこまで辿り着くのに、結局は武力行使に頼らざるを得なかった現実があるからだ。3ヶ月以上も続けられた説得や交渉は、権力保持を至上命題にしていたバグボ側からは、政権委譲はおろか、ほとんど何らの譲歩を引き出すことはできなかった。とうとう痺れを切らして北部の武装勢力が進軍し、アビジャン市街は10日にわたり戦場になった。大統領官邸がぼろぼろになるまで攻撃され、バグボ本人が引きずり出されてはじめて、収束をみたのである。

国際社会の立場からも、同じ現実に直面した。民主主義の回復のために、最後には軍事力を行使せざるを得なかった。国連安全保障理事会は3月末、一般市民の安全を確保するために「あらゆる手段を行使する」という決議を採択した(決議1975)。この文言は、軍事力行使も差し支えない、という意味に解釈される。そして、市街戦開始と前後して、この決議を根拠にして、フランス軍は対戦車ヘリにより、バグボ側の大統領親衛隊が動員していた戦車、弾薬庫、そして何より恐れられていた多連装ロケット砲(スターリンのオルガン)を攻撃破壊した。

このように、せっかく素晴らしい大統領選挙をしたのに、選ばれたウワタラ大統領は、民主的な正統性を傷つけてしまったのかもしれない。人は、話し合いや交渉の結果であれば、納得しあるいは納得できないまでも、諦めることができる。しかし、力づくで押しつけられた結果となると、恨みが残る。武力による解決の難点は、そこにある。それはただ単に、血を流す人々が出る、出ないという問題ではない。その恨みは、多くの場合、次の争いの元になる。

独裁体制から人々を救い、民主主義を確立する、という場合ならば、武力行使で独裁を排除しても、その悪影響はまだ少ないだろう。でも、コートジボワールの場合には、選挙では多数を取れなかったとはいえ、全体票数の4割5分の人々が、バグボに支持を投じたのだ。そういう人々が、ウワタラ大統領の権力行使に納得できるか、ということである。武力による解決は、そういう課題をあとに残してしまった。

納得できない南部の人々は、ウワタラ大統領が北部軍の支援を得、また国連や国際社会、とくにフランス軍が介入することにより権力を得たことを見て、次のような確信を強めることになった。つまり、今回の顛末は、結局は2002年の反乱以来の、南部の人々から軍事力を使ってでも権力を奪取しようとする、北部の連中の試みの延長である。そしてフランスがその背後にいて、フランスの言うことを聞かないバグボ大統領に代えて、ウワタラ大統領を擁立しようとしたのだ。バグボ派が、「フランサフリック」の陰謀だ、と非難していたのは正しかった。今回の戦争は、コートジボワールがフランスからの本当の独立を賭けた戦いだった。そして、コートジボワール国民はこの戦いに敗れたのだ、と。

どんなに、国連も認証した選挙結果を、バグボ大統領が受け入れなかったのだ、彼が民主主義のルールを無視したために始まった紛争である、と説明しても、この人々は納得しない。彼らはこう反論する。選挙結果がどうあれ、憲法院が宣言した選挙結果が最終的な権威を持つというのが、憲法上の規定である。つまり、バグボ大統領の地位が、認められるべきだったのだ。それを否認して武力攻撃まで行った国際社会の立場は、外部からの内政干渉である。

バグボ大統領の側のこうした主張に、どこまで理非を認めるかについて、私はここでは立ち入らない。ただ、こうした議論を越えて、私はやはり、バグボ大統領がとった対応は、コートジボワールの国民にとって、大きな間違いであったと結論せざるをえない。その理由は2つある。

まず、バグボ側が、膨大な量の武器を買い込むとともに、国外から相当数の傭兵を集めていたことだ。バグボ大統領は、国軍や憲兵隊などの正規軍が、最後まで自分のために戦ってくれないだろうことを、十分に知っていた。だから、国外から傭兵たちを雇い集めた。そして、市街戦において、バグボ側はこの傭兵たちによって、徹底抗戦を図った。

ここで傭兵について、少し解説しておこう。傭兵というのは、高額の給料で戦いを請け負う、戦争のプロである。多額の資金を持ち、本格的な武器と作戦行動能力を持つ。私たちは、アフリカの紛争というと、貧しい身なりの少年兵が、カラシニコフ銃を振り回して戦っている映像を思い浮かべる。しかし、それは実態の一部でしかない。実際には、完全武装の傭兵たちが、プロの戦いを繰り広げている。

こうした傭兵は、アンゴラ、リベリア、チャドといった地域からやってくる。かつて長年の紛争を経験した場所である。そういう場所で、内戦が終結した後でも、かつて戦っていた兵士たちが、アフリカの各地に出かけて、戦争という商売を続けている。その商売というのは、雇用主から給料を貰うというだけではない。略奪という方法で、彼らは稼ぐのである。内戦が起これば、人々は逃げだす。傭兵は人々を追い出し、時には殺して、財産を奪う。彼らは、雇用主を勝たせようとさえしていないかもしれない。雇用主が勝ってしまえば、それで戦争が終わってしまう。そんな馬鹿なことはしない。略奪で稼ぐには、戦争が拡大し、長引くほうがいい。

正規軍の戦いであれば、政治指導者の判断で戦争が終わる。しかし傭兵を導き入れると、もはや傭兵の都合で戦争が進んでいく。傭兵には人道的考慮も国際法もない。そして、戦場となった場所では、殺戮と略奪が激しい。人々は多大な犠牲と被害を強いられる。アビジャンでの市街戦が終わった後でさえ、殺戮と略奪が続いた。リベリアに引き揚げていく傭兵たちが、帰路にあった村々を荒らしたのだ。だから、政治対立において傭兵に活路を求めるのは、アフリカでは禁じ手である。バグボはそれに手を出した。

もう一つの理由。それは、バグボ側が憎悪の宣伝を行ったことだ。大統領選挙の後、バグボが勝利を宣言し、一方的に大統領の宣誓式を行ってから、市街戦に至るまでの4ヶ月の間、バグボ側はいかに「敵」が邪悪であり、国際社会が陰謀をもってバグボを陥れようとしているかを、宣伝し続けた。2002年の北部の反乱の時に、どれだけ残虐行為が行われたか、などを報じた。国営放送はバグボ側の手にあり、また親バグボの新聞は、そうした記事を書き続けた。バグボ側の宣伝を裏付けるため、海外の識者を招いて語らせたりした。単なる宣伝報道というだけではない。ブレ・グデ率いる青年団体である「若き愛国者」は、若者たちを扇動し、襲撃に向かわせた。そして、北部出身の市民や、周辺諸国からの移民たちが、襲撃の対象になった。一部のキリスト教会も、この宣伝の片棒を担いだ。つまり憎悪がムスリム教徒に向けられた。

こうした宣伝により、対立は市民の間に広がった。隣人同士が、疑念と憎悪の目を交わすようになった。それは、アビジャンだけでの話ではない。多くの村々で、人々は対立するようになった。眠っていた民族対立や、宗教対立が再燃し、お互いに襲撃しあった。昔の話であれば忘れていることができたのに、それがいったん昨日今日の出来事になると、もう忘れ去ることができなくなる。憎悪の宣伝は、対立を一般市民の間に植え付け、和解と共存の道を、たいへん難しくしてしまう。それをバグボが行った。

こうしたことを、率先して行ったバグボは、真の愛国者といえるだろうか。国民の間に戦争の種を播くことを厭わなかった人間に、コートジボワールの大統領としての資格があるといえるだろうか。それは、私にとって、民主主義の手続きや憲法の解釈の問題、武力による解決の是非の問題をこえて、このたびの結末を歓迎する大きな論拠になっている。今に至っても、バグボは正しかったのだ、大統領であり続けるべきだったのだ、と言う人々には、私はそう答えている。
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