映画で楽しむ世界史

映画、演劇、オペラを題材に世界史を学ぶ、語ることが楽しくなりました

「外人部隊」「モロッコ」

2010-12-26 18:25:40 | 舞台はアフリカ

アフリカ分割(2)フランスの横断政策他

1、マグリブ地域のアルジェリア

 アフリカ史は難しい、というより日本人、日本文化とはあまりにも異質で、歴史上の接触もなく、学校で学ぶ気もなく教える気もなく親近感がないまま、どこか遠い国の関係ない話にしか思えない、そういう人が多い筈。しかしなにせグローバリゼーションの昨今、知らぬ存ぜぬでは通用しない。それにしても、古代からのエジプトは別として、一体どこから手をつければいいのだろうるか?

あまり一般にはお目にかからないが「マグリブ地域」という言い方がある。

語源的には「日没の地」の意味で、西アラブ世界、今日のモロッコ、アルジェリア、チュニジアの3国を中心にリビア、モーリタニアを含めた5ヵ国(現在エジプトと張り合う意味で「アラブ・マグリブ連合」を唱える)。

地理的に地中海とサハラ砂漠に囲まれ、サハラ以南のブラックアフリカとは一線を画し、人種的には先住民はベルベル人、アラブとの混血が進んで「ムーア人」とも呼ばれ、歴史的には

 ①カルタゴやローマ帝国支配下のヌミディア、ビザンツ支配を経て、②イスラムの侵入を受け、ファーテイマ朝、ムラービト朝、ムワッヒド朝、オスマントルコなどが興亡、③19世紀に入って英仏独伊世など植民地政策の対象となるなどの共通性を有する・・・。

考えて見れば先ずは現地人の立場からの歴史記述があって、それを学ばねばならないのだが、文字文化はごく僅かしかなく(無文字文化に近い)、西洋史からのアプローチに頼らざるを得ない。

それはそれとして、映画を意識しながら見てゆくと、先ずフランスの対岸アルジェリアが問題になる。

①まず1830年、ナポレオン後のブルボン復活王政が国民の目を外に逸らす意味もあってアルジュ進攻をはたし、トルコ系太守の支配を崩壊させる。これが1962年までの132年間フランスがアルジェリア統治に悪戦苦闘するもと。

 ②先ずは1832年から15年間、アミールと呼ばれるイスラム信徒の長についた「アブド・アルカーデイル」は、侵略者に対する聖戦を呼びかけ17年間抵抗を続けた後降伏する。

③その後も、部族間抗争が絡んだ抵抗運動は絶えないが、フランスは多くのフランス人を入植させ(コロンと呼ばれる)、有名な外人部隊など軍事力による統治を進め、

④第二次世界大戦中は枢軸国、連合軍がぶつかるアフリカ戦線ともなり、ついにアメリカ軍上陸後、ドゴール将軍がこの地で「フランス解放委員会」を結成する。

⑤そして、戦後あの7年半に及ぶ激しい民族解放運動(アルジェの戦い)、ここでは省略する。

2、「外人部隊」という映画

 フランスに限らずヨーロッパ中世では、王様が戦争するに際し外国人など傭兵を使うのが当たり前(百年戦争、30年戦争などが有名)。近代国家とは傭兵に頼らない(徴兵制による)国民軍を保有するに到ること。

しかしフランスは近代国家としても外人部隊を創設し、現在でも堂々と組織上存在させる(日本人でも参加している人がいる)。その起源となったのが1830年からのアルジェリア征服戦争。ナポレオン戦争による人口の激減に加え、フランス軍人の死傷が余りに多いため、国民の非難を受けることを怖れた政府が外国人部隊の起用に踏み切ったとされている。そしてこの部隊はアルジェリアに前線基地、駐屯兵をおき、外人部隊といえばアルジェリアという構図を作り上げた。

 これを旨く映画化したのが二度にわたる「外人部隊」。現地でのアフリカ人部隊のように、ならず者や食いつめ者、お尋ね者などを集めた訳ではないが、さまざまな国籍の者がフランスのために熱砂の地で命を賭けて戦うにあたっては、それ相当の英雄譚、冒険物語や恋愛物語も入れて、好奇心をあおり戦意鼓舞する必要もあり、この映画は旨くその辺の機微を捉えたのであろう。

 4、アフリカでの十字交叉「ファショダ事件」

フランスは次にカルタゴの地チュニジアを狙うが、イタリアやイギリスと対立し・・・1878年のベルリン会議においてイギリスと談合しイタリアを出し抜き、チュニジアを手に入れる(イギリスがキプロスを手に入れる)・・・このためイタリアはエリトリアやエチオピアに進出を図る(省略)。

更にはサハラ砂漠とその南を「フランス領コンゴ」とし、イギリスのナイジェリアに対抗してダホメを征し、東アフリカではエチオピアと友好関係を結んでソマリランドを領有。アフリカ横断を果たそうとスーダンに足を踏み入れると・・・ イギリスの縦断政策・・・カイロとケープタウンを結ぼうとして、スーダンを制覇し南のローデシア、南アに向かって南下する政策・・・とぶつかる。 これが有名な「ファショダ事件」。

1898年、フランスのマルシャン大尉一行がスーダンのファショダに到着するが、イギリスは南ア戦争の立役者キッチナー将軍がスーダンのカツームに達しており、マルシャン大尉一行の撤退を求める。本国ベースの話し合いになったが、フランスは対英戦争の自信がなく、結局スーダンは、イギリスに譲る。

 3、ドイツが出てきて「モロッコ事件

1930年のアメリカ映画「モロッコ」は、日本初の字幕つき映画との勲章を持っているが(1931年、昭和6年)・・・映画の背景は1920年後半のモロッコ。ゲリークーパー演じる主人公トム・ブラウンはフランス外人部隊に飛び込んだアメリカ人?しかし一体どことどこが何のために戦っているのだろうか。

肝心のフランス軍は、スペインやドイツと睨み合いながら、色んな現地勢力と組んだり離れたり・・・何が何だかよく分からない戦いを繰り広げている。 それほどの主義主張があったり叫ばれたりしたわけではない・・・灼熱の中でのこういう状況・・・男と女はどういうことになるか・・・映画はそこを上手に、楽しく見せてくれる。

モロッコは西アフリカ一の歴史を誇る国。カルタゴ、ローマ、ヴァンダルの支配を経てイスラム化するが、モロッコ出身のイスラム王朝の中には、数百年に亘りスペインを実効支配した歴史もあり、北アフリカの中では唯一オスマントルコに屈しなかったという自負もある。19世紀末フランス、スペインの攻勢に対し時の王朝は鎖国政策を守ろうとするが、やはり近代化した西欧軍には勝てない。

 問題はここではドイツがしゃしゃり出てくるということ。

当初植民地獲得に積極的ではなかったビスマルクではあるが、時流に遅れるわけにはいかない。新航路政策を掲げるヴィルヘルム皇帝は、1905年突如モロッコに兵をいれ第一次モロッコ事件発生(タンジール事件)。しかし国際社会の反対で孤立し、モロッコはフランスのものとされる。

しかしあきらめきれないドイツは、1911年にも再度出兵するが(アガディール事件)やはりダメ・・・結局モロッコは北の一部スペイン領を除きフランスの保護領とされる。

そして、第二次大戦後1956年には独立し、今でも立憲君主制(キングダム)を称している。 

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