映画で楽しむ世界史

映画、演劇、オペラを題材に世界史を学ぶ、語ることが楽しくなりました

「カツーム」「ズールー戦争 野望の大陸」

2010-12-26 18:25:05 | 舞台はアフリカ

植民地争奪戦(1)イギリスのアフリカ縦断政策

1、アフリカ分割、英仏の対立

18世紀末アメリカを独立させてしまったイギリスは、改めてエジプトを基点にアジアの植民地、インド、中国経営に乗り出す(「ベンガルの槍騎兵」「阿片戦争」などの映画がある)。しかし西洋史中心に記述するとして、・・・ここではアフリカでの植民地争奪戦・・・まずイギリスの縦断政策について書く。

イギリスは、アフリカ政策に当たりエジプト、スーダン、ベチュアナランド、ローデシア、ケープを縦断的に支配下に置こうとする・・・これに対し、フランスはアルジェリア、サハラ、コンゴを通って東海岸に臨みマダガスカル、東ジプチと横断的に領土獲得を目指し両国は一時鋭く対立する。

その前に、有名な探険家リヴィングストンやスタンレーを描いた映画(Stanley and Livingstone、邦題「スタンレー探険記」)を知っておこう。

 リヴィングストン・・・ロンドン伝道協会の宣教師、現ボツワナで布教活動後南部アフリカの東西横断、ザンベジ川流域、ナイルの水源確認などに成功する。1866年から3度目のアフリカ探検に出かけ行方不明になっていた。本人は人道主義者で奴隷貿易廃止運動の先駆者。

スタンリー・・・消息を断っていたリヴィングストンを1871年、発見。その後74-77にアフリカ大陸中央部を横断し、81-84に各地のアフリカ首長と条約を結んでベルギーのレオポルド2世によるコンゴ植民地化を実現させた。

2、スーダンが舞台の「カツーム

エジプトを掌中にしたイギリスは、その裏座敷とも言うべきスーダンをも狙いはじめる。もともとスーダンは、1822年以来エジプトのムハンマド・アリー朝の支配下にあったが、そのエジプトが1881年アラービーの反乱が挫折し、実質的にイギリスの占領下に入ってしまっている。

 そこへ突然スーダンで「マフデイー運動」が起きる。大筋は映画のとおり。

①81年、イスラムの改革運動の指導者ムハンマド・アフマドがマフデイー(救世主)を称し、エジプト、イギリス勢力に対して武力闘争を開始

②85年、イギリスは中国で活躍した有名将軍ゴードンを派遣するが・・・マフデイーは彼を殺しハルトウームを制圧、全滅させヨーロッパを震撼とさせる

③スーダンは85年マフデイーの死後も独自の教団国家を維持するが、 98年、エジプトイギリス連合軍に滅ぼされる。

④1956年、スーダンは独立を果たすが、アラブイスラムが主流の北部とアフリカ非イスラムの南部間で内戦が絶えない。

 映画(邦題) カツーム、原題 Khartoum

3、ケープ植民地のボーア人とは

南アフリカはもともとオランダの東インド会社が経営に乗り出したところ。 1652年 オランダ東インド会社が南アフリカの南端に喜望砦と呼ばれる砦を建設してインド貿易の中継基地とした。現地人種は黒人系ではなく、友好的な物々交換によって羊や牛を差し出す先住民族のコイコイ人であったといわれている。

それ以来オランダ移民やその子孫がケープの地を経営するが、彼等はボーア人と呼ばれ、先住民族はボーア人の社会に吸収されて、カラードと呼ばれる階層を形成する。更にはフランスのユグノーの入植があったり、アジアなどから連行された奴隷なども加わり複雑な人種構成となってゆく。オランダの支配力は徐々に衰退。

 ①1795年 イギリスが南からのアフリカ支配を目論みケープを占領。オランダの東インド会社は倒産する。

②1815年、ナポレオン後のウイーン会議においてケープ植民地はイギリスのものとなる。 更に1843年、ボーア人がズールーの地に建てた「ナタール植民地」をも併合する。

③イギリス人に対抗するオランダ系定住者は、1836年頃から内陸部高原地帯に集団移住し、現地人と衝突しながらも「トランスヴァール共和国」(52年)と「オレンジ自由国」(54年)を建てる・・・・以下5のブーア戦争へ続く。

4、蛮人が白人に勝った、ズールー戦争 

19世紀初頭1820年、南アフリカ北東部ナタールからデラゴア湾にかけてのズールー族に突然変異的に天才的軍事指導者シャカが現われ、短期間に軍事力を強化して周辺諸族との抗争を制し、強力な中央集権国家「ズールー王国」をうち建てる。

そして、有名なズールー戦争・・・ 1879年、南アイギリス軍のフレデリック将軍が、ズールー王国の王セッツワイヨに武装解除を要求したが、王はこれを蹴る。これを宣戦布告ととった将軍は、イギリス、ナタール合同で大軍を率いてズールーの地へ侵入する・・・緒戦はイギリス軍が優位に戦うが、戦線が伸びきり志気も緩んだところで、ズールーの逆襲に会い、壊滅的敗北を期す。

これが先住民が近代的軍隊を破った戦いとして有名になった「イサンドルワナの戦い」。イギリス軍の赤い軍服が現地人の飛び道具の格好の標的になったとされ、イギリスの軍服の色をカーキー色に変えるきっかけになったと言われている。

しかしズールーの抵抗も1年余。結局はイギリスに破れ、ズールー王国は領土をトランスバール共和国、ケープ植民地に分割譲渡させられ、シャカ王は88年、処刑される。

映画(邦題)ズールー戦争 野望の大陸 (原題 Zulu Dawn )

4、悪名高い南ア戦争ボーア戦争

ボーア戦争と呼ばれるイギリスの南アフリカ略奪劇は帝国主義の本質、悪辣振りを最もよく表したものとして欧米社会で評判になる。世界世論がイギリスの非を鳴らしたため、イギリスは「名誉ある孤立」政策の見直しを迫られ・・・アメリカの中国進出黙認、日英同盟といった歴史へ繋がってゆく。

 ①1869年、ボーア人のオレンジ共和国内グリクアランドでダイヤモンドの鉱脈発見されると、イギリスは同国を併合し(71年)ケープ植民地へ組入れ(77年)。

 ②1879年、上記ズールー戦争後、再度ボーア人国家として独立(81年)。

③1884年、トランスヴァール共和国内で大金脈が発見され、イギリスほか多数のヨーロッパ人が来て、瞬くのうちにヨハネスブルグという都市が出現する。

④ダイヤモンドで儲けていたイギリス商人「セシル・ローズ」は金鉱開発にも乗り出し、1890年にはケープ植民地の首相にまでなる

⑤増加する移民とのトラブルに悩むトランスヴァール政府は、移民の参政権を拒むに至るが、1899年、イギリスはこれを理由に、宣戦を布告する。

⑥トランスヴァールの大統領は、列国を訪れてイギリスの暴挙を説明し、援助を乞うが、イギリスは大部隊を派遣し、1900年遂にトランスヴァール、オレンジ二国をイギリス領とする。

南ア戦争後・・・ 戦争と冒険ウインストン・チャーチル(1874-1965)の若かかりし頃の映画

人気ブログランキング挑戦



コメントを投稿